旧地獄。地獄から切り離されたこの土地の中心に地霊殿はある。
殿と名につけど内装は洋館を思わせ、静謐な館内には多くの妖獣が住まう。
その地霊殿を管理しているのが読心を得意とする妖怪さとりである。
外面こそ年端もいかない少女だが、彼女の名を聞けばどんな強妖も恐れ怯むという。
心を読まれてしまうのだからどんな計略も通用せず、腫れ物のように思われていると言えなくもないが。
そういうわけで普段は滅多に人が立ち入ることのないこの館に今日は客人が来ていた。
ノックの音にどうぞと答え、館の主人である少女は突然の訪問者を室内に迎え入れる。
「あら。珍しいこともあるものですね、あなたの方から出向いていただけるなんて」
言葉のわりに驚いた素振りを微塵も見せないのはさとりという種族ゆえか。
「ヤマメさん」
「やあ」
ヤマメと呼ばれた妖怪は片手をあげて答える。
金色の髪を後ろでまとめた彼女は、さとりよりもさらに幼く見える。
「ようやく私のペットになっていただけるのでしょうか」
「っはは。それは遠慮しておくよ、その子の居場所をとっちゃ可哀想だ」
視線の先の黒猫は、主人のひざの上で小さくないた。
それは残念とこぼして、二人の間では挨拶のように繰り返されたお決まりのやりとりが終わる。
ふと客人の服が擦り切れていることに気づいた。よく見ると怪我もしているではないか。
「何かあったのですか?」
旧地獄は地底に存在し、人間のいない地底では戦いなど妖怪同士によるコミュニケーションの一つにすぎない。
強い妖怪にまま見られる傾向ではあるのだが、わざと手を抜き戦闘を楽しむきらいがヤマメにも見受けられる。
しかし目の前の土蜘蛛が手負いの傷を負うだなんてさとりには少し信じられなかった。
「ああ」
質問の意図を理解したヤマメは、けれど怪我については触れず、
「一つ忠告しに来たんだ」
そんなことを言った。
鷹揚な足取りで椅子に腰掛けるさとりのもとへ近づき、彼女の顔を下からのぞきこむ。
「地上の人間がこちらに向かってきている」
続けて話すヤマメの表情が真剣味を帯びた。
「……人間が?」
さとりといえど今の言葉は完全に想定外のものだった。
そもそも地底と地上には相互不干渉の取り決めがあるはず。
そのうえ非力な人間が来るなど自殺行為に他ならない。
「そう。今は鬼と交戦中」
「何かの間違いでは? この地底は誤って迷い込むような場所では無いはず」
「さあ。地霊殿に来るようなら直接探ってみたらどうだい」
両手を広げておどけてみせるヤマメ。
「とにかく用心しておくんだね」
「……ふむ、分かりました。ご忠告感謝します」
ひらひらと手を振って彼女は部屋を後にした。
◇
「アレは君の差し金だろう、お燐ちゃん」
正面玄関へと続く廊下の途中で黒谷ヤマメは振り返らず尋ねた。
少し離れた後方には遠慮がちに彼女を追う小さな影があった。
二又の尾を持つ黒猫が、赤髪長身の少女へと姿を変えて答える。
「ご存知でしたか」
悪戯を咎められた子どものように、彼女はその端正な顔立ちを曇らせていた。
ヤマメの言うあれとはすなわち地上からの使者を意味する。
「これだけ派手に怨霊を飛ばしていればね。地霊殿から外に出ない君の主は気付いていないようだったけど」
土蜘蛛は歩みを止めて背の高い少女の顔を見上げた。
「おおかた地上の妖怪に今回のお祭りの首謀者であるお空ちゃんを止めてもらうつもりだったんだろう?」
「…………」
お見通しですね、とお燐。
「人間が来るとは思いもしませんでしたけれど―――あの」
そして自嘲めいた笑みを浮かべて訊く。
「本当のことを知れば、さとり様は私たちを処分するでしょうか」
「ん?」
おやおや。
親の心子知らずとはよく言ったものだ。
あれだけ近くにいて気づかないものだろうか。
それとも、近くにいるからこそ見えないものもあるのだろうか。
お燐の問いをヤマメは当然のごとく否定する。
「それはないと思うよ。彼女はペットに甘い」
見ていて少し心配になるくらい。
「さっきだってそうさ、私の心を読んでいれば状況を把握することも出来ただろうに」
物事の核心に触れなかったり、真実を歪曲して伝えたり、
嘘はつかずとも相手を騙すことはできる。
本来さとりの能力はそのような者たちに対してこそ真価を発揮するのだ。
けれど、
「信頼しているのだろうね。君たちを」
そこに自分も含まれていることがヤマメにはたまらなく嬉しい。
おそらくあの人間に危険はないだろう。
お燐の手により突如地上へと湧き出した地霊。
その地霊が自らをおびきよせる為の罠と判断した地上の妖怪に言われて、不承不承やってきたといったところか。
彼女とさとりが会うことで地底にも何か変化があるかもしれないとヤマメは期待する。
「ところでお燐ちゃんはこれからどうするのかな」
「……その人間に会ってみようと思います。せめてかまどの薪くらいにはなってくれるでしょう」
猫耳娘の三白眼が怪しく光る。
本気とも冗談ともつかない台詞をこともなげに言う彼女ももちろん妖怪である。
「っはは。違いない」
情けなく笑うこの土蜘蛛が、地霊殿の主もお燐も嫌いではなかった。
「それじゃあこの辺で失礼するよ」
話し込むうち、出口にたどり着いていたようだ。
ギイと大きな音を立てて両開きの扉が開く。
「あ、そうそう」
扉のむこうで地底都市の煌びやかな明かりを背にヤマメが告げた。
「そう遠くないうちに、地底と地上はもっと行き来がしやすくなるかもしれないね?」
あと三白眼ね>三百眼
ふおお、素で勘違いしておりました。
ご指摘、ご読了ありがとうございます。
ヤマメスキーにはたまらない話でした。GJ。