阿求は、約束どおりたびたび紅魔館にやってきた。
ときに菅笠を被って小袖をからげた旅装束のまま。ときに矢絣の着物に葡萄茶袴をあわせた女学生風の装いで。
「――また、きてしまいました」
大図書館のドアを開け、阿求はよく恥ずかしそうにそう云った。そんな彼女の姿を眺めることは、私の生活にとってなにより楽しみなできごととなった。
「今日はどうしたの?」
本を読みながら訊ねると、返ってくる阿求の返事はその日によってまちまちだった。
「すぐそこの霧の湖まで取材にきたので」
「少し図書館で調べたいことがありまして」
「ちょっと博麗神社までいったついでに、よらせてもらいました」
「聞いてくださいよ、あの山の鼻高天狗の頑固さったらもう」
「えへへ、咲夜さんの紅茶が飲みたくなったんです」
理由はその都度ちがっていたけれど、結局することは毎回同じだった。いつものテーブルで咲夜の紅茶を美味しい美味しいと飲んで、お菓子を食べたり食事をしたりこぁと遊んだりなんかして、落ち着いたあとは図書館のソファで延々私と喋り続けた。そんなときは不思議とレミィもフランも乱入してくることはなく、私たちは時間が許すまでずっと二人ですごすことができたのだ。
一度だけ「あなたに会いにきたんです」と云ってくれたことがある。
あれはいつのことだっただろう。阿求ならぬ私には正確な日付など思いだせるはずもないけれど、第百二十一季の夏だということは覚えている。
思いかえしてみれば、あのころ阿求はやたら甘えるそぶりをみせていたように思う。いつもは受け流すような会話をいやにひきずったり、稗田の家に帰りたくない、ここに住みたいなんて不可能なことを云いだしたりして。
もしかしたら、彼女もすでに自分の体調について予感していたのかもしれない。もしそのことに気がついていたら、私ももう少し違った対応ができただろう。けれど愚かな私は珍しく投げかけられた直球なもの云いに照れてしまって、阿求の言葉が聞こえなかったふりをした。
「あなたに会いにきたんです。……愛してるから」
「――え、なに? ページをめくる音で聞こえなかった」
「えぇー……?」
「……なによその顔は」
「いいです、もう二度とあんなこと云いませんから。後悔しても知りませんよ」
「……なにを拗ねてるの、変な子。そもそもあんなことってなにかしら?」
「知りません、もう」
阿求が云ったとおり、私はすぐに後悔した。
結局あの子は自分で宣言したとおり、決して“愛してる”なんてことを私に云ってくれたりはしなかった。
第百二十四季の冬の朝、わずか十五年の短い生涯を終えるまで。
壊れて消えたひとの話
1
パチェと、そう呼んでくれるようになったのはいつからだろう。思いだせない、覚えていない。彼女がこの紅魔館に通うようになってわりと初期のことだったと思うけれど、具体的な日付がでてこない。
もちろんそんな記憶など、阿求にとっては思いだすまでもないだろう。けれどもし訊ねても、どうせ頬を染めながら「忘れちゃいました」なんて下手な嘘を吐かれるに決まってる。それはそれで面白いけれど、本気でへそを曲げられても困る。
「――パチェ、いますか?」
「ええ、いるわ。ここにいるわ」
私の膝の上に頭を乗せて、阿求がうっすらと目を開く。
この子が過去の記憶から戻ってくるときの、段々濃くなっていく瞳の色合いが好きだ。少し喉をそらしながら「ん……」となまめかしい息を吐く、その瞬間が好きだ。やがて私の顔に目の焦点があったとき、うっすらと漏らす微笑が好きだ。
阿求の記憶には、ただ目でみたもの以外にも色々な情報がつまっている。
たとえば夏、風が頬をくすぐる生ぬるい感触。縁日の神社に漂う林檎飴の甘ったるい匂い。うるさいぐらいの蝉時雨。綿菓子にそっと口をつけ、それが舌の上で溶けていくときの儚さと甘さ。
「――怖いんです」
「なにが? なにが怖いの?」
「……過去が。過去をみているうちに、自分がどこにいるのかわからなくなってしまうのが。今あなたがそばにいてくれることを忘れてしまうのが。だから――」
――手を、離さないでください。
そう云った。
初めはそのとおり、ただ手を握りあっているだけだった。けれど次第に接触する部位は増えていき、やがて指を絡めあい、背中合わせに座り、ぴったりと抱きあって。最終的にソファで膝枕をするのが一番疲れないし幸せだということに落ち着いた。
膝枕は少し脚がしびれるけれど、阿求の顔をじっと眺められるところが素晴らしい。小作りなくちびる、つんと上向いた鼻、頬に影を落とす長いまつげ。いくらでも頭を撫でほうだいなところも、気に入っているポイントのひとつだ。身体ををかがめて癖のないストレートにそっと手櫛をいれると、桔梗色の瞳がぽわんとゆらぐ。
「今日も素敵な物語を聞かせてもらったわ」
「そうですか? ただ一日中縁側でひなたぼっこしてただけですよ」
「それがいいの。純粋なる自然主義文学の結晶よ」
「ふふふ、見たまんま喋っているだけのお話がそんなごたいそうなものですか」
「ええ、普通はそれができない。できごとをまさに見ながら書いたとしても、書いている間に世界はうつろってしまうから」
そう云って、まだそこらの空中に漂っていた言霊に呪文式をなげかける。キンと硬質な音を残し、阿求の物語がフランのつばさみたいな情報結晶へと変わる。
「第百十四季、弥生の二十二日。タイトルは『春の日差しに白帝城を想う』でいいかな?」
「……お好きなように……」
転送の呪文をとなえ、“思い出箱”を呼びよせる。
それはガラス製のポプリ容れみたいな優美な壺だ。蓋を開けて阿求のその日の思い出をからんと入れると、底を埋めているあめ玉めいた思い出たちが、触れあった衝撃にちかちかと淡い光で瞬くのだ。
壺の表面を螺鈿細工のように覆う術式は、私にしか読み取れないインデックスだ。ひとつひとつの宝石が何年何月何日の阿求で、その内容がどういったものかが、暗号になって書かれている。
ぱっと見では飴かポプリにしかみえないこれが、私にとってはこの図書館で一番の宝物になった。
もし“この阿求”が永遠に失われたとしても、こうしてここに残るものがちゃんとある。たとえ生まれ変わった阿刀だか阿斗だか阿戸だかがまるで阿求とちがう性格で、なにもかも綺麗さっぱり忘れていたとしても、この記憶があればきっと私は耐えられる。
「――阿求?」
気づくと阿求は一言も喋らなくなっていて、見下ろせば膝の上ですっかり眠りこんでいた。くーくーと可愛らしい寝息をたてながら、幸せそうに眠っている。『幻想郷縁起』の執筆も佳境に入っているらしく、このところ阿求は色んなところにでかけているようだ。
汚れた足袋。かぎ裂きができている小袖。よくみれば桜色の爪が少し割れている。
疲れているだろうに、少ない時間をやりくりして私に会いにきてくれているのだと思うと、愛おしさで胸がいっぱいになる。
袖から伸びる手首は細い。相変わらず、頭を支える首筋も。けれどその細さは、病的なところがないたおやかな細さだ。童女だった阿求もこの一、二年のうちに健やかに成長し、瑞々しいまでの少女の姿に変わっている。
起こしてしまうのも忍びなかったから、その顔を飽きるまでずっと眺めていた。
一晩中みていても飽きなかったから、一晩中眺めていた。
* * *
【第百十三季/長月の九日/軒下で隻眼の子猫をみつける】
赤子の声が聞こえるなと、思っておりました。
なぁーなぁーとひどく耳障りのする声がして、どうしても書き物の手が止まってしまうのです。
長月ともなれば午後はすごしやすい案配で、よしずを通り抜けてくる風が肌をさっとくすぐります。けれど初秋の日差しは夏の名残を孕んで強く、よしの隙間から差しこんでくる光が、書斎を海底めいた波目模様で満たすのです。
わたしは文机の前に座し、稗田の編纂院が書きつけたここ百年ほどの歴史の流れをまとめています。博麗が張った結界は上手く機能しているようで、多少の騒動こそあれ、幻想郷に崩壊をもたらすほどの異変はついぞ起こっていないようです。
もっとも、記述されない歴史の裏ではどうせかの妖怪の賢者が暗躍しているのでしょう。そのあたり、早く遠出ができるほどの身体を作って、慧音さんの歴史とつきあわせてみたいところです。
なぁーなぁーと、赤子の声が聞こえます。
うるさいなぁと思って、ふとそんなはずがないのだと気がつきます。稗田の広大な敷地の中でもついぞ人がよりつかぬ本家の屋敷に、どうして赤子などがいるのでしょう。
もしかしたら幻覚かもしれないと思い、わたしは耳を澄ませます。まだ脳ができあがっていない三歳の自分ですから、過去の記憶が記憶として折りたたまれず、ときおり現実のように立ち現れることがあるのです。赤子の泣き声なんて、聞いた覚えもないのですけどね。いやあったかな、思いだせません。思いだしたくもありません。
ジージーと寂しげに鳴く、夏に逝き遅れた蝉の声。楽しげに笑う子ども達の嬌声。裏庭の井戸でつるべが巻き上がるカラカラという音。書庫で編纂院の者が書きつけをあさる音。
――なぁー。
そら聞こえた。軒下だ。
ぱたぱたと縁側まで走っていって、さっとよしずを開け放つ。途端にぎらぎらと輝く太陽が目に入り、慌ててぎゅっとまぶたを閉じる。視界をざくろの実が爆ぜたような赤い斑点が染めていき、わたしは思わず涙を流している。
――なぁー。
軒下に潜りこむと、ずっと日陰になっていた土がひんやりと足に冷たいのです。探検気分で少しだけ盛り上がってしまって、くすりと笑うと応えるように猫の鳴き声が聞こえます。ええ、そのころにはさすがに気がついておりました。わたしを呼んでいたのは赤子ではなくて猫なのです。
産まれてまだ日が経ってないようにみえる小さな黒猫が、震えながらわたしのことをみつめています。鴉にでも突っつかれたのでしょうか、右目が無惨に潰れていて、そこから血の涙を流しているのです。だからわたしも目の痛みに涙を流しながら、そっと片手を差しだします。赤子も猫も、きっと同じように無惨です。
抱きかかえて書斎に連れていき、食べ物かミルクをもってきてもらおうと下女を呼びました。
下女は一瞬怯えた目でわたしのことをみましたが、丁寧に頼むと深々と頭を下げ、母屋のほうまで走っていってくれました。
下女が怯えたのが黒猫なのかわたしなのか、それはわかりません。
猫に目占《めうら》と名前をつけました。
【第百十五季/文月の十三日/病床に桃を食む】
この日は体調を崩して一日伏せっておりました。
終わりです。
――え? 詳しく語れですって?
そんなパチェ、天井の木目くらいしか語ることがないですよ。それとも全部語りましょうか。天井には十二枚の板が張られていて、一番左の板には年輪が二十四本あって、全体が霧の湖の真ん中をけっとばしたような形になっています。こんな話面白いですか。
え? 面白い? 勘弁してください。
そうだ、なにか食べたいものがあるかと訊ねられたので、桃が食べたいと云ってみたら本当にでてきました。瑞々しくて美味しかったです。
あと、目占が三匹目の子どもを産みました。尾が白かったので、尾白と名前をつけました。
え? ネーミングがそのまますぎる? 九人目だから阿求なんてつけるよりはましでしょう。
【第百十九季/水無月の二十五日/紅魔の館は怖ろしい】
――準備は大丈夫、かな。
朝から何度も同じことばかり考える。どきどきそわそわ落ち着かない。洋風の紅魔館に伺うのですから、もしかして洋装のほうがよろしかったりするのでしょうか。それとも普段どおりの和装で構わないのでしょうか。
わからない。決まらない。何度も同じ服を出したりしまったりして大混乱。
むやみにフリルがつきまくったひらひらのドレスを眺め、わたしはうーむと唸ります。やはりこういう服はどうにもわたしに似合わないように思うのです。まるで鹿鳴館で日夜ダンスに明け暮れていた貴婦人がたのよう。当時ああいった方々を西洋かぶれとばかにしていた、阿弥の記憶が蘇ってくるのです。
博麗の結界が張られる前、この国は今にも西洋文化に飲みこまれそうな潮流なのでありました。だからもしかして、再び帰ってくるころには幻想郷も大きく変わっていて、そこかしかに赤レンガのビルヂングが立ち並び、里は洋装のモガやモボで溢れ、カフェーでパイプをくゆらせながら西洋の最新思想に関して討論を交わすのが一等お洒落な世界になっていたらどうしようと、少し戦々恐々としていたのです。ああ西洋文明は複雑怪奇なり。
しかしそこはさすがに妖怪の賢者の先見の明といったところでしょう。帰ってきた幻想郷は、八雲さま主導の二つの結界に守られて、ついぞ変わらぬ姿を維持しておりました。
けれどそんな幻想郷にも、ごく最近大きな異変が起きたというのです。
――吸血鬼異変。
とつじょとして屋敷ごと霧の湖に現れた、赤に染まった西洋館。
そこには、幼き吸血鬼が棲むという。
その吸血鬼は、結界に守られて力の落ちていた妖怪たちを次々と打ち倒し、やがて八雲さまに敗れるまで幻想郷の人妖バランスをしっちゃかめっちゃかにかきみだしたとのよし、想像するだに怖ろしい勢力です。
なので今代の『幻想郷縁起』を書くにあたっては、まずはこの紅魔館からはじめなければいけないと思うのです。
なんといっても吸血鬼異変は、ただ騒ぎになったというだけではありません。それをきっかけとして制定された命名決闘法案こそ、今代の幻想郷を代表する文化なのですから。
霊力を撃ちだして攻撃する技は昔からありましたけれど、それをあのようにスポーツとも決闘とも表現ともとれる遊びとして作り上げたアイデアが素晴らしい。
里でも空も飛べない子どもたちが、みんなで駆けずり回りながらつまんない偶数弾をばらまいています。
わたしもちょっとやってみましたが、なんかへろへろした変な弾が一発でて、すぐにぱちんと消えました。目占を驚かすことには成功しましたが、その後半日ばかし近づいてくれなくなったのでちっとも嬉しくありませんでした。
あんなことわたしはできなくていいんです。羨ましくなんてありません。
でも――そう。
そうなのです。
ここ百年ほどの歴史をながめてみても、明らかに紅魔館の出現を機に、この幻想郷はみるまに面白い場所になっていったのです。
幽冥の境界が薄れて故人との垣根が低くなり、伝説の鬼が現れて天狗の山を揺るがせ、博麗神社は妖怪たちの溜まり場となり、人里の者は暴力で襲われることが少なくなった。
そしてそのすべてに、紅魔館は絡んでいます。
直接的ではないにせよ、従者十六夜咲夜の存在を通し、紅魔館の当主は常に幻想郷へ影響を与え続けています。
――そう、当主レミリア・スカーレット。
彼女は“運命を操る程度の能力”をもつと云う。
もしやその能力こそが、今の幻想郷を面白くしている原因ではないか。彼女が操る運命はこの幻想郷全土に及んでいるのではないか。そんな仮説を、わたしはたてているのです。
――だから。
最初に伺うなら紅魔館だと、ずっと前から決めていたのに。
いざとなるとなかなか決心がつきません。
なんと云っても“永遠に赤い幼き月”レミリア・スカーレットです。残酷無慈悲にして暴虐なる王女。その視線は物理的暴力となってすべてを破壊し、その息は嵐となって天狗を山まで吹き飛ばす。黒を身にまといし赤、圧倒的な悪のカリスマ、レミリア・スカーレット。
――って笑わないでくださいよ。このときはそう信じていたのです。
それにもうひとつ伝え聞く噂。そのレミリアに影となってよりそう闇の魔女がいるという。その魔女こそパチュリー・ノーレッジ。外の世界に存在するありとあらゆる知識をその身に修め、外法に魔法、秘法や呪術や数秘術や錬金術に精通し、この世の始原の謎すら掌中にあるという紅魔館の偉大なる頭脳。
しかしてその実体は少し運動不足の可愛い魔女さんで、いつもつまらなそうな顔してるけど本当はすごく優しくて、ときどきショートブレッドを吐きだす程度の能力の――って、痛い痛い、デコピンやめてください。冗談ですってば。
コホン。
そんなこんなで、その日は一日中落ち着かなくて、自室の中を歩き回っていたのです。ついにわたしの生存理由である『幻想郷縁起』執筆の日々が始まるのだという昂揚。いまだみたことがない西洋の魔女と吸血鬼への不安。
そうしてなにより、どんな服を着ていけばいいかという迷いが、なによりわたしの胸を落ち着かなくさせました。
――ええ? なんですかその目は。
別に着飾るとかそういう意味じゃないですから。ただ失礼だったらいけないなと思っただけですから。西洋の文化などよくわかりませんから、和服で訪ねるのは無礼にあたるかもしれないと。
なんといってもいよいよ御阿礼としての活動を開始した初日に、まかりまちがって吸血鬼の不興を買って帰らぬものともなれば、先代と稗田のものたちに申し訳がたちません。
こればかりはどれだけパチェが怖い顔しても譲りません。わたしはどうあっても稗田であり、御阿礼の子なのです。
――それで。
ええ、それで。
結局、あの、小袖にスカートをあわせるという着合わせになったわけですが。あの、どうでしたか。
……ああー、ですよねー。意味わからないですよねー。
はい、正直失敗だったと思います。
――はあ。
* * *
私は、阿求にどっぷりとのめりこんでいった。
決して変質することがない完全なる記憶。それはすべてのディティールを孕んだ世界そのものの記憶だ。お話として語っているときには省略される細部に、無限の神が宿っている。
たとえば阿求がさらりと“目占が潜んでいる藪にそっと手を伸ばし”と云ったとき、お話を止めてその藪の詳細を聞いてみる。そうすると彼女は少し嫌そうな顔をしながらも、どこまでも精緻なディティールを描写してくれる。
ムラサキヤシオツツジが三本生えています。その間に生えているヤマソテツは十二本で、絡まり合った枝々の間にユキツバキが赤い花を咲かせていて綺麗です。ナナフシが知らん顔してツツジの葉からぶらさがっていて、わたしはみちゃいけない気がして目を逸らしました。地面にはえーと……みえるところで五十二枚の枯れ葉が散っていて、ツツジの葉は一、二、三、四……二百九十七枚あると思います。枝と枝の重なりかたは――あの、もういいですか?
どこまでも拡大可能で、かつ単一な人格により語られる叙述。一生涯かけても探索しえないだろう、無限に広がる描写の沃野。それを一体なんと呼べばいいのだろう。書物なのか、世界なのか、宇宙なのか、ひとなのか。
それはわからない。
わからないけれど。
ただひとつだけ云えることは、この稗田阿求が私にとって至高の存在だったということだ。
ひとがその存在のすべてを懸けて追い求め、けれどどうしても手に入れることができずに挫折し、それでも諦めきれずになんとか手近なもので我慢して、そうしながらも日々“ああ、もし本当にそれが手に入ったら”と夢想しながらすごすような存在。
そんな究極の夢想がある日突然その手の中に飛びこんできたら、ひとは一体どうすればいいのだろう。
阿求を所有したい。なにもかも自分のものにしたい。図書館に並べる本のように、未来永劫今の阿求のまま保存したい。
その欲求に逆らうのは、ほとんど不可能なことだった。
※ ※ ※
すでにそのとき、迷いの竹林に棲む不死人たちの噂は広まっていた。直接闘った咲夜とレミィの話を聞いてみても、彼女たちの身体は紛れもない不死を備えているようだった。
――蓬莱の薬。
それを精製しさえすれば、阿求を壊れない本にすることができる。そう思った。
私は図書館中の本をひっくりかえして読みあさり、理論をもとに仮説をたて、検証実験を繰りかえしていった。
人体を構成する細胞は、規定された回数を越えるとそれ以上分裂しなくなる。それが最初の壁だった。
けれど染色体の中に細胞分裂をするごとに短くなる部位があることは、外の科学でもわかっていることだ。あとは魔術的な方法でその部位を伸長させるだけ。
やってみればそんなに苦労はしなかった。触媒の精製には手間取ったけれど、少し前に読んでいたパトスと水銀の関係式を説いた秘術書が、ちょうど役にたってくれた。
それで不老は完成したけれど、次に立ちふさがっていた壁ははるかに高い物だった。
不死でなければいけない。
不滅でなければいけない。
決して失われてはいけない。
それをなしとげるためには、不老だけではなく爆発的な治癒能力が必要だ。瞬間的にリザレクションをする、あの不死人たちのような。
理論的には簡単だ。酸素からエネルギーをとりだすミトコンドリアのように、魔力を糧に細胞を分裂させる細胞小器官を新たに共生させればいい。もともとミトコンドリアだって本来は別の生物だったのに、それを勝手に取りこんだ真核生物が自分の身体の一部としてしまったのだ。
それはなんだかずいぶん呪術的なありさまだと思う。習合と分化を繰りかえして別のものに変貌していく、神格に似ている。だからそのように呪術的な研究に、この幻想郷という場所は力をかしてくれるだろう。
けれど共生させる生物は目に見えないほど極小で、魔力を無尽蔵かつ即座に物質へ変換できなければいけない。調べた結果、図書館の奥の奥、古代の地層から発掘した魔術書に、ちょうど条件に合致する生物のことが載っていた。
それは魔界最深部の洞窟に群生する苔で、苔とはいうけれど実際はもっと微少な生き物の集合体らしい。
だから私は、こぁがびゃーびゃー泣いて止めるのをふりきって、単身魔界に乗りこんでいったのだ。
魔界の瘴気は喘息にことのほか堪えたけれど、肺機能を一時的に停止させることでくぐりぬけていった。体内すべての循環機能を魔力でコントロールするのはさすがに至難のわざだったし、ましてやその状態であの弾幕戦をくぐりぬけてきたのだから、正直自分で自分を誉めたいと思う。
――目的の洞窟は、魔界神の居城パンデモニウムのちょうど裏側にあったのだ。
私はこのときほどスペルカードルールがあってよかったと思ったことはない。もしあれが本気の戦闘だったなら、今ごろ魔界の風になっていただろう。そう思うとスペルカードルールを制定してくれた霊夢に対して感謝の気持ちで一杯だった。
だからぼろぼろになって帰ってきたあと、わざわざ神社にたちよってお賽銭をはずんだというのに。それを見かけた霊夢のやつは、なんだか凄い顔をした。
具体的には、夜中にふと起きたら枕元にご先祖が総立ちで並んでいたような顔だった。
しかも次の瞬間、私を指さしながら爆笑しはじめたのだ。
「わははははは! パチュリーがお賽銭あげてる! わははははは! こ、これなんの冗談よ、わははは!」
もう二度と賽銭などやるものかと固く誓ったことは云うまでもない。
なにはともあれ、このようにして私の不老不死は完成したのである。
正直あの瞬間、私は確実に月人に並んでいたと思う。事実、咲夜に頼んでとってきてもらった藤原妹紅の皮膚を拡大してみたら、私が培養した不死細胞とまったく同じ形をしていた。
けれどそれだけではまだ足りなかったのだ。
――阿求は、阿求でなければいけない。
あの、人間個人の精神の中に宇宙を格納していく求聞持の力。
その維持こそが、最大にして最後の壁だった。
おそらく求聞持の記憶は単一の脳の中にはない。ひとの器はそんなに強いものじゃない。その秘密はきっと脳内の素粒子にあるのではないかと、私は仮説をたてていた。
いうなれば“甘い物は別腹”システムだ。無限に重なり合う量子の狭間、平行宇宙の量子ゆらぎにその情報を刻むのだ。
さすがにそれを解析するには手間がかかる。もしかしたら外の世界に戻る必要があるかもしれない。
そう思って研究計画を練り上げていたころだった、阿求がふらりと図書館にやってきたのは。
「あの……お邪魔でしたか?」
季節は冬で、外は雪が降っているようだ。阿求が外した菅笠から、さっと弾幕のような雪が舞い散っていた。彼女は小袖の上に臙脂色の道行きを羽織り、けれど笠をもった手は寒そうに赤くかじかんでいた。
「ある意味では邪魔ね。あなたがいると本が読めなくなるんだもの」
「もう……またそんなこと」
つぶやいた阿求から顔をそらして、本で口元を隠しながら呪文を唱える。途端に赤々と燃え上がる暖炉の炎に気がついて、阿求が諦めたような表情でくすりと笑う。その鼻の頭が、いちごみたいに可愛らしい赤味を帯びていた。
「外、雪降っていたんだ、知らなかったわ」
「まあ、ずっと図書館にいればそうでしょうね。今年の雪はすごいですよ、レティさん絶好調」
「そう……今日はどこにいっていたの?」
「魔法の森の峡谷です。沢にカニの妖怪がいるって……は……はっ……はくちゅっ」
言葉の途中で、阿求は可愛いらしいくしゃみをした。
そうしてその瞬間、私の全身に竜宮の使いに抱きつかれたような電流が走っていったのだ。
懐紙でちんと鼻をかむ阿求の姿を、初めてみるような思いで眺めていた。
――もしかして私は、ずっとひどい思い違いをしていたのかもしれない。
その光景から受けた衝撃は、それまでこつこつと積み上げてきた研究を粉々に吹き飛ばすようなものだった。
瞬時に細胞を蘇生させる私の不死人は、この阿求のように寒さに鼻の頭を赤くするだろうか。気温の変化に可愛らしいくしゃみをするだろうか。ちんと鼻をかんだりするだろうか。
しない。
身体の恒常性を保護するためのこういった反応を、不死身の不死人は行わない。そしてそういう反応をしない阿求は、すでに私の阿求ではありえない。
阿求は鼻をいちごみたいに赤くしなければいけないし、寒さにぶるりと震えながら暖を取るように身を寄せてこないといけない。たまには鼻だってかまなければいけないし、体調を崩して熱をだしたときには不安げにぎゅっと私の服を掴んでこないといけない。
「えぇと……パチェ? なんでそんなまじまじとわたしをみつめてるんでしょう?」
「……とくに理由はないわ。ただ、なんだかひさしぶりにあなたに会った気がして」
目を細めながら云った私を、けれど阿求はじっとりとした半眼で睨みつけてくる。
「気がして、じゃないですよ。随分久しぶりじゃないですか」
「ほよ? そうだっけ?」
「呆れた……この二ヶ月いつ訪ねても研究室で実験してるだとか、どこかにでかけてるだとかで全然会えなかったのに。これじゃ“動く大図書館”ですよ。縁起のあなたのページを書き直さないといけなくなります」
「むう……」
「パチェはね、ちょっと熱中すると周りがみえなくなりすぎなんです」
「悪かったわ、ごめんなさい」
素直に謝ると、今度は阿求が驚いたような顔をした。
「……なんの研究してたんですか?」
一転して優しい顔をして、阿求は訊ねる。私はぎしりと安楽椅子から立ち上り、ソファに座って手招きをする。
「くだらない、どうでもいい研究よ。でももう済んだわ」
「……そう?」
私の膝に頭を乗せて、阿求は目をぱちくりさせた。
結局ここにいる阿求こそがすべてなのだと思う。今こうして膝の上に乗っている、宝物のような重たさが阿求のすべてなのだと思う。
「ええ。それじゃ聞かせて、あなたの人生の物語を」
「はい――パチェ」
その日私は不死に関する全研究を封印した。
あっというまに二年がすぎて、『幻想郷縁起』は完成した。
2
「へぇ、なかなかよく描けてるじゃないの」
レミィは『幻想郷縁起』の自分のページを眺めながら、偉そうにそう云うのだった。
けれどその背中から生えた羽はぱたぱたとせわしなく動いていて、気のなさそうな言葉とは裏腹に随分喜んでいるのがよくわかる。
悪魔族の翼というのは、実は空を飛ぶための道具ではないのかもしれないと思う。常に怖ろしげな言動をしなければいけない関係上、言葉では伝えきれない喜怒哀楽を表現するために発達した器官なのではなかろうか。そうでなければ、フランの翼があんな風におよそ空を飛べそうもない形をしているうえ、感情にあわせてまばゆく光ることに説明がつけられない。
レミィと肩を寄せあって縁起をながめるフランの翼は、琥珀のようなオレンジ色に光っていた。
「ふーん、どれどれ。“性格は幼いため、機嫌を損ねないように接しないと、怖ろしい目に遭うこともある。おとなしくわがままにつき合わないといけないだろう”だって。きゃはははは、お姉さま云われ放題じゃん!」
「ふん、うるさいわねフラン。無垢なる狂気こそが人間に恐怖を与える源泉なのよ。あなたにはまだそういった機微がわからないのかしらねぇ」
「えー、うそくさっ。っていうか、それでいうならあたしのが上だよね、なにもかも謎に包まれてるとか凄い怖そうじゃん。あとあたしのほうがイラスト可愛いし?」
「なに! 私のほうが可愛いだろ!」
「あたしだもん!」
むーと唸りながらにらみあう吸血鬼たちの間で、ばちばちと火花が飛び散った。けれどレミィの翼はぱたぱたと楽しげに羽ばたいているし、フランの翼ははちきれんばかりの喜び色に光っている。
いつものティールームでのことだった。
私たちは阿求がもってきた『幻想郷縁起』をデザートにして、早い夜のお茶を楽しんでいた。テーブルの上にあるのはやはり山盛りのプディングやベリーパイやアマレッティ。阿求こそいないけれど、最近は健啖家のフランもよく一緒にお茶をしてくれるから、咲夜の餌づけ欲はそれで満たされているようだった。
「ところで、阿求はもう帰してしまったんですか?」
うっとりとふたりの様子を眺めていた咲夜が、ふと視線をこちらにむけてそう云った。
「ええ。他にも縁起をもって挨拶まわりにいくそうよ。こぁをつけたわ」
「ああ、さすがパチュリーさま、気が利きますわね」
「まあね。まったくなんで人間って空くらい飛べないのかな。不便な生き物だわ」
けれどこぁをつけた理由はそれだけじゃない。あの子の魔力では人間の脅威たり得ないと思ったのかは知らないが、縁起にこぁのページは用意されていなかった。
それであの子は少し落ちこんでいるようだったから、ふたりきりにして阿求が存分に慰めることができるようにしたのだ。
「――変わりましたね、パチュリーさま」
お盆を胸の前に抱え、咲夜は穏やかに笑う。
「そう?」
「ええ、以前のどこか世をすねたようなところがなくなりました。たった二年で変われば変わるものですねぇ。阿求効果恐るべしです」
「ふん、あんたは人間のくせに二年経っても変わんないわね」
「性分ですから」
咲夜がつんと顔をそむけて云った瞬間、レミィたちのほうからぶわりと魔力が湧き上がってくる。
「お姉さまのわからずや! 鬼! 悪魔! 吸血鬼!」
「云ったわね、この――妹!」
気がつけばいつのまにかテーブルは壁の端によせられていた。
楽しそうに弾幕戦をはじめたふたりを眺めながら、私はプディングにもふりとかぶりつく。
光り輝く弾幕の迷路。目にもとまらぬスピードで展開される複雑な軌道。その間を縫って飛ぶ、しなやかで美しいふたつの身体。
それは圧倒的な魔力と知力に満ちた、絢爛たる身体芸術だ。けれどこんな弾幕戦も、ふたりにとっては猫が甘嚼みしあうような行為だろう。あるいは人間の子どもたちが鬼ごっこをするような。
阿求は、こんな風に突然はじまるふたりの遊びを、よく目を輝かせながら眺めていた。おそらく幻想郷でも最高位ランクに達するだろう、吸血鬼ふたりの弾幕戦。目に、脳裏に、記憶に焼きつけるようにじっと眺めていた阿求に、ふたりとも気がついていたはずだ。
――変わったな、と思う。
レミィはともかく、フランはこの二年で本当に変わった。
以前のフランは、どこか他人の顔色をうかがっているようなところがあった。いつだって“こんなことを云っていいのだろうか”“こんなことをしていいのだろうか”と考えながら行動しているふしがあった。まるで舞台の上、ひとりだけ台本を渡されていない役者のようだった。
けれど今はそんなことはない。多少毒舌なきらいはあるにせよ、のびのびと喋り、ころころと笑い、自らの感情や想いを自らの言葉で語れるようになった。
変えたのは阿求だ。
あの子のあまりにも弱すぎる身体が、儚すぎる肉体が、強大すぎる吸血鬼の心を変えたのかもしれない。どこまで他人に触れていいのか、どこまで他人に踏みこんでいいのか。それを理解させるのに、阿求という存在はきっと最適だったのだろう。
小鳥のように無力で愛らしいのに、古木のような叡智と落ち着きを兼ねた、あの子の存在が。
「――紅茶が好きになった。そう書いていましたね」
ゴールデンドロップの滴のように、咲夜がぽとりと言葉をこぼす。
「縁起の独白?……そうね」
「あと、妖怪の知り合いが増えて、転生することへの恐怖と孤独が和らいだとも」
「ええ」
「でも、これ以上転生する必要があるのかわからないとも云ってました。不思議ですよね、転生するつもりがあるのかないのかよくわかりません」
「……なにが云いたいの?」
じろりと睨みつけると、咲夜は珍しく云い淀むように視線をさまよわせる。
まばゆいばかりに輝く弾幕の光芒が、その頬を赤や緑やオレンジ色に染めていた。
「私には、あれが阿求からのSOSのように読めてしかたがないんです。……忘れたくないという」
「――ふん」
そんなこと、咲夜に云われるまでもなくわかっている。
阿求として覚えた紅茶の味を忘れたくない。転生して別人になってしまうのが怖ろしい。でも転生すればまた私たちや他の妖怪と会うことができる。たとえその自分が自分じゃなくっても、会えると思うことで心を安らがせることができる。
あの記述は、そんな迷いの果てに書かれた文章だとしか思えない。転生に対する義務と恐怖と願いと喜びと諦めと。それらの思いで混乱した心持ちを、そのまま文章にしたようにしか思えない。
自分がリセットされるという恐怖。それは一体どのようなものなのか。百年の期間をおいて再び生まれ落ちるときの孤独感はどうだろう。ほとんど変わることのない妖怪の私たちでさえ、この二年間で随分変わってしまった。地獄ですごす百年は、どれだけ阿求の魂を別のものに変えるだろう。
――私は知っている。
阿求が産まれたときにどのような思いを抱いたか、私はそれを知っている。
『産まれたときにこんな思いに駆られるのがわかっていて、どうしてわたしは毎度のように転生してしまうのか。ただ縁起を書いて死ぬだけの人生を、どうして繰りかえしてしまうのか』
「なんとかならないんでしょうか、パチュリーさま……」
「なによ……もしかして、また私が逃げてるとでも云いたいの? 私はなんとかしようとしたわよ」
そのために蓬莱の薬すら作り上げたのだ。まるで無意味な行動だったけれど。
「存じてます。二年前ならいざしらず、今のパチュリーさまはちゃんと阿求を愛していると思います」
そんな言葉に思わず頬が赤くなっていくのを感じて、私は慌てて顔をそらす。
視線の先では、フランが発動した禁忌『恋の迷路』の弾幕が、放射状の同心円を描きながら展開していた。
――禁忌、か。
妖怪と人間の切ない恋物語など、掃いて捨てるほどあふれかえっている。正直そんなお手軽な悲劇には食傷しすぎて、もし開いた本がそんな筋立てだったら鼻を鳴らして読むのをやめるくらいのものなのに。まさか自分がそんな迷路に入りこむなんて考えもしなかった。
「……結局私たちには、あの子の結論を待つことしかできないわ。千二百年続いた稗田というシステムだもの。心の奥底にしみついたあの子の存在意義を、横から奪うことはできない」
ティーカップをカチャリとソーサーに置くと、咲夜は爪をかむように口元に親指を当てた。うつむいて影となった顔から漏れだす声は、私たちが出会ったころのように呪詛と怒りに満ちていた。
「稗田……あの家、あの屋敷。なるほど、あの家が阿求に悲しみをおしつけているということですか」
「そうね。でも頼むから鏖にしてきたりしないでよ。そんなことしたら第二次吸血鬼異変だわ」
「まさか、今更そんなことしませんわ」
そうだ、咲夜だってこの紅魔館にきてからずいぶん変わった。自分の怒りは世界全部を打ち倒すに値すると勘違いしていた、あの思春期の少女はもうどこにもいない。
ひとは変わる。良きにせよ悪しきにせよ、刻の流れと供に否応なく変わっていく。それを止めることは許されない。阿求が死んで忘れて変わっていくのを、私はただ受け容れることしかできない。
「――それに、私が本当に許せない相手は稗田じゃない」
つぶやくと、咲夜ははっと顔を上げて私のことをみつめた。
「というと……?」
「それはあの子を輪廻の輪の中に閉ざそうとする者よ。あの子から記憶を奪い、寿命を奪い、自ら転生を許した癖にその罰として獄吏をさしむけようとする組織――是非曲直庁」
いつか無名の丘でみた、ヤマザナドゥの姿が忘れられない。微塵のゆらぎも感じさせない、完全なる白と黒。まるでダイアモンドを構成する炭素原子のように整然とならんだ硬質は、一切の妥協を許さないひとつの冷厳な境界線だった。
転生の儀式は地獄行き。それは逃れられない絶対的な法らしい。阿求はひとびとのために転生を繰りかえしているというのに、冥界裁判では有罪判決が待っている。
けれどそもそも転生を許したのは是非曲直庁それ自体なのだ。しかも与えられる寿命は短い。マッチポンプ。拒否権のない司法取引。それを押しつける閻魔たちのことを、私は許さない。
「きゃあぁぁーー!」
そのとき、派手な爆発音とともにフランの悲鳴が聞こえてきた。みると、ぺたんと床にしゃがみこんだフランの頭上で、レミィが肩で息をしながら浮かんでいる。
「あーん、やられたー……」
「ふん! 姉より優れた妹など存在しないっ!」
弾幕戦は結局いつものようにレミィの勝ちらしい。フランはしばらく口惜しそうにしてたけれど、やがてぴょこんと立ち上がると、「お腹空いたー」と云いながらてててとこちらに走ってくる。
「――パチェ」
「なによ?」
ふいに聞こえてきた真剣な声に振りむけば、レミィが紅い瞳で私のことをみつめていた。
さっきまで肩で息をしていたはずなのに、いつのまにか呼吸も整い、悠然と腕を組んで笑っている。全身からぶわりと噴きだしてくる魔力の放射は、まるで衰えをみせていない。ほぼ同格の相手と戦ってなお陰ることがない、無尽蔵のその魔力。
思わず目をみはった私に、幼き月は翼を刃物のように尖らせながら云う。
「――是非曲直庁を滅ぼせばいいのか?」
「……え?」
「阿求を搾取してパチェを悲しませるのは是非曲直庁なのか? あそこがなくなれば全部解決するのか? だったらこの私が潰してやるよ。それがパチェの望みならね」
「レミィ……」
「あー、ずるいお姉さま、あたしも一緒にあの世潰すー!」
顔中に生クリームをくっつけたフランが、にこにこと笑いながら剣呑な台詞を云い放つ。
「ふふふ、そうねフラン、ふたりでわけましょうか。なんたって十王は十人もいるんだもん。まあ、閻魔王は私の獲物だけれどね」
「えー、一番美味しいとこじゃん、ずっこいなー。それじゃ秦広王はあたしのー」
気がつけば吸血鬼ふたりは、“はないちもんめ”みたいに十王たちをとりあっていた。けれどそれは欲しい相手のリストではなく、殺したい相手のリストなのだった。
――まったく、レミィったら。
いくらなんでも、そんな単純な暴力で物事が解決したりするはずがない。たとえ十王全部を鏖殺したところで、組織が残っていればまた新たな十王が現れる。組織ごと潰滅したところで、死者を捌きこの世界を回す必要性があれば、また新たな是非曲直庁が立ち上がる。
腹いせに行うなら、そんな暴力もいいだろう。あとのことなど知らぬと、ただ目の前にいる敵を打ち倒して溜飲を下げる。けれどそんなことでは阿求は救われない。暴力で目的を達成することはできない。
――もう、あのころとは違うのだ。
外の世界にいて、まわり全部が敵だったあのころ。
この紅魔館で妹とふたりひっそりとすごしていた寂しい吸血鬼と、産まれたばかりの魔女が出会ったあのころ。
あのころ私たちは、よくふたりで世界を滅ぼす計画を練った。
それはいくらでも実現可能な計画で、実行を躊躇するようなしがらみなんて私たちにはまるでなかった。人間に支配された世界から弾きだされた吸血鬼と魔女には、失うものや守りたいものなどなにもなかったから。もしこの幻想郷の存在を知らなくて、咲夜と出会うこともなかったら、きっと私たちはその世界を滅ぼす計画を実行していたに違いない。
でも私たちはここにきてしまった。
いつのまにか、大切なものもできてしまった。
役に立たない妖精メイドたち。庭に咲き誇る花壇。気づけば風とともに届けられている間違いだらけの“文々。新聞”。里の者が笑顔とともに持ってくる獲れたての野菜。うららかな春の午後、霧の湖にボートを浮かべてたゆたう船遊び。鮮やかな彩りをみせるこの日本の春と夏と秋と冬。まばゆい月と暗い夜に満ちた、幻想の中の幻想郷。
私たちはいつのまにか大人になってしまった。ちっとも成長しない少女の姿ではあるけれど、簡単には捨てられないものがたくさんできたとき、私たちは大人になってしまったのだ。全部壊してしまえばいいだなんて、簡単には口にできない大人に。
――けれど。
はぐはぐとプディングにかぶりつく、レミィを眺めながら私は思う。
レミリア・スカーレットは変わらない。
私やフランが変わっても、咲夜や阿求が成長しても、私の親友は変わらない。少し分別はついてしまったけれど、心の真中はまるであのころのまま。尊大で子どもっぽくて単純で美しく、強大でいてどこか悲しい。
「ふん、簡単なことでしょパチェ、気に入らなきゃ殺せばいいの。秦広王も初江王も宋帝王も五官王も閻魔王も変成王も泰山王も平等王も都市王も五道転輪王も、私にかかればちょちょいのちょいだわ」
――ああ、大好きよレミィ、私の親友。
永遠に赤い幼き月とはよく云ったもの。移りゆくこの世界の中で、あなたの幼さだけは永遠であって欲しい。
「……そうね。あなたならできるね、レミィ」
「だろー? パチェは難しく考えすぎなのよ」
「ふふ、そうかも」
思わず満面の笑みを浮かべたら、レミィは驚いたように目を丸くした。
3
そんなレミィでも、きっとこの運命は読めなかったに違いない。
元々彼女の“運命を操る程度の能力”は、本人が制御できるような代物ではない。他人の運命を感知するようなことはできず、ただ後になって考えてみれば、運命に導かれたとしか思えないようなできごとがあるだけだ。
だから、レミィだってこれはわかっていなかったはずだ。
その時点でそれをわかっていたのは、おそらく稗田のものたちと閻魔の眷属、永遠亭の薬師と里の賢者と――こぁだった。
* * *
図書館の闇を切り裂いて、ぽぅと仄明るい光たちが舞っている。
赤や緑や黄色や紫。色とりどりの輝きは、阿求のその日の心の色だった。嬉しかったときにはオレンジ色に、憂鬱な日には沈んだブルーに、晴れやかな日には緑色に、不安に怯えたときには紫色に。
阿求の記憶を閉じこめた情報結晶が、弾幕のように図書館のホールを漂いながら浮いている。そうして私はひとりソファに腰掛けて、ただひたすら思い出の中にひたっている。
英知を溜めこんで死んだ図書館の中、その光は儚いけれども鮮やかで。
それはまるで、阿求自身のイメージだ。
たわむれに、オレンジ色の光をすいと手元に引きよせる。それは四年前の夏のある日、里の洋菓子店でアイスクリームを食べた日のできごとだ。結晶をそっと耳元に当てて起動すると、当時の思い出が声となって蘇る。
喋っているのは阿求だ。
じりじりと肌を突き刺す夏の日差し。肌を伝わる汗の不快さ。道を横切る蟻の行列の行き先が知りたくて、ずっとついていったこと。その先にあった洋菓子店のお洒落な佇まいに驚いたこと。気後れしながらも、これも勉強だからと入っていったこと。口に含んだアイスクリームがふわりと舌の上で溶けていったときの驚き。店員が阿求のことを知らなかったようで、純粋に子ども扱いされたことが腹立たしいと同時に嬉しかったこと。
蘇るのは私の思い出だ。
この太ももの上に小さな頭を載せて、阿求はうっすらと微笑みながらこの話を語っていた。そのときのまつげのふるえ、髪の長さ、着物の生地を波立たせていた青海波。
みんなみんな、覚えている。
すぅと結晶を元の位置に戻して、思い出たちをくるくると空中で回していく。まるでロイヤルフレアの弾幕のように、くるくると回すときらきらと輝く。阿求の人生が、図書館の闇を切り裂いてきらきらと輝く。
『桜の下で毛虫に驚く』『里の賢者とマス寿司を食べる』『死にそうな子猫を抱えて永遠亭へ駆ける』『月の物の訪れに一日ふさぎこむ』『意味もなく雨の下に佇む』『病床に水枕の海をみる』『妖怪の山にて望郷ならず』。
それを語ったときの阿求の顔、顔、顔。満面の笑み。穏やかな微笑み。眉をよせてむっとしたような顔。呆れたような眼差し。照れて頬を真っ赤に染めた顔。泣きながら忘れたくないと云った顔。
足りない。
まだまだ足りない。
次第に増えていく宝石たちは、“思い出箱”の五分の一も満たしていない。阿求の全人生を保存するには、まだまだ刻が足りていない。
少しずつ変わっていく阿求の全部を、保存したいと思うのだ。
筍が空にむけて伸びていくように、すくすくと育っていく阿求のすべてを。
この二年で女らしい丸みを帯びてきた阿求の身体は、これから先どのように変わっていくのだろう。思春期の入り口に立った柔らかい身体は、私の手のなかでどのように成長していくことだろう。
ひとの成長は早い。今は低い身長も、きっと気がつけば咲夜や美鈴のようにすらりと伸びているはずだ。童女らしいかむろが似合う顔立ちも彫りが深く凛々しくなり、ぺたんこの胸も子に乳を与えられそうなほど膨らみ、鈴がなるような涼やかな声も気づけば落ち着いた深みを帯びて。
そのころには、今は完全に私が握っているベッドの中での主導権も、たまには阿求に移ることがあるのだろうか。顔を真っ赤にしながら私の胸に吸いつくことしかできない、不器用なあの子。愛されることにも愛することにも不慣れなあの子に、ひとを愛することの悦びを教えてやりたいと思うのだ。
――まだ、それだけの時間はあるはずだ。
いくら御阿礼の子が短命だといっても、あの子はまだ十三歳。あと十やそこらは生きることができるはず。その精神年齢に見あうような大人の身体を得て、あの子にしかできないやりかたで私を愛してくれるようになることを、期待したっていいはずだ。
――そうだ、期待したっていいはずだったのだ。
「パチュリーさま?」
そのときキイとドアを開け、こぁが図書館の中に入ってきた。明かりのついていない様子に一瞬いぶかしがって、けれどホール中を満たす淡い光芒に気づいてきらりと瞳を輝かせた。
「わぁ! 綺麗ですねぇ、あっきゅん美味しそう」
「あげないわよ。全部私の」
「うふふ、いくらあたしだってひとのもの食べたりしませんよぉ」
そう云って笑いながら、こぁはコートを脱いでフックに掛ける。いつものスーツの上からエプロンを羽織ると、長髪をポニーテールに縛って本棚にむかっていった。今日はササン朝ペルシア時代の文献整理をやってもらう予定だった。
「ねぇ、パチュリーさま」
「なぁに?」
ちかちかと光り輝く情報結晶を思い出箱に詰め直していると、こぁがふと真剣な口調で声をかけてくる。
「前からちょっと疑問だったんですけど、なんでパチュリーさまはずっと図書館にいるんですか?」
「はぁ? なにを云うのいきなり」
突然の意味不明な言葉に、思わず目をぱちくりとさせてしまう。
本とともに在るものこそこの私パチュリー・ノーレッジだ。図書館にいてひたすらに書物を読み続ける以外、なにをすることがあるだろう。阿求とすごすことは別にして。
私にとっての読書とは、ただ単に趣味というだけじゃない。それは私の存在意義なのだ。
妖怪というのは本来そのような存在だ。ひとの血を吸い、強大な魔力をもつからこその吸血鬼。棺を暴き、ひとの屍体を手押し車に乗せていくからこその火車。
妖怪が妖怪として存在できるのはそのような存在意義と密接に関わっているからで、そこがずれてしまうと存在自体が消えてしまう。
そんな私の長口舌を神妙に聞いていたこぁだったけれど、聞き終わると不思議そうな顔で小首を傾げるのだった。
「んー、なんとなくわかるんですけどぉ……」
「なによ、こぁの癖に私に意見しようっていうわけ?」
「あわわわ、い、意見なんてだいそれたことじゃなくて!」
「ふん、いいから云ってみなさい。場合によっては怒らないかもしれない」
「あ、基本怒るの前提なんですね。ま、いいや……でもあの、さっきパチュリーさまがいってたようなことって、別に図書館にいなくてもできる気がしまして……」
「……どういうこと?」
「だってパチュリーさま、どこにいても図書館と接続してるじゃないですか。“動かない大図書館”さまは、元々動く大図書館さまなわけでしょう?」
――ああ。
それはまあ、確かにその通りだ。私は存在の根本をこの図書館と結びつけているから、私がいる場所そのものが図書館ともいえる。
必ずしもここにいる必要があるわけではない。あえて外にでない理由と云えば、身体が弱いから、本や髪が傷むから、本を読むときに直射日光が眩しいから、気が散って読書に集中できないから。
――それと、もうひとつ。
「図書館の管理でしたら、わたし頑張りますよ?」
「こぁ?」
「インデックス魔法も、もうパチュリーさまにみてもらわないでもできますし、封印や結界だって施せます。整理だってパチュリーさまが使いやすいように分類できますし、白黒がきてもちゃんとひとりで追いかえせますから」
「……他はともかく、最後のは怪しいわね」
「う……訂正! 咲夜さんや美鈴さんと頑張ります!」
ぐっと胸の前で両手を握りしめ、こぁはひどく真剣な顔をしてそう云った。それは頼もしくて結構だけれど、そもそもなにを云いたいのかわからない。もしかして給料でも欲しいのだろうかと、首をひねりながらこぁの顔をみつめていた。
「――だから」
「……だから?」
「こんなところで思い出ばっかりみてないで、あっきゅんのところに行ってあげてください!」
「――はぁ?」
何を云いだすかと思ったらそんなこと。
そんな、できっこないようなこと。
いくら里と妖怪が近くなったとはいえ、私は魔女であの子は人間だ。稗田の家であっても、いや稗田の家であるからこそ、気軽に会いにいくことなどできるはずがない。
ただでさえ畏怖という名の特別視をうけている稗田の家だ。妖怪が入り浸っているなどと噂になれば、簡単に“こちら側”の存在として追い立てられてしまうだろう。人間の集団がそうやって他者を排斥するところを、私はなんどもみてきたのだから。
――けれど。
「あなた、なにか知ってるの? なんで突然そんなことを云いだしたの?」
魔力をこめてにらみつけると、まとめたばかりのこぁのポニーテールが猫の尻尾みたいに逆立った。
「うみゃぁ!……えっと……」
「そういえばあなた、阿求と一緒に縁起の挨拶回りにいったあと、ずいぶんふさぎこんでたわよね」
「えええ! わかっちゃってたですか……」
「あなたのことくらい手に取るようにわかるわよ。云いなさい」
「あの……でも、あっきゅんに黙っててって云われて……」
「だったら最初からなにも云わずに黙ってなさいな……まあいい、あなたの身体から聞きだす方法なんて、いくらでもあるんだからね」
「ひいっ!!」
こぁの悲鳴を尻目に魔導書を呼びだしたそのとき、ふと図書館の外からばたばたと走る音が聞こえてくる。
一瞬フランかレミィかと思ったけれど、歩幅の長さがまるで違う。
ならば珍しく美鈴だろうか。けれどあの子がこの図書館になんの用事だろうと首をひねっていると、どかんと扉が開かれた。
そうしてそこに立っていた人影をみた瞬間、私の心臓がどきりと跳ねたのだ。
「――咲夜?」
燭台の明かりを背後に浴びて、咲夜が肩で息をしながら私のことをみつめている。
たしか少し前、里に買い物にでかけると云っていたはずで、そのとおり背中には大きな行李を背負っている。けれどまた時間でも止めていってきたのだろう、すでに中には食材がたくさんつまっていた。
――嫌な予感しかしなかった。
咲夜が。
あの完璧で瀟洒な咲夜が。
よりによってどたばたと足音を立てながら、ノックもしないでこの図書館に入ってくるなんて。
そう思って凍りついていた私に、咲夜は云った。
「――阿求のところに、死神がやってきたそうです」
反射的にこぁのほうをふりむくと、お節介な使い魔は泣きそうな顔で目をそらしたのだった。
4
築地塀がどこまでも続いていた。
夏の強い日差しを浴び、白く輝く土壁が左右に延々と聳え立っている。まるで里全部を覆っているかと思うくらいのその防壁は、けれどただ稗田を里と切り離すだけの境界だ。
これほどの強固な境界が、一体どうして必要なのだろう。物盗りなど、この幻想郷においてはそうそういないだろうに。
そんなことを思いながら、砂利を踏みしめて門の前まで歩いていく。薬医門の飴色に輝く門柱が、どっしりとした重量感で瓦葺きの屋根をささえていた。堅く閉ざされた門扉には鋳鉄の梁が張られていて、まるで外敵から身を守ろうとするかのように堅固な佇まいだった。
――どうやって、入ればいいのだろう。
ノッカーなんてどこにもない。呼び鈴らしきものもみあたらない。重い門扉を叩いてみるけれど、ゴンゴンと鈍い音がするだけで手が痛い。空からみたときの庭園の広さを考えると、よほど大きな音を立てないと家の者までは聞こえないだろう。
「たのもー!」
凄い頑張って声を張ってみた。
無言。
屋敷の中から鳥が飛び立つ気配がする。
自分で叫んでみて、なんて弱々しい声だと思わず赤面してしまった。ここ五十年で、五メートル以上遠くまで声を届かせる必要なんて一度もなかった。どう考えても今の声は屋敷の中にまで聞こえていないだろう。なんだか凄く恥ずかしい。
せっかく意を決して図書館からでてきたというのに、いきなり壁にぶち当たってしまった。この屋敷をまるごと破壊する方法ならいくらでも思いつくことができるのに、中の人を呼びだす方法がわからない。
――飛び越えていければ、簡単なんだけど。
でも、それはできないのだ。人間が張った“無断で立ち入るべからず”の結界を無視し、妖怪ならではの方法で飛び越えるなど、はなから人間に喧嘩を売っているようなもの。そもそも、今の私は妖怪だとばれてはいけない立場だ。
きまぐれに桜色の日傘をくるくる回すと、裾につけられたくどいほどのレースがはためいた。けれど夏の暑さは、そんな可愛い日傘なんかじゃ弱めることすらできやしない。うだるような暑さに、首筋を一滴の汗がたらりとしたたり落ちていく。反射的に拭おうとして髪に手をいれると、その瞬間かえってきたのはいつもと違うふわふわとした感触だ。
――ああ、そうだった。
わかっていてもいつも忘れる。
今私は変装しているのだ。自分が紅魔館の魔女パチュリー・ノーレッジだと、里の人間にばれないように。
『――ねぇアリス、これあなたの趣味でしょう? こんなの着ないといけないの?』
『なに云ってるのよパチュリー、小悪魔も咲夜もレミリアも服のサイズが違いすぎるからって、うちにきたのはあなたじゃない』
『変装したいだけなんだから、別に縁起に載ってる印象と違ってればなんでもよかったんだけど』
『そんなこと云われても、うちにはこんな少女趣味の服しかないの。悪かったわね』
『……人選を誤ったわ。白黒あたりにするんだった』
『でも、阿求に会いにいくのよね?』
『だからなによ』
『じゃあできるだけ可愛い格好のほうがいいんじゃない? ほら、じっとしてて。コテが当たると火傷するわよ』
――意味がわからない。
なんで可愛い格好じゃないといけないのか、まるでわからない。
コテで巻いたあとに櫛で逆立て、綿飴みたいにカールさせたふわふわの髪。いつものキャップは脱いでいて、レース飾りがついた円形のヘッドドレスをあごからリボンでくくっている。姫袖になったブラウスはどこもかしこもフリルまみれで、背中にシャーリングがほどこされたジャンパースカートは腿のあたりで花のようにふわりと膨らんでいる。
『――なによこれ、ドロワみえるじゃない。駄目よ、もっと丈が長いのはないの?』
『わかってないわねぇ。膨らんだスカートからドロワの裾レースがちらちらみえるところが可愛いんじゃない』
『わかりたくないし可愛くなくていい。……ねぇ、せめてこのパニエ、こんなに重ねなければ少しは腿が隠れると思うんだけど』
『それだけは絶対だめ! そのスカートの膨らんだラインだけは死守! 死守よ! 脱いだら呪うわよ!』
『はぁ……もう好きにして』
好きにされた。
おかげで今の私は全身桜色のフリルお化けだ。
裾フリルのスカートはドレープを描いて腰のリボンにつながり、バッスル仕立てになった五段フリルが歩くたびにひらひら揺れる。元々リボンは好きだからいいけれど、いくらなんでも五個も六個もついているのはどうかと思うし、ちょっと動くだけでひっかけてしまいそうで怖くなる。
端的に云ってやりすぎだ。
――本当に、なんで私はアリスなんかに頼ってしまったのだろう。
どこぞの厄神みたいな格好をさせられるわ、いざやってきたら門から入ることすらできないわで、いきなり図書館に帰りたくなってきた。
「にゃぁ~お」
そんな私の耳に、ふと猫の鳴き声が聞こえてくる。反射的に顔を上げると、薬医門の屋根の上から一匹の黒猫が私のことを見下ろしていた。
――助かった。黒猫なら会話ができるかも。
『こんにちは』
猫語で話しかけると、黒猫はぴんと立ち上がって全身を総毛立たせた。ふーっと鋭い声で威嚇する猫に、目を細めながらなだめるように喉を鳴らす。
『そんなに緊張しないで、怪しいものじゃないわ』
『これはおかしなことを云う。猫語を話せる人間など怪しいことこの上ない』
ああ、それもそうか。
思わず苦笑してしまったけれど、この切り返しかたからするとなかなかの知能の持ち主のようだ。感心しながら黒猫の顔をみてみると、その片目が潰れていることに気がついた。
――ああ、これは多分目占《めうら》だ。
第百十三季の葉月九日に、阿求が拾った元子猫だ。
『なぜ猫語が話せるかというと、私が妖しくも怪しい魔女だからよ。パチュリー・ノーレッジ、よろしくね目占』
『おや、私の名前を……? そうかパチュリー・ノーレッジ――パチェか』
黒猫はひらりと門から飛び降りてきて、くんくんと私の匂いを嗅ぎまわる。
『なるほど、たしかにあなたはよく阿求が漂わせている匂いの持ち主だな。阿求に会いにきてくれたのか?』
『ええ。稗田の者を呼んできてくれないかしら?』
『うーむ、普通の人間と話すのは苦手なんだが……魔女なら人語も話せるんだろう?』
『悪かったわね、私も人間と話すのは苦手なのよ』
顔を反らしながらそう云うと、目占はふと気がついたようにぴんと尻尾をたてた。
『ああ、なるほど。たしかパチュリー・ノーレッジは“ひきこもり”というものだったな。ならばひとと話すのも苦手だろう。わかった、呼んでくる』
『なっ! あの子そんなことまで話したのっ!?』
思わず叫んでしまった私をよそに、目占はひらりと築地塀の屋根に飛び乗って、猫の癖に笑みとしか思えない表情をみせた。
『ああ、阿求はあなたのことばかりよく喋るよ。そんなときの阿求はとても優しく私の頭を撫でるから、私まであなたのことを好きになってしまいそうだった。一度その無上の快楽だという、太ももの柔らかさを体感してみたいものだな』
――阿求。
目占が消えた築地塀を、呆然とした思いで眺めていた。
胸の奥底から湧いてくるのは、そんなに私のことを好きでいてくれたのかという喜びと、そんな阿求が今苦しんでいるという悲しみだ。
そのことを思うと、こんなに暑いのにお腹の奥が痺れるように冷えていく。
叫び出しそうな不安感にぎゅっと胸を押さえると、手のひらの下で可愛いリボンがぐしゃりと潰れた。
* * *
下女に案内された稗田の本宅は、どこか懐かしい場所だった。
玉砂利が敷きつめられた歩道、玄関脇に植えられたツツジの木立。上がりかまちの木目の模様すら阿求の話にあった通りで、思わずくすりと笑みが漏れる。“『アグニシャイン』が発動から十秒くらいたったときの形”と阿求は云ったけれど、確かにこの模様はそんな形をしている。
「――それでは失礼いたします。どうぞごゆっくり」
「ああ……ごくろうね」
案内だけしてさっさと戻っていく下女の後ろ姿を、なんとなく不愉快な思いで眺めていた。せめて部屋まで通すくらいのことはしないのだろうかと思う。
もっとも、私の格好があまりといえばあまりなものなので、警戒されてしまったのかもしれない。考えてみればふりふりドレスに日傘なんて、やっかいな妖怪がよくしている格好だ。どこぞのスキマしかり、ひまわり畑の番人しかり、我が親愛なるレミリア・スカーレットしかり。返す返すもアリスに任せなければよかったと、思わず溜息を吐いてしまう。
『こちらだ、ついてくるがいい』
苦労してブーツを脱ぎ終わった私の前に立ち、目占はふりふりと尻尾を振った。
『ありがとう、でも大丈夫よ、わかるから』
『そうか。けれど案内くらいはさせてくれよ。私にも番猫としての役目がある』
しかつめらしい顔で云った目占に、うなずきをかえして歩く。してみると、あのとき何食わぬ顔で門の屋根で毛繕いしていたのも、門番として来訪者をチェックしていたのだろう。
まるで美鈴と咲夜を足して割ったかのような活躍だ。阿求はあの日いい拾いものをしたと思って、なんとなく嬉しくなった。
書院式庭園を横目にみながら、板張りの廊下を歩いていく。松やツツジ、カエデなどが植わった木立の中、こじんまりとした池の中央に蓬莱山が浮いていた。かこんとししおどしの音が響いてきて、私はふと、阿求はこの音を何回聞いたことがあるのだろうなんて思う。
やがて阿求の部屋にたどり着くと、目占とよく似た顔をした猫が、障子の前で毛繕いをしながら控えていた。尻尾の先だけが白いところをみると、きっとこれが尾白だろう。さながら護衛兼側近の役目だろうか、心なし身のこなしも俊敏にみえる。
『客人を連れてきた』
目占がそんな意味の猫語でにゃんにゃん鳴くと、障子のむこうから鈴が鳴るような声が返ってくる。
「――目占? 誰も通さないでって云いましたよ」
阿求の声。
ほんの一、二週間会っていないだけなのに、なんだかすでに懐かしい気もする阿求の声。それは思っていたよりも随分しっかりした発音で、私は少しだけほっとする。
「私よ、阿求」
その瞬間、がたんとなにかが倒れるような音がした。
「……パチェ?」
「ええ。大丈夫? なにか音がしたけれど」
「あ、ただ文机が倒れただけで……本当にパチェですか?」
「そうよ」
「なにかの妖怪変化じゃないですか? 正直パチェが図書館からでてくるなんて信じられません」
「しつこいわね……いいから開けるわよ」
「あ、その短気さはパチェだ。待って! 私今薄物しか着てなくて――」
ぱたぱたと動く音、しゅるしゅるという衣擦れの音。しばらくすると「どうぞ」と声が掛かって、私は障子を開けた。
とても聞き覚えがある部屋だった。
大きくもなく小さくもない、こざっぱりとした和室だ。広く開けられた窓からは塀越しに外の景色が見渡せて、梅らしい木の梢でヒヨドリが鳴いている。飴色に光る蓄音機、窓際に置かれた倒れたままの文机と、その周りに積み上げられた巻物や和綴じ本や私が貸しだした外の本。
行李や箪笥に囲まれた部屋の中央に布団が敷かれていて、阿求はその中で恥ずかしそうに頬を染めていた。薄い襦袢に単衣を羽織っただけの格好で、いつもさらさらとしたショートカットは少し脂が光っていて重そうだ。枕元に手鏡があるところをみると、それでも懸命に身支度を整えていたのだろう。そんな阿求のことがなんだかとてもいじらしく思える。
「――え? パチェ?」
けれど阿求は、私の顔をみた瞬間大きく瞳を見開いた。
どうしたんだろうと一瞬思って、そのときはっと思いだす。私は普段とまるで違う格好をしているのだ。これでは本当に本人じゃないと疑われても仕方がない。
「に、偽物じゃないわよ、これは変装で――」
慌てる私をまじまじとみつめながら、阿求はくすりと口元をほこらばせる。その頬がだんだん紅潮していくように思うのは、もしかしてまだ熱が下がっていないからだろうか。
「そんなこと疑ってません、パチェはパチェです」
「そう……ひさしぶりね阿求」
「はい。きていただいて嬉しいです……でも」
阿求はそこで口ごもると、林檎みたいに真っ赤な顔を隠すようにがばりと布団を引き上げた。
「……なんでそんな可愛い格好してるんですか……反則ですよそれ……」
「そ、そうかしら? 自分ではよくわからないけれど。これ、そんなに可愛いかしら?」
「ああ、もう……パチェったらいつもそうだ。いつも不意打ちで可愛いところをみせつけて、わたしをとりこにするんです。なんて悪い魔女さんなんでしょう、わたしの魂をもっていってどうするつもりですか?」
その含羞を含んだ表情、上目遣いでみつめる瞳のゆらめき。身体を守るように胸の前で布団を抱きしめながら、けれどそのすべてはすでに私の前になげだされている。
――反則だ。
反則的に可愛らしいのは阿求のほうだ。
「もちろん食べるわ、魔女だもの」
「きゃー、食べられちゃうー」
がばりと布団を被った阿求に襲いかかりながら、私はアリスにプレゼントする魔導書はなにがいいかと考えていた。
5
「身体の調子は大丈夫なの?」
「はい、少し熱はありますけど、平気です」
縁側に座ってふたり、足をぶらぶらさせながらスイカを食べていた。青い空はどこまでも抜けるように高く、築地塀のむこうにそびえたつ入道雲は膝を抱えただいだらぼっちのよう。
阿求の膝の上には尾白、私の膝の上には目占。彼は『なるほどこれは聞きしに勝る座り心地だ』なんて云ったかと思うと、すぐにすーすーと寝息を立ててしまった。
「……それで阿求、なんでそんなに遠くに座ってるの? もっと近くにきなさい」
なぜか阿求は私と人間四人分くらいの距離を開けていて、さっきからそれ以上近づいてこようとしなかった。
「恥ずかしいから嫌です」
「なにがよ」
「お風呂入っていないので、その……匂いが」
うつむいて頬を染める阿求だったけれど、私にはその気持ちがわからない。
「そう? いい匂いしかしないけれど」
すんすんと匂いを嗅ぐと、阿求は「ひゃー」と悲鳴を上げながらさらに遠くまで逃げていってしまった。おかげで膝に乗っていた尾白がひっくりかえって落っこちて、抗議するように鼻を鳴らしながらどこかに歩み去っていく。
「か、嗅がないでってば! ばか!」
「なによ、ばかとは随分ね。地に這い蹲って生きてる人間らしい、素敵な匂いじゃない。……あなたが生きている証拠」
「えぇー……」
「本気で云っているのよ。なんでこういう生の匂いを恥ずかしいと思うのかわからない。人間って不思議ね」
「もう……もういいです」
ぷっと頬を膨らませながら、阿求はとことこ歩いてくる。投げやりな態度でどすんと隣に腰を下ろし、そっと肩に頭をもたせかけてきた。ふわりと鼻をくすぐる動物的な匂いは、やっぱりいい匂いだとしか思えない。
「じゃあもういくらでも嗅いだらいいです、もうしりません。どうせそのうちこんな匂いもしなくなるんですから」
ふて腐れたような口調で阿求は云う。
私は湧いてきた悲しみを懸命に押し殺し、なんでもないかのような口調で訊ねる。
「死神、なんの用事だったの?」
「わたしの命日が決まったそうです。あと三年。第百二十四季の師走十五日にわたしは死にます」
――それは予想どおりの言葉だったのに。
それでも絶句してしまう自分が情けないと思う。
寿命は、すでに尽きていたらしい。
『この阿求の身体は、今までと比べてもとくに弱いようです』
以前阿求が云ったその言葉は、やはり正しかったようだ。本来はとっくに死んでいてもおかしくなかったのだと、阿求はうっすらと笑いながらそう云った。
なのになぜ今まで生きてこられたかと云うと、御阿礼の子は閻魔と契約を結んでいて、『幻想郷縁起』を執筆するまで寿命では死なないことになっているらしい。縁起を完成させた直後にタイミングよく倒れたのはそういう事情だったようで、阿求自身これは回復がみこめる病ではないと半ば予感していたそうだ。
――だったら、縁起を完成させなければよかったのに。
なんども口をついてでそうになったその言葉を、私は懸命に飲みこんだ。御阿礼の子が寿命を惜しんで縁起の執筆を放棄する。それは自分が産まれてきた意味を丸ごと否定するようなことだったのだろう。
だからこうなることは最初から決まっていたのだ。
私がなにをやっても、阿求がなにをやっても変わらない運命。
御阿礼の子は、今まで九代こんなことを繰りかえしてきたのだから。
「残された三年は、特別に許された準備期間です。輪廻しても求聞持の能力と記憶の一部を残せるよう、転生の儀を行うための時間です」
「……どういう儀式なの?」
「稗田の霊廟にこもって、四季さまからもらった結界を張ります。そこでなにも食べないで三年間をすごし、七魄を極限まで削って魂に乗せるんです。生きながら少しずつ死んでいくんですね」
「三年間食べないって……それ生きていけるの?」
「ええ、結界が捨食の法をほどこしてくれますから。ある意味人間から霊的な存在になるための儀式ですからね。身体は人間なので、死ぬほどお腹は減りますけど……」
そう云って、阿求はスイカにがぶりとむしゃぶりついた。ふと口元からこぼれた果汁が一しずく、つつとあごをつたって膝にしたたりおちていく。それに気づいた阿求は“やっちゃった”というような顔をして、頬を赤くしながら懐紙でごしごしと拭った。
思い起こしてみれば、阿求は昔からよく食べる子だったなと思う。
この貧相で小さな身体からは信じられないほどたくさん食べて、飲んで、にこにこと笑っていた。それはもしかしたら、やがて待っているこの絶食の儀式と無関係ではなかったのかもしれない。魂の奥底まで染みついた飢餓感が、転生したあとにまで残っているのかもしれない。
「なんで……なんであなたがそんな死にかたしないといけないの」
「なんでと云われましてもねぇ……それが阿礼乙女だからとしか云いようがないですよ」
阿求がつぶやいたとき、ふと縁側が暗くなる。
見上げると屋敷全体が雲の影に入ったようで、臆面もなく晴れ上がった青い空にペンキで描いたような白い雲が浮かんでいる。天高く浮かんだ一点の黒い染みは、なにかの鳥かそれとも鴉天狗か。ジーワジーワと遠雷のように湧き上がる蝉の声が、青空に吸いこまれて消えていくようだった。
「空、青いですねぇ」
「……そうね」
「雲、白いですねぇ」
「……そうね」
「パチェは、蝉の命を儚いと哀れみますか?」
「つまんないレトリックはいらない。私はあなたを失いたくないだけ。蝉の命もひとの命も幻想郷の行く末もどうでもいいの」
「わがままですねぇパチェは」
「そうよ、しらなかったの?」
夏の午後のこと、肩にもたれかかる阿求の体温が少し暑い。けれどその熱量こそまだ阿求の心臓が脈うっているあかしだと思うと、なんだかとても愛おしいものに思えてくる。たらりとしたたり落ちる汗も、どこか嬉しい。
ふたりで肩をよせあいながら、流れていく雲を眺めていた。生ぬるい風が軒下の風鈴をゆらし、ちりんちりんとなにかが壊れるような音をたてて鳴る。そこできっと、時が壊れて散っている。
「――どうするの?」
訊ねると、阿求は少し困ったような表情で顔を伏せた。
「正直迷いました。でもやはりいままでどおり転生を続けていくつもりです。わたしはどうしたって阿礼乙女ですから」
「――本当に?」
「え?」
「それは本当にあなたの意志で決めたことなの?」
「そうですけれど……なにを疑っているんです?」
「以前あなた、“どうして自分は毎回転生してしまうんだろう”って云っていたわ。頭の中で阿礼がささやいてくるとも云った。……それは本当に阿礼のじゃなくて、あなた自身の意志なの?」
顔を上げた阿求は、意外にも穏やかな笑みを浮かべていた。どこまでも澄んだ桔梗色の瞳に、動揺した素振りは微塵もみられない。それで私は、もうこれは阿求の中で決まっていることなのだと悟った。
「そのふたつ――阿礼と阿求は、やっぱり不可分なんですよね」
阿求はゆっくりと立ち上がり、草履を履いて縁側から庭に降りていく。芝草を踏みしめて池の脇まで歩いていくと、石榴の花を引きよせてそっと匂いを嗅いだ。
「妖怪のパチェにはわからないかもしれませんけれど、人間って個人としては自立してないと思うんです」
振りかえり、彼女は自分をとりまく景色全体をみせつけるように両手を広げる。
このよく手入れされた書院式庭園を、年経りてどっしりと古色を帯びた広壮なお屋敷を、どこまでも続く築地塀を、青い空を、白い雲を、吹く風を、うるさいぐらいの蝉時雨を、みせつけるように両手を広げたあと、全部抱えこむようにそっと胸に手を当てる。
「このお屋敷も、わたしが着る服や食べる物も、身の回りを世話してくれる下女たちも、わたしがいない間の歴史をまとめてくれる編纂局のひとたちも、みんな稗田というサークルの中にあって、わたしはその中の一部でしかないんです」
「ふん、人間は社会から外れたら生きられないのよね……難儀なこと」
「ふふ、本当に。だからわたしの意志は、わたし自身の意志であると同時に誰かの意志なのです。誰かのためにとか、誰かの考えでっていうわけじゃなくて。わたしの意志自体が、なにか大きな流れの先端にあるうたかたの泡のようなものだと思うんです」
「たとえその大きな流れが、あなた個人を踏みにじっていたとしても?」
「はい」
縁起を書くために、御阿礼は産まれては死んでいく。
稗田というシステムの中で、この阿求の自由意志はどれほど守られてきただろう。産まれたその瞬間からかしずかれ、御輿に乗せられ、敬いという暴力でもって縁起執筆に駆り立てられていく御阿礼の子。
ひとからは化け物扱いされ、妖怪からはひと扱いされ、その異能のゆえに同い年の友だちもできず、しんと静まりかえった邸宅でひとり猫を撫でながら生きている。
そうして、死んでいこうとしている。
「……阿求」
「はい?」
「こちら側にくるつもりはない? 私ならあなたに不死を与えられるし、レミィの眷属になることだってできる。全部捨てて紅魔館にきなさい。お腹がはち切れるほど咲夜のお菓子を詰めこんで、頭がパンクするほど図書館の本を読み、私の横で永遠の刻をすごせばいい」
「本気……じゃないですよね?」
儚げに笑う。
どこか遠くで、子どもたちの歓声が聞こえる。
なんの遊びをしているのかわからないけれど、心から楽しそうに笑う子どもたち。それはもしかしたら、遊びが楽しくて笑っているのではないかもしれない。ただ生きていることが楽しくて笑っているのかもしれない。
阿求の瞳は揺らがない。桔梗色の瞳はどこまでも英知をたたえて澄んでいる。
「本気よ。けれどどうせうなずかないだろうとは思っていたわ」
「ふふ、ありがとうパチェ。その気持ちは嬉しいです」
「……ふん」
ふと膝の上の目占が目を覚まし、ひょいと庭に飛び降りて阿求の足に身体をこすりつけはじめた。なんども、なんども。自分の匂いを阿求に刻みこむように。
「それじゃあ待ってるわ。この幻想郷で、いつまでもあなたを待ってる」
「でもわたし、男かもしれませんよ?」
阿求は目占を抱き上げて愛おしそうに撫でながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「関係ないわ。性別なんてただ身体の陰陽バランスがどっちに傾いているかだけ。そんなことで大騒ぎする人間のほうがよほど不思議ね」
「性格がきっと違います。もしかしたら次のわたしはすっごい嫌な子に変わってるかも」
「私が変えさせない」
「――え?」
吐き捨てるように云った私を、阿求は目を丸くしながら見下ろした。
縁側に座った私の前で、阿求は太陽を背負って立っている。逆光となった光線がその輪郭線を輝かせ、頬の産毛が金色に光っている。
そっと片手を伸ばしてその頬にふれると、しっとりと汗ばんだ肌が手のひらに吸いついてくるようだ。まるで私の手のひらを、逃がしたくないとでもいうように。
「あんまり私を甘く見ないで欲しいわね。ひとの性格を好きなようにねじ曲げる方法なんていくらでもある。私は――悪い魔女なのよ」
「そ、そんな無理矢理な……」
「例えばそうね――百年ほどしたら稗田の家に取り入って、私があなたの乳母になる。どうせあなたのことを愛してあげられない両親なんてどうでもいいでしょ? 代わりに私があなたを取り上げて、ぎゅっと抱きしめてあげるのよ。『ひさしぶりね、また産まれてきてくれてありがとう』って云ってね。それで私好みのあなたに育てあげるわ。どう、これ? いいアイデアでしょ?」
「あはは……なにそれ。全然悪い魔女らしくないですよ……」
頬に触れた手の上に、そっと阿求の手が重ねられる。とんと縁側に降り立った目占が、にやりと笑いながら尻尾を振り振り去っていく。
阿求はうっとりと目を細めながら、私の手に頬ずりをしている。やっぱりこの子は、私の手のひらを逃がしたくないのだと思う。
ならば洗脳してもいい。さらってきてもいい。
私は魔女らしい方法で、次の阿求を愛そうと思う。もう二度とこの子が寂しい子ども時代をすごさないで済むように。私と出会ったころのように、寂しさを心の奥底に閉じこめた悲しい子どもにならないように。たとえこの子が、私のことを綺麗さっぱり忘れても。
「どっちでもいいわ。とにかく次のあなたは絶対にひとりでは産まれない。暗闇を抜けてきたら最初に私の顔を探しなさいね。そこで私が見守っているから」
「パチェ……パチェ……」
感極まったようにしゃくり上げる声。指に伝わる熱い雫。
見上げると、阿求は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
震える唇、真っ赤になった鼻。長いまつげに雫が溜まり、こぼれ落ちた涙がぽろぽろと弾幕のように降り注ぐ。私は頬に当てた手で目尻の涙を拭うけど、拭っても拭っても溢れてくる涙は滝のようになっている。
「――ありがとう」
ふわりと、顔中が阿求で包まれた。
縁側に座る私の頭を、阿求は倒れこむように身体を投げだしながら抱きしめた。
その勢いを殺しきれずにごろんと縁側に転がって、上になった阿求の身体を抱きかえす。
私の頭を抱えこむ阿求の腕。ぐりぐりと顔に押しつけられる阿求の胸。阿求の匂い。阿求の声。阿求の体温。阿求の感触。きっと今この瞬間しか感じられない、阿求のすべて。やがて失われることが決まっている、私が愛したただひとりの人間。
ぎゅっと抱きしめた身体は相変わらず細かった。
けれどそれは、あの頃みたいな今にも折れそうなほどの細さじゃない。
それはしなやかな芯の強さを感じさせる、竹のような柔らかさ。私と出会ってからのこの数年、色々な妖怪と出会って友だちになり、たくさん笑ってたくさん泣いた阿求の、しっかりと中身が詰まった人間の細さだ。
「ひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」
涙声でささやく阿求に、私はうなずいて応える。
「いいわよ、なんでも云いなさい」
「最後まで――そばにいて」
「……もちろんよ」
断るつもりなんてまるでなかった。
断っていいような場面でもなかった。
けれどやがて私は、このときうなずいたことを後悔するはめになる。
6
稗田の霊廟がある山は、本宅から丑寅の方角にあった。
垂直に凜とそびえる檜林の中、それは深閑と佇んでいる。
金剛力士の守る仁王門、持国天と広目天の守る二天門、毘陀羅《びだら》、阿跋摩羅《あばつまら》、鍵陀羅《けんだら》、烏摩勒伽《うまろきゃ》の四夜叉が守る夜叉門を潜り抜け、長い長い石段を登り、俗世のしがらみと体力と気力が漂白されて喘息の発作が出はじめたころ、ようやく豪奢な唐様建築の本殿にたどり着く。
「飛んでくればよかったのに……」
「そ……そんなわけにもいかないでしょ……人間が歩いて潜りぬけていくように……作られてるんだもの……せっかくの美術的建築物……ちゃんと味わわないと……」
ぜーぜーと荒い息を吐きながらうずくまる私に、阿求は呆れ顔だった。
「はぁ……最近なんでパチェが外に出ようとしないのか、やっとわかってきましたよ。目の前になにかあったら完全に探求しきらないと気が済まないんだ。でもそれじゃどこにも辿り着けないから、自分の領土を定めてそこからでないんですね」
「そ、そうよ……今ごろわかったの?」
「いばるようなことですか」
「それで……そんな私が目下探求中なのが……稗田阿求っていうわけね」
「上手いことお世辞云っても駄目です。いい加減自分の限界もわきまえてくださいよ。あなたに先に逝かれたらわたしはどうしたらいいんですか」
そう云って溜息を吐いた阿求の、白装束が目に眩しい。薄暗い拝殿の中浮かび上がるその白は、まるで朝まだきに光る蛍のようだった。
凜と伸びた背筋は参道にそびえる檜のようで、身に纏った清廉な空気は聖地に咲いた百合のよう。死装束に身をつつんだ阿求は、すでにしてこの霊廟と一体となっているかのようだ。
「わたしを取り上げてくれるっていう約束……忘れてませんからね」
「ええ、忘れられたら困るわ……魂に刻みこんで、来世までもっていきなさい」
開け放たれたふすまのむこうに、青く澄んだ空が広がっている。
見下ろす下界で、里の家々から炊事の煙が上がっていた。
この稗田の霊廟は、代々の御阿礼の子が転生の儀式を行って死ぬ場所だ。
山中の異界にあって、なかば彼岸に足を踏みこんでいると思えるほど生の気配に乏しい。聞けば元々は本来の目的どおり阿礼の霊廟だったらしいから、およそ千二百年前の建築物ということになる。
三つの門に鼓楼と鐘楼、本殿の他に庫裏も備えた寺院建築で、金物や彫り物などで装飾された唐破風、拝殿に設けられた螺鈿細工の須弥壇、ふすまや天井を金泥で彩る仏画など、なかなかに優美な佇まいだった。
燭台の灯っていない拝殿はお昼時であっても薄暗く、阿求とともにぼんやり座っていると、次第にしきつめられた青畳が海原のようにも思えてくる。しんと静まりかえった本殿の空気はどこか図書館にも似ていて、あまりになじみ深い雰囲気にそうそうに気が抜けてしまった。
考えてみればそれもあたりまえの話で、図書館も墓所も等しく霊を祀る場所なのだ。墓所においては霊魂を祀り、図書館においては言霊を祀る。それはどちらも同じように尊くて、どちらも同じように死んでいる。
「これで床が絨毯だったらより落ち着くんだけれど……慣れないわね畳は」
「ふふ、正座が辛いようでしたらあぐらでも大丈夫ですよ」
「ワンピースであぐら? 冗談じゃないわ、はしたない」
「いいじゃないですか少しくらい。いまさらドロワがみえたところで恥ずかしがるような仲じゃないでしょう?」
「気分の問題よ、気分の。ねぇ、どこかに椅子ぐらい用意してないの?」
いたずらっぽく笑う阿求に、つんと顎をそらして鼻をならす。だらだらと話をしているうちに、喘息の発作はいつのまにか治まっていた。
「あるわけないじゃないですか。パチェも紅魔館で居心地悪かったわたしの気分を味わえばいいんです」
「ああ、そう云えば最初のころはずっと椅子に正座してたわね、あなた」
「ええ、懐かしいですねぇ……」
しみじみとつぶやいて、阿求はうっすらと笑った。
「あのころのパチェは、なに考えてるのかさっぱりわかりませんでした。楽しく喋っていたと思ったら急に機嫌悪くするし、わたしに興味をもってくれてると思ったらいきなり追い出そうとするし……」
「ふん、それはこっちの台詞だわ。千二百年生きてるっていうからそのつもりで対応してたら、子どもみたいに泣き出すんだもの。なにがなんだかわからなかったわよ」
「なるほど、要するに全部文さんが悪いんですね」
「ええそう、全部天狗が悪い」
そんなことを云って、ふたりでくすくすと笑いあう。
こんな風にいつでも笑いあえるような思い出ならいっぱいあるし、きっとこれから先だって作っていける。
なんと云っても私たちが出会ってから二年と少しが経つけれど、阿求がこの世界からいなくなるまではまだ三年の月日が残されているのだ。
それはこの霊廟から一歩も出られない阿求にとっては辛い月日かもしれないけれど、かんがえてみれば阿求が紅魔館に通っていたころだって私はほとんど図書館から出なかった。
だからこれからは、今までの日々がただ逆転するだけだ。
阿求がそうしてくれたように、今度は私がこの霊廟に通えばいい。
阿求に会うために、阿求のすべてを思い出の中に残すために。
その場所から一歩も動けない恋人の元へ、病弱な身体にむち打って会いに行く。
――最後まで、そばにいるために。
そうやってふたりですごしていると、ふと拝殿側廊の階段がぎしりと軋む音がした。閻魔でも到着したかと思って探ってみるけれど、魔力の気配はまるで感じない。
「パチュリーさま? お加減のほうはいかがでしょうか?」
はたして拝殿に入ってきたのは、着物をきたあまり見覚えがない人間だ。歳のころは四十半ばと云ったところだろうか、鼻眼鏡をかけた実直そうな男で、盆にお茶とお茶菓子を載せて持っている。
「ああ、もう治ったわ。気にしないで」
一瞥だけして、ふわりと天井まで浮き上がる。稗田の人間と話をすることなんかより、天井画の筆さばきを近くからみてみたかった。あの鮮やかな青は、一体なにを使っているのだろう。
「本当に気にしないでください阿薫、あのひとはああいうひとなんです」
「ははぁ……。なんにせよお元気になられたようで重畳です」
ちらりと地上を眺めると、阿求は男を前にして穏やかな笑みを浮かべている。
「どうでしょう、いまのうちにお茶菓子など」
「いまのうちですか」
「ええ、いまのうちです」
――盆を差しだした男の眉は、悲しそうに歪んでいた。
阿薫は、この霊廟を管理している稗田の侍真だ。阿求の話にもときどき登場してくる人物で、御阿礼の世話係のようなものらしい。私が喘息の発作に苦しみながら唐門を潜ったときにも現れて、阿求を呼びにいってくれた。
けれど私は、阿求以外の稗田のことなどどうでもよかった。いや、どちらかというと積極的に嫌っていた。阿求に転生という選択をつきつけているのは稗田の人間だと思っていたし、なにより私が知らない幼い頃の阿求を見ているというだけで、嫉妬心が沸き起こる。阿求の話には、阿求自身を描写する三人称視点はありえなかったから。
「パチェ、パチェもどうですか? そんな絵のことなどこれからいくらでも眺められますよ」
「……ふん」
仕方なく鼻を鳴らして下りていき、阿求の隣に正座する。侍真がおずおずと差しだした湯飲みを手に取って、阿求の飲み方を真似てこくりと口に含んでみた。
「苦い」
その瞬間、阿求がぷっと噴きだした。
「それにぬるい。こんなのお茶の温度じゃないわよ。第一この湯飲みって容器にはどうして取っ手がついてないわけ? 手が熱くなるじゃない。その分厚みはあるようだけれど、おかげで重いしでかいし優雅じゃない。まったく気が利かないわね」
「は、はぁ……それは申し訳ありません……」
目を白黒させる侍真を尻目に、阿求は身体を折り曲げながらけたけたと笑いはじめた。
「あはははははは! あ、阿薫、基本的にこのひとの話は、右から左に聞き流すようにして。それにしてもパチェったら、あははははははは! お、お腹痛い!」
阿求はひーひー笑いながら目尻の涙をそっと拭う。そんな彼女の頭で、彼岸花のかんざしが揺れていた。どこもかしこも白い阿求の装いの中で、その一点だけがとても赤い。
薄暗い室内とは対照的に、ふすまのむこうの空は晴れ渡って輝いている。きゃらきゃらとかまびすしい阿求の笑い声が、煙が立ち上るように青に吸いこまれて消えていく。
稗田の侍真は、笑い転げる阿求を眺めながらぽかんと呆気にとられた顔をした。
そうして、困ったように笑う。
「――なるほど、これは敵わない」
ざわと梢を揺らしながら吹きこんでくる風は、夏の終わりを感じさせて少し涼しい。
今日は、阿求の葬式なのだった。
* * *
「このたびはまことにご愁傷さまでした、あっきゅん」
「これはこれは、ご丁寧なご挨拶痛みいります、こぁちゃん」
そんな格式張った挨拶をして、こぁと阿求はにっと笑った。
「ねぇお姉さま、ごしゅーしょさまって誰のこと? あきゅんどしたの?」
「なぁにフラン、そんなことも知らないの? ご愁傷ってやつはね……えーと教えてあげて、咲夜?」
「少なくとも人名ではありません。わかりやすく説明するなら、お気の毒にとかそういう意味でしょうか。まあ、お葬式のときの決まり文句ですわ」
「お葬式!? え? あきゅんいつのまにか死んでたの!?」
フランは目を丸くしながらそう云って、ぱたぱたと阿求の前まで駆けてくる。羊羹をつまんでいた阿求の手をぎゅっと握ると、安心したように笑って頬ずりをした。
「なんだ、生きてるじゃん」
「ええ、生きてますよ。でもこれから転生の儀式に入るんです。それでもうひととしては死んだようなものなので、前もってお葬式をしておくんですね」
阿求はにっこりと笑いながら羊羹を食べようと手に力を入れる。けれど吸血鬼の細腕はびくともしなかった。
「ほー、人間って変なことするんだねぇ」
「ですねぇ。ひととして生きていると色んな境界線があるんですよ。生きてるとか死んでるとか、人間だとか妖怪だとか。今日はひとまずその線を引く日なのです」
「ふーん、あきゅんはあきゅんなのにねぇ?」
「――そうですね」
フランは阿求が手にしていた羊羹にぱくりとかじりつき、側廊で垂木の意匠を眺めていた美鈴の元へと戻っていく。あの子はあの子で、故郷から伝来した唐様建築の変遷に興味があるのだろうか。もしかしたらいつもの癖で、拝殿を外で守ろうとしているのかもしれないが。
「ははっ、中々に楽しそうですね紅魔館のひとたちは。直接お会いしたのははじめてですが、噂とは随分違うな」
阿求の隣に座っていた上白沢慧音が、そんなことを云ってずずとお茶をすすった。
さすがに座り慣れているのだろう、正座した背筋はぴしりと垂直に伸びていて、どこか青竹の佇まいすら感じさせる姿だった。
「まあ、基本的にうちの住人は全員ひきこもりだから。こんな真っ昼間に全員でてくるなんて、幻想郷にやってきて以来はじめてかもしれないわよ」
「まあああ、その中でも自分が一番のひきこもりの癖に、よく云いますねぇ。わたしがどれだけ苦労したことか」
「なによ阿求、また昔の話を蒸し返すの? 別に自分を除外して云ったつもりはないわ、まぜっかえさないで」
「――ふふ、なるほどなるほど」
そんな私たちのやりとりをながめながら、ワーハクタクは先ほどの侍真みたいなことを云う。なんだか色々とみすかされている気がして、思わず顔が熱くなる。ちらりと隣をみると、阿求も恥ずかしそうに頬を染めていた。
「なにがなるほどなんですか慧音先生。そのいやらしいニヤニヤ笑いやめてください」
ぷっと頬を膨らませる阿求に、ワーハクタクは弓のように吊り上がった唇を隠そうともしなかった。
けれど私には、その笑みがいやらしいニヤニヤ笑いのようには思えない。それはむしろ、成長した我が子を見た母のような顔だった。
「いえ、ね……覚えてますか阿求。先代と先々代がこの日をむかえたときのことを」
すっと立ち上がって側廊に歩いていくワーハクタク。私たちに背中をむけながら、欄干に手をついて空へと視線をむける。
「あいにくと覚えていませんけれど……それがなにか?」
「私が知っているのはそのふたりですが、ふたりともこの日はどこか悲壮な顔をしていましたよ。それはなにか大きなもののために自分の意志を押しつぶそうとするような顔でした。たとえるなら、親が決めた相手のもとに嫌々ながら嫁いでいく女のような」
「……そうですか」
「私はなんどとなく思ったものです。いっそこの場で本当にこのひとを殺してしまおうかと。人里を守護するものとして、ひとがひとならざる道を歩もうとするのを防ぐのも、またひとつのやりかたなのではないかとね」
まるでこの場にいない誰かのことを思い浮かべているような、そんな口調で。
張りのある落ち着いた声に深い叡智を宿し、里の賢者は語った。
「それで――今のわたしがどんな顔をしているって云うのでしょう」
小首を傾げながら問う阿求に、慧音はくるりとふりかえって破顔する。
「たとえるなら、思いを決めた恋人と結婚する女のような顔をしてますな」
「――まあっ!」
その瞬間ぼしゅうと湯気が出そうなほど赤くなった阿求が、ちらりと私のことをみた。
正直、そんな艶やかな表情で私のことをみるのはやめてほしい。こっちまで恥ずかしくなってきてしまう。
「ふふ、別にそのひとと結婚するなんて云ってませんが。転生の儀式に臨む心構えの話ですよ?」
「――あ」
やられたぁとつぶやいて、阿求は顔を隠すように床につっぷしてしまった。
勝手に勘違いして勝手にやられて、忙しいことだと私は思う。
むしろやられたと云いたいのはこっちのほうだ。こんなところで無類に可愛いところをみせられても、愛でることすらできやしない。
「ははははは、そんなうずくまってないで、顔を上げて空をごらんなさい。そら、これがあなたがしてきたことですよ」
そんな慧音の声に、阿求と一緒に顔を上げて空を見る。
――高く澄んだ大空に、黒いひと影が大量に浮いていた。
ひとりやふたりではない。十人、二十人、三十人、もっとだ。
やがてそのうちのひとつがみるまに大きくなっていき、箒にまたがる霧雨魔理沙の姿をとった。矢のように一直線に飛んできた魔理沙は、欄干の手前でぴたりととまる。
「よう、きたぜ阿求。それにパチュリー。生前にお葬式なんて、さすが格式ある旧家は変なことするな」
「魔理沙さん……ありがとうございます。でも霧雨家も阿余のころから続く伝統ある大店ですよ、たまにはお父さまにも顔をみせてあげてくださいな」
「ふん、とりあえずお礼は云うわ。あんたの葬式にも行ってあげる。貸してた大量の本を取り立てにね」
「うおっと、とんだやぶ蛇だった!」
帽子を押さえながら方向転換をして、魔理沙は箒を記帳台がある唐門にむける。それをみつけたこぁが、やいのやいの叫びながらクナイ弾を投げつけていた。
そうして阿求がくすりと笑ったその瞬間、拝殿にぶわりとつむじ風が巻き起こる。
思わず閉じた眼を再び開けると、そこに射命丸文が浮いていた。
「あやややや、トップをとられるとは不覚……ってありゃ、みなさんもうおそろいで?」
「ああ、これはどうも文さん。大丈夫、弔問のお客さんでは二番目ですよ」
「ふん、よくぞこの私の前に顔をだせたものね天狗。また焼き鳥になりたいの?」
私はゆらりと立ち上がって魔力を放射する。天狗は慌てたように団扇を振って、つむじ風を再び身にまとう。
「ひーっ! 魔女の恨みはしつこいっ!」
そんな言葉と風だけを残して、射命丸文は再び消え失せた。
やがて他のひと影たちもどんどん大きくなっていく。誰もが知っている大妖や、取るに足らない妖精、神や妖獣や幽霊や悪魔、あるいは人間など。
その空を指し示すように腕をふりあげながら、慧音が云った。
「ごらんなさい、この数を。前回も前々回も、こんなにたくさんの妖怪たちが集まることはなかった。これこそあなた個人が成し遂げた功績です。ひとと妖怪の間に位置し、生と死の間を渡り歩く境界の記憶、稗田阿求のです」
その言葉に、阿求と顔を見あわせながら笑いあう。
「――はい」
うなずいた彼女の目尻に、涙の珠が浮かんでいた。
相も変わらず日傘を差した風見幽香。
阿求が髪に挿した彼岸花を指さし、「やっぱりあなたには乙女椿のほうが似合っているわ」と口惜しそうに云った。
人形を引き連れたアリス。
「またパチュリーにロリ服着せて遊びましょう」と、共犯者的な笑みを阿求と交わしあっていた。
伊吹萃香をまとわりつかせた霊夢。
「タダ飯を食いにきたわよ」と霊夢が云って、「タダ酒を飲みにきたぞ」と萃香が云った。
冥界の嬢、西行寺幽々子と庭師の魂魄妖夢。
「今度は冥界にこられればいいのにねぇ、またあなたと一緒に桜でもみたいわ」
そう云った嬢に、阿求はこの日はじめて悲しそうな顔をした。
「そうできたらわたしも嬉しいですけど……無理ですよ。転生の儀式を行った者は有罪――地獄行きと決まってますから」
「そうなの、残念ねぇ。あの杓子定規な閻魔さんじゃ温情も期待できないし……つまんないの」
ぷいと顔を背けて浮いていく主人の代わりに、妖夢がぺこりと丁寧なお辞儀をした。
そうして頭巾つきのマントで顔を隠したふたり組。
「さとっ……」
叫ぼうとして、阿求は慌てて口を塞ぐ。どうしたのかと思って首をかしげていると、頭巾の片方がすっと阿求の前までやってきた。
「まさかきてくれるなんて――って思っていますね」
「ええ、そうです――と思ったこともわかっているんでしょう?」
にっこりと笑う阿求に、頭巾その一が嘆息するようにつぶやく。
「自重しようと思っていたのですが、どうしてもこいしが抜けだしてしまうので、一緒にきたんです」
その瞬間、もう片方の頭巾ががばりと阿求に抱きついた。慌てる頭巾その一をよそに、子どもみたいに地団駄を踏みながらぐりぐりと頬をこすりつけている。
「ああん、御阿礼ひさしぶり。またこっそり抜けだして地霊殿に遊びにきてよぅ。抜け道は開けとくからさ」
「あ、こら、そんなこと大声で……」
その二をひっぺがえすように引き離すその一。ちらりとこちらに視線をむけて、頭巾からみえるくちびるをにんまりと曲げた。
「――ひとのものに手を出すなって思っていますね、素敵です。あなたはパルスィと気が合いそう」
「べーっだ!」
舌を突きだしたその二の首根っこを掴んで、頭巾たちはふよふよと唐門のほうに飛んでいく。どうやら片方は地底のサトリらしい。もう片方は知らないが、眷属かなにかなのだろうか。あとで図書館で調べて見ようと思いながら、ニヤニヤと笑って顔を覗きこんでくる阿求にデコピンの雨を降らせた。
その他にも、たくさんの妖怪や神や妖怪めいた人間たちがやってきた。
光学迷彩スーツに身を包んだ山の河童、遠くでくるくる回るだけで近づいてこない厄神、聞き惚れるような美声でとんちんかんな歌を唄う夜雀、永遠亭の姫と月の頭脳と二匹の兎、黒い毛玉のようになった闇妖怪、騒がしい音をたてる騒霊三姉妹、目占と尾白を背中にしがみつかせながら飛んできた橙、ぶんぶんと蜂のような羽音をたてる虫の王。
そうすると、騒ぎに気を惹かれて妖精たちもやってくる。チルノやよく湖でみかける大妖精、紅魔館に忍びこもうとしては美鈴に叱られている光の三妖精、その他のさまざまな自然を司る天真爛漫な妖精たち。
ひとりですごすには広すぎると思った霊廟も、たくさんの妖怪や妖精、里からの参列客などで賑わっている。稗田の侍真はてんてこまいで駆け回り、手伝いの女や男たちも酒や食べ物の用意で慌ただしい様子だった。
「――そろそろですか?」
ふと中天にさしかかった太陽をちらりと眺め、慧音が云った。
「ええ、そろそろでしょう」
死装束の襟にすっと手を入れて直しながら、阿求は応える。
そうしてそのとき、霊廟にゴンゴンと鐘の音が鳴り響いた。
それは十二時を告げる鐘の音。
途端に霊廟の空気が三度ほど下がった気がした。
ざわついていた境内もしんと静まりかえり、しわぶきひとつあがらなくなった。力ないものはその気配に怯え、力あるものは自分の罪の重さを考えて、居心地悪そうに眉をしかめる。そんな人妖たちの間で、漂う霊力を感じとれない人間たちがきょとんとした顔を浮かべていた。
――位相が、変わる。
山中の異界にあり、半ば彼岸に足を突っこんでいたこの霊廟が、すぱりと境界を引かれて彼岸そのものに変わっていく。
阿求はすっくと立ち上がって境内に下り、唐門の裏側、丑寅の方角にある皇嘉門へとむかっていく。その先にある奥の院は歴代の御阿礼の位牌が安置されている場所で、普段は使われることがない閉ざされた空間だ。
その皇嘉門の扉が、キィと内側から開いていく。
ぶわりと漂う彼岸の風に、周辺の木々に宿っていた曖昧な妖気が、あるものはぽんと妖精に変わり、あるものは妖気を奪われて無害で無力なただの木に変わる。
この女の前で、曖昧な存在は許されない。
妖精と妖精らしき妖気の塊など、元々は明確な境界線があるようなものじゃない。自然界に存在するさまざまな力のたわみや潮溜まりのような煮こごりに、ただなんとなく妖精の姿を感じ取っているだけだ。
――けれど彼女は、そこに明瞭な線を引く。
妖精らしきものは妖精に。
妖怪らしきものは妖怪に。
自然らしきものは自然の元に。
ひとらしきものはひとの世界に。
死にかけたものは死へと誘う。
一本の硬質な境界線、それが彼女だ。
「――おつとめご苦労さまです。四季映姫さま」
「そちらもね、阿礼。このたびの生も、あなたはよく生きた」
死神を従えた四季映姫ヤマザナドゥが、境内を見回してにこりと笑った。
7
そうして、宴が始まった。
阿求を送るための――宴が。
元々日本の葬儀では、死者を送ったあと残された者たちで酒を酌み交わすことが通例と聞く。けれど御阿礼の場合、葬儀が終わってもまだそこに立って歩いている。いくら建前上は死んだ人間として扱うとはいえ、そこにいる御阿礼の前で本人を肴にして飲み食いするのも変な話だ。
だから結果的に転生の儀式は葬儀とも祭礼とも云えぬ不可思議な物となり、また捨食の法を受けて絶食する御阿礼の最後の晩餐会ともなった。
つまり、宴である。
トンテンカンカンと、参道のほうから聞こえてくるのは太鼓と鉦の賑やかな音色。高く掲げられた幟や提灯を風にはためかせ、稚児や猿田彦が踊りながらやってくる。艶やかな衣装に豪奢な神輿、里者たちの渡御行列だ。
本来神輿に乗るべき阿求がここで神楽舞を眺めて微笑んでいるのに、あの神輿には一体誰が乗っているのだろうなんて思う。
けれどそんなことは誰も気にしない。
今この場所にあるのは、祝祭の昂揚と儀式のもたらす一体感。それだけだ。
「――正直、いつ四季さまにとびかかるかと気が気じゃなかったですよ、レミリアさま」
「ふん、いくら私だって空気くらい読むわよ。十王ですらない閻魔をひとり倒したところでなにも変わらないしね」
「なんだ、わかってるじゃん。実は私もちょっと身構えてたわ」
「なによパチェまで……ちぇ、信用ないんだな」
そう云って、レミィはぐいとワインを傾ける。
ちらりと阿求に視線をむけると、彼女はおどけるように瞳をくりりと回転させた。その頬が、日本酒の酔いで桜色に染まっている。
ピーヒャラヒャララと聞こえてくるのは、高い舞台の上で奏でられる神楽囃子。茣蓙に座って見上げれば、そこで霊夢が巫女神楽を舞っている。
ゆったりとした動きで、くるくると扇を回すその指先。シャンシャンシャンと鉦が鳴れば、扇の回転はよりいっそう速くなる。けれどその身体の動きはどこまでもゆるやかで、静の中にも動を感じられる不思議な舞だった。
普段はやる気なさそうに縁側でぼーっとしている霊夢なのに、こうして舞台の上で神楽などを舞っていると心なし美しくみえた。
どんな人間にも、隠された意外な一面があるものだ。ふいにみせられたその一面が普段と違っていればいるほど、そのギャップに惹かれたりもするのだろう。もっとも、神楽を舞っている姿を意外に思われている時点で、巫女としてどこかおかしい。
「――どう、阿求? 食べてる?」
そのとき、人波をぬって咲夜がやってきた。
「あ、咲夜さん。ええ頂いてます……ってなにやってるんですか」
普段どおりのメイド服に身を包んだ彼女は、両手に料理をのせたお盆をもっていた。
「なにって……給仕よ?」
「えー。咲夜さんだってお客さまなのに……」
「あら、好きでやってることよ、気にしないで」
そう云って、咲夜は阿求の前に巨大なお盆をどんと置いた。大皿の上には、今にも空へ飛び立とうと翼を広げた北京ダック的な何かが乗っている。
「わぁ、フグダックだ! 嬉しい!」
この創作中華と呼ぶのも気が引けるゲテモノ料理を、なぜか阿求は大好きなのだった。
「あら、美味しそう……わたしもいただいていいかしら?」
「ちょ、ちょっと幽々子さま、失礼ですよ」
横から現れたのは冥界の嬢。妖夢が困り顔でその腕を引くけれど、嬢はまるで頓着した様子をみせない。そんなふたり組に、阿求はにっこりと笑顔をかえす。
「ええ、一緒にいただきましょう、幽々子さま。半分こでいいですか?」
「そうね、そうしましょう。妖夢お願い」
「は? なにをですか?」
「んもう、気が利かない子ね。その楼観剣は飾り? ちゃちゃっと切っちゃってよ。色んなもの斬れるんでしょ、それ」
「えぇー……確かに斬れないものはあんまりないですけど、斬りたくないものならたくさんあるんですが……」
そんなことをぶつぶつとつぶやくけれど、嬢はまるで聞く耳をもたずに流し目をくれるだけ。妖夢は諦めたように溜息を吐くと、そっと目を瞑ってカチリと鯉口を切った。
瞬間一陣の風のようなものが吹く。
まばたきをひとつするほどの刹那の間に、抜刀された楼観剣はフグダックを両断し、皿の上数ミリでぴたりと止まっていた。
周囲からあがる「おぉー」という感嘆の声。妖夢は照れた様子で油を拭いて、刀をチンと鞘に納める。客を奪われる形になった霊夢が、壇上で少しだけ嫌そうな顔をした。
――笛の音、太鼓のリズム、拍手と喝采。
見回す周囲のひとびとはみな楽しそうに笑っていて、さっきまで不愉快そうな顔をしていたレミィも、霊夢の舞を眺めて口角をきゅっと上げている。阿求は幸せそうにフグダックにぱくついていて、咲夜がそんな彼女をうっとりとした眼差しで眺めている。
私はそっと魔力を隠して、その場から抜けだした。
人波の間をぬって、あの女の元へとむかっていく。
酒臭い息、大音量の笑い声、ふらふらとゆれる危なっかしい動き。
すれ違う酔っぱらいたちに少女らしいところなどかけらもない。幻想郷の妖怪たちは、酒を飲めば誰もがみなおっさんに変わる。
けれどそれで当たり前なのだ。少女らしいだとかおっさんらしいだとか、一体誰が決めているというのだろう。どうしてそんなものを守らねばならないのだろう。
社会という大きな河の流れに逆らえない人間なら、大勢にあわせて自分の形を作り変えることもあるのかもしれない。けれど個が個として自立している妖怪にそんな必要はまるでない。
妖怪は、ただ自分がそうであるように在るだけだ。男だとか女だとか、子どもだとか大人だとか、そんな誰かが決めた境界線に関係なく、ただ個人が個人として在るだけだ。
五百歳の幼き月のように。半人半妖の慧音のように。
――けれど。
そこにすっぱりと境界を引くものがいる。ひとをひととし女を女とし、罪を罪とするものがいる。
楽園の閻魔。四季映姫・ヤマザナドゥ。
私は彼女にどうしても聞いておかなければいけないことがある。あの子が失われるということを納得し、受け容れるために。
「――パチュリーさま」
隣にすっとこぁが現れて、私の腕を掴む。一瞬引き留めようとするのかと思ったけれど、彼女は掴んだ腕を無言で胸に抱えこみ、私と一緒に歩きはじめた。
――本当におせっかいな、困った悪魔。
どうして私はこの子じゃなくて、阿求に恋してしまったのだろう。そんなことをふと思う。
考えてみれば少し不思議だ。私はこの子にずっと好意をもっていたし、この子だって同じだったはずだ。なのに私はずっとそばにいるこぁではなくて阿求を選んだ。それは一体なぜだろう。ひとを好きになるということはなんなのだろう。
少し考えてみても答えがでなくて、私はその疑問を捨て去った。きっと解き明かさないほうがいいこともあるのだ、この世には。
歩いていくと、ひときわ野蛮な囃し声が耳に飛びこんできた。わっとあがる歓声、やんややんやとやじる声、ピーピーと鳴る口笛の音色。
前方をみやると、急ごしらえの土俵の上で奉納相撲が行われているようだ。ちょうど勝敗がついたところらしい。山の河童が勝ち誇った顔で立っていて、その足下でチルノが大の字になって伸びている。行司役らしい射命丸文が、軍配の代わりに葉団扇を振り回しながら叫んでいた。
「――さぁさぁ突発勝ち抜き奉納相撲大会、ただいま河城にとりが五連勝中! 果たして次の挑戦者は一体誰か! 優勝者には文々。新聞一面に五段ぶち抜きで掲載されるという栄誉が与えられますよ!」
調子にのってまくしたてる天狗だったけれど、正直そんな栄誉はいらないと思う。というかすでにそれは奉納相撲ではない。
けれどそんなことは誰ひとり疑問に思わないらしい。次に意気揚々と土俵に上がったのはなんと伊吹萃香で、その瞬間河童と天狗の顔が面白いように青ざめる。
途端に湧き上がる笑い声、囃したてる歓声。
「下克上だー!」「やっちゃえー!」「弱点は煎った豆だー!」などという無責任な野次の中、ふと「白黒つけてやれー!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
そちらに視線をむけると、楽しげに囃したてる四季映姫の姿があった。
「いた……でも小町がいないわね。どこにいってるんだろう」
「あ、あそこ。参加希望者の列でしょうか、椛さんと話してます」
「そう……悪いけどこぁ、あれを引き留めててもらえる? 邪魔されたくないから」
「わかりました」
こぁが死神に近づいていくのを横目で眺めながら、閻魔の所にむかう。茣蓙に座ってちびちびと黒酒を傾けていた四季映姫が、ふと射した影に気がついて顔を上げた。
「あら、パチュリー・ノーレッジ? なにかご用ですか」
「ええ、少し――話があるの」
「――そう」
うっすらと笑いながら、四季映姫は立ち上がる。
その白皙の面に浮かんだ笑みは異様なほどに左右対称で、やはり私はこの閻魔のそんなところが気にくわない。
* * *
「一体なんのお話ですか? まあ大体見当はつきますけどね」
「それはよかった。話が早くて助かる」
霊廟の敷地から離れ、森の中に連れこんだ。
森は密生した檜が作り出す木下闇で薄暗い。けれど目の前に立つ閻魔の背筋はどんな幹よりもぴんと伸び、その白い肌は闇を照らして輝くかのようだ。申し訳程度に生えている下生えの中に彼岸花が咲いていて、それで私は阿求の顔を思い浮かべる。
つつと背筋を汗がつたっていく。森の中は暑い。
「――あの子を無罪にして」
「できません」
まるで用意していたかのように即答する閻魔に、一歩詰めよる。
「なにも極楽へ行かせろなんて云わない。あの子自身がまた幻想郷に戻ることを望んでいるんだもの。でもどうして地獄に落とされないといけないのよ。なぜ冥界で静かに転生までの刻をすごすことができないの?」
それがわがままだということはわかっている。
けれど私はどうしても納得することができないのだ。
阿求が死んでしまうことは受け容れた。やがて転生して記憶を失ってしまうことも受け容れた。
けれどなぜ、優しいあの子が地獄なんかに堕ちないといけないのだろう。里という社会の中で、稗田という家の中で、転生という選択を否応なく強いられたあの子が。
確かにあの子はそれを自ら選び取った。慧音が云ったように運命を望んで受け容れて、私の前で笑いながら白装束に袖を通した。
けれどその選択は果たして公正なものなのか。
まっさらな魂が欲望に任せて罪を犯すのとはわけが違う。産まれもった家、記憶、義務と責任と能力。それらに誠実にむきあって選択した転生という道が、なぜ地獄に落とされるような罪なのか。
果たして罪を犯したのは誰だろう。阿礼か、阿一か、阿七か、阿弥か。それとも稗田の者たちか、あるいは幻想郷に生きるすべての人間か。
――それは本当に、阿求の罪なのか。
私はそれを、この閻魔に問いたかったのだ。
「転生の法は外法です。生まれ変わる魂はまっさらな状態でなければならない。それは彼岸と此岸を回していくための大前提。今のように地獄行き程度の罪で見すごされている時点で、阿礼は十分に情状を酌量されているのですよ」
ゆらぎもせず、じっとこちらを見据えて閻魔は云う。
けれど私はゆっくりと首を振りながら、また一歩足を踏みだした。
「そんな言葉が聞きたいわけじゃない。わかっているでしょう? 転生が罪だというのなら、なぜあなたがこうして出張ってきて手伝うのよ。あなたはあの子が罪を犯すのを幇助している。違う?」
「違いますね。私がほどこすのはあくまでも霊廟を清め霊界と直結させるための結界です。それを阿礼が転生の術に利用することは、私とは関係がない」
眉一本動かさずぬけぬけと云い放つ、その鉄面皮が心底嫌いだ。
御阿礼と是非曲直庁は取引をしている。御阿礼が『幻想郷縁起』で人々を救うことの代わりに、転生を黙認するという司法取引だ。
そのためにわざわざこうやって閻魔をよこして手伝っているというのに、その罪を阿求ひとりに押しつけて、あまつさえ関係ないなどと白を切る。
――反吐が出る。
やはりこいつは、私の敵だ。
「ふん、とんだ白黒つける能力もあったものだわ。自分で云っていて良心が傷まないの、あんた」
「なんとでもおっしゃい。法令にも判例にも反してはいません。これは彼岸も此岸も阿礼自身も納得ずみのこと、私の意志など問題ではないわ」
「でも、判決をくだすのはあなたでしょ」
身体の裡で魔力を練り上げながら、一歩一歩近づいていく。
近づけば近づくほど、四季映姫の輪郭が一層際だっていくように感じる。それはぼやけたところが一切無い明確なエイリアス。まるで鉱物のように明瞭に区切られた輪郭線。
「ひとを裁くのは法であり司法機関です。私個人ではない」
「はっ、なんてくだらない形式的法治主義。ひとびとをよく活かすために法があるんでしょう? 法のためなら不幸になる人間がいてもいいってわけ? 今の閻魔王は韓非子かなにか?」
「彼岸の裁きはシステムとしてのそれです。生活者の最大幸福を得る手段ではない。なので法を絶対としてそこに価値判断を挟まない、法治主義のほうが適しています。あと、韓非子は前代の秦広王」
そう云って、四季映姫はにっこりと左右対称の笑みを浮かべる。
その笑みが、ひどく嫌だった。
そのはきはきした口調も、ぴんと伸びた背筋も、微塵もゆらがないところも、嫌だった。
けれどなにより許せないことを、この四季映姫は私の前でする。
「いくら私につめよっても、阿礼は救われませんよ?」
「――阿求を!! あの子のことを、阿礼だなんて呼ぶな!!!!」
喉が張り裂けんばかりの大声で叫ぶ。
自分の口からでたのが信じられないほどの怒号に、そこかしこで鳥や動物たちが逃げていく。膨れあがる魔力を自分で制御できなくて、溢れた力で髪の毛がぶわりと広がった。
「――短気」
閻魔は悔悟棒を懐からとりだし、さらりと筆を走らせる。
「自分の小さな脳髄から一歩も外に出ず、ただ知識を貯めこんで悦に入る。あなたの世界には無限に膨れあがった自意識しかない。自己中心的でわがまま、自己愛の塊ね。本当の意味での他者をしらないから、たまたま飛びこんできたあの子のことを自分自身の中に取りこんで――傷つけられると怒る。それは本当に、あの子のための怒り?」
「黙れ!」
「そう――あなたは少し、他者というものを知る必要がある」
ぶんと悔悟棒を横に一閃。
放たれた私の罪がほとばしり、さきほどまでいた空間を薙ぎ払う。巨大な木々が何十本と地響きを立てながら崩れていった。
けれどその音は森の外には聞こえない。
そのために、今日はレミィたちより先にひとりでやってきたのだ。ここに閻魔を迎え撃つ結界を張るために。
「む、結界!――なるほど、準備万端ということですか」
頭上の梢に降り立った私を見上げ、閻魔が笑う。その身裡に、輝かんばかりの硬質なエネルギーが湧き上がっていくのがわかる。
「そうよ、準備万端。ほら――こんな風にね」
発動の呪文を唱えた瞬間、森に芽吹いたすべての木の葉がばんと爆発音を立てて舞い散った。
途端に森は地下室の暗さから、よく晴れた夏の午後の明るさに変わる。
突然降り注ぐ強い日差しに、頭上を見上げていた閻魔が慌てて目を伏せた。
「――く、これは!」
梢から解き放たれた木の葉がざざざと舞い上がり、私と閻魔の周囲を取り囲む。厚さにして十数メートルに及ぶ木の葉の壁が、遙か天までそそり立っている。そのすべてに、私の魔力が及んでいる。
この結界内の五行すべてが私の手のひらだ。
この何億何兆という木の葉一枚一枚が、必殺の威力をこめた弾幕だ。『シルフィホルン』と原理は同じだが、よけさせることなど考えていない。ただ相手を打ち倒すだけの純粋な暴力だ。
「魔女に準備期間を与えた不運を恨むのね!」
その瞬間、閻魔の身体がまばゆいばかりの輝きを放ちだす。霊力をエネルギーに変換し、周囲三百六十度に圧倒的な威力の大玉をばらまいた。
けれどもう遅い。
ゴウと音をたてて押しよせる津波のような木の葉の波濤に、光ごと飲みこまれていく。立て続けに爆発音が聞こえてくるけれど、木の葉の壁を撃ち抜くことはできない。
裸になった大木が、次々と巻きこまれて折れていく。梢から飛び上がって見下ろすと、森があった山の斜面は木の葉に飲みこまれて緑色の海のようになっている。
そんな海の中心に、ごうごうと渦巻くメイルシュトローム。
山の斜面を削り、木々を打ち倒して暴れ狂い、その中心にあるすべてをうち壊す。
ゲームをしているつもりはない。戦いを楽しもうなどと思っていない。周到に整え、全魔力を振り絞った最大の一撃。夏の日差しすら利用した。
爆発音はもう聞こえない。大渦はその中心部のあらゆるものを破壊しつくしながら、山肌をえぐって沈んでいく。鬼ですら粉々にできるほどの威力のはずだ。いかな閻魔が頑丈であっても、無事でいられるわけがない。
疲労感がずしりと肩にのしかかってくる。産まれてはじめてだした大声と急激な運動、振り絞った魔力のせいで、きゅうと気道が収縮して喘息の発作が起きだした。
――ああ、これはまずい。
ただでさえ今日は一度発作を起こしている。これは下手したら命に関わる。
けれどまだ背中を丸めて咳きこむわけにはいかないのだ。慌てて呼吸を止めて、いつぞやのように魔力による体内循環に切り替える。そうするとまた大量の魔力を奪われて、くらりと立ちくらみのような眩暈が起きた。
メイルシュトロームは、散々に中心を抉りつくしたあと、今は動きを止めてただの木の葉のマットに変わっている。山の稜線が変わるほどのくぼみに大量の木の葉が沈んでいる光景は、まるで火口に緑色のマグマを満たした火山のようだ。
――少し、やりすぎたかしら。
いくら結界を張ってあるとはいえ、これだけの攻撃で霊廟のものが気づかないはずがない。
ふとあきれ顔でにらみつけてくるレミィの姿が思い浮かび、心の中で苦笑する。さんざん『閻魔ひとり倒したところでなにも変わらない』と云ってきた私が、怒りにまかせてこんなことをしているのだから世話はない。
――自己中心的でわがまま、自己愛の塊。
ふと、閻魔がそんなことを云っていたなと思いだす。
くだらない、本当にくだらない説教だ。そんなこと今更云われなくとも十分認識している。一体私が何年生きていると思っているのだろう。
確かに私は自己愛と自意識の塊だ。脳髄という迷宮に住み、知識ばかりを貯めこんで悦に入っている。だがそれが狭いというのなら、この脳髄の及ぶ範囲を世界のすべてにまで拡張し尽くすだけだ。森羅万象すべてを知り尽くし、敵と味方にわけてやる。それが私なりの、世界に白黒つけるやり方だ。
すいと緑の海に降り立った。中心にむかって降りていくに従って、木の葉がざざと道を開けてくぼんでいく。まずは閻魔の状態を知る必要があった。四季映姫は、この木の葉の海の中心にいるはずだ。
――油断した、つもりはない。
けれど予想以上に体力と魔力が落ちていたのかもしれない。
結果的に、それが戦いの趨勢を決めたのだ。
――背後。
突如として海から浮上するように、ざんと木の葉をかき分けて巨大な板がせり上がってくる。差し渡し数十メートルはあろうかという硬質な板。その表面に、Patchouli Knowledgeと私の名前が記されているのが目に入った。
悔悟棒だ。書かれた者の罪によって、重くまた巨大になるという悔悟棒。これほどの大きさになるとは思いもしなかった。
――なるほど。
刹那に気づく。閻魔を攻撃するということ、それ自体が罪なのか。ならばこの大きさになるのも道理だ。
「――くっ!」
自分の技が徒になる。舞い上がる木の葉に視界を奪われ、回避方向がわからない。
再び木の葉の支配権をとりもどそうとしても、束ねたはしから魔力は霧散して消えていく。
横薙ぎに振られた板が目前にせまったとき、反射的に両手を組んで顔の前でガードすることしかできなかった。
「ぐっ!」
かしゃんと笑ってしまうくらい軽い音を立て、両手の骨が砕け散る。ボールのように軽々と吹き飛ぶ耳元で、空気を切り裂く風切り音が聞こえている。咄嗟に反対方向に防御結界を張ったその瞬間、くぼみの壁面に激突して骨が砕けるほどの衝撃が全身を襲った。
「――かはっ!」
思わず魔力の供給を途切れさせてしまい、途端に糜爛した気管が咳きこみはじめる。
けれどどれだけ息を吸っても空気はちっとも入ってこない。
目の前が真っ赤に染まって、そのまま意識を根こそぎ刈り取られてしまいそうになる。慌てて循環を再開させるけれど、そうするともはや最低限の魔力も残っていなくて、指一本動かせない。
――何もかも、足りていない。
酸素も魔力も血も体力も。
闘うために、立ち上がるために、動くために足りていない。
――負けたか。
そう思って、壁にめりこんだまま閻魔の審判を待っていた。
もうもうと湧き上がる砂埃もやがて鎮まると、舞い散る木の葉を浴びながら息も絶え絶えに立ちつくす閻魔の姿がみえた。さすがにあれはあれで満身創痍らしい。巨大な悔悟棒によりかかり、ようやく立っているという様子。しわひとつ入っていなかった衣服もぼろぼろで、ほとんどなにも着ていないに等しかった。
「やって……くれたわね……」
つつと額からしたたり落ちた血が、白皙の面を壮絶に染めあげる。
「……ふん……喘息さえなければ……勝っていたわ」
「それでなくても危ないところでしたよ、悔悟棒が盾になってくれなければ」
「ずるいわね……攻撃すればするほど強くなるなんて、どこの少年漫画のヒーローよ……」
喋るだけでも億劫だったが、それでも皮肉のひとつくらい云いたくなる。
その言葉を聞いた閻魔は珍しくも顔を非対称に歪めさせ、つまらなそうにどっかとあぐらをかいた。
「ふん、それは違うでしょう。私みたいなのは普通少年漫画じゃヒーローにはなれないんじゃないですか。せいぜい口うるさくつまんないことばっかり云って、そのうち呆気なく主人公に倒される悪者の役目だわ」
どうやら戦いは終わりらしい。
四季映姫はさきほどまでの様子とうって変わって、フランクな打ち解けた空気を身にまとっている。これが素なのかあっちが素なのかはわからないけれど、彼女は随分オンオフの切り替えが激しい閻魔らしい。
「ふふ、なによあんた、外の世界の漫画なんて読むの?」
「ええ、小町が仕事中よく読んでいるのを没収します。あれはなかなかに心が躍るわ。正直憧れることすらある。主人公たちが信じてやまない、一面的で絶対の正義にね」
ひどく複雑に顔をしかめて、四季映姫はそんなことを云い放つ。
私は思わず目をみはる。この杓子定規な閻魔が、自らの立場に疑問を投げかけるようなことを云うなんて考えもしなかった。
まるで自分自身が正義ではないと思っているかのような――そんな言葉を。
「やめてよ、そんな話今更聞きたくないわ……」
「あなたねぇ……。その自己中心的なところは本当に直したほうがいいわ。こういう話が聞きたかったんでしょう? それとも私に八つ当たりできればそれでよかったんですか?」
「……ふん」
わかっていた。
本当は、わかっていたはずだ。
四季映姫は最初から、私の問いに自分の感情を一切挟まずに答えていた。『しない』ではなく『できない』と云い、自分個人の感情などは関係がないと話していた。
だからこそ私は腹が立ったのだ。彼女の大人ぶった物云いに、微塵もゆらぎもしない鉄面皮に、左右対称の微笑みに、その仮面のむこうで歪んでいるはずの顔をちらりともみせようとしない、映姫自身に。
「十王ならぬ私にできることなんてほとんどない。たとえ法廷で無罪を云い渡したところで、なんやかやと横やりが入って私の首が飛ぶだけで終わるでしょう。できることと云ったら、せいぜい地獄から地霊殿に繋がっている抜け穴に、気づかないふりをするくらいのものだわ」
「そう……そういえばそんなことを地底の頭巾が云っていたわね。確かにおかしいなと思ったけど、あんたが黙認してたのね……」
「そうですよ。それだけでもばれれば首が飛ぶ……って、あーもう、私もなんでこんな恩着せがましいこと喋ってるのかしら。調子くるうなぁ」
ぶすっとした顔で顎に手を当てる映姫に、閻魔らしい威厳はまるでない。思わずこみあげた笑いに肺が壊れそうに軋むけど、私は痛みを無理に抑えこんで微笑みかけた。
「ふふ、あなたもあの子を気に掛けてくれていたのね……ありがとう」
けれどその言葉を聞いた瞬間、閻魔は顔を真っ赤にして怒り出したのだ。
「――なにをっ!! この、私のことを馬鹿にして!」
「……ええっ?」
どこから取りだしたのか、笏型の弾幕をぺしぺしと投げつけてくる四季映姫。かわそうとしても足は動かず、かばおうとしても手が上がらない。顔に当たる弾幕は大して痛くはなかったけれど、攻撃されている意味がわからなくてだんだん腹が立ってくる。
「ちょっと、なにするのよ! 殺す気!?」
「うるさい! どの口が云うか! あんたにお礼云われる筋合いなんてありません! なによその自分だけがあの子を愛してますみたいな云いかた、本当むかつく魔女ですね!」
「愛してって……映姫……あなた……」
まじまじとみつめる私から目をそらし、朱に染まった頬をぷっと膨らませる四季映姫だった。
惜しげもなく太陽に晒された、人形のようにすらりとしたその身体。ぼろぼろの格好をしていてもどこか凜としていて、透き通るような白い肌は染みひとつみあたらないほど清潔だ。
そんな白い肌が、全身ぽっと桜色に染まっている。
ならば頬の赤味も、きっと怒りの色じゃない。
――けれど映姫はそっぽをむいたまま。
拗ねるように瞳をうるませながら、唇を尖らせてつぶやいた。
「あの子には云わないでくださいね、今のこと……」
「……え? どうして?」
「だって阿礼はもう――全部忘れているんだもの」
冷え冷えとしたその声は、がらんどうの霊廟に反響する木霊のよう。それはとうに死滅して思いだすことすらできなくなった、昔の恋の残響だ。
――ああ。
そうか。そういうことか。
言葉の意味が染みこんでいくと同時に、胸が激しく痛みだす。呼吸を断たれた肺全体が、壊死して石になったかと思うほど。
まるで毒のようなその言葉は私の胸の奥底にこびりついてしまって、きっと未来永劫治ることはないのだと、そんな予感がひしひしとする。
思わず天を振り仰ぐと、午後の日差しが目に眩しい。
この映姫は何年生きている? 五百年か、千年か、二千年か。いや、元は地蔵菩薩だったそうだからそれほど長くはないか。
阿求は千二百年生きている。
そうして私はまだ、百年と少ししか生きていない。
ならばこの閻魔は私だ。きっと千年後の私だ。
愛した女の魂が生まれ変わって生きて死に、また産まれて死んで死んで死んで死んで死んでいく。
――そうして全部忘れていく。
あわせた両の手のひらから、さらさらと水がこぼれ落ちていくように。大事なものから忘れていく。ともにすごした幸せだった日々を。笑い合った冗談を。からかって、はしゃいで、拗ねて、笑って、ただ一緒にいるだけで幸せだった輝かしい日々を。
みんなみんな忘れていく。
それを目の前で眺めながら生きていくというのは、一体どういう気持ちだろう。
少しだけ似ていて少しだけ違う、新しい御阿礼に愛したひとの面影を探し、自分とすごした日々をどれだけ覚えているかを恐々としながら確かめて。そうして落胆と幻滅と戸惑いと、ほんの少しの喜びを抱きながら見守っていく。組織に縛られ、法に縛られ、運命に縛られて。
じわりと視界が涙で滲む。
自然と唇が震えて喉の奥から嗚咽が漏れだす。
破れた胸が激しく痛むけど、それは悔悟棒に打ち倒されたからなんかじゃ決してない。それ以上に強く激しく、映姫の言葉と想いは私を打ちのめしてしまった。
――私に、映姫があの子を阿礼と呼ぶことを、とがめる資格なんてない。
「ごめん……ごめんなさい……私が……私が子どもだった……」
震える声でそう云うと、映姫がふっと微笑む気配がした。
「――大人になんて、なるもんじゃないですよ」
涙に滲んでぼやけた空に、こぁに抱きかかえられながら飛んでくる阿求の姿がみえた。
8
「――パチェ?」
ふと聞こえてきた声に振りむくと、相の間に通じるふすまを開けて、阿求がきょとんとした顔で立っていた。
「どうしたの、阿求?」
「それはわたしの台詞ですよ。どうしたんですか、ぼーっとしちゃって。一瞬居眠りでもしてるんじゃないかと思いました」
「そんなはずないでしょ、あなたじゃあるまいし。魔女は自動的に眠くなったりはしないの」
「知ってます、だからどうしたのかなって思ったわけで――って、わたしそんなに居眠りばかりしてませんよ、失礼な」
眉をしかめながらそんなことをうそぶいて、阿求は窓際の座椅子に座った私の元へとやってくる。薄暗い拝殿の畳の上に、花頭窓から差しこむ冬の日差しが鐘のような模様を描いている。その白く切り抜かれた部分を選んで踏みしめながら、彼女はぶるりと身体を震わせた。
「おお寒い寒い。やっぱり拝殿は少し冷えますね」
「そうね、でも座って全身に浴びる日差しは暖かい。小春日和だわ」
「あら、そうですか?」
うっすらと微笑みながら、阿求はもってきた本を文机の上に置く。普段阿求は相の間を抜けた本殿に居を構えているけれど、私はこの拝殿を自分の領土にしていた。図書館にある本棚を呼びだし、阿求が読みたそうな外の本と自分用の魔術書を積み上げて。私はここに小さな小さな図書館分室、知識と日陰の少女の巣を作り上げた。
「ああ、本当だ――暖かい」
座椅子に背中をもたらせかけた私に、阿求は横座りになってぎゅっと抱きついてくる。その柔らかな身体、暖かい温もり。とろりとした冬の午後の日差しを浴びて、猫のように目を細くする。
「――なにを、考えていたんですか?」
阿求は相変わらず全身真っ白の死装束だ。白の襦袢に白の腰巻。冬支度に絹織りの打掛けを羽織ってはいるけれど、その色も白。あの日葬儀が行われて公式に死んで以来、変わらぬ純白の死衣だった。
「……ちょっとね、映姫のことを」
「ああ、昨日もおみえになりましたよ、四季さま」
「そう――どうだった?」
「特になにも? いつもどおりだらだらとお茶を飲んでだらだらとお話しました。ここはもう彼岸のうちなので、気軽に気晴らしにきてくださいます」
「そう……」
「それにしてもパチェと四季さま。あの日なにがあったんですか?」
ふいに視線を花頭窓にむけて、阿求がそんなことを問いかける。視線を追ってながめると、縦横に差し交う桟に切りとられ、窓のむこうに透明な冬の空がみえている。そんな空の下に佇む山肌は、一部がえぐれて欠けていて、無惨に薄茶色の地肌をさらしていた。
「云ったでしょう? あなたを地獄送りにする閻魔に腹が立って八つ当たり。それであなたにも散々叱られたじゃない」
「そうですけどね。でもそれにしては今は随分仲いいじゃないですか」
「戦い合って友情が芽生えたのよ。よくある展開でしょ」
「ふーん……」
不満そうに口を尖らす阿求の頭を、片手でゆっくりと撫でつける。日差しを浴びて普段より薄くみえる短髪が、指の下でさららとこぼれて流れていった。
私はたわむれにもう片方の手をそっと彼女のくちびるにふれ、突きだした口をひっこめるように軽く指を押しつけつ。
もちろん機嫌が悪いからくちびるを尖らせているわけで、それを指で押したところで機嫌が直るわけがない。そんなことわかった上での冗談、たわむれ、あるいは愛撫。押せば押すほど阿求は笑いながらよりいっそうくちびるを尖らせて、指の下でぷにぷにと柔らかなくちびるがつぶれていく。
――仕方がない。
指でだめなら仕方がない。
くちびるに触れていた手を顎に当て、阿求の顔を上むかせる。
ぎゅっと肩を抱きよせてくちづけをすると、不満そうに突きだされていたくちびるは、花のように開いて切なげな吐息を吐きだした。
阿求の葬儀が行われた日から、三ヶ月ほどが経っていた。
あの日映姫に痛めつけられたあと、飛んできた阿求に散々泣かれ、叩かれ、怒られて縋りつかれた。思わず嬉しくなってしまうくらいの阿求の取り乱しかただったけれど、私は映姫のことが気になっていた。
ぼろぼろの服をまとっていた閻魔は、小町が差しだしたマントに身を包み、元通りの左右対称の笑みを浮かべていた。それははじめて阿求と顔をあわせたときとまるで同じ、完璧な作り笑いだ。
きっと彼女は、阿求の前に立つときにはいつだってこの仮面を被り続けて行くのだろう。おそらくは次の代になっても、次の次の代になっても。
結局少しの遅れを生んだだけで、儀式は滞りなく進行していった。
元々魔女にしろ閻魔にしろ、霊的な存在は少しくらい身体を壊されたところで死んだりはしないのだ。永遠亭の薬師の力もあって私たちの身体はすぐに元通りになり、映姫は閻魔らしい清涼な謹厳さをとりもどしていた。
――儀式は進行する。
拝殿の壇の上、死装束で平伏する阿求。
じゃんと鳴り響く銅鑼の音。
映姫の手から放たれた除不浄符が、霊廟の四隅を取り囲む。
きんと硬質な音を立て、遙か天の高みまで半透明の結界がそびえ立っていった。
やがて青に紛れてみえなくなる。
その空に、紙銭が焼かれて立ち上る煙が幾筋も幾筋もたなびいていた。
それが、阿求が死んだときの情景だ。
身体の下、小鳥のように震える彼女についばむようなキスをして。そうすると、切なげだった表情がぽわんととろけそうな笑顔に変わる。
白い襦袢、白い腰巻、白い打掛。綿毛のような白にくるまる裸の阿求は、本当に生まればかりの小鳥のよう。あるいは子猫、ホイップクリーム、風に揺れるフリルレース。小さくて甘くて愛らしいものすべて。
そんな白の海の中、染みのようにぽつりと鮮やかな赤い色が落ちている。それは阿求が頭につけていた彼岸花。そのひとひらの赤い花弁だ。
この霊廟には彼岸花ばかりが咲いている。夏が終わり秋がすぎて冬になっても。毒々しくも赤い彼岸花は、抜いても抜いても伸びてきて霊廟の敷地を埋め尽くす。それはまるで、あの無名の丘の鈴蘭畑のように。
だから阿求が乙女椿のかんざしを身につけることはもはやない。
――それがなんだか、ひどく悲しい。
「むぅー……」
そのまま裸で抱きあっていたら、ふと阿求がうなり声をあげた。一体どうしたんだろうと思って眺めていると、悔しがるようにじっと胸元を睨んでいた彼女は、突然腕を伸ばして私の乳房を乱暴に揉みだした。
「きゃっ! ちょっと、なによそれ。痛い、痛いってば」
「なんか理不尽です。わたしたち身体の細さは大して変わらないのに、なんでパチェだけこんな立派なんですか」
「知らないわよ、単に私のほうが大人だってだけでしょ。やめてよもう、あなただってそのうち――」
云いかけて、口を塞ぐ。
ふと影が差した桔梗色の瞳に、そのうちなんてないのだと思いだしてしまったから。
――阿求にそのうちは訪れない。
私のように胸がふくよかになることも、慧音のようにすらりと背が伸びることもない。半ば死んで成長を止めた阿求は、この結界の中で少しずつ消えていく。
「そのうち――なんですか?」
「ごめん……でも私は今のあなたの胸が好き。小さくて清潔な印象を与えるもの」
「あーあー、そうでしたよね。パチェはちっちゃい子にしか欲情しない変態さんなんですものねぇ」
「違うわよ、また聞き捨てならないことを。今の私はあなたにしか欲情しないの。アキュウセクシュアルね」
そんなくだらないことを云いあっているうちに、阿求が私の胸を揉む仕草はだんだん甘やかなものへと変わっていった。しだいに彼女の指先の感触に甘い痺れを感じるようになっていく。
思わず吐息を漏らしたその瞬間、くるりと身体がひっくり返された。
背中に感じるちくちくとした畳の感触。
暗く沈んだ天井で微笑む薬師如来。
とんとお腹に乗った彼女の腰の、その細さ。
逆光を背負った阿求の顔がだんだん大きくなってきて、ふわりと唇が重なった。彼女のほうから求めてくれたそのキスが、なんだか眩暈がするほど嬉しい。
――けれど。
すぅ、と。黄金色に輝く日差しが陰る。
太陽が雲の影に入ったのだろう、私たちを照らしていた午後の強い日差しが陰り、ふいに拝殿全体が暗くなる。
そうしてその瞬間私は気がついてしまった。
「――阿求?」
「……え? こんなときになんですか、気のない声……」
「ごめん……でもあなた……」
震える声でつぶやいて、私は下から阿求の頭を撫でる。指の間をさららと流れる癖のない綺麗な短髪。
けれどその色味が、記憶にあるものと違っている。
「あなた、髪の色薄くなってない?」
強い光に照らされていたときには気がつかなかった。光の加減かなにかだと思いこんでいた。
けれどこうして陰った陽の元でながめてみるとよくわかる。鳩羽色だった阿求の髪は、色素が抜けてほとんど真っ白なかすみ色に変わっていた。
「あ、ああ――え? 気づいてなかったんですか? 昨日辺りから急に」
「……気づいてなかったわ。暗すぎたり明るすぎたりしたものだから……」
「そう……ふふ、前はパチェとほとんど同じだったんですけどねぇ」
うっすらと笑いながら、阿求は畳に広がった私の髪を掬い上げ、愛おしそうに撫で上げた。
そう云えばその昔、こぁにも同じようなことを云われた気がする。まだ私があの子のことを小悪魔と呼んでいたころ。まだ阿求と知りあって間もなかったころ。寝室で私の髪を整えながら、こぁは『阿求の髪もこんな風なプラム色だった』と云ったのだ。
あのころ私は、自分が誰かを好きになるかもしれないなんて、思いもしなかったけれど。いつか自分が決定的な別れを経験するはめになるかもしれないなんて、考えたこともなかったけれど。
「こんな風にして、私はだんだん薄くなっていくんですよ」
儚げに微笑んで云った阿求の言葉に、私はやっと気がついた。
――終わりは、もうはじまっていたことに。
* * *
最初の一年、私は霊廟に週二日ほど通った。
次の一年は、週四日ほどになった。
最後の一年、私は霊廟に住んでいた。
例のクレーターの中心に紅魔館と行き来するゲートを作った。はじめは私がくるために作ったゲートだったが、やがて私が霊廟に住みはじめてからは、紅魔館の住人が私に会いにくるためのものになった。
私にとって、こぁがきてくれるのはありがたかった。あまり図書館を開けすぎると、呪術的な繋がりが薄れて“動く大図書館”ではなくなってしまう。こぁがきてくれるだけで、繋がりを結び直すことができる。彼女はすでに一流の図書館司書となっていた。
そうして阿求にとっても、紅魔館の皆がきてくれることはありがたかったに違いない。
そのころになったら、すでに阿求に会いに来る友人たちはほどんどいなくなっていたのだから。
――死にかけて。
日々透き通るように消えていく大切なひとの姿をみたい者など、そうはいない。
やせ衰えはしない。ただ少しずつ消えていくだけだ。白くなり、半透明になり、透明になる。
一年も経てば、阿求はむこう側が透けてみえそうなほどに薄くなった。二年も経てば、風が吹けば散ってしまいそうなほど軽くなった。
その鈴の鳴るような声は、ページをめくる音にかき消されそうなささやき声になり、微笑みは晩冬の朝たらいに張る薄氷のように薄くなった。
最後の一年間、私はほとんど息を潜めるようにして生活していた。阿求の言葉を聞き逃さないように、阿求の存在を見逃さないように。阿求のそばから離れないように。
――約束だったから。
最後までそばにいるという約束だったから。
だから私はそこにいた。
そこにいて、阿求が消えていくところを眺めていた。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
愛しいひとが消えていくのを、なにもできずに眺めていた。
* * *
最初の冬に、阿求の髪は雪のように真っ白になった。
それはまるで空から降り注ぐ雪のような白だった。白装束に身を包んだ白い阿求は、よく拝殿の階段に座って雪が降り注ぐのをぼんやりと眺めていた。
「雪の形を覚えようとしています」
なにをしてるのか問いかけると、阿求は振りむきもせずにそう云った。
「同じように降ってるようにみえて、一日一日一瞬一瞬、全部違うんですよ」
そんなことをうそぶく後ろ姿は、白以外の色がどこにもみあたらないほど真っ白で。私は阿求がそのまま雪に紛れて消えてしまうのではないかと不安になる。
後ろからそっと抱きしめると、案の定その身体も雪のように冷たくて。あまり触れていると溶けてしまいそうな気がして、私はすぐに手を離してしまった。
どうしたの、とでも問いたげに小首をかしげた阿求の笑みがひどく儚くて、その瞬間の光景は印画紙に焼きつけたかのように頭の中に残っている。
霊廟には、よく雪が降った。
一面に群生する彼岸花を覆い隠そうとするように、よく降った。けれど降っても降ってもなぜか彼岸花はにょきにょきと顔をだし、雪の上に血が滴るような赤い染みを作るのだ。
阿求の瞳も、やがてそんな風に赤くなった。
肌からも完全に色素が抜け落ち、アルビノめいた風情になった。
そんな阿求の肌は抱くとぽわんとピンク色に色づいて、内なる劣情をなによりも雄弁に語ってしまうから。それが恥ずかしいと云って、彼女は抱かれるのを嫌がるようになった。
私も阿求もそんなに旺盛なほうではなかったから、特に問題はなかった。
恋は降り注ぐ雪のようにひっそりと終わり、やがて愛へと変わっていった。
「――フグダックが食べたい」
つぶやいた阿求の白髪に、うららかな春の日差しが落ちていた。
神聖にして清浄であるはずの本殿は、阿求が持ちこんだ書物や書き物、蓄音機やレコードなどでいっぱいだ。美麗な蒔絵仕立ての厨子や金箔の貼られたふすまも、生活感にまみれてしまえばどこかむなしい。
「なら、咲夜に云って作ってきてもらうわ」
「ご冗談を。食べられないってわかってるくせに」
気だるげに文机にもたれかかり、阿求は口を尖らせた。
――わかってて無茶を云っているのはどっちよ。
ちらかり放題だった畳の上を片づけながら、そんなことを私は思う。
阿求はこれで意外と整理下手な人間で、読んだもの手にしたものをすぐにその場においてしまう。きっとあとで片づければいいやと思うのだろうけれど、結局その“あとで”がやってくることは永遠にない。
このごろ阿求は、そうやって棚上げしてきた“あとで”がもう決して取り返せないのだと悟って、いらだっているようだ。よくこんなどうにもならない無茶を云っては私に八つ当たりした。
――曰く。
お腹空いた、外に出たい、紅魔館に行きたい、水浴びをしたい、こぁと遊びたい、釣りをしたい、スケートにいきたい、死にたくない、忘れたくない。
そんなことをわめいては私を罵倒したり物を投げつけたり、あるいは夜通し泣き尽くしたりした。
私はもうすっかり阿求を愛してしまっていたから、そんなみっともないところをみせられても、嫌いになったりなんてできるはずもなかった。
ただ、悲しかった。
「そんなことしてないで紅茶でも淹れてきてください。掃除なんてしても、どうせすぐ死んじゃうんですから」
「……わかったわ」
不満そうに目を細める阿求の横にかがみこみ、その白髪にキスをする。ずっと陽に当たっていた阿求の髪はほわほわとして暖かく、そんな温もりに私は春の訪れを予感した。
物を食べることはできないけれど、飲み物は飲んでもいいらしい。
一体飲み物と食べ物の境界がどこにあるのかはわからないけれど、まじないというものは結局のところ精神的なものに他ならない。阿求が飲み物だと思えば飲み物だし、食べ物だと思えばそれは食べ物に変わる。
「ああ、パチュリーさま。阿求さまの様子はどうですか」
庫裏の台所でお湯を沸かしていると、ふと阿薫が姿をみせてそう云った。
「荒れているわね。でも気にしないで、大丈夫だから」
ちらりとそちらを眺めただけで、私はすぐにやかんへ視線を戻した。お湯は沸騰していなければいけないが、沸騰させすぎても中の空気が飛んでしまう。それは咲夜にみっちり仕込まれた、紅茶を美味しくいれるためのゴールデンルールだ。
「そうですか……死に瀕するとひとはどうしても荒れます。パチュリーさまも、あまり引きずられないようお気をつけを」
「ふん、誰にものを云っているかわかってるの? 私は魔女よ。死と闇黒を操る私にそんな助言は必要ない」
「ああ、そうですよね。これは失礼いたしました」
そう云って微笑みながら、阿薫はふもとから持ってきた茶葉の袋をごそごそと戸棚にしまう。
稗田の人間に対する嫌悪感はいまだなくなってないけれど、今となってはこの阿薫個人に対してそれほどわだかまりも感じない。なにより、あの子のことを御阿礼ではなく阿求と呼ぶ稗田の人間はこの男がはじめてだったから。
沸騰してちょうど九十五度になったお湯を、さっとポットに注ぐ。お湯の中の空気が茶葉を浮揚させ、ポットの中でふわふわと上下に踊っている。
ポットに保温の魔法を掛け、阿薫としばらく話をしてから庫裏をでた。春とはいっても、この霊廟に生の気配は芽吹かない。ただうららかな日差しの元、彼岸花が穏やかにゆれているだけだった。ひらひらと飛んでくる蝶も、白玉楼あたりでみかける霊蝶だ。
ふとカップにとまった霊蝶の姿に、思わず笑みが浮かんだ。
死んだ世界とは云っても、こんな風に春らしい光景もたまに訪れる。軽い霊弾を当てて追い払いながら、私は蝶がとまったほうのカップを自分用にしようと考えていた。
「――遅かったですね」
本殿に戻ると、白い顔をさらに青ざめさせながら阿求が云った。
「ええ、遅くなってごめんなさい。阿薫と話していたの」
「そうですか……」
ひざに置いた手をぎゅっと握りしめる。その唇が、わなわなと震えている。
また怒るのかなと思ってティーセットを文机に置き、膝立ちになってにじりよる。こわばった手にそっと手をかけて揉みほぐし、指と指を絡めてぎゅっと握った。
じっとみつめた阿求の瞳からは、ぽろぽろと涙の珠がこぼれだしていた。
「怖かった……パチェ、わたしに呆れてどっかいっちゃったのかもって、怖かった……」
「阿求……なに云ってるの。そんなはずないでしょ」
「ごめんなさい……わがままばっかり云ってごめんなさい……嫌いにならないで」
ひんひんとしゃくり上げるように泣く阿求を、強く強く抱きしめる。
その身体の感触は、最初にあの鐘楼で抱きしめたときよりも遙かに儚い。せっかく私や咲夜の元で娘らしく成長していたこの子も、またあの壊れやすいガラスのようになってしまったのだ。そう考えるとなんだかひどく悲しくて、いっそう強く抱きしめた。
「わたし、もうパチェしかないんです……お願い、わたしのこと見捨てないでください……」
「見捨てないわ。あなたがなにを云ってもなにをしても、あなたのことを愛してる」
「ほんとう……?」
「本当よ。私は魔女だけれど、約束を決して破らない吸血鬼、当主レミィの名に懸けて誓うわ。あなたのことを見捨てない」
「……うん」
阿求は口元に手を当て、子どもみたいにこくんとうなずいた。
「ほら、お茶でも飲もう。せっかく淹れてきたんだから」
「はい、ありがとう。ふふ、パチェのお茶大好きです。咲夜さんと同じ味がする」
「そりゃ、徹底的に仕込まれたからね。あのときの咲夜は鬼のようだった」
くすくすと笑う阿求に、ほっと胸をなでおろす。どんな彼女でも好きだけれど、やっぱり笑っているところが一番好きだ。
花頭窓に切りとられた空のむこうで、春告精が桜の花びらをばらまきながら飛んでいた。
けれど、やがて私が紅茶を淹れることもなくなった。
「もう――味がしないんです」
くちびるを噛みながらそう云った、阿求の絶望的な表情を忘れない。私はそのときはじめて、彼女が段々死んでいくということの意味を悟ったのかもしれない。
味覚を奪われた彼女にとって、日々の楽しみは幻樂団の音楽と書物と移り変わる外の光景、それと私だけになった。
* * *
また夏がきて、秋がきて、冬がきて、春がきた。
喧嘩したり、語りあったり、泣きあったり、笑いあったりしてすごした。
この霊廟にいると、外の世界から隔絶されてときどき時間の流れがわからなくなる。今の季節がなにで、もう何年目になるのかを。けれど日々透けていく阿求をみていると、残り時間の少なさをいつだって思い知らされてしまうのだ。
予告された命日まで半年にせまると、阿求の身体は気をつけないと見すごしてしまうほど透明になった。万が一気づかないで通りすぎてしまったりすると、彼女は一日不機嫌になる。だから私にとってもそのころは、一時たりとも気が抜けない日々だった。
彼女が穏やかな気持ちでいられる日には、昔と同じように物語をせがんだ。
正座した私の膝に頭を乗せて、阿求は赤い瞳をそっと閉じる。
そうして彼女は、私に色々な物語を語ってくれた。
それはたとえば彼女自身が産まれた日の話。あるいははじめて誰かを好きになった日の話。アイスクリームを食べた日の話。黒猫を拾った日の話。月の物がきた日の話。縁起執筆の旅にでようとした日の話。
私と出会った日の話。私のことが好きだと自覚した日の話。花畑で私と話した日の話。鐘楼で泣いた日の話。
阿求が産まれてから今日までの、すべてのこと。
私と出会ってから今日までの、すべての思い。
稗田阿求という一冊の書物の、その全部を。
「――今日も、素敵な話を聞かせてもらったわ、阿求」
「そうですか? 私の話、つまらない物語じゃなかったですか?」
「とんでもない。あなたが話してくれたことは、今まで聞いたことがないほど素晴らしい物語だったわ。それは過酷な運命の元に産まれた、優しい女の子の話。寂しい子ども時代をすごした女の子が、やがて大人になって友だちができて、ひとを愛することを知るまでの話」
もうあるのかないのかわからない、綿毛のような髪の毛をさらさらとなでる。そうすると阿求は、浮かべたのかどうなのかわからない、うっすらとした笑みを私にみせる。
「ありがとう……あなたの中で一冊の本になれれば、それがなにより嬉しいです」
――ああ、阿求。
この膝の上の頭は、なんて軽くなってしまったのだろう。
紅魔館のソファでこうしていたときは、日々重くなっていく頭に足が痺れてしかたなかったのに。
今はもう、羽毛のように軽いその頭が私の足を痺れさせることはない。
――逝かないで。
泣き叫んですがりつきたかった。わんわんと泣きながらその身体にすがりつき、大声で色んな気持ちを吐きだしたかった。
けれどできなかった。
阿求の身体はすがりつくには薄すぎて、その鈴が鳴るような幽けき声は、私が泣きわめけばかき消してしまう。
だからじっと、涙をこらえて我慢した。
ずっと、私は我慢した。
そうして気がつけば、師走の十五日になっていた。
9
しんしんと雪が降る。
白いカーテンのように降り注ぐ雪をみていると、この霊廟の外に世界なんてないのではないかと思えてくる。
霊廟には、よく雪が降った。
まるでこの場所を牢の中に閉じこめようとするように、すべてを真っ白に染め上げて存在を隠そうとするように、よく雪が降った。
去年もこんな風に降っていた気がする。一昨年もこんな風に降っていた気がする。けれど思い起こしてみれば記憶は曖昧で、そのすべてが今年のできごとのように思えてくるのが少し不思議だ。
『同じように降ってるようにみえて、一日一日一瞬一瞬、全部違うんですよ』
そう云った阿求の言葉を思いだして、くすりと笑う。
今年も去年も、今日も昨日も同じに感じる私は、きっと記憶に対して誠実ではないのだろう。あれからもう二年の月日が経っているなんて、信じられない思いがする。“幻想郷の記憶”たる阿求の最後を看取るのが、こんな自分でいいのだろうか。ふとそんなことを考える。
「――おひさしぶりですね、パチュリーさん」
雪のむこうからやってきた映姫は、白い世界にもぐりこんだ黒だった。相も変わらず左右対称の笑みを浮かべ、凜と伸びた背筋は揺らがない。昔は随分反発した映姫のそんなところも、今日はなんだか頼もしく思える。
「きているのは私だけですか」
「ええ。私とあなたと阿薫だけ。最後だけでも看取りたいって云ってくるのはたくさんいたけれど、阿求が断ったわ。こんな姿をみせたくないってね」
「……まあ、慣れていないと動揺するでしょうね、あの透けた姿は」
招じいれた拝殿の青畳が、ツンと草の匂いを放つ。
二年間通い一年間住居としていたこの拝殿も、今はすっかり整えられていてひとが住んでいた様子などまるでない。
迷宮のように入り組んでいた本棚も、そこに詰められた大量の本も、窓際に置かれた安楽椅子もみな紅魔館に送り返し、拝殿はひとを迎えるための霊廟に戻っていた。
「――正直ね、少し意外に思っているんです」
しずしずと畳を踏みながら、映姫が顔をよせてきてささやいた。
「なにがよ」
「気を悪くしないでくださいね。あなたがここまで持つとは思いませんでした。そのうち投げだしてしまうかと」
「――ふん」
顔をそらすと、くすくすという笑い声が聞こえてくる。しんと静まりかえった拝殿の中、その声も天井に吸いこまれて消えていく。
相の間を通り抜け、本殿に通じるふすまを開けた。
途端にただよってくる冷え冷えとした霊気に、胸の裡から悲しみの感情がこみあげる。
あんなに散らかり放題だった床も塵ひとつなく掃き清められ、本殿は清澄な空気に包まれていた。
金箔で彩られたふすま絵、黒光りする螺鈿細工の豪奢な須弥壇。
天井から垂れ下がる人天蓋の下、香炉と華瓶に囲まれてひと組の布団が敷かれている。一見して誰も入っていないようにみえる布団はこんもりとひとの形に盛り上がり、よく目を凝らせばそこに透明な人間が横たわっているのがわかる。
もう鳩羽色ではない髪をして。
もう桔梗色ではない瞳をして。
もう凜と背筋を伸ばして歩かない。
もうお腹を抱えて子どもみたいに笑わない。
透明な稗田阿求が、死にかけてそこに横たわっている。
「――四季さま?」
「はい、私です」
風が吹き抜けるような声を正確にとらえ、映姫は穏やかに返事をする。
さすがに何度も臨終に立ち会ってきただけあって、閻魔は慣れたものだった。瞳にゆらいだ悲しみを即座に心の奥におしこめて、いつもどおりのすまし顔を作ることができるのだから。
「ああ……もう、すぐなんですね」
「そうです。お元気でしたか?」
すっと正座して問いかける映姫に、返ってきたのは風鈴が鳴るような笑い声。
「ふふ、元気だったら死にませんでしょう」
「それもそうですね。では少し質問を変えましょう。穏やかに――すごせましたか?」
本殿に、しんと静寂が訪れる。
降り積もる雪の音さえ聞こえそうな静寂の中、透明な阿求の瞳がじっと私の顔を捉えている。そうしてにっこりと笑ってうなずいた。
「はい――幸せでした」
その瞬間、思わず胸が一杯になる。
つい涙がこぼれてしまいそうになって、天井を見上げながらぐっとこらえた。
阿求と出会ってからのこの五年間。私は必ずしもいい友人や恋人ではなかったはずだ。本から顔を上げないまま話をして呆れられたこともあった。素直になれない挙げ句、紅魔館から追いだそうとして泣かしたこともあった。私以外の者と仲良く話す阿求に嫉妬して無視したこともあった。自分勝手な研究に邁進するあまり彼女自身を放置していたこともあった。
ここにきてからだってそうだ。理不尽なことばかり云う阿求に切れかけたこともある。つい訪問の間を開けてしまって、奥の院に三日こもりきりになるほどへそを曲げさせてしまったこともある。目の前でだんだん弱っていく彼女の姿に、あんな約束しなければよかったと思ったことは数知れない。
全幅の信頼をよせてくれる彼女に、もっとしてあげられることはあったはずだ。もっとできることはあったはずだ。今にいたるまで、私はそんな後悔にさいなまれていたというのに。
――阿求は、幸せだったと云ってくれた。
それだけで、そんなすべてが許された気がした。
「阿薫」
小さな声で枕元の侍真を呼ぶと、彼は背筋を正して「はい」とささやく。
「わたしがここで記した書きつけを、縁起の増補版として出してください。守矢の三柱と命蓮寺のみなさんを中心に、ひとと神と信仰を核とした構成がいいでしょう……細かいことはお任せします……」
その言葉の最後のほうは今にも風にまぎれて消えそうで、阿薫は涙をこらえるようにぐっと眉をしかめた。
「……わかりました。そのようにします」
そうして阿求は、それきりぴたりと口を閉ざした。
音の途絶えた本殿に、ただしんしんと降り積もる雪の気配だけが感じられる。衣擦れの音ひとつ聞こえない。私からも、阿薫からも、映姫からも。そうして真っ白な掛け布団からも。
もう逝ってしまったのかと思って、ぞっと悪寒が身体中を駆けめぐる。思わず瞳を見開くけれど、視界はとっくに涙で滲んでしまって、布団が上下しているかなんてわからない。
「――パチェ、いますか?」
聞こえてきたささやき声に、私はほっと胸を撫でおろしてにじりよる。今日のこの日、阿求が否応なく死んでしまうことはわかっているはずなのに。一分でも長く、一秒でも長く、生きていて欲しいと心から願う。
「ええ、いるわ。ここにいるわ」
ぎゅっと手を握って応えると、彼女はうっすらと目を開く。
――ああ、なんだかひどく懐かしい。
阿求が過去の記憶から戻ってくるとき、こんなやりとりをよくしていた。
私がいるのなんてわかりきっているはずなのに。いつだってそばにいて当たり前なのに。どうしても信じられない阿求は、よくこんな風に問いかけてきたのだ。
――いますか?
――本当にいますか?
――ずっとそばにいてくれますか?
そのたび私は阿求の手を握って、ここにいると繰りかえし伝えてきた。いつだって、今だって、たとえ阿求が死んでしまっても。
「ありがとう、パチェ……愛してます」
「私も……私もよ阿求。あなたのことを愛してる」
ささやくと、手の中の透明なぬくもりがふるふると震えた。声をだしたりはしなかったけれど、それはきっと笑いだったのだろうと思う。
「やっと云えた……本当に、わたしも不器用すぎていやになる……」
そんな言葉に、思わず私も声を立てて笑ってしまった。それがあまりにも不意打ちだったので、泣きながら、悲しみにぐちゃぐちゃになりながら笑ってしまった。
今となっては、もうずいぶん遠い昔のこと。
私たちが出会って間もないころの、蜜月時代。
思い切って阿求が云ってくれた“愛してる”という言葉を、私は恥ずかしがって聞こえなかったふりをした。それで阿求もへそを曲げてしまって、もう二度とそんなことを云わないと誓ったのだった。
――今にいたるまで、あのときの言葉に縛られていたのか。
この照れ屋で寂しがり屋で臆病な、プライド高い私の恋人は。
「本当に……私たちはふたりとも不器用すぎたわね……」
「ふふふ、そうですね、次はもっと……上手くやりましょう」
楽しげに弾んだその声が、霊廟の中にはじけて消えた。
それはきっと、最後の力を振り絞った言葉だったのだろう。
その言葉を境にして、両手で握った阿求の手が急激に薄く軽くなっていく。まるであわせた両の手のひらから、さらさらと水がこぼれ落ちていくように。
「……怖い……」
「怖がらないで……お願い怖がらないで……ここにいるから、私がここにいるから……」
「どこ……? どこ、パチェ?……おねがいパチェ……パチェ……」
――手を、離さないで。
それが、最後の言葉になった。
手を離したくはなかったけれど、仕方がなかった。
――その手が、消えてしまったのだから。
透明だった。けれどたしかにそこにあった阿求の身体が、その瞬間弾けて消えた。
音もなく。
予兆もなく。
ドラマチックな演出もない。
ただ朝霜が、陽に照らされて溶けるように。
阿求は死んだ。
わたしは呆然と目を見開いて、座りこんだまま眺めていた。
さっきまで羽根のような重みが乗っていたはずの手のひらを。今はなにも残っていないてのひらを。さっきまでひとの形に膨らんでいたはずの掛け布団を。今はぺしゃりと潰れた掛け布団を。
涙を拭うことも忘れたまま、ぺたんと座りこんで眺めていた。
啜り泣きの声が聞こえる。
枕元で、阿薫がしゃくり上げるように泣いている。
――え? どうして泣いてるの?
そんなことをふと思う。
阿薫が泣いている理由がわからない。
けれど私も泣いている。
とても悲しくて、泣いている。
なにがなんだかわからなくなった。どうして悲しいのか。どうして泣いているのか。今なにが起きたのか。今なにが失われてしまったのか。
このぽっかりと空いた胸の空洞に、一体なにが詰まっていたのか。
「――確認しました。阿求の魂は、今三途の川を渡っています」
どこか遠くから、映姫の冷静な声が聞こえてくる。
それを私は、聞かなかったことにしたかった。耳を塞いで逃げだしたかった。さっきまでみていた夢にまだ浸っていたかった。
それがどんな夢だったのか、今となっては思いだすこともできないけれど。
「……パチュリーさん」
そっと肩に置かれた手を無視して座りこんでいると、ふと身体全体が映姫の温もりに包まれた。それで私は、自分の身体がどれだけ冷えていたのかを知る。
「……お疲れさま」
「……なんのこと?」
「辛い役目を、あなたは立派にこなしました」
「だからなんのことよ……わからないわ……」
「阿求を看取った」
その言葉にぴくりと身体が震える。胸の奥でなにかが壊れる音がする。
「阿求は死んだわ。笑いながら、穏やかに、幸せそうに死んでいった。あなたのおかげよパチュリー」
「――ふっ……」
ぶわりと膨らんでいく悲しみが、形を与えられて次々と目尻からこぼれ落ちていく。
――ああ、そうか。死んでしまったのか、阿求。
心の中、言葉にするとその現実が呑みこめて。途端にがたがたと身体が震えだす。今までずっとせき止められていた悲しみが、怒濤のように胸の奥からやってくる。
「泣いていいのよパチュリー。それをとがめるひとは、もう誰もいないわ」
耳元でささやかれたそんな言葉が、最後の一押しになった。
悲しみが、絶叫となってほとばしる。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁーーーー!! 阿求! 阿求! なんで死ぬのよ!」
蛇口をひねったように流れる涙が、次々と顎から滴り落ちていく。こみあげてくる嵐のような感情でぐちゃぐちゃになって、わんわん泣きわめきながら手足をばたつかせた。阿求阿求と何度も叫び、つぶやき、しゃくりあげ。映姫の胸にすがりついて私は泣いた。
思い浮かぶのは、阿求の顔だ。
ショートブレッドを吐きだす私をみたときの、驚いた顔。
私がむきゅうと呻いて突っ伏したとき浮かべた、あけすけな笑顔。
紅魔館から追いだされると思ったときの、青ざめた表情。
思い出話を語ってくれるときの、そっと目を伏せた穏やかなまなざし。
私との仲を慧音にからかわれたときの、真っ赤になった顔。
彼女はもう、この世界のどこにもいない。
もう二度と私に笑いかけてくれることはない。呆れたように溜息を吐くことも、無邪気な悪戯をして舌をだすことも、私の膝に頭を乗せて眠ることも、身体の下で小鳥のように震えることも、二度とない。
ただ私の思い出の中に残るのみ。私と、図書館に納められた“思い出箱”の中に。
死んで思い出となった阿求は、それでもう、決して壊れることはない。図書館にある数多の書物と同じように、記録された思い出は死した物語となって私の書棚に並んでいる。
けれど違う。
私はそんなことを望んでやしなかった。
本を愛するように阿求を愛していたのではなかった。今になってそれが骨身に沁みてよくわかった。
――阿求が、壊れやすかったから愛していた。
やがて失われる存在だったから、壊れやすい本だったから、死に瀕して泣き叫ぶような弱い人間だったから、愛していた。
「……大丈夫ですか? パチュリー?」
「駄目よ……駄目……もう私も死ぬわ。それで阿求と一緒に地獄で暮らす……裁いてよ映姫」
「それは無理です。魔女のあなたは阿礼とは桁違いの極悪人。もし裁くなら千年単位の責苦じゃ利きませんし、違う地獄に堕ちるでしょうね」
「……わかってるわよ馬鹿、言葉どおりにうけとらないで。本当につまんない閻魔ね……」
「悪かったですね。結構気にしてるんだから云わないでください」
冷静な振りでそんなことを云う映姫だったけれど、本当は悲しんでるってわかっていた。
頭の上に、さっきからぽたぽたと冷たい滴が垂れるから。
――こんなことで、悲しみが癒えるはずはない。
けれどそうやって話しているうちに、少しずつ私は落ち着くことができた。今日のこの日がくることは、三年前から覚悟していたはずなのだ。ただそれが、思いのほか悲しすぎただけで。
「大丈夫……きっと大丈夫……そのうち私は復活できると思う……」
「ええ。そのうちでいいんですよ。今は駄目でも、それでいいんです」
そう云って閻魔は、優しく頭を撫でてくれた。
この閻魔がいなかったらどうなっていたのだろう。この全力で縋りついてもびくともしない冷厳な一本の境界線、四季映姫がこの場にいなかったら。
「そう――あなたは少し、完璧主義すぎるのです」
こんなときでもお説教を忘れない閻魔に、くすりと笑った。
そうすると、少しだけ悲しみも和らいだ。
* * *
雪は、いつのまにか止んでいた。
霊廟を閉ざすように降っていた雪もすっかり止んで、外は一面の銀世界だった。青く澄んだ空から降り注ぐ光が、雪に乱反射して世界を白一色に染め上げる。
「……なによこれ、なんの冗談?」
「あの子が逝って霊廟の結界が晴れたんです。いい天気ですね」
「ちっともよくない。紅魔館ではこういうのは悪い天気って云うのよ」
天からも地からも投げかけられる光を、手でひさしを作って遮った。泣きはらして腫れた目に、強い光がひどく痛い。
拝殿の階段を降りていた映姫が、ふと振りかえって笑った。
「そんなこと云ってないで、少しは外にでたほうがいいですよ。あなたの場合、吸血鬼と違って日の光が弱点というわけでもないでしょうに」
「なによ、まだお説教し足りないの? もう私は十分外にでたわ。人里に通った上に住み着きまでした。魔界にだって行った。これ以上なにをしろって云うの? キャンプファイアーで肩を組みながら歌でも唄えばいいのかしら?」
「ふふ、それも楽しいんじゃないですか」
私と同じように泣きはらした目を細め、閻魔は笑う。
自分でもひょっとしたら楽しいんじゃないかと思ってしまうのだから、私も変わったものだと自嘲する。五年前、阿求と出会う前までの私では考えられない反応だ。
まるでそう、私のほうこそ生まれ変わったかのような。
けれど考えてみれば、私たちだって日々転生しているようなものなのだ。毎日少しずつ忘れ、少しずつ変わり、少しずつ死んで少しずつ生まれ、やがて別人になっていく。
御阿礼が代ごとにくぐり抜けていくステップを、ただ私たちは毎日少しずつ繰りかえす。それだけだ。すべては過去になり、思い出になり、刻の流れは流転して決して留まることはない。
――だから。
だからせめて私が、そのすべてを覚えていよう。あの子みたいな完璧な記憶ではないけれど、私がみて感じて触れたことのすべてを。
あの子がなにを好み、なにを嫌い、なにを恐れ、なにを愛していたのかを。
この幻想郷を駆け抜けていった九代目阿礼乙女、稗田阿求のすべてを。
――大好きよ、阿求。
百年経っても、二百年経っても、男になっても、性格が違っても。
ずっとずっと、愛している。
「あの子のことを頼むわね、映姫」
「ええ、あなたに云われなくてもそうしますよ。これから先は私の戦いです」
凜と伸びたその背筋が、反射光に輝いていて眩しい。
目を細めた私に手を振って、白い雪の上を白い閻魔が去っていく。
――あら、あれは?
その雪につけられた足跡のすぐ横、壁沿いに植わった木立の中で一輪の花が咲いている。被さった綿飴のような雪の中、白い花弁を咲かしている。
それは八重咲きの乙女椿だ。
これも結界が晴れた影響か、あれほど群生していた彼岸花はもう一輪も生えていない。そこかしこで草花が芽吹き、生き物が息づく気配がする。それで私は、この霊廟が今までどれだけ死んでいたのかに気がついた。
――やっぱり阿求には、乙女椿がよく似合う。
奥の院にはあの花を添えてやろうと、私は思った。
けれど、物語はそこでは終わらなかったのだ。
エピローグ
――どうかな? 変かな? おかしくないかな?
鏡の前で何度も何度も繰りかえす。
こぁは「ばっちりです」と太鼓判を捺してくれたけれど、正直まるで信用することはできなかった。基本的にあの子は、私のことならなんでも誉めるから。
アリスに仕立ててもらったボルドー色の別珍ジャンパースカート。
胸元のヨークをフリルで覆い、プリンセスラインにラダーレースを通し、裾はスカラップにくくってトーションレースで飾っている。
当然パニエを重ねて膨らませ、裾からちらりとドロワのレースがみえている。ブラウスは姫袖の生成を選んで、お留袖で手元にアクセントをつけて、仕上げに大きなラウンドボンネットを被ってこれで完璧、人形みたいな女の子。
――やりすぎじゃないかしら。
まじまじと鏡をみつめてそう思う。
阿薫が出した『増補改訂版幻想郷縁起』では、私の称号が“動かない大図書館”から“動く大図書館”に変わっていた。けれどときどき、動かないころの自分自身が顔をだす。
こんな風にオシャレに気を遣いすぎるなんてみっともない。見た目に拘るなんて魔女らしくない。わーっと叫びながら全部脱ぎ捨てて、着たきり雀のいつもの格好に戻りたくなってしまう。
『大丈夫よパチュリー! 可愛い女の子が嫌いな女の子なんていないんだから!』
無駄に晴れやかな笑顔でサムズアップする、アリスの姿を思いだす。
それはそうかもしれないけれど、実際可愛いくて似合っているかどうかが問題だ。あとあの子は絶対私のことを等身大の人形かなにかだと思っている。
そんな風に鏡の前で唸っていると、キイとドアノブを回して部屋に黒猫が入ってきた。
『準備はできたかパチュリー・ノーレッジ。……ってまだやっていたのか……』
『ああ、目占《めうら》。どうかしらこのコーディネイト。おかしくないわよね?』
『私からすると、服を着ている時点でおかしいよ。まったく二足歩行の女と云う者は、どうしてこう揃いも揃って支度が長いのか……』
『なによもう……わかったわよ、もうこれでいい。ほら、いくよ目占』
そう云って藤のバスケットを開くと、目占がふわりと空を飛んできて中に収まった。
紅魔館の魔力に当てられたのか、最近この子はよく化猫じみたことをするようになった。
きっとそのうちひと型に変化したりもするのだろう。そのときこの子がどんな姿をとるのか、それが少しだけ楽しみだ。
目占が入ったバスケットをもって、赤い廊下をふよふよと飛んでいく。すれ違う妖精メイドたちが次々と立ち止まり、「可愛いです」と誉めてくれる。嬉しいけど、やっぱり少し気恥ずかしい。誉めることにも誉められることにも慣れないといけないなと思う。
試しに「ありがとう、あなたもいつも可愛いわね」と妖精メイドのひとりに云ってみたら、顔を真っ赤にして逃げだしてしまった。もしかしたら怒らせてしまったのかもしれない。誉めるというのはこれで中々に難しい。
テラスにでると、いつもどおり紅魔館の住人たちがお茶を飲んですごしている。ひときわ大きな椅子に座るレミィ、そのはすむかいにフラン。咲夜は銀のカートの横に瀟洒なポーズで立っていて、足下では尾白がなにか餌を食べている。
「おーっ! ぱっちぇ可愛いー!」
ホイップクリームがついた口を丸く開け、フランが華やいだ声でそう云った。
「ありがとうフラン、ちょっとやりすぎかとも思ったけれど……そう云ってくれると嬉しいわ」
レミィの隣、私の指定席に腰を下ろして微笑みかける。
気がつけばフランの口についていたホイップクリームは綺麗さっぱりなくなっていて、咲夜は変わらずかしこまった様子で立っている。
気にせずこくりと紅茶を飲むと、レミィが溜息を吐くように云った。
「なーによデレデレしちゃってまぁ……。七十年連れ添ったあの陰気な魔女は、一体どこにいっちゃったのかしら」
「うっさいわねレミィ。いいじゃない、私のそういうところ嫌いだったんでしょ?」
「ふん、嫌いなところも含めて好きだったんだ」
つんと顎を反らしながら、そんな理不尽なことを云い放つ。
「なによそれ、わがままね」
「そりゃそうさ、悪魔だもの」
うそぶいて、親友はニカッと笑った。
ふと黄色い蝶が庭のほうから飛んできて、テーブルに添えられた花にとまる。
春告精がはばたく音は、もうすぐそこまで聞こえてきている。
――それは笑ってしまうくらいあっけない幕切れだった。
今まで悩んだり泣いたり喧嘩したりしてきたことはなんだったのかと思うくらい。
それは運命と呼ぶのもおこがましい、風が吹けば桶屋が儲かる的な笑い話だ。
「ねぇレミィ、少し聞きたいことがあるんだけど」
「なによ改まって、どうしたの?」
そろそろ出かけようかというころになって、ふと思いついたことをレミィに問いかける。
それはずっと疑問だったこと。不思議で疑問で、少しだけ疑っていたこと。
「あのころ、どうしてあんたはずっと起きだしてこなかったの?」
「ふぇ? あのころってなにさ?」
「阿求が――ここに通っていたころのことよ」
あのころレミィは、阿求がいるときに限って絶対起きだしてこなかった。おかげで阿求はレミィとフランの記事を書くために何十回もこの紅魔館に足を運ぶはめになり、気がつけば私と彼女は惹かれあっていた。
もしあのころ、レミィが早々に阿求と会っていたとしたら。
もしあのころ、阿求が私たちと仲良くなる前に目的を達成して、紅魔館にこなくなっていたとしたら。
――いや。
「そもそもあなた、あの日そんなにプリンが食べたかったわけ?」
ずいと顔を近づけて問いかけると、レミィは呆れたように眉をしかめる。
「あのねぇ、なに云ってんのかわからないわよ。魔女の思考についていけるか。わかるように説明しなさい」
「阿求がはじめてここに来た日のことよ。本当はこぁが私に彼女の来意を伝えにきて、取り次いでもらうはずだった。けれどあなたがあの子に、どうしても今すぐプリンが食べたいだとか無茶なことを云って、こぁは私のところにこれなくて、仕方なく阿求はひとりで図書館に訊ねてきて――」
口いっぱいにショートブレッドを頬張る私と出会った。
『――思ってしまったのです。……なんて可愛いひとだろうって』
もしそんな出会いじゃなかったとしたらどうだろう?
阿求が私のことを初対面で可愛いなんて思わなかったとしたら。
普通に出会って普通に会話して普通に別れて、阿求の中の私のイメージがずっと気むずかしい魔女のままだったとしたら。
「聞きたいの、パチェ? それを本当に聞きたいの?」
レミィは瞳を弓のように折り曲げて、口元をにたりと吊り上げる。
そんな悪魔的な笑みに、思わず私は絶句する。
もし本当に全部レミィの手のひらの上だったとしたら、一体これから先この悪魔とどうつき合っていけばいいのだろう。
「あはははは! 冗談よ冗談! 私は知らない、なにも知らないわ。ひょっとしたら私の能力が関係してるのかもしれないわよ? でも運命なんて結局そんなもんじゃん。どうせやり直すことなんてできないんだから、考えたって無駄無駄」
してやったりと笑うレミィの背中で、黒い翼がパタパタと揺れている。
私は少しほっとして、ちょうどテーブルに出ていたショートブレッドにかぶりつく。
相変わらず咲夜が作るショートブレッドは絶品だったけれど、やはりこのお菓子は少し粉っぽく、紅茶がなければつい咳きこんでしまいそうになる。
あのときよりによってこのお菓子がテーブルの上にあったのも、きっと深く考えないほうがいいことなのだろう。
なるほど、レミィにしては珍しくいいことを云う。
たとえその運命を誰かが操っていようと関係ない。そこに誰かの意志があろうと関係ない。一度起きたできごとにやり直しなんて利かないのだから、あとはそれをどう受け止めるかの問題にすぎない。
「――そう云えば、バチカンの禿げどもがいいことを云っていたわよね」
「うん?」
「運命と世界を統べる誰かの意志を感じながら、それをまるごと受け止めるための魔法の言葉。ほら、異端審問官があんたの前に立つときによく云っていたでしょう?」
「へぇ、なんだっけそれ?」
「――アーメン」
つぶやくと、レミィとフランが同時にびくっと背筋を震わせた。
* * *
目占が入ったバスケットを抱え、幻想郷の空を飛ぶ。
どこまでも青く澄んだ空の中、頬をくすぐる風は暖かく、遙か結界の山には絹雲がたなびいている。見下ろす地上では河が木々を縫って蛇行し、丘のふもとで弾幕合戦の光がぽんぽんと浮かんでいる。
いつもとなにも変わらない、幻想郷の風景だ。
私たちがどれだけ変わってしまっても、きっといつまでも変わらない、幻想郷の穏やかな昼だった。
再思の道にそって飛び、無縁塚の桜を眺めながら雲の中へと入っていく。大きな門の形をした幽冥の結界を飛び越えると、長い長い石段が続いている。
その段の中程に、なにか書き物をしながら腰掛けている天狗がいた。
「――あ、きましたね!」
私に気づいた射命丸文が、ぱっと顔を輝かせながら飛んでくる。
うざい。
なにがうざいって、メモを取る気満々でいることが果てしなくうざい。
「あやややや、そんな露骨に嫌そうな顔しないでくださいよぅ。ちょっとお話いただければすぐに帰りますから、もうぴゅーって、ぴゅーって! 一目散に!」
「あんたの帰りかたの話なんてどうでもいいんだけど……なんの用よ」
「いやー、本日はこれまた素敵なお召し物で! クラシカルドールみたいなフリフリがお人形みたいなお顔によくお似合いですね!」
「な・ん・の・用・よ」
じろりと睨みつけると、途端に天狗は“またやっちゃった”とでも云うような顔をした。
もう面倒くさい。面倒くさくて仕方がない。
この天狗は、まだ私が怒っていると思っているのだ。
だからこんな風に露骨にへりくだったりご機嫌をとるようなことを云って、それでまた私を苛つかせる。
私自身はもうあまり気にしていない。当時は腹が立ったけれど、私が阿求に近づいたのはあれが切っ掛けだったことも事実。その結果今の私と彼女がいるのだから、むしろ感謝したい気さえしているというのに。
こんな風にへりくだった態度ばかり取られると、態度を変えることすらできやしない。
「いや、あのー、このたびの是非曲直庁の人事について、なにか一言もらえればと思いまして。いや、無理だったらいいんですが!」
及び腰でそんなことを云って、天狗はごまかすようににへらと笑う。
――仕方ないな、もう。
私は溜息をひとつ吐いて、射命丸文に微笑みかける。
もうこんなギスギスした関係は、終わりにしたい。
「ええいいわ、一言云えばいいんでしょう?」
「あ、はい! ぜひとも!」
「そうねぇ――四季映姫が閻魔王となったことは、我がごとのように嬉しい。加えて慣習と判例をくつがえしてまで御阿礼の子に寛大な処分をくだしてくれたことには、感謝してもしたりない。おかげで私は毎日のように愛しいひとの元へむかうことができるのだから――と、こんなところでいいかしら? どうせそういう記事なのよね、それ?」
「おおおお! 完璧です! もうばっちりそういうコメントが欲しかったところでして!」
顔を輝かせながら一心にメモをとる射命丸。
その瞳の煌めきも、今はなんだか好ましいものにみえる。
「いい記事にしてね」
微笑みながらそう云うと、天狗はきょとんとした顔をした。
――閻魔王が出奔した。
起きたのは、ただそれだけのこと。
けれどそこに至った経緯を考えると、あまりにもご都合主義的な展開にレミィの関与すら疑ってしまうのだ。
聞けば閻魔王は、以前から弾幕ごっこにはまっていたらしい。
魔界の隅々にまで浸透していた弾幕ごっこ。確かに是非曲直庁で流行っていてもおかしくはない。映姫や小町だって、わざわざこの幻想郷までやってきては、お説教と称して弾幕戦を仕掛けてくるほどなのだから。
どうやら外界のプレイヤーにとって、この幻想郷は絶対王者博麗霊夢が住まう弾幕戦の本場として捉えられているらしい。
けれど十王の地位にあるものが、責務をほっぽりだして頻繁に幻想郷に訪れるわけにもいかない。仕方なく庁内で相手を探してみても、みな十王の肩書きに恐れをなして本気で相手をしてくれない。
――だから辞めた。
そういうことらしい。
前代の閻魔王は十王の中でも最古参だったらしいから、元々潮時ではあったのだろう。そうして職務を放りだした閻魔王が、自分の後継者として使命したのがあの閻魔。
幻想郷出身で、普段から弾幕戦の相手をしてくれていた地位の高い閻魔、四季映姫なのだった。
だからどうしても、私は考えてしまうのだ。
レミィが大暴れした結果できたスペルカードルール。それが幻想郷中に広まる原因となった紅霧異変。やがて花開いた弾幕戦文化。薄くなった幽冥の結界。
――運命を、操る程度の能力。
『もしやその能力こそが、今の幻想郷を面白くしている原因ではないか。彼女が操る運命はこの幻想郷全土に及んでいるのではないか。そんな仮説を、わたしはたてているのです』
一目散に去っていく天狗の背中を眺めながら、ふと、阿求がそんなことを云っていたなと思いだす。
巨大な唐門をくぐりぬけると、そこには広壮なお屋敷が広がっている。
まるで迷宮のように入り組んだ寝殿造りのお屋敷は、どこにも果てなどないかのよう。浄土式庭園には池や泉や森が広がり、こけむした灯籠に幻想の蝶がとまっている。
はらりと、どこからか桜の花びらが舞い落ちた。
「いらっしゃいませ。さきほどからお待ちですよ」
かすみのように現れた庭師の魂魄妖夢が、そう云ってぺこりと頭を下げた。
「――ありがとう」
お礼を云うのもそこそこに、私は屋敷に駆けこんでいく。
ざーっと周囲を吹きすぎていく桜の花びら。
バスケットの中、目占が笑う声がする。
――阿求。
――阿求。
――阿求。
心の中で何度も叫びながら、廊下を最大スピードで飛んでいく。角を曲がり、ふすまを開けて、何百畳もある空間をつっきって。
そうしてたどり着いた、金箔張りの豪奢なふすま。流麗なタッチで描かれた鳳凰が、いま正に飛び立たんとしているところ。
思いきり開けると、こじんまりとした部屋だった。
縁側のむこう、四角く切りとられた空に桜の森が広がっている。
気が狂いそうなほど美しい、桜色の海。
――それをちょこんと座って眺める、小さな小さな人間の姿。
よもぎ色の小袖に蜜柑色の打掛けを羽織り、下半身にスカートか袴かよくわからない穿き物を合わせている。
かむろに揃えた鳩羽色の髪に乙女椿のかんざしを差し、凜と伸びた背筋はどこまでも清廉な印象だ。
「――阿求」
声をかけると、ゆっくりと振りかえる。
「――お待ちしておりました、パチェ」
最愛の恋人は、桔梗色の瞳を細めて花のように笑った。
(了)
シリアスな場面や気楽に話をしたり悲しさがあってり、パチュリーと阿求の関係、映姫様に感情をぶつけたり
阿求との別れや後日談など、面白いお話でした。
切ない、読んでいる最中はとにかくその一言につきました。けれどエピローグにやっと救われたという気がします。やっぱりハッピーエンドは良いものです。よかった。
長さも苦にならないほどに面白いお話でした。
感動をありがとうございました!
いい話をありがとうございます
ただ、たまにパチュリーの描写がぶれてたのが気になりました。
感動をありがとう。
いい話をありがとう
自分は表現力がないからこれだけしか言えない
素晴らしく良い話をありがとう。
ただただ、こんなよい作品をありがとう
文章力が無くて本当にすみません
有り難うございます。
目占のキャラが良い、
終わったのにまだ先が気になるくらい。
最後はやや唐突な感じではありましたが、綺麗に終わってほっとなれました。
素晴らしい作品をありがとうございました。
その阿求の台詞を目にした途端、涙が溢れて止まらなくなりました。
素晴らしい作品を読ませていただき、ありがとうございました。
ショートブレッドをたまに吐く動く大図書館とともに、
ずっと書物を紡いでいきます。
ただエピローグを読んでいて、不意に浮かんだのは
映姫様の非対象な笑顔でした
二人の話が濃いくらいあるのにもっと読みたいと思います。
個人的に気になる所を差し引いてもこの点数で。
パチュリーと阿求が素敵なのは勿論、レミリアや映姫様たちも良い味を出していました。
素晴らしき表現力でした、序盤からしっかり引き込んでくる。
だめだ、時間経ってから書いてるのに何を書けばいいのかまだまとまらんです。
素晴らしい作品を読ませていただきありがとうございました。
いや、良いカプでした。ご馳走様です。AQNかわいいよAQN。
僭越ながら、これは誤字でしょうか?
6章の慧音先生のセリフで、
「先代と先生代が」→「先代と先々代が」
先程は興奮(?)しすぎて兎に角上の一文しか書けませんでした。
結局今は布団を飛び出してPCから書いております。上の文はPSPです。
まさかここまで感銘を受ける作品があるとは思っていませんでした。普段は何気なしに目に付いた作品を読んだり、色々な方のレートの高い作品を沢山拝読させていただいたりしてきましたが、何か、こう、それらよりも更に心にきました。
俺がパチュリー好きだということも関係あるかもしれませんが。
拙い俺の語彙ではこの感動を、何よりの作者様に伝えきれないのが本当に悔やまれます。
兎に角、最高にいいお話でした。
俺も、この作品のような物をかけるように精進したいと思います。これが本当に俺の理想の形です。
丁寧に描かれた物語にしっかりと引き込まれて読むことができました。
独特な表現と味のある比喩を絡めて、まさに最高の作品でした
あっきゅんとパチェの絡みは言うまでもないのだけど、たまに挿入されるレミィやら映姫とか、とても「らしい」と感じました。
ありがとう。
とても素晴らしい
本当に素晴らしい
最高だ
好き好き好きだ
最高だ
それぞれのキャラクターがしっかり生き生きとしていて、あえて言うなら非常に泥臭い部分があってだからこそものすごい感情移入ができる
そして寿命の違い、種族の違い、生き方の違いから生まれるストーリーを無視しすぎるでもお涙頂戴に描きすぎるでもなく、まっすぐに向かい合ったからこその感動、といいますか
最後のハッピーエンドは少々ご都合主義かもしれませんが、それまでの流れがしっかりしていたので萎え手しまうこともなく非常に感動。
というか感動しすぎてあなたのHPの作品全部読んで来ちゃいましたよ。
こっちも同性愛について非常に誠実な、妥協を許さない姿勢が伝わってきました。というかネット小説で初めて泣きました
個人的には有っても無くても100点付けたと思う。
最近はちょっと長い話ってだけで評価がつきづらくて残念ですね。
こういう作品を読める人が増えると良いですね。
読者の方も頑張るべき。
特に阿求への繊細な描写が良い。
パチュリーが阿求と会うたびに彼女をしっかりと見ている感じがして、なぜだかとても切なくなりました……。
そして彼女たちは可愛らしすぎる!
もうほんとに素晴らしい作品ありがとうございました。
感謝してもしきれません。
ありがとうございました。
後編はちょっとだれた感じがしました。
ありがとうございます。
ところで前編のコメントで100点以外に考えられないって言っちゃったんだけど
訂正、どうして100点以上って無いんでしょうね?
特に、現世からの消滅が近づき、感情的に乱れる阿求の描写が良かった。
最後まで穏やかだったら、ちょっと見方が変わっていたかもしれません。
あと映姫様…閻魔の仮面の下には、色々な感情があるのですね。
素晴らしい作品、ありがとうございました。
良い感じに行動力があるパチュリーが好みで、一気に読んでしまいました。
仮面を被り何度も死を見てきた映姫と初めて看取るパチュリーの思いの違い、最期が近づき感情的になる阿求等とても繊細に描かれていました。
自分がそちらの方が好きだからかも知れませんがラストにて再会できて良かったです。
こんな言葉では伝え切れませんが最後に作者様に最大の感謝を
胸に染み渡りました。
登場するキャラに芯が通っているのは、作者様の原作や資料や物語に対する実直さの表れなのか。
本来ならばパチェの心情を濃密に描いた筆力に感嘆するところなのに、その真摯さの方に惹かれた気がします。
読み終わって振り返ってみると、恋愛小説でもない、百合小説でもない、全く新しい感覚を味わったように思います。
いずれの小説も、あるいは奇想天外ファンタジーであっても、登場キャラクターの心情を自身の中に取り込むとき、ありきたりな人間の価値観でフィルタリングしてしまうのですが、この作品のパチェという魔女や阿求という転生を繰り返す人間の枠からはみ出た人間の感情模様は、その緻密な描写のおかげでそのまま取り込めた気がします。
ゆえに、全く新しい感覚として自分の中に落ちてきました。
こうなってくるともう百合とは呼べず、ただの恋愛というカテゴリーとも違う、じゃあ何だと問われれば答えに窮するような、新しいジャンルにも思えてきます。
それにしてもパチェと阿求という組み合わせ……可能性を見せつけられた気がします。
異色カッポォの化学反応は読んでみるまで何が起こるかわかりませんね。
それを描いてみせる作者が何を起こすかわからないと言うべきか。
勝手に一年熟成させたのですが、一年楽しみに寝かせていて良かった……などと思う次第です。
可愛くて、健気で、切なくて。すごくいい話でした。
ふらっと寄ったらこんな素敵なお話に…
ありがとうございました。
素晴らしい作品でした
兎に角素晴らしかったです