その日、僕の気分は杳として優れなかった。無縁塚へと出向き新しい本を幾つも仕入れたにも関わらずだ。理由は至って簡単。戦利品で一杯になった台車の心地良い重みを味わいながら店へと帰り着き、希望に満ちた気持ちで本を開き新たな未知を探求しようと思ったその矢先。まるで今から地の底にでも飛び込むのではないかと思いたくなる程の陰鬱な気を纏い店にやって来ては、そのまま一人無言で店の一角を陣取った白黒の輩が居る為だ。
全く、間近で意気消沈している人物が居ては折角の探求行為も興が削がれる事甚だしい。僕の神経は強かな少女達とは違い繊細に出来ているのだから。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、魔理沙は来店以来ずっと帽子を目深に被り、自らの表情を見せまいとしたまま一言も言葉を発する事をせず、ただ佇んでいる。店内にこんな陰の気を発する者が居ては、他のお客が入って来たとてすぐに出て行ってしまうだろう、これは立派な営業妨害だ。……まぁどのみち今日は店を開かずに本に没頭するつもりだったのだが。
陰気が店内を染め上げてからおよそ四半刻、状況は相も変わらずである。薄暗く神秘的な佇まいが信条の古道具屋とて、これ程湿っぽい雰囲気ではやり過ぎというものだろう。彼女がこうまで鬱ぎ込んでいる理由は僕には判らないが、こちらとしてはそれを問いただすつもりは無かった。不必要に相手の心中を覗き込もうとする行為の愚かさは、僕の経験上良く理解しているからだ。それに、恐らく向こうもあれこれと詮索される事を望んでいないだろう。本気で誰かに話を聞いて貰いたいと思っているのなら、気心の知れた友人の所にでも飛んでいくだろうからだ。
さりとて、このまま居座られると読書に手が着かないのは事実……フムン、このまま手を拱いていたとしても埒が明かない。ここは一つ現状を打開すべく動くべきか。どう転んでもこれ以上状況が悪化する事は無いだろう。
「さて、魔理沙。君が何故こんな営業妨害どころか、僕の楽しみさえも奪う真似をしているのか、それを聞くつもりは僕には無い。寧ろ君に望むのは全くの逆だ。そう、僕の言葉を聞いてもらう。それが嫌なら早々に立ち去ると良い。だがあくまでこのまま僕の店に居座ると言うのなら、店主の言葉を拝聴してもらおうか」
僕は番台に腰を落ち着けたまま、店の片隅に居る魔理沙へと言葉を投げる。どうやら魔理沙は話を聞く方を選んだらしく、立ち去るそぶりを見せずに顔を伏せたまま大人しくしている。それならばと僕は言葉を続ける。
「そうだな、例えば……君の人生で起こりうる森羅万象がこの一冊の本に物語として全て収められているとしよう。もちろん君の人生を綴った物語である以上、この物語の主人公は君だ」
僕はそう言うと手にしていた本を魔理沙に見えるように掲げた。しかし、視線は魔理沙の方には向けない。何故かは判らないが、彼女の顔を見てはいけない気がしたからだ。
「さて、今現在悄然としている君を描写した言葉は果たしてこの本のどの辺りに有るだろうか? きっとまだまだ前半戦の方だろう。下手をすればまだその前のあらすじさえ終わっていない可能性だって有る。それだと言うのに主人公が鬱ぎ込んでうじうじと悩んでいたら、どんな読者だって読み進めるのを止め、それ以上その本に付き合う事をしないだろう。
一読書好きである僕自身から言わせてもらえば、一分の隙もない完成度の高さを求めた物語よりも、例え筋書きは荒唐無稽でも登場人物達が思うままに生き生きと動いている物語の方がよっぽど好感が持てるね」
僕の弁を受けてか、心なし魔理沙から発せられる陰の気が薄れてきたようにも感じられる。後もう一押し、と言った所だろうか。好機と見た僕は一気呵成に言葉を紡ぎ続ける。
「このままでは終われないと自分でも思っているんだろう? だったらその心の思うままに何度だってやってみれば良い。第一このまま意気消沈しながら今を過ごす玉でもないだろう。少なくとも僕の知る霧雨魔理沙は他の誰よりも『今』を楽しむことを知っている人間だったよ。……僕の話は以上だ」
僕の言葉に何か思い至る所があったのか、魔理沙は顔を上げて外を見詰める。そこで僕は今日初めて彼女の目を見たのだが、その瞳は最早曇り一つ無く晴れ渡っていた。美しく煌めくその瞳はまるで星を閉じ込めた宝石のようにも思える。
「そうだな……何時までもぐちぐち悩んでるなんて全く以て私らしく無かった。何事もぶつかってみるのが私の性分だったな! この霧雨魔理沙様ともあろう者が香霖なんぞの言葉に諭されるとはな」
人の店で延々と営業妨害を続けたと思えば今度はこの減らず口。全くなんて輩だ。だがしかし、この良く言えば天真爛漫、悪く言えば傲岸不遜な態度こそが魔理沙だろう。彼女が小さく縮こまっている姿なぞ僕は見たくない。
「……ありがとな、香霖」
彼女の変貌振りに呆れ返っている隙に、消え入るような声で礼を告げる魔理沙。僕がその声に気付いた時には、既に魔理沙は勢い良く大空へと向かい飛び出していた。本当に……世話が焼ける妹分だ。何はともあれ、これでようやく読書に集中出来る。未知の物語を読み進めるのは何時だって心が躍るものだ。僕は高揚する気持ちを抑えながらその物語を読み始めた……