" />壊れやすい本の話 作者: デルフィ
Coolier - 新生・東方創想話

壊れやすい本の話

2010/03/21 15:41:58
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 阿求と出会ったときのことは、今でもはっきりと覚えている。
 それは第百十九季の水無月二十六日、暑い夏の午後だった。

 ――パチュリーさま……ですよね?

 図書館で本を読んでいるとき聞こえてきた、その風鈴めいた涼やかな声のこと。驚いてふりかえった途端目に入ってきた、そのひどく儚げな立ち姿のこと。そのとき彼女が着ていた小袖の椿模様が、紅魔館の腰板に彫られた唐草文様と妙に調和しているように思えたこと。
 みんなみんな、覚えている。
 けれど阿求なら、そんなシーンの詳細も私なんかよりはるかに正確に覚えていることだろう。なんといっても求聞持の能力をもつ彼女のことだ、当時のまま頭の中に刻まれているに違いない。
 そのとき私がどんな本の何ページを開いていて、そこに書かれた物語がどんなものだったのか。あるいは驚きに見開かれた私の瞳に、どんな光景が映っていたか。はたまた私がくわえていたショートブレッドの大きさや色や形の細部まで、一切セピア色に褪せることなく彼女の中で息づいているに違いない。
 ――きっと訊ねれば、教えてくれたことだろう。
 阿求と深く関わるようになってからの数年間、私は彼女に会えば必ず物語をせがんできた。
 百歳をとうに越したこのパチュリー・ノーレッジが、まるで頑是ない子どものようにお話を聞かせてとわずか十二、三歳の阿求に頼むのだ。
 そんなとき阿求は私の膝にぽんと頭を乗せ、うっすらとした微笑を浮かべながらとうとうとその当時の情景を語ってくれた。
 それはたとえば彼女自身が産まれた日の話。あるいははじめて誰かを好きになった日の話。アイスクリームを食べた日の話。黒猫を拾った日の話。月の物がきた日の話。縁起執筆の旅にでようとした日の話。
 求聞持の能力をもつ彼女は、あらゆることを覚えている一冊の本だった。
 けれど阿求はひどい寂しがりやだったから、そのページをめくるには膝枕の儀式が必要だったのだ。
 おかげで私の膝は、彼女が死んだ今になってもその頭の形を覚えていて、たとえばそこに阿求が飼っていた黒猫や妹さまや橙の頭を乗せてみても、どうにもしっくりこないのだ。

 百年以上生きてきた私が、たったの数年間でここまで変わってしまうなんて自分でも不思議だ。まるでそこに運命的な力が作用しているのではないかと思うくらい。
 けれどその疑問を親友のレミィにぶつけてみても、彼女はいつだって「さぁね」とつぶやいて悪魔的な笑みを浮かべるだけ。
「運命なんてものはいくらでも好きに解釈できるもんだ。パチェが運命だと思うならきっとそうなんだろ」なんて、自分の能力をまるごと否定するようなことを云う。

 私が思うに、運命とはよくできたお話のようなものだ。
 それは架空の世界を舞台にして、偶然と必然によって織りなされていくタペストリだ。波瀾万丈の物語という縦糸を軸に、張り巡らされた伏線がアクセントとなって美しい模様を描きだす。そうしてただの日常の活写だと思っていたシーンたちが、できあがってみればなぜか都合よく作品全体のテーマと響きあっている。
 そんな物語のように都合のいいできごとが現実におきたとき、ひとはそれを運命と呼ぶのだろう。
 もしほんの少しでもなにかが違っていれば、ほんの少しでもタイミングがずれていれば、決してこんな結末にはならなかったはずだ。あとから振りかえってそう思うとき、ああ、あれは運命だったのだなと懐かしく思うのだ。

 ――だから。
 私たちがこんな風に出会ったのも、きっと運命だったのだろうと思う。

  *  *  *

 ――コンコン。
「入りなさい」
 図書館のドアをノックする音に、私は本から顔を上げずに返事をした。
 どうせ、咲夜だろうと思った。
 もしレミィや妹さまならドアを開けるときにノックなんてするはずないし、小悪魔なら近くにいればそれとわかる。それに本嫌いの美鈴が図書館にくるなんて、スキマ妖怪が土下座をするくらいありえない出来事だ。
 そう思って、私はもふりとショートブレッドにかぶりつく。完璧で瀟洒な我らのメイドが、いつの間にか紅茶を淹れてくれることを期待して。
 ――けれど、入ってきたのは咲夜ではなかった。
「パチュリーさま……ですよね?」
 その聞いたことがない声に顔をあげて振りむくと、図書館の入り口にみたこともない娘が立っていた。
 よもぎ色の小袖に蜜柑色の打掛けを羽織った、里者風の娘だ。下半身にはスカートか袴かよくわからない穿き物を合わせ、かむろに揃えた鳩羽色の髪に乙女椿のかんざしを差している。
 歳のころなら、おそらく十にも満たないわらべだろう。
 ――もし、それが普通の人間だったなら。
 ありえない。そんなことはありえない。
 私の背筋が、まるでチルノを突っこまれたようにぞわりと粟立った。
 この紅魔館の地下図書館まで、ただの人間が無傷で忍びこめるはずがない。あの白黒ですらどたばたと大騒ぎをした挙げ句にやっとここまでたどり着けるのに、どうしてこのどこもかしこも細い弱そうな娘が、無傷のままこんなところに立っているのか。
 よほど特殊な能力をもっているか、さもなければ相当の実力者だ。
 どちらにせよ、取り継ぎもなしに忍びこんでいる以上、友好的な相手のはずがない。
 ――何者よ!
 格好良く叫ぼうとして、けれど思いきりむせた。
「なにぶふぉっ!」
 口いっぱいにショートブレッドを頬張っていたことを忘れていた。その時点でなにをどうしても間抜けだったのに、私は口からお菓子の弾幕を盛大に噴きだしながらむせたのだ。
 しかも喉に負担がかかったせいで、途端に喘息の発作まででてきてしまった。気管が急激にせばまって、息を吸おうとするたびにひゅーひゅーと笛のような音がでる。目の前が真っ赤に染まっていき、椅子から転げ落ちて床に這いつくばりながらうめいた。
 ――最悪だ。
 死亡確定、パチュリー・ノーレッジここに眠る。死因はショートブレッド。
 この紅魔館の魔女パチュリー・ノーレッジが。億千の呪文を操り、忘れ去られた始原の秘術を掌中にした日陰の魔女パチュリー・ノーレッジが。弾幕のひとつも張れず、呪文のひとつも唱えられずに死んでいくなど、なんと間抜けな最後だろう。
 ――ああ、いっそ今すぐ殺して欲しい。
 そう思ってちらりと童女のほうを眺めるけれど、意外にも彼女は目をまん丸にして驚いているだけで、襲ってくるような気配はまるでない。
 ――あら、敵じゃないのかしら。
 取りだした気管支拡張剤を吸いこみながら、改めて彼女の姿を眺めみる。枯れ枝のような細い手足に、アルビノめいて白い肌。そんな弱そうな外見どおりに魂の芯まで弱々しく、とてもじゃないが強敵のようには思えない。けれどその桔梗色の瞳だけが深い英知をたたえるように輝いていて、それが少しだけ気になった。
「だ、大丈夫ですか、パチュリーさま!」
 慌てて叫んで、童女は短い足で駆けてくる。ぜーぜーと荒い息を吐く私の横にひざまづき、おそるおそる手を伸ばして丸まった背中をさすってくれた。
 その手がびっくりするくらい小さくて、思わず私は自分のことより彼女の心配をしてしまう。
 ――こんな小さな子どもが、どうしてこんなところにいるのだろう。
 この吸血鬼が住まう、死と頽廃に満ちた紅魔館に。

 やがて彼女の小さくも暖かい手のおかげか、呼吸も落ち着いてきてようやく私は喋れるようになった。
「……一応お礼を云っておくわ。ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
 にっこりと微笑む童女を、けれどじろりとにらみつける。
「――で、誰よあなた」
「あっ! これは失礼しました!」
 彼女はそう云って私から離れ、ふいになにかを切り替えるようにすっと背筋を正した。
 ――その瞬間、図書館が古びたセピア色に染まった気がした。
 じっと私をみつめてくる、力強い眼差し。
 桔梗色をした彼女の瞳が、足を踏み外したら吸いこまれそうなほどに深く深く澄んでいく。その奥のほうに豊饒な英知が広がっているのが感じられる。ぴんと伸ばした背筋から、ふわりと古代の風が漂ってくるようだ。
 ――ただ者じゃない。
 これはやはり、ただの人間の子どもじゃない。
「……何者よあなた」
 かすれ声で問いかけた私に、彼女はにっこりと笑ってこう云った。
「――稗田阿礼の生まれ変わりにして九代目阿礼乙女、稗田阿求と申します。以後お見知りおきを」

 ――それが。

 そんな情けない一幕が、私と阿求との運命的な出会いの顛末だ。
 私が生涯にわたって最も愛した一冊の書物――稗田阿求との。



壊れやすい本の話





1

 ――どういうことなのよ。
 紅魔館の紅い廊下を、私はゆっくりと飛んでいく。阿求を送りかえしてからしばらく経つけれど、いつまで経ってもお腹の底で渦巻く怒りの感情は収まらない。よほど怖い顔をしていたのだろうか、すれ違った妖精メイドたちが、皆ぎょっとした顔をして逃げていった。
 ――この、役立たずどもめ。
 こんなにたくさん妖精メイドたちがいて、さらに咲夜までがいて、どうして阿求は取り次ぎもなしに突然図書館に現れたのだ。
 おかげで私はひどくみっともないところをみせた。
 あの子に、ひどくみっともないところをみせたのだ。
「――咲夜!」
 カフェテラスに通じる窓を開けると、レミィの給仕をしていた咲夜が驚いたように顔を上げた。
「あら、どうされましたパチュリーさま?」
「どうされましたじゃないわよ。あんたレミィの給仕もいいけど、ちゃんと警備もしなさいな。また大きな鼠がでたじゃん」
「あら、おかしいですわね。白黒鼠ならさっききっちり追いかえしたはずですが……」
「白黒じゃない。今度は紫色の鼠よ」
「え? それ自虐かなにかですか?」
「違う!」
「そうですよねぇ、パチュリーさまは鼠ほど素早く動き回れませんし」
 そんなことをしれっと云って、咲夜はレミィの隣に用意されていた私専用の椅子を引く。いつものテーブルのレミィの隣、そこにはどんなときでも私のための席がある。レミィと知り合ってからの七十年、この悪魔の隣はいつだって私の指定席なのだ。
 ――月の綺麗な夜だった。
 吹きさらしのカフェテラスには濡れたような月光がこぼれ落ち、吸血鬼と魔女と人間の肌を一様に青く染めていた。眼下に見下ろす湖畔の景色は薄暗く、影という影の中、魑魅魍魎のうごめく気配が感じられる。どこか遠く森のむこうから、ひょーひょーと鳥の啼く声が聞こえていた。
 それはいつもとなにもかわらない、幻想郷の夜だ。
 ここに館ごとやってきてから、夜が明るかったことなどついぞない。月がみすぼらしかったことなどついぞない。幻想郷の夜は、まるで妖怪のために用意されているかのようにどこまでも暗く、秘密めいて深いのだ。
「――へぇ、“幻想郷の記憶”ねぇ?」
「そうよ、御阿礼の子と幻想郷縁起。面白い話でしょう」
 渦巻いていた怒りの感情も、咲夜の紅茶を一杯飲み干したころにはあらかた消え去ってしまっていた。そのあたりこのメイドは呼吸のとりかたが実に上手い。
 なんで怒っていたのかとレミィに問われるまま、私は御阿礼――稗田阿求のことをふたりに語った。レミィには云っておかなければいけないと思っていたから、ちょうどよかった。
「そう云えば里で聞いたことがありますわ。里の郊外に、それはそれは高貴にして古い一族が住んでいると。稗田……なるほどあの子がですか」
 つぶやいて、咲夜は私がみせた『文々。新聞』をテーブルに置いた。
 重石代わりに載せたティーカップの下で、風に吹かれて新聞がかさかさとひるがえる。
 その一面には、『九代目阿礼乙女現る』の見出しの下、稗田阿求とよく似た格好をした少女の写真が載っていた。

 ――御阿礼の子。
 それは千二百年前、まだここが結界に閉ざされる前に活躍した稗田阿礼という人間の、生まれ変わりたちの総称だ。初代阿礼は一度みたものを決して忘れないという求聞持の能力を活かし、妖怪の食料になるしかなかった弱い人間たちのために、『幻想郷縁起』という妖怪図鑑を著わしたという。
 その妖怪図鑑は人間たちに好評でもってむかえられ、幻想郷の人間たちの生存確率を大いにあげた。そのため閻魔に記憶と能力を保ったままの転生を許されることとなり、今もこうして約百年間隔で幻想郷に現れては、新たな『幻想郷縁起』を執筆するというわけだ。

 最初にその記事を読んだとき、私はえも云われぬ興奮を感じたことを覚えている。
 だから稗田阿求が自己紹介したとき、すぐにこの子のことだと気がついた。御阿礼の子のことは、ずっと頭の片隅にあったのだ。
 何度も転生を繰りかえしては一繋がりの書物を完成系へと近づける、その営みに私は惹かれた。本のそばに在るものこそが自分だと思うこの私だ、惹かれざるをえなかった。
 ――けれど。
 実を云うと、より強い興味をかきたてられたのは、御阿礼の子がもっているという求聞持の能力のほうだ。
 なんといっても天狗の新聞によれば、この御阿礼の子は初代阿礼から続く千二百年間の記憶をすべて持っているのだという。にわかには信じがたい話だけれど、いくらあの鳥頭といえども、こんな肝心なところで適当なことは書かないだろう。
 ――憧れた。
 私は、御阿礼の子に憧れた。
 ありとあらゆる記憶が保全されているというのは、一体どんな気分だろう。そうやって眺めるこの世界は、一体どんな風にみえるだろう。それを想像するだけで、柄にもなく私の胸は高鳴ったものだった。
 もし自分がそんな能力をもっていたとしたら、きっと今のように一日中本にかじりついてすごさなかったかもしれない。うつろいゆくこの世界の四季を、咲く花の彩りを、吹く風の匂いを、鳴く鳥の音階を、一日中愛で、記憶し、脳に保存してすごすことに日々を費やしたかもしれない。
 たしかに私は一日中図書館にいるけれど、なにも外にでたくないわけじゃない。生きている誰かや自然と触れあうことが嫌なわけじゃない。巫女が動かなければ異変解決にだってでかけるし、誘われれば宴会にだって顔をだす。
 ――でも、思い出はいつの日か消えるから。
 どれだけ覚えておこうとしても、私たちは忘れていく。あわせた両の手のひらから、さらさらと水がこぼれ落ちていくように。
 楽しかったできごとも。
 場が笑いに包まれた冗談も。
 好きだったひとの面影も。
 美味しかったお酒の味も。
 感動を覚えるほど洗練された数式も。
 感嘆の声が漏れるほど美しい弾幕も。
 あの日レミィのために全世界を敵にまわそうとした、全身を焦がすほどの怒りさえも。
 ――みんなみんな、忘れていく。
 脳はさほどできがいい記憶媒体じゃない。今覚えていることでも、五十年経ったとき、百年経ったとき、千年経ったとき、一万年経ったとき、どれほどのことを覚えていられるというのだろう。
 だから私は本を読む。
 脳に保存した記憶は消えるけど、本に書かれた文字は決して自分勝手になくならない。たとえ書物が失われようとも、書き写し、保全し、その文字を後生に残していけば、そこにこめられただれかの思いは未来永劫残っていく。
 だから私は本を読み、魔導書に難解な文字を書きつける。
 結局私は、本質的に臆病なのだ。やがて失われるものなら、できるだけ関わりたくはない。心を移したものの喪失に耐えられるほど、私の精神は強靱にできていない。
 けれど本を相手にしている限り、そんな切なさを味わわないですむ。本にこめられたありとあらゆるひとの生き様を読解していくことで、生身のコミュニケーションでは得られないたくさんの人生に触れることができる。
 それこそがこの私が世界と如才なく関わっていくための方法論であり、“動かない大図書館”パチュリー・ノーレッジの存在意義なのだ。

 ――そのときは、まだそう思っていた。

 やがて自分が決定的な喪失を経験するはめになるなんて、夢にも思わずに。

  *  *  *

「――で?」
 口の周りに生クリームをいっぱいつけながら、レミィがこくんと首をかたむける。
「なによ、でって」
 けれど私が応えたとき、なぜか生クリームは綺麗さっぱり消え失せていた。さっきまで口の周りについていたはずの生クリームは、一体どこに消えてしまったというのだろう。本当にこの紅魔館は謎と怪奇と恐怖に満ちていると思う。咲夜がぺろりとくちびるを舐めていることに、私は気がつかなかったふりをした。
「パチェが私にこの子の話をしたのは、なにか理由があるんだろ? それはなにかって聞いてるのよ」
「あら、するどいわねレミィ、珍しく」
「ふん、私を誰だと思っているの? この紅魔館の当主よ当主」
 そう云って、ぴこぴこと嬉しそうに羽根を上下させる当主なのだった。
 私はその疑問にすぐには応えず、ゆっくりと椅子から立ち上がる。テラスを横切って手すりにもたれかかり、じっとレミィの顔を正面からみつめだす。ひょーひょーと、森のどこかで鳥が鳴き交わす声がした。
「――トラツグミよ」
「ああ?」
「あのひょーひょーと鳴く鳥は、トラツグミなの」
「あ、そう? ひとつ賢くなったわ、ありがとうパチェ?」
「どういたしまして、でももうひとつ覚えておいてレミィ。あの声は古来より“ぬえ”という妖怪の鳴き声ともされていたの。凶事を呼び雷を落とす、正体不明の強大な存在よ」
 いらいらした表情でテーブルをとんとん叩くレミィに、私は早口で語っていく。
「でも人里に膾炙している幻想郷縁起にぬえの名前は載っていないから、人間はあれをぬえの鳴き声だと認識しない。他人による恐怖と想起がなければ、私たち幻想の存在はどうしても力を落としていく。そうなれば、もともと正体不明のぬえという存在は、自らの形を保てずに消失することにもなりかねないわ。そうしてそれは吸血鬼や魔女であっても例外じゃない。とくに私たちはまだこの幻想郷にきて日が短いのだから、私たちはここにいるのだと知らしめ続ける必要があると思うの。以上終わり」
「ふーん、なるほどねぇ」
 レミィは前屈みになってテーブルに肘をつく。指を組み合わせてその上に顎を乗せ、睦言のように甘い声音でささやいた。
「――死ぬほど回りくどいわ、ばか」
「悪かったわね、大ばか」
「ふん、つまりパチェ、あなたはこれに私たちが載るべきだって云いたいのね。人間を怯えさせて私たちの力を保つために?」
「そうよ。ただでさえ吸血鬼異変以降、直接人間を襲うことはできなくなったもの。いい機会でしょう?」
 にやりと笑うと、レミィは苦虫を噛みつぶしたような仏頂面をした。
「ひとの古傷をえぐるな魔女。殺すわよ」
「ふん、できるものならやってごらんなさい、弱点だらけの吸血鬼」
 うそぶいて、彼女のひどく赤い目をみつめる。永遠に赤い幼き月、生涯の親友レミリア・スカーレット。ひとの恐怖が悪魔の糧となるのなら、私はこの子にそれをプレゼントしてやりたいと思うのだ。
「まあいいわ、御阿礼の子はこの幻想郷において特別な存在なのね。巫女みたいに」
「ええ。巫女ならたとえ地獄に突き落としても次の日には縁側でお茶をすすってそうだけれど、あの子はそうじゃない。丁重に扱う必要があると思う」
 あの少しつついただけで折れてしまいそうな、細い手足を思いだす。成長というより滅びにむかっているとしか思えない、どこもかしこも未完成な童女の身体と、不釣り合いなほどの理知に輝く大きな目。
 ――人間は、とても壊れやすいものだから。

「ふん――本当にそれだけか?」
「ほえ?」
 予想外のレミィの言葉に、思わず間抜けな声をだしてしまった。視線をむけると、親友は赤い瞳を爛々と輝かせながらじっと私のことをみつめている。
「それだけって……なによ」
「パチェ、随分あの阿求に入れこんでるようにみえるわ。喘息もちのあんたが咲夜に大声で怒鳴ったりね。それって本当に私のためだけか?」
「……なに云ってるのよレミィ、当たり前じゃない」
 私をみつめるレミィの瞳が、なぜか驚くほど大きい。そこに写った丸い月の凹凸が、ここから確認できるくらい。その瞳があんまり赤いから、私は理由もなく許しを請いたくなってしまう。長髪に包まれた首の裏が暑い。腋の下にじわりと汗をかく。まるでそのまま押しつぶされそうな視線の迫力に、溺れたようにあえいでいる。
「ふーん、まあいいわ」
 レミィがにやりと笑うと同時に、プレッシャーは唐突に消えうせた。
「ひ、ひとが悪いわねレミィ……」
「悪魔だからね――咲夜」
「はい、お嬢さま」
「今後稗田阿求に対しては最高の歓待を与えること。紅魔館の恐怖をみせつけるためにもね」
「かしこまりました」
「じゃ――ちょっとフランと遊んでくる」
 そう云い残して、レミィはさっそうと屋敷にもどっていった。気がついたらいつのまにか咲夜もいなくなっていて、私はひとり残されたこのカフェテラスで、丸い月を眺めながらぼんやりと風に吹かれていた。
 深夜の風はさすがにこの季節でも涼しくて、熱をもった身体を優しく冷ましてくれた。
 熱かったのは、レミィに遊ばれたからだけじゃない。 

 ――阿求と会ったその瞬間から、私の身体は火照っていた。

『――パチェ、随分あの阿求に入れこんでるようにみえるわ』

 ひょーひょーと啼くトラツグミの声を聞きながら、私はさきほどかわした稗田阿求との会話を思いだしていた。


2

「そういうわけで、本日はご挨拶に伺った次第です」
 図書館の椅子になぜかちょこんと正座して、稗田阿求はそう云うのだった。
「挨拶? それだけのためにわざわざこの紅魔館まできたの?」
「ええ。ご挨拶というのも他でもない、幻想郷縁起の執筆にご協力いただけないかというお願いなのです」
「ふん、幻想郷縁起ね……話には聞いているわ」
「ああ、それは嬉しい! あの、どうかよろしくお願いします」
 正座をしたまま書き物机に手をついて、阿求は深々と頭を下げた。無駄に器用な土下座だなと思いながら、私はそんな阿求の様子に気にくわないものを感じていた。
 さらりと揺れる癖のない短髪。髪のあいだで可憐に咲いた乙女椿。仕立ての良さそうな小袖をきっちりと着こなしていて、どうみても名家のお嬢さまという印象だ。
 下半身がなぜかフリルつきスカートだというのが不思議だったけれど、もしかしたら最近里ではこういうファッションが流行っているのかもしれない。指摘してひきこもりぶりを晒してしまったら恥ずかしいから、そこはあえてスルーした。
 ――気にくわなかったのは、阿求のこの無警戒ぶりだ。
 なんの力も持たず、それどころかそこらの人間よりはるかに脆弱そうなこの身体で、よくもこの紅魔館の門を叩いたものだと思う。
 そのほっそりとしたうなじも、折れそうな手首も、透き通るような白い肌も。
 この悪魔の館にいるのが理不尽に思うほど弱々しい。
「よろしくしろとはまた随分自分勝手なことね。執筆に協力したところで、こちらにどんなメリットがあるのよ」
「ないかもしれません、あるかもしれません。それをパチュリーさまにご判断いただきたくて、今日はこれまで書かれたすべての幻想郷縁起をお持ちしました」
 ぴくりと動きを止めて阿求の顔をみる。
 彼女はその視線をうけとめてにこりと笑う。
 なんだか見透かされている気がして眉間にしわをよせると、阿求は慌てた様子で背中の風呂敷包みを机に乗せた。
「――どうぞ、お納めください」
「もらってもいいの? まだ協力するとは云ってないわよ」
「はい、もしお邪魔でなかったらどうぞどうぞ……お代官さま」
「ん?」
「いえ、こっちの話です! ごめんなさい!」
 よくわからないことを云う阿求にふんと鼻を鳴らし、風呂敷包みの結び目をほどく。
 中から現れたのは、まだ新しい和綴じの本だった。八冊ほどあるこれは、どうやら最近作られた写本のようだ。
 一番上に乗っていた最も古い日づけの一冊を手にとって、ぱらぱらとめくってみる。
 流麗な筆さばきでつづられているのは、かつてこの土地にあった人里の由来や歴史、文化や風俗を記した民族誌だ。求聞持の能力ゆえか、まるで頭の中に映像が浮かび上がるような迫真の描写で、当時の細々とした日常が語られていた。妖怪に関する記述は恐怖に満ちながらあくまでも瑞々しく、そこに住まうひとびとの切なる願いや世界に対する受け止めかたがうかがいしれた。
「――いいじゃん!」
 思わず華やいだ声を上げてしまって、その瞬間はっと固まる私なのだった。いつのまにか上がっていた口の端を不愉快そうに下げる。見開いていた瞳をつまらなそうに閉じる。
 でもなにもかも遅かった。阿求は喜びにはちきれそうな笑顔を浮かべながら、じっと私の顔をみつめていた。
「ありがとうございます! よろこんでいただけて嬉しいです!」
「……ま、まあ、人間が書いたものにしては、いくらかマシね」
「それでも嬉しいです。ああ、徹夜で写本したかいがありましたよ」
 彼女がほっと胸をなで下ろすように息を吐くと、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。 ――ああそうか、この子もそれなりに緊張してたんだ。
 そう思うと、少しだけ親近感が湧いた。
「あら、徹夜で写本って……これあなたが自分で書いたの? 御阿礼なのに?」
「ええ、そうなんです。少々工夫してイラストなどもいれてみました」
 阿求は身を乗りだしてきて、本文に添えられた挿絵を指さす。強弱のついた筆絵で、なかなかに達者な筆致だった。
「……上手いわね」
「ふふふ、ありがとうございます。あ、最新刊のほうはもっと自信作なんですよ。我ながら手慣れてきて、正直これで食べていけるのではないかと思うくらい」
 そんな物言いに、思わずくすりと笑ってしまう。里での地位が約束されている御阿礼の子が、食の心配する必要なんてないだろうにと思った。
 そうして気がつけば、私が阿求に対して築いていた壁はあっけなく崩れ落ちてしまっていた。

 ――打ちとけてしまった。
 自分でも信じられないほど、私はこの稗田阿求と打ちとけてしまった。
 描くのに苦労した絵の話。写本をしていてひどく肩が凝ったこと。縁起に書かれている当時の思い出話や、最近起きた幻想郷のできごと。
 阿求と話していると、会話が止まらなかった。それはもちろんなにもかも覚えているのだから、話題が豊富なのもあたりまえのことだけど。
 ころころとよく動く表情。
 ときおりみせる頭の回転の速さ。
 長命のものによくある憂いた印象など少しもなく、彼女はちょっとしたことでよく笑った。そうするとその大人びた瞳もすっと細くなって、途端にみためどおりの子どもらしい表情に変わるのだ。
 その生気に乏しい細い手足と、対称的に英知をたたえた強い眼差し。どこもかしこも未完成な童女の身体をもち、けれど物腰や態度は大人らしい落ち着きをみせている。
 ――御阿礼の子。
 なんて、アンバランスな存在なのだろう。
 大人なのか子どもなのか、妖怪なのかひとなのか。一瞬ごとにめまぐるしくかわるその印象に、つい引きずり込まれるような興味を感じてしまうのだ。
「――わかったわ、正直面倒くさいけれど、協力してあげてもいい」
「本当ですかっ。ありがとうございます!」
 阿求はそう云って、ぱんと両手を打ち合わせながら微笑んだ。そんな可愛らしい仕草に、けれど私は半ば八つ当たりめいた気持ちでつぶやくのだった。
「ふん、白々しいわね。どうせ最初から計算尽くだったんでしょう?」
「はい? なにがですか?」
 きょとんと小首をかしげた阿求の顔に、次々と皮肉めいた思いが湧き上がってくる。
「あなた、私が元々御阿礼の子に興味をもってるって天狗から聞いて知っていたわね。ビブリオマニアの私なら過去の幻想郷縁起に食いつくだろうって、わざわざ徹夜で写本まで作って……ふん、ご苦労なことだわ」
 こんなに簡単に籠絡されてしまった自分が自分で腹立たしかった。
 阿求にいいように動かされたことが癪だった。
 そう、この知識と日陰の少女は天の邪鬼なのだ。その点では地下に住んでいる伝説の橋姫にも遅れをとらないと自分でも思う。相手が喜んでいればいるほど、それを邪魔したくなってくる。
「そんな……そんな計算なんてしてませんよぉ」
「どうだか。まあ、お望みどおりもらった写本分は協力してあげるけど、それで受け容れられたなんて思わないで」
 ばさりと写本をテーブルになげて、私は安楽椅子にもたれかかった。
 どうせこんなもの精一杯の強がりだ。きっと聡明なこの子のことだから、そのくらいわかっていて軽くいなされることだろう。そう思っていた。
 ――けれど。
「うぅ、そうですか……」
 阿求は突然、べしゃりと泣きそうな顔をしたのだった。
 ――え、なに? なんで?
 まるで予想外の反応に、思わずぎょっと目を見開いた。
「わたし、パチュリーさん怒らせちゃったみたいですね……ごめんなさい」
「え? い、いや、別に怒ってるわけじゃ……その、私も云いすぎたわ。もう気にしないで」
 意味がわからない。さっきまで散々大人びた口の利きかたをしてたのに、なんで突然こんな子どもみたいな反応になるのかわからない。
 泣きそうな子どもなんて、正直私にとっては閻魔よりも苦手な相手だ。下手に弄ったら壊してしまいそうで怖いのだ。
「ありがとうございます。あの、本当にごめんなさい……わたし嬉しくて、それでちょっとはしゃいじゃったんです……」
「そう、嬉しかったのね。なにがそんなに嬉しかったの? 私が縁起を誉めたこと?」
「いえ、もっと前です……」
「それじゃあ、あなたの存在を知っていたこと?」
「もっと前……」
「えーとじゃあ、私が発作から回復したこと?」
「もっと……」
 ――いらいらする。
 もう面倒くさい。なんで私はこんな子どもをあやすような口調で、今日はじめて会った人間相手に語りかけているのだろう。
 なんでこんなことになっているのかまるでわからない。こういうのが面倒くさくて、私は図書館に引きこもっていたはずなのに。つい三十分前まではいつも通り、自分ひとりの世界で穏やかに本を読んでいたはずなのに。
 どうしてこの子は勝手に私の世界に飛びこんできて、こんな悲しそうな顔をするのだろう。
 理不尽だ。
 なんだかひどく理不尽だ。
 けれど目の前で段々元気を取り戻していく阿求をみていると、少しだけ嬉しくなってしまうのが自分でも不思議だった。

「――はじめてあった瞬間のことなんです」
 いつのまにか大人らしい物腰にもどって、はにかんだように阿求は笑う。
 そんな彼女の様子にほっと胸を撫で下ろしながら、私は安楽椅子によりかかる。もうこの子にあんな皮肉を云うのはやめよう。さっきみたいな思いはもう二度としたくない。
 ――それにしても。
「はじめてって……意味がわからないわ」
 魔女がショートブレッドを弾幕のように吐きだすシーンの、一体どこがこの子の琴線に触れたと云うのだろう。そう思って小首をかしげながら見つめていると、次第に阿求の頬がぽっと桜が散ったように赤くなっていく。
「あの……怒りませんか?」
「内容によるわね」
「あははは、それもそうですよね」
 困ったように笑って、なおももじもじと腰を動かしている阿求。ながめているうちになんだかこちらがドキドキしてしまって、私はそんな自分を誤魔化すように阿求に軽くデコピンをする。
「あ痛っ!」
「なによもう面倒くさいわね。絶対怒らないから云いなさい」
「わかりました、云います! 云いますからデコピンはやめてください!」
「わかればいいの。それで?」
 にやりと笑って水をむけると、頬を真っ赤に染めた阿求が上目遣いでこう云った。
「あの……お菓子を口いっぱいに頬張ったパチュリーさんが……なんだかもの凄く可愛いくて」
「――ほえ?」
 一瞬なにを云っているのか理解できなくて、思わずきょとんとしてしまう。
 可愛い? 誰が? 阿求が?
 まじまじとみつめると、彼女は耳まで真っ赤に染まった顔を両手で隠しながら、「ひゃー!」と悲鳴を上げてうつむいた。
「だ、だって紅魔の魔女さんはすっごい気むずかしいって噂だったので! そのギャップが可愛くて! ごごごご、ごめんなさい!」
 ――なんだこれ。
 なにこの生き物。
 どう考えても、可愛いのはこの生き物のほうだ。
 大体この私を捕まえて可愛いなど――可愛いなど。
 ――考えてみれば、この百年一度も云われたことがなかった。
 肌が綺麗だと云われたことはある。けれどそれは陽にあたらないことを揶揄しての言葉だった。顔が人形みたいに整っていると云われたことはある。けれどそれは無表情で仮面のようだという言葉とセットになっていた。
 紅魔館の魔女パチュリー・ノーレッジ。
 億千の呪文を操り、忘れ去られた始原の秘術を掌中にした日陰の魔女パチュリー・ノーレッジ。
 ――それを捕まえてはじめて可愛いなどと云ったのが、この人間の小娘だ。
「む、むきゅうぅ……」
 意識した途端爆発的に恥ずかしくなってきて、思わず喉の奥から変な声がでた。
 全身が沸騰しそうに熱くなる。嬉しさというか恥ずかしさというか、そんなものがぞわぞわと背筋を登ってきて、力が入らなくなった私はばたんと机に突っ伏した。
「むきゅう……?」
 聞こえてきたのは、呆然とつぶやく阿求の声。本に顔を隠しながらちらりと見上げると、彼女も顔を真っ赤にしたまま口元にそっと手を当てていた。
 そうしてそのくちびるからぷっと空気を噴きだしたと思ったら、途端にけたけたと笑いはじめたのだった。
「む、むきゅう! あははははは、むきゅうって! パチュリーさん今むきゅうって云った! あはははははは、か、可愛い!」
 苦しそうに身体を折り曲げながらひーひーと笑い転げる稗田阿求。
 理知的で大人びた印象なんて欠片もない。子どもらしい臆病さもどこかにいってしまった。
 その大きな瞳から涙を零しながら、阿求は大口を上げて笑い転げていた。
 ――私は。
 自分の恥ずかしさも忘れて、その姿をただひたすらに眺めていた。
 なぜだろう。
 なんでこんなに不思議な気持ちになるのだろう。
 そのときはじめて、私は阿求自身と触れた気がしたのだ。
 大人なんだかわからない。子どもなんだかわからない。妖怪なんだかわからない。人間なんだかわからない。
 千二百年の記憶を持つ童女。
 無限に転生を繰りかえしていく人間、九代目阿礼乙女稗田阿求。
 そのときから、彼女は私の頭の中に住みついてしまったのだ。

 ――いや、きっとはじめてあった、その瞬間から。


3

 髪をかき分けて頭皮を撫でる、その指先が気持ちいい。
「大丈夫ですか? 熱くないですか?」
「平気よ。上手くなったね小悪魔」
「えへへ、ありがとうございます」
 阿求がきた日の夜、お風呂上がりの寝室でのことだった。私はドレッサーの前に座り、いつもどおり小悪魔に髪を梳かしてもらっていた。
 彼女の右手に浮かんでいる光球は、私が教えこんだ光熱魔法だ。ゴウゴウと熱風を吐きだすその魔法で髪を乾かしながら、小悪魔は手櫛を入れて私の髪を梳いてくれる。
 頭皮の上でさわさわとうごめく指先の感触。すっと髪が引っ張られるときの柔らかな刺激。それがなんだか気持ちよくて、私はばれないようにそっと吐息を漏らす。
「相変わらず、食べちゃいたいくらい綺麗な御髪ですねぇ」
「余計な口を叩かない」
 ちらりと鏡の中の小悪魔を眺めると、彼女は私のプラム色の長髪を手に取って、口に入れようとするようにそっと顔の前にもっていく。本当に食べるのかと思って睨んだら、すんすんと髪の匂いを嗅いでぽわんと笑った。
「……馬鹿なことしてないで、さっさと手を動かしなさい」
「はいはい。まったく奴隷使いが荒いご主人さまですね。いきなり今日はもう寝るだなんて仰って……」
「なによ、私だって眠りたくなることくらいあるわ」
「でも、別に眠いわけじゃないんでしょう?」
「魔法使いだもの、当たり前。でも今日は十二時に寝ると決めたのだから寝るの。あなたごときのせいで予定が狂うのは我慢ならないわ」
 つんとあごを反らしてそう云うと、小悪魔は眉を下げながら困ったように笑った。
 その頭の横で、黒い翼がしおれている。
 ――さっき私に叱られて以来、ずっとずっとしおれている。

 咲夜が云うには、阿求がひとりで私のところにやってきたのはそもそもイレギュラーなできごとだったようだ。本来は小悪魔に伝言と案内を頼んでいたのに、この子はその役目を果たせなかったらしいのだ。
 ――プリンが食べたいの。今すぐ厨房から取ってきて。
 当主レミィが、通りすがりの小悪魔にそう云った。
 彼女も迷ったようだけれど、当主の言はなによりも優先されるべき命令だ。結局小悪魔は二匹の妖精メイドにそれぞれ私への言伝と阿求の案内を頼み、そうして二匹とも見事にそれを忘れた。
 そういうことらしい。

「まとめ髪は、頭の上にぐるぐるでいいですか?」
「ええ、ぐるぐるで」
 椿油でしっとりと潤った長髪を束ね、小悪魔は就寝用に髪の毛をまとめてくれる。
 絶対本人に云うことはないけれど、なんだかんだで私はこの小悪魔のことが好きだ。
 少しうっかりが多すぎるし、知恵は足りない。よく驚いたときなんかに二股の舌をしまい忘れたりするし、頭の翼は感情をあまりにもよく伝えすぎる。弾幕戦は弱くてワンパターンの攻撃しかしないし、スペルカードひとつ作れない。けれど――。
 けれど――。
 あれ? 誉めるところが見あたらない。
「パチュリーさま? 終わりましたよ?」
「あ、ああ、ありがとう」
「わ、素直にお礼云われましたよ、珍しい」
 くすくすと笑いながら化粧品を片づける小悪魔に、私もつい苦笑する。まさか誉めるところがみつからなくて困っていたとは思うまい。
 やがて片づけも終えた小悪魔は、なぜか立ち去る様子もみせずに私の髪をまじまじと眺めていた。
「どうしたの? なにか変なところある?」
「いえ……そう云えばあっきゅんの髪もこんなプラム色だったなって、ふと……」
「あっきゅん?」
 きょとんと首を傾げながら問いかけると、にこりと笑って小悪魔は云う。
「ええ、あっきゅん」
「いや、誰よそれ」
「いやですねぇ、稗田あっきゅんですよぉ」
「ほよ?」
 ――なによそれ。
 いつのまにかあだ名で呼び合うような仲になったの? ちょっと送り迎えを頼んだだけなのに。
 私と阿求はあのあとも随分話しこんでしまって、やがてあの子が残念そうに辞去の意を告げたときには、ひどく遅い時間になっていた。
 あのあまりに儚げな阿求をひとりで帰すのを忍びないと思って、私は小悪魔を呼びだして里までの護衛を頼んだのだった。
「あっきゅんって優しいんですよぉ。あたしが普段小悪魔としか呼ばれてないって云ったら、“じゃあ、こぁちゃんってお呼びしますね”ってあだ名をつけてくれたんです。だからおかえしにあっきゅんって!」
 きゃいきゃいと、ひどく楽しそうに小悪魔は語った。
 人里への帰路で、阿求とどれだけ話が盛り上がったか。どれだけ話が弾んだか。
 あの子がみせた気遣いと優しさと博識を、小悪魔は手放しで賞賛した。もっとも、知識においては私には及ばないと、小悪魔も一応気を遣ったけれど。 
 考えてみれば、それも当たり前の話だ。
 この私とあれだけ打ちとけられた阿求のこと。小悪魔とだって友だちになれてもおかしくはない。感情の機微に長けていて頭の回転が早いあの子だ、どんな場面でも相手が望む言葉を口にして、簡単に他人と仲良くなれることができるだろう。
 ――私だけじゃない。
 阿求があの笑顔をむける相手は、私だけじゃない。
 そう思うと、胸の底から暗雲のような黒い感情が湧き上がってくる。
 阿求が私の小悪魔にあだ名をつけたこと。小悪魔が阿求にあだ名をつけたこと。その両方の事実が、重苦しい痛みで私の胸を締めつける。
「パチュリーさま? どうされたんですか、ぼーっとしちゃって」
「別に……なんでもないわ。それよりあなた、どうしてずっとここにいるの? 手が開いたなら図書館の業務に戻りなさい」
「ああん、いけずですね。もうちょっと触らせてくださいよ」
 小悪魔はすっと私の背後に回ると、連日の過酷な読書で張り詰めていた肩の筋肉を揉みだした。その指遣いはなんだか身体の芯を愛撫されているような心地よさで、思わず声が出そうになってしまう。
 けれどその心地よさと裏腹に、胸の中のもやもやはどんどん黒くなっていく。
「あ……そんなことしないでいいから……帰りなさい」
「ふふふ、そんなこと云って、気持ちいいんでしょう。あたし指のテクニックにはちょっと自信があるんです。よろしかったらベッドの支度だけじゃなくて、ベッドの中までご奉仕しますよ?」
「――んなっ!」
 云うに事欠いて、なんだそれは。
 瞬間的に、顔から火が出そうなほど身体中が熱くなっていく。
 思わずぐるりとふりむくと、小悪魔はひどく淫蕩な笑みを浮かべながら二股の舌をちろりと口からだしていた。
「――火符『アグニシャイン』」
「ぼひゃー! 熱い熱い! な、なんでーっ!?」
 火の代わりに全身から噴きだした炎の弾幕が、ぼしゅぼしゅと小悪魔の身体に当たって消えていく。本物の炎というわけじゃない。服は燃えないし肌だって焼けこげない。けれど幻想の存在である私たちにとって、炎で焼かれたという事実と熱さは情報となって魂に刻まれる。
「ふざけたこと云ってないで、今すぐ消えなさい!!」
「は、はい、ごめんなさい。おやすみなさいパチュリーさま!」
 ドアを閉める直前振りかえった小悪魔の翼は、焼けこげたようにしおれていた。

  *  *  *

 ――やってしまった。
 姿見の前に立ち、私は溜息をひとつ吐く。
 ――あれじゃ、八つ当たりみたいなものじゃないの。
 いや、それよりなお悪い、あれはただの嫉妬だった。阿求と小悪魔が仲良くなったことに嫉妬するなんて、いくらなんでも自分が恥ずかしすぎる。これじゃ本当に私も地下の橋に立っているのがお似合いだ。
 でも、あの子もあの子なのだ。どうしてあんな淫らな誘いかたしかできないのだろう。もしかしたらそれが小悪魔が小悪魔たるゆえんなのかもしれないけれど、普通にムードを作ってくれたら私だって――。
 ってなんだ。
 私だってなんだ。
 湧いてきた思いを振り払うようにぶんぶん首を振ると、鏡の中の少女も同じように首を振る。その頬は恥じらうように紅くなっていたけれど、私はそれをみなかったことにした。
 そうしてふりかえってベッドにむかおうとしたところで、ふと鏡に映った自分の横顔が目にとまる。普段と違ってすっきりと耳がでている髪型で、頭のうえでアップにまとめたプラム色の髪が揺れていた。
 ――同じ、色か。
 なんとなく顔を近づけて、その髪の色を眺めてみる。
 小悪魔は阿求と同じだと云っていたけれど、よくみれば私のほうが若干鮮やかだと思う。阿求の髪はもう少し灰色がかった紫で、あれはきっと鳩羽色と呼ぶのだろう。
 そんなことを考えながら、じっと自分の姿をみつめていた。
 ――なんて、つまらない顔だろう。
 まじまじとながめてそう思う。
 無表情な瞳、への字に曲がった小さな口、生まれてから一度も表情筋を動かしてないかのような仏頂面。改めてみるとひどく陰気な顔つきで、おおよそ他人から好かれそうには思えない。
 実際誰にも好かれたことはないし、好かれたいなんて微塵も思わない。だって魔女が他人に好かれてどうしようというのだろう。紅魔館の魔女が、知識と日陰の少女が、他人に好かれそうな顔をしていてなにが得すると云うのだろう。

『思ってしまったのです。……なんて可愛いひとだろうって』

 湧いてきた言葉を振り払うようにベッドにむかった。
 整えられた布団に身体をもぐりこませると、ふかふかと柔らかい綿の感触が心地いい。
 そっと瞳を閉じると、途端に頭の中で阿求の姿が暴れだす。

『パチュリーさま……ですよね?』

 鈴が鳴るような小さな声。
 今にも消え入りそうな儚い佇まい。細い細い手足。貧相にやせこけた身体。
 けれどちょっとしたことでころころとよく笑った。
 ぴんと背筋を伸ばしながら、綺麗な姿勢でさっそうと歩いた。
 阿礼の生まれ変わり、九代目阿礼乙女稗田阿求。
 千二百年生きている――そう云った。
 そのことを疑おうとは思わない。天狗の新聞にも書いてあったし、実際あの子は竹林に棲むという因幡てゐやあの八雲紫の過去をとうとうと語ってみせたのだ。
 その真偽を確かめる方法はないけれど、歴史などどうせ言霊と語りがつくるもの。正しいかどうかなんてどうでもいい。首尾一貫した物語となっていればそれでいい。
 ――そう、物語。
 あの子はそれ自体、一冊の物語なのだ。
 まるで本に書かれた文字のように魂に刻まれた、時によって劣化しない完全なる過去の記憶。みずみずしい一人称で語られる、ありし日の思い出話。ページをめくるように次の日のできごとを訊ねると、なんど聞いても一言一句変わらない、詳細な物語がかえってきた。
 それはもはや記憶というより叙述だ。ひとというより物語だ。御阿礼の子という存在は、一冊の書物に他ならない。その魂に千二百年に及ぶ物語を詰めこんだ、一冊の生きた年代記に他ならない。
 ――惹かれない、はずがない。
 本のそばに在るものこそこの私パチュリー・ノーレッジ。あれだけ魅力的な本を前にして、気にかからないはずがない。
 なんてことはない、今日阿求がもってきた本は過去の『幻想郷縁起』だけではなかったのだ。むしろ縁起そのものである御阿礼の子自身、阿求という本こそがもっとも希少なものであり、かつもっとも価値がある本だった。
 ――欲しい。
 あの本が欲しい。あの子が欲しい。
 所有したい。図書館に並べたい。生きたまま、朽ちぬまま、好きなときにページを開けるように永遠に私のものにしたい。
 どきどきと高鳴る胸をぎゅっと押さえて息を吐く。その吐息は、私の口からでたことが信じられないほど湿っていて甘い。

 ――ちっとも眠れない。

 せっかく時間通りにベッドに入ることができたのに、まるで眠りかたを忘れてしまったかのようだ。
 波のようによせてはかえす夜想に溺れ、私はシーツの海で何度も寝返りを繰りかえす。

『パチェ、随分あの阿求に入れこんでるようにみえるわ』

 レミィが云ったその言葉が、水底からあぶくのように浮かび上がっては消えていく。
 まさか、本気で私が裏切っているだとか思ったわけじゃないだろう。 
 私があの幼い吸血鬼への気持ちをたがえるなんて、たとえ天地がひっくりかえってもありえないできごとだ。たとえばレミィが本気で大図書館を処分しろと云ったら私は迷わずそうするし、それはレミィだってわかっているはずだ。
 ――けれど。
 けれど、そう。やはり私はレミィに嘘をついたのだと思う。
 私は稗田阿求にひどく入れこんでいる。レミィのためじゃなく、自分自身のために。
 それはもう、疑いようもなく確かなことだった。

 結局その夜は一睡もできず、ようやくまどろんだのは朝方になってからのことだった。
 寝入ったら、浅い眠りの中でひどい悪夢をみた。
 それは図書館のすべての本が、手に取ったとたんにばらばらになるという夢だった。

 目覚めたとき、誰かの名前を呼んだ気がした。


4

 ――どうしようもない。
 結局阿求は、まるで暴風のように私の心の防波堤を吹き飛ばしてしまった。それが本物の嵐なら鼻歌交じりに鎮めることもできるのに、ことこの運命的な奔流の前ではどんな魔法も利きやしない。
 いくら図書館に引きこもっていても無駄だった。阿求はその図書館に自らやってくるのだし、私も協力すると云ってしまったのだから、来館すれば会わざるをえなくなる。
 そうして会えば惹かれざるをえなくなる。
 しかも阿求は、たびたび私の元へやってきた。御阿礼は『幻想郷縁起』を書くために生きているのだから、他の妖怪のところにもむかわないといけないはずだ。けれど阿求は、やたらと紅魔館にばかりやってきた。
 一度その理由を訊ねたことがある。
「――あなた、やけにここにくるけれど、もしかして暇なの?」
 そんな無愛想な物云いにも、阿求は例によって椅子に正座をしながらすまし顔で応えた。
「暇ではないですけど、紅魔館の出現と吸血鬼異変は、この代のキーポイントだと思うのです。だからこうしてしっかりと取材するべく足繁く通っている次第で」
「ふん、だったらぼやぼやしてないでさっさと書いてしまえばいいじゃない」
「……いやいやそれがまたどうして、難しい物なのです」
「なにが難しいのよ」
「ええ、書き上げてしまったらもうこの咲夜さんのお菓子が食べられないと思うと、なかなかに難しい」
 そんな落ちに、思わず読んでいた本をテーブルから落としそうになってしまった。
「“まんじゅう怖い”の落語か」
「おやご存じでしたか、さすがパチュリーさん。先代の阿弥のときはまだ大結界がなかったので、米朝の高座を聞いたことがあるんですよ。あれは絶品でしたねぇ」
 そうして「ここらで一杯濃い紅茶が怖い」とつぶやいて、途端にテーブルにだされた紅茶を幸せそうにすする阿求なのだった。

 そのやりとりはただの冗談にしても、実際阿求はなかなかこの紅魔館の住人すべてと会うことはできなかった。妹さまは来客があると絶対地下室から出てこないし、レミィはなぜかいつだって寝ていたから。
 それで結局何度も通うはめになったようだ。
 それはそれでいいとしても、ではどうして必ず私の元へとやってくるのだろう。おかげで美鈴などは、阿求は私に会いにきてるのだと思っていたらしい。
「だって、レミリアさまとはお会いできませんし、咲夜さんはいつもお忙しそうなので」
「私だって忙しいわよ。読まないといけない本がこんなにたくさんある。ああ忙しい」
 本から顔を上げずに早口でつぶやくと、阿求は大抵困ったように溜息を吐く。
「あのう……お話するときくらいわたしの顔をみませんか?」
「なんで? どうせいつもと同じ顔なんでしょ? わざわざみなくても話はできるんだから、視覚は本に当てているほうが効率がいい」
「はぁ……まったく噂は本当だったんですね。なんて気むずかしい魔女さんでしょう」
「あら、今ごろ気づいたの? いくら私でも年中口からショートブレッドを吐きだしたりはしないの。普通の弾幕だって張るよ」
 パラリと本をめくりながら私は云う。そうすると阿求はお腹を抱えながら爆笑する。
「あははははは! それ思いださせないでくださいよぅ。ああ、あのときのパチュリーさんの可愛らしさったらもう、あはははは!」
「――ふん」
 どうやらいつになってもこの子の笑いのツボはそのあたりにあるらしい。永劫に劣化しない記憶の中で、あのときの私のみっともなさが何度も再生されているのだと考えると、なんだかひどく気恥ずかしい思いがする。
 けれどこんなあけすけな笑いかたを、阿求は他の紅魔館の住人にはみせたことがなくて。
 ――だから私は、笑われてもそんなに嫌じゃなかった。
 自分が阿求にとって特別な存在のように思えて、恥ずかしいけれど嫌じゃなかった。

 こぁと阿求は、すぐに親友になった。
 まるで同じ魔界で育った幼なじみのように仲良くなり、よく私には理解できない冗談できゃーきゃー黄色い声を上げては笑いあっていたものだ。そのテンションにたまについていけなくなるのは、性格と年齢どちらのせいだろう。
 けれど近ごろ思うのだ。
 有史以来連綿と続く闇から作られた二十歳の子悪魔と、百歳の魔女と、千二百年の記憶をもつ十歳の人間では、はたして誰が一番若いのか。
 それはたわむれに解くには骨の折れるリドルで、今もその答えはでていない。

 咲夜は、阿求が来館するたびに山のような料理を作り上げてもてなした。
 きっとレミィの『最高の歓待を与えよ』という言葉ではりきってしまったのだろう。けれど紅魔館の恐怖をみせつけるという目的から考えると、まるで逆効果のように思えてならない。完璧なようでどこか抜けてる咲夜なのだった。
 けれど、そもそも咲夜は自分の料理を食べさせることに愉悦を覚える人間で、それでひとが太っていくことに無上の幸せを感じる飼育嗜好者《フィーダー》なのだ。
 それまでは少食のレミィやあまり食卓に姿をみせない妹さまの分まで、私や美鈴の胃袋が攻撃されていた。けれどあの痩せっぽちで弱々しい阿求が姿をみせるようになると、その矛先は完全に彼女にむかっていった。
「あなたはちょっと細すぎるわ阿求、この北京ダックを丸まる食べなさい」
 どかんとテーブルにだされた北京ダックに目を丸くしながら、阿求は不思議そうに小首を傾げた。
「あ、はい、喜んでいただきますけど……どうしてこの北京ダック、今にもお皿から飛び立ちそうな姿で羽ばたいているのでしょうか」
「創作中華よ」
「はぁ……あ! この羽毛みたいなのふぐ刺しだ! 美味しい!」
「そうでしょうそうでしょう、どんどん食べなさい、ぱくぱく食べなさい。肉も調理してあるからそのままでもいけるわよ」
 咲夜の様子にどこか不穏なものを感じながら、私はぱくぱくとフグダックにむしゃぶりつく阿求の姿を眺めていた。ときたま味わうように頬を押さえながら物を食べる彼女をみていると、ついこちらの頬も緩んでしまう。なんだか少しだけ咲夜の気持ちがわかる気もする。
「――いいけど、そのフグ、毒はちゃんと抜いてあるんでしょうね」
 そもそもどこから持ってきたんだと思いながら咲夜をにらみつけると、彼女はつんと瀟洒に顎をそらす。
「まあ、心外ですわパチュリーさま、そのくらいちゃんとわきまえてます。抜いた毒は全部お嬢さまの紅茶に注ぎこむという、一石二鳥の作戦ですから」
「ああ、道理でレミィ、このところずっと寝てるわね……」
 どういう経緯でそうなったのかはよくわからないが、咲夜はなぜか珍しい紅茶をレミィに飲ませないといけないという強迫観念を持っているのだ。
 そのとき阿求がふと食べる手を休め、不思議そうな顔で私に云った。
「そうなんですよね、レミリアさまには全然お会いできません。なにかタイミングでも悪いのでしょうか」
「いや、普段ならこの時間起きてることも多いのよ」
「はぁ……」
 なぜかこの子がくるときに限って、レミィはなかなか起き出してこない。
 そうして自ら起き出してこない吸血鬼を起こそうとするほど命知らずの存在は、この紅魔館にひとりもいない。
 元々吸血鬼は、桁外れの力をもつ代償に様々な制約を負っている種族だ。その代償の中には、たくさんの弱点の他に睡眠に関するものも含まれている。故郷の墓土の上でないと眠れないし、一度眠りについたら外から起すことはできない。
 吸血鬼にとっての眠りとは、反古にされた完全なる死の代わりに毎日繰りかえす、小さな死に他ならないのだから。
「――でも、パチュリーさま的にはそのほうが都合いいんじゃないですか?」
 咲夜が急に顔を近づけてきて、ささくようにそう云った。
「どういう意味よ」
「お嬢さまや妹さまと会えない限り、阿求はここに来続けますからね」
「……なにを云ってるのかわからない」
 にらみつけると、咲夜はくちびるをにんまりと弓の形に吊り上げた。
 ――うざい。にやにや笑うな。
 文句のひとつでも云ってやろうと思ったその瞬間、テーブルのむこうから阿求の声が聞こえてくる。
「ごちそうさまでした」
 骨だけの姿になった北京ダックを前にして、阿求が手をあわせながらおがんでいた。
 あんなに小さくて細いお腹の中に、どうしてあの北京ダックが丸まる収まることができたのか、それがなんだか不思議だった。なにかの魔法か、あるいはスキマ妖怪でもお腹の中に飼っているのじゃあるまいか。
「まあ、よく食べたわね! それじゃ次はデザートよ!」
「わ! 楽しみです!」
 チーズケーキ、シュークリーム、プリン、マドレーヌ、パウンドケーキ、タルト、マフィン、スコーン、ベリーパイ、ホットケーキ、そしてショートブレッド。
 咲夜が繰り出してくる弾幕のごときお菓子の波状攻撃を、阿求はにこにこと笑いながら片っ端から平らげたのだった。
 そんな人体の神秘に、私は“甘い物は別腹”と云う言葉の本当の意味を知った。
 きっと平行宇宙の自分のお腹にスキマを通して送っているのだ。
 そうに違いない。

 阿求が美鈴と一緒に花畑の手入れをしていたときは、さすがに驚いた。
 もんぺに綿入れ、姉さんかぶりにした手ぬぐい。そんな完璧な労働者ルックで土にまみれていた彼女は、とてもじゃないけど名家のお嬢さまのようにはみえなかった。
「信じられない、意味わからない、なんであなたがそんなことしてるのよ」
「あはは、やってみればこれが存外に楽しいですよ」
「ふん、そういうのは身体が丈夫なひとに任せればいいの。適材適所ってものがあるでしょう」
「んー……でもできるだけ色んなことを覚えておきたいのです。稗田の家じゃこんなことさせてもらえないですから」
 腰をかがめてぱちんぱちんと剪定作業をする阿求を、しばらくのあいだ黙って眺めていた。陽に当たり慣れていない真っ白な肌、ぶかぶかの服、ハサミをもつのも重そうなほどの細い手足。
 美鈴がいるのだから万一なんてないのはわかっている。それでも私は心配で、抗議の言葉を発しようとした。けれどその瞬間、阿求は汗を拭きながら云ったのだ。
「先は短いですからね。身体が動くうちにできることをしておかないと」
 その言葉に、私はもうなにも云えなくなってしまった。彼女自身、それで私が黙りこむとわかってて云ったのだから、頭のいい人間はたちが悪い。
「あれー、パチュリーさま? パチュリーさまもやりますか肥料、楽しいですよ」
 ばかでかい肥料の袋を軽々と持ち上げた美鈴が、むやみにさわやかな笑顔をなげかけてきた。
「冗談でしょ。臭い、重い、疲れる」
「あはは、でもそれがいいんですよ」
 夏の太陽を背にして、美鈴の身体の輪郭線が光っていた。きらきらと輝く汗が、その陽に灼けた肌を伝ってしたたり落ちていく。よく筋肉がついて引き締まった手足は健康的な美しさをかもしだしていて、思わず自分の貧相な身体と比べて赤面してしまう。
 ――わかっているのだ、それが楽しいことは。
 でも同時にすべてのことはできないから、私は図書館にひきこもっている。美鈴が身体ひとつで世界とむきあっているように、私は本を通して世界を識る。それがこの私、パチュリー・ノーレッジの生きかただ。
「……運動すると喘息がでるの、悪いわね」
「ええ、わかってます」
「阿求のこと、よろしくたのむわ」
 そう云い残して、私は畑を立ち去った。
 去り際にちらりと振りかえってみたら、阿求はにっこりと笑って手を振ってくれた。

  *  *  *

 そんな風にして、阿求はこの紅魔館の住人に受け容れられていったのだ。
 その侵略速度といったら、驚くべきものだった。気がついたらここは阿求の第二の家のようなありさまになっていた。
 他の場所での彼女の姿など知るよしもないけれど、一緒にお茶を飲んだり図書館で本を読んだり咲夜と話したりしているときの阿求は、随分とリラックスしているようにみえた。
 以前感じた硬質な儚さ、ガラスのような緊張感に満ちた生硬さは少しずつなりを潜めていき、阿求からは猫のような無邪気さと子どもらしい稚気を感じられるようになっていた。
 図書館のソファで本を読んでいるうちに眠りこけてしまったり、紅魔館の探検をしているうちに迷子になったり、妖精メイドの制服を借りて給仕の真似事なんかをはじめてみたり。
 ときどきこの子は御阿礼の子なんかじゃなく、みためどおりの童女なんじゃないかと思うこともあるくらいだった。
 けれど、阿求の身体の芯にはひどく硬いなにかがずっと残っていた。
 その魂のどこか奥のほう、広漠としたイドの荒野にどうしても溶けきらない凍えた雪原のようなものが広がっていて、それはいつまで経っても解消されることはなかった。
 ふと夕陽を眺めているときや、笑いながら通りすぎていく妖精メイドたちの背中を見るときにそれは顔をだし、阿求の表情を老人めいた諦観に満ちた物に変えてしまう。
 そんなとき阿求は、はじめて出会った日のようにひどく弱々しい風情になるのだ。まるでどこまでも続く真っ白な雪原の上、たったひとり裸で立ちつくしているように。
 ――なんだろうと思った。
 なんだろうと思って、ずっと気になっていたのだ。
 けれどそれを訊くことはできないまま、やがて阿求がレミィと面会する日がやってきた。


5

 中庭に面する、花畑を一望にみわたせる一階のテラスに私は座っていた。
「――ああ、こんなところにいらした」
「……阿求?」
 聞こえてきた声にふりむくと、そこに阿求が立っている。浅黄色の小袖に紺絣の打ち掛けを羽織り、鳩羽色の髪に刺した乙女椿のかんざしが、花畑の花に負けないくらい可憐なかたちに咲いていた。
 陽は落ちかけていて、血の色だ。
 まるでレミィの食べこぼしをぶちまけたように赤い赤い空。地上に投げかけられる光も同じ赤に染まっていて、まるで日輪が『レッドマジック』の弾幕を展開しているかのよう。けれどこんな怖いくらいの夕暮れ刻は、いつだって私の気持ちを落ち着かせてくれる。レミィの懐に抱かれているようで、少しだけ安心できるのだ。
 阿求は掃き出し窓をくぐりぬけてテラスにでると、正面の椅子にきちんと背筋を伸ばして正座した。
「図書館にいなかったので、探してしまいましたよ」
「そう……レミィの印象はどうだった?」
 問いかけると、阿求は言葉を選ぶようにくりりと瞳を回転させた。
「ええと……とてもプライドに満ちたかたですね」
「ふふ、素直に偉そうって云ってもいいわよ」
「えー……はい。尊大でわがままで、自己中心的なひとだと思います。でもそのすべてが魅力的で、惹きつけられずにはいられません。パチュリーさんが敬愛するのもわかりますねぇ」
「そう……」
 思わず口角が上がってしまうのを自覚する。なんだかんだでレミィが誉められると嬉しいのだ、私は。今まで長いこと生きてきた中で、たぶん本気で愛したほとんど唯一の友だから。
 けれどこんな反応をするところをみると、やはりレミィとの面会も上手くいったということだろう。まるで阿求から逃げるように顔を合わせようとしなかったレミィも、ひとたび懐に入れてしまえばこの子の話術にあらがうことはできなかったようだ。
 なんと云ってもこの子は御阿礼の子。
 おそらくはずっとこんなことを繰りかえしてきたのだから。
『幻想郷縁起』を執筆するに辺り、巷間の噂や記録をまとめるだけでは限界がある。直接出むいて話を聞かなければいけない場合も多かったことだろう。実際、以前読んだ過去の縁起にはそうしなければ知り得ないような情報がたくさんあった。
 死神や天魔、冥界の嬢に河童の長、土着神や天津神や亡霊や祟り神。阿求はそれらと相対し、いつだって機嫌を損ねずに生還してきたのだ。そう考えると、子どもっぽい吸血鬼やひとづきあいが苦手な魔法使いなど、楽な部類に入る相手だろう。
 なんてことはない。私が一番最初に感じた印象は、やはり正しかったのかもしれない。
“特殊な能力を持つ、相当な実力者”
 この吹けば飛びそうな小さな身体が、咲夜が素通りさせたほど害もなさそうな童女の姿が、どれだけ怖ろしい存在だったかということだ。
 ――こんなに私の心をかきみだして、使い物にならなくさせてしまうのだから。

「綺麗に咲いてよかったです、お花畑」
 満開の花を咲かせる花畑をながめながら、阿求は云った。
「わたしが手伝ったせいで枯れてしまったりしたら、申し訳ないですからねぇ」
「ばかね、素人が横からなにしようと、美鈴が失敗するはずないでしょう。あの子には門番より庭師のほうがよっぽど合ってるのよ」
 カップを傾けながらそう云うと、阿求はおかしそうにくすくすと笑った。
「……なによ」
「いえ、パチュリーさんって、本当に紅魔館のみなさんのことがお好きですよね」
「冗談でしょう、大嫌いだわ。当主は子ども、その妹は引きこもり、メイドは変態、門番は頭の中がお花畑、おまけに使い魔はエロい」
「ふふふ、そうですか」
 花のようにくすくすと笑う阿求の背後で、夏の花が咲いている。
 サルビア、向日葵、マリーゴールド、ダリア、彼岸花。
 そしてその上空にパンと音をたてて咲いた華符、『芳華絢爛』の弾幕だ。
「あ! 弾幕戦! あのお花のスペルカードは美鈴さんですか?」
「そうね、相手は橙かな。あれは多分『鳳凰展翅』。よく山から遊びにくるのよ」
 沈み行く日輪を背景に、目も彩な弾幕の花弁が地上の花に負けないくらいに咲いていた。
 パンパンと魔力がはじける音がするたび、色とりどりの弾幕が美しい曲線を描きながら空を切り裂いて飛んでいく。ふたりとも惜しげもなくスペルカードを繰りだすものだから、夕焼け空はゼリービーンズをぶちまけたような有様だ。逆光となって群青色に潰れたふたり分の影が、その間をくるくると舞っている。
「――凄い、こんな弾幕戦、里じゃみたことも……」
 夢見るような眼差しで空をみつめるその横顔。両手をそっと胸のまえで重ね合わせ、小さく開けた桜色のくちびるから感嘆の吐息を漏らしている。
「でも弾幕戦としてはそれほど上等なものじゃないわよ。美鈴はあんまり得意じゃないし、橙も式がとれてるみたい」
「そうですか……それでもすごい」
 夕日を浴びてオレンジ色に染まった、その鼻の形が綺麗だと思う。晩夏の風は夕暮れ時ともなれば涼しくて、阿求は吹く風に髪を押さえながら気持ちよさそうに目を細めている。
 やがて空をみあげたまま、ぽつりと云った。
「――みんな、びっくりするくらい優しいんですよね」
「なによ急に」
「紅魔館のみなさんは云うに及ばずですけど、なぜか会うひと会うひとみんな昔より優しくなっているんです。わたしも前は結構煙たがられたりしたものですけど……」
「なにが云いたいのよ。阿求は可愛く産まれてよかったとか、そういうこと?」
「まさか! なんですかそれ!」
 彼女はびっくりしたように目を丸くして、それからけたけたと笑いはじめた。
 可愛いなというのは、ちょうどその横顔を眺めているうちに私が思っていたことだ。そんなことをつい口にしてしまった自分に、我知らず頬が赤くなる。
 ――けれど夕陽がこんなにも赤いから、気づかれてはいないはずだった。
 存分に笑ったあと、阿求はふと空を見上げてこう云った。
「スペルカードのおかげかなって思うんです」
 その視線の先で、美鈴と橙のスペルカードが次々と花開く。
『彩虹の風鈴』、『天仙鳴動』、『華厳明星』、『鳳凰卵』。色とりどりの光弾と、その弾幕が描く美しい放物線。光と軌道で構成される、史上類をみない弾幕芸術。
「スペルカードって、そのひとの心の一番素敵なところを、これ以上ないくらい綺麗にみせてくれる。使ったひとの個性とか、好みとか、夢とか、願いとか。それを弾幕ごっこの中で見ちゃって、ひとりひとりがこんなに綺麗な心をもってるってわかったら、簡単に嫌えなくなってしまうって思いません?」
「……ふん」
 口惜しいけれど、たしかにそういう面はある。普段無神経なほどさっぱりしている美鈴が、実はその裏側に可憐な乙女心を隠しもっていたなんて、あの華まみれのスペルカードでもみせられなければ気がつかなかっただろう。
 ひねくれているようでどこまでも真っ直ぐな魔理沙の『マスタースパーク』。この世界から存在ごと浮遊する霊夢の『夢想天生』。スペルカードは、ある意味使い手の思想を表現する創作物。弾幕戦はコミュニケーションに他ならない。
「――わあ、すごい!」
 華やかな声に空をあおぐと、そこにひときわ大輪の花が咲いていた。
 それは美鈴が放った『極彩颱風』。その名前のとおりに極彩色の乙女心は、追い詰められた化猫と、地上でみていた阿求の胸を打ち落としていったようだ。
「たーまやー!!」
「それは花火でしょう。まあ、ある意味弾屋ではあるけれど」
「あはは、そうですね」
 そう云って儚げに笑う、彼女の瞳は憧れ色に濡れていた。
 けれどそのまなざしのどこか奥のほう、どうしても私は一滴の虚無があるのを感じている。笑顔の裏にひそむ、暗い感情の源流を。身体の奥底に広がった、凍えた雪原の広漠を。
 ――そうしてその正体は、次の一言でわかった。
「ああ、この光景も全部覚えていられたらなぁ……」
 そんな言葉に、そのときまだ事情を知らなかった私は苦笑しながら突っこんだ。
「ふん、どうせみたもの全部覚えてるくせに、なに云ってるの?」
「ああ、いえ。私だけじゃなくて次の代までもっていうことです。ほら、そのころにはこの遊びもなくなっているかもしれませんし」
 ――私だけじゃなくて?
 返ってきた言葉の意味がわからなくて、私はきょとんと小首を傾げる。
「え? でもあなたは転生しても全部忘れないんでしょう? 天狗の新聞に書いてあったわよ」
「あー……。いえ、あれ文さんの勘違いなんです。実際は転生するときに結構忘れてしまうんですよ」
「……え?」
 ばつが悪そうに云った阿求の言葉に、一瞬頭の中が真っ白になった。
 ――忘れる?
 この子も記憶を忘れるの?
 あわせた両の手のひらから、さらさらと水がこぼれ落ちていくように?
「それは覚えてることもありますよ。縁起のこととか、過去の自分たちのこととか。でも不思議と大事なことほどぽろぽろと忘れるんですよねぇ。好きになったひとのこと、両親の顔、心を震わせた音楽、兄弟や姉妹のこと。忘れてる前世の記憶は完全に消えているので、もうどうやっても思いだせない。虫食いの穴です」
 ――ああ、そうなのか。
 楽しかったできごとも。
 場が笑いに包まれた冗談も。
 好きだったひとの面影も。
 美味しかったお酒の味も。
 その都度はらはらと忘れていきながら、この子は千二百年に及ぶ転生を繰りかえしてきたのか。
 昏い笑みを浮かべる彼女から顔をそむけると、目に飛びこんできた夕日がいやに眩しくて泣きそうになる。
 なんだか、ひどく裏切られた気がした。
 いい加減な記事を書いた天狗に対してもそうだけれど、この阿求に対しても。だって完璧な記憶だと思わせて散々私を惹きつけておいて、実はそうではなかったなんてひどすぎるじゃないか。
 とても面白い本だと思ってわくわくしながら読んでいたら、読んだ端から文字が消えていくことに気がついたような感覚だ。
 ――消えないで欲しい。
 お願いだから、まだ消えないで欲しい。
 せめて私がその本を、一字一句完全に読み終わるまで。
 だってその本は、今まで読んだことがないほど素敵な物語なのだ。瑞々しい感性ときらめく描写で語られた、世界でたった一冊の物語なのだ。
「だから、こうやって何度だって足を運ぶんです。覚えておきたいから。できるだけたくさん、阿求が好きだったもののことを覚えておきたいから」
 花畑を抱えこむように両手を広げ、阿求は夕陽にむかって立っている。サルビアや向日葵やマリーゴールドやダリアがさわさわと風に揺れ、テラスに夏の花の匂いを運ぶ。たなびくすじ雲はその下辺を白々と夕陽に輝かせ、鳥の群れが影を引くように黄昏の空をよこぎっていく。
 阿求はこちらに背中をむけていて、その表情はわからない。
 けれど正面からの光を浴びて影になった背中は、ひどく薄くて儚くて冷たくて。
 ――私は、忍びよる冷気に背筋を凍らせる。

「この阿求の身体は、今までと比べてもとくに弱いようです」

 つぶやいた阿求の声からは、中有の道の響きがした。


6

 結局――私は思い違いをしていたのだろう。
 いくら阿求の身体が弱くても、あらかじめ夭逝が約束されていても、御阿礼は御阿礼であり、永遠に失われることなどないのだと思っていた。たとえ死んでしまったとしても百年もすれば蘇り、また以前と同じ記憶に触れることができるのだと。
 けれど、それは間違いだった。
 ――死ねば、阿求は色々なことを忘れてしまう。
 生まれ変わった阿戸だか阿刀だか阿登だかは、紅魔館ですごした色々な日々をすっかり忘れているかもしれないのだ。
 美鈴と一緒に花を植えたことも、その花が夏の夕暮れに咲き誇っていたことも、咲夜が淹れてくれた紅茶を美味しい美味しいと何杯もおかわりしたことも、こぁとどうでもいいことで笑い合っていたことも、レミィの気まぐれにつき合って夜通しチェスをしてすごしたことも、この図書館に何度も何度もかよったことも。
 みんなみんな、忘れている。
 ――それは、阿求じゃない。
 色々な記憶を無くした阿求は、阿求じゃない。
 御阿礼の子? 幻想郷の記憶? 千二百歳の古老?
 馬鹿らしい、そんなものはただの幻想じゃないか。
 完璧な記憶が保てないのなら、それはもう別人だ。
 人格などというものは、産まれてからすごした記憶に基づいて形成された、外界からの刺激に対する反応の“癖”だ。物事をどう思うか、どう感じるかなどは過去の記憶によって判断されるのだから、阿求としての記憶を失い、違う記憶をもって成長していく誰かのことを、阿求と同じ人間と呼ぶことはできないだろう。
 ならば阿求は、御阿礼の子なんかじゃない。
 阿求は――阿求だ。
 産まれてからたった十歳の。身体が弱くて夭逝が約束された。ころころとよく笑う。
 たったひとりの、稗田阿求だ。

 死んだらもう、戻らない。

「――フランが会ってみたいって云ってたわ」
「本当ですかレミリアさま!」
 レミィがそれを告げたのは、阿求がはじめてこの館を訪れてから三ヶ月ほど経ったころのことだった。
 まだ陽も落ちきっていないというのにレミィは起きていて、私たちは窓のないティールームでいつものようにお茶をしていた。
 スコーンにワッフル、マフィンにタルト。ベリーパイにブラウニーにマドレーヌ。テーブルにはあいもかわらず大量のお菓子が山盛りになっていて、そのほとんどは阿求の前に置かれている。レミィの隣に私、その隣に阿求。いつのまにかそんな席順が決まっているところも、考えてみればなんだか少しおかしかった。
「一応云っておくけれど、命の保証はしないわよ?」
「ええ、覚悟はしてます。そもそもそんなものを求めていたら、最初からこの紅魔館の門をくぐれませんよ」
「ははっ、違いない。でも正直気が進まないわねぇ。あなたは人間にしては話せる奴だもの、死なすには惜しいわ」
「まあ、それがわたしの使命ですから、あまりお気になさらず。どうせ百年もしたらまた産まれてきますしね」
 そんなことをしれっとうそぶいて、阿求はずずずと紅茶をすするのだった。
「……ふん」
 ――なんて白々しい台詞。
 百年後のあんたは、あんたじゃないじゃない。
 そんな言外の意味をこめてにらみつけると、阿求はちらりとこちらを眺めてばつが悪そうな顔で目をそらす。
「あ……ごめんなさいパチュリーさん。つい日本茶のようにすする癖が。紅茶は音を立ててはいけないんでしたよね」
「……そうよ、気をつけなさい」
 くだらない誤魔化しに乗ってそう云うと、視界の隅で咲夜が溜息を吐くのがみえた。

 紅魔館の住人を次々と陥落していった阿求だけれど、たったひとりいまだに会うことすらできない者がいた。
 それが妹さまこと、フランドール・スカーレット。
 外部には半ば気が狂っているのだと喧伝しているフランだけれど、これが実に病的なほど人見知りが激しい子なのだ。優しくて気がいいのは確かなのだが、自分のもつ破壊の能力を強く恐れていて、初対面のものとは決して顔をあわせようとしない。優しすぎるがゆえに他人との距離がつかめなくて、脱兎のごとく逃げだすか“逃げださなくてもいい状態”をつくりあげるかのどちらかだ。
 もし後者の結果になった場合、フランの精神は計り知れない打撃を受ける。だからレミィは今まで誰もあの子にあわせようとしてこなかったし、フランもそれで満足しているようだった。
 けれど、今回も白黒や巫女のときのように彼女のほうから会いたいと云ってきた。
 レミィはあんなことを云って脅したけれど、実際はほとんど心配なんかしていないだろう。阿求が死んで妹さまが傷つく可能性があるのなら、あの妹ばかのレミィが会わせるはずはないのだから。

「――これで、あの子がここにくることもなくなるんでしょうかね」
 阿求とレミィがいなくなったティールームで、のろのろと片づけをしながら咲夜が云った。
「そりゃね。妹さまのデータさえとれれば、もうあの子がここにくる理由なんてないでしょ。縁起のためだけに通ってたんだから」
「そうですか? 私にはそれだけだとも思えませんでしたけど」
「……なにを云いたいの?」
「いいえなにも? あえて云うなら、相変わらずうちの魔女さんは難儀な性格してるなぁというくらいですか」
「……ふん」
 私はのそりと立ち上がって、ティールームから外に出る。
 図書館にむかうために紅い廊下をゆっくり飛んでいくと、すれ違った妖精メイドたちがことごとくぎょっとしたような顔をした。
 けれどいつぞやと違って逃げていくこともなく、みな一様に心配そうな様子で私の顔を覗きこんでくるのだった。
「うざい」
 つぶやいて魔力を放射すると、蜘蛛の子を散らすようにぴーぴー泣きながら逃げていく。本当に役に立たないメイドたちだ。そもそもどうしてあんな風にまとわりついてきたのだろう。妖精の考えることなんて、私にはまるでわからない。
「――パチュリーさま?」
 図書館に入ると、こぁまで似たような顔をして近よってきた。
「なによ、用がないなら話しかけないで」
「用ならありますよ。どうしてそんなに悲しそうな顔してるんですか。もしかしてあっきゅんになにか?」
 ――また阿求か。
 咲夜といい、こぁといい、みんなよほど私と阿求を結びつけるのが好きとみえる。
 それは確かに私は阿求に興味をもっていたけれど、それはあくまであの子が完全なる本のようなものだと思ったからのこと。不完全な記憶なら用はないし、いくら魅力的でも壊れやすい本なんて欲しいとは思わない。
 それになにより、あの子はただ縁起を書くためだけに生きて、書き終わったら死ぬだけの人間だ。私に近づいたのだってそれが一番紅魔館に入りこむのに適した方法だったからだろうし、いくら紅魔館に興味をもっているといっても、私個人に特別な思いなんて持っているはずがないだろう。
 ――こんな、いつも無愛想な顔をした知識と日陰の少女になんて。
「あんたがなにを云いたいのかはわからないけど、阿求ならレミィが最地下に連れて行ったわ、妹さまに会わせるためにね」
「ああ……そうでしたか……」
 納得顔でうなずいたこぁのことを、魔力をこめた視線でにらみつける。けれどさすがに妖精メイドよりは力をもっているこぁだった。少しひるんだように眉をしかめただけで、怯えたりはしなかった。
 むしろ怒っていた。
 ぷりぷりと怒りながら手にしていた本を書棚に戻していくと、作業用の白衣を脱いで扉にむかって飛んでいく。
「あたし、ちょっと様子みてきます。心配ですし……」
「そう? なら今日はもう上がりでいいわ。おつかれさま」
「――いじっぱり」
 ぱたんと扉がしまる直前に聞こえてきたその声は、聞こえなかったことにした。
「……ふん」
 私は鼻をひとつだけ鳴らし、読みかけだった本を開いて読書にとりかかる。
 しんと静まりかえった図書館は読書環境に最適だ。数多の英知に満たされた図書館の死んだ空気は、いつだって私の気持ちを落ち着かせてくれる。
 少しかび臭い匂い。遥か天井の高みまでそびえ立つ書棚。そこにつめられた、とうに忘れ去られた学問の珍奇なる教えを示す書物たち。
 ぱらりとページをめくる音は喜びだ。ちらちらと瞬く読書灯のオレンジ色は、夜の秘密をささやきかけてくる心暖まる色彩だ。
 ――けれど。
 ページをめくる私の心は、千々に乱れて混乱していた。
 章と章の間、文節と文節の間、文字と文字と間にふと阿求の姿が浮かんできて、私はどうしても言葉を読み解くことができないでいる。
 しゃちほこばった顔をしてさっそうと歩くときの、あのすっきりした背筋。あけすけに笑うときの子どもらしい無邪気さ。昔のことを思いだすとき、くりりと瞳を回転させるその仕草。夕闇の迫る花畑で、ぽろぽろ忘れると云ったときの寂しそうな背中の丸み。
 ――怯えなかったな、と思う。
 フランに会えば死ぬかもしれないと云われても、あの子はまるで怯える様子をみせなかった。
 なんでだろう。
 なんであの子は怯える様子もみせずに死地におもむいていくのだろう。
 以前までの私は、阿求があんな風に自暴自棄にもみえる行動をとれるのは、あの子が完全な転生ができるからだろうと思っていた。たったひとりでこの紅魔館の門をくぐりぬけてきたことも、この魔女が住まう図書館のドアをノックしたことも、あっさり吸血鬼の首魁たるレミィと面会したことも。
 たとえなにか間違えて死んでしまっても、どうせ元通り蘇ると知っているからできるのだと思っていた。
 けれどそれは私の勘違いだった。あの子は死んだらもう二度と返ってこないし、彼女自身死ぬことを恐れていた。死んで転生して、なにもかも忘れることを恐れていた。そうでなければ、あの花畑で私に弱音を吐きだしたりはしないだろう。
 ――なのに。
 この悪魔が支配する館のなかで、どうしてあの子はあんな風に振る舞うことができるのか。
 まるで運命にその身のすべてをゆだねているかのように。自分がなにも持っていないとでも思っているように。いつ死んでも構わないとでも云うように。自分の命を本気で惜しむものなど、どこにもいないとでも云うように。
 そう思うと、胸の奥底からふつふつと怒りが湧いてくる。ぐるぐると渦巻く怒りと悲しみと切なさが、胸の中で雷雲のように荒れ狂っていて鎮まらない。
 苦しくなってきて気持ち悪くなってきて、ぎゅっと胸を押さえながら呻いている。
 本を閉じて膝を抱えて丸まって、発作のようにせり上がってくる思いに全身をこわばらせながら耐えている。
 けれどどれだけ我慢しても、叫びだしたくなるほどの切なさは過ぎ去ってはくれなかった。

 ――好きなのに。
 私が、あの子のことを好きなのに。
 私が好きになったもののことを、粗末に扱ったりするな。

 ――ああ。
 とうとう言語化してしまったその思いに、自嘲しながらテーブルに突っ伏した。
 気づいていたけれど認めたくはなかった。
 わかっていたけれど受け止めたくはなかった。
 不完全な本だとわかっていても、どうせ失われるものだと知ってしまっても、結局私はあの子のことが好きなのだ。本としてなのかひととしてなのかはわからない。けれどあの子があの細い身体で世界全部と対峙するのをみていると、胸が張り裂けそうに痛むのだ。
 ――がちゃり。
 図書館のドアが開く。けれど私はテーブルに突っ伏したまま動かなかった。
 顔なんて、みなくてもわかる。
 問答無用でこの図書館に入ってくる無法者なんて、どうせレミィだ。
「――入るわよ、パチェ」
「もう入ってるじゃん。ノックくらいしなさいよ」
「ふん、どうしてそんなことしないといけない。この紅魔館のすべては私の物よ、勝手に住みついてるくせに偉そうなこと云うな」
「はいはいわかったわようっさい。それで? 一体なんの用?」
 口を尖らせて顔をあげると、レミィは嗜虐的に目を細めながら私のことを見下ろしていた。
「阿求は小悪魔が送っていったわ。フランは友だちができて喜んでいた。これからも上手くやっていけるんじゃないかしら」
「……そう。よかったわね、これで阿求も目的が達成できるっていうことね」
 しばらくはフランと遊ぶために顔をだしたりもするだろう。
 けれどじきに来なくなる。
 あの子はただ縁起を書くためだけに生きていて、それを達成するためなら自分の命なんてどうでもいいと思っているのだから。
 ならばもういい。もうそれでいい。
 私が欲しい物を粗末に扱う人間のことなど知るもんか。
 とっとと私の前から消え去って、二度と姿を現わさないで欲しい。縁起でもなんでも好きに書いて、勝手にひとりで死ねばいい。
「パチェは――本当にそれでいいの?」
「いいわ。決まってるじゃない」
 視線をそらしながら閉じていた本を開くと、親友は心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふん、おまえのことは好きだけど、そういう陰湿なところは大嫌いよパチェ」
「それはどうも。魔女にとっては誉め言葉だわ」
「――けっ!」
 そんなレディらしからぬ悪態を残して、レミィはどしどしと廊下を踏みしめながら去っていく。
 そうしてひとり残された私は、胸の中でどす黒い気持ちを渦巻かせながら座っていた。
 ――なんだこれは。
 なんでさっきから、私ばかり責められないといけないんだ。
 私はなにもしていない。“動かない大図書館”たる私は、いつもどおりなにもしていない。ただ座って本を読んでいるだけだ。なにもしないで物事を見て、考え、誰かがなにかを望むなら横から助言を与えてやりたいようにさせる。
 それがこの私、パチュリー・ノーレッジじゃないか。
 ――勝手なことばっかり云って。
 咲夜も、こぁも、レミィも。妖精メイドすら。
 ひとの気持ちも知らずに勝手に期待して勝手に呆れて勝手に心配して勝手に怒って。
「――どうしろっていうのよ!!!!」
 思わず激昂した私は、生まれてはじめて思いきり本を投げつけた。
 バンと聞いたことがない音を立て、大事な大事な稀覯本が壁に当たって無惨にひしゃげた。
 そのとき胸が激しく痛んだのは、もちろん本を粗末にあつかったせいだった。
 いらだちに髪をかきむしりながら荒い息を吐く。
 こぁが誉めてくれた自慢の髪が、ぐちゃぐちゃに乱れて鳥の巣のようになる。
 地団駄を踏みしめながらもようやく少し落ち着いて、本を拾いにいこうと思った瞬間喘息の発作が起きてうずくまる。
 ――最悪。
 こんなときに限って、こぁも咲夜も妖精メイドもきてくれない。
 図書館で夜通し膝を抱えて丸まりながら、あの日さすってくれた阿求の手のひらを思いだして少し泣いた。

 思いだしてみれば、あの手は少し震えていた。


7

 阿求がきているのはわかっている。
 けれど顔をみたら涙ながらに引き留めてしまいそうだったから、私は会おうとはしなかった。
 だってそうだろう。あの子には縁起を書くという使命があるのだ。そのために短い生を送ることを許された、残酷な使命が。
 いくらあの子のことが好きだと云っても、私のわがままでその残り少ない時間を奪うことは許されない。これからも紅魔館にきて欲しいだなんて云えるはずがない。
 ――どうせ手に入らないものなら、私のほうから投げ捨ててやるんだ。
 そう思って私は、阿求と会うことがないように紅魔館中を逃げ回っていた。
 ふと実験室にたちよって薬品の整理をしてみたり、意味もなく厨房に行って妖精メイドをねぎらってみたり。
 この広い紅魔館のこと、図書館にさえいなければ阿求にも私の居場所なんてわかるはずがない。本のそばに在るものこそ私なのだから、本のそばにいなければ存在しないのと同じことなのだ。

 高くそびえたつ鐘楼の最上階。遠く結界の山を望む見張り部屋で、私は自分でお茶を淹れながらぼんやりと本を読んでいた。
 さすがにこんな場所があることを阿求は知らないだろう。そろそろ諦めて帰るころだろうかと思いながら、山にかかる夕陽を眺めていた。
 ふと思いだす。いつか花畑で、あんな風に紅い夕陽を浴びていた阿求の姿。
『――この阿求の身体は、今までと比べてもとくに弱いようです』
 そう云ったときの、寂しげな背中。震える声。風に揺れるうなじの後れ毛。
 ――ふん、知らないわそんなの。
 ぶんぶんと頭を振ってその光景を振り払い、本を読もうと手元に視線をむける。咲夜が呆れたように吐く溜息が、どこからか聞こえたような気がした。
 そのとき。
 ――がたん。
 突然響いてきた物音に顔をむけると、床から阿求の頭が生えていた。石の床に開けられた階下へ通じる跳ねあげ板を押し上げて、鳩羽色の頭がにゅっと顔をだしていた。
「みつけた!」
「うわぁ!」
 ――なんで、こんなところにいるのがわかるのよ。
 呆然とそう思った私を尻目に、阿求は意外と器用に縄ばしごを登ってきた。
 桜を散らした江戸紫の小袖に、葡萄茶色の袴を合わせた装いだった。トレードマークのようにつけている乙女椿のかんざしが、今日も髪の間で瑞々しく咲いていた。
「うわぁ、じゃないですよもう。なんで逃げ回っていたんですか」
「あら、きてたの。ごめんなさい、気づかなかったわ」
「……嘘ばっかり、閻魔さまに舌を抜かれても知りませんから」
「抜かれるの?」
「抜かれません、ねちねちいびられるだけです」
 そんなことをうそぶいて、阿求は正面の椅子にちょこんと正座した。結局彼女のこの座りかたはずっと変わらなかったなと思う。なにかのこだわりでもあるのか、それともこれが日本の風習なのか、聞いてみたいけど今更な気もしてしまう。
 鐘楼の見張り部屋は、石造りの床に絨毯を敷いて細々とした家具をおいただけの簡素な佇まいだ。四隅には大きく窓が開けられていて、三百六十度周囲の光景を見渡せる。
 霧の湖、妖怪の山、鬱蒼とした魔法の森や黄昏色に染まる大平原。
 そんな幻想郷の光景を、阿求は嬉しそうに目を細めながら眺めている。
 この景色は一体どれぐらい先まで阿求の記憶にとどまってくれるのだろうかと思う。
 ふと吹いてきた風をうけて、鳩羽色のショートカットがさららと揺れた。
 ――もういいや、もういい。
 ここまでこられたら、もう逃げることなんてできやしない。わかったからもう全部終わらせてしまおう。
 こうやってこの子の姿を眺めているだけで、私の胸は張り裂けそうに痛むんだ。とっとと紅魔館から追い出して、いつもどおりの自分に戻ってしまおう。仏頂面で黙々と本を読む、人間なんかに毛ほども興味をもたない“知識と日陰の少女”パチュリー・ノーレッジに戻るんだ。
「――で、どうなの? 縁起のほうは進んでる?」
 かすれた声で問いかけると、阿求はひとの気持ちも知らないでにっこりと笑う。
「ええ、おかげさまでフランちゃんのこともばっちりです」
「……そう、紅魔館に関してはもうなにも問題ないというわけね」
「ええ、大丈夫だと思いますよ?」
 少し不思議そうに小首を傾げた阿求に、溜息をひとつ吐いてから私は云った。
「じゃあ、もうここにくる必要もないね」
「――え?」
「さようなら阿求、いままで楽しかったわ」
 その瞬間ぽかんと口を開ける阿求。
 目を大きく見開いて、愕然としたような顔をした。
 指先からティーカップが落ちていく。かちゃんとテーブルにぶつかって、少し入っていた紅茶がこぼれる。鮮紅色の液体が、テーブルクロスにじわりと領土を広げていく。
 やがて紅茶はテーブルのはしにたどり着き、阿求の葡萄茶色の袴にぽたりと垂れた。けれど彼女はまるで気づかない様子で、くちびるをふるわせたまま私の顔をみつめていた。
 ――彼女のこんな表情に、私は見覚えがある。

『わたし、パチュリーさん怒らせちゃったみたいですね……ごめんなさい』

 それは私たちがはじめてあった日、図書館で話していたときのこと。ふと捻くれたことを云った私に、阿求はこんな表情をして子どもみたいに泣きだした。
「わた……わたし、もうここに来ちゃ駄目ですか?」
 それはあのときとまるで同じ、鈴が鳴るような小さな声。
 今にも夕陽に紛れて消えていきそうなか細い声。
 幼子が、親に叱られてだすような悲しい声。
 忘れていた。
 この子がこんな反応をする子だということを忘れていた。
 あまりにも大人びていて、あまりにも頭がよくて、あまりにも楽しそうだったから。
 ――あの日、もうこの子を泣かすようなことは云わないと誓ったはずなのに。
 何度私は、同じ間違いを繰りかえせば気が済むというのだろう。
「もしかしてパチュリーさん、今までずっとわたしのことお嫌いでした……?」
「べ、別にそういうわけじゃないわ阿求……その……」
「それじゃ、どうしてそんなことを……。やっとフランちゃんともお友だちになれたのに……なんでそんな追いだすようなことを仰るんですか……」
 絞りだすようなその声に、胸がずきりと痛む。私はそんなにこの子を追い詰めるようなことを云ってしまったのかと、背筋がぞっと冷えていく。
 ――子どもは苦手だ。
 下手に弄ったら、壊してしまいそうで怖くなる。
 下手に関わったら、抱きしめたくなりそうで怖くなる。
「――は……」
 ふと鋭い息を吐きだして、阿求は心臓のあたりを押さえこむ。途端に桔梗色の瞳から色が失せ、糸が切れた人形のようにふらりとテーブルに倒れこんでいった。
 ――貧血?
 考えたのは、けれど一瞬のこと。
「阿求!」
 反射的にテーブルの上に飛び上がり、倒れかかってくる阿求の身体を抱き止めていた。蹴り落としたティーカップが床に落ちてがちゃんと音を立て、こぼれた紅茶がじわりとワンピースに染みこんでくる。
 けれどそんなことは少しも気にならなかった。
 ただ腕の中にすっぽりと収まった、阿求の身体の感触だけを感じていた。
 ――なんて。
 なんて細くて薄い身体だろう。
 なんて儚げな、弱々しい身体だろう。
 思わず抱きしめてみると、そのあまりの儚さに涙がでそうになった。
 アリスが作る人形のほうがまだ柔らかい。白玉楼の女主人のほうがまだ生の気配を感じさせる。
 それほど阿求の身体は子どもらしくて小さくて。今までこんな身体で幻想郷中を歩き回っていたかと思うと、怒りにも似た胸の痛みが湧き上がってくるのだった。
「……パ、チュリー……?」
 腕の中、ふと聞こえてきた小さな小さなかすれ声。
 私は、可能な限り優しい声音で返事をする。
「気がついた? 阿求」
「……あれ? わたしどうしたんだろ……なにこの、柔らかい……」
「あなた、貧血起して倒れそうになったの」
「ああ、それでパチュリーさんがベッドに寝かせてくれたんですか。なんか暖かくて柔らかくて……いい匂い」
「残念ながらそれはベッドじゃなくて私の胸よ阿求」
 ――だからそんなにふにふに揉まないで。
 思わず頬を熱くしながらそう云うと、ぴしりと阿求の身体が固まった。
 だから私は照れ隠しをするようにその身体をもっと強く抱きしめる。間違っても照れた顔をみられないようにぐっと後頭部を押さえつけると、阿求の顔はますます胸の中に埋まっていくのだった。
「あ、あの……」
「ごめんなさい、阿求」
「……え?」
「さっき云ったことは全部丸まる取り消すわ。これからもいつでも好きなときにここにきて。……いいえ、きなさい。ずっとずっと私に会いにきなさい」
「……うん」
 こんなに小さな幼子を、この幻想郷にひとりきりで放りだすなんてできるものか。
 ――結局私はまた、思い違いをしていたらしい。
 その大人びた態度と言葉遣いに惑わされた。御阿礼の子という肩書きに瞳を曇らされた。
 でも考えてみれば、阿求はまだたった十歳の女の子なのだ。
 いくら阿礼の生まれ変わりであっても、どうせ過去の記憶などおぼろなもの。ならばこの子を形作っている中核は、まだ産まれてから十年しか生きていない阿求のはずなのだ。
 周囲から御阿礼の子だなどと呼ばれ、稗田の当主として祭り上げられ、縁起を書くという使命を負わされた。
 確かにそれだけの知能と能力は持っている。けれど甘えたい盛りの十歳の女の子であることもまた事実。
 今私の腕の中でやすらぐ阿求は、普通に無邪気でとても寂しがりやの、どこにでもいる、ただの子どもだ。
「ふふふ、パチュリーの身体やーらかいな、嬉しいな」
「そう? 私としては、最近太りすぎじゃないかと気にしてるんだけど」
「えー、そんなことないですよ。女の子はちょっと太ってるくらいが可愛いです」
「あら、ありがとう。でもあなたみたいにスレンダーなのも可愛いわ」
「え?」
「――可愛いわ、阿求」
 耳にくちびるをよせてささやくと、彼女は「ひゃっ」と驚いたように息を呑む。
 そうしてふにゃりと身体から力を抜いたかと思うと、私の背中に腕を回してぎゅっと抱きついてきた。
「……えへへ、なんか照れちゃう」
 はにかんだように笑った阿求に、あのガラスのような硬質さはもはやない。
「わたし、可愛いなんて誰かに云われたの、生まれて初めて。こんな風にぎゅっと抱きしめてもらったのも……」
「……あなたのお母さんは……」
 少し迷いながらも口にすると、阿求はなにかに怯えるように私の胸に顔をうずめた。
「母は、私を産んですぐに出奔しました。“普通の子”が欲しかったようです」
 涙声で云った阿求の身体をぎゅっと強く抱きしめる。
 西の空では、宵の明星が群青の空にかかっていた。


8

 わたしがおぎゃあと泣いたのは、この世に産まれたのが嫌だったからなのです。
 けれどその声を聞いた瞬間、産婆がうめぼしみたいなくちびるをほっとしたようにほころばせたのでした。おかげで産褥の寝室にはどこか安心したような空気がながれてしまって、わたしはそれを申し訳ないと思うのです。
 ――ああ、こんなことなら子どもみたいに泣くんじゃなかった。
 そう思ったそれが、このわたし稗田阿求が今生において感じた最初の後悔なのでした。
 まだやわらかい表情筋をひきしめるのは苦手。ぐらぐらした首を据えるのも苦手。けれど懸命に努力して口を閉じ、目をぱっちりと見開いて寝室の光景を眺めます。
 ああ、百年前と同じ寝室だとわたしは思う。飴色に光る捻梅透かし彫りの欄干。地袋に浮き彫りにされた羽を広げた鳳凰の意匠。相も変わらず床の間に飾られている、阿礼が書いた『焦山望寥山』の掛け軸。
 ああ、幻想郷は変わらない。
 百年前と変わらない。
 産まれた端からぱっちりと目を開けたわたしに対する反応も、まるで刻を巻き戻したように変わりません。産婆もその手伝いも、母も父も稗田の侍真も、ぴたりと動きを止めています。凍りついた寝室の中、さらさらと雨の音だけが聞こえます。
「……御阿礼さまですか?」
 股を開いたまま硬直していた母が、化け物をみるような視線でわたしのことをみた。
 わたしはこくりとうなずいて、なにを思ったのか口を開いて朗読をはじめます。

「石壁松寥を望む
 宛然たり碧霄に在り
 安くんぞ五彩の虹を得て
 天に駕し長橋と作さん
 仙人我を愛するが如く
 手を挙げ相い招いて来る」

 掛け軸に書かれた『焦山望寥山』の詩、朗読したのはなぜでしょう。思わず泣いてしまったせいで期待させたことへの罪滅ぼしなのか。これ以上ないくらいにわたしが御阿礼の子だと知らしめることで、すべての期待を打ち砕こうとしたのでしょうか。
 わたしがかそけき声でとうとうと詩を詠む背後で、雨が土にしみこむ音が、遠い場所で奏でられる祭り囃子のように聞こえておりました。
 雨の日に産まれるのは初めてのことでした。こんなのも悪くないなぁと思って、わたしはくすりと笑います。
「いやぁ……」
 その瞬間、母は両手で顔を覆いながら泣き崩れてしまいます。ああ、産まれて悪いことしたなぁと思うと同時に、少しだけ腹立たしさも感じます。稗田の女なのに、わたしが阿弥として死んでから百年以上が経つのに、わたしを産むかもしれない覚悟ができていなかったのでしょうか。
 それでも気持ちがわかるだけに責める気持ちにはなれません。夭逝するとわかっている子を産んで、誰が喜んだりするでしょう。自分の六十倍の長きにわたって生きてきて、神代の話をべらべら喋る子を、誰が慈しんだりするでしょう。産まれた瞬間から自分より知能の高い子を、誰が抱きしめてあげたりするものか。
 ああ、どうして阿弥は転生の儀式など行ってしまったのだろう。
 産まれたときにこんな思いに駆られるのがわかっていて、どうしてわたしは毎度のように転生してしまうのか。ただ縁起を書いて死ぬだけの人生を、どうして繰りかえしてしまうのか。
 頭の中で阿礼のささやき声がする。皮肉めいた声色で『お誕生日おめでとう』と云っている。
「おい、しっかりしろ、御阿礼さまに失礼だろ!」
「でも……でも……」
 父ががっしりした手で母の肩を抱き、励ますようにゆさぶります。けれど母は泣きじゃくっているだけで、ろくに返答ができません。
「気にしないでください。慣れていますから」
 未熟な声帯で懸命にそう云うと、父は産まれたばかりのわたしに対してがばりと頭をさげました。
「失礼しました。おかえりなさいませ、御阿礼さま」
 今度の父はとても頼りになりそうだと思って、わたしは少しだけ嬉しくなりました。
「失礼します」
 産婆がにじりよってきて、ぷつりとへその緒を切りる。
 その感触は、なんど味わっても慣れません。
 母と切り離され、世界にたったひとり蹴り墜とされたときの感触は。

  *  *  *

「――パチュリー? どうして泣いているんですか?」
「泣いてなんかいないわ、少し喘息で息が苦しいだけ……」
「ふふ、ならまた背中をさすってあげましょうか。まあ、そんなことしたら余計泣いちゃいそうですけどね」
「……口の減らない子ね。少し黙りなさい」
 そう云って、こまっしゃくれた口をふさぐように強く強く抱きしめる。この子が産まれた日、母親がしてあげられなかった分まで強く、優しく抱きしめる。
 腕の中の阿求はふわんと柔らかくなって、まるで咲夜が作るマシュマロのような風情。
「あなた……縁起を書くことについてどう思っている? そのために産まれてきたんだって、今でも思ってる?」
「……わかりません、それは一言では云えません。縁起はもう、好きとか嫌いとかじゃなくてわたしの一部になっています。でも、ただそれだけのために生きていたくはないんです。阿礼なんてどこかにいってしまうぐらい、わたしは阿求でありたいと思います」
「……そう」
 つぶやいて西の空をながめる。天蓋を満たす幾千という星々が、まるで忘れ去られた誰かの思い出のように光っていた。
 阿求が語った彼女が産まれた日の物語は、私の中にあったある疑問を氷解させた。
 ――どうしてこの子は、あんなに自暴自棄ともとれる行動がとれるのか。
 たったひとりでこの紅魔館の門を潜り、魔女が住まう図書館の扉をノックし、気が触れた吸血鬼の元へ嬉々として会いに行く。
 そうできる理由は恐らく、この子が自分の命をかえりみないほど縁起に対する使命感をもっているからじゃない。きっとこの子が、今まで自分自身を大切にする機会に恵まれてこなかっただけなのだ。
 阿求を産んだ母は、産まれたばかりのこの子のことを抱きしめてすらあげられなかった。
 産まれた瞬間から、御阿礼さまなどと呼ばれて生きてきた。
 誰ひとり阿求自身のことをみてあげず、みんながみんな頭の中に宿っている阿礼の幻想ばかりを敬った。
 ――それでどうして、自分自身のことを大切に思えると云うのだろう。
 誰も阿求自身のことを愛してやらなくて、どうして彼女が自分自身のことを大切な存在だと思えるだろう。
 ――稗田の、家。
 もし御阿礼の子に対するこの扱いが、すべて意図的なものだというのなら。この扱い全体が、御阿礼の子が我が身を省みずに縁起執筆に邁進するように仕立て上げ、稗田という家の格を維持するために利用しているというのなら。
 私は決してかれらのことを許さないだろう。

「本当に、いつでも訪ねてきてね阿求。私の隣の席は、ずっとあなたの指定席だから」
「はい……それにしても、さきほど追い出そうとしたときとは随分な変わりようですねパチュリー」
 照れ隠しをするようにそう云って、阿求は頬を染めながらくすくすと笑った。
「うるさいわね、あなたは黙って私の云うとおりにしていればいいの。いっそもうこの紅魔館に住みなさい阿求」
「ええええ! 飛躍しすぎですよそれっ」
「無理だってことはわかってるわ。でも半ば本気でもある。あなたならこぁなんかよりよっぽど私の役にたちそうだしね」
「う、嬉しいですけど……それ、こぁちゃんが可哀想じゃないですか?」
「なにがよ。あんなのはただの奴隷だわ。奴隷がどう思おうと知ったこっちゃない」
「うぅ……もしかしてパチュリー、気づいてない?」
「なにがよ――」
 云った途端気がついて、その瞬間心臓がどきりと跳ねた。
 いつのまにか、すぐ近くからこぁの魔力が漂っていたのだ。
 いつもだったら近づいてくるだけでわかるのに、どうして今の今まで感じとることができなかったのか。
 よほど私も慌てていたに違いない。みるみるうちに全身が熱くなっていき、首筋をたらりと汗がしたたっていくのを感じている。
「……パチュリーがここにいるかもって、こぁちゃんに教えてもらったんですけど……」
 ふりむくと、見張り窓からぴこぴこと羽ばたく黒い翼がみえていた。
「あんた……いつからそこにいたの……?」
 かすれた声で問いかけると、窓から顔をだしたこぁはニヤニヤ笑いながら部屋の中に入ってくる。
「えぇと、パチュリーさまたちが抱きあいだしてからずっとです。いやー、パチュリーさまがそんなにあっきゅんのこと好きだったなんて、全然知りませんでしたー」
「く、この……なにを白々しいことを……」
「え? なんで白々しいんですか?」
 とぼけた顔でそんなことを云うこぁを、思いきりにらみつける。
 けれど彼女はまるで意に介さない風で、目を半眼に細めながら呆れたようにこう云った。
「そっかー。いっくらあたしがモーションかけてもなびいてくださらなかったのは、パチュリーさまがちっちゃい子にしか欲情しないひとだったからなんですねー」
「き、聞き捨てならないことを云うなっ! 咲夜じゃあるまいし!」
「――あら、聞き捨てならないのはどちらですか」
 突然聞こえてきた声に、その場にいた全員が固まった。
 そうしておそるおそるふりむくと、こぁがいたのとは逆の窓から、咲夜がひらりと部屋に飛びこんでくるのだった。
 ――なによこいつら、この紅魔館は覗き魔の巣窟か。
 そんなことを思った私の前で、咲夜は瀟洒なポーズで窓枠に腰掛ける。
「私が性愛の対象にする相手は吸血鬼だけで、たまたまそのお二人が幼い外見をしていたにすぎません。ヴァンプセクシュアルと呼んで欲しいですわね」
「そう、それは誤解していて悪かったわね。私はひとのセクシュアリティは可能な限り尊重したいと思うのよ。――で、いつからいたのよあんた」
「パチュリーさまがしょんぼり部屋に入ってきたところです」
「最初からかよ!」
「ええもう、散々パチュリーさまから猫度が足りないとおしかりを受けたので、せめて屋敷内の警備は万全にしようとみまわっていたのですわ。なにか問題でも?」
「く……この口が減らない……っ」
 怒りと恥ずかしさのあまり震えていると、咲夜はふいに呆れたような顔になって首を横に振りだした。
「それにしてもパチュリーさま、あれはないです、あれはない。なにが“さようなら阿求、いままで楽しかったわ”ですか。好きなひとからそんなこと云われたら泣きますよ普通。あなたは本当、頭いいくせに馬鹿なんですから」
「うっわ、パチュリーさまそんなこと仰ったんですか……ひど……」
「でしょう? こぁもよくこんなひとの下で働けるわねぇ。辛かったらいつでもこっちに頼っていいのよ?」
「はい、それはもう語るも涙、思いだすも涙の日々でして……」
 やっすい芝居でよよよと泣き崩れるこぁの頭を、これみよがしに撫でる咲夜。そんなふたりを眺めているうちに、ふつふつと胸の底から怒りの感情が湧き上がってくる。
 ――さ、散々ひとのことを馬鹿にして。
 みっともないところをみられた恥ずかしさやら照れくささやら怒りやら。そんなすべてがない交ぜになって、身体が沸騰しそうに熱かった。
「……いい度胸じゃない、ふたりとも……」
 自分が発したものとは思えないくらい低い声。
 今なら地獄の閻魔すら従えられそうなほどの魔力が、身体の奥からみなぎってくるのがわかる。
「やばっ! 本気だ!」
 こぁが悲鳴を上げた瞬間、咲夜はすでにいなかった。
「――日符『ロイヤルフレア』!」
 巻きこまれないよう、阿求をぐっと片手で抱き寄せて。
 早口で呪文を唱え、私は自分の代名詞ともなっているスペルカードを発動させる。途端にぼぅと浮かび上がってくる日輪の力を宿した弾幕が、宵闇を切り裂いて部屋を紅魔の色に染め上げた。
「ひゃーっ! 無理!」
 放射状に旋回しながら広がっていく、紅い弾幕の軌道。こぁはなんとか二、三列避けただけであっけなく被弾し、こんがりと煙を上げながら床にぺたんと突っ伏した。
 目標を殲滅した弾幕はけれど留まることなく、展開式に乗っ取ってフレアの紋様を描き出す。
 そんな炎に白磁のような顔を紅く染めながら、阿求が感極まったようにつぶやいた。
「凄い……これがパチュリーの……」
「まだまだよ阿求。しっかりつかまってなさい」
「えっ!?」
 その腰に手を回して抱え上げ、私はふわりと窓から飛びだした。
 本物の日輪はすでに西の山に沈み、幻想郷は群青の闇の中深閑とうずくまっている。見下ろすのは陰鬱な霧に閉ざされた湖、裏庭に広がる広大な花畑、鬱蒼と茂る深い森。空にかかる月は、相も変わらず太陽と見まがうばかりに大きくて。
 そんな幻想郷の宵闇を、空一面に展開された『ロイヤルフレア』が照らしていた。
「――わぁっ!」
 ぽぅと輝く弾幕が、何百何千何万と紅魔館の上空に浮かんでいる。放射状に散開し、複雑な曲線を描いて飛び、ランダムでありながら緻密に計算されたダンスを舞っていて。
 ――思いだす。
 このスペルカードを作ったときのこと。
 最初は片手間のつもりだった。けれど作っていくうちにのめりこんでいった。
 弾幕は美しくなければならない。一見避けられないようにみえなければならない。けれどどこかに抜ける道筋がなければならない。さらに云うと、なにかの表現でなければならない。
 あの太陽のフレア。
 死した月の光と違って、生命のオーラをまばゆく投げかける日輪の輝き。
 ――少しだけ、憧れていた。
 この知識と日陰の少女にだって、明るい物に憧れる気持ちぐらいはあるのだ。
「凄い凄い! パチュリー凄い! ああ、なんて素敵な弾幕を張るんでしょう! 本当にあなたったら、無愛想にみえてこんなに……」

『――スペルカードって、そのひとの心の一番素敵なところを、これ以上ないくらい綺麗にみせてくれる』

 そんな阿求の言葉を思いだして、少しだけ面映ゆい。
 瞳を輝かせて弾幕に魅入る阿求の顔を、ちらちらと瞬く紅い光が照らしている。私がみていることに気がついて、彼女はにっこりと笑った。
 まるで十歳の子どものように。けれど千二百歳の古老のように。
「――みて、あんなところにいたわ、咲夜」
 阿求から顔を背けて地上を見下ろすと、紅魔館の前庭で追尾する弾幕を必死にかわす咲夜がいた。さすがにこぁと違って百戦錬磨の咲夜のこと、素の回避能力にあわせて時間を止めることもできるのだから、なかなか被弾しない。けれど次第に狭まっていく選択肢に、やがて回避方向が限定されていく。
「……ふふ、これがみなさんの日常なんですね」
 門前に立っていた美鈴が、にこにこと笑いながら上空の回避劇を眺めている。テラスに座ったレミィが、日輪の輝きに眉をしかめながらひとりで紅茶をすすっている。そこかしこに漂っていた妖精メイドたちが、みな作業の手を止めて空を覆う弾幕の花火を見上げている。
「ええ、そうよ。その目に焼きつけて、絶対に忘れないで。この紅魔館で、私たちとすごした日々のことを」
 ぎゅっと抱きしめてささやきかけると、阿求はほんの一瞬目を伏せたあと、力強くこう云った。
「……はい。絶対に忘れません」
 けれど腕に返ってくる阿求の身体の感触は、やっぱり驚くほど儚くて。

 ――私は、彼女が嘘を吐いたことに気がついた。

 見下ろす前庭で、咲夜が被弾してまばゆい火花を散らしていた。

(つづく)
まずはここまでお読みいただきありがとうございました。
すでに十分すぎるほど長いとは思うのですが、まだ続きがあるのです。
しかもそっちのほうが長いのです。
懲りずに続きを読んでみたいと思われましたら、そちらもごゆるりと読んでいただけると嬉しいです。
あと、フグはよく幻想入りして霧の湖に浮いてるって咲夜さんが云ってました。

■4/3追記
>27さん
誤字修正しておきました。ありがとうございます・
デルフィ
[email protected]
http://delphi.hanagasumi.net/
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コメント



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長かった…後半行ってきまーす
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これは…いい!次いってみよ!
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これはまた、新しいパッチェさんですね。
27.100点名前が無い程度の能力 削除
それが妹さまこそ、フランドール・スカーレット。

こと、じゃないかな?
すっごく良かったです。後編いてきま
34.90点名前が無い程度の能力 削除
これは力作ですね。
35.100点名前が無い程度の能力 削除
100点以外考えられるかね?
43.100点名前が無い程度の能力 削除
一気に読んだ。
47.100点名前が無い程度の能力 削除
いい感じ。後編行ってきます。
52.80点名前が無い程度の能力 削除
>咲夜が急に顔を近づけてきて、ささくようにそう云った。
咲夜が急に顔を近づけてきて、ささやくようにそう云った。

音速で後編にワープするぜ!
61.80点tmlxqkcpwc 削除
Muchas gracias. ?Como puedo iniciar sesion?