「……」
師匠が、よそったご飯を無言で姫様に手渡す。
「……」
姫様が、よそわれたご飯を無言で受け取る。
「い、いや~今日のおゆはんもおいしそうですね。い、いただきまーす」
いつもの三割増のテンションで、日々の糧を与えてくれる誰かさんへの感謝を示す。
「いただきます」
「いただきます」
感謝の意など微塵も感じられない声色でそう言い、箸を手にとって食事を始める師匠と姫様。
ダメだ。そろそろ私の寿命がストレスでなんとやらだ。あ、胃痛が……。隣で響くいつも通りのいただきまーすをこれほど恨めしく思ったことはない。
なぜ今、私の胃が危機を迎えているのか。なんてことはない。
ただいま師匠と姫様、大絶賛ケンカ中なのである。
大方のケンカがそうであるように、きっかけ自体は些細なこと。少なくとも周りから見れば。
師匠が開発中だった新薬の試作品を、姫様が間違えて捨ててしまったのだ。
ほら、こんな感じで一行で書けるくらいには些細なことである。
「……」
「……」
なおも無言で食事をとり続ける両名。私とてゐもそれにつられてか、言葉を発することなく黙々と箸を進める。もっとも、てゐの方は至って普段通りであって、この空気を意に介している様子はまったくない。
くっ! 人の気も知らないで……! 静かな食事というものは大変行儀がよろしいのかもしれないが、果たして食事とはここまで緊張感を伴うものであったか。普段はもっとこう、あっとほーむな感じで適度に会話が交わされるので、なおさらこの空気が痛い。
「ごちそうさまでした」
姫様が箸を置き、手を合わせながら食事の終了を告げる。いつもより大分と早いペースだ。姫様が一番に食べ終わるなんて今までにあっただろうか。私がそんなことを考えていると、
「輝夜」
「何」
「まだ残ってるわよ」
これ以上は下がりようがないと思われていた居間の空気が絶対零度の境界を軽々と突破し、いよいよ居間は生命が生存する事すら難しい氷河期を迎える。冬の妖怪や蓬莱人はそれでも死なないのだろうが、私のようなただの月兎にとって、一秒でも長くこの部屋にいることは直ちに命の危機につながるだろう。なぜか隣に座る地上の兎は余裕でこの環境に適応しているようであるが。
「今日は食欲がないの」
顔に優雅な微笑みを浮かべながら、しかし感情のこもらない声で師匠に言う姫様。居間に満ちる一瞬の沈黙。一瞬ならなぜこうも長く感じられるのか。仕事しろ私の感覚、仕事しろ世界の時間……ハッ! もしやこれが姫様の力……!
須臾て凄いな。とろけるほど甘いのかな。自らの限界を超えた思考速度を以て現実逃避を試みる私をよそに、師匠はそんな姫様の言葉を、これまたなんでもないような顔で受け止めながら、
「そう」
ただ一言そう言ったきり、また食事に戻ってしまった。
「じゃあ先に部屋に戻るわね」
姫様もそう言い残して、さっさと居間から出ていってしまった。後に残されたのは、氷河期は脱しつつも依然気まずさの残る空気と、カチャカチャと食器と箸がぶつかる音、そしてどこまでもいつも通りの、おかわりーという鋼の精神を持った地上の兎の声だけである。けっこういっぱい残ったのは気のせいだ。
「あのー……師匠?」
意を決して、黙々と食事を続ける師匠に声をかける。流石にこのまま何も話さないのは空気的にも精神衛生的にもよろしくない。さりげない話題から、あわよくば師匠と姫様の仲直りのきっかけを掴むのだ。できる! 私ならきっとできるよ!
「何」
無理。即座に脳がはじき出した答えがこれである。あまりにもヘタレな方向に優秀な自分の思考回路に情けなくなるが、師匠の光すら飲み込まんばかりの、何も写してないかのような瞳を向けられたら誰だって同じことを思うはずだ。
「えーっと……そのぉ……」
振りかざした拳は引っ込められない。なんとか着地点を見出そうとする私を、なおも感情を一切否定したまなざしで見つめる師匠。視界の端には茶碗を持ち上げたまま、口をもぐもぐと動かしながらにやにやしているてゐ。ああ、なぜ私は変な勇気を振り絞ったんだろう……。
「あー……あ。ひ、姫様の残したおかず、私が食べちゃってもいいですか?」
隣から何かを吹き出す音。視界の端には茶碗を持ち上げたまま、顔を真っ赤にするてゐ。必死に笑いをこらえているのは明らかだ。そして視界の中央では師匠がきょとんとしたかと思うと、ふう、とため息を一つ吐いた。
「食い意地のはった子ねえ。ま、捨てちゃうのももったいないし、好きにしなさい」
そう言いながらあきれたような視線を向けてくる。ああ良かった、いつもの師匠だ。
「ごちそうさま。それじゃあ私も部屋にもどるから、後片付けよろしくね」
自分の分の食器を流しに運んだ師匠が、居間から出て行くのを見計らって、私は畳の上に大の字に倒れこんだ。今は行儀がどうのこうの言っていられる精神状態ではないのである。
「あーもう。なんでご飯食べるのにこんなに疲れるのよ」
「いやー鈴仙も大変だねえ。「チューカンカンリショク」の悲哀ってやつ?」
まったく他人事である。というか私はいつからそんなポジションになったのだ。
「大体、なんであんたはあの空気の中でそんな平気な顔でいられるのよ」
「鈴仙がビビり過ぎなんだよ。たかがケンカじゃん」
あの二人の一触即発の戦いをたかがと言い切るか。どこぞの焼き鳥の通常8を気合避けせんばかりの度胸である。
そんな蛮勇はあいにくと持ち合わせてはいない。
「はぁ、いつまでもこんな調子じゃこっちの身が持たないわよ……」
「だらしがないなあ。ま、そこまで言うならさ、仲直りさせちゃえばいいんだよ」
「仲直りって……どうやって」
「どうにかして」
まったくまったく他人事である。
「それが出来たら苦労しないわよ……。あ、でもほら、一晩寝たら案外二人ともケロッと仲直りしてたりして」
「暢気だねえ。現実逃避も程々にしないと帰ってこれなくなっちゃうよ?」
「主な原因のあんたがそれを言うか」
まあさすがの私もそこまで楽観的ではない。ないのだが、正直に言うとちょっとだけその可能性に期待もしていたのだ。どれだけてゐにバカにされようと、手に負えない事態において神頼みするのは人情というものじゃないだろうか。
結局それから姫様と師匠は一度も顔を合わせないまま、その日は終わりを迎えた。明日こそはおいしくご飯が食べれますように。床に就くとき、割と本気でそう神様に願った。
翌日の朝ごはん。
「……」
師匠が、よそったご飯を無言で姫様に手渡す。
「……」
姫様が、よそわれたご飯を無言で受け取る。
以下の描写は省略する。一人の月兎が凍死しそうになったとだけ言っておこう。
神は死んだ。そんな言葉が頭をよぎった瞬間、いつぞやの蛙の神様に怒られたような気がした。そんな妄想が繰り広げられるあたり、いよいよ私の精神も末期である。
「このままじゃいけない!」
「朝っぱらからうるさいなー」
鬼気迫る勢いで力説する私に、あくびをしながら非難のまなざしを向けてくるてゐ。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。狂気を操る私が発狂したあげく凍死するなど、笑い話にもならない。そうなる前に、早急に策を講ずる必要がある。
「やっぱりあんたの言うとおり、私たちが仲直りさせないと!」
「何気に私を頭数に入れちゃってるね」
ま、面白そうだからいいけど――必要に迫られた私のものからは月と地球ほどにかけ離れた動機を口にするてゐ。その肝っ玉の一割だけでも分けて欲しいものである。きっと法外な値段を吹っかけてくるのだろうが。ニンジン千本とか。
「で、どうするの?」
「とりあえず二人に話を聞こうと思うの。何か仲直りの糸口が掴めるかもしれないし」
「昨日それやろうとして失敗してたじゃん」
「昨日の私とは一味違うわ」
なにせ自分の命がかかっているのである。
「ていうか。気づいてたんなら助けてくれてもいいじゃない」
「次助けてあげるよ、次」
「ホントだからね、約束だからね! これマジだからね!?」
「あーはいはい。約束ウサ」
もうだめかもしれない。そう思わせてくれる、てゐの心強い返答であった。
~輝夜陣営~
「そもそもさ」
「んん?」
「姫様と師匠がケンカをするっていうこと自体がおかしいと思うの」
「何でさ」
「いやだって、基本的に師匠って姫様には甘いし、姫様だって師匠を全面的に信頼してるわけじゃない。そんな二人がケンカだなんて想像できないもの」
姫様が師匠にいたずらしたときも、師匠は笑って許していた。その優しさを少しでもこちらに向けてくれるとありがたいのだが。
「んーそうかなあ?」
私の意見に、しかしてゐは首を傾ける。
「あんたはそうは思わないと」
「だってさー。あの二人ってそれこそずっと一緒にいるわけじゃん? だったらケンカの一つや二つ、なあんにもおかしくないと思うけどね。むしろまったくないって、そっちのほうがおかしいよ」
「あー」
そう言われるとそうかもしれない。でも、
「師匠は薬を捨てられたわけだからまあわからないでもないけど……。姫様が師匠とケンカになるほど怒るっていうのがどうもピンとこないのよね」
破天荒なところもあるが、姫様は根っからのお姫様だ。いつでも余裕の態度を崩さないし、所作一つとってもそこには常に優雅さが伴う。たまにだらしがないときがあるのはご愛嬌だ、多分。
「ふむふむ。つまり鈴仙は、姫様がどんなときに怒るのかが知りたいと」
「へ? あ、うん。そう、なのかな?」
てゐがわが意を得たりという顔をして簡潔に纏めてくれた。何か微妙に、そして致命的に違うような気もするが、多分だいたいあってるので問題はないだろう。ないと、思う。
「よっしゃ、じゃあ久しぶりにあれいってみようか」
「あれ?」
「『絶対に怒らせてはいけない永遠亭24時~姫様編~』」
「うわぁ……」
トラウマがよみがえる。企画の内容は至って簡単。ターゲットがどのくらいのことをされると怒るのかを、いろいろ怒りそうなことを実際にやってみて調べようという、生産性のカケラもないものである。以前師匠に対してこの企画を敢行したのであるが、結果はしょっぱなから私の指がへし折られるという、放送事故以外の何物でもないものであった。得たものといえば、師匠の優しさが詰まった軟膏だけ。それがあっただけでも救いというものである。
そんな私が犠牲になることが前提に置かれたてゐの提案。企画段階で欠陥がある時点で、碌なことにならないのは火を見るよりも明らかだ。
「絶対にヤダ」
「大丈夫だって。お師匠さまならともかく、姫様はそこまでキツイおしおきはしないよ。だから当たって砕けよ、ね?」
「だから何で自分から玉砕しにいかないといけないのよ!」
「まあまあ。これも二人を仲直りさせるために必要なことだよ。鈴仙は自分の指と胃腸、どっちが大切なの?」
「どっちもよ!」
なんだその究極の選択は。とりあえず私の指が犠牲になることはこの企画に折込済みのようである。絶対に通しちゃダメだろこんな危険な企画。私が全力で拒否していると、
「ええい、いやよいやよで通るなら博麗の巫女はいらないのよ! 何かを得るには何かを失うことが必要なときだってあるんだ! 違う!?」
「う……」
てゐが年長者の貫禄を発揮して、ビシッと私に指を突きつけながら一気にまくしたてた。そんなてゐが並べる正論に、私はたじろぐしかなかった。てゐの言うとおり、確かにそれは一つの世界の真理なのかもしれない。そして勘違いしていた。天秤の片側に乗せるのは胃腸ではなく、命なのだ。命が助かるのなら指一本くらいの犠牲をどうして恐れようか。
「あっほら、ちょうどいいところに!」
てゐが指差した方向には、盆栽の世話をなさっている姫様の姿。それを見て、揺るぎなき決意がここに結実する。
「これはチャンス、さあ、突撃だー!」
「ら、らじゃーっ!」
乾坤一擲疾風怒濤。自らを弾丸として、月の姫君のもとへと突っ走る。
「姫様!」
私の覚悟を帯びた呼びかけ。しかしそんな私の決意など気にかける様子も見せずに、姫様は手を止めてゆったりと私のほうへ振り向く。
「あらイナバ。どうしたの?」
「姫様の、あ、あほー」
――瞬間、凍る時間。悪魔に仕えるメイドはきっとこんな世界を見ているのだろう。そんなことを夢想させる、思いもよらない貴重な体験だった。その割には昨日から何度も体験している気もするが、もはやどうでもいい。
「……」
「……」
振り向いたときのままの表情で固まる姫様。
もはや自分が今何をして、そしてこれから何をすべきなのか、それらを一切合財見失った哀れな月兎。
止まってしまった世界を動かしたのは、時間を操るメイド長ではなく、
「ええと、イナバ? 今のはいったい……」
「あ、いや、これはその、ですね……」
「なんだかとても失礼なことを言われたような気がするんだけど……」
「すみませんすみませんすみません! 悪気はなかったんです! いやホントに!」
平謝りするしかなかった。姫様は私のそんな様子に、怪訝な顔をして首を傾けるのみ。そして目には見えねども、てゐが盛大にため息を吐いて呆れているのがわかる。
アホはあんただ──私の謝罪が永遠亭にこだまする中、そんなてゐの言葉がいやにはっきりと耳に残った。うるさいやい。
「つまり、私がどんなときに怒るのか知りたかったと」
「はい……」
姫様の自室にて、正座をしながら私の奇行(自分で言うと悲しくなる)の真意を告げる。
「前から思ってたけど、あなたはもう少し冷静に行動したほうがいいと思うわ。イナバったら流されすぎ」
「うう、返す言葉もありません」
なせこうも私のテンションは場の空気に影響されてしまうのか。アグレッシブ過ぎだろう数分前の私。幸い指は失わなかったが、代わりにいろいろ大切なものを失ってしまったのは間違いない。
「そうだよ鈴仙。反省しなきゃね」
「でもまあ、そこが面白いところなのだけれど。見ていて飽きないわ。ね? イナバ」
「ねー」
お前が言うな。私の正当なツッコミは、しかし和やかに談笑するてゐと姫様の前には意味をなさないだろう。理不尽ここに極まり、だ。
「それで、なんでそんなことが知りたかったのかしら?」
かわいく首を傾けて肝心なことを尋ねてくる姫様。気を悪くした様子はなく、純粋に興味で聞いているようだ。それどころか、どこか楽しげにも見える。そんな姫様の様子を見て安心した私は、
「──師匠とケンカした原因を、知りたかったんです」
一気に核心を突いていった。その言葉を聞いた姫様は、一瞬目を丸くしたかと思うと、
「あら、まだ知らなかった? 私が薬を捨てちゃったから怒ったのよ、永琳が」
すぐに穏やかな笑みを浮かべながら言った。それはきっと永遠亭中に広まっている理由だ。私が聞きたいのはそういうことではない。
「それはもう聞いてます。でもそれじゃあ姫様が怒る理由がわからないというか……」
そう。これはケンカである。師匠が一方的に怒っているのではない。だから姫様にも、師匠に対して怒る理由があるはずなのだ。姫様は私の疑問に納得したのか、ああ、と声をあげて、
「そうなのよー。永琳たらちょっと私が間違えて薬捨てちゃっただけなのに、やれ輝夜は注意力が足りないだの、普段からもっとしっかりしなさいだの説教するの。いくら教育係とはいえ、あそこまで言わなくてもいいのに。ひどいと思わない?」
ぷんすかと腰に手を当てて頬を膨らます姫様。……あれー?
「えー……と。それだけですか……?」
「ま、それだけとは失礼しちゃうわね」
そう言いながらむう、と私を睨んでくる。しかしそんな仕草にすら愛嬌があるあたり、流石である。
「そう、ですか。なるほどよくわかりました。早く仲直りしてくださいね」
「永琳が謝ったらね」
「もう……。じゃあこの辺で失礼します。てゐ、行くわよ」
「へいへーい」
姫様の御前だというのに、寝っ転がって話を聞いていたてゐとともにその場を辞そうとすると、不意に姫様が袖で口元を隠しながらふふっと、笑った。そして──
「それにしても、永琳とケンカなんてどれくらいぶりかしら」
この状況を心から楽しむように、誰に向けるでもなくそう言った。
~永琳陣営~
「うーん」
「何よ、変な声出して」
「いや、なんか想像していたのと違って」
「んん?」
「あの二人がケンカだなんていうからもっとこう、深刻な理由なのかと」
しかし姫様の様子を見る限り、そんな理由は微塵も見受けられない。ぶっちゃけ些細にもほどがある。
「だから言ったじゃん。ビビりすぎだって」
「うっ。いや、でも師匠の方はわからないわよ? 実は姫様も気づいてない大きな理由が……」
「どーかなー」
まったく私の予想に同意することなく、頭の後ろで手を組みながらつまらなさそうに答えるてゐ。
あ、こいつ飽き始めてるな。
「とにかく師匠にも話を聞いてみよう。今度こそ何かわかるかもしれないし」
「じゃあ『第二回絶対に怒らせてはいけない』……」
「それはもういい」
いくらなんでも私だって反省はするし学習もする。これ以上この無茶な企画を続ければ、今度こそ何かを失うだろう。身体的な意味で。ちっ、というてゐの舌打ちを聞き届け、てゐが完全に飽きないうちに事態の収拾を図ることを、改めて決意する私であった。こんなパートナーでも、一人と二人では大違いなのである。ヘタレ上等だこんちくしょう。
「輝夜とケンカした理由?」
師匠の実験室を訪れた私たちは、早々に本題を切り出した。師匠相手に回りくどい手は無意味なのだ。いきなりの私の質問に師匠はふう、とため息を吐いて、
「ごめんなさいね。変な気を遣わせてしまって」
あごに手を当てて苦笑しながらそう言った。
「いえ、そんなこと。それより」
「ケンカの理由ね。そんなこと、もうあなたも知ってるんじゃない?」
「私は本当の理由が聞きたいんです。師匠と姫様がケンカだなんて、何かよっぽどの理由があるんじゃないかと」
できるかぎりの真摯さをこめて、師匠を見つめる。
「その……出すぎた真似なのはわかってるんですけど、やっぱりお二人には仲良くしてもらいたいというか……」
確かに自分の命の保全も大きな理由の一つではあるが、今の私の言葉に、嘘偽りはないと堂々と言える。それだけ二人は私にとって、大切な存在なのだ。そんな思いをこめた私の言葉に、しかし師匠はなぜか気まずそうに目をそらして、頬をポリポリとかきながら、
「えーっと……ウドンゲ? その、心配してくれるのはありがたいのだけれど……本当にそんな大層な理由があるってわけじゃないのよ」
「……へ?」
「いやね? 私が普段の輝夜の行いを注意したら、永琳はいつもいつも口うるさいなんて言うのよ? まったく、私の大切な試作品を捨てておいて謝りもしないで、こともあろうかそんなに怒ったらしわが増えるだなんて、いくら私が蓬莱人で老けることはないといっても、女に言っていいことじゃないと思わない?」
プンプンと腕を組みながら、愚痴をこぼす師匠。……あれー?
「え……と。それだけですか?」
「それだけですって? 女にとってしわは何よりも重大なことよ。禁句よ。ラストワードよ」
さっきと言っていることが違う師匠。きっとこの柔軟さも、賢者と呼ばれる由縁なのだろう。あまり見習いたくはないが。
ところで、
「その試作品ってそんなに大事なものだったんですか? 一体なにを……」
私も見習いとはいえ、医療の道を志す者の一人である。だから師匠のいう大切な試作品にも自然と興味が向く。
「ああ、『胡蝶夢丸アポカリプスタイプ』の改良品よ。なんだか不評みたいだったから」
「ほう」
「同じ容量で効果は二倍という、純粋な進化系よ」
「おお……」
心なしか誇らしげに、豊かな胸を張る師匠。さすがはわが師。あのままでも十分完成形と呼ぶにふさわしい代物であったが、それに満足せずにさらなる高みを目指していたとは。きっとこの飽くなき向上心も、賢者と呼ばれる由縁なのであろう。この辺りは大いに見習わなければならない。
「マッドな師弟……」
「ん? なんか言った?」
「べっつにー」
なにやら言いたげなてゐだったがこちらの気のせいだったようだ。師匠の医療への姿勢に感激したところで、
「じゃああんまり邪魔するのもなんなんで、この辺で失礼します。研究頑張ってくださいね。あ、あと姫様と仲直り」
「輝夜がちゃんと謝ったらね」
「師匠までそんなこと言うー。絶対ですよ? てゐ、行こ」
「はいよ」
また何やらよくわからない実験に取り組み始めた師匠。私たちが部屋を出ようとすると、ふと実験の手を止めて――
「ふふっ。それにしても輝夜とケンカだなんて、本当に久しぶりだわ」
独り言のようにそう呟きながら、師匠は心底愉快そうに、笑った。
「うーん」
「また変な声出してるし」
師匠と姫様から話を聞き終えた私たちは、中庭が見える縁側に座りながらこれまでの経緯を振り返る。
「一応二人に話は聞いてみたけど、結局わかったことと言えば……」
二人とも嘘をついてる様子はない。だとするとケンカの理由は本当に些細なものだったわけで……。
「つまりは鈴仙の考えすぎかつビビリすぎだったってことね」
「うぐっ」
私のモノローグを読んだかのように、核心を精密射撃するてゐ。私の専売特許をとられてしまった。そしてまさにてゐの言う通りであるので、悔しいことに何も反論できない。
「まあ良かったじゃん。そんな深刻な話ってわけじゃなさそうだし」
「それはそうだけど……あ」
ここにきて一番肝心なことを思い出す。それと同時に立つ鳥肌と耳。
「ん? どしたの?」
「いくら理由が些細なことだったとはいえ、ご飯のときの凍えるようなあの空気は、二人が仲直りするまでずっとあのままなんじゃ……」
「あーそうかもね」
冗談ではない。このままでは何のために動いたのかわからない。もしあの状態がこれ以上続くのなら、近いうちに本当に血を吐いてしまうだろう。医者(仮)の不養生とかそんなレベルではない。
「大丈夫大丈夫。あんたはその程度で潰れるようなヤワな精神してないって。むしろあんたのキャラは逆境でこそ、おいしく面白く発揮される、私はそう信じてるよ」
「そんな信頼感はまったくいらん」
グッと親指を立ててウインクをしながら、私の幸運を祈ってくれるてゐ。その善意を全力で辞退しつつ、これから再び訪れるであろう冬の時代に絶望しながら頭を抱える。
「うう、まだ死にたくないよぅ……」
「あんたはホント大げさだねえ」
「何とでも言いなさいよ……」
「ていうかさ、私思うんだけど」
「あー?」
不意に言葉を切ったてゐのほうに、下がりきったテンションが出させるなげやりな声とともに顔を向けると、
「案外雪解けはもうすぐなんじゃないかな」
そんなことを、ポツリと言った。
「雪解けって……仲直りが近いってこと? なんでよ」
「いや、なんとなく」
「はあ? 何よそれ」
「だからただの勘だって……あ」
「うん?」
「あれ」
てゐが指を差した方向に目を向ける。そこには――
盆栽の世話を終えたらしい姫様と。
実験の休憩か、伸びをしながら歩いてくる師匠が。
「ん?」
「あら」
ついに中庭にて、その危うい均衡を破って正面衝突することとなってしまった。
「……」
「……」
やばい。ある程度距離があるはずなのに、その沈黙が発する冷気で凍えそうだ。そして二人は目をそむけることなく、ただお互いの顔を見つめ続けるのみである。
「あわわわ……ててて、てゐ! あれはまずいって! な、なんとかしないと……!」
狂気の兎の名をかなぐり捨ててパニックに陥る私に、
「落ち着け」
顔面パンチを繰り出すてゐ。まさかのグーである。今度は痛みで私が一人パニック状態になっていると、
「永琳」
「輝夜」
『ごめんね』
二人の言葉が示し合わせたように重なって、静かな中庭に響き渡った。
「いろいろ痛いこと言われてちょっと意地になっちゃったわ。悪いのは薬を捨てた私のほうなのにね。ごめんね、永琳」
「私こそ、たかが薬を捨てられたくらいでくどくどと言い過ぎたわ。ごめんなさい、輝夜」
もう一度二人して謝り合い、そして、
「永琳、私お腹空いちゃったわ」
「そうね。ちょうどいい時間だし、お昼にしましょうか」
いつも通り談笑しながら、二人で居間へ向かっていった。
「……」
「おー、仲直りしたみたいだね。良かった良かった」
「いやいやいや」
余りの急転直下っぷりに、ただ呆然と和やかな雪解けを見守るしかなかった私は、やっとの思いでそれだけ言った。
「何よ。あんたの望みどおりになったってーのに」
「いやいやいやいや、いくらなんでも展開が早すぎるでしょうに」
何だか腰が抜けてしまった。安心感からというよりは、目の前の展開に全然理解が追いついてないのだ。確かに仲直りしてくれたのは嬉しいが、納得が出来ないのはものすごく気持ち悪い。何せ納得は全てに優先すると専らの評判である。
「ま、そんなもんじゃない? けんかが些細なことでいきなり始まるようにさ」
先ほどとは若干意味合いが違う混乱に陥った私にてゐは、
「雪解けもまた、突然なんだよ、きっと」
ピョンと立ち上がって、そんなことを言った。
「はあ……」
いや、確かにそれはそうなのかもしれないが。そんなまとめかたでいいのだろうか。それに、
「うーん……それじゃあなんだか必死こいて体張って動き回った私がバカみたいじゃない」
私が盛大にため息を吐いてゴロンと寝転がると、
「まあまあそう言いなさんな。それにさ、どんな雪解けにも、キッカケは付き物だよ」
てゐはふて腐れた私を見下ろして、そう言いながら笑いかけてくれた。
「……キッカケ? そんなのあった?」
それでもなお、私が釈然としない様子でいると、なぜかてゐも盛大にため息を吐いた。そして笑みから一転、人を小ばかにするような表情を浮かべて、
「アホはホント、褒めがいがないねえ。やれやれ」
何だこの扱い。しかしこの程度、訓練された私にとっては屁でもない。こんな私の成長振りに、かつての師である依姫様も涙をお流しになるだろう。
あ、そうそう。釈然としないといえばもう一つ。
「てゐ」
「んん?」
「あの二人、ケンカしてるっていうのに、なんであんなに楽しそうにしてたんだろ。てゐも気づいてたでしょ?」
「あー。まあね」
話を聞き終わって部屋を出るとき、二人が二人とも、ご飯のときのあの険悪ぶりが嘘のように、とても楽しそうに笑っていたのだ。その意味が、私にはとんと理解できなかった。私の疑問にてゐはう~んと唸って、
「あの二人の関係は私でも良くわかんないからね。これまた勘にすぎないんだけど」
「うんうん」
「永遠を生きる二人にとってはさ、ケンカですら、日常を彩ってくれる出来事なんじゃないかな」
私にとっては負のイメージが付き纏うケンカが、日常を彩る……?
「ええっと。それってケンカするほど仲がいいとか、雨降ってなんとやらとか、そういうこと?」
「う~ん。それって結果論じゃん? 私が言いたいのは、過程そのものを楽しんでるんじゃないかってこと」
「過程を……? あんな険悪な雰囲気になってたのに?」
「それっていつもと、つまり日常と違うってことでしょ? もっと正確に言えばケンカが楽しいんじゃなくて、そんなちょっとした変化が、永い時間を一緒に生きてきたあの二人にとっては、何よりも楽しいことなんじゃないかなって、私は思うわけよ」
ホントのところは全然わかんないけどね――しれっとした顔でそう締めたてゐ。でも、もし本当に、てゐの言ったとおりなのだとしたら――
「ああ――」
永遠という、終わりの見えない時間の中、師匠と姫様はこれまでもずっと一緒で、そしてこれからもきっと、ずっと一緒にいるのだろう。そんな膨大な日常の中に存在する非日常に、二人は宝石のような価値を見出したのかもしれない。ケンカですら宝石にしてしまった、二人の歩んだ永い歴史が紡いだ絆がどこまでも尊くて――そして、
「なんか――いいなあ、そういうの」
ちょっぴり羨ましくなって、我知れずそんな言葉が口をついた。それを聞いてか、てゐはチラッとこちらに目を向け、
「――そうだね」
なぜか嬉しそうに笑いながら、それだけ言った。
さあ待ちに待った平和なお昼時だ。居間に近づくと、食欲をそそるいい匂いが漂っている。今日のお昼ご飯は、久しぶりに師匠が腕を振るってくれたようだ。これは期待値が上がる。凍死の心配をせずにご飯が食べられることを神様に感謝しつつ、ウキウキしながら襖を開ける。そして――
もはや親しい仲になりつつある冷気が、再会を喜ぶように私に抱きついた。
「……」
姫様が、師匠がよそったご飯を、涼しい顔をしながら無言で受け取る。
「……」
姫様の対面に座る彼女が、師匠がよそったご飯を、姫様を睨みつけながら無言で受け取る。
「……」
「あらウドンゲにてゐ、ちょうど良かったわ。お昼が出来たわよ」
「師匠」
「ん? どうしたの?」
「なぜ、藤原妹紅が」
あまりにも唐突な登場に、ポカーンとしているのは私だけじゃないはずだ。私の当然の疑問に、師匠はああ、と頷いて、
「ちょうど襲撃に来たみたいだったからお昼に誘ったのよ」
「なぜ誘うんですか!」
小声で叫ぶという、ヘタレには必須のスキルを駆使して師匠に抗議する。襲撃とお昼ご飯への誘いは、どう考えても因果がつながらない。というかお前も乗るなよ焼き鳥。
「まあいいじゃないたまには。あの子もしばらく何も食べてなかったみたいでお腹空いてるようだし」
私の必死の抗議を笑顔で流しながら、なんだか嬉しそうに私たちの分のご飯をよそう師匠。これも、この修羅場すらも、二人が愛すべき日常の中の非日常だとでもいうのか。私が目の前の光景にめまいを覚えていると、
「いただきます」
「いただきます」
なおも涼しい顔をしながら手を合わせる姫様と、険悪なムードを醸し出しつつも、正座とかしちゃって行儀だけは良い妹紅の声が、綺麗に重なって響く。この絶妙な息の合いっぷり、実は仲良いんじゃないのかこの二人。
そして、後にはカチャカチャと食器と箸がぶつかり合う音がするのみとなった。そんな無機質な音が織り成す旋律によって生み出されたフレンドリーな冷気が、私にハグをする。馴れ馴れしくするな。いや、もうホント勘弁してください。
「てゐ」
「んん?」
「あんたの肝っ玉、少しでいいから分けてくれない?」
「ニンジン五百本でいいよ」
意外と良心的でした。
雪解けの後には、新たな危機と戦いの構造が築き上げられる。
それは人類の闘争の歴史を見れば明らかである。って慧音が言ってた。
師匠が、よそったご飯を無言で姫様に手渡す。
「……」
姫様が、よそわれたご飯を無言で受け取る。
「い、いや~今日のおゆはんもおいしそうですね。い、いただきまーす」
いつもの三割増のテンションで、日々の糧を与えてくれる誰かさんへの感謝を示す。
「いただきます」
「いただきます」
感謝の意など微塵も感じられない声色でそう言い、箸を手にとって食事を始める師匠と姫様。
ダメだ。そろそろ私の寿命がストレスでなんとやらだ。あ、胃痛が……。隣で響くいつも通りのいただきまーすをこれほど恨めしく思ったことはない。
なぜ今、私の胃が危機を迎えているのか。なんてことはない。
ただいま師匠と姫様、大絶賛ケンカ中なのである。
大方のケンカがそうであるように、きっかけ自体は些細なこと。少なくとも周りから見れば。
師匠が開発中だった新薬の試作品を、姫様が間違えて捨ててしまったのだ。
ほら、こんな感じで一行で書けるくらいには些細なことである。
「……」
「……」
なおも無言で食事をとり続ける両名。私とてゐもそれにつられてか、言葉を発することなく黙々と箸を進める。もっとも、てゐの方は至って普段通りであって、この空気を意に介している様子はまったくない。
くっ! 人の気も知らないで……! 静かな食事というものは大変行儀がよろしいのかもしれないが、果たして食事とはここまで緊張感を伴うものであったか。普段はもっとこう、あっとほーむな感じで適度に会話が交わされるので、なおさらこの空気が痛い。
「ごちそうさまでした」
姫様が箸を置き、手を合わせながら食事の終了を告げる。いつもより大分と早いペースだ。姫様が一番に食べ終わるなんて今までにあっただろうか。私がそんなことを考えていると、
「輝夜」
「何」
「まだ残ってるわよ」
これ以上は下がりようがないと思われていた居間の空気が絶対零度の境界を軽々と突破し、いよいよ居間は生命が生存する事すら難しい氷河期を迎える。冬の妖怪や蓬莱人はそれでも死なないのだろうが、私のようなただの月兎にとって、一秒でも長くこの部屋にいることは直ちに命の危機につながるだろう。なぜか隣に座る地上の兎は余裕でこの環境に適応しているようであるが。
「今日は食欲がないの」
顔に優雅な微笑みを浮かべながら、しかし感情のこもらない声で師匠に言う姫様。居間に満ちる一瞬の沈黙。一瞬ならなぜこうも長く感じられるのか。仕事しろ私の感覚、仕事しろ世界の時間……ハッ! もしやこれが姫様の力……!
須臾て凄いな。とろけるほど甘いのかな。自らの限界を超えた思考速度を以て現実逃避を試みる私をよそに、師匠はそんな姫様の言葉を、これまたなんでもないような顔で受け止めながら、
「そう」
ただ一言そう言ったきり、また食事に戻ってしまった。
「じゃあ先に部屋に戻るわね」
姫様もそう言い残して、さっさと居間から出ていってしまった。後に残されたのは、氷河期は脱しつつも依然気まずさの残る空気と、カチャカチャと食器と箸がぶつかる音、そしてどこまでもいつも通りの、おかわりーという鋼の精神を持った地上の兎の声だけである。けっこういっぱい残ったのは気のせいだ。
「あのー……師匠?」
意を決して、黙々と食事を続ける師匠に声をかける。流石にこのまま何も話さないのは空気的にも精神衛生的にもよろしくない。さりげない話題から、あわよくば師匠と姫様の仲直りのきっかけを掴むのだ。できる! 私ならきっとできるよ!
「何」
無理。即座に脳がはじき出した答えがこれである。あまりにもヘタレな方向に優秀な自分の思考回路に情けなくなるが、師匠の光すら飲み込まんばかりの、何も写してないかのような瞳を向けられたら誰だって同じことを思うはずだ。
「えーっと……そのぉ……」
振りかざした拳は引っ込められない。なんとか着地点を見出そうとする私を、なおも感情を一切否定したまなざしで見つめる師匠。視界の端には茶碗を持ち上げたまま、口をもぐもぐと動かしながらにやにやしているてゐ。ああ、なぜ私は変な勇気を振り絞ったんだろう……。
「あー……あ。ひ、姫様の残したおかず、私が食べちゃってもいいですか?」
隣から何かを吹き出す音。視界の端には茶碗を持ち上げたまま、顔を真っ赤にするてゐ。必死に笑いをこらえているのは明らかだ。そして視界の中央では師匠がきょとんとしたかと思うと、ふう、とため息を一つ吐いた。
「食い意地のはった子ねえ。ま、捨てちゃうのももったいないし、好きにしなさい」
そう言いながらあきれたような視線を向けてくる。ああ良かった、いつもの師匠だ。
「ごちそうさま。それじゃあ私も部屋にもどるから、後片付けよろしくね」
自分の分の食器を流しに運んだ師匠が、居間から出て行くのを見計らって、私は畳の上に大の字に倒れこんだ。今は行儀がどうのこうの言っていられる精神状態ではないのである。
「あーもう。なんでご飯食べるのにこんなに疲れるのよ」
「いやー鈴仙も大変だねえ。「チューカンカンリショク」の悲哀ってやつ?」
まったく他人事である。というか私はいつからそんなポジションになったのだ。
「大体、なんであんたはあの空気の中でそんな平気な顔でいられるのよ」
「鈴仙がビビり過ぎなんだよ。たかがケンカじゃん」
あの二人の一触即発の戦いをたかがと言い切るか。どこぞの焼き鳥の通常8を気合避けせんばかりの度胸である。
そんな蛮勇はあいにくと持ち合わせてはいない。
「はぁ、いつまでもこんな調子じゃこっちの身が持たないわよ……」
「だらしがないなあ。ま、そこまで言うならさ、仲直りさせちゃえばいいんだよ」
「仲直りって……どうやって」
「どうにかして」
まったくまったく他人事である。
「それが出来たら苦労しないわよ……。あ、でもほら、一晩寝たら案外二人ともケロッと仲直りしてたりして」
「暢気だねえ。現実逃避も程々にしないと帰ってこれなくなっちゃうよ?」
「主な原因のあんたがそれを言うか」
まあさすがの私もそこまで楽観的ではない。ないのだが、正直に言うとちょっとだけその可能性に期待もしていたのだ。どれだけてゐにバカにされようと、手に負えない事態において神頼みするのは人情というものじゃないだろうか。
結局それから姫様と師匠は一度も顔を合わせないまま、その日は終わりを迎えた。明日こそはおいしくご飯が食べれますように。床に就くとき、割と本気でそう神様に願った。
翌日の朝ごはん。
「……」
師匠が、よそったご飯を無言で姫様に手渡す。
「……」
姫様が、よそわれたご飯を無言で受け取る。
以下の描写は省略する。一人の月兎が凍死しそうになったとだけ言っておこう。
神は死んだ。そんな言葉が頭をよぎった瞬間、いつぞやの蛙の神様に怒られたような気がした。そんな妄想が繰り広げられるあたり、いよいよ私の精神も末期である。
「このままじゃいけない!」
「朝っぱらからうるさいなー」
鬼気迫る勢いで力説する私に、あくびをしながら非難のまなざしを向けてくるてゐ。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。狂気を操る私が発狂したあげく凍死するなど、笑い話にもならない。そうなる前に、早急に策を講ずる必要がある。
「やっぱりあんたの言うとおり、私たちが仲直りさせないと!」
「何気に私を頭数に入れちゃってるね」
ま、面白そうだからいいけど――必要に迫られた私のものからは月と地球ほどにかけ離れた動機を口にするてゐ。その肝っ玉の一割だけでも分けて欲しいものである。きっと法外な値段を吹っかけてくるのだろうが。ニンジン千本とか。
「で、どうするの?」
「とりあえず二人に話を聞こうと思うの。何か仲直りの糸口が掴めるかもしれないし」
「昨日それやろうとして失敗してたじゃん」
「昨日の私とは一味違うわ」
なにせ自分の命がかかっているのである。
「ていうか。気づいてたんなら助けてくれてもいいじゃない」
「次助けてあげるよ、次」
「ホントだからね、約束だからね! これマジだからね!?」
「あーはいはい。約束ウサ」
もうだめかもしれない。そう思わせてくれる、てゐの心強い返答であった。
~輝夜陣営~
「そもそもさ」
「んん?」
「姫様と師匠がケンカをするっていうこと自体がおかしいと思うの」
「何でさ」
「いやだって、基本的に師匠って姫様には甘いし、姫様だって師匠を全面的に信頼してるわけじゃない。そんな二人がケンカだなんて想像できないもの」
姫様が師匠にいたずらしたときも、師匠は笑って許していた。その優しさを少しでもこちらに向けてくれるとありがたいのだが。
「んーそうかなあ?」
私の意見に、しかしてゐは首を傾ける。
「あんたはそうは思わないと」
「だってさー。あの二人ってそれこそずっと一緒にいるわけじゃん? だったらケンカの一つや二つ、なあんにもおかしくないと思うけどね。むしろまったくないって、そっちのほうがおかしいよ」
「あー」
そう言われるとそうかもしれない。でも、
「師匠は薬を捨てられたわけだからまあわからないでもないけど……。姫様が師匠とケンカになるほど怒るっていうのがどうもピンとこないのよね」
破天荒なところもあるが、姫様は根っからのお姫様だ。いつでも余裕の態度を崩さないし、所作一つとってもそこには常に優雅さが伴う。たまにだらしがないときがあるのはご愛嬌だ、多分。
「ふむふむ。つまり鈴仙は、姫様がどんなときに怒るのかが知りたいと」
「へ? あ、うん。そう、なのかな?」
てゐがわが意を得たりという顔をして簡潔に纏めてくれた。何か微妙に、そして致命的に違うような気もするが、多分だいたいあってるので問題はないだろう。ないと、思う。
「よっしゃ、じゃあ久しぶりにあれいってみようか」
「あれ?」
「『絶対に怒らせてはいけない永遠亭24時~姫様編~』」
「うわぁ……」
トラウマがよみがえる。企画の内容は至って簡単。ターゲットがどのくらいのことをされると怒るのかを、いろいろ怒りそうなことを実際にやってみて調べようという、生産性のカケラもないものである。以前師匠に対してこの企画を敢行したのであるが、結果はしょっぱなから私の指がへし折られるという、放送事故以外の何物でもないものであった。得たものといえば、師匠の優しさが詰まった軟膏だけ。それがあっただけでも救いというものである。
そんな私が犠牲になることが前提に置かれたてゐの提案。企画段階で欠陥がある時点で、碌なことにならないのは火を見るよりも明らかだ。
「絶対にヤダ」
「大丈夫だって。お師匠さまならともかく、姫様はそこまでキツイおしおきはしないよ。だから当たって砕けよ、ね?」
「だから何で自分から玉砕しにいかないといけないのよ!」
「まあまあ。これも二人を仲直りさせるために必要なことだよ。鈴仙は自分の指と胃腸、どっちが大切なの?」
「どっちもよ!」
なんだその究極の選択は。とりあえず私の指が犠牲になることはこの企画に折込済みのようである。絶対に通しちゃダメだろこんな危険な企画。私が全力で拒否していると、
「ええい、いやよいやよで通るなら博麗の巫女はいらないのよ! 何かを得るには何かを失うことが必要なときだってあるんだ! 違う!?」
「う……」
てゐが年長者の貫禄を発揮して、ビシッと私に指を突きつけながら一気にまくしたてた。そんなてゐが並べる正論に、私はたじろぐしかなかった。てゐの言うとおり、確かにそれは一つの世界の真理なのかもしれない。そして勘違いしていた。天秤の片側に乗せるのは胃腸ではなく、命なのだ。命が助かるのなら指一本くらいの犠牲をどうして恐れようか。
「あっほら、ちょうどいいところに!」
てゐが指差した方向には、盆栽の世話をなさっている姫様の姿。それを見て、揺るぎなき決意がここに結実する。
「これはチャンス、さあ、突撃だー!」
「ら、らじゃーっ!」
乾坤一擲疾風怒濤。自らを弾丸として、月の姫君のもとへと突っ走る。
「姫様!」
私の覚悟を帯びた呼びかけ。しかしそんな私の決意など気にかける様子も見せずに、姫様は手を止めてゆったりと私のほうへ振り向く。
「あらイナバ。どうしたの?」
「姫様の、あ、あほー」
――瞬間、凍る時間。悪魔に仕えるメイドはきっとこんな世界を見ているのだろう。そんなことを夢想させる、思いもよらない貴重な体験だった。その割には昨日から何度も体験している気もするが、もはやどうでもいい。
「……」
「……」
振り向いたときのままの表情で固まる姫様。
もはや自分が今何をして、そしてこれから何をすべきなのか、それらを一切合財見失った哀れな月兎。
止まってしまった世界を動かしたのは、時間を操るメイド長ではなく、
「ええと、イナバ? 今のはいったい……」
「あ、いや、これはその、ですね……」
「なんだかとても失礼なことを言われたような気がするんだけど……」
「すみませんすみませんすみません! 悪気はなかったんです! いやホントに!」
平謝りするしかなかった。姫様は私のそんな様子に、怪訝な顔をして首を傾けるのみ。そして目には見えねども、てゐが盛大にため息を吐いて呆れているのがわかる。
アホはあんただ──私の謝罪が永遠亭にこだまする中、そんなてゐの言葉がいやにはっきりと耳に残った。うるさいやい。
「つまり、私がどんなときに怒るのか知りたかったと」
「はい……」
姫様の自室にて、正座をしながら私の奇行(自分で言うと悲しくなる)の真意を告げる。
「前から思ってたけど、あなたはもう少し冷静に行動したほうがいいと思うわ。イナバったら流されすぎ」
「うう、返す言葉もありません」
なせこうも私のテンションは場の空気に影響されてしまうのか。アグレッシブ過ぎだろう数分前の私。幸い指は失わなかったが、代わりにいろいろ大切なものを失ってしまったのは間違いない。
「そうだよ鈴仙。反省しなきゃね」
「でもまあ、そこが面白いところなのだけれど。見ていて飽きないわ。ね? イナバ」
「ねー」
お前が言うな。私の正当なツッコミは、しかし和やかに談笑するてゐと姫様の前には意味をなさないだろう。理不尽ここに極まり、だ。
「それで、なんでそんなことが知りたかったのかしら?」
かわいく首を傾けて肝心なことを尋ねてくる姫様。気を悪くした様子はなく、純粋に興味で聞いているようだ。それどころか、どこか楽しげにも見える。そんな姫様の様子を見て安心した私は、
「──師匠とケンカした原因を、知りたかったんです」
一気に核心を突いていった。その言葉を聞いた姫様は、一瞬目を丸くしたかと思うと、
「あら、まだ知らなかった? 私が薬を捨てちゃったから怒ったのよ、永琳が」
すぐに穏やかな笑みを浮かべながら言った。それはきっと永遠亭中に広まっている理由だ。私が聞きたいのはそういうことではない。
「それはもう聞いてます。でもそれじゃあ姫様が怒る理由がわからないというか……」
そう。これはケンカである。師匠が一方的に怒っているのではない。だから姫様にも、師匠に対して怒る理由があるはずなのだ。姫様は私の疑問に納得したのか、ああ、と声をあげて、
「そうなのよー。永琳たらちょっと私が間違えて薬捨てちゃっただけなのに、やれ輝夜は注意力が足りないだの、普段からもっとしっかりしなさいだの説教するの。いくら教育係とはいえ、あそこまで言わなくてもいいのに。ひどいと思わない?」
ぷんすかと腰に手を当てて頬を膨らます姫様。……あれー?
「えー……と。それだけですか……?」
「ま、それだけとは失礼しちゃうわね」
そう言いながらむう、と私を睨んでくる。しかしそんな仕草にすら愛嬌があるあたり、流石である。
「そう、ですか。なるほどよくわかりました。早く仲直りしてくださいね」
「永琳が謝ったらね」
「もう……。じゃあこの辺で失礼します。てゐ、行くわよ」
「へいへーい」
姫様の御前だというのに、寝っ転がって話を聞いていたてゐとともにその場を辞そうとすると、不意に姫様が袖で口元を隠しながらふふっと、笑った。そして──
「それにしても、永琳とケンカなんてどれくらいぶりかしら」
この状況を心から楽しむように、誰に向けるでもなくそう言った。
~永琳陣営~
「うーん」
「何よ、変な声出して」
「いや、なんか想像していたのと違って」
「んん?」
「あの二人がケンカだなんていうからもっとこう、深刻な理由なのかと」
しかし姫様の様子を見る限り、そんな理由は微塵も見受けられない。ぶっちゃけ些細にもほどがある。
「だから言ったじゃん。ビビりすぎだって」
「うっ。いや、でも師匠の方はわからないわよ? 実は姫様も気づいてない大きな理由が……」
「どーかなー」
まったく私の予想に同意することなく、頭の後ろで手を組みながらつまらなさそうに答えるてゐ。
あ、こいつ飽き始めてるな。
「とにかく師匠にも話を聞いてみよう。今度こそ何かわかるかもしれないし」
「じゃあ『第二回絶対に怒らせてはいけない』……」
「それはもういい」
いくらなんでも私だって反省はするし学習もする。これ以上この無茶な企画を続ければ、今度こそ何かを失うだろう。身体的な意味で。ちっ、というてゐの舌打ちを聞き届け、てゐが完全に飽きないうちに事態の収拾を図ることを、改めて決意する私であった。こんなパートナーでも、一人と二人では大違いなのである。ヘタレ上等だこんちくしょう。
「輝夜とケンカした理由?」
師匠の実験室を訪れた私たちは、早々に本題を切り出した。師匠相手に回りくどい手は無意味なのだ。いきなりの私の質問に師匠はふう、とため息を吐いて、
「ごめんなさいね。変な気を遣わせてしまって」
あごに手を当てて苦笑しながらそう言った。
「いえ、そんなこと。それより」
「ケンカの理由ね。そんなこと、もうあなたも知ってるんじゃない?」
「私は本当の理由が聞きたいんです。師匠と姫様がケンカだなんて、何かよっぽどの理由があるんじゃないかと」
できるかぎりの真摯さをこめて、師匠を見つめる。
「その……出すぎた真似なのはわかってるんですけど、やっぱりお二人には仲良くしてもらいたいというか……」
確かに自分の命の保全も大きな理由の一つではあるが、今の私の言葉に、嘘偽りはないと堂々と言える。それだけ二人は私にとって、大切な存在なのだ。そんな思いをこめた私の言葉に、しかし師匠はなぜか気まずそうに目をそらして、頬をポリポリとかきながら、
「えーっと……ウドンゲ? その、心配してくれるのはありがたいのだけれど……本当にそんな大層な理由があるってわけじゃないのよ」
「……へ?」
「いやね? 私が普段の輝夜の行いを注意したら、永琳はいつもいつも口うるさいなんて言うのよ? まったく、私の大切な試作品を捨てておいて謝りもしないで、こともあろうかそんなに怒ったらしわが増えるだなんて、いくら私が蓬莱人で老けることはないといっても、女に言っていいことじゃないと思わない?」
プンプンと腕を組みながら、愚痴をこぼす師匠。……あれー?
「え……と。それだけですか?」
「それだけですって? 女にとってしわは何よりも重大なことよ。禁句よ。ラストワードよ」
さっきと言っていることが違う師匠。きっとこの柔軟さも、賢者と呼ばれる由縁なのだろう。あまり見習いたくはないが。
ところで、
「その試作品ってそんなに大事なものだったんですか? 一体なにを……」
私も見習いとはいえ、医療の道を志す者の一人である。だから師匠のいう大切な試作品にも自然と興味が向く。
「ああ、『胡蝶夢丸アポカリプスタイプ』の改良品よ。なんだか不評みたいだったから」
「ほう」
「同じ容量で効果は二倍という、純粋な進化系よ」
「おお……」
心なしか誇らしげに、豊かな胸を張る師匠。さすがはわが師。あのままでも十分完成形と呼ぶにふさわしい代物であったが、それに満足せずにさらなる高みを目指していたとは。きっとこの飽くなき向上心も、賢者と呼ばれる由縁なのであろう。この辺りは大いに見習わなければならない。
「マッドな師弟……」
「ん? なんか言った?」
「べっつにー」
なにやら言いたげなてゐだったがこちらの気のせいだったようだ。師匠の医療への姿勢に感激したところで、
「じゃああんまり邪魔するのもなんなんで、この辺で失礼します。研究頑張ってくださいね。あ、あと姫様と仲直り」
「輝夜がちゃんと謝ったらね」
「師匠までそんなこと言うー。絶対ですよ? てゐ、行こ」
「はいよ」
また何やらよくわからない実験に取り組み始めた師匠。私たちが部屋を出ようとすると、ふと実験の手を止めて――
「ふふっ。それにしても輝夜とケンカだなんて、本当に久しぶりだわ」
独り言のようにそう呟きながら、師匠は心底愉快そうに、笑った。
「うーん」
「また変な声出してるし」
師匠と姫様から話を聞き終えた私たちは、中庭が見える縁側に座りながらこれまでの経緯を振り返る。
「一応二人に話は聞いてみたけど、結局わかったことと言えば……」
二人とも嘘をついてる様子はない。だとするとケンカの理由は本当に些細なものだったわけで……。
「つまりは鈴仙の考えすぎかつビビリすぎだったってことね」
「うぐっ」
私のモノローグを読んだかのように、核心を精密射撃するてゐ。私の専売特許をとられてしまった。そしてまさにてゐの言う通りであるので、悔しいことに何も反論できない。
「まあ良かったじゃん。そんな深刻な話ってわけじゃなさそうだし」
「それはそうだけど……あ」
ここにきて一番肝心なことを思い出す。それと同時に立つ鳥肌と耳。
「ん? どしたの?」
「いくら理由が些細なことだったとはいえ、ご飯のときの凍えるようなあの空気は、二人が仲直りするまでずっとあのままなんじゃ……」
「あーそうかもね」
冗談ではない。このままでは何のために動いたのかわからない。もしあの状態がこれ以上続くのなら、近いうちに本当に血を吐いてしまうだろう。医者(仮)の不養生とかそんなレベルではない。
「大丈夫大丈夫。あんたはその程度で潰れるようなヤワな精神してないって。むしろあんたのキャラは逆境でこそ、おいしく面白く発揮される、私はそう信じてるよ」
「そんな信頼感はまったくいらん」
グッと親指を立ててウインクをしながら、私の幸運を祈ってくれるてゐ。その善意を全力で辞退しつつ、これから再び訪れるであろう冬の時代に絶望しながら頭を抱える。
「うう、まだ死にたくないよぅ……」
「あんたはホント大げさだねえ」
「何とでも言いなさいよ……」
「ていうかさ、私思うんだけど」
「あー?」
不意に言葉を切ったてゐのほうに、下がりきったテンションが出させるなげやりな声とともに顔を向けると、
「案外雪解けはもうすぐなんじゃないかな」
そんなことを、ポツリと言った。
「雪解けって……仲直りが近いってこと? なんでよ」
「いや、なんとなく」
「はあ? 何よそれ」
「だからただの勘だって……あ」
「うん?」
「あれ」
てゐが指を差した方向に目を向ける。そこには――
盆栽の世話を終えたらしい姫様と。
実験の休憩か、伸びをしながら歩いてくる師匠が。
「ん?」
「あら」
ついに中庭にて、その危うい均衡を破って正面衝突することとなってしまった。
「……」
「……」
やばい。ある程度距離があるはずなのに、その沈黙が発する冷気で凍えそうだ。そして二人は目をそむけることなく、ただお互いの顔を見つめ続けるのみである。
「あわわわ……ててて、てゐ! あれはまずいって! な、なんとかしないと……!」
狂気の兎の名をかなぐり捨ててパニックに陥る私に、
「落ち着け」
顔面パンチを繰り出すてゐ。まさかのグーである。今度は痛みで私が一人パニック状態になっていると、
「永琳」
「輝夜」
『ごめんね』
二人の言葉が示し合わせたように重なって、静かな中庭に響き渡った。
「いろいろ痛いこと言われてちょっと意地になっちゃったわ。悪いのは薬を捨てた私のほうなのにね。ごめんね、永琳」
「私こそ、たかが薬を捨てられたくらいでくどくどと言い過ぎたわ。ごめんなさい、輝夜」
もう一度二人して謝り合い、そして、
「永琳、私お腹空いちゃったわ」
「そうね。ちょうどいい時間だし、お昼にしましょうか」
いつも通り談笑しながら、二人で居間へ向かっていった。
「……」
「おー、仲直りしたみたいだね。良かった良かった」
「いやいやいや」
余りの急転直下っぷりに、ただ呆然と和やかな雪解けを見守るしかなかった私は、やっとの思いでそれだけ言った。
「何よ。あんたの望みどおりになったってーのに」
「いやいやいやいや、いくらなんでも展開が早すぎるでしょうに」
何だか腰が抜けてしまった。安心感からというよりは、目の前の展開に全然理解が追いついてないのだ。確かに仲直りしてくれたのは嬉しいが、納得が出来ないのはものすごく気持ち悪い。何せ納得は全てに優先すると専らの評判である。
「ま、そんなもんじゃない? けんかが些細なことでいきなり始まるようにさ」
先ほどとは若干意味合いが違う混乱に陥った私にてゐは、
「雪解けもまた、突然なんだよ、きっと」
ピョンと立ち上がって、そんなことを言った。
「はあ……」
いや、確かにそれはそうなのかもしれないが。そんなまとめかたでいいのだろうか。それに、
「うーん……それじゃあなんだか必死こいて体張って動き回った私がバカみたいじゃない」
私が盛大にため息を吐いてゴロンと寝転がると、
「まあまあそう言いなさんな。それにさ、どんな雪解けにも、キッカケは付き物だよ」
てゐはふて腐れた私を見下ろして、そう言いながら笑いかけてくれた。
「……キッカケ? そんなのあった?」
それでもなお、私が釈然としない様子でいると、なぜかてゐも盛大にため息を吐いた。そして笑みから一転、人を小ばかにするような表情を浮かべて、
「アホはホント、褒めがいがないねえ。やれやれ」
何だこの扱い。しかしこの程度、訓練された私にとっては屁でもない。こんな私の成長振りに、かつての師である依姫様も涙をお流しになるだろう。
あ、そうそう。釈然としないといえばもう一つ。
「てゐ」
「んん?」
「あの二人、ケンカしてるっていうのに、なんであんなに楽しそうにしてたんだろ。てゐも気づいてたでしょ?」
「あー。まあね」
話を聞き終わって部屋を出るとき、二人が二人とも、ご飯のときのあの険悪ぶりが嘘のように、とても楽しそうに笑っていたのだ。その意味が、私にはとんと理解できなかった。私の疑問にてゐはう~んと唸って、
「あの二人の関係は私でも良くわかんないからね。これまた勘にすぎないんだけど」
「うんうん」
「永遠を生きる二人にとってはさ、ケンカですら、日常を彩ってくれる出来事なんじゃないかな」
私にとっては負のイメージが付き纏うケンカが、日常を彩る……?
「ええっと。それってケンカするほど仲がいいとか、雨降ってなんとやらとか、そういうこと?」
「う~ん。それって結果論じゃん? 私が言いたいのは、過程そのものを楽しんでるんじゃないかってこと」
「過程を……? あんな険悪な雰囲気になってたのに?」
「それっていつもと、つまり日常と違うってことでしょ? もっと正確に言えばケンカが楽しいんじゃなくて、そんなちょっとした変化が、永い時間を一緒に生きてきたあの二人にとっては、何よりも楽しいことなんじゃないかなって、私は思うわけよ」
ホントのところは全然わかんないけどね――しれっとした顔でそう締めたてゐ。でも、もし本当に、てゐの言ったとおりなのだとしたら――
「ああ――」
永遠という、終わりの見えない時間の中、師匠と姫様はこれまでもずっと一緒で、そしてこれからもきっと、ずっと一緒にいるのだろう。そんな膨大な日常の中に存在する非日常に、二人は宝石のような価値を見出したのかもしれない。ケンカですら宝石にしてしまった、二人の歩んだ永い歴史が紡いだ絆がどこまでも尊くて――そして、
「なんか――いいなあ、そういうの」
ちょっぴり羨ましくなって、我知れずそんな言葉が口をついた。それを聞いてか、てゐはチラッとこちらに目を向け、
「――そうだね」
なぜか嬉しそうに笑いながら、それだけ言った。
さあ待ちに待った平和なお昼時だ。居間に近づくと、食欲をそそるいい匂いが漂っている。今日のお昼ご飯は、久しぶりに師匠が腕を振るってくれたようだ。これは期待値が上がる。凍死の心配をせずにご飯が食べられることを神様に感謝しつつ、ウキウキしながら襖を開ける。そして――
もはや親しい仲になりつつある冷気が、再会を喜ぶように私に抱きついた。
「……」
姫様が、師匠がよそったご飯を、涼しい顔をしながら無言で受け取る。
「……」
姫様の対面に座る彼女が、師匠がよそったご飯を、姫様を睨みつけながら無言で受け取る。
「……」
「あらウドンゲにてゐ、ちょうど良かったわ。お昼が出来たわよ」
「師匠」
「ん? どうしたの?」
「なぜ、藤原妹紅が」
あまりにも唐突な登場に、ポカーンとしているのは私だけじゃないはずだ。私の当然の疑問に、師匠はああ、と頷いて、
「ちょうど襲撃に来たみたいだったからお昼に誘ったのよ」
「なぜ誘うんですか!」
小声で叫ぶという、ヘタレには必須のスキルを駆使して師匠に抗議する。襲撃とお昼ご飯への誘いは、どう考えても因果がつながらない。というかお前も乗るなよ焼き鳥。
「まあいいじゃないたまには。あの子もしばらく何も食べてなかったみたいでお腹空いてるようだし」
私の必死の抗議を笑顔で流しながら、なんだか嬉しそうに私たちの分のご飯をよそう師匠。これも、この修羅場すらも、二人が愛すべき日常の中の非日常だとでもいうのか。私が目の前の光景にめまいを覚えていると、
「いただきます」
「いただきます」
なおも涼しい顔をしながら手を合わせる姫様と、険悪なムードを醸し出しつつも、正座とかしちゃって行儀だけは良い妹紅の声が、綺麗に重なって響く。この絶妙な息の合いっぷり、実は仲良いんじゃないのかこの二人。
そして、後にはカチャカチャと食器と箸がぶつかり合う音がするのみとなった。そんな無機質な音が織り成す旋律によって生み出されたフレンドリーな冷気が、私にハグをする。馴れ馴れしくするな。いや、もうホント勘弁してください。
「てゐ」
「んん?」
「あんたの肝っ玉、少しでいいから分けてくれない?」
「ニンジン五百本でいいよ」
意外と良心的でした。
雪解けの後には、新たな危機と戦いの構造が築き上げられる。
それは人類の闘争の歴史を見れば明らかである。って慧音が言ってた。
……うん、何言ってんだろ自分。
こういう永琳と輝夜の関係大好きです。
ほのぼのでいい永遠亭でした
うるさいやいが個人的にツボった
うどんげかわいいようどんげ
喧嘩もまた日常を彩る華、まるで江戸っ子みたいですね!
こんな永遠亭で自分も暮らしたい。
ところで、鈴仙の「自らを弾丸として」ってのは、前作を意識した表現でしょうか?
だとしたら遊び心が効いていて素敵ですね。
てゐ自身、神代からの永い時間を過ごしているだけあって
蓬莱人二人の考えてることも少しは理解できるのてしょうね
実際の図を想像して悶えた
うどんげがかわい(そう)すぎてうどんが美味い
登場人物が皆可愛いのにここまで笑える作品になるなんて、本当に凄いです。
…姫様の、あ、あほー。