――いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
文机に突っ伏したまま、今は何刻なのだろうかと慧音はぼんやりと思う。
明り取りの窓からはわずかな光が差し込み、室内は薄暗い。
雨の音が聞こえる。
昼食をとった後、調べ物をしている内に――睡魔に負けたのだろう。
それほど長時間うたた寝をしていたわけではなさそうだ。
段々と覚醒してくる意識の中で、慧音はそう当たりをつけた。
湿気でしっとりとした木製の文机から頬を引き剥がす感触に幾分不快を感じはしたが、悪くない寝覚めだ。
慧音は雨が嫌いではない。
軽く伸びをしながら、雨が地面を叩く静かな音に耳を澄ませる。
雨粒の一粒一粒が地面にぶつかる音は、極めて小さい、しかし破裂音に近いものであるはずだ。
しかしその集合体である雨音たるや、静謐にして途切れ無く、時には激しく、なんと深く世界を包み込み、滲み込んでいくのだろう。
――人の命と、歴史のようではないか。
慧音はひとりクスッと笑う。
「少しセンチメンタルが過ぎたか」
なおも雨音に耳を傾けていると、玄関からごと、と扉を開く音が聞こえてきた。
「おーい、慧音。いるかい?」
「残念ながら留守だ」
軽口を叩きながら立ち上がり、慧音は友人を出迎えに玄関へ向かう。
湿気を吸った畳がじり、と鳴った。
「ひどい格好だな。ずぶ濡れじゃないか」
「水もしたたるいい女、ってことかい?」
そう言って妹紅はにっかりと笑った。
実際器量のいいところは否定できないな、と内心思うがそれを口に出す慧音ではない。
「傘を差して来なかったのか?」
「傘は嫌いなんだよ。いざって時に両手が使えないだろ?」
「年中ポケットに手を突っ込んでいる奴がよく言う」
「おう、こいつは一本取られたね」
そう言いながら妹紅は沓を脱ごうとする。
「待て、そこに腰を下ろすな。床が濡れるだろう」
「心配するなって。一瞬で乾かしてやるさ」
掌をひらひらさせながら妹紅が応える。
「お前は私の家を灰にする気か。今何か体を拭く物を持って来るから待っていろ」
「悪いね」
奥に消えていく慧音の後姿を見ながら、今日の慧音は機嫌がいいな、と妹紅は思う。
機嫌のいい慧音に会えたから、今日の私も機嫌がいい。
「昼飯は食べたのか?」
濡れた長い髪を鬱陶しそうに乾かす妹紅を見ながら、慧音は尋ねた。
「もちろん」
「そうか」
再び書に目を落とした慧音を見て、妹紅は少し慌てて付け足した。
「もちろん、食べてない」
慧音が再び書から目を上げ、妹紅を見やった。
「妹紅。もちろんという言葉の使い方を間違えているぞ」
「いや、合ってるよ。これから慧音の家に遊びに行くってのに飯を食べる馬鹿はいないさ」
「私の家はお前の食料庫ではないよ」
慧音は大げさに肩をすくめてため息をついてみせる。
「慧音の作るご飯より美味しいものはないって意味だってば」
「別におだてなくても飯くらい出してやるぞ。ただ私の昼食の残り物しかないけれど構わないか?」
妹紅はぶんぶんと首を縦に振る。
「十分十分。むしろ慧音のご飯の残り物なんて光栄だなぁ」
「私はお人よしだからもっとおだてるがいい。満漢全席くらい出るかも知れないからな」
そう言いながら慧音は台所へ向かった。
待つ間妹紅は慧音の読んでいた書に目を通してみたが、ちんぷんかんぷんであった。
明り取りの窓から、降り続く雨が見える。
妹紅は大きく鼻から息を吸い込んでみる。
雨の日はより匂いが強く感じられるものだ。
畳の匂い、木の匂いや、墨の匂い。
かすかに、黴の匂い。
そして、台所から漂ってくる何とも甘美な匂い。
妹紅の腹がくぅ、と鳴った。
全部、慧音の匂いなんだなぁと妹紅は思う。
慧音の匂いは落ち着く。
「ほんと慧音の作るご飯は美味しいよなぁ」
旺盛に箸を口に運ぶ妹紅を見ていると、やはり口元が緩んできてしまう。
自分の作った物を美味しいと言われるのはやはり嬉しいし、なんとも見ていて気持ちのいい食べっぷりである。
「やっぱり持つべきものは慧音だな」
「食べ物を口に入れたまま喋るな。はしたないぞ」
妹紅はちょっとむすっとして、ごくんと嚥下してから慧音に言い返す。
「でも片方がご飯食べてて、もう片方が見てるだけでお互い無言の状況を想像してみなよ。ちょっと怖くないか?」
慧音はにこにことしたまま答える。
「大丈夫。私が一方的に話しかけるから」
「それはそれで怖いな」
「ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」
すっかり満足した妹紅はそのままごろんと仰向けに寝っ転がる。
美味しいご飯をたらふく食べて、畳の上で大の字に寝れることのなんと有難いことか。
妹紅は心から思う。
「はー、しあわせー」
「残り物を退治してくれてこちらも助かった」
台所で片付けをしながら慧音が言う。
この天候では残り物の保存はあまり長い時間を望めない。
少し作り過ぎたか、と反省していた矢先のことだったのである。
「――しかし雨の日に来るとは珍しいな」
台所から茶を2つ盆にのせて、慧音は居間に戻ってきた。
「こんな雨の日に一人で小屋にいたら黴が生えそうだと思ってね」
むくりと起き上がって湯呑に手を伸ばしながら妹紅が言う。
「残念ながら私はもう黴が生えてしまった。遅かったな」
茶をすすりながら、慧音は静かに宣言した。
「どうせ黴が生えるんなら二人で生えたほうが楽しそうじゃないか」
慧音は自分が妹紅と二人で黴まみれになっているところを想像して、噴き出してしまった。
「違いないな」
静かな時間。
雨の音と、たまに慧音が頁を繰る音。
妹紅は再び仰向けに寝っ転がり、天井を見つめている。
会話も無く、各々に過ごしているが、気詰まりではない。
慧音も、妹紅も、居心地がいいな、と思っている。
お互いに相手が、そう思っていることも知っている。
おもむろに、妹紅が口笛を吹き始める。
雨の中の庵にあっては、実に朗々と響く。
何となく異国の情緒を感じさせるような、そこはかとなく哀愁の漂うような。
慧音の耳にしたことの無いメロディーだった。
「悪くない曲だな」
頁を繰りながら、慧音は言う。
妹紅は気を良くしたのか、口笛をさらに吹きつのる。
いつしか、慧音は目を閉じて聴き入っている。
――突然、口笛がやむ。
まどろみかけていた慧音ははっとする。
目の前に爛々と瞳を輝かせた妹紅の顔があった。
…嫌な予感がする。
「妹紅。どうかしたのか」
「慧音も一曲披露してよ」
「……」
「慧音がどんな曲が好きなのか知りたいんだ」
「…好きな曲は、ない」
「じゃあなんでもいいからさ」
「……」
「そんなにもったいぶらないでよ」
「妹紅」
慧音は生来の真面目な顔立ちをさらに真剣に張り詰め、頬を軽く紅潮させて妹紅にささやいた。
気のせいか瞳もうるんでいるような。
そう言えば、こんなに近くで慧音の顔を見たことは無かったな。
時間が止まったかのように、二人はしばらく見つめ合った。
妹紅は期待で自らの胸がはちきれんばかりになるのを感じた。
「…私は口笛が吹けないんだ」
「……」
「……」
「ぷ」
ひとしきり妹紅はのた打ち回った。
苦しくて涙が滲んできた。
「笑いすぎじゃないか」
顔を赤くさせて、もう少しつつけば涙目になりそうな慧音を見て、妹紅はさらに大いに笑った。
なんと自分の友人は愛らしいことか。
「まさか慧音にそんな弱点があったとは」
「弱点と言う程のものでは無いだろう。得手不得手がある、というだけの話だ」
「少し口笛、やってみせてよ」
慧音は拗ねた様に口をとんがらせた。
最初は怒ったのかと思ったが、どうやら口笛のつもりらしいと判明した。
唇から、すーーと息の漏れる音がする。
妹紅は狂ったように畳をばんばんと叩かねばならなかった。
「…笑い死にしそうになったのはさすがにはじめてだよ」
「ほっといてくれ」
怒るを通り越してしょげてしまった慧音を見ながら、妹紅はこの友人をいとおしいと思うのだ。
「私が教えてやるから、練習しないか」
「…どうしても妹紅が教えたいのなら、教わってやってもいい」
そう言って、慧音はにこりと笑った。
雨雲の向こうでは、陽も傾き始めたようだ。
明り取りの窓から漏れるわずかな光も今はほとんど途絶え、薄暗い部屋はさらに薄暗く。
変わらず雨の音。
二人は壁に背を預けて並んで座り、うつら、うつらとしている。
「慧音」
「ん」
「慧音の心臓の音が聞きたい」
「またか」
度々あったことなのだろう。
「――おいで」
二つの影。
「…慧音は、生きているね」
「私は、生きているよ」
「…私も、生きているね」
「妹紅も、生きているよ」
雨は、まだやまない。
口笛できないけーねに萌えた。口笛なんてはしたないと言い訳しながらずっと誤魔化してたんだろうな。
じつは、懐かしき東方の血~Old Worldだったりして。
やさしく抱いている慧音まで幻視した
ラヴいいよねラヴ
妙に飄々としてるところがまた、ねぇ
静謐な背景の中で、二人だけが鮮やかに浮かび上がる書き方。嫉妬するほど、うまい文章ですね。