幻想郷の中で、日差しが暖かくなり始めたある日。
「ただいまぁ~」
結界の点検を終えた紫が。
いつものように隙間から直接家に帰ると。
「さようなら……」
「ら、らぁぁぁぁぁん!?」
何故か、藍が天井からぶら下げたロープで首を括ろうとしてた。
<橙は藍より、紫より、強し>
「なんでこう、仕事を終えた爽快感に包まれて帰ってきたのに。いきなり陰湿でバイオレンスな展開に突入しているわけ?」
「……ふふ、いいんです。私は駄目な狐ですから。生きている価値なんて……」
慌てて尻尾を掴んでロープから引き離すと。
酷く打ちひしがれた様子で畳の上に座り込み、うな垂れてしまった。
いつもの冷静な藍とは思えない、酷い落ち込みようだ。
「なるほど、橙とケンカしたわけね」
「……何故それを」
「ほら、指」
畳の上に置かれた藍の指は、綺麗に何度も『ちぇん』という文字を描いていた。それで気づくなと言う方が無理な話である。自分の痴態にさらに暗い雰囲気を背負う藍の尻尾は、もう自然に畳を掃除してしまうほど力無くダラリと広がっていた。
「どうせ、藍様大嫌い、とか言われただけでしょう? いちいち大袈裟すぎですわ」
紫がそう言って頭を押さえると、藍は無言のまま一枚の紙を取り出した。
それをすっと畳の上で滑らせ、紫の足元へと置く。
しゃがんでそれを拾い上げると、紙の上にはたどたどしい文字が並んでいた。藍がこんな歪な文字を囲むはずが無いので、消去法を使うまでもない。
「橙が、それを……」
「口で言いなさいよ。どうせ、そんな大したこと――」
紫は紙に目を落とし、ゆっくりと文字をなぞっていった。
『らんさま、わたしは、らんさまがりっぱなよーじゅーだと しんじていました。
でも、ひとざとにいって。
らんさまがどんなようじゅぅかよくわかりました。
らんさまの。
らんさまのへんたいっ
けいこくの、きゅうびのようじゅーって、え、えっと
えっちなことが、だいすきでっ
おとこのひと と、いろんなことを するのが しゅみなんだって。
そうやって、だまして。
なんにんものヒトを なかせていたんですねっ!
どすけべっ!
いんらんらんさまっ!
きゅうびのきつね じゃなくてっ! こうびのきつね ですっ!!
もうぜったい、ぜぇっっったいっ! ちかづかないでくださいっ!!』
ひらがなの羅列。
この壮絶なる破壊力は一体なんなのだろう。
それよりなにより――
紫はその紙と藍を見比べ。
ごくり、と喉を鳴らす。
「大体、合ってるっ!」
「さようなら……お世話になりました……」
「ら、らぁぁん! 早まってはいけないわ! 橙だって何かを勘違いしているだけよ。大好きなあなたに向かって何の考えもなしにこんな手紙を書くはずがないじゃない」
「そ、そうでしょうか」
「そうよ、それにあなたは橙の姉のような存在なのだから」
紫の励ましに、藍の瞳に少しだけ生気が戻ってくる。
頼もしい主の行動を期待し、表情にも希望の色が。
「そうですねっ! やはり、私は知性の溢れる姉として橙を引っ張っていかなければ!」
「ええ、そうよ。『ち』の字が二文字当てはまるけれど」
もちろん、知と痴。
「……私の骨は、橙のご飯に乗せてください」
「ら、らぁぁぁぁんっ!! しっかり、しっかりするのよ!」
「ふふ、私は橙の血肉となって生き続けるのです……」
「そ、そうだわっ! 大体、橙にいらない知恵をつけた人里の誰かを探すの。そしてさっきの話は嘘だったとか言わせればいいのよ。そうしたら、きっと橙も目からウロコ! 瞼からいなり寿司よ!」
「――っ!! それです! やりましょう、紫様!」
紫の素敵な提案に、はっと我を取り戻した藍は、がしっと硬く手を合わせた。
そうやって、二人は立ち上がり。
夕日の向こうの星を指差し、瞳に炎を燃え上がらせた。
「そうよ、今こそ! スキマ探偵少女らぶりぃゆかりんっの活躍のとき! 事件のスキマ、埋めちゃうわよ♪ 藍はマスコット役ね!」
「……嫌ですよ、そんな年甲斐も無い」
素直な可愛い式の返答に、紫はにこり、と無言で微笑み。
藍もにこり、と釣られて微笑むが。
隙間を使って後ろに回りこんだ紫の手がもふもふの尻尾に伸び。
ぎゅぅぅぅぅぅぅっと。もふもふ毛を巻き込むように、荒々しく一本を掴んだ
「あ゛っ! ぁぁぁぁぁぁあああああ! しっぽっ! 尻尾の毛がぬけっ、抜けますっ! ゆ、ゆかりさまっ!?」
「らぶりぃゆかりん、よ。 さあ、出発するわよ。藍色キューピット『ららぁん』!」
「いやぁぁぁぁっ!! その呼び名だけは嫌です、御慈悲を、どうか慈悲をっ!」
尻尾をむんずっとつかまれ隙間に引き込まれる。
悲痛な叫びを発しながら最後で畳を引っかいていた藍の白い指は、抵抗むなしく空間に飲み込まれていくのだった。
◇ ◇ ◇
その日、人里に電撃が走った。
一人の少女(?)が恐ろしく積極的にその手腕を振るっていたから。
橙と関係のありそうな人間かどうかをその圧倒的な眼力で見極め、『黒』と判断したら躊躇無く接近し。ビシッと人差し指を向けてこう叫ぶのだ。
「お前たちの陰謀はっ! ゆかっと、すきまっとお見通しよっ!!」
「やめてぇ、たすけてぇ……」
そんな恥ずかしい台詞を数十回ほど。
隣に立つ藍が顔を真っ赤にして止めるのを無視しながら叫び続けた結果。
とうとう、五十回目の正直っ。
真犯人が明らかになったのだ。
橙をたぶらかし、九尾を誤解させた。
その極悪非道な罪人の名はっ
「え、はい。確かに私が橙さんに歴史をというか。九尾という種族についての文献を説明しました」
「私も一緒にだが?」
えっと、なにこの二本柱。
『歴史と言えば誰か?』
と質問をしたとき。
3位以下を圧倒的大差で引き離すことが確実な、二人組がそこにいた。とりえあえず稗田家なのだから片方はいて当たり前なわけだが、慧音がいるなんて鬼に金棒。ハクタクに角。
『犯人を見つけたら、嘘の情報を教えたと言わせよう大作戦』が開始前にあっさりと霧散してしまった。
この二人にそれを言わせるなんて、まず不可能。
紫は出された湯飲みに手をつけようともせず、正座したまま押し黙り。
藍に至っては、畳の上で丸くなりしくしくと泣き始める始末。
「泣いている場合じゃないわよ。しっかりしなさい、ららぁん!」
「もうその名前で呼ばないで……嫌です……もう嫌なんです……」
「く、ここまで藍を追い込むなんて、許さないわよあなたたちっ」
「いや、概ねお前のせいだろう?」
「くぅ、さすがに歴史を統べるハクタクの血を引く者。都合のいいように事件を書き換えたというのね!」
「……話を進めてもいいかな?」
「ええ、どうぞ♪」
怒りを込めた表情を、ころりっと笑顔に変えて、慧音に手の平を向ける。
どこまで真剣なのかわからず、慧音は探るように紫を視るが。
最初から遊びなのか。それとも笑っていながら心は冷め切っているのか。まるっきり判断がつかない。阿求と慧音は顔を見合わせて肩を竦める。
「さっきも言ったが、私は橙に確かに九尾のことを説明した。というのも今日の寺子屋の授業は妖獣についてだったから。それを子供たちと遊んでいて耳に入れたのか、橙が言ってきたんだよ。私も一緒に授業を受けたい、とね。怖がるといけないから、寺子屋の子供たちにそれを説明してから、特別に今回だけということで授業をしたんだが……」
その後、授業が終わっても。
もっと詳しいことが知りたい、と言ってきたそうだ。だから慧音はその後も自宅に橙を招きわかるようにゆっくりと、いろいろな種族について説明した。
動物から妖獣へと変わって生まれる種族。
血筋で子孫を残し続ける種族。
人間の血を含む種族、などなど。
猫方、犬型、その他の型、それらの習性、危険性までしっかりと。
しかし、もっと詳しいことを知りたいというから。阿求に白羽の矢がたった。
「その後、慧音さんがいうように。私の書いた本や、外の世界から流れ着いた参考文献を資料として、化け猫と九尾の狐の情報を中心的に」
「その……外の文献とやらの中に、妙な物が混ざっていたりは……それで橙が私の種族について妙なことを」
「いえ、まあ。言い難いことですが。九尾の詳しい資料となると、傾国という内容が書かれているものが多く。まあ口では言い表しにくい、淫靡なものも多く含まれてしまいますが」
ざくっと。
泣くのをやめて問いかけた藍の心に、何気ない言葉のナイフが突き刺さった。
まるで『エロい種族だから仕方ない』そう受け取れるような言い方だったから。
「うふふ……そうさ、九尾はそういう扱いだよ、どうせ。ふふふ、ふふふふふ……」
「さて、藍が楽しそうに泣き笑いしているから良いとして。ちょっと聞きたいのだけれど。橙はその九尾の資料を見ているときはどうだったのかしら? 落ち着いていた、それとも興奮していた?」
「どちらかと言えば、興奮していましたね。性的にという質問でしたら、これ以上答えませんよ?」
「いえ、怒りとかそういう風な激しい感情はなかったかということよ」
「そうですね、それなら。怒りという点では見受けられませんが。どちらかと言えば憧れのようなものを感じましたよ。羨望の眼差しとでも言うのでしょうか。ですから、化け猫の資料を見せても同じく喜んでもらえるかと思ったのですが」
そこで阿求は言葉を一旦切り。
本を捲るような仕草を始める。
「こうやって資料を読み進める度に、表情が暗くなるというか。元気がなくなっていくように見えました。気のせいかもしれませんが」
「ふぅん、なるほど」
不自然だ。
その様子から推測するなら、現状の結果を生むのは難しい。
落ち込んだのならそれを癒してもらおうと、藍の尻尾に抱きついたりしてくるはず。なのになぜ、一方的に嫌う原因になってしまったのか。論理的に考えてもありえな――
「そういうこと、ですわね。ご協力感謝いたしますわ」
微笑を浮かべ、藍の肩をとんとん、と叩く。
「出掛けるわよ、藍。どうせ橙は戻っていないだろうし」
「いいです、どうせ私は嫌われるだけの狐で――」
「残念だけれど、決定権は私が持っているのよね」
「え? う、ぅわぁっ!?」
問答無用で藍の下に隙間を開き、ぱくっとその姿を飲み込む。
紫もそれに続くように、すっと指先で縦に空間をなぞり、開いた。
「お邪魔してごめんなさいね。また橙が知りたいといったら可能な限り付き合っていただけると助かりますわ」
「愚問だな。私達のやるべきことは歴史や事実をできる限り正確に伝え――」
「未来へと繋げていく事、なのですから」
「ええ、期待しておりますわ」
くすくす、と笑い声だけを残し。
紫は隙間の中へと消えていくのだった。
◇ ◇ ◇
幻想郷では時間帯によって、大きくその姿を変える場所がある。
その中でも知名度が高く、簡単にその変化を楽しむことができるのは『霧の湖』だろう。
昼間は、誰も寄せ付けようともしない濃霧に覆われているというのに。
夜間は、全てを受け入れてしまうような。透き通った湖面をあらわにする。
湖畔から水面を眺めれば、夜空の天蓋ごと湖に投影してしまったようで。二つの空に挟み込まれてしまったような錯覚すら覚える。月や星々の光を受け。淡い光を纏いながら飛び回る妖精たちが、一層幻想的な世界に華を添えていた。
そんな光景に魅せられて、ついつい少女は考える。
少女の近くで揺れる湖面、そこに輝く三日月や星は、本当にここにあるのではないか、と。手で触れることができるのではないかと。
心の声に従うまま、少女は疑いもなく手を伸ばせば。
「あっ」
波紋によって、光が歪められるだけ。
手に残るのは冷たい、水の感触のみ。
向きになって手を動かしても、より水面を揺らすだけで。光なんてその手には残らない。
「そこに、あるのに……っなんで……」
少女は、一心不乱に手を動かす。
そうしていれば届くと、触れられると信じて。
信じているのに。
どこか、頭の冷静な部分は理解している。
無駄だということを。いくらもがいても、その『金色の姿』には届かないと。
理解しているから、水面に新しい波紋を生み出してしまった。
小さな、可愛らしい頬から零れ落ちる水滴によって。
その液体に少女が気づいたとき。
「……虚像を追いかけても、実像には届かない。それでも目に見えるものを追いかけてしまうのは、生きとし生けるものの悲しい習性。そうおもわないかしら、橙?」
淑やかな女性の声が、橙を後ろから包み込む。
耳をぴんっと立てて、振り返ろうとするが。はっと何かに気が付いて慌てて袖で顔を擦った。そして、精一杯の、引き攣った笑みを作りながら。顔を後ろへと向けた。
「紫様、ごめんなさい。ご飯、今日はいりません」
夕飯の時間だから、連れ戻しにきた。
そう思った橙は、一緒に帰りたくないという意味を含めてそう告げる。しかし紫は無言で草を踏みながら近付き橙のすぐ横に立つ。
「お邪魔してもよろしいかしら?」
「あ、は、はいどうぞ」
「助かるわ、私もちょっと逃げ出してきたところなのよ。藍に怒られちゃって」
「藍様が、紫様を?」
「ええ、ごはんぬきだーってね♪」
「……嘘、ですね。藍様は怒ってても、いつも紫様を一番に思っています。だからいくら怒っていても、ご飯を作らないなんて、ありえません。だっていつも余るくらい作って、『残してもいいよ、私が食べるからね』って、私に好きなものを食べさせてくれるんですから。いくら私が悪いことをしても、ご飯だけはすごく温かいんです」
紫が腰掛けながらおどけて見せるが。
橙は膝を抱えながらかぶりを振り、紫の嘘を見抜く。小さいながらよく見ているものだと、紫が感心するくらい。
さきほどまであんなに興奮して水面を叩いていたとは思えない推理だ。
「あら、お利巧ね。じゃあ橙、私もあなたの嘘を指摘させてもらおうかしら」
「嘘、ですか?」
「ええ、あなたが昼間に、藍に近寄らないでって紙に書いて渡したことよ」
「……嘘じゃないですよ」
「あら、本当?」
「はい、嘘じゃ、ないです」
顔の半分以上を膝で隠し、口元はまるでわからない。
しかし紫は見つけた。
橙の瞳が、紫から逃げるように揺れ動いているのを。
「それは、藍が悪い妖獣だから?」
「九尾の狐というのは、そういうのらしいですね……」
「あら、はっきりと言わないのね。藍が嫌いって」
「藍様は、紫様の式ですから。紫様の前では失礼な気がするだけです……」
「そう、じゃあ、橙は藍のことが嫌い。その理由はヒトや他の者を苦しめたから。そういうことにしておきましょう」
段々と橙の声が小さく、聞き取りにくくなっていく。
それでも紫はしっかりと耳を傾け、元気づけるように橙の頭を撫でた。
「じゃあ、橙、少し見方を変えるために、こんなお話を。あなたの目の前に美味しそうなバッタが一杯いたとするわね」
「……10匹くらいですか?」
「ううん、100、200、いえ、1000匹以上いるかもしれないわ」
「1000匹も……」
橙は視線を斜め上に動かし、陶酔したように口をだらしなく開ける。きっと今、想像の中の橙は美味しそうなバッタの群れに囲まれている。涎さえ零れ落ちてしまいそうに緩んだ顔を横目で見て、紫はゆっくりと。その情景を思い浮かばせるように続けた。
「ほら、あなたの前も横も。まるで食べて食べてって言っているように飛び跳ねているわ。橙あなたはこと後どんな行動を取るかしら」
「もちろん、食べます!」
「そうね、だって凄く美味しそうなんだもの。仕方ないわ」
そして、橙の表情がぱぁっと明るくなったのを確認して。撫でていた手を止める。
「化け猫としては当然の行動。何も悪いことはない。でもね、橙。バッタからみたらあなたはどう見えるかしら。何もしていない、ただ飛び跳ねているだけなのに。どんどん仲間を失っていく。彼らからしたら恐ろしい敵としか映らないのではないかしら」
「でも、それは……」
「そうよ。だから言ったでしょう? 仕方のないことだと。バッタだって、草を食べるもの。草だって、生き物の死骸が腐ったものを養分として吸い上げる。それは当たり前の事。でも見方を変えただけで、全然別のものに見えてしまう」
笑顔を一瞬のうちに曇らせ、頭の上に疑問符を浮かべる。
そんな純粋な橙に、紫は思わず苦笑してしまった。
「じゃあ、今度はあなたの大好きで、大嫌いな人を例に挙げてみましょうか」
「え? ……は、はい」
何のことかわからぬまま、首を縦に振る。
それを満足気に見つめた紫は、いつもの扇子を取り出すことなく。変わりに指を一本だけ立て、片目を閉じる。おそらくそれが紫の先生像なのだろう。
「昔、人間の世界に一匹の九尾の狐がやってきた。その狐は美しい女性の姿をしていて、すぐに王を虜にしてしまう。男を悦ばせる術に長けたその狐は、王を自分のためだけに動かし。国を傾かせ、罪のない国民たちの命を虫けらのように奪う。それを見かねた者がとうとう狐に牙を向くけれど、狐は逃げた、そして大陸を、海を渡り。別な国でも、また別な国でも悪さをはたらき、ついに日の出ずる国の元で、滅ぼされ石となる」
「あっ!」
「そうよ、これはあなたが見た人間が作った歴史書の内容。そして、今からその見方を変えてみるわよ。少しだけ橙には難しいかもしれないけれど」
紫は橙の頭から手を離すと。
地面の上に手をついて、遠くを見つめる。
まるで、いつかの星空を思い出そうとしているかのように。
「昔、人間の国に一匹の狐がやってきた。右を見ても左を見ても、自分とは違う人間だらけ。だから狐は怖くなり、誰か、仲間になってくれそうな相手を探した。そうやって国の中を駆けずり回り、もう諦めようかと思ったとき。国からの使いと名乗るものが、狐を迎えにきた。その美しい姿に、国の王が一目ぼれしてしまったから。その日から狐には夢のような毎日が始まる。寝る場所にも、食べ物にも苦労せず、ゆっくりと昼寝をしているだけで一日が終わっていく」
「……でも、それって退屈なんじゃ」
「あら、どうしてそう思うの?」
「だって、そういうときって、きっとその王様からあまり離れないようにとか。家から出ないようにとか言われるんですよね?」
「そうよ、いいところに気が付いたわね、橙」
恵まれていながらも。
すべてを手に入れてしまったから何もすることがなく、ただ窓の外から空を見上げる毎日。そんなものに娯楽などない。だから狐は考えたのだ。
「だからね、狐は部屋の中でできる。楽しいことを考え続けた。自分をこの素敵な世界に呼んでくれた男に恩を返す意味も含めて、自分に何かできないかを合わせて。それで辿り着いたのが、九尾の中で古来から伝わる、異性を喜ばせる技術。それを最大限に生かして尽くしてあげようとしたのよ」
「……あの、私。そういうのよくわからないんですけど。それって初恋とか? そんな感情でしょうか」
「ええ、でも。狐は長く生きていたから初恋、というわけでもなかった。それでも相手を想うという恋愛感情を擁いていたのは本当よ」
大好きだから、男がもっと喜ぶことをした。
喜ばせた分だけ、男もそれに応え。
さらに狐は、激しく愛する。
そんな恋は、いつしか超えてはいけない一線を踏み越える。
国王という、権力を持った男の方から。
「欲望に走った王様というのはとても、その狐から見ても嫌悪を感じるほどだった。でも狐はね、愛し続けたのよ。きっと自分が大切に思っていれば元の彼に戻ってくれると思ったんでしょうね。そうやって思い込んで、必死になって。ある日、その想いが一つの結果を生むこととなる」
「……幸せに、ならなかったんですね?」
橙は、やっとその見方を変えるというものの本質を理解したのだろう。
ぺたんっと耳を倒し、湖面を見る。
切なそうに膝を抱いて。
「そうよ、結論は同じ。狐がある日目覚めたらね、化け物封じの結界の中にいたそうよ。彼女はただ、愛した男をもう一度立ち上がらせようと努力しただけなのに、王は、壊れてしまった。その責任をすべて彼女に背負わせるために、人間たちが牙をむいたの。そこで初めて彼女は気付いたのよ。妖獣の持つ魅了の力の本質に。愛するものすら狂わせてしまう、九尾の血に。そうして狐は狭い島国まで追い詰められ」
倒されて、殺生石になった。
そんな結末を創造し、橙は顔を顰めるが。紫が語る歴史は、また別の結論を導き出す。
「親切な美少女に救われたのよ」
「え?」
「それは珠のような肌をもった、異性すら一瞬で見蕩れてしまう。そんな素晴らしい女性だったそうね。うん、藍がそう言うんだから仕方ない」
そう言い切ると、何かを待つようにチラチラと橙へと視線を送る。
が、あまりその一言を今の話の後に口走りたくなかった橙は、しばらく紫から視線を外す。が、そろそろいいかと戻しても、相変わらず同じ仕草を繰り返しており。
「え、えっと……もしかしてその美少女って、紫様のことですか?」
橙はしぶしぶと言った様子で、口に出す。
すると、大正解っとでも言うように、袖から取り出した扇子を大振りで開いた。
「あらあら、やっぱり滲み出る雰囲気でわかってしまうのね。ふふ、もっと言ってくれてもいいのよ、橙?」
「い、いえ、続きはまた後日……」
「そう、照れなくてもいいのよ?」
そうやって扇子で自分を扇ぎながら、紫はわざとらしく「ほほほっ」と声を出して笑う。そして釣られて橙が微笑んだのを見て、つんっとその額を指先で突いた。
「さて、作り話はここまでにしてと」
「ぇっ! 嘘だったんですかっ!」
「そうよ、だって私がそんなつまらなそうなことを見ているわけがないでしょう? 即興で仕上げてみただけですわ」
「えぇぇっ……ひ、酷いですよ! ちょっと泣いちゃいそうだったのにっ!」
「あら、そんなに集中して聞いてくれたの?」
「はい、とっても!」
「なら、もう一度聞くわよ。あなたは、藍が九尾の狐だから嫌い?」
「――っ!」
今の話を本当だと信じようとしたのなら、橙は、本心から九尾が嫌いなわけではない。
もう一緒に居たくないと本気で思うなら。
必ずどこかに嫌悪感を抱くはず。それなのに橙は、何の疑いも持たなかった。
「藍が九尾だから一緒に居たくない?」
「……ぅう゛っ……ぅぅぅっ……」
なんとか言葉を探そうと、橙の瞳が激しく動くが。
見つからない。
見つけられないのだろう、嫌いな理由が、離れたい理由が。なぜなら、藍に近づかないで欲しいと最初に叫んだ感情の中に、嫌悪感なんてなかったはずなのだから。
「ぅぁあ゛っ ごめんな……さい」
書物の中で見た、狐と猫の妖獣。
そこに書かれたあまりの力の差によって。橙はその小さな胸に抱え込んでしまったのだ。どう頑張っても自分よりも遥か高みにいる九尾である藍に。目標としていた、姉のような藍に。
「ごめんなさい……ゆかりさまぁ……」
絶対、自分は到達できない。
そう、書物に見せ付けられた気がして。
激しい劣等感を抱いてしまった。
だから、その姿を見るたびに胸が苦しくて。
変態、だなんて。
近寄らないで、なんて。
初めて他人を激しく傷付ける手紙を、あろうことか大好きな藍に書いてしまった。
それを読んだ後の藍のあの顔を思い出すたびに。
謝らないといけないと思うのに。
どうしても黒い感情が、それを邪魔していた。
「ごめんなさい、ごめんらさいっっ! 大好きですらんしゃまぁぁっ!」
我慢していた想いを、一気に吐き出した橙。
その純粋な叫びは、周囲に響き渡り。
木の幹に隠れる、九尾の頬を濡れさせた。
◇ ◇ ◇
「いけっ 赤鬼! 青鬼!」
橙が叫びながらスペルカードを展開すると、赤と青の弾幕が周囲を覆い尽くし。たった一瞬だけ回避行動が遅れた藍の尻尾を捉える。しかし威力よりも当てることに重みを置いたため、少しだけ動きを鈍らせた程度。
一般的な妖怪が相手なら、そんな隙など誤魔化せるのだが。
「とどめっ! 化猫『橙』!」
藍が繰り出す苦し紛れの牽制を残像が残るほどの速度で回避し。たった一足の元で間合いを詰る。身体能力を強化した状態なら、一瞬の隙が命取り。
「もらったぁっ!」
叫び声を上げ、その鋭い爪を藍の胸に深々と突き刺した。
貫かれた藍は肺から空気を吐き出しながら崩れ落ち……
ぽふっと。
間抜けな音を残して、一枚の人型に変わる。
その音に続くのは、パチパチという疎らな拍手の音。
祝福したいが、どうも納得できない。そんな感情のこもった音だった。
「紫様、いくら訓練とは言え、私の姿を取らせなくても……」
「いいじゃない、橙の目標はあなたなんだから」
「まあ、そうなんですが。あの妙に現実的な倒れ方だけはやめていただきたい……私の胸まで痛くなりそうですよ」
「あら、痛覚共有させておいてもいいわよ?」
「なんの嫌がらせですかそれは……」
自分とまったく同じ姿の人型が、橙を攻撃しようとしたり、橙から本気で攻撃されたり。もうその行動一つ一つが藍の気苦労度を急上昇させてしまう。これが紫の一存ならいくらでも反対するつもりだったが。
『藍様の姿をした式と戦いたいです!』
と、橙が爆弾発言をしたので。
しぶしぶ了承したのだった。
その訓練を始めてから今日まで橙の戦績は5勝5敗。今日の勝利でとうとう勝ち越したことになる。
「やりましたっ! やりましたよ! 藍様!」
「ああ、偉いね。橙。でも私は凄く複雑な気分だよ」
縁側で座っている藍に向かって橙が抱きついてくるのに、あの胸を爪で刺されるという映像が何度も繰り返されるから。正面からでなく半身で受け止めることとなってしまう。
「あらあら、この調子なら藍を超える日もそう遠くないかもしれないわね」
「はいっ!」
「ああ、喜んでいいところなのに……喜んでいいところなのに……」
藍は抱きつく橙を膝の上に載せ、土で汚れた髪を綺麗に梳いてやる。いつもならそれだけで満たされるというのに、何故か悲しさが止まらない。
「あらあら、藍お姉さんはまだ妹離れができないようね。これではどちらが幼いやら」
「む、失敬な。私だって橙の成長は望むところ。ですが方法をもう少しですね。紫様の姿にしてみるとか」
「紫様だと、なんか怖いからイヤです」
「うん、正直なのは良い事だぞ、橙」
「……仕返しのつもりかしら? ねぇ、藍?」
「まさか、私が母同然の紫様に? ありえないでしょう?」
「そうよねー、ありえないわよねー、おほほほほほっ」
「そうですよねー、うふふふふふっ」
「あははははっ!」
楽しく(?)笑い合う。そんな血の繋がった家族のような三人を、暖かい太陽が照らす。ぽかぽかとした光の中で、橙が自分の胸の前に回された藍の腕に尻尾を絡ませた。
そして、舌をぺろっと出して笑いながら。藍を上目遣いで見上げる。
「絶対、藍様に追いついて見せますからねっ!」
「ふむ、じゃあ私はもう少し進んでみようかな」
「あ、あああああ、卑怯です! ずるいです!」
「ふふふ、しかし、橙が私と同格か。そうなると橙も式が持てるようになるかもしれないね」
「式、ですか。藍様の式の私みたいな?」
「そうだね、私の自慢の式だよ」
「えへへへ……」
藍の膝の上で満足そうに笑い、瞳を閉じた。
そしてなにやら低い唸り声を上げ始める。
「うー、全然思い浮かびません」
「ははは、そうだね。持つのも持たないのも自由だからね。今から悩むこともないよ。でも橙の式なら、妹というより、子供に思えてしまうかもしれないね」
「そうですか、子供ですか。じゃあ……」
橙は、澄んだ瞳をしたまま。
無邪気に。
無意識に。
藍の主を見つめ。
「じゃあ、紫様は、おばあちゃんですね♪」
ぐさりっ
「はぁぅ!?」
「ちぇ、ちぇぇぇぇぇぇぇえええええええんっ!?」
その日、小さな化け猫の妖怪は。
幻想郷最強と謳われる大妖怪を……
たった一言でノックアウトしたのだった。
大丈夫だゆかりん。
俺だって17でオッサンと言われた身だ。悲しくない、悲しくなんて…悲しくなんてない……
式神「橙」 ×
化猫「橙」 ○
かと思われます。
しかし、何時の時代も子供の純粋な一言は凶器だなあ。
こう明るくできる辺り凄いなァと。
でも藍しゃまは天狐だからそういう事しないんじゃn(ry
地味に幻想郷最強ですねw
出だしの所から、つかみはOKな感じでした。
しかし、橙は強いコだなぁ。
良きお話、ご馳走様でした♪
お前さん、道頓堀に沈んでただろ。
↑妙に素敵な顔をしながらトドメを刺してたらどうしようかと思った。
無垢な少女の言葉には最強の攻撃力と、その笑顔には攻撃不可能な最強の防御力を誇る。
俺なんか15の時に気だるげな30代サラリーマンとよばれだぞ…
異性すら一瞬で→同性すら
じゃないでしょうか?
しかしまあ…子供の何気無い一言って、時にクリティカルが出ますよねアハハ
良いお話をありがとうございました。
仲良いなーこの三人。