注意
この話は作者の過去作品の設定を引き継いでおります。
(理不尽なのはいつもの事ですが、駄目なのはわかっているけれど等)
柔らかな日差しが降り注いでいる。
雲一つない快晴の下で、幽々子は縁側に腰掛け、一人お茶を啜っていた。
一口含んで、ほうっと息を吐いて。
ただ何をするでもなく、良く手入れされた白玉楼の庭に視線を向ける。
その先からやってくるものがあった。
「ゆゆこさま!」
まだ十に満たない幼子だ。
少女は溌剌とした様子で幽々子の前まで駆けて停止した。
切りそろえられた銀の髪が勢いで揺れる。
「ゆゆこさま~」
甘えた様な何かを期待する少女の声色に、笑みを浮かべて幽々子は両手を伸ばす。
少女の顔がぱっと輝いて、そのまま飛び込むように幽々子に抱きついて膝へと座る。
「妖夢は本当に甘えん坊さんね」
幽々子は片手で少女を抱いて、その髪を撫る。
「だってゆゆこさまが大好きですから」
同じように両手を背に回して、半ばその胸に顔を埋もれさせながら少女は幸せそうに笑んだ。
「ふふ、嬉しいわね」
微笑ましそう妖夢に抱きながら、ただ髪を撫で続ける。
心地よさそうに瞳を閉じて少女が言葉を紡ぐ。
「ゆゆこさま」
「なあに?」
「いつか私も、おじい様のように強くなってゆゆこさまをお守りいたします。
あらゆる災厄と困難から貴方を守る、冥界一固き盾としてずっとずっと、大好きなゆゆこ様をお守りします」
少しだけ驚いたような様子を見せて、それから愛おしそうに笑って。
ありがとうと幽々子が少しだけ抱く腕に力を込める。
日差しが暖かくて、幸せで、こんな日々が続いてくのも悪くないとそう思って……
暗くて冷たい。
まず感じたのがそんな事。
もちろん布団は掛けているのだが、それでも顔回りは寒い。
三月だと言うのに春の様子には遠く、未だに冬が去らぬよう。
暗闇の中、一人幽々子は半身を起した。
まだ朦朧とする意識の中で、先ほどの夢の内容を思い出す。
昔は……ああして良く妖夢を抱いて日向ぼっこをしていたなと。
そういえばあの子は寂しがりで、夜になると共に寝ていた事を思い出す。
どんなに寒い夜でも、二人でいれば暖かかった。
小さな手を握って、その体を抱いてぬくもりを感じて。
そこには確かな命を感じる事が出来た。
懸命に紡ぐ、命と成長の鼓動。自分には無いもの。
其れが愛おしくて、抱きしめると安堵して……それが……
いつから居なくなってしまったのか。
妖夢が陽だまりの中で甘えて来なく無った時は、布団へと潜り込んで来なく無った時は何時からだったのかと。
ああそうだと幽々子は思い出す。
妖忌が居なくなってしまった時からだ。
闇雲に祖父を探し回って、幽々子の胸で一日中泣いて、泣き疲れて眠ってしまって。
次の日から妖夢は甘えなくなった。そして未熟ながらも妖忌が行っていた仕事を行うようになった。
手伝おうとした幽々子を断って、何度も失敗し、その度に歯を食いしばって涙を堪えて。
そんな妖夢を見守るうちに時は過ぎて、幼子は成長してまだ未熟とはいえ一通りの事は出来るようになって。
「……妖夢」
不意に体に沸いた疼きを抑えるように幽々子は己の体を抱いた。
長くて重い吐息が漏れる。
渇望。
いま妖夢に向けられる感情はそれだ。
昔の様な我が子を慈しむような気持はどこに行ってしまったのだろうか。
分からない、もう思い出せない。変わってしまった。
そして自覚してしまった今はもう抑えることも困難だ。
見掛けだけは普段の通りにふるまえる。だが、今のように疼きが現れるともう駄目なのだ。
今すぐ妖夢の元へ飛んで行って、全てを自分の物にしたい欲求が意識を支配しようとする。
「……駄目よ」
言い聞かせるように呟いて、己を抑えるように幽々子は腕に力を込める。
妖夢を縛るわけにはいかない。あの子に置いて逝かせる苦しみを味あわせたくない。
我が子の様な、特別な存在だからこそ、最後のその時まで安らかに居させてやりたい。
自分を刻むことで、愛別離苦を背負わせたくない。
いずれ居なくなるその時は笑顔でいて欲しいと、そう願って……
「……苦しいわ、妖夢」
苦しい。口に出しても少しも楽にならぬ。
胸が渇いて、息が詰まる。
体中が疼いて、もうどうしようもなくて。
体を突き破って出ていきそうな想いを、いつまで抑えていられるのかと。
泣き出してしまいそうな曇り空。
いつものように縁側に腰掛けて、其れを見上げながらまるで昨日の自分の様だと幽々子は思う。
袖で口元を隠して小さく欠伸。
あれから必死で疼きを抑えること数時間。
眠りに就いたのは朝方であった。
それでも妖夢に心配をかけぬ様と朝には起きて、朝食をすます。
妖夢をからかいながら通らぬ喉に無理やり食事を押し込んで一息。
目元に滲んだ涙を指で拭いながらただ幽々子は空を見上げる。
ただ頭に浮かぶのは今は雑事をこなしているであろう妖夢の事。
おかしな様子はない。
二度ほど疼きを堪える事の出来なかった幽々子に迫られた事があったが、その時の事も何も言わない。
おそらく妖夢本人にしてみればいつもの戯れだと、そう思っているのだろう。
故にそれはあの場で終わりと、そう割り切っているのかもしれない。
だからこそ幽々子はいつも通り振る舞えるのだろう。
妖夢がおかしな様子を見せないから、いつもの日常をなぞる事が出来るのかもしれない。
「……ふぅ」
何度目かになるか分からない溜息。
随分とその回数は増えて、治そうと思っても気が付けば漏れている。
「浮かない様子ね」
不意に掛けられた声に幽々子が視線を向けると彼女が横に座っていた。
胡散臭い、それが全身からにじみ出ている女だ。
紫と白を基調とした道士服に、見様によっては少女の様にもまた妙齢の美女にも見える容姿。
「あら、亡霊とはいえ地面を好むことだってあるのよ紫」
突然の出現にも取り立てて慌てもせずに幽々子は返事を返す。
千年来の親友である妖怪の賢者。万物の隙間を操る彼女にとって場所や位置は意味をなさない。
あらゆる空間を裂き、そこを他の場所へと繋ぐ事の出来る能力で彼女が唐突に現れるのはいつもの事なのだ。
「そうでしたの。でも地面に居ながらふらふらと飛んで行ってしまいそうな様子でしたわ」
「そうね、飛んで行ってしまうかもしれないわね」
「あら……」
ふと親友が見せた憂いを帯びた眼差しに紫が眉をひそめる。
「いよいよ成仏するのかしら? 寂しくなるわね」
「その時は妖夢をお願いね、紫」
扇子で口元を隠し冗談ではないわと紫は笑う。
「妖夢は貴方が連れていくのではなくて?」
「……どういう意味かしら」
「隠さずともよいわ。……これでも千年程あなたの親友をやってきたのですからね。
その眼差しは恋の眼差し。随分前から貴方が妖夢に向けていた、違うかしら?」
少しだけ目を見開いて、それから幽々子は苦笑する。
「紫はなんでもお見通しなのね?」
「なんでもでは無いわよ、一度取り返しのつかない失敗をしてから注意深くなったのですわ」
紫がぱちりと扇子を閉じて胸元にしまう。
「聞くだけ聞きくわよ。一人で悩んでいてもきっと答えは出ないのですから。
幽々子は昔から他人には聡いのに、自分には酷く鈍いのですからね」
「そうね……」
苦笑を張り付けたまま幽々子が息を吐く。
自分に鈍いから妖夢への想いへと気付く事が出来なかった。
「妖夢が欲しいの。
今すぐあの子の下に飛んで行って、優しくキスをして、私のものにしてしまいたいと」
気が付いたときはすでに遅すぎた。
もう抑える事が出来ないほどに大きく育ち、幽々子の心の大部分を占めていた。
「紫は、どう思う?」
紫は首を傾げた。
なぜそんな当たり前の事を質問するのかと、そんな顔。
「好きにすると良いのでは無くて?」
幽々子の望んだ答えとは正反対。
「あの子は貴方を慕っているわ。それに真面目でもある。主人として命じれば当然の様に応じてくれるはずよ?」
「私は……」
幽々子は静かに目を閉じる。
「そんな事をするつもりはないわ」
「何故?」
「私は、妖夢を縛りつけるつもりはないの」
呆れた様な吐息が紫の口から漏れた。
「つもりはないと……だけどあの子は貴方の従者だわ。
きっと死ぬまで傍に仕えるはず、それはすでに縛られているのと同じでは無くて?」
「そうね、でもまだ大丈夫」
「何が大丈夫なのか……幽々子がどうしたいのかが分かりませんわ」
瞳を閉じたまま、ただ幽々子は紡ぐ。
「妖夢にとって、まだ私はおそらく、育ての親、敬愛すべき主人であるはずなの。
二度ほど、あやまちを犯しそうになったけれどそれは冗談だと思ってくれているはず」
「……」
「だからこのまま、私が想いを殺せば済むのだわ。
このままの関係で、最後まで終わる事が出来ればあの子はきっと、仕えた誇りを持って逝く事が出来るはずよ」
抑揚の無い声で。
「その頃にはきっと、妖夢にも子供が出来ているかもしれないわね。それどころか孫も……
妖夢は良く人里に買い物に行くから、誰か素敵な男性と知り合って恋をして、夫婦になって……」
淡々と、ただ淡々と。
「子供や孫は妖夢に似て可愛いのでしょうね。其れで真面目で融通がきかなくて、きっと私はその子をからかって遊ぶのよ。
従者はその子が継いでくれて、すべてがうまくいって、もう心残りは無いって、ずっと仕えてくれた重荷から解放されて安心して逝く事が出来るの」
言葉が途切れた。
紫は何も言わずにただ待ち、幽々子は力無い笑みを浮かべる。
「私があの子に思いを打ち明けて、よしんばうまくいったとしたら……あるはずだったそういう未来を奪ってしまうの。
妖夢は真面目だから、死ぬまで私を愛し続けてくれて、そして死の間際まで……死んでからも私を想って最後まで私に縛られ続けて消えるの」
だから……と幽々子は言う。
駄目なのだと。辛いのはいつも置いていく方。
何も残さずに、自らの幸せと引き換えに得た後悔と未練だけを抱えて。
そのまま居なくなるのはあんまりではないかと。
「解せないわねぇ……」
ふと、紫がそんな事を言う。
「貴方は昔からこの千年間、とても自由に生きてきたはずよ。
気に入った誰かが居たら好きに恋をして、最後まで傍に置いて、見送っても決して後悔などせず過ごしてきたはずです」
その視線は何処へ?
遠い遠い、過ぎ去った千年の時の流れか。
「中には貴方の言う妖夢の様な最期を迎えた者も居たわねえ」
ずっと、親友として幽々子を見てきた。
意外と惚れっぽい幽々子は何度も恋をし、添い遂げた者も少なくない。
「そうだったかしら?」
「そうよ」
幽々子が困惑の様子を見せる。
「……覚えていないわ。最後に恋をしたのはいつだったかしら」
人の寿命は短い。
せいぜいが五十年。
千年の中のほんの一握り。
幽々子の記憶にはもう無いのだ。
記憶は上書きされていく。
古い記憶から新しい記憶へと。
忘れていく。
どんなに共に居ても、好いあっても。
時間の波が全てをさらって足跡を消していく。
残るのは漠然とした、おぼろげに恋をしたという事実だけが頭にあるだけだ。
「まあとにかく、最後まで縛られて、何も残さずにその事を後悔して逝った者もいたわ」
「じゃあやっぱり……」
「でもそれだけでは無かったの。
全てをあなたに捧げて、それでもありがとうと笑って幸せに逝ったものも居たのよ?」
「でも……」
幽々子の声色にはただ戸惑いがある。
「私は、忘れてしまったのよ? かつて愛した、私のために死んだ誰かを、それで幸せなんて……」
「らしくないわね、幽々子。
貴方は自由に生きて、自由に愛し、自由に忘れる。そこには一片の後悔もみせない、そんな人物だったはずよ?」
「……」
「貴方が相手の事を思う言葉を聞いたのは初めてね。それは相手が妖夢だから、貴方にとって特別だからなのね」
「特別、そうね。私にとって妖夢は特別。子供のころからずうっと見守ってきた私の従者」
「貴方は縛りつけるがゆえに別れがつらくなると言うけれど……
逆を言えばそれはそれまでが幸せであったからでは無いかしら?幸せだったから、本当に愛していたから」
紫が浮かべた笑みをただ幽々子は見つめた。
「だから本当に好きな人にならば、たとえ縛られ続けるのも幸せな事ではないかしら?」
不思議そうな、ただ戸惑うような表情で。
「……縛られるのが幸せ?」
「そうよ、本当にその人を好きになって過ごした日々はその人を縛ると同時に支える糧ともなる。
寿命の違いで別れることになっても、辛さよりも糧が多ければ、きっと笑顔で逝くこともできるはずですわ」
言葉を終えて、紫が立ち上がる。
一度だけ伸びをして、それからいつもの胡散臭い笑みを幽々子に向けた。
「貴方の話を聞いていたら私も会いたくなってきてしまったわ。行ってくるわね」
「博麗の巫女の所?」
「そうよ、あの子は普段強がっているくせにすごく寂しがりで……」
その胡散臭い笑みの中に。
「放っておけないのですわ」
かつて自分が浮かべていたあの笑みを見た様な気がして。
「紫!」
幽々子が何を言おうとしたのか分からないまま、ただ声をかける。
隙間を開き、去ろうとしていた紫が振り向いて……
「本当に縛られるのを恐れているのは貴方ではなくて?」
途方に暮れた様な幽々子にそう告げて、彼女はその場から居なくなった。
静寂が残る、ただどんよりと曇った空の下に幽々子だけが残されて……。
微かに廊下が軋む音が鳴った。
「あ、幽々子様……」
幽々子が振り向いた先に妖夢がお茶の用意をして佇んでいた。
「紫様はお帰りに?」
「ええ」
「そうですか、えっと…」
どうしたものかと立ち尽くす妖夢に幽々子は呆れた笑みを浮かべる。
「ほら、立ち尽くして居ないで。せっかくお茶を入れたのだから休んでいきなさい」
「は、はい」
おそるおそるといった様子で妖夢が幽々子の隣に座る。
幽々子がお茶を手に取って一口。
それを見届けてから妖夢もお茶を手に取った。
ただ静かに、何をするでもなく。
二人は縁側で佇んでいる。
(本当に縛られるのを恐れているのは貴方ではなくて?)
先ほどの紫の去り際の言葉をただ、幽々子は思い出していた。
何を恐れているのだろうかと?
其れを考える。
自分は己に対して鈍いから、よく考えなくてはいけない。
でなければまた、妖夢への想いに気が付かなかった時の様に手遅れになってしまうのではと。
紫に対して幽々子は、胡散臭い妖怪ではあるが決して無意味に惑わすような言葉を投げる者ではないと信用していた。
何が怖い?
想いを打ち明けて嫌われるのが怖い?
また、それゆえにぎこちなくなるのが怖い?
(あの子は貴方を慕っているわ。それに真面目でもある)
置いて逝かせるのが怖い?
妖夢の幸せを奪ってしまうのが怖い?
(らしくないわね、幽々子。
貴方は自由に生きて、自由に愛し、自由に忘れる。そこには一片の後悔もみせない、そんな人物だったはずよ?)
自由に生きて、自由に愛して、そして忘れる?
いずれ妖夢の事も忘れてしまうのかと……其れは……
(貴方が相手の事を思う言葉を聞いたのは初めてね。
それは相手が妖夢だから、貴方にとって特別だからなのね)
嫌な事だと。とても嫌な事。
妖夢の事を忘れるなど、絶対に許されない事だ。
もし、遠い未来、そんな自分が居て、変わらずに笑っていたら絶対に……
……ああそうかと、自分が恐れていたものを幽々子は理解する。
いつも思っていた。
辛いのは、いつも残して逝く方だと。
相手を憂い、心の涙を流し、魂が掻き消えるその瞬間まで縛られ続ける。
でもきっと、残されてしまう方も辛いのだ。
空虚な想いを抱え、消えたぬくもりを探して、もう会えぬ苦しみに縛られ続ける。
だから忘れるのだ。心の平穏を得るために。
何事もなかったかのように笑みを浮かべられるように。
昔の自分はも同じだったのだろうか。
もう忘れてしまった愛しい者達との別れを苦しんで、嘆いて、だから忘れてしまったのか?
自分にとって妖夢は特別な存在。
我が子の様で、従者で、今はとても愛おしい。
魂魄の寿命は長く、おそらく自分が生きた千年は共にあるのだろう。
だからこそ……だからこそ……別れを恐れていたのは……きっと……
「……くしゅっ!」
小さなくしゃみに幽々子が振り向くと、妖夢が照れた様子で目を伏せた。
空は曇り今にも泣きだしそうで、三月だと言うのに春の様子には遠くいまだに冬が去らぬよう。
「妖夢」
「はい、もうしわけ……」
幽々子が己の膝を叩いた。
妖夢は一瞬きょとんとし、理解したのかその顔に狼狽が広がる。
「おいでなさい」
ああ、と幽々子は思い出すのだ。
どんなに寒い夜でも、妖夢と二人でいれば暖かかった。
小さな手を握って、その体を抱いてぬくもりを感じて。
「とって食べたりしないわ、ただ……」
そこには確かな命を感じる事が出来た。
懸命に紡ぐ、命と成長の鼓動。自分には無いもの。
其れが愛おしくて、抱きしめると安堵して……それが……
「昔を……まだ妖夢が小さかった頃を思い出したの、昔はよく二人で寄り添っていた事を」
いつから居なくなってしまったのか。
妖夢が陽だまりの中で甘えてこなくなった時は、布団へと潜り込んで来なくなった時は何時からだったのかと。
「……う」
短く妖夢が呻き、穏やかな笑みを浮かべて幽々子はただ静かに待った。
やがて観念した様子で妖夢が立ち上がる。
「し、失礼します」
そのままおそるおそると言った様子で幽々子の膝へと腰掛ける。
そんな妖夢を怖がらせないように幽々子は優しく、その手を妖夢の前に回し軽く抱きしめる。
暖かいと、幽々子は思った。
こうして妖夢を抱きしめるのはもう随分と久しぶりで。
鼓動の音が聞こえる。
とくんとくんと、妖夢の体に確かに感じる命の鼓動。
「妖夢」
と、自然に声が漏れていた。
体の疼きを幽々子は確かに感じていた。
だが、同時に起こるはずの妖夢への渇望はなりを潜めている。
代わりに甘い感情。
甘くて、纏わりついて、頭が麻痺してしまうほどに蕩けてしまいそうな。
(貴方は縛りつけるがゆえに別れがつらくなると言うけれど……
逆を言えばそれはそれまでが幸せであったからでは無いかしら?幸せだったから、本当に愛していたから)
「黙って聞いてほしいの」
言葉に、妖夢が体を固くする。
「まずはあなたに謝らなくてはいけないわ。
いつかの湯船での事、貴方がチョコをくれた時の事」
疼きを抑えきれずに妖夢に迫り、おそらく傷付けたかもしれない。
「貴方の気持ちも考えずに酷い仕打ちをしてごめんなさい」
妖夢は答えない。
ただ耳まで朱に染めて主の言葉を聞いている。
「もう、そんな酷い事はしないから、安心して欲しいの」
妖夢の手が、己の前に回された幽々子の手に重ねられる。
「その上で言うわ。ねえ妖夢……」
(だから本当に好きな人にならば、たとえ縛られ続けるのも幸せな事ではないかしら?)
「私は貴方を愛してしまった。
親愛でも、友愛でも無く。心から貴方を求めているの」
幽々子が無意識に重ねられた手に力を込める。
離さぬように、逃げ出さぬようにと。
「……この気持ちを知ってどうするか貴方の自由。
幻滅して出ていくのなら止めはしない、でももし残るのなら……私の気持ちに応えてくれるのならば……」
ぽたりと何かが重ねられた手を濡らした。
ぽたりぽたりとそれは幾度も落ちて、その手を湿らせていく。
「妖夢、泣いているの?」
何かに耐える様に固く目を閉じて、されどその瞳からの涙は防げずに。
「……気付いていました」
震える声で妖夢が言った。
「その想いが、その言葉が戯れでなど無い事を」
ずっと見ていたから。
幽々子が妖夢を見ていたように、妖夢もずっと幽々子を見ていたから。
言葉が途切れ、しばし落ち着くように妖夢が息を吐く。
呼吸を整え、それでもまだ声は震えていて。
「……従者であれと、私は祖父に教わりました。
貴方が命を賭けろというのなら本当に賭ける気で、貴方が戯れでも私を望むならお受けする気でおりました」
「……妖夢」
「其れで良いと私は思っていたのです。
従者であれば大丈夫だと、どんな関係になっても、従者のままでいれれば……千年の長き果てに別れることになっても…」
何を言おうとしているのか察して幽々子が息を呑む。
「ただの従者が居なくなったのであれば、残される貴方の悲しみは軽いもので済みましょう。
ですが、そのような想いを受けてしまったら、遠い未来にただ一人ぼっちになってしまう貴方が不憫でそれが恐ろしくて……」
もはや嗚咽に変わった妖夢の声は言葉を紡げずに呻くばかりで。
ああ、簡単なことだったのだ。
お互い恐れていたのだ。
幽々子を置いて逝ってしまう事を。
妖夢に置いて逝かれてしまう事を。
それ故にお互いが遠慮して、己に言い訳をして。
初めから想いは一つであったのに。
後は其れを受け入れるだけでよかったのに。
「妖夢、私は貴方の事を愛しているわ」
理解したらもう、躊躇いなど無かった。
(そうよ、本当にその人を好きになって過ごした日々はその人を縛ると同時に支える糧ともなる。
寿命の違いで別れることになっても、辛さよりも糧が多ければ、きっと笑顔で逝くこともできるはずですわ)
妖夢を愛そう。妖夢を縛ろう。
狂おしいほどに愛して、それで最後に笑って別れられるように。
失う事は怖いけれど、それでもここまで想いあって居る事が分かって、もう抑えることなど逆に残酷ではないかと。
「……私も」
強く手を握り合って。
掠れた声で、それでもはっきりと。
「幽々子様の事が……」
そう告げた妖夢を幽々子は強く抱いて瞳を閉じた。
明日から変わってしまう二人の関係の名残を惜しむかのように。
ただ寒いこの空の下で、たった二人で寄り添うかのように。
-終-
こんだけ……こんだけ悩んでようやく擦れ違ってた二人が向き合えたんですから、素直に安心させて下さいよ!
素晴らしい作品でした。やっぱりこの二人は愛し合ってこそ最高の主従関係であるのです!
ううう、ゆゆさま大好きです。