それは、霖之助がいつものように本を読んでいた時の事。
「ん?」
突然辺りが暗くなって霖之助は顔を上げた。
別にランタンが切れた訳でもない。
というか、今は真夏の昼下がり。そんなもの始めから付けてはいなかった。
ならば理由は何だ?
そう考えるより先に、霖之助の目と耳はその答えを理解した。
「………夕立か」
ザアア。ザアア。
横殴りの強い雨がこの香霖堂を叩いていた。
まあ、確かに強いがこの程度なら問題あるまい。そう思って視線を本に戻そうとしたところで、
バササッ、バキバキバキ…………バキッ。
という、聞き慣れない音を霖之助は聞いて、もう一度視線を外にへと戻した。
「………なんだ?」
その音は、思いの外近くから聞こえたようだった。
気になった霖之助はその聞きなれない音を頼りに、傘を片手に外に出た。
聞きなれない音。と表現したが、霖之助はその音の正体が何なのかは実は見当がついており、木か何かが折れた音なのだろうと考えている。
だけれど、別に雷の音がしなかった事を考えれば落雷で木が折れた訳ではないだろうし、風で木が根本から折れるほどの風でもないだろう。それ以前にあの音は余りにも小さな音だった。あの程度の音だとしたら、枝が折れた程度の音だろう。
しかし、折れたのが枝だろうと何だろうとそれが折れるというのだから何らかの理由が存在する。
何が折れたかは知らないが、その理由の方が問題だ。
単なる風が原因だとは思うがこれがスペルカードによる決闘だったとしたら、これは楽観的にいる訳にはいかない。天候を操るタイプの妖怪なんて考えれば霖之助が知ってる者だけでも何人か存在する。その手のタイプの妖怪は大物ぞろいだからさすがに止めようなんて馬鹿な考えを霖之助がしている訳もないが。
僕にだって何とか店を守る程度の準備はある、それを使うべきか使わなくても済むかどうかの確認くらいしておいた方が良いだろう。
そういう風に考えていた。
そうして外に出た霖之助だが、上空の様子をつぶさに観察してみても強い雨こそ降っているが、それらしい音や、様子も無かった。
少なくても彼に確認できる範囲では決闘は行われていないようだ。
「ふむ………」
霖之助は安堵のため息をつく。
残念ながら霖之助は戦闘向きとは言えない。
もし、運悪くここの近くで決闘が行われていてそれに巻き込まれたとしたら、一溜まりも無かっただろう。一応、今霖之助が使っている傘には弾幕を弾く力もあるが、こうゆうマジックアイテムは使う者によって力が変わる物なので、彼が使っても五、六発弾ければ儲けもの程度の代物だ。
正直、決闘が行われていたとしたら霖之助は一目散に逃げ帰っていただろう。
準備もせずにそんな所に身を置くほど彼は馬鹿ではないのだ。
「……一応確認しておくか」
取り合えず、大きな危機は去ったが、音がしたのは事実。
何かしらが折れたか破損したのは目に見えていた。
別に森の整備を霖之助がする必要はないだろうが、やはり店の周りぐらい綺麗にしておくのは店主として当然の義務であるだろう。
それに、何も今から片づけようという事ではないのだし、確認しておいて損はない。
そう思って音がしたであろう方へと足を進めた霖之助は、
「………………」
あの娘と会う事になった。
「藍さま、お気をつけて」
「ああ、それじゃあ家の事は頼んだぞ」
「はい! お任せ下さい」
「うん、いい返事だ」
橙の頭を優しく撫でてから藍は立ちあがる。
名残惜しいけれど、ここで甘えたら藍様を困らせてしまうだろう。そう思って、橙は出来る限り元気よく笑って藍を見送る事にした。
「いってらしゃい。藍さま」
「行ってきます」
そう言って、藍は飛び立っていく。
その姿が見えなくなるくらいまで手を振ってから、橙は「よし!」と声を出して自分に気合を入れた。
今日、藍は一日家を開ける。
難しい事は橙には分からなかったが、結界の弱まっている箇所の調査に向かうという事を昨日のうちに教えてもらっていた。
普段は妖怪の山に住んでいる橙が藍が家を開けている間だけとはいえ、この家の管理は任されているのである。それも、今までは藍が早起きして家の用事を粗方片づけてから行っていたのを、今回は橙から藍に言ってその仕事を任せてもらったのだから気合が入って当然だろう。
結界のお手伝いはさせて貰えないけどそれ以外のお仕事ならばお手伝いして藍様に少しでも楽をさせてあげたい。
そう思っての橙の行動だったのだが、そう正面から藍には言う事ができず、「家の事は私に任せて早くお仕事を終わらせちゃってください」と強がってしまった。
自信満々に言ってしまった手前、具体的に何をすればいいか聞く事ができなくなってしまったのだが、藍にはお見通しだったようでで「それじゃあ、ここに私がいつもしている事を書いておいたから、参考にしなさい」そう言ってメモを渡してくれたのである。
それも、橙の方から聞くまでそんな物を用意している様子も見せず、何食わぬ顔でいた事に橙の方は『ちょっと意地悪』と思っているが、そんなものを昨日のうちから用意している時点で藍の橙への甘さが分かるというものだ。
まあ、そのメモをすぐに与えずに助けを請われるまで出さなかった事を考えるとしっかり躾けようという藍の考えが見受けられるが、基本的に彼女は橙に甘いのである。今頃、『橙が心配だな~』と、後ろ髪引かれる思いで仕事に向かっている事だろう。
そんな事とは露知らず、『ようし! 藍さまの為にも頑張るぞ!』と思っているこの子も対外である。
似た者親子といった具合だ。まあ、厳密に言えば橙は部下(式神)であるのだが、二人の関係は上司と部下と言うよりは、やはり母と娘に近いだろう。
そんな娘の方は、ついさっき渡されたメモをポケットから取り出し、早速仕事の方に手をつけようとしている。仕事熱心なのも藍に似たようだ。紫の方に似なくてなによりである。
ちなみにメモの内容は以下の通り。
『
洗濯 色物は注意して洗うように、特に紫様の物は細心の注意を払う事。
掃除 紫様が起きられるまでは紫様の寝室から離れた所を掃除し、紫さま
が起きてから掃除する事。
買い物 今日は野菜が安いはずだから買っておいてくれ、物は橙に任せる。
雨が降っている場合は無視してくれて構わない。
』
「………あれ?」
その内容を読んで、橙は気の抜けたような声を出した。
というのも、メモに書かれていた内容は橙がいつも藍を手伝っている事と対して変わらなかった。違いがあるとすれば、それを二人でするか一人でするかの違いだけ。
橙としては、いつもと違う難しい仕事がそこに書かれていると思っていた。
まあ、当然である。突然家でする仕事が増える訳もない。
なんだ、いつもと同じなのか。
そんな風に思った橙だが、その考えを振り払うように作業を開始するのだった。
いつも手伝っている事もあって、作業の方は比較的スムーズに進んでいった。
難関だったのは紫の服くらいなもので、昼を過ぎた頃には今取り込んでいる洗濯物をたたみ終えたら、残りは買い物のみという状況にまでこぎつけていた。
もっとも、これには紫が珍しく早く起きたという事実も関係しており、しかも今現在、二人仲好く洗濯物の取り込みをしているというのだから、珍しいにもほどがあるだろう。
まあ、紫は縁側に座って見ているだけなので実際は何もしていないのだけれど。
「それにしても、紫さまが早起きするなんて珍し――いはい!、いはいへふよ、ゆはりひゃま!」
「あら? 何言ってるか聞こえないわね。ちゃんと分かるように言いなさい?」
そう言いながら、すきまに手を突っ込んで橙の頬っぺたを捻り上げる紫の顔には不吉な笑みが浮かんでいた。
素直と言うのも考えものだ。
「まったく、そんな言い方じゃ私がいつも寝坊助みたいじゃない」
しっかり聞いてるじゃないですか。
そう思ったが、橙もそれを口にするほど愚かではない。
橙が黙ってその仕打ちに耐えていると、気がすんだのか紫はふっと力を抜いた。
「ふにゃぁ!?」
上に引っ張り上げるように掴まれていた頬っぺたを急に離された橙は、そんな可愛らしい悲鳴をあげて尻もちをついた。
そんな様子を見ても紫は何も気にしないような態度で。
「遊んでないでさっさと洗濯物取り込んじゃいなさい」
そう一言を残すと家の中に引っ込んで行ってしまった。
そんな紫の態度を見て泣きそうになっている橙だが、ぐっと堪えて洗濯物を取り込む作業に戻る事にする。
口は災いの元ってほんとうだなぁ。
そう思いながら。
取り込んだ洗濯物を畳んでいる所に、紫がすきまを開いてにゅっと顔を出した。
他の者なら跳びあがって驚いたかもしれないが、そこはなれた橙である。
驚きはしても顔色は変えず、「どうかしましたか?」と何食わぬ感じで質問した。
のだが、悲しいかな尻尾は驚きでピーンと立っている。
そんな、自分の式神(正確に言うなら式神の式神だが)の強がる様子を微笑ましく思いながらも、そんな様子を微塵も見せずに「ちょっと、頼みたい事があるんだけど」と、嫌な笑顔を浮かべる彼女は中々の役者である。
「頼みごと、ですか。それで、私は一体何をすればいいんでしょうか?」
「そんなに身構えなくても大丈夫よ、今日はお使いに行くんでしょう? そのついでに頼みたい事があるだけよ」
「………また、おやつですか? 藍さまに怒られても知りませんよ」
「あら、そのおやつのお零れを預かっているのは誰かしらね、橙?」
「うっ」
確かに、橙は紫がこっそり買っているおやつのお零れを貰っている。
とはいっても、それは紫による物量攻撃によってもたらされた物だといっていいだろう。(紫は共犯者が欲しいのだ)橙には厳しすぎるものだ。あの藍ですら油揚げの前では敗退すると言うのに、そんな事を橙に耐えろと言う方が無理な話だ。
藍もその事を理解しており、橙に対して激しく怒る事はしないのだが、そうなると紫に対しても怒る事ができないという状況に頭を悩ましている。(それが紫の狙いである)
しかしながら、そんな裏方の攻防を知らない橙は自分が紫の共犯をしている事をかなり後ろめたい気持ちでいるため、紫のこの反撃にはぐうの音も出ず、沈黙するしかない。(これにより橙は紫の物量作戦に耐える割合が増え、紫が頭を悩ます事になるのだがそれはまた別の話だ)
そんな橙の様子を見て紫は、「まあ、今日はおやつではないわ」と話を戻す。
「あ、そうなんですか?」
「そうよ、私はどこぞの食いしん坊な亡霊と一緒にしないで欲しいわね。年がら年中食べ物の事ばかり考えてはいないわ」
「あ、あははは」
そんな事を言われても、橙には肯定する事も否定す事もできず曖昧に笑うしかなかった。
藍ならここで小気味のいい皮肉の一つも言うのだろうが、橙にそれを求めるのは無理があるだろう。
もっとも、そんな事は紫自身も分かっているため、別に気にもしないのだが。
「さてさて、亡霊の事は今はどうでもいいとして、頼みたい事だけど………えーと、ちょっとその紙貸してくれるかしら?」
「あ、はい」
言われて、藍に貰ったメモを渡す。
紫はすきまを開いて中に手を突っ込み、ペンを取り出す。そうして、メモの書かれた方とは逆の方に何やら書き始めた。
橙は興味津々にその様子を見つめ、どうやら地図を書いているようだと分かった。
「何処の地図ですか?」
「あら、せっかちね。こういう物は完成するまで待つものよ?」
「ご、ごめんなさい」
覗き込むように延ばしていた首を引っ込めて橙は謝ると、紫は何も言わずにまたさらさらと地図を書き始めた。
橙は大人しく完成を待つ事にした。
数分後。
「はい、これ」
そう言って、メモをひらりと投げるので、橙はあわててそれを掴んだが勢い余ってくしゃくしゃにしてしまった。
橙はショックを受けたが、こんなことで落ち込んでも仕方がないので渡された紙をのばして書かれた物を見る。内容はやはり地図のようで、この家と里の大体の位置関係と、そしてもう一つこれは目的地なのだろう。香霖堂と書かれた所に丸がで囲われていた。
だけれど、
「えーっと、こう、………どう?」
橙にはそれがうまく読めなかった。
確かに霖という字はあまりなじみが無くても仕方がないだろう。まず使う事の無い字だ。
もっとも紫の方は、もう少し語学の勉強をさせた方がよさそうね、なんて考えているようだが。
「香霖堂、森近霖之助という半分人間で半分妖怪の変わり者が営んでる古道具屋よ」
「こうりんどう、ですか?」
橙にとって聞き慣れない言葉である。
この事を彼が知ったら嘆くかもしれないが、香霖堂は誰でも知っているような店ではではないようだ。
「ええ、そこに行って私の日傘を取ってきてほしいの」
「紫さまの日傘? ………そういえば最近見ないと思ったらそんな所にあったんですか?」
「最近ちょっと調子が悪くてね………修理を頼んだのよ」
「?」
日傘に調子が良いも悪いもあるのだろうか? と橙が頭を捻っているが少なくてもあの傘には調子が良いも悪いもあったりする。が、そんな事は知らない橙は壊れちゃったのかな? と、一応納得のいく答えを頭に思い浮かべた。
「あの、それでお金の方はどれくらいかかるんでしょう?」
お使いに行く側からすれば当然の疑問であるが、そういった点で紫側にミスがあるはずもない。
もし、ミスらしいものがあったとしらそれは紫が何か企んでいるというだけの事である。
「お金はもう払ってあるから安心しなさい」
まあ、お金は払ってはいないんだけど。と紫は囁くようにそれに付け加えたが、橙は聞こえていないのか気にしなかったのかその事には反応せず、「はい、分かりました」と言って、買い物籠を片手に立ちあがる。
「ああ、それともう一つ」
善は急げと、駆け足で玄関に向かおうとしていた橙は、その言葉にくるりと回れ右をして、「何でしょう?」と、不思議そうな顔をして紫の方を見る。
一方、その呼んだ方の紫はと言うとニヤニヤ、という表現がしっくりくるような笑顔を浮かべてこう言った。
「おやつの方も、よろしくね?」
橙は苦笑いを浮かべる他なかった。
「へい、らっしゃい! ………おや、橙ちゃん今日は一人でお使いかい? えらいねえ」
「………別に偉くも無いと思いますけど」
「そんな事は無いさ、橙ちゃんぐらいな子が一人っで買い物なんて中々出来るもんじゃないよ」
もっとも、俺なんかより年上なんだろうけどな。そう言って大笑いをしている八百屋のおじさんを見て、橙はおじさんが気がつかれない程度に小さく溜め息を吐いた。
分かっているなら、そんな事言わなければいいのに。
それが、橙の率直な感想である。
正直、橙の見た目の年齢は十歳かそこらの年代にしか見えないものであり。また、橙は妖怪の中でも比較的若い部類に入るのは確かな事である。
しかし、それはあくまで『妖怪』の中で若いのであって、人間達と比べたら信じられないくらいの高齢である。今、目の前でぺらぺらとまだ生まれたばかりの孫の事を自慢げに語っているこの五十代かそこらの人間に「橙ちゃんはお買い物が、出来て偉いね~」なんて、言われる筋合は無いのだ。
言ってしまえば、この人間が生まれてもいない頃にも、橙は一人で買い物をする程度の事は出来ていた。
「―――でな、それが可愛くて可愛くて―――おっと。いけね、こいつは無駄話だったね」
八百屋は、そう言って孫の自慢話を切って、橙の方にへと意識を向ける。そうはいっても二、三十分は話していたのだが。
どうやら、今日の橙ちゃんは虫の居所が悪そうだ。ふむ、子供扱いしたのがいけなかったのだろうか?
そんな風に、橙の内心をきっちりと予想しているあたり、彼は中々察しが良いようだ。
それも、橙の機嫌を無理に取ろうとはせず、すぐに仕事に戻ったところも。
橙としては不機嫌さを隠したつもりでも、少なくてもこの八百屋には分かったようである。
「ええと、それで今日は一体何をお求めなんだい?」
「………そうですねぇ。特にこれと決まった物は無いので、旬な物を貰いたいですね」
「あいよ、旬な物ね。今だとナスやトマトとかだね」
手際良くヒョイヒョイと様々な野菜をざるに載せていく。
お得意様とあって、どれくらいの量をご所望かは心得ているのである。最後に「こいつはおまけだ」っと大きな西瓜を脇に置いて、彼は満足げに微笑んだ。
しかし、どう見ても橙が持っている籠に入り切る量ではない。
「………大きなスイカですね」
「おおよ! 今年一の大物だ。んなもんでだーれも持っていきやしない。その点八雲さん家の買い物籠なら問題ねえだろう? まあ、厄介払いも兼ねてんだ、貰ってやってくれ」
「そういう事なら、遠慮なくもらっていきますね」
「おおよ! まいどあり」
橙はお金を清算すると、まるでサイズの合っていない買い物籠に野菜を入れ始める。
不思議な事に、どんなに入れても籠は満杯になる事は無く、それどころかまだまだ余裕すら感じられるほどだ。最後に入れた西瓜などもはや、籠の口よりも大きいにも関わらず、すんなり入った。
この不思議な籠について一言で説明するなら『紫印』である。
「いや、何度見ても不思議な籠だ」
八百屋もその光景を不思議そうに見てはいるが、その現象に自体は驚いてはいない。
いつもの事なのだ。
橙も八百屋の言葉に変に反応せず、「そういう物なんですよ」とそっけなく答え、八百屋も「そういう物なのか」と人の良さそうな笑顔を浮かべて言う。
これもまた、いつもの事だ。
もっとも、本来この掛け合いをするのは橙ではなく藍なので、橙はその代わりを果たしただけなのだ。
そう考えて、橙はなんだか悲しくなった。
「んじゃあ、橙ちゃん。これからもよろしく頼むよ」
橙は、「はい」と小さく返事をしてその場を後にした。
灰色の雲が空を覆い始めていた。
その後、和菓子屋により無難にみたらし団子を買って(藍にばれないように自腹で買って)橙は急いで香霖堂へと向かっていた。
何故急いでいるかといえば、空模様がなんだか怪しかった事が関係している。
式神にとって、雨は天敵であり。また、藍と違って化け猫である橙としてはそれはもっとも避けるべき事態だ。
正確には雨ではなく水全般が天敵であるのだが、生活する中で避けることが困難な水害など雨以外ほとんど存在しないだろう。風呂に入るなら、いっそ式神をはずして入ればいいし、(橙は風呂は好きではないが)水を飲んでも式神が外れる訳でもない。というように不測の事態にでも巻き込まれない限り、濡れる事はほぼ無い。
しかし、雨と言うのは聊か厄介なもので、予測はできるものだから不測の事態になる事こそ少ないが、予測できても避けられるものでは橙にはなかった。
たとえ、傘を持っていたとしても全身を濡らさずにいる事なんてそうそう出来るものではない。まして、飛んでいる身体を雨から守れるほど傘という物は便利なものではない。こういう時、藍のように雨から身を守る術が無い自分が橙は嫌だった。
元々、雨が降っていれば何の問題も無い。そうなれば、外に出なければいいのだから当然だろう。だが、そうではなく曇りと言うのが厄介なのだ。
曇っている。という事は雨が降る確率が少なからず存在するという事だ。
だけれど、曇っているからと言ってもそれで雨が降るかどうかは断言できるような物ではない。一日中曇っている日もあれば、曇りから雨に変わる日もあるのだから、その判断は非常に難しいのである。
一応、橙は判断の基準として雲の色と自分の感覚の二つを持っているが、前者は夜には何の意味も無く、後者は猫としての湿度に敏感に反応する能力に関係している物なのだが、これもまた当たる時もあれば外れる時もあるような曖昧な物。そのまま信用できるような物ではない。
だが、今はそのどちらの判断基準も合致してしまっており、素人目で見ても一雨来る事は容易に想像できるような黒さが勝る灰色の雲が当たりを覆っていた。
本来なら、動かず雨が降るのを待ち、雨があがってから動き出すべき状況なのだが、橙は自分の速さなら雨が降る前に辿り着けるはず。そう思ってと飛んだ。
少し考えれば、雨が降る事が眼に見えて分かっているのだから里で雨宿りしようと、雨が降る前に香霖堂に着こうと、どちらにしろ雨宿しなければならなくなる事は分かっていた。無理せず里で雨宿りするべきだったのだ。
………別に、橙がその事に気付かないほど愚かだという訳ではない。橙はその事を十分理解していて、それでも飛んだ。
彼女はどうしても主に晩御飯を用意して出迎えたかった。だけれど、それは雨宿りしてから家に帰って間に会うようなものではなかった。
だから、無理と承知で橙は飛んだ。
そうして、橙は雨に打たれて力を失い、森の中にへと落ちる事になる。
橙が最後にした行動は、買い物籠を庇う事だった。
『橙にはまだ早いな』
『まだ子供なんだから焦る事は無いさ』
『だから、できる事だけやってくれればいいんだよ』
なんで、そんな事を言うのだろう。
まだ早いとか、出来るか出来ないかなんて、やってみるまで分からないじゃないか。
私はそんなに信用なりませんか?
それとも、私は失敗する事も許されないんですか?
教えてください。
藍さま。
ザアア。ザアア。
激しい雨音で橙は目を覚ました。
「んっ………?」
眼が覚めると、目の前に見知らぬ青年が覗きこんでいた。
「ああ、気がついたようだね」
「ふにゃ!?」
橙は、思わずその顔目掛けて猫パンチをする。
幸いなことに爪は立てていなかったが、かなりの勢いでそれは繰り出された。
「…………痛い」
まあ、確かに起きた目の前に知らない男の、それも仏頂面した顔があった橙の気持ちも分かるが、猫パンチされた方の青年、森近霖之助からすれば恩を仇で返されたようなものである。
元から不機嫌そうな顔が本当に不機嫌そうに歪んだのも仕方の無い事だ。
「ふしゃあ!!」
それも、警戒心剥き出しで威嚇もされればカチンときてもこれもまた仕方が無い事だろう。
「…………」
霖之助は無言で橙の頭を冷やすのに用意した盥の水をぶちまけた。
「ご、ごめんなさい」
霖之助に自分が助けられたという事を説明され、橙はまず頭を下げた。
「いいさ、僕も少々頭に血が上ってしまったからね。お相子としようじゃないか」
霖之助がそう言うと、隅の方で可愛そうなくらいちじこまっていた橙が恐る恐ると言った感じで顔を上げた。
正に借りてきた猫。といった具合である。
それを見て、ちょっと恐がらせすぎたか。と、内心で思っている霖之助は何も橙に向かって水をぶちまけたのではない。
少々カチンと来たのは確かだが、びしょぬれになった化け猫をもう一度びしょぬれにするほど霖之助は鬼畜ではない。威嚇に橙の足元に向かって水をぶちまけ、脅かしてやろうとしただけなのだ。
それが思いの外効果が大きすぎたようだと霖之助は判断して。
「………もう水は使わない。約束しよう。だから、もう少しこっちに寄ってきてくれないか? これでは話している気にならない」
もう少し言いようもあると思うがこの男、基本的にぶっきらぼうなのである。
「は、はい」
そう言って怯えるようにその指示に従う橙を見ると、霖之助が悪党のように見えるが、どちらかと言うと彼の方が被害者なのだからおかしな話だ。
ちなみに、霖之助は水を掛けようとしたから恐がられている。そういう風に解釈しているが実際は違う。
確かに橙が水に驚いたのは確かだが、それ以上に彼が森近霖之助でありその彼を怒らせてしまった事に関係している。(実際には霖之助たいして怒ってはいないが、橙はそういう風に思っている)
と、言うのも橙の中では紫さまの知人=強者。という方程式が成り立っており、また霖之助の持つ特有の威圧感も災いして、自分<霖之助という力関係だと橙は思っているのである。
その霖之助を怒らせてしまったと思っているのだから、怯えるのもしかたがない事と言える。それも、スペルカードルールの通用しない男性だというのだからなおさらだ。
自分がそんな恐ろしい人物だと思われているとは知らない霖之助は、何とか橙をリラックスさせようと悪戦苦闘しているのだから、これもまたおかしな話である。
とりあえず、霖之助は橙を卓袱台の彼から見た正面。向い合せになるように座らせると、「ちょっと待っていてくれ」そう言って部屋から出ていった。
借りてきた猫状態になっている橙は言われたとおりに大人しく正座して待っていると、霖之助はお盆に湯のみを二つ載せて戻ってきた。
「はい、どうぞ。まあ、祖茶だが」
そう言って霖之助は橙の前に湯のみを置いて、橙の対面側に腰を下ろす。姿勢は橙に合わせるように正座だった。
橙は「あ、ありがとうございます」と礼を言ってから、そっと口をつけ「あつっ!」そのお茶の熱さに悶絶した。
霖之助が熱めのお茶が好みと言う事もあるが、藍が入れるお茶と同じように飲んだ事が原因だろう。藍の入れるお茶は橙が飲みやすいように程よく冷ましてあるのだ。
霖之助はそんな橙の様子に気づいていたが、あえて指摘せず。
「茶菓子も無くて悪いが、今切らしてしまっていてね」そう言いながらお茶に口をつけた。
「あ、それなら」
橙は脇に置いてあった買い物籠を手にとって中から包装されたみたらし団子を取り出し、包装を解いて霖之助に差し出した。(紫製と言う事もあって、籠の外見は汚れているが中身は無傷である)
「ど、どうぞ」
差し出された方の霖之助は、考えを巡らせ。
「ほう、みたらし団子か。こいつは美味そうだ、それじゃあ一つもらおうか」
そう言って手に取りパクリと一口食べて、「美味い」と霖之助はいつもなら口にもしないだろう感想を言った。
もちろん、オドオドしている橙を気遣っての事である。
普段の霖之助なら、なんだかんだ理由をつけて遠慮する振りをする所だが、ここでそういう事をすれば橙がもっと萎縮していまうかもしれないと、遠慮なく頂いたという訳である。内心は甘い物を最近食べていなかったから儲けものだ、なんて思っていたりもする。
まあ、進めた方の橙は紫さまに頼まれた分はどうしよう。なんて、今更後悔していたりもするが。
「食べないのかい?」
そんな後悔一杯の橙が団子に口をつけずにいるのを見て、霖之助は訝しがって言った。
「あ、いえ。食べます」
そうして橙は今更後悔しても遅いと団子に手を伸ばした。
団子を食べながら、霖之助が世間話でもするかのように事情を聞くと、幾分落ち着いたのか橙も少々たどたどしい説明ではあったが、それに答えた。
ちなみに、その説明の要点をまとめると。
紫の代わりに日傘を受け取りに来た事。
その途中で雨に降られてしまった事。
この二つ。
最低限の事情と言っていい、それしか言わなかったのは橙の小さなプライドからだろう。
霖之助はそれを聞いて、一言。
「なにか急ぎの用事でもあったのかい?」
「えっ?」
橙はそれを聞いて眼を丸くし、霖之助はその反応を見てやはりそうか、と納得した。
雨が降る前の天気が一体どんなものだったかなど、朝からずっと本を読んでいた霖之助には分からない。
だが、突然暗くなるほどの厚さの、それも小一時間降り続けるほどの雲が空にあったとしたら空を飛んでいた橙が気がつかないはずがないだろう。
まして、橙は式神。天候には気を掛けているはずである。
ならば何か急いでいた理由があるのではないかという考察の下、霖之助は尋ねた。(ちなみに、橙が気絶していた時間は三十分ほどだった)
要するに鎌をかけたのだ。
「いや、この土砂降りの天気だからね雨が降る事くらい予想できたろう? それなのに雨宿りもしないで来たというのだからそれ相応の理由があると思ってね。まあ、興味本位さ。答えたくないならそれでいい」
自分は予想どころか、雨が降る前の天気が一体どんなものだったかも知らない男がいけしゃあしゃあとそんな事を言う。
そして、橙はこんな風に言われて話さないでいられるような子ではなく、小さなプライドは脆くも崩れ去った。
………いや、ひょっとすると誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「………今日は藍さまが境界の調査に行く事になって、私は初めて家の管理を任されたんです」
「ほう、凄いじゃないか」
「そんなんじゃないです。任されたと言っても、それはいつも私が藍さま手伝っている事を一人でやる。それだけのことだったんです。………私はいつもと違う事をやらせてもらえると思っていたんですけど」
「それだけ家での事をやっていた、という事だろう? それを気に病む事は無いんじゃないか」
「その事は別に良いんです。店主さんの言う通りで、よく考えたら家にいるときは私はいつも藍さまの近くにいるんだから家でやっている事は私は全部知っていたんです。だから、別に私に気を使って仕事を減らした訳じゃないって、分かり、ました」
「………それで?」
「本当なら、私も境界の調査に連れて行って欲しかったんですけど。藍さまが言うにはまだ早いそうなので、それなら、せめて家の事だけでもしっかりやって、言われてない晩御飯の用意をして、褒めてもらおうって。今度は境界の調査にも連れて行ってもらおうって。そう思ってたのに、なのに、なのに………」
「……………」
涙目になっている橙に言葉を掛けることなく、霖之助は彼女の言葉を待った。
ただただ黙って。
「雨降りそうになって、でも、雨宿りしてしたら晩御飯の用意できないって、そう思って、だから急いで行こうって思って………」
「だから、雨宿りしなかったんだね?」
橙はコクリと頷いて、服の袖でゴシゴシと涙を拭いているのを。霖之助は黙って見つめていた。
その眼は、いつもと何も変わらないはずなのに優しい物のように感じられた。
「お茶のお代わりを持ってくるよ」
彼はそう言って、ゆっくりとした足取りで、今度は少しぬるくしたお茶を用意しに部屋を後にした。
まるで、時間を稼ぐように。
霖之助が部屋から出て行った事で一人取り残された橙は、今更恥ずかしくなって、「うにゃあーー!!」と、脳内で悶えていた。
ああ、なんであんなこと言っちゃったんだろう?
頭を抱え後悔先に立たずの通り、後になって後悔する橙。
救いがあるとすれば、この場に霖之助がいない事だろうか。
そんな霖之助がお茶を持って帰ってきたのは橙が悶えに悶え、もうどうとでもなれと半ば開き直った頃だった。
「お待ちどうさま」 そう言って、橙の前にお茶を置く霖之助。
橙は前と同様に「ありがとうございます」と言ってから今度は「ふぅー、ふぅー」と、前回の失敗を教訓に冷ましてから飲もうと、息を吹きかけた。
それを見て霖之助は表情を緩ませたが、声質は変えないようにして、
「冷ましてあるよ」と素っ気なく言った。
「え? あ、え?」
「橙、君は猫舌なんだろう? それとも、要らぬ世話だったかな」
「あ、いえ、そんな事は………」
羹に懲りて膾を吹くならぬ、羹に懲りて羹を吹いた訳だが、こうなってしまうとどういう風に返していいか分からなくなり、橙は曖昧な物言いをした。
霖之助としては皮肉の一つも言ってくれればよかったのだが、彼女はそういう事には不向きなようだ。そう判断して、話を変える事にした。
「ああ、そうだ。紫の日傘だけれど、ついさっき使わせてもらってね、乾くまで待っていて欲しい」
「え? あ、そうなんですか」
「耐水性も考えて作ってあるからすぐに乾くとは思うが。まあ、布巾で水気を拭き取ってあるからすぐにでも乾くだろう」
「ありがとうございます」
「いや、客からの注文の品を勝手に使ったんだ、非難される事はあっても礼を言われるようなことではないよ」
そう言って、霖之助はぬるいお茶をズズッと音を立てて飲む。
それを合図にするかのようにその後、暫し沈黙が流れた。
こうなってくると不思議なもので、さっきまで気にならなかった雨音が異常と思えるほど聞こえ、橙としてはかなり落ち着かない状況になってしまった。
元々彼女はじっと黙っているのは得手ではない。
橙はとりあえず話題を振ろうと必死に考え、「店主さんは紫さまとどういう関係なんですか?」と無難そうな話題を振ってみた。
霖之助はしばらく考え込むように眉間に皺を寄せた。
「どう言う関係………か。そうだな、よく分からない関係、としか答えようがないな。
世話になった事もあるし、面倒なことにも巻き込まれた事もある。なんでもないタイミングでこの店に訪れたり、意味深なタイミングで訪れたりもする。
まったく、彼女が一体何を考えているのか僕にはさっぱりだよ。
そういう君はどうなんだい?」
「え?」
自分で振っておいてなんだが、そんな事橙は考えた事もなかった。視線を上の方に向けてうーんっと悩んでいると「やっぱり主の主も主として扱うのかい? ………言ってて意味が分からないね」と苦笑いを浮かべながら霖之助は助け船を出した。
「そうですね。わたしにとっては藍さまも紫さまも主です」
「なるほど、つまり、母の母は祖母みたいなっ、………ものという事だね」
「?」
突然霖之助が話をつっかえるものだから疑問符を出した橙だが、上手く話が続いているので無視して「そうだと思います」と頷いたが、霖之助は眉間に皺が寄せて不機嫌そうにしているのを見て身を小さくした。やはり、霖之助に対してまだ恐怖心を持っているようだ。
それを見て霖之助は内心しまったという風に思う。
恐怖心を持たれているのは知らなくても、自分の眼つきの悪さは自覚しているのだ。
「………すまない実は足が痺れてね。崩してもいいかな?」
「え? あ、はい。だいじょぶです」
それを聞いてから霖之助は正座から胡坐に切り替えた。
「橙は大丈夫なのかい?」
「………それじゃあ、わたしも崩していいですか?」
「もちろん」
橙は一度足を延ばしてから正座の形からお尻をペタンと床に着ける女の子座りと呼ばれる姿勢を取った。
よくもまあそんな姿勢ができるものだ。と、霖之助は疑問を持ったがそんな事を聞いても橙には答えられそうもないだろうと判断して、その考えは奥にしまい込んで別の話題を出す事にした。
「一つ気になっている事があるんだが聞いていいかい?」
「はい、何でしょう」
「橙の中では紫と藍ではどちらが上なんだい?」
「どちらが上、ですか?」
質問の意味が分からなかった橙は反復するように言う。
霖之助は「仮に二人が命令を出した時にどっちを優先するのか、という話だよ」と補足した。
「………考えた事ないです」
「そうか、それじゃあ今のうちに考えておいた方が良いだろう」
「何でですか?」
そう言った橙だが、なんと返されるかは予想はしていた『いざという時の為』なんてところだろう。そう言う風に思っていた。
だけれど、霖之助は彼女の予想とはまるで違う事を言った。
「暇だからだよ」
面白い人だな、と橙は思った。
「そうだなぁ、そうするとやっぱり藍さまですかね?」
二人でああだこうだ話し、霖之助にうまく乗せられたようなところもあったが結局橙はこういう結論に達した。
無意識のうちに地の言葉遣いが出始めていたが、霖之助は気にしている様子は無い。
霖之助は相手によって話し方を変える事を良しとしていないので、地で言ってくれた方が良いのだ。打ち解けられたとも解釈はできるし、それを指摘するつもりは霖之助にはなかった。
「まあ、君の主は藍であって、紫ではないからね。地位的には上でも、君の中では藍の方が上なのも頷ける」
「そうですね。考えた事無かったけど、どちらかといえば藍さまの命令を優先していたように思います。まあ、紫さまに命令されるなんて珍しいんだけど」
「それは起きているのが稀、という意味かい?」
「それは………、内緒で」
「はっはっ、そうかい」
軽く笑って、霖之助はお茶をすすった。話はこれで終わりという事なのだろう。
こうして、また沈黙が流れたが今回は橙にとって居心地の悪い沈黙では無かった。
怒らせると怖いけれど優しい人だ。そんな風に橙は思う。
怒らせて怖くない人の方が稀だろうが、彼女はそこまで考えは至らなかった。彼女の感性は捻くれておらず、素直なのだ。
だからこそ、橙は第三者であり大人な霖之助に悩みを質問という形で打ち明ける事にした。
「子供と大人の違いって何なんですか?」
質問した後に何の前降りもなく言った事を後悔したが、霖之助は「そうだね………」と考え始めたので回答を待つ事にした。
そんな霖之助は湯のみを卓袱台に置いて、
「そんなものは存在しない。そういう風に思うよ」と言った。
橙はそれを聞いてすぐに聞き返す。
言っている意味がよく分からなかったのだ。
「存在しないって、どういう意味ですか?」
「どういう意味もなにもそのままの意味だ。とはいえ、少なくても僕はそう思っているというだけの話だが」
「 ??? 」
混乱する橙に、霖之助は「まあ、僕の意見だが」と前置きを入れて話し始めた。
「大人だから、子供だから。そんな言い訳が僕は嫌いなんだ。
まあ、確かに人間だろうが妖怪だろうが『大人』『子供』という概念は分からないでもない。だが、それを理由にするというのが気に食わない」
「理由にする、ですか?」
「ああ、子供だからやってはいけない。大人だから大丈夫。こんなものが理由になると思っているのか? そう言いたくなるんだよ」
「………なら、どういう風に言えばいいんですか」
橙の声のトーンが少し下がった事を霖之助は感じていたが、表面上は気にしていないようにした。
「ものにもよるが、子供だからやってはいけないなら、実力が伴っていないからやるな。大人だから大丈夫なら、実行可能だから大丈夫。と言ったところか。
要するに、ちゃんと説明しろ、ということだ。子供だから、大人だからなんて抽象的な物言いがあまり好きじゃないんだよ」
そう言って霖之助は苦笑いを浮かべ、橙もそれを返そうとしたが、うまく出来なかった。
霖之助は咳払いを一つして、
「さっきも言ったがこれは僕の意見であり、事実ではない。気にするのも、気にしないのも橙、君次第だ」
「そう、ですね」
「………それと一つ。これは独り言なんだが」
「え?」
視線を下にしていた橙はその霖之助の言葉に顔を上げた。
「子供扱いされるのが嫌だと思っていたり。大人として扱って欲しいと思っているなら、それは言葉に出すべき事だ。
相手は無意識でしていたり、良かれと思ってやっている事がほとんどだろう。嫌なものを嫌だというのはそれは正しい事だ。まあ、正しい事であっても、それが正しい事と判断されるかどうかは保証できないが」
そう言って霖之助は窓の方へ視界を移す。
それに釣られるようにして橙はも窓の方を見ると、雨はすっかり止んで、日が傾き始めていた。
「雨、止みましたね」
「ああ、それじゃあ話は終わりだ。
君は妖怪だから大丈夫だろうが、夜は危険だろう。日が沈む前に帰るといい」
霖之助はやんわりとした口調でそう言い、紫の日傘を掴み、一度開閉し水気が取れているかを確認して橙に渡した。
それを受け取った橙は、帰りの支度をし立ちあがって、
「あの、ありがとうございました」
そう、頭を下げた。
「なに、礼には及ばないよ」
橙はもう一度頭を下げて香霖堂を出た。
日の傾きから見て、六時ぐらい。きっと藍はもう帰っている頃だろう。
式神が外れている事も、藍はもちろん気づいている。橙もその事は分かっていた。
きっと帰ったら怒られるだろうし、心配されるだろう。だけれど、橙は嫌な気持ちにはあまりならなかった。
家に帰ったら、まず最初に藍さまに謝ろう。そうして、あの変わっているけど優しい店主さんの話を、今日あった話を包み隠さず全部話そう。
そうすれば、わたしの気持ちを藍さまに分かってもらえるんじゃないか。
そう言う風に橙は思った。
「それで、そろそろ説明をしてほしいんだが」
客の居なくなった店内。カウンターの椅子に座ったままの姿勢で彼は誰かに語りかけるように言った。
だが、そこには誰もいない。
しかし、彼は独り言を言った訳ではない。
その声に反応するように、彼の目の前に切れ目のようなものができ、それが広がると中から金髪の豪奢なドレスを着た少女が出てきて「あら霖之助さん、気付いてたんですか?」と言った。
「気付いてたんでですかって、紫。君はさっき僕の足を蹴飛ばしておいてそんな事を言うのかい? というか、僕が一体何をしたというんだ」
「あらあら、人をお婆ちゃん扱いしておいて、何をしたというなんて白々しい」
「お婆ちゃん扱い? 一体何の事………もしかして、主の主は――という話の流れの時か?」
「ええそうよ。母の母は祖母なんて失礼しちゃうわ! 誰がお婆ちゃんですか」
「………そいつは悪かったね」
当然だが、霖之助は紫をお婆ちゃん扱いしてそう言った訳ではなく、単に言葉の綾である。
だけれど、それを言葉にすれば話が泥沼化するのは目に見えている。だから霖之助は早々に降参する事にした。
もちろん、その事は紫も分かっている。
流し眼で霖之助を見て笑っただけで、後は何も言わなかった。
悪ふざけなのだろう。
霖之助は呆れ顔で肩をすくませて、その少女を見る
今日もまた一段と派手だ。霖之助はそんな事を思った。
「………今、なんだか失礼な事を考えませんでしたか?」
「いや、今日もまた上品な服を着ているなと思っただけさ」
「あら、お上手ね」
まったくその通りだ。
霖之助はそう思ったが、また見透かされそうな気がしたので早々に話を戻す事にした。
「それで、そろそろ説明してくれないかい?」
「何の事ですの?」
「君が連れてきた子の話だ」
「橙がどうかしました?」
「………紫、そろそろ僕もイライラしてきたんだが」
「カルシウムが足りていないんじゃないかしら?」
「……………」
「冗談ですわよ。そんなに睨まないでちょうだい」
にんまりと満足そうに笑うと、紫はツカツカと霖之助の方へと歩みよりひょいと飛んで霖之助に背を向けるようにカウンターに腰を掛けた。
「そこは座る所じゃないが」
「固い事言わないの、それにこうでもしないと目線の高さが合わないじゃでしょう?」
確かにその通りである。
紫は下手をすれば橙よりも背が低い。こうでもしない限り霖之助と紫の目線の高さが合う事は無いだろう。とはいえ、今は霖之助が見上げているが。
「なるほど」
霖之助は頷きながらそう言って、黙った。
別に行儀の悪さを叱るような事を霖之助はするつもりはなかったので、黙って紫が説明してくれるのを待つ事にしたのだ。
紫はそれを受けて、話し始める。
「まずは、お疲れ様。とでも言っておきましょうか?」
「………全くだ。慣れない事はするものじゃないとしみじみ思ったよ」
「そう言いうわりには様になっていたと思いますよ。
ああいう風に魔理沙も諭していたのかしら?」
「さあ、少なくても僕はそんな事を意識した事は無い。
というか紫、話を捏ね回さないでそろそろ本当に説明してくれないか? 人に気絶した女の子を預けて『この子をおねがい』なんて言われても意味が分からない」
「正確に言うなら『この子をおねがいするわ、名前は橙というの』ですけどね。まあ、そんな事はどうでもいいでしょう。
それに、意味が分からないなんて言っているけど、私がして欲しかった事を霖之助さんはよく理解しているでしょう? 貴方がした事が私がして欲しかった事なんですから」
一度区切ってから、「正直、予想以上でしたわ」と続けていった。
霖之助は首を捻って、
「僕がした事? ああ、説教を垂れた事か」
「………まあ、それも確かに事実ですけれど他に言いようがありません?」
「 ? 他にどんな言いようがあるんだ?」
パチパチと瞬きしながら霖之助がそう口にすると、紫は溜め息をついて、露骨に呆れたような顔をした。
「………はあ、あれを素でやっていたと言うんですか………まったく貴方という人は」
「なんだい」
「面白いですわ」
「………そいつは良かったね」
「うふふ、そう怒らないでちょうだい。今からちゃんと説明しますから」
紫は両の手で尻を浮かせると身体をくるりと反転させ、霖之助の方に顔を傾けた。
顔が近い。霖之助はそういう風に思ったが口にはしなかった。
「まず、あの子が雨に降られたのは私の計画ではありませんでした。という事だけは先に言わせていただきますわ」
「そうなのかい? てっきり橙の話を聞いてそういう風に思っていたが」
「………まあ、そんな事だろうとは思っていたわ。
私が身内をそんなひどい目に合わせるような奴に見えたかしら?」
「………そうだね、確かに君はそんな無慈悲な奴ではない。
訂正するよ、すまなかった」
霖之助が頭を下げると、紫はバツの悪そうに「まあ、良いんですけど」と、視線を霖之助から外した。
「それならいいんだが」
「ええ、実際の事を言えば、強くは否定はできませんから」
「どういう意味だ?」
「そうなる可能性も、考えてはおりました。と、いうことです。
下手をすれば橙が雨に降られる事も覚悟してはいました………そうならないような努力はしていましたけど、ね」
「………君が考えていないとは思ってはいなかったが、やはりそうか。
しかし、君の計画が破綻するなんて一体誰の差し金だい?」
「それは貴方には関係の無い事。
まあ、どうしても知りたいのなら話しますが」
「いや、君がそう判断したのならそれでいい」
霖之助がそう言うと、紫はほっとしたような顔を一瞬見せたが、霖之助はその事には気がつかなかった。
というより、実際にほっとしたのだろう。それはそうだ大妖怪八雲紫の計画を邪魔したのが、八百屋の孫自慢だったなんてあまり言いたくないに違いない。
紫はそんな心の内を気取らね無いよう、頬笑みを浮かべる。
「私の当初の計画では、橙がこの香霖堂に着くのは雨が降り始める直前、そうなるように計算しておりましたが、まあ、それは失敗になりました」
「君でも天候を予想するのは、やはり難しいのか?」
「ええ、操る事は可能ですけど、瞬間、瞬間で風向き、風速と細かく変化しますからね、さすがの私も予想する事はむずかしいですわ。
精々、誤差十分に絞り込む程度でしょうね」
「そうなるといっそ操ってやればよかった訳だ」
「結果的にはそうですけど、私用で天候を操りたくはありません」
スケールのでかい話だ。
霖之助はそう思ったが、話をこれ以上広げるのは得策ではないと思い「なるほど、妥当な判断だね」と、言うだけに止めた。
「まあ、その後の事は貴方も知っての通り、気絶している橙を介抱している所に来た霖之助さんに橙を任せて私はスキマから様子をうかがっていた。という訳です」
「そう、そこだよ。僕が説明して欲しい所は。
まず、なんで僕の所に橙を遣したのかという事、もう一つは何故僕に任せて君は姿を隠したのかという事だ。
姿を隠したのは、計画がばれるのを恐れたのだろう。と、予想はつくが、まず一体どんな計画で、なぜ橙を僕の所に遣したのかの説明がまだされていないじゃないか、本当なら君自ら取りに来る約束だったはずだ。
まさか、ただ橙を使いにだしたという訳ではないのだろう?」
「………本当にお気付きじゃないの?」
「ああ、残念ながら。
どうやら僕は鈍感らしいからね」
「あら、そちらに関してはお気付きになっていたんですね」
「………」
どうやら、文からといい紫からといい本格的に僕を鈍感として扱っていたようだ。そう思った霖之助はその事に関しての反論を口にしたくなったが、自分から言い出した事を否定するのは滑稽この上ないので止めておいた。
完全に墓穴である。
その様子を見て紫はクスクスと笑って見ており、それを見た霖之助は小恥ずかしいくなって「それで、どうなんだい?」と、先を促した。紫の方もその事に対して深く追求するつもりは無かったようで、なにも言わずに話を戻した。
「貴方の所に橙を使いに出したのは、簡単に申し上げれば橙の相談相手をしてもらいたかったからです」
「………相談?」
「ええ、あの子変な事を霖之助さんに尋ねたでしょう?」
「ああ、それなら心当たりはある。
子供と大人の違い、という奴だろう?」
「なんだ、やっぱりわかっていらっしゃるんじゃないですか」
「あ、いや………」
霖之助は言いにくそうにしながら頭をガシガシと掻いた。
さすがに鈍感、鈍感、と言われている霖之助も橙が誰かに(藍だろうとは予想はついてはいたが)子供扱いされて悩んでいるという事は分かっていたし、悩みを打ち明けられたという認識もあったのだが、相談に乗ったというよりは自分の考えを押し付けたという認識の方が強かった為、相談に乗ったとは思っていなかった。
だが、それ以前に、
「まさか、君がそんな事で僕を頼るとは思いもしなかった」
というのが、霖之助と紫の話の食い違いを生んだ最大の原因だろう。
霖之助からしてみれば、あの八雲紫がその式神である(間接的ではあるが)橙を遣した事にはそれ相応の理由があると思っていた。(単なるお使いという可能性も考えてはいたが)
それがまさか相談相手をして欲しいなんて理由だとは思いもしなかったのである。
「あら、そんな事とは失礼ですわね。
可愛い式の可愛い可愛い式が悩んでいるというなら一肌脱ぐのは当然じゃないですか?」
「ああ、すまない。そういう意味じゃないんだ。
てっきり、幻想郷に関わる大きな問題に巻き込まれるもんだと思って、内心冷や冷やしてたんだ。それが君の家族………まあ、いい、家族という事にしておこうその方が分かりやすいし、いいだろう?」
「あら、その表現は良いですね。これからは私もそう言おうかしら」
軽く微笑んで紫は言う。
肯定と言う意味だろう。少なくても霖之助はそう解釈した。
「そうかい。それじゃあ、家族という事で話を進めさせてもらおう。
正直に言ってしまえば、まさか君が家族問題の解決を僕の所に回してくるとは考えもしなかったんだ。
とはいえ、今になって思えば君は最初からそう言っていたね。完全に僕の勘違いだ」
勘違い。
そういう風に霖之助は表現したが、八雲紫という妖怪がこの幻想郷で一体どんな地位にいるかという事を知っている者からすれば、一概に勘違いとは言えないだろう。
何せ、この幻想郷を作った張本人と言っても嘘にならない妖怪なのだから。
身構えるな、という方が無理である。
当然、その事は紫も承知しており「分かってくださればいいんですよ」そういうだけに止めた。
「そうか、それならいいんだが」
「まあ、私だって自分のキャラじゃない事をしている自覚がありますからね」
「確かに、少なくても僕のイメージには君はそういう事をするようなタイプには見えなかったね。
しかし、キャラか、面白い事を言うね」
「貴方風に言うなら『慣れない事はするものじゃない』ですね」
「………そうなるとお互い慣れない事をしたわけか。
なるほど、キャラじゃないね」
霖之助が軽く笑うと、紫もそれに答えて「全くです」と言って笑った。
「さてさて、これで本題に入れますね」
「本題?」
話の区切りがついたと思っていたところにそう言われ、霖之助は困惑したように紫を見つめる。
見つめられた方の紫は「ええ」と笑った。
満面の笑みで、
「実は今日、私の家にご招待しようと思いまして」
言葉通りの意味で捉えれば、単なる食事の誘いである。
だが、あの笑みを浮かべて言うこの言葉が、そのままの意味であるはずが無い。
「………本音は?」
霖之助がそう尋ねると、紫は待ってましたと言わんばかりの笑顔を浮かべ「藍の怒り分散作戦です」と答えた。
「………事前に説明していなかったのか」
「お察しの通り。
あの子にも自主的な反省を促したかったので気がつかれないように事を済ませたかったのですが、橙の式神が取れた時点で勘づかれました」
「それで、僕にもその尻拭いをしろと?」
「いえ、そうは言いません。
まあ、橙には言うつもりはありませんが、こうなってしまったら藍にも事情を話さざるをえないですから、貴方もいた方が話もスムーズでしょう?」
「確かにそうだろうが、それは尻拭いと変わらないんじゃないかい?」
「そうとも言うかもしれませんね」
そう何食わぬ顔で紫は言う。
もはや、ここで僕が何を言っても手遅れか。霖之助は冷静にそう判断して立ち上がった。
「少し待っていてくれ」
「あら、何でですか?」
少し心配そうな顔をして紫は尋ねた。
その顔を見ると、もしかしたら断る事も出来たのかもしれないな。
霖之助はそう思ってから、皮肉げに笑って、
「なに、食事に招待されたら手土産を持って行くのが礼儀だろう?」
そう言って、店の奥へと姿を消した。
さて、どんな酒を持っていけば紫にこれ以上の貸しを作れるだろうか?
そんな事を思いながら。
せめて、場面が切り替わってからならともかく、一つの場面でそれをやられると混乱するし、読みにくい。
内容を変えずに文章をザックリと切るだけで読みやすくなると思います。
どちらも素直ではないけれど、身内に甘いというか情が深いという所が良く表現されていますね。
>>紫は下手をすれば橙よりも背が低い。
あれ?妖々夢の公式設定では紫は藍よりも背が高く美鈴に並ぶ長身組の筈では……?
と思ったら、なるほど。香霖堂や文花帖などの書籍の唖采弦二デザインの紫が基準なのですね。確かにアレはペドい。
口は災いの下→元
・文章云々については、数か所長いかな、と。
一人称と三人称については、自分はあまり気になりませんでした。
これぐらいの表現は、普通に他のでも見るように思えますし。
じっくりと読む分にはあまり気にならなかったのですが、ポンポン読み進めようとすると必ずどこかで引っかかりを覚え、読むのが止まってしまうので、文章にテンポを求める人には少し疲れてしまう物があるかもしれません。
最後の、霖之助が紫に向けた皮肉げな笑み…写真に収めたいなぁ。
ペドい紫可愛いよ。
面白かったです。
ああ、見える霖之助を家に招待したとき紫の身長に驚く藍様を足蹴して黙らせる紫の姿が……。
これ、続きあるんですよね?
霖之助自身も紫の事を知った原作の18話以降も紫には特別な敬意は払ってない
全体的に文章構成と場面の切り替えが悪い。次の作品に期待する。
作品的な言葉として「豪奢なドレス」とかそのような言葉のほうが似会うかと思います。
続き希望です。
また次の作品も楽しみにしてるよっ!
文章は書いていく内にこなれていくかと。
ちょっと気になったのですが……
大妖怪強調し過ぎ→求聞史紀を読んでいる者でもそんなに
違和感ある描写はなかったような……
むしろ紫が大妖怪じゃなかったら、誰が……
天候操るとか唐突過ぎ→確かに二次創作で紫は便利屋すぎるけど、
他の作品に比べてそれほどでもないような。
幻想郷の創造神→確かに龍神は幻想郷の最高神だけど、紫は
幻と実体の境界で今の幻想郷を形作った中心人物には間違いないので、
少なくともこの作品の文脈で書かれている霖之助の考えはそう的外れでは
ないかと。別に創造神とか言ってないし。
霖之助自身も→「妖怪の見た宇宙」で魔理沙相手に本人が思いっきり
リスペクトしてますが……
それにしてもこんな大人びた橙は初めてかもしれない。
「せざるおえない」はただの誤字だと信じたい