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夜だ。満月の夜がそこにある。
足裏は地面を踏み締め、膝丈のぼうぼう草がくすぐったく、柔らかな夜風が吹き抜ける。
遠くの山や森は暗いというより闇で、その中では妖怪達が間抜けな人間が通らないか待ち構えているに違いない。
だが、すべてがそうではない。
竹林の深さの中にあって、スポットライトのように月光を浴びているからだろうか。永遠亭の彼女は犬か狼と思しき遠吠えに眉をひそめながら、皿洗いをしていた。
永遠亭の勝手場は屋敷の外観からは伺えないほどハイテクだ。竈は勝手に火が入るし、流しの水は温かい。例月祭で使った皿もすぐに洗い終わり、彼女はブレザーの上からかけていたエプロンを適当に置いて、布巾を片手に水気を拭き取り始める。
一枚、また一枚と単調な作業だが、日々家事に勤しむ身には慣れた物だ。
「――――」
鼻歌がやがて混じる。即興で奏でられるのは題名の無い優しい旋律。その時の気分で作られただけの歌は、長い兎耳を揺らす。
後は身体が勝手にやってくれることだ。一定のリズムで乾いた皿が量産されていく。
手に取り、速度より丁寧さ重視で一枚を確実に終わらせ、重ねていく。
それもあと数枚、と言ったところで彼女は身体に意識を戻した。背後に感じるものがあったからだ。
誰なのか確かめようと振り向くより先に、気配は言葉を発した。
「機嫌がいいみたいでなによりだわ、鈴仙」
「お師匠様? ――あ、輝夜様」
鈴仙の赤い瞳の先、薄暗い廊下から顔を覗かせたのは輝夜だ。
いつもと変わらぬ出で立ち、足と腕を風変わりな着物で覆い隠す輝夜は、
「あら、永琳かと思った? ごめんなさい」
「いえいえそんな滅相もない。ただ輝夜様がこんな時間にこんな所に来られるとは思わなくて」
「そんなに慌てなくても良いわ、ほんの冗談だから」
くすくす、と袖を口にあてて輝夜は笑った。
……またからかわれた!?
そう鈴仙は思うが、もういつもの事なので気にしたら負けだ。すでに日常会話の一部として組み込まれているような気もするが、負けなので気にしない。
「そう気にしない気にしない……」
「何を一人でぶつくさ言ってるの。また月から電波でも受信した?」
「いえ電波というか脳内思考波ですけど。って、何かご用があって来たのではないのですか?」
「ご用?」
「私に聞かれましても……。普段この時間ならお休みになってるはず、なら用事があってのことでは?」
「そうそう。蕎麦じゃなくてうどんなのよ」
何の事だろうかと思考し、今の時間と食べ物が結びつき、
「うどん、ですか? まぁ乾燥麺はあるのですぐにお持ちできますが」
「んー夜食の話じゃないんだけど、結果は同じね。じゃあそれ終わったら持ってきて」
「はあ」
首を傾げる鈴仙を残し、輝夜は背を見せた。
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日本家屋の場合、廊下より襖や障子を境界として部屋を区画することが多い。
個人の家では廊下分のスペースが確保しにくいこともそうだが、伝統的にそう言う造りだから、という事も大きい。
永遠亭はその流れの源流に近い。そして主の蓬莱山輝夜の部屋は文字通り奥部屋に存在していた。今でも月光は届かないが、閉ざされる事は無い。
外廊を、四角いお盆の上に湯気を置き鈴仙は歩いていた。
彼女は足元と目の前の器の汁に注意しながら安全性優先で運ぶ。
一つの角を曲がった時、視界の隅に入るものがあった。
「ああ、やっと来たわね。うどんが」
「珍しいですね、縁側に出てくるなんて」
「ここ数年続いている珍事ね。……一つだけ?」
縁側に座り込み足を庭に放り投げている輝夜の横、鈴仙は屈んで丼をお盆ごと下ろす。箸と丼はそれぞれ一つだ。
「もしかして、もう一つお食べになるつもりでしたか?」
「私じゃないけど、まぁ良いわ。掛け蕎麦ならぬ欠けうどんってね。半分こにしちゃいましょう」
「私も食べるんですか?」
「はい」
有無を言わさぬ返答は鈴仙に自分の師匠を思い出させる。ああ、あんまり長く生きすぎると人は同じ所に辿り着くのだろうか。人生の極地がそれだと言うのなら確かに蓬莱の薬は禁忌で構わない、あんなのをこれ以上量産させれては困る。
「お酒のお猪口は二つ分用意しておいたけど、箸を同じくするのは我慢して頂戴ね。……どうしたの?」
「え? ああ、いえ。うどん、そう、おうどんぐらいなら精神的に大丈夫です」
……共食いって事かしら?
輝夜は鈴仙の慌てふためく姿にそう思うが、まあ些末な事だと切り捨てる。
「そんなことよりおうどんが伸びない方が重要よね。さ、まずは一献」
「おっとと、すみません、頂きます」
徳利から常温の酒がなみなみと注がれ、零さないよう慎重に口元まで運ぶ。
自分も注ごうとお猪口の置き場を探すが、それより先に輝夜は自分で入れてしまい、良いのだろうか、という気持ちが残る。
「いただきます」
一言、輝夜と共に仰いだ。里で売っている日本酒だろう、地上独特の風味が喉を通る。
……そのツマミがうどんってのもあれだけど……。
夜食なのだから良いか、と納得させる。
一方、そんなことは気にしないと言わんばかりに輝夜はうどんを啜っていた。
ずるずると、夜風に音が混じる。
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「――で、何か話はないのかしら?」
互いに箸の貸し借りをしている最中で、輝夜はふとそんな事を言った。
鈴仙は口の中にあるものを飲み込んでから、
「んと、話ですか? いえ特には」
「駄目ねぇ……こういう時は主が下々の言動を聞いて色々と判ったつもりになって理解を深めるものなのよ」
「それって知ったかぶりとかの類なような……」
「細かい事はいいのよ、どうせ暇潰しなんだし。溜息吐いてないで何か無いなら私が決めちゃうわよ? 例えば、『八意永琳という蓬莱人について私は非人道的だと思いますが、どうしようもありません。』とか」
鼻からうどんが出そうになった。
「誘導尋問どころか台本読みのヤラセですよねそれ!?」
「じゃあ、『輝夜様は十七歳か否かファイナルアンサー』」
「四択なのに実質一択!!?」
「ええと、じゃああとは――」
「ストップストップ! ……あの、できればもっと平和的で他人様にあれだこれだと言わなくて済む方向でお願いしたいのですが」
「えー」
輝夜はやや不満顔だが、酒の会話で主従関係が生命的に断絶するのは良くない。生命感覚麻痺してる不老不死には問題無いかもしれないが、こっちは極々普通の兎なのだ。
「なんとかこの通り、お願いします」
「頭まで下げられちゃ仕方が無いわね、別方向でいってみましょうか」
話の分かる主で良かった。忠誠心の上昇とはこうしたイベントで上がっていくのだろう。何か引っかかるものはあるが、とにかく命の危機は脱せた。
安堵を表情とする鈴仙に、気を取り直した輝夜は言った。
「鈴仙、そろそろ月に帰りたくはないかしら?」
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浮かんできた疑問は、再確認を促すものだ。
……今、何て……。
気が付けば足は正座であり、手は拳を作り膝の上にあった。
まるで真実と肯定しているかのような身体の動きに、鈴仙は戸惑いながらも反抗する。それは作った笑みで、
「またまた、何をご冗談を」
笑い飛ばそうとして、しかし輝夜が口の端を歪めた。
「だって貴方、死ぬのが怖いんでしょ?」
言い切られた言葉は、鈴仙を震わせた。
似たような言葉を誰かに言われた気がする。
地上には穢れがある。それは生と死があるから生まれるものだ。地上の生き物の寿命が短いのは穢れの為で、月にはそれがほぼ無いと言っていい。
ここにいる限り、それは否定できない。
だが嘘でもそうするべきだった、でなければ、
……ここに居られなくなる。
月の香りはそこかしこからするが、永遠亭はあくまで地上なのだ。ここにいられなければ、どこへ行けるというのか。
……一つだけあると、浮かんできた先に自己嫌悪する。そもそもここ以外にあるなどと思った、それだけで自分は何なのだろうと殴りつけてやりたくなる。いや、そうしたいのは消したいからだ。だから嫌いなのだ。
足掻くような模索に埋もれさせようと、必死になる。
何分か、何時間か過ぎたように感じられた。
「随分な乱れようね。そう、貴方はまだ怖がっている。あれもこれも、皆怖がっている臆病な兎。
でもね、これは私の親切心から言ってるのよ? だって貴方」
一息、
「月に帰れるじゃない」
大きく、このまま止まってしまうのではないかと思う程の鼓動が打たれた。
けれど額の汗も、小さく荒い息も健在だ。生きている。
「私達は永遠の咎人、どのようなことがあっても帰れないわ。だけど鈴仙、貴方は違う。月からお呼びがかかる程ですもの、戻ってもきっと元通りの平和な生活を謳歌できるはず」
「し、しかし月では戦争が」
「地上の暇な妖怪達が遊びに行って帰れるような状態なのに?」
ようやく出た言葉は、あっさりと覆される。
再度口を挟むより先に、輝夜が続けた。
「月にいる同胞達と交信できるのなら、知っていたんじゃなくて? ……もう月では戦争など起きていないのだと。命の危険にさらされる事も無く、便利で豊かで、穢れのない生活を続けられるのだと」
そして、静かに問うた。
「貴方はどうして、ここにいるのかしら?」
「――ッ! 輝夜様は! …………私の事がお嫌いですか……?」
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張り上げた声は立ち上がりと共にあった。
鈴仙は涙を目尻に、思い切る。
「私は、確かに馴染めてないかもしれません。人間と上手く喋れないし、輝夜様の暇潰し相手にもなれないし、師匠には迷惑掛けてるし、てゐのように兎を統率できないし、でも……自分なりにやってきたつもりで、ここに居たいと、そう思って……」
肺の中の息が続かなくなり、鈴仙は声に出して呼吸する。
頭は熱いが泣いては駄目だと、止まらなくなると自分に言い聞かせ、咽ぶような咳が出る。
ようやく収まってから、彼女は前を向いた。
「そう……、なら、安心したわ」
輝夜もまた、鈴仙を見据える。
「貴方が度々、地上での生活に文句を言うのが聞こえていたのよ。そして思ったの。私達は貴方を檻で囲んでいるだけなんじゃないか、って」
くすくす、と言う笑みはいつもの彼女のものだった。
一拍置いて、
「でも、そうじゃなくて良かったわ」
静かに告げた。それは感情がよく見えない彼女らでも、はっきりと解る安堵の表情。目は穏やかに弓を描き、眉はやや困ったようで、しかし口には笑窪が見える。
思わず、見惚れる。
だが自分が何を言っていたのか。思い出し、今度は違う熱さが襲った。
えー、あー、などと手足をばたつかせてみたり、ち、違うんです! などと主語の無い言い訳をしてみたりするが、そうこうしている内にようやく落ち着きを取り戻し、同時に精神的な疲れから鈴仙は上半身を倒し、床板に仰向けに寝そべる。
ひんやりとした床が心地良い。
「……輝夜様」
返事は無い。こちらを待っているのだと考え、続ける。
「どうして、今になってそのような事を?」
最初の時、永い夜の時、都の騒動の時、いくらでも帰るタイミングはあった。
思えば彼女の意思さえあれば、何時だってここを追い出される可能性はあったのだ。
何故なのか。
「……ちょっと、不安だったから、かしら?」
「不安?」
上半身を起こす。
「ええ、そう。この数年が、数十年が、余りにも楽しいから」
確かに千年のほとんどを退屈に過ごしてきた彼女にとって、幻想郷での今の生活は、きっと刺激あるものなのだろう。
「けど、それが私とどういう関係で――?」
鈴仙の問いかけに、輝夜はきょとんと目を丸くして、次に呆れたように大きな溜息を吐いた。
「ああもう、やっぱり貴方もイナバよねぇ」
「?」
「貴方も蓬莱の薬を飲めばいいのに」
「え? それはどういう――」
「――なんでもないわ。さ、おうどんが伸びないうちに食べちゃいましょ」
煮え切らない内に話が切られてしまった。
けれどとっくに伸びたはずのうどんが、ほとんど変わっていない事の驚きがあり、それを機会に再び問おうとは思わなかった。きっと、答えてはくれないのだろう、と。
所詮、暇潰しなのだから。
「ああ、今日も綺麗ね」
「……そうですね」
幻想郷の月は自分達が知っている輝きを放っている。
輝夜の名を持つ少女は、月ではなく兎を見たような、そんな気がした。
二次創作しか知らない人は特に。
まあ、姫うどんってだけでフィルター掛かるんだけどね
姫様の言動に一々挙動不審になった、これは良い姫様だ
最後にひょいっと使われてた永遠能力がまたね
舌に乗せてしまえば陳腐に聞こえる言の葉ですが。
好きだから、不満はあれども離れがたく。
好きだから、愛別離苦の不安も、留めることで不幸にさせてしまう不安もある。
あぁ、あぁ。やっぱり。
家が、場所が、皆が、日々が、お互いが。
好きなのですねぇ。
卵のっけて月でも眺めながらうどん食いたくなった。しんみりといいお話でした。
輝夜も鈴仙もいいなぁ
うどんげの事で心配してるのがかわいいぜ……。
ああ、お母さんになってほしい。