地底の空は、広そうに見えた。
想像していたより高く、また遠くまで、色が続いている。
その色は緑がかった白に近く、黄色のようで、黄色ではない。眩んだ目で部屋の隅を眺めたりすれば、この光景を思い出すだろうか。
「飛鳥がいないのは、冥界と一緒だわね」
隅から、声がかけられた。窓辺に腰かけていた妖夢は、枕を友にして酒を飲んでいる紫に、顔を向けた。
普段の格好ではくつろぐのに向かないとかで、薄手ではあるが、珍しく着物を着込んでいる。こういうとき以外だと、最初から西行寺邸に泊まるつもりで、酒を飲むときぐらいか。
こういうとき、というのは、そうあるものでもない。
妖夢が紫と旅行に来たのは、初めてだった。
元々が、身一つで遊び回るのが生き甲斐みたいな人で、さもなければ誰かを旅立たせて楽しむような趣味の悪い人で、こういうことは滅多に無いはずだった。
話に聞く限りでは、博麗神社の霊夢と一緒に竹林を荒らした、一例のみ。
数百年単位でなら他にも例があるのかもしれないが、とても付き合い切れるものではない。
紫が西行寺邸を訪れたのは、昨日のことになる。
「用心棒、貸してくださいな」
「はい、どうぞ」
という、幽々子とのやり取りだけで、旅立ちが決した。
地底での異変のことは妖夢も聞いていたが、どうして今更、それも用心棒なんて立ててまで、行く必要があるのか。拒否することは端から考えなかった。
「霊夢に頼んだら、地底の妖怪が怖いのだと思われて、癪じゃないの」
そういう思考だけは明快だった。
旅装を整えながら聞いた所では、他にも色々と事情はあるらしい。
自分一人で行くとなると、いくら力が強い妖怪といえども、最低限の用心はする。しかしそれ故に、かえって周りを刺激してしまうのだった。
「そこいくと、妖夢はどこをどうしても半人前でしょ? 全部お任せして、私はのんびりできるわ」
「私を刺激して楽しいですか」
「失礼ね。楽しくないことをするような風に見える?」
「おっと、手が滑ってトランクの角が紫様の踝に」
悶絶している紫を尻目に旅装を整え終わると、すぐに出発した。
「踝って、足の果と書くのよね。フェティッシュだわ」
「字が出来た頃にはまだそんな困った概念は無かったと思いますよ」
馬鹿話をしている間に、地底に着いた。
地底へと続く穴に入った直後、スキマに入れられたので、実際、どれだけ潜ったものか知れない。
宿というよか貸家みたいな所が既に用意されていた。ずっと昔、紫が地底の妖怪との調整役をしていた頃に、閻魔から褒美名義で押し付けられた建物だという。
この二人の関係は妖夢にも推し量れないのだが、そのときは、褒美はやったのだから余計なことをするな、という意味合いが強かったらしい。
「そういえば、今回の異変については、閻魔様はどのように思っているのでしょう」
「仏ほっとけ神構うな」
「まさか」
紫は言葉を続けず、衡宇も無い簡素な門に貼られた札を、裂いた。一種の結界だったのだろう。一瞬、冷たくもねっとりした空気が、鼻頭を撫でた。
そういえば、地底というのはこんなにも暖かいものか。元から灼熱地獄はあったにしても、やはりエネルギー革命とやらの影響が大きいのだろう。
建物のそこかしこに明かり入れがあって、紫もちらりと気にしては、まあいいかと奥へ進んで行った。
建物は五部屋、別荘としては手ごろな広さの平屋だった。
結界のおかげか全く朽ちておらず、ついさっきまで酔っ払いが寝ていて、慌てて出て行ったような、そんな生活感があった。
「その比喩には悪意が感じられるわ」
「布団と酒を放ったままにしておいてよく言えますね」
座敷奥の寝室は、布団は敷いたまま、酒は盃にあり、窓まで開け放してあった。
「気になったのなら片付けてちょうだい」
「あなたが気にしてください」
式神の藍には留守番をさせているとかで、同行していない。出発のときの理屈が正しいなら、力が強過ぎるのだろう。
妖夢個人は、旅行先でまで世話役を連れてきたくなかったのでは、と考えた。
紫は手荷物を座敷の隅に置くや、布団に寝転がってしまった。未だに腐っていなかった酒を口に運んでは、座敷や縁側を見て、目を細めた。
妖夢も最初こそ手持無沙汰そうに建物の中を歩き回っていたが、結局は寝室に落ち着いた。
そんな姿が、今日もある。
仕事といえば食事の用意ぐらい。妖夢が時刻を思い出しかけた頃、紫は盃を置いて、布団から出た。
「お昼は外で食べましょうか」
「そうしていただけると助かります。いくら大丈夫とはいえ、何年も放っておかれた食材を使って料理をするのは、気味が悪いのです」
「年々菜々、腹相下し」
紫が頓珍漢なことを言って、髪に櫛を通す。
小一時間もすると支度が終わり、二人は外に出た。
灰色がかった空気の中に、灯りが浮かぶ。――地霊だ。
空よりも地面の方に暗い場所が多いのは、ここの太陽が上からではなく下から照らしているからだ。上に行けば行くだけ、遮蔽物の影響を受けない。
そんな暗い場所を好んで、地霊達は寄っていた。
「おや、羊肉を扱っているわ。あそこにしましょう」
妖夢に微笑んで、紫は店に入った。遅れて、妖夢も続く。
店は目抜き通りの中程にあって、座敷が座屏で仕切られていた。肉の焼ける匂いと、若干の焦げ臭さの中に、ぽつぽつと客が入っている。
大入りというのではないが、昼には少し早いはずの時間に人が絶えないのだから、賑わっていると言える。
紫は二名分の内訳を店員任せにして注文を終えると、煙管を咥えた。胸元を片手で摘みながら、足を崩して、煙を吐く。
妖夢が横に置いた刀を店員は気にしたようだったが、特に何も言わず、退けていった。
「やっぱり、妖夢の方に目が行くようね」
「私より、太刀にだと思うのです」
「半霊の方かもしれないわよ?」
煙を吹いた先で、半霊が頭らしき辺りを振った。煙たかったようだ。
じきに鍋が運ばれてきて、ジンギスカンとなった。
それからは盃の方を紫は手にしていた。
粗方、片付いた頃に、紫は言った。
「冥界とこちらと、妖夢はどちらが住み良いかしら?」
「冥界です」
「それは、好みの問題かしら? それとも、種族としてかしら?」
「どちらもだと思います。何より、あそこに私がいなければ、誰が庭の手入れをするのだろうか。そう考えてしまうのです」
「たまには伸ばすだけ伸ばさせてやれば良いのよ」
「……そうですね、たまには、良いでしょう」
口ではそう言いながら、わだかまりのようなものが残った。
妖夢は紫に注がれたままになっていた自分の盃を取ると、舐める程度に飲んだ。
「私に詩文を嗜むような才能は無いのですが、学んではおります」
「うん」
「陶氏の詩に、――既に自ら心を以て形(からだ)の役と為しつつ、奚(なに)ゆえに惆(おも)い悵(むすぼ)れつつ独り悲しむや、とあります」
「帰去来の辞だわね」
「はい。惆も悵も、心のわだかまりです。心のままに生きられないというのは、斯様に苦しいものなのでしょうか」
「自分に心があると思う限り、何だって苦しいわ」
「では、本来は無いものなのでしょうか。無いものをあると思うから、無理をきたすのでしょうか」
「無いものをあるという者もあれば、あるものを無いという者もあるわね」
「――私にはあるのでしょうか?」
「その問いの中に真意があるわね」
「……詮無いことでした」
やはり、浅学の身で言うことでもないのだろう。舌で前歯の裏をなぞる。そんな妖夢の手元に、紫は酒を注ぎ足した。
「気にしないでちょうだい、楽しかったわよ。藍なんてこの手の問答、やり尽くしちゃっていて、全然言わないもの。計算が好きになったのも、その所為じゃない?」
「紫様の所為じゃないですか?」
「あはは、そう思う?」
「それは、そうですよ」
紫の笑う影が映る、背後の座屏。
そこを何者かの腕が貫くのと、そこに妖夢が刀を突き入れるのとでは、後の方が早かった。
手応えを得るや、刀を返す。肉が広がるのに合わせ、座屏を蹴り、血しぶきごと相手を弾き飛ばした。
「あなたって刀のことになると、精密なのね」
「そうですか」
言った傍から、今度は妖夢めがけて、背後から飛びかかってくるものがいた。逡巡もせず、血が滴る太刀を振るう。
太刀はまたしても肉に突き入り、相手の重さを利用して、横に投げ捨てる。刀が肉から抜ける際に、白刃を滑らせれば、体の片側に切れ目が入った。やはり返り血は無い。
片手に刀を構え直せば、そこからは血が蒸発する臭いと共に、紫雲のようなものが上がり始めていた。
「やはり地下の妖怪は毒気が強いわね」
「羊を裂くようにはいきません」
話しながら、紫は何やらさらさらと筆を走らせていて、紙にはメニュー表を使い、墨にはそこら辺に転がっていた内臓の血を使っていた。
「お店の方、これを」
書き終わったものを、戦々恐々としていた店員に渡す。紫は腰を上げ、妖夢と共に店を出た。
「何だったのですか?」
「書面なら、迷惑料と代金についてだわ」
紫が血に塗れた筆をふうっと吹き付けると、手品みたいに血が取れた。それを懐中にしまって、紫は歩き続ける。
「もちろん、請求先は閻魔の所よ」
「どうして?」
「……とりあえず、お風呂にでも行きましょう。早く刀をしまいなさい」
妖夢は用心のために抜いていたのだが、血もすっかり失せていたので、言われた通りにする。
紫は銭湯に着くと慣れた様子で二人分の金を払って、服を脱ぎ始めた。髪を結い上げるのも早く、妖夢は太刀を頭の上に紐で括って、奥に入った。
「源の某じゃないのだから、お風呂のときぐらい、置いて来なさいな」
「さっきの件が無ければ、私もそうしたかもしれません」
風呂は柵に囲まれた露天になっていて、居心地は良かった。お湯も、温泉なのだろう。酒色を帯びた顔が、今度は汗で濡れ始めた。
「元はと言えば、藍が、あのお札のことを気にしたのが悪いのよ」
「札……ああ、門に貼ってあったやつですね」
「そう、あの札、そろそろ力が無くなる頃で、あの子ったら、そんなこと一々覚えてるんだもの。やんなっちゃう」
そんな折も折、それなりに地底のことは気にかけていた閻魔が、巫女任せにしないで自分でもちゃんと様子を見てくるよう、紫に書面で伝えてきたという。
さっきの連中みたいなのは、普段からああいう性質の悪いことをしているのだろう。いくら地上とやり取りできるようになっても、地底は地底、目の届かない所にいくらでもああいうのが湧くらしい。
「札のことさえ無ければ、知らばっくれたのに」
「それは知らばっくれるというか、単に投げっぱなしてるだけです」
「ふん、良いじゃないのさ。久々に、大立ち回りが出来たでしょうに。あれは不可抗力なのだから、説教分には数えられないわよ」
「説教されるかされないかで、斬る斬らないを決めませんよ……」
駄々のこねかたは幽々子と大差が無い。こちらがちょっと空の方を眺めた隙に、どこからか酒を取り出して、飲み始めていた。
「そんなに邪険にするなら、何で斬ったのかしら」
「……紫様を守るためですよ。ほら、用心棒ですから」
「ああ、そういえばそうだったわね」
やはり、忘れていたらしい。挨拶代わりに冗談を言う癖は止めてもらいたい。
膨れっ面をしていると、紫から盃を渡されたので、素直に飲む。
「それなりに騒ぎになってるでしょうし、お風呂上がったら、別荘に戻りましょうか。帰るのは、明日の朝にしましょうよ」
「良いですよ。その代わりと言っては何ですが、今日はずっと、問答でもしてくださいよ。お酒でも飲みながら」
「あら、新しい関係性を築けたかしら?」
「ええ、紫様や幽々子様みたいな方々に、まともな答えを期待しても無駄なんですね。ですから、まともに答えが出ないことばかり聞いてれば、お二方のような性格でも、世のため人のためになるんです」
「心ないことを言うわね」
盃を傾けて、紫は空を仰いだ。妖夢は、悠然として、柵の上端を見た。その先に、空があった。
たまになら、またここに来たい。
その言葉は、呑み込んでおくことにした。
想像していたより高く、また遠くまで、色が続いている。
その色は緑がかった白に近く、黄色のようで、黄色ではない。眩んだ目で部屋の隅を眺めたりすれば、この光景を思い出すだろうか。
「飛鳥がいないのは、冥界と一緒だわね」
隅から、声がかけられた。窓辺に腰かけていた妖夢は、枕を友にして酒を飲んでいる紫に、顔を向けた。
普段の格好ではくつろぐのに向かないとかで、薄手ではあるが、珍しく着物を着込んでいる。こういうとき以外だと、最初から西行寺邸に泊まるつもりで、酒を飲むときぐらいか。
こういうとき、というのは、そうあるものでもない。
妖夢が紫と旅行に来たのは、初めてだった。
元々が、身一つで遊び回るのが生き甲斐みたいな人で、さもなければ誰かを旅立たせて楽しむような趣味の悪い人で、こういうことは滅多に無いはずだった。
話に聞く限りでは、博麗神社の霊夢と一緒に竹林を荒らした、一例のみ。
数百年単位でなら他にも例があるのかもしれないが、とても付き合い切れるものではない。
紫が西行寺邸を訪れたのは、昨日のことになる。
「用心棒、貸してくださいな」
「はい、どうぞ」
という、幽々子とのやり取りだけで、旅立ちが決した。
地底での異変のことは妖夢も聞いていたが、どうして今更、それも用心棒なんて立ててまで、行く必要があるのか。拒否することは端から考えなかった。
「霊夢に頼んだら、地底の妖怪が怖いのだと思われて、癪じゃないの」
そういう思考だけは明快だった。
旅装を整えながら聞いた所では、他にも色々と事情はあるらしい。
自分一人で行くとなると、いくら力が強い妖怪といえども、最低限の用心はする。しかしそれ故に、かえって周りを刺激してしまうのだった。
「そこいくと、妖夢はどこをどうしても半人前でしょ? 全部お任せして、私はのんびりできるわ」
「私を刺激して楽しいですか」
「失礼ね。楽しくないことをするような風に見える?」
「おっと、手が滑ってトランクの角が紫様の踝に」
悶絶している紫を尻目に旅装を整え終わると、すぐに出発した。
「踝って、足の果と書くのよね。フェティッシュだわ」
「字が出来た頃にはまだそんな困った概念は無かったと思いますよ」
馬鹿話をしている間に、地底に着いた。
地底へと続く穴に入った直後、スキマに入れられたので、実際、どれだけ潜ったものか知れない。
宿というよか貸家みたいな所が既に用意されていた。ずっと昔、紫が地底の妖怪との調整役をしていた頃に、閻魔から褒美名義で押し付けられた建物だという。
この二人の関係は妖夢にも推し量れないのだが、そのときは、褒美はやったのだから余計なことをするな、という意味合いが強かったらしい。
「そういえば、今回の異変については、閻魔様はどのように思っているのでしょう」
「仏ほっとけ神構うな」
「まさか」
紫は言葉を続けず、衡宇も無い簡素な門に貼られた札を、裂いた。一種の結界だったのだろう。一瞬、冷たくもねっとりした空気が、鼻頭を撫でた。
そういえば、地底というのはこんなにも暖かいものか。元から灼熱地獄はあったにしても、やはりエネルギー革命とやらの影響が大きいのだろう。
建物のそこかしこに明かり入れがあって、紫もちらりと気にしては、まあいいかと奥へ進んで行った。
建物は五部屋、別荘としては手ごろな広さの平屋だった。
結界のおかげか全く朽ちておらず、ついさっきまで酔っ払いが寝ていて、慌てて出て行ったような、そんな生活感があった。
「その比喩には悪意が感じられるわ」
「布団と酒を放ったままにしておいてよく言えますね」
座敷奥の寝室は、布団は敷いたまま、酒は盃にあり、窓まで開け放してあった。
「気になったのなら片付けてちょうだい」
「あなたが気にしてください」
式神の藍には留守番をさせているとかで、同行していない。出発のときの理屈が正しいなら、力が強過ぎるのだろう。
妖夢個人は、旅行先でまで世話役を連れてきたくなかったのでは、と考えた。
紫は手荷物を座敷の隅に置くや、布団に寝転がってしまった。未だに腐っていなかった酒を口に運んでは、座敷や縁側を見て、目を細めた。
妖夢も最初こそ手持無沙汰そうに建物の中を歩き回っていたが、結局は寝室に落ち着いた。
そんな姿が、今日もある。
仕事といえば食事の用意ぐらい。妖夢が時刻を思い出しかけた頃、紫は盃を置いて、布団から出た。
「お昼は外で食べましょうか」
「そうしていただけると助かります。いくら大丈夫とはいえ、何年も放っておかれた食材を使って料理をするのは、気味が悪いのです」
「年々菜々、腹相下し」
紫が頓珍漢なことを言って、髪に櫛を通す。
小一時間もすると支度が終わり、二人は外に出た。
灰色がかった空気の中に、灯りが浮かぶ。――地霊だ。
空よりも地面の方に暗い場所が多いのは、ここの太陽が上からではなく下から照らしているからだ。上に行けば行くだけ、遮蔽物の影響を受けない。
そんな暗い場所を好んで、地霊達は寄っていた。
「おや、羊肉を扱っているわ。あそこにしましょう」
妖夢に微笑んで、紫は店に入った。遅れて、妖夢も続く。
店は目抜き通りの中程にあって、座敷が座屏で仕切られていた。肉の焼ける匂いと、若干の焦げ臭さの中に、ぽつぽつと客が入っている。
大入りというのではないが、昼には少し早いはずの時間に人が絶えないのだから、賑わっていると言える。
紫は二名分の内訳を店員任せにして注文を終えると、煙管を咥えた。胸元を片手で摘みながら、足を崩して、煙を吐く。
妖夢が横に置いた刀を店員は気にしたようだったが、特に何も言わず、退けていった。
「やっぱり、妖夢の方に目が行くようね」
「私より、太刀にだと思うのです」
「半霊の方かもしれないわよ?」
煙を吹いた先で、半霊が頭らしき辺りを振った。煙たかったようだ。
じきに鍋が運ばれてきて、ジンギスカンとなった。
それからは盃の方を紫は手にしていた。
粗方、片付いた頃に、紫は言った。
「冥界とこちらと、妖夢はどちらが住み良いかしら?」
「冥界です」
「それは、好みの問題かしら? それとも、種族としてかしら?」
「どちらもだと思います。何より、あそこに私がいなければ、誰が庭の手入れをするのだろうか。そう考えてしまうのです」
「たまには伸ばすだけ伸ばさせてやれば良いのよ」
「……そうですね、たまには、良いでしょう」
口ではそう言いながら、わだかまりのようなものが残った。
妖夢は紫に注がれたままになっていた自分の盃を取ると、舐める程度に飲んだ。
「私に詩文を嗜むような才能は無いのですが、学んではおります」
「うん」
「陶氏の詩に、――既に自ら心を以て形(からだ)の役と為しつつ、奚(なに)ゆえに惆(おも)い悵(むすぼ)れつつ独り悲しむや、とあります」
「帰去来の辞だわね」
「はい。惆も悵も、心のわだかまりです。心のままに生きられないというのは、斯様に苦しいものなのでしょうか」
「自分に心があると思う限り、何だって苦しいわ」
「では、本来は無いものなのでしょうか。無いものをあると思うから、無理をきたすのでしょうか」
「無いものをあるという者もあれば、あるものを無いという者もあるわね」
「――私にはあるのでしょうか?」
「その問いの中に真意があるわね」
「……詮無いことでした」
やはり、浅学の身で言うことでもないのだろう。舌で前歯の裏をなぞる。そんな妖夢の手元に、紫は酒を注ぎ足した。
「気にしないでちょうだい、楽しかったわよ。藍なんてこの手の問答、やり尽くしちゃっていて、全然言わないもの。計算が好きになったのも、その所為じゃない?」
「紫様の所為じゃないですか?」
「あはは、そう思う?」
「それは、そうですよ」
紫の笑う影が映る、背後の座屏。
そこを何者かの腕が貫くのと、そこに妖夢が刀を突き入れるのとでは、後の方が早かった。
手応えを得るや、刀を返す。肉が広がるのに合わせ、座屏を蹴り、血しぶきごと相手を弾き飛ばした。
「あなたって刀のことになると、精密なのね」
「そうですか」
言った傍から、今度は妖夢めがけて、背後から飛びかかってくるものがいた。逡巡もせず、血が滴る太刀を振るう。
太刀はまたしても肉に突き入り、相手の重さを利用して、横に投げ捨てる。刀が肉から抜ける際に、白刃を滑らせれば、体の片側に切れ目が入った。やはり返り血は無い。
片手に刀を構え直せば、そこからは血が蒸発する臭いと共に、紫雲のようなものが上がり始めていた。
「やはり地下の妖怪は毒気が強いわね」
「羊を裂くようにはいきません」
話しながら、紫は何やらさらさらと筆を走らせていて、紙にはメニュー表を使い、墨にはそこら辺に転がっていた内臓の血を使っていた。
「お店の方、これを」
書き終わったものを、戦々恐々としていた店員に渡す。紫は腰を上げ、妖夢と共に店を出た。
「何だったのですか?」
「書面なら、迷惑料と代金についてだわ」
紫が血に塗れた筆をふうっと吹き付けると、手品みたいに血が取れた。それを懐中にしまって、紫は歩き続ける。
「もちろん、請求先は閻魔の所よ」
「どうして?」
「……とりあえず、お風呂にでも行きましょう。早く刀をしまいなさい」
妖夢は用心のために抜いていたのだが、血もすっかり失せていたので、言われた通りにする。
紫は銭湯に着くと慣れた様子で二人分の金を払って、服を脱ぎ始めた。髪を結い上げるのも早く、妖夢は太刀を頭の上に紐で括って、奥に入った。
「源の某じゃないのだから、お風呂のときぐらい、置いて来なさいな」
「さっきの件が無ければ、私もそうしたかもしれません」
風呂は柵に囲まれた露天になっていて、居心地は良かった。お湯も、温泉なのだろう。酒色を帯びた顔が、今度は汗で濡れ始めた。
「元はと言えば、藍が、あのお札のことを気にしたのが悪いのよ」
「札……ああ、門に貼ってあったやつですね」
「そう、あの札、そろそろ力が無くなる頃で、あの子ったら、そんなこと一々覚えてるんだもの。やんなっちゃう」
そんな折も折、それなりに地底のことは気にかけていた閻魔が、巫女任せにしないで自分でもちゃんと様子を見てくるよう、紫に書面で伝えてきたという。
さっきの連中みたいなのは、普段からああいう性質の悪いことをしているのだろう。いくら地上とやり取りできるようになっても、地底は地底、目の届かない所にいくらでもああいうのが湧くらしい。
「札のことさえ無ければ、知らばっくれたのに」
「それは知らばっくれるというか、単に投げっぱなしてるだけです」
「ふん、良いじゃないのさ。久々に、大立ち回りが出来たでしょうに。あれは不可抗力なのだから、説教分には数えられないわよ」
「説教されるかされないかで、斬る斬らないを決めませんよ……」
駄々のこねかたは幽々子と大差が無い。こちらがちょっと空の方を眺めた隙に、どこからか酒を取り出して、飲み始めていた。
「そんなに邪険にするなら、何で斬ったのかしら」
「……紫様を守るためですよ。ほら、用心棒ですから」
「ああ、そういえばそうだったわね」
やはり、忘れていたらしい。挨拶代わりに冗談を言う癖は止めてもらいたい。
膨れっ面をしていると、紫から盃を渡されたので、素直に飲む。
「それなりに騒ぎになってるでしょうし、お風呂上がったら、別荘に戻りましょうか。帰るのは、明日の朝にしましょうよ」
「良いですよ。その代わりと言っては何ですが、今日はずっと、問答でもしてくださいよ。お酒でも飲みながら」
「あら、新しい関係性を築けたかしら?」
「ええ、紫様や幽々子様みたいな方々に、まともな答えを期待しても無駄なんですね。ですから、まともに答えが出ないことばかり聞いてれば、お二方のような性格でも、世のため人のためになるんです」
「心ないことを言うわね」
盃を傾けて、紫は空を仰いだ。妖夢は、悠然として、柵の上端を見た。その先に、空があった。
たまになら、またここに来たい。
その言葉は、呑み込んでおくことにした。
上品な文体がエロチックでした。話エロくないのに。
そしてゆかみょん!?w いいですな・・・ww
文学とは書かれた文章でもって文章以上のものを描くことだという一つの定義がありますが、
この作品を読んでる間、自分がモニターに移った文章を読んでいるという知覚はありませんでした。
幻想郷の人物達としばしのあいだ時間を共有できる喜び、なんとも言い尽くせません。
妖夢と紫の、分かり合えないが分かりつつもあるそんな関係もいい他者の存在感で心地よかったです。
淡々と立ち回る妖夢がかっこ良いです
司馬漬けさんの作品は他の作品では得られない
テイストがあるので大好きです。
納得
私、育ちが悪いもんで、同じ布団で寝る行為に抵抗が無いのです。今でもたまにやります。
> 紫
可愛い所以外はわけがわからんぐらいだからこそ、可愛さも倍増しなのではないか、と思っています。つまり馬鹿ほど可うわなにをするやめr
> 反抗的な妖夢
「反抗的な妖夢」とだけ書くといやらしい意味に思えてきますね。それはさておき、育った環境が環境な所為で、私達が想像している年頃よりもずっと素朴な性質のはず。
「素朴な庭師は町に出ると緊張して辻斬りをしちゃうの」というフレーズを今思い付きましたけど、使い道がありません。
> ゆかみょん
「床みょん」と書(ry
実際の所、前段階における「えいゆか」の方が深刻な要素に思えるのですが、ゆかみょんと言ってもらった方が気楽ですね。
> 作風
まだまだ薄学なので、詳細なお返事は控えます。温かいお言葉、ありがとうございます。
> 立ち回り
妖夢はかえって、弾幕ごっこよりもこういうことの方が気楽にやれそうで困ります。案外、弾幕病みたいなのがあって、弾幕ごっこに付き合わされるストレスによって妖怪が凶暴化する症例が確認されているかもしれません。妖夢は犠牲になったのだ……。