寝床で半身を起こした上白沢慧音が、明かり採りの窓に滲む空の闇を見遣ると、だいぶ星が西の方に傾きかけているように思われた。
さりとて、まだ村内で仕事を始める人々の動作や息遣いが漏れ伝わって来る気配も無い。今もって覚醒の急を要する状況でもないのかもしれない。
未明の晩は、再び寝に入るにしては頭が冴えすぎているし、灯明の光で読書などするにしてはあまり遅すぎるような気がする。夜中ふと目が覚めて便所に行き、その後で喉の渇きを癒すべく、水を一杯と求めたのが悪かったのか。ぬるくなってさほど美味くもなかった水はどうにか慧音の喉を潤してくれたけれど、同時に針のように寝ぼけた意識に突き刺さって、彼女の頭の中を醒ましてしまったのであった。こんな時、無理に布団を引っ被っても体温で汗をかいて気持ち悪いだけだ。ならば、ゆるゆると思索にふけってみるのも悪くない。日頃、いっぱしの学者みたいな仕事をやっているのだから、そんなことはさして苦手でもない。
再び窓から空を見た。
今夜は月が出ていない。朔の日だ。眠る前からもちろん知ってはいたが、それでも改めて確認すると、奇妙な安堵が胸に広がった。自身の肉体に半分混じる白沢の血を怖れているのでもなかったが、それ以上に、満月の晩がやって来て半獣の姿になると、ときおり、自分がすべての人々に取り残されてしまうような不安に駆られるのである。
人間の守護者として、寺子屋の教師として、また史書を編纂する学者として、人との関わりは常に絶えたためしが無い。だと言うのに、慧音はどうしようもない寂寥に駆られる時が稀にやって来る。いつの日か、大勢の人々の中に居ても、誰からも気が付いてもらえないのではないか……そんな慄きを夢に見て飛び起きたのも一度や二度ではなかった。その晩はどうだったのだろう、さっき私は夢を見ていただろうか。考えてみたが、水を飲み下した時に夢中の記憶まで一緒に腹の中に流れて行ったか、いくら頭を捻っても何も思いだせなかった。
「……おまえが居るというのにこんなことを考えるなんてな、妹紅」
呟くと、慧音はふッと笑って隣の布団で長い白髪に包まれるように身体を横たえている友人――藤原妹紅の寝顔にじいと見入った。
この妹紅という少女は、時々、何の脈絡も無く上白沢邸に現れては、泊めてくれとか一緒に飲み食いをしようと誘ってくる。それだけ見れば単なる無礼な振る舞いだが、どこからか調達してきた酒や食い物など携えてやって来るから、それなりに礼儀をわきまえているところがあるには違いなかった。慧音も慧音で、長く親密な付き合いを持っている『友人』だったから、むしろ向こうから飛び込むようにしてやって来るのは歓迎すべきことだった。
夕べも、妹紅は博麗神社に居候している伊吹ナントカいう鬼に博打で勝って、金の代わりに向こうの持っている酒を少しばかり巻き上げてから慧音の家を訪ねてきた。鬼の好む酒は、まるで火を飲み込むように喉を焼くキツい代物だったけれど、妹紅は顔を真っ赤にしながらも美味いと言って飲んでいたのであった。
そんな具合だったから数時間後にはすっかり酔っぱらって、妹紅が意識を手放すか否かというところで二人だけの酒盛りはお開きになった。そのまま、妹紅は慧音の家に泊まることになった。
足下に押し遣った蒲団をさらに両足でグイグイと押し込めると、慧音は寝間着である襦袢の前をかき抱いて身を乗り出しつつ、妹紅のすぐ近くまで半身を伸ばした。何のことはない、ただとりたてて意味の無い、悪戯の“はず”だったのだが。
ほんの少しばかり開けられた上下の唇から、妹紅の歯が見えた。星明かりの差し込んでくるのが、その並びを白く輝かせる。奥には息を吸い、吐くのに伴って舌が小さく震えている。まるで小さな子供が舌っ足らずに何かを呟く光景を連想させる。面白いものを見つけたと無邪気に駆けよって来る姿を。
とある、情動に駆られた。
寝る前に飲んだ鬼の酒も、今ほど彼女の意識を揺さぶるようなことはしなかった。どんな酒や薬や毒も絶対に作り得ない、一種、特別の心地良さ……われと我が身に火を放つような破滅的な気持ちの良さ。
鼓動がいや増しに早くなっていく。
自身もまた妹紅を真似るようにして唇を薄く開いた。
それから舌で湿らせると、姿勢を一段低くして、蛇が這うみたいに相手の顔に近づいた。深い眠りからのかすかな息遣いが、そのまま頬にかかった。あたたかく、抱擁をされているような感じがあった。それを行っているのはいったい何であるのか、急に知りたいという気持ちが兆す。元が学者の気質だからか、それとも子供じみた意味の無い好奇心のなせる技か。慧音は片手を突いて身体を支えると、もう片方の手で友人の額へと指先を触れる。かすかに汗ばんだ額、細く刃を思わす柳眉、すっきりとした鼻梁と明かりの下では生命の発露を何より雄弁に物語る頬は、まるで性別を越境した異装の少年かと、かつては思わされたこともある。
それぞれ順々に指先を滑らすと、その度ごとに柔らかく細かく、肌の生きている感触が肉体の末端を通して慧音の魂へ響き渡った。妹紅の顔を指で押し、爪で弾く度に、ぞくぞくと背筋に氷を差し込むような冷たい感動を覚えずにはいられない。生命の熱を感じているのに、甚だちぐはぐな感慨ではあったけれど。
指先に全身の触感が集中したような覚えと共に、慧音の内側にかつて感じたことも無いような熱が生まれ始める。自分の中にまったく違う別の生き物を孕んだような、それは、不気味に過ぎた悦びである。
明確な意思さえ持たない小生物の動きを観察するごとく、少女の瞳はふるふると震える。もはや意識のうえでは独立しかかった別の器官――自らの指先が最後に辿り着くのは、妹紅の唇だった。
そのふっくらとしている様は、暗がりの中でもよく判る確かな生命のいななきが聞こえてくるようである。ものを食べる唇、息をする唇。慧音と名を呼ぶ唇。そしてもうひとつ、ある行為を明確なまでに連想させられた。触れもしないうちに容易に知れる、その柔らかさ、あたたかさを、自らのものを押し付けて、最も“積極的な”形で知った者がかつて居たのであろうかと。自分の名を呼ぶより遥か以前に、その同じ膨らみを我がものとした人が。
しかしこの場の世界には慧音と妹紅しか居ない。否、ひょっとしたら慧音だけだ。この場にあっては、今や慧音は神のごとく、妹紅という世界をその手のうちに収めているのだ。これははや思いのまま。あるいは赤子の手をひねることよりも。
ようやく慧音は、毛の先ほども触れようかというくらいに相手の唇まで指先を伸ばしはした。が――途端、急激に冷めていくのが解った。情動が、何のきっかけも無しに木っ端微塵になっていくところを幻視するように。触れてはならぬ部分に触れようとして、寸前で善悪を省みるように。
何だろう。これはいったい、何だろう。何度も何度も自己に問いかける。
裏切られたと泣く友人の姿が見えた気がした。
全身に汗を、そして何より精神に失望を。
肉の凌辱よりも、むしろ見えぬ傷をこそ恥とする――そんな予感が飛蚊を病んでいるように視界に入り込んで離れようとしないのだ。
未だ訪れぬ歴史である。しかし、一歩間違えれば現実として自らの手で招来させてしまいかねない最悪の姿。
はッ、はッ、と犬のように荒い息を吐く度に、慧音の心は自責と罪悪感に支配されていく。汗でぴたぴたと頬に張り付く髪の毛の先から、針で撫でられているように痛みが感ぜられる。何ということだ。これでは、まるで。
打ちのめされて、引きずるような有様で元居た場所まで戻って来ると、今まで妹紅に触れていた指先が、絶対に拭い去れない汚穢に侵されているような気がした。
恥じた。
どうしようもなく、行いを恥じた。
相も変わらず真っ白い眠りの海の中に没入する妹紅の姿を慧音は眺め続けていた。幸いと言えば、相手がちょっとやそっとでは起きないくらいに深い眠りに落ち込んでいたことだ。その姿を見ても、さっきまでのような何かを突き動かすものに再び出会うことはなかったのである。日の出までの数時間を、慧音はもう一睡もできなかった。
何でもない相手になら、そもそも苦悩を抱かずに済んだはずだ。つまらないことだと笑い飛ばすことも。しかし、慧音は妹紅に対してそれが出来はしない。
白く膨らんだ友人の目蓋が、暗中、いやに目についた。
朝になって、あの目蓋の下にある妹紅の瞳が、自分をいつものように見て笑んでくれることだろう。けれど、それに対して自分はまっさらな気持ちで答えることができないのではないか。そんな不安がどす黒く慧音の心を塗り潰していく。
「白沢の血が目覚めずとも、私はひとりか」
孤独は案外と近くに居るものだ。
唇の端に自嘲の笑みを一瞬、浮かべると、慧音は「妹紅」と、小さく名を呼んだ。ううん、と、それに答えるようにしてか、寝言めいた声が就寝中の妹紅から聞こえたけれど、すぐまた黙り込んでしまう。
触れることができないと確信するほど、抱く思慕は絶え間の無い孤独として精神を醒ましていく。それはきっと、一種の自涜なのだ。
上白沢慧音は、藤原妹紅がすぐそばに居るその故に、不幸せであったに違いない。
「慧音はさー。ちょっと真面目すぎない?」
「む……。そうかな。至ってごく普通の振る舞いをしているつもりなのだが」
「いいや、絶対に真面目すぎだね。だって、こういうところで飯を食べたことだって無かったって言うじゃないか」
「それは何と言うかだな、忙しさにかまけてというか、単に機械が無かったというか……」
少なからざる人の声が絶えず行き交う道の端で、話し合う少女二人。
「やつめうなぎ」「かばやき」「まごころの味」などと、崩した字体で書かれたのぼりが二、三本ほど立っているのが目印の八つ目鰻屋の屋台を、慧音と妹紅は後にした。
「ありがとうございましたあ!」と、途絶えない客足にきりきり舞いにされながらも、小豆色の着物を着たミスティア・ローレライが笑顔で二人を送り出す。もっとも、二人の方では自分たちにかけられた言葉に特に注意を払うようなことも無かったけれど。
陽は空のてっぺんから順調に下りながらも威勢を振るっており、ここ最近少しずつ冷え込んでいたのが嘘のように暑い日だ。風は吹けども冬の気配にもまだ遠く、さりとて残暑と言うにしても遅すぎるというので、ちょっとばかり奇妙な秋の天気である。
まさか昼間っから一杯ひっかける気にもならぬが、ともかくも空きっ腹を抱えていたのではまともに話もできないだろう……と、慧音は妹紅に誘われるまま、美味いものを御馳走してやると誘われて、寺子屋での資料整理の帰りに引っ張り出されて赤のれんをくぐった。
(ちなみに勘定の方は、妹紅が持ち合わせが無いというので慧音が支払い、自分あての妹紅のツケにした。自ら御馳走すると言いながら、まことに面妖な話ではある)
屋台は、人里の中でも最も大きい通りの片隅にあった。
その日は、雑多な飾り物が殺風景だった道を、やたらめったら派手な色に飾り立てていた。
あちこちに夜雀のと同じような屋台が立ち並んで壁を作り、菓子や食事、子供のおもちゃ売りやくじ引き、射的などの遊びに人々が群がってはきゃあきゃあと楽しげに騒ぎまわっている。中には外界から入り込んだという珍品・奇品や、山から下りてきた河童が修理した機械だのを売っているという変わった店もあった。あちらを向けば白玉楼の亡霊少女が、庭師の心配をよそに数人分の串焼きをいとも容易く平らげ、こちらを見れば七色の魔法使いが、巧みな糸繰りで本当に命が宿っているとしか思えないような華麗な人形劇を観客に披露する。
香具師に的屋に、すねに傷を持っていそうな怪しげなやくざ者の客引きや、血の気の多い男衆が喧嘩をしていたって、この日だけは華々しいものさと、むしろ受け容れる心持に人々はなっていたことだろう。人の集まりを聞きつけた馬喰(ばくろう)はここぞとばかりに自慢の牛馬を競りにかけ、日頃の修行の成果を見せる大道芸人へ観衆は賛辞を惜しまない。
今日は、年に幾度かある祭りの日なのだ。
いったい、この祭りが何に由来しているのかは誰も知らない。
実のところは何にも理由なんか無くって、ただ単に大騒ぎを楽しみたいだけなのかもしれない。だから、べつだん誰が企画して主催するという訳でも無しに、いつも自然と……というか勝手に人が集まって来る。 なにぶん、あれこれと理由をつけては宴会を開き、理由が無くてもとりあえず酒盛りを行う幻想郷でのことである。同じことは祭りにも言え、『むしろ楽しみに細かな理由を見出す方が無粋』。人妖と老若男女とを問わず、そんな返答が返って来るに違いない。
普段と違うハレの舞台にて、着飾る者あり、大笑するものあり、商いに精を出す者あり。皆がそれぞれ好き勝手に謳歌して、毎回、祭りは十年分の盆と正月が一度に来たような盛り上がりよう。
「で、どうよ? 八つ目鰻は」
そんな喧騒を背にしつつ――妹紅は眼を輝かせながら感想を求めてくる。言うまでもなく、好意的な反応を期待しているのだというのが容易に知れた。
まるで子供みたいに隠しもしない無邪気な様子は、ふだん無軌道な生活を送っているのにも似合わない明朗さである。
ところで慧音にとって、夜雀印の八つ目鰻の蒲焼きは初めて食べる料理。
幻想郷に屋台こそ数あれど、“ここの”は特別に美味いという話は妹紅をはじめ、何人もの知り合いからたびたび耳にはしていた。しかし、それでもいざ食べるとなると変てこな緊張がやって来るものである。
串に刺さった蒲焼きの身をそっくりと掬い上げるようにして歯で噛み切ると、同時にタレの味が津波のように舌の先に染む。口に入った直後ではタレの味しか感じないくらいに濃すぎる味と思ったが、二度、三度と噛むうちに柔らかい膜がはがれるようにして、ふわりと海産物の旨味が漂い始める。焼かれて少しだけ固くなった表面が破られると、舌の上で転がされてとろけるようになる鰻の肉がじわりじわりと喉の奥まで達し、甘辛いタレと一体となって飲み込まれて行った。なるほど、ちょっとしたところでは二つの味が不調和なようでいて、実は繊細な鰻と濃い目のタレが互いの特長を殺さないようになっている……ような気がした。
ともかく批評家のようにあれこれと述べたてるのはかえって逆効果というものだろう。美味しいものを食べたときは、素直に美味しいと言ってしまうのが最も良いということもある。
「美味しかった。お世辞でなく、だ。初めて食べたが、来て良かったよ」
「だろ? 食わず嫌いは良くないって……」
妹紅の返答は、人声に少しく掻き消された。
真新しい草履で地面を突っ掛け突っ掛け、見るにも綾な浴衣に身を包んだ四、五人の老婦が、互いに何ごとか言葉を交わして笑い合いながら二人の脇を通りすぎる。笑顔を消さないまま慧音にも妹紅にも気がつくことの無い姿は、知った顔であった。
あれらは確か……幾十年も前、普通の人間から半獣に化して少しばかり経ってからの頃、そんな時代に付き合いのあった女たちだ。流れ去った歴史の断片が、箱に被さったふたをずらして、中身を覗き込むように仄見えた。昔は未だ、故郷に居て今の村にも住んでいなかったし、教師などという職にも納まっていなくて、ただいたずらに歴史にまつわる能力を濫用していただけだった。いっぱしの学者志望として自分なりに邁進していたつもりだったけれど、周りからすれば甚だ滑稽な姿だったことだろう。年老いた訳ではない。しかし、それでも青かった、と慧音は思う。
女たちは顔こそ皺が刻まれて、腰だって結構な曲がりようだったが、確かに知っている者たちである。元居た場所を出て今の場所に落ち着いている慧音だったが、彼女らはもうずっと故郷に留まって嫁いだように記憶している。自身も招待されて祝言の宴の席に出たのだから忘れるはずも無い。しかし夫や、あるいは子、孫が近くに居る様子もやはり無い。
さてはあの歳になってから離縁された訳でもあるまいが……と、苦笑しいしい歩を進める。すると、妹紅が怪訝そうな顔をしながら覗き込んできた。
「変な慧音だ。さっきからなに笑ってんの?」
「いや、さっきすれ違った数人、昔の知り合いでな。懐かしみを覚えて……というやつだよ」
「ふうん。仲が、良かったの?」
「それなりに付き合いはあった。良くも悪くも。これでも、土地の知識人として上白沢慧音の名は少しは知られていたのだぞ。でも、さすがに忘れられてしまったのかな。何せ、別れてからかなりの時間が立っている。私はワーハクタクだから、常人より老いるのが遅いとはいえ――容姿が変わらなかったところで、記憶の中からはどうしようもなく薄れていくのだろう」
「へえ。そうか。……寂しいもの? そういうのは」
「うん……寂しくないと言ったら、嘘になるかもしれないよ」
慧音が答えると、妹紅は両腕を頭の後ろに組んだ。そのまま、ふわァ――あ、と大あくびをかきながら、慧音に少し遅れる形で歩いている。
そして、その途上で何か気がついたように、あくびから途切れさす間も無く言葉を継いだ。
「何てえか、さあ」
「ん?」
「ちぐはぐだよね。慧音は、周りと」
突拍子もない言葉。この時の妹紅の真意をいささか測りかねて、今度は慧音の方が怪訝な顔をすることになった。
「上白沢慧音は歴史を見ることができる。食べて隠すことも、創って記録することも」
「ああ……そうだよ」
「でも、一方的だ。自分だけが憶えてても、他の誰も忘れてしまうかもしれないじゃないか」
「ああ……そうかな」
言葉を濁したのは、妹紅に自分の不安をぴたりと言い当てられたような気がして、少しだけぞくりとさせられたからだった。
意図してか、あるいは単なる偶然か。
こうして他人の心のうちを読み切るのは、どれだけ胸のすくことだろう。
千年も生きてきたという彼女の言葉には、生半可な否定では覆しがたい重石が混じっていることがある。こうして話しているときでさえ、慧音にはぴりぴりと痺れるような至当の不安が安堵の衣をまとって浸潤している。歴史を食べ、また創るという、言うまでもなく他者と自分が造り上げた、単なる時間の流れ以上のことに介入する能力は、ひとつの葛藤を呼び起こさずにはおかない。
老婦たちのことだけではない。
いかに深く関わりをもったところで、時の流れは瀑布や大河よりもなお暴力的に、あらゆるものを押し流さずにはおかない。昔、どんなに精強な武神とて、時の流れには逆らえないという物語を読んだことを思いだす。それは老いによる逃れようも無い消滅を説く挿話であったが、万人を等しく覆う無常とは、歴史の司たる神獣・白沢の力をその身に宿す慧音にすれば、単なる肉体的な死よりもなお移ろいやすい、忘却そのものへの恐怖だった。
自分だけが知っていて、相手からは忘れ去られていく。
それはよくある話。至極、ありふれたジレンマだ。しかし、だからこそ解き難い難問だ。
「長く生きていれば、そんなこともあるさ。どうにもならないことを飲み込まなければいけないときは、どうにもならないことがどうにかなるようにするしか無い。できないと、無駄なことだと、心の底から解っていても」
「そう? 何だか悟ってるね、慧音は。私は……そこまでにはなれないよ。あんまり生きるのが長すぎるとね、むしろ何もかもが重荷になってくる。次から次へと忘れないで欲しいって言われるのが、見えない鎖みたいに思えて。だから、あんたはそのぶん、立派だよ」
「おだてても何も出ないぞ。それに、言うほど、大層な思想でもないさ」
達観の言葉を吐くのは、押し留めなければならないものがあまりに大きすぎたからだろう。ものに驚いて哄笑を受けるのも時には好いことと思えど、その瞬間以上の驚きが持続するはずは無い。憶えられ認識される歓びを受けるためなら、慧音はあえて道化の運命を受け入れることだろうが。しかし、それが鮮烈であればあるほど、訪れた滅びは苦痛の度を高める。向けられた忘却の味を精神に染ますのを唾棄してはならないと理解していたが、妹紅の返事に対して、またさらに十全の満足を覚えることも無かった。
慧音は死ぬまで妹紅を憶えているだろう。しかし、逆はどうか。
妹紅は慧音を憶えていてくれるだろうか。
そして慧音が思うように、妹紅は慧音を思っているのか。
未だ紡がれていない歴史を、知る術などあるはずとて無く――――。
少しの時間しか経っていないというのは勘違いだったのか、地面に張られた橙色の光の幕が剥がれかけ、頭の見えなくなるほど伸びきっていた人影もその境を失いかけているのに気が付いた。
西の空は未だ明るみを残してはいたけれど、東には既にもう、濃い藍色の暗みと、ぽつぽつと光るひときわに明るい星が進み出ていた。左側が溶け落ちたような半月が、表面の穴ぼこも鮮やかに真白い姿をさらし始めている。
祭りにやって来た者も大勢増えた。
わずかに残った陽の明かりと、徐々に点されつつある地上の灯で照らされる者たちの顔は、みな一様にどこか別の空想を見ている。でなければ、この『転倒した』日にはふさわしからざる部外者なのである。額と頬に汗の化粧をくっ付けて、目玉が埋まって見えなくなるくらいに笑んでは目蓋を歪にする。わァん、わァん……どこかで鐘の響いたような音が聞こえたが、きっと無数の人声が混濁したせいかもしれない。この絶えざる望まれた無秩序の中に、ようやく彼らの交歓は成るのだ。地上から剥離していく魂の幻想を感じながら、平穏な恍惚が今にも昂ぶっていた。
人いきれと、がやがや言う声が混じり合う。暑く、熱い晩。立ち上る土と人のにおいが、嗅覚を介する以上の明敏さで感覚の真ん中に踊り込んで来る。
決して記録者の存在しない悦楽のときは、すべからく欺瞞を取り払った終わりある幸福をもたらそうとするものだ。
ある若い男女が猥らな視線を見交わすのを、慧音の眼は偶然にも捉えた。二人の関係も、取り合う手の生温かさも、すべてを瞬きのように悟った。満ち満ちた不可視の『戦慄』が全身に降りかかる。その慄きが今ある悦びを鼻先に突きつける。楔と言っても良かった。いずれ来たるものの故に、人々は鮮やかで喜ばしい狂気の淵に陥っていた。蜜よりもなお柔らかにとろける夜が、果たして逸脱を瞬時に肯定しないはずが無い。男と女が通りをすり抜ける。洟を垂らした幼い少年にぶつかりそうになりながら、お面屋の親父にチラと見られながら、息も絶え絶えに物陰に踊り込むのは祭りの興奮のためだけでは無かっただろう。宙にぶら下がる提灯が揺れる。揺らめいた火が明々と、人の群れに躍りかかったように見えた。夜がすべてに許しを与える。この時にこそ、禁忌はいとも容易く崩壊する。
女の湿った掌が、男の肌をどうやって愛撫しているのか。
男の震えていた股座が、女の中で何を吐き出しているのか。
――さすがに、見ようと思わない。
慧音自身も、それほどまでに悪趣味な性格をしていない。例の二人も、きっと、そのうち誰に言われずとも“戻って来る”のだから。
「……少し歩こうか、せっかく来たのだし」
「そうだね。たまには。せっかく来たんだし」
人波にぶつかり揉まれながら、何かから逃れるようにして妹紅は慧音を追い抜かした。よそ見をして歩く男から肩にぶつかられ、ごめんよ、と謝る相手を見もしないで、妹紅は歩く。慧音も歩く。何も言わずにただ歩く。
長い長い白髪が、燃えるかすかな明かりの下では白銀の織り込まれて揺れる精妙な美しさを持っていた。身を覆う白いシャツと、正反対の色合いで痩身を締める真っ赤なサスペンダーと――その下にある、見えるはずもない裸身がその手に触れるように想像されて、切れ切れに自覚する衝動に、慧音は嫌忌を感じずにはおれなかった。
もんぺのポケットに突っ込まれた両手の甲。橙の光で染まりながらも侵しがたい白みが確かに輝いている。そこから伸びる腕とその付け根が、羽を震わす雛鳥を見ているようにもろく崩れやすいものと思えた。少しく汗ばんだ肌に密着した薄手の衣服に背中の真ん中に通った筋と、肩からかすかに盛り上がるように見える肩甲骨の突起がとりわけ凄艶の度を増していた。千年もの間あらゆる苦役に痛めつけられ、血に塗れ、何度となく宿敵との戦いと死と再生を繰り返してきた肉体だ。もっと、隆々として堅く鍛えられたものと漠然と思っていた。しかし、違う。あまりにも儚げな少女然としていて、たおやかさ、という言葉だけでは到底足りないくらい、今にも折れそうな華奢に過ぎる身体をしているのだ。
慧音はこれに触れたい。倒れるところを支えてやりたい。気の済むまでうんと抱きしめてやりたい――が、幾日より以前の、妹紅の唇に指を触れようとしたあの晩が思い出された。
忌々しい情欲が、再び脳髄の真ん中に湧きあがって来るのがおぞましい。
いったい、いつから自分はこんなに浅ましい者に成り果ててしまったのか。
こんなにも、手に入るはずもない喜びに餓えて、求めてはならないものを求める愚か者に。
もしかしたら、関わりある万人の記憶から完全に抹殺される未来が到来したところで、笑い飛ばせてしまうのかもしれない。妹紅の記憶に留まれないことの方が、その笑顔を向けられなくなる日がいつか訪れる方が、よほど怖ろしい未来なのかもしれない。確信を何度も何度も胸のうちにしまおうとして取り落し、無理矢理に忘れようとするくらい、慧音は妹紅を自身のうちに留めておきたかったし、妹紅の中に残りたいと願ってもいた。
さっき偶然にも見たあの男女のように、最も深く、他にありようも無い昇華の姿にも、予兆される終わりの光景にも、二人が到達することは許されない。
ならば――藤原妹紅と二人で歩くが故の、そのために訪れるたったひとりの孤独でさえ、上白沢慧音は幸福だと信じてみたいのだ。
誰にも知らせず自分ひとりが何かを耐えた方が、よほど気が楽なのだから。
「おっ! 慧音、あれ見てみなよ。彼岸の連中だ。何かの出し物かな」
「本当だ。四季映姫さまに、小野塚小町どのだな」
幾つかの通りが交わって、とりわけ大きくなっている辻の真ん中に、人が数人は乗れようかという大きさの木製の壇がしつらえてある。飾りも何も無い簡素な造りのようだが、実際に使用されているところを見るとそれなりに丈夫であるようだ。
そして、閻魔である四季映姫・ヤマザナドゥと、部下で死神の小野塚小町が、そこには確かに立っていた。
赤と黄色の揺らめく光が照らすその先に、ひときわ大きな人だかりがあった。円を作るようにして彼岸の二人を囲む人々は、みな一様に念仏を唱えたり、合掌したり、うなずいたりしているのである。こころなしか、年寄りが多いような気がした。
人の山の向こう側を背伸びして見ると、映姫がいかにも厳かな表情で何かを語っているではないか。背も低く、どこか幼げな顔立ちにも似合わぬものがあったが、その場の誰にも疑問を発する者は居なかった。
四季映姫・ヤマザナドゥは元来、真面目という概念に手と足が生えた挙句、相手を思いのままに断罪する絶大な権限を付与されたような人物である。それだけならまだしも、極めつけには休日であっても幻想郷中を歩き回っては人々に説教を垂れ、善行を勧めるというから、その謹厳実直ぶりはまことに堂に入ったものだ。慧音自身も何度かその場面に出くわしたことがあるが、その度に彼女の勤勉さに頭が下がる思いがしていた。
見ると、映姫はいつもの仕事道具である悔悟棒を一心に振りながら、自分のすぐ横にある何かを指し示している。
「彼女は、祭りのときでもお説教をなさるおつもりなのだろうか……」
あとで挨拶のひとつでもしておくべきか。
と、一応の礼儀として思いもしたが、それでもこんな祭りの場所でもなお普段のやり方を崩そうとしないかたくなさは、さすがに四季映姫といったところだろう。
腕を組みながら苦笑しいしい、遠巻きに眺めていると、ふと妹紅が振り返った。頬を思いきり歪ませて歯を見せ、ニヤリと笑みを浮かべる様。まさしく悪戯を思いついた子供そのものである。
「ね。気にならないか、何をやってるのか」
「ま、まあ……確かに」
「ちょっと前に出てみようか」
そう言うと、妹紅が慧音の手を取った。ぐッ! と引っ掴むように、ここではない、遠いどこかへ連れ去ろうとするように。
そのまま人の群れの最前列へ進み出るまで、慧音には何が起きているのか、自分が何をしているのかも解らなくなりそうだった。周りのすべてが無音だった。艶を帯びた懐かしい会話を交わす老人連の声も、夜気を震わす笛や太鼓の音も、切れ切れに耳に届いていたはずの閻魔の言葉も、何もかも。あらゆるものが静寂の地平に押し込めれられて、どんな人間や妖怪でさえ張りぼてと何ら違わない意味の無いものへと変じてしまったように思った。何も無くなったその中で、ただ自らの胸の高鳴りだけがやかましく鳴り渡っている。こんなものは聴きたくない。こんなものがある限り無意味な焦燥が繰り広げられるだけと考えるごとに、いま慧音に後ろ姿を見せる妹紅の手のひらの温度が、消え去ったどんな音よりも高く彼女の中に入り込んでくるような気がした。聞こえるはずのないもの、音でさえないものが――突き破るのではなく、ただあたたかく、彼女のうちに在ろうとして消えてくれない。響き渡って静まってくれない。
こんなものは、まるでおかしなことだ。
何もかも、気さえ違ってしまいそうだ――。
慧音の手を取る妹紅の手にはどこまでも熱い、生命がある。不死だとか、そんなことはまるで関係も無しに。この昂ぶった晩の元で、慧音は慧音で無くなるのだ。ただ剥き出しの生命が融けだして求めていたものとひとつになろうとする望みだけが、衝動と呼ぶさえおこがましい何ものかに変じようとしている。
極上の歓喜と、そして、耐え難い苦痛。
妹紅は慧音の手を取ったのだ。ここではない、遠いどこかへ連れ去ろうとするように。
では、いったいどこへ連れて行ってくれるというのだろう。何を見せようとするのだろうか。それが本当のことだったとしたら、そのときに自分はどうなるのだろう。自分は、どこに向かおうとしているのだろう。
妹紅と共に在る慧音とは、『私』とは、いったい、誰なのだろう――――?
小柄な閻魔の隣では、対照的に大柄で豊満な肉体をした小野塚小町が、どこか口惜しげな顔で頬を掻いている。「せっかくのお祭りなのに!」とでも言いたげである。
三途の河の渡し守にして死神たる彼女は、言うまでもなく普段は三途の川べりに居るはずだ。それが、上司の映姫と共にここに居る。それに、得物の鎌だって持っていないようだ。彼女は女性にしては体格の大きな方だから、映姫よりもよく様子を観察できてしまう。
「……先ほどもお話ししましたが、もう一度。死後、罪人が落とされる地獄は生前の行いによって、いくつかの種類があるのです。しかしそのいずれも、怖ろしい形相をした獄卒たちによって、罪人たちは気の遠くなるような年月を処刑されては生き返り、生き返っては処刑されます。刑期の終わりまで、彼らにできるのは己の罪を悔い、痛苦に身をよじることだけ。死ぬことすらも許されません。――小町、6枚目の絵を出しなさい」
慧音と妹紅が群衆の最前列まで躍り出ると、ようやく閻魔と死神が何をしているのかが見えた。やはり説教らしい。映姫の指示を受けた小町が、指定された何ものかを引っ張り出している。
彼岸からやって来た二人の傍らには、細密な装飾が施された額がいくつか置かれてある。
全体、古びてはいたようだったが、雑多とも称すべき牛頭・馬頭・獄卒らの鬼、それを取り巻くようにして燃え盛る大火炎、そして、てっぺんで悪に対する鉄槌を下さんと正義の憤怒に突き動かされる閻魔大王。それらは果たしていかなる職人の手になるものか、塗りの禿げかけた様子にも似合わず、あたかも“本物”をその目にしているかのような存在感を保っていた。
群衆の眼の珠が一心にそれを見つめ始めると、誰が最初ともなく感嘆の溜息が漏れ始める。おおッ……と、汗ばんだ手を握り込んでわれ知らず声を発する者もいる。
そして、彼らがようよう視線を釘付けにされずにおかないものは、額にはめ込まれた地獄の有様を描いた絵図なのである。
燃え盛る熱と火の大海原へ落着する罪人。彼らの首根っこををさすまたで押さえつけ、槍や矛で突き殺す獄吏たち。
筋肉の塊のような隆々たる体躯の鬼たちは、一片の慈悲もくれてはやらぬとばかりに刃を振るって帰り血を浴び、やせ細った罪人たちは、ひざまずいて許しを請ういとまさえ与えられぬままに、ぼろきれのように砕けていく。焼かれた皮膚が黒々と爛れ、髪の毛は肉ごと剥がれ去り、手足は千々に砕けて血と涙に塗れながらに骨ごとばらばらになっていく。生前の悪行の代償として地獄に叩き落とされた彼らが、みな一様に喘ぎ苦しみ泣き叫び、憎悪とも悲嘆とも哀惜とも見える表情で、言葉なき呻きの大音声を放ち続けているところを描き取っているのだった。彼らの身を焼きつくす焔は、断罪のためと言うにしてはひどく美麗なものに思えた。いつ止まるともなく揺れる提灯の光に照らされると赤にも黄にも金にも見え、真に迫った怖ろしげな地獄の姿であるにしては、見る者にひどく、不釣り合いな感慨を催させた。それらはことごとく、生者が抱き得る情念の、絵画として具象化したる炎であった。人の心に湧きあがる悪心そのものに身を焦がす者たちの、あまりにも凄烈に過ぎる懺悔の情景であった。
映姫はさっき、“地獄にはいくつかの種類がある”と言ったか。では、これと異なる種類の地獄がまだ幾つもあるということだ。慧音はごくりと唾を飲み込んだ。何と喜ばしきことであったろう、何と悲しきことであったろう。生は虚無などでなく、その後に必ずや訪れる最果ての体験こそが、何よりも生の限りの無い膨張を促すのだ。未来への予兆そのものを感ずる度に、生者はその歓びを噛み締めてしまうのだ。
地獄を、ただ地獄を、悠然と歩いているような錯覚がした。
孤独は責め苦となる炎でなく、生前の罪科として自らの良心を苛む何ものかで、そのためにこそ上白沢慧音は現世に在るはずもない空想上の地獄を、自らのうちに感じ取っていた。
妹紅が相も変わらずポケットに手を突っ込んで、まじまじと地獄絵を見詰めている。しかし、その表情は、どこか安堵にも似たもの。自分にとって有り得べからざる世界を垣間見るような、おとぎ話に耳を傾ける少女のもの。言うなれば――『憧憬』である。
その紅い瞳に悦びの兆すのを、察した。
息が弾むでもなく、肩を震わすでもなく、妹紅はただ口をつぐんで一心に、描かれた地獄を見つめている。いくら迫真の作とはいえ、それがただの絵であるというのは誰でも心のどこかで了解しているだろう。が、そんなことさえ忘れたように、妹紅は『自分にとって絶対に手に入らないもの』を必死に求めているように見えた。ふ――わりと風が吹き、少女の白髪がふと揺れる。その額の一面に張り付いた汗の珠を見るだに、慧音は絶望的なまでの断絶の感に襲われる。
妹紅はどこかで求めている。
死を、破滅を、消滅を。そして、地獄を。
だから、きっと――。
否!
慧音は頭をうち振りたい気持ちに駆られた。そんなことがあるものか。自分の孤独は自分だけのものだ。この悦びを、裏に潜む絶え間の無い不安を、誰からも忘れ去られるという恐怖を、知っているのは自分だけなのだ。まるで妹紅が既にその未来を確定させているようなことは、どうあっても考えたくない。慧音を慧音として在らしめる寂寥が、妹紅の持つ無限の命の中でいつしか跡形も無くなってしまうなど、切れ端ほども思いたくない。自分が妹紅の中に残ることができないなんて、そんなことは。
だから、彼女はいつものように言葉を紡いだ。それしかできようはずも無かった。
眼の奥底で形の無い涙を流しながら、別離の姿をまざまざと思い浮かべながら。
限られた時間に深く痕を刻み続けることだけが、自分にできる最上の手段なのだと信じて。やはりそれは、火炎のように地獄めく情念であったに違いない。
「見えるか、妹紅。“あれこそは苦悩だ”。あそこに描かれた火炎は死ではなく、生における苦悩そのものの姿なんだ。死んだ後のことをこそ、生きているから考えなければいけない。そうなることが、魂を焼く炎を見出したのか。炎の熱さに倦んだ記憶から、われわれは他界に思いを馳せるのか」
いつとも知れず雄弁になりかかる自らは、その言葉の連なりによって崩落しそうな足場を支えているようなものであったろう。そんなことを考えるだけの余裕があればこそ、何ごとかを繰り返し繰り返し語ったように慧音は思ったが、喉を越えて舌に乗る言葉はただ滑り落ちるだけで、本当に相手へ伝えようと思っているのかは甚だ疑わしかった。その傍らの妹紅が、ポケットに突っ込んでいた片手を引きぬいて顎をひと撫ですると、ようやくにして何かの機械が動作を止めるように、張っていた糸が切れてしまうように、乾ききった口内に未だ出かかっている言葉を留めることができたのである。
「そりゃ……そうだ」
濁したように、白髪の少女は呟いた。異様な苦々しさを伴った声だ。
往々にして苦しみこそ記憶には残るものだけれど、この夜のことを憶えていられるのかは判らないと慧音は思った。
いかに能力の恩恵で事物の歴史を知悉できたとしても、個人の許容そのものには自ずと限界が訪れる時が来る。まさしく、人はそのために歴史を記すのである。自らの忘却を怖れるがために、あるいは留めなければならないものを何としてでも伝えるために。むろん、慧音とてそんなことは解りきっているのは言うまでもない。だが、それでも不安は刺すような――と言うよりも、飲み込んだ針が駆け巡るような怖気を振るわずにはおかない。この地獄のような生を自覚した慧音が、果たして歓楽と苦痛の同居する一夜を、留め置くだけの理性を保ちうるのか。それは、妹紅だって、どうなのか。幾万もの無間の生に虜となった白髪を、昔日と同じ風が揺らしてくれるものか。
とつぜん早口で、妹紅は言った。
何か、出来の悪い芝居を観ているような、どこか不完全な諧謔を、慧音は感じた。
「生きることへの悩みなんて、きっと人間や妖怪しか持っちゃいない。大勢の生き物全体からすれば、今日明日とどうやって生き延びるべきかの方が遥かに重要だ。こんなにも懊悩そのものへ思い馳せるなんて、贅沢なことだね」
「では、その果てに――成功した生の伸長の果てに、悪徳があるとしたら。それがひとつの絶えざる衝動であり続け、そのために苦悩の余地があるとしたら」
例えば……すぐには言葉が出てこなかったが、それでも慧音はきッと妹紅の横顔を見ながら確かに言った。もはや地獄絵も閻魔の説教も意識に入らず、それどころか自らの意思で遮断したようなものだった。
例えば、妹紅が私を殺したとしたら?
「どうかなあ!」
今度こそ、妹紅は、呵々大笑といった風に大笑いをする。
突然の大声で周りの何人かが二人の方を見たようだが、それでもなお笑い続ける声が止むことは無かった。
「もし、何かの“気まぐれ”で藤原妹紅が上白沢慧音を殺したら……私は悩むだろうか。でも、それで後悔するなら初めっからそんな行いをしなきゃ良いだけの話だ。子供が虫の胴体を千切って遊ぶみたいに、ひとつのためらいだって無い生き方は、夢物語やおとぎ話よりもっと嘘っぱち」
「悩むだけの“衝動”は無いのか? 妹紅に私を殺すことは、できない?」
破滅への一念は、知っているくせに――。
ふふん、と、妹紅は鼻を鳴らす。慧音が妹紅へささやかな嘲りを感じたように、相手の方でも、どこかせせら笑うような色がある。
「きっと無理だよ。……今ンとこは」
「今のところは、か」
「そうだ、今のところはね。どうにもならないことを飲み込まなきゃあ、いけないときは、どうにもならないことがどうにかなるようにするしか無いんだろ。できないって、無駄なことだって、心の底から解っていても。……さっき、あんたが言ったことさ」
「殺さざるを得ないときは、いつになる。地獄に落ちるはずの無い者が、地獄に落ちていくときは」
嘲りは、本当に友人への嘲りだったのだろうか。
どこか遠くで醒めた視線を向けるもう一人の自分を、慧音は自覚した。どこに居るかなど初めから明確でない。しかし、確かに降り注ぐ視線が脳髄の裏に突き刺さって、ガアガアとわめき立てているのであった。それは、本当は誰に向けられたものだというべきか。妹紅ではない、果たして他の誰でもない。もしかしたら形ある人ではなく――地獄そのものだったのではないだろうか。人の苦悩たる炎の集積が、汲めども尽きぬ憧憬として付きまとう理性の裏側に、その傷跡を消えないようにと刻みこむ。その現実に、慧音は嫉妬を覚えていたのだろう。
手のひらが、氷のように冷たい。
それどころか、刃を握り込んだように痛みさえ感じる。どんどんと熱くなっていく劣情とは裏腹に、身体そのものが死体のごとく冷ややかな感触に近づきつつある。地獄。苦悩の果てにある地獄。妹紅には決して行くことも叶わない地獄。有限であるからこそ永遠に対し無謀な憧れを抱くように、永遠は時に有限を求める。とどのつまり、いずれにせよ『欠乏』であることには変わりが無いから。
「不死者が落ちる地獄は無く、ましてこの世も地獄と言うにはまだまだぬるい。けど地獄が無いって言うのなら、自分の手でもって創れば良い。他の誰にも触れられない、たったひとつっきりの、夢みたいに楽しくて、夢でも追いつけないような地獄をね」
「地獄を創る……? 随分と――」
大それた物言いだ。そんなことができるはずもないのに。それはただ、願っても叶わぬ理想のようなものだろう。自分に無いものを手に入れるために力を振るうのが人間なら、手の届かない望みを夢見るのもまた人間だ。そんな当たり前のことをあえて主張するようなものだと思ったが、あくまで妹紅は快活な様子で語り続ける。一片の躊躇さえないように、それは羨望さえも抱いてしまうほどに。
「あんたはおかしな話だと思うかい、慧音。きっと大概の連中は、そう言うだろうね。有り得ないものに憧れ続けてる。触れらないものを生きても死んでも願ってるんだよ。死ぬことなんてできない蓬莱人の、そのくだらない考えごとに悩み抜くのが、終わらない一生に“張り合い”を与えるようなものでさあ。……でも、だから私は人間なんだ。いや、人間だと思いたい。誰に何を言われたってね。だって――」
ようやく、彼女に躊躇する様子が見えた。あたかも侵すべからざる禁忌に手を触れたように、眼を伏せた様子には幾ばくかの悲壮があった。
「――だって、苦悩や葛藤の無い奴ってのは、獣とさして変わらない。本当の地獄に落ちたって後悔しないだろうから」
私は地獄を歩けるのだろうか。と、慧音は自問した。
妹紅が落ちたいと思える、本当の熱を持った地獄をだ。その死において、友人を苦悩させるに足る、地獄への道行きを導くことができるのかと。
もはやひとつの言葉も、視線すらも見交わすことの無くなった二人を取り巻いて、群衆の興奮と気炎はいよいよ確固たるものへと変化しようとしていた。
閻魔の説教とそれを拝聴する者たちは、慄然たる陶酔の妙として感嘆の中に掻き消えようとしていた。ひときわ高らかにかき鳴らされる楽の音が、時間も空間も超えた、眼に見えぬ至高の場所への導き手に変じてしまったかのようだ。飛び去りかけた理性のタガが、狂騒そのものを養分として自らを破壊しようと夜に喰らいつく。人と大地と生と死のにおい、いま始まるものと終わろうとするもの、交接と離脱の瞬間が、月すら隠してしまいかねないほどに世界を覆い尽くしている。幾度となく繰り返され、幾度となく忘れ去られたはずの営みが、その晩もまた祝祭として結実したのだ。いつ果てるともない快楽が、ようやく終局に向かおうとしている。けれども、それを受け入れる者こそあれ哀しむ者は一人も居なかったに違いない。
掻き回される無秩序の果てにあるであろう『肯定』を秩序立てて考えることなど、地上に生きている間は到底望むべくもない。可能なのは、それをささやかに感じることだけなのだ。
慧音もまた、いずれ来たる終わりを予感することしかできはしない。
それがいかなる歴史と成るかは、判らないが。
夜が弾け飛ぶ。
塗り固められた極夜の似姿に幾度も幾度もひびが入り、星々は仮初めの姿を捨てて地平の果てへと逃げ去っていく。
喪失の色を濃くし始めた終局の元では、月までも容易く融解するのだ。粉のように砕けた金色の矢じりが最後の足掻きにて地上を照らし、断ち割られた暗黒の天蓋を覗き込むように、燃え立つ日輪がいずれは流れ込む。
友人の白髪が千幾年のどんな風に揺られたことか、それを問うことは、あってはならない愚行に思えた。その中に何が残っているかも、これから何が存続していくのかも、生きている限りに――枷になろうとしてはならない。
ときおり慧音には、死との交合を求める妹紅の彷徨が、他の誰が行うどんな行為よりも貴ぶべきものに感じられて仕方の無いことがあった。
そうして、自身には絶対に手の届かぬ虚ろなる生の不気味な軌跡が、ひどく、羨ましくなる。
ここは地獄ではあるまいが、しかし地獄よりもよっぽど凄惨で、そして居心地の良い場所なのだ。二人で手を握り合って耐えるには、地獄の炎は少々冷たすぎる。導くよりもはるか以前に、きっと慧音は堕ち切っていたことだろう。
たとえ妹紅に忘れ去られる歴史が確かに訪れたとしても、もはや構わない。
その戦慄のために、何よりも熱い地獄の似姿を、悠然と歩くつもりにもなれるのだった。
四季映姫の説教は、いつの間にか終わっていた。
人々は散らばり、地獄絵はどこかに片づけられ、後にはただ壇だけがポツンと残されているだけである。世界の全てから取り残されたみたいに、孤独の極みとも言うべき情景。触れれば焼けそうな、自分自身の姿が炎に取り込まれているところを幻視した。
自分の顔がどうなってしまっているのか、慌てて声をかける妹紅の声が無ければ、彼女は、きっと、何も気付かなかった。
熱い何かが肉の奥底、それこそ魂の底から這い上がって来るような気がする。それはまずもって何よりも悲嘆であったのだけれど、同時に、この上も無い僥倖の結晶……。
「おい……慧音。なんで、あんたは泣いてんだ。“私はここに居るよ”。確かに、ここに居る。悲しいことなんて何にも無いんじゃないか」
頬を伝う涙を拭うこともできずに、慧音はただ泣き続けた。
嗚咽を堪えもしないで、聞き分けの無い子供のように、懺悔するように。まるで――自らをいたずらに生きさせようとする驕慢さそのものへ向けられているように。
「どうしてかな。私は、妹紅と一緒に居ると、どうしてか、寂しい。何かに取り残されたみたいに寂しい。でも、それがときどきは心地良いんだ。だから、私は、おまえと一緒に居たいから泣いているのかもしれない」
「……時々、妙に恥ずかしいことを言うんだな、あんたは。言われなくなって、逃げやしないよ。心配するな。寂しくなんかないだろう」
(でも、忘れてしまうのだろう?)
優しげに笑む友人には、何の裏も無い。ために、あまりに痛すぎた。
藤原妹紅の心の中に、きっと上白沢慧音は無い。いつか必ず跡形も無く消え去ってしまうときが来る。
何もかもが足りなすぎる。膨らんだ幸福に針を刺して破裂させるように、苦悩はいつでも付きまとっている。鋭い先端に狙い澄まされているせいで、どうしようもない喜びが同時に兆すと、よく解ってはいたけれど。
再び妹紅は慧音の手を取った。
二人は人混みに紛れていく。もうさっきのような無音ではなかった。むしろあまりにやかましくて、耳をつんざくどころか鉄砲でも撃ち込まれているようだ。気が付くというのは残酷なもの、やはりどこまで行っても『私』は『私』なのだと、慧音は思った。自らの幸福の“あら”を探すのは、ときに何と優しすぎる自嘲なのだろう。だからこそ、言いたかった。しかし言えない。
――――私は、妹紅の落ちる地獄になれるのか?
立ち込めるにおいが、ある濃密な気配を放っているのに気が付いた。べっとりと粘ついていて、目には見えなくても頭の片隅を占めている。けれど、きっとそれに思い馳せることは悪い楽しみだ。忌避と探求を同時に求めてしまいたくなるような、そんな誘惑のはずだ。
肺腑の奥底まで思い切り息を吸い込むと、少しだけ、眠気に見舞われたように思った。互いに手を繋ぎ合ったままで、二人の少女は光と闇の混ざり込んだその中に、陶然と、駆け去っていく。
夜が二人をどこに隠したか。
それを、誰も、知る由は無い。
さりとて、まだ村内で仕事を始める人々の動作や息遣いが漏れ伝わって来る気配も無い。今もって覚醒の急を要する状況でもないのかもしれない。
未明の晩は、再び寝に入るにしては頭が冴えすぎているし、灯明の光で読書などするにしてはあまり遅すぎるような気がする。夜中ふと目が覚めて便所に行き、その後で喉の渇きを癒すべく、水を一杯と求めたのが悪かったのか。ぬるくなってさほど美味くもなかった水はどうにか慧音の喉を潤してくれたけれど、同時に針のように寝ぼけた意識に突き刺さって、彼女の頭の中を醒ましてしまったのであった。こんな時、無理に布団を引っ被っても体温で汗をかいて気持ち悪いだけだ。ならば、ゆるゆると思索にふけってみるのも悪くない。日頃、いっぱしの学者みたいな仕事をやっているのだから、そんなことはさして苦手でもない。
再び窓から空を見た。
今夜は月が出ていない。朔の日だ。眠る前からもちろん知ってはいたが、それでも改めて確認すると、奇妙な安堵が胸に広がった。自身の肉体に半分混じる白沢の血を怖れているのでもなかったが、それ以上に、満月の晩がやって来て半獣の姿になると、ときおり、自分がすべての人々に取り残されてしまうような不安に駆られるのである。
人間の守護者として、寺子屋の教師として、また史書を編纂する学者として、人との関わりは常に絶えたためしが無い。だと言うのに、慧音はどうしようもない寂寥に駆られる時が稀にやって来る。いつの日か、大勢の人々の中に居ても、誰からも気が付いてもらえないのではないか……そんな慄きを夢に見て飛び起きたのも一度や二度ではなかった。その晩はどうだったのだろう、さっき私は夢を見ていただろうか。考えてみたが、水を飲み下した時に夢中の記憶まで一緒に腹の中に流れて行ったか、いくら頭を捻っても何も思いだせなかった。
「……おまえが居るというのにこんなことを考えるなんてな、妹紅」
呟くと、慧音はふッと笑って隣の布団で長い白髪に包まれるように身体を横たえている友人――藤原妹紅の寝顔にじいと見入った。
この妹紅という少女は、時々、何の脈絡も無く上白沢邸に現れては、泊めてくれとか一緒に飲み食いをしようと誘ってくる。それだけ見れば単なる無礼な振る舞いだが、どこからか調達してきた酒や食い物など携えてやって来るから、それなりに礼儀をわきまえているところがあるには違いなかった。慧音も慧音で、長く親密な付き合いを持っている『友人』だったから、むしろ向こうから飛び込むようにしてやって来るのは歓迎すべきことだった。
夕べも、妹紅は博麗神社に居候している伊吹ナントカいう鬼に博打で勝って、金の代わりに向こうの持っている酒を少しばかり巻き上げてから慧音の家を訪ねてきた。鬼の好む酒は、まるで火を飲み込むように喉を焼くキツい代物だったけれど、妹紅は顔を真っ赤にしながらも美味いと言って飲んでいたのであった。
そんな具合だったから数時間後にはすっかり酔っぱらって、妹紅が意識を手放すか否かというところで二人だけの酒盛りはお開きになった。そのまま、妹紅は慧音の家に泊まることになった。
足下に押し遣った蒲団をさらに両足でグイグイと押し込めると、慧音は寝間着である襦袢の前をかき抱いて身を乗り出しつつ、妹紅のすぐ近くまで半身を伸ばした。何のことはない、ただとりたてて意味の無い、悪戯の“はず”だったのだが。
ほんの少しばかり開けられた上下の唇から、妹紅の歯が見えた。星明かりの差し込んでくるのが、その並びを白く輝かせる。奥には息を吸い、吐くのに伴って舌が小さく震えている。まるで小さな子供が舌っ足らずに何かを呟く光景を連想させる。面白いものを見つけたと無邪気に駆けよって来る姿を。
とある、情動に駆られた。
寝る前に飲んだ鬼の酒も、今ほど彼女の意識を揺さぶるようなことはしなかった。どんな酒や薬や毒も絶対に作り得ない、一種、特別の心地良さ……われと我が身に火を放つような破滅的な気持ちの良さ。
鼓動がいや増しに早くなっていく。
自身もまた妹紅を真似るようにして唇を薄く開いた。
それから舌で湿らせると、姿勢を一段低くして、蛇が這うみたいに相手の顔に近づいた。深い眠りからのかすかな息遣いが、そのまま頬にかかった。あたたかく、抱擁をされているような感じがあった。それを行っているのはいったい何であるのか、急に知りたいという気持ちが兆す。元が学者の気質だからか、それとも子供じみた意味の無い好奇心のなせる技か。慧音は片手を突いて身体を支えると、もう片方の手で友人の額へと指先を触れる。かすかに汗ばんだ額、細く刃を思わす柳眉、すっきりとした鼻梁と明かりの下では生命の発露を何より雄弁に物語る頬は、まるで性別を越境した異装の少年かと、かつては思わされたこともある。
それぞれ順々に指先を滑らすと、その度ごとに柔らかく細かく、肌の生きている感触が肉体の末端を通して慧音の魂へ響き渡った。妹紅の顔を指で押し、爪で弾く度に、ぞくぞくと背筋に氷を差し込むような冷たい感動を覚えずにはいられない。生命の熱を感じているのに、甚だちぐはぐな感慨ではあったけれど。
指先に全身の触感が集中したような覚えと共に、慧音の内側にかつて感じたことも無いような熱が生まれ始める。自分の中にまったく違う別の生き物を孕んだような、それは、不気味に過ぎた悦びである。
明確な意思さえ持たない小生物の動きを観察するごとく、少女の瞳はふるふると震える。もはや意識のうえでは独立しかかった別の器官――自らの指先が最後に辿り着くのは、妹紅の唇だった。
そのふっくらとしている様は、暗がりの中でもよく判る確かな生命のいななきが聞こえてくるようである。ものを食べる唇、息をする唇。慧音と名を呼ぶ唇。そしてもうひとつ、ある行為を明確なまでに連想させられた。触れもしないうちに容易に知れる、その柔らかさ、あたたかさを、自らのものを押し付けて、最も“積極的な”形で知った者がかつて居たのであろうかと。自分の名を呼ぶより遥か以前に、その同じ膨らみを我がものとした人が。
しかしこの場の世界には慧音と妹紅しか居ない。否、ひょっとしたら慧音だけだ。この場にあっては、今や慧音は神のごとく、妹紅という世界をその手のうちに収めているのだ。これははや思いのまま。あるいは赤子の手をひねることよりも。
ようやく慧音は、毛の先ほども触れようかというくらいに相手の唇まで指先を伸ばしはした。が――途端、急激に冷めていくのが解った。情動が、何のきっかけも無しに木っ端微塵になっていくところを幻視するように。触れてはならぬ部分に触れようとして、寸前で善悪を省みるように。
何だろう。これはいったい、何だろう。何度も何度も自己に問いかける。
裏切られたと泣く友人の姿が見えた気がした。
全身に汗を、そして何より精神に失望を。
肉の凌辱よりも、むしろ見えぬ傷をこそ恥とする――そんな予感が飛蚊を病んでいるように視界に入り込んで離れようとしないのだ。
未だ訪れぬ歴史である。しかし、一歩間違えれば現実として自らの手で招来させてしまいかねない最悪の姿。
はッ、はッ、と犬のように荒い息を吐く度に、慧音の心は自責と罪悪感に支配されていく。汗でぴたぴたと頬に張り付く髪の毛の先から、針で撫でられているように痛みが感ぜられる。何ということだ。これでは、まるで。
打ちのめされて、引きずるような有様で元居た場所まで戻って来ると、今まで妹紅に触れていた指先が、絶対に拭い去れない汚穢に侵されているような気がした。
恥じた。
どうしようもなく、行いを恥じた。
相も変わらず真っ白い眠りの海の中に没入する妹紅の姿を慧音は眺め続けていた。幸いと言えば、相手がちょっとやそっとでは起きないくらいに深い眠りに落ち込んでいたことだ。その姿を見ても、さっきまでのような何かを突き動かすものに再び出会うことはなかったのである。日の出までの数時間を、慧音はもう一睡もできなかった。
何でもない相手になら、そもそも苦悩を抱かずに済んだはずだ。つまらないことだと笑い飛ばすことも。しかし、慧音は妹紅に対してそれが出来はしない。
白く膨らんだ友人の目蓋が、暗中、いやに目についた。
朝になって、あの目蓋の下にある妹紅の瞳が、自分をいつものように見て笑んでくれることだろう。けれど、それに対して自分はまっさらな気持ちで答えることができないのではないか。そんな不安がどす黒く慧音の心を塗り潰していく。
「白沢の血が目覚めずとも、私はひとりか」
孤独は案外と近くに居るものだ。
唇の端に自嘲の笑みを一瞬、浮かべると、慧音は「妹紅」と、小さく名を呼んだ。ううん、と、それに答えるようにしてか、寝言めいた声が就寝中の妹紅から聞こえたけれど、すぐまた黙り込んでしまう。
触れることができないと確信するほど、抱く思慕は絶え間の無い孤独として精神を醒ましていく。それはきっと、一種の自涜なのだ。
上白沢慧音は、藤原妹紅がすぐそばに居るその故に、不幸せであったに違いない。
「慧音はさー。ちょっと真面目すぎない?」
「む……。そうかな。至ってごく普通の振る舞いをしているつもりなのだが」
「いいや、絶対に真面目すぎだね。だって、こういうところで飯を食べたことだって無かったって言うじゃないか」
「それは何と言うかだな、忙しさにかまけてというか、単に機械が無かったというか……」
少なからざる人の声が絶えず行き交う道の端で、話し合う少女二人。
「やつめうなぎ」「かばやき」「まごころの味」などと、崩した字体で書かれたのぼりが二、三本ほど立っているのが目印の八つ目鰻屋の屋台を、慧音と妹紅は後にした。
「ありがとうございましたあ!」と、途絶えない客足にきりきり舞いにされながらも、小豆色の着物を着たミスティア・ローレライが笑顔で二人を送り出す。もっとも、二人の方では自分たちにかけられた言葉に特に注意を払うようなことも無かったけれど。
陽は空のてっぺんから順調に下りながらも威勢を振るっており、ここ最近少しずつ冷え込んでいたのが嘘のように暑い日だ。風は吹けども冬の気配にもまだ遠く、さりとて残暑と言うにしても遅すぎるというので、ちょっとばかり奇妙な秋の天気である。
まさか昼間っから一杯ひっかける気にもならぬが、ともかくも空きっ腹を抱えていたのではまともに話もできないだろう……と、慧音は妹紅に誘われるまま、美味いものを御馳走してやると誘われて、寺子屋での資料整理の帰りに引っ張り出されて赤のれんをくぐった。
(ちなみに勘定の方は、妹紅が持ち合わせが無いというので慧音が支払い、自分あての妹紅のツケにした。自ら御馳走すると言いながら、まことに面妖な話ではある)
屋台は、人里の中でも最も大きい通りの片隅にあった。
その日は、雑多な飾り物が殺風景だった道を、やたらめったら派手な色に飾り立てていた。
あちこちに夜雀のと同じような屋台が立ち並んで壁を作り、菓子や食事、子供のおもちゃ売りやくじ引き、射的などの遊びに人々が群がってはきゃあきゃあと楽しげに騒ぎまわっている。中には外界から入り込んだという珍品・奇品や、山から下りてきた河童が修理した機械だのを売っているという変わった店もあった。あちらを向けば白玉楼の亡霊少女が、庭師の心配をよそに数人分の串焼きをいとも容易く平らげ、こちらを見れば七色の魔法使いが、巧みな糸繰りで本当に命が宿っているとしか思えないような華麗な人形劇を観客に披露する。
香具師に的屋に、すねに傷を持っていそうな怪しげなやくざ者の客引きや、血の気の多い男衆が喧嘩をしていたって、この日だけは華々しいものさと、むしろ受け容れる心持に人々はなっていたことだろう。人の集まりを聞きつけた馬喰(ばくろう)はここぞとばかりに自慢の牛馬を競りにかけ、日頃の修行の成果を見せる大道芸人へ観衆は賛辞を惜しまない。
今日は、年に幾度かある祭りの日なのだ。
いったい、この祭りが何に由来しているのかは誰も知らない。
実のところは何にも理由なんか無くって、ただ単に大騒ぎを楽しみたいだけなのかもしれない。だから、べつだん誰が企画して主催するという訳でも無しに、いつも自然と……というか勝手に人が集まって来る。 なにぶん、あれこれと理由をつけては宴会を開き、理由が無くてもとりあえず酒盛りを行う幻想郷でのことである。同じことは祭りにも言え、『むしろ楽しみに細かな理由を見出す方が無粋』。人妖と老若男女とを問わず、そんな返答が返って来るに違いない。
普段と違うハレの舞台にて、着飾る者あり、大笑するものあり、商いに精を出す者あり。皆がそれぞれ好き勝手に謳歌して、毎回、祭りは十年分の盆と正月が一度に来たような盛り上がりよう。
「で、どうよ? 八つ目鰻は」
そんな喧騒を背にしつつ――妹紅は眼を輝かせながら感想を求めてくる。言うまでもなく、好意的な反応を期待しているのだというのが容易に知れた。
まるで子供みたいに隠しもしない無邪気な様子は、ふだん無軌道な生活を送っているのにも似合わない明朗さである。
ところで慧音にとって、夜雀印の八つ目鰻の蒲焼きは初めて食べる料理。
幻想郷に屋台こそ数あれど、“ここの”は特別に美味いという話は妹紅をはじめ、何人もの知り合いからたびたび耳にはしていた。しかし、それでもいざ食べるとなると変てこな緊張がやって来るものである。
串に刺さった蒲焼きの身をそっくりと掬い上げるようにして歯で噛み切ると、同時にタレの味が津波のように舌の先に染む。口に入った直後ではタレの味しか感じないくらいに濃すぎる味と思ったが、二度、三度と噛むうちに柔らかい膜がはがれるようにして、ふわりと海産物の旨味が漂い始める。焼かれて少しだけ固くなった表面が破られると、舌の上で転がされてとろけるようになる鰻の肉がじわりじわりと喉の奥まで達し、甘辛いタレと一体となって飲み込まれて行った。なるほど、ちょっとしたところでは二つの味が不調和なようでいて、実は繊細な鰻と濃い目のタレが互いの特長を殺さないようになっている……ような気がした。
ともかく批評家のようにあれこれと述べたてるのはかえって逆効果というものだろう。美味しいものを食べたときは、素直に美味しいと言ってしまうのが最も良いということもある。
「美味しかった。お世辞でなく、だ。初めて食べたが、来て良かったよ」
「だろ? 食わず嫌いは良くないって……」
妹紅の返答は、人声に少しく掻き消された。
真新しい草履で地面を突っ掛け突っ掛け、見るにも綾な浴衣に身を包んだ四、五人の老婦が、互いに何ごとか言葉を交わして笑い合いながら二人の脇を通りすぎる。笑顔を消さないまま慧音にも妹紅にも気がつくことの無い姿は、知った顔であった。
あれらは確か……幾十年も前、普通の人間から半獣に化して少しばかり経ってからの頃、そんな時代に付き合いのあった女たちだ。流れ去った歴史の断片が、箱に被さったふたをずらして、中身を覗き込むように仄見えた。昔は未だ、故郷に居て今の村にも住んでいなかったし、教師などという職にも納まっていなくて、ただいたずらに歴史にまつわる能力を濫用していただけだった。いっぱしの学者志望として自分なりに邁進していたつもりだったけれど、周りからすれば甚だ滑稽な姿だったことだろう。年老いた訳ではない。しかし、それでも青かった、と慧音は思う。
女たちは顔こそ皺が刻まれて、腰だって結構な曲がりようだったが、確かに知っている者たちである。元居た場所を出て今の場所に落ち着いている慧音だったが、彼女らはもうずっと故郷に留まって嫁いだように記憶している。自身も招待されて祝言の宴の席に出たのだから忘れるはずも無い。しかし夫や、あるいは子、孫が近くに居る様子もやはり無い。
さてはあの歳になってから離縁された訳でもあるまいが……と、苦笑しいしい歩を進める。すると、妹紅が怪訝そうな顔をしながら覗き込んできた。
「変な慧音だ。さっきからなに笑ってんの?」
「いや、さっきすれ違った数人、昔の知り合いでな。懐かしみを覚えて……というやつだよ」
「ふうん。仲が、良かったの?」
「それなりに付き合いはあった。良くも悪くも。これでも、土地の知識人として上白沢慧音の名は少しは知られていたのだぞ。でも、さすがに忘れられてしまったのかな。何せ、別れてからかなりの時間が立っている。私はワーハクタクだから、常人より老いるのが遅いとはいえ――容姿が変わらなかったところで、記憶の中からはどうしようもなく薄れていくのだろう」
「へえ。そうか。……寂しいもの? そういうのは」
「うん……寂しくないと言ったら、嘘になるかもしれないよ」
慧音が答えると、妹紅は両腕を頭の後ろに組んだ。そのまま、ふわァ――あ、と大あくびをかきながら、慧音に少し遅れる形で歩いている。
そして、その途上で何か気がついたように、あくびから途切れさす間も無く言葉を継いだ。
「何てえか、さあ」
「ん?」
「ちぐはぐだよね。慧音は、周りと」
突拍子もない言葉。この時の妹紅の真意をいささか測りかねて、今度は慧音の方が怪訝な顔をすることになった。
「上白沢慧音は歴史を見ることができる。食べて隠すことも、創って記録することも」
「ああ……そうだよ」
「でも、一方的だ。自分だけが憶えてても、他の誰も忘れてしまうかもしれないじゃないか」
「ああ……そうかな」
言葉を濁したのは、妹紅に自分の不安をぴたりと言い当てられたような気がして、少しだけぞくりとさせられたからだった。
意図してか、あるいは単なる偶然か。
こうして他人の心のうちを読み切るのは、どれだけ胸のすくことだろう。
千年も生きてきたという彼女の言葉には、生半可な否定では覆しがたい重石が混じっていることがある。こうして話しているときでさえ、慧音にはぴりぴりと痺れるような至当の不安が安堵の衣をまとって浸潤している。歴史を食べ、また創るという、言うまでもなく他者と自分が造り上げた、単なる時間の流れ以上のことに介入する能力は、ひとつの葛藤を呼び起こさずにはおかない。
老婦たちのことだけではない。
いかに深く関わりをもったところで、時の流れは瀑布や大河よりもなお暴力的に、あらゆるものを押し流さずにはおかない。昔、どんなに精強な武神とて、時の流れには逆らえないという物語を読んだことを思いだす。それは老いによる逃れようも無い消滅を説く挿話であったが、万人を等しく覆う無常とは、歴史の司たる神獣・白沢の力をその身に宿す慧音にすれば、単なる肉体的な死よりもなお移ろいやすい、忘却そのものへの恐怖だった。
自分だけが知っていて、相手からは忘れ去られていく。
それはよくある話。至極、ありふれたジレンマだ。しかし、だからこそ解き難い難問だ。
「長く生きていれば、そんなこともあるさ。どうにもならないことを飲み込まなければいけないときは、どうにもならないことがどうにかなるようにするしか無い。できないと、無駄なことだと、心の底から解っていても」
「そう? 何だか悟ってるね、慧音は。私は……そこまでにはなれないよ。あんまり生きるのが長すぎるとね、むしろ何もかもが重荷になってくる。次から次へと忘れないで欲しいって言われるのが、見えない鎖みたいに思えて。だから、あんたはそのぶん、立派だよ」
「おだてても何も出ないぞ。それに、言うほど、大層な思想でもないさ」
達観の言葉を吐くのは、押し留めなければならないものがあまりに大きすぎたからだろう。ものに驚いて哄笑を受けるのも時には好いことと思えど、その瞬間以上の驚きが持続するはずは無い。憶えられ認識される歓びを受けるためなら、慧音はあえて道化の運命を受け入れることだろうが。しかし、それが鮮烈であればあるほど、訪れた滅びは苦痛の度を高める。向けられた忘却の味を精神に染ますのを唾棄してはならないと理解していたが、妹紅の返事に対して、またさらに十全の満足を覚えることも無かった。
慧音は死ぬまで妹紅を憶えているだろう。しかし、逆はどうか。
妹紅は慧音を憶えていてくれるだろうか。
そして慧音が思うように、妹紅は慧音を思っているのか。
未だ紡がれていない歴史を、知る術などあるはずとて無く――――。
少しの時間しか経っていないというのは勘違いだったのか、地面に張られた橙色の光の幕が剥がれかけ、頭の見えなくなるほど伸びきっていた人影もその境を失いかけているのに気が付いた。
西の空は未だ明るみを残してはいたけれど、東には既にもう、濃い藍色の暗みと、ぽつぽつと光るひときわに明るい星が進み出ていた。左側が溶け落ちたような半月が、表面の穴ぼこも鮮やかに真白い姿をさらし始めている。
祭りにやって来た者も大勢増えた。
わずかに残った陽の明かりと、徐々に点されつつある地上の灯で照らされる者たちの顔は、みな一様にどこか別の空想を見ている。でなければ、この『転倒した』日にはふさわしからざる部外者なのである。額と頬に汗の化粧をくっ付けて、目玉が埋まって見えなくなるくらいに笑んでは目蓋を歪にする。わァん、わァん……どこかで鐘の響いたような音が聞こえたが、きっと無数の人声が混濁したせいかもしれない。この絶えざる望まれた無秩序の中に、ようやく彼らの交歓は成るのだ。地上から剥離していく魂の幻想を感じながら、平穏な恍惚が今にも昂ぶっていた。
人いきれと、がやがや言う声が混じり合う。暑く、熱い晩。立ち上る土と人のにおいが、嗅覚を介する以上の明敏さで感覚の真ん中に踊り込んで来る。
決して記録者の存在しない悦楽のときは、すべからく欺瞞を取り払った終わりある幸福をもたらそうとするものだ。
ある若い男女が猥らな視線を見交わすのを、慧音の眼は偶然にも捉えた。二人の関係も、取り合う手の生温かさも、すべてを瞬きのように悟った。満ち満ちた不可視の『戦慄』が全身に降りかかる。その慄きが今ある悦びを鼻先に突きつける。楔と言っても良かった。いずれ来たるものの故に、人々は鮮やかで喜ばしい狂気の淵に陥っていた。蜜よりもなお柔らかにとろける夜が、果たして逸脱を瞬時に肯定しないはずが無い。男と女が通りをすり抜ける。洟を垂らした幼い少年にぶつかりそうになりながら、お面屋の親父にチラと見られながら、息も絶え絶えに物陰に踊り込むのは祭りの興奮のためだけでは無かっただろう。宙にぶら下がる提灯が揺れる。揺らめいた火が明々と、人の群れに躍りかかったように見えた。夜がすべてに許しを与える。この時にこそ、禁忌はいとも容易く崩壊する。
女の湿った掌が、男の肌をどうやって愛撫しているのか。
男の震えていた股座が、女の中で何を吐き出しているのか。
――さすがに、見ようと思わない。
慧音自身も、それほどまでに悪趣味な性格をしていない。例の二人も、きっと、そのうち誰に言われずとも“戻って来る”のだから。
「……少し歩こうか、せっかく来たのだし」
「そうだね。たまには。せっかく来たんだし」
人波にぶつかり揉まれながら、何かから逃れるようにして妹紅は慧音を追い抜かした。よそ見をして歩く男から肩にぶつかられ、ごめんよ、と謝る相手を見もしないで、妹紅は歩く。慧音も歩く。何も言わずにただ歩く。
長い長い白髪が、燃えるかすかな明かりの下では白銀の織り込まれて揺れる精妙な美しさを持っていた。身を覆う白いシャツと、正反対の色合いで痩身を締める真っ赤なサスペンダーと――その下にある、見えるはずもない裸身がその手に触れるように想像されて、切れ切れに自覚する衝動に、慧音は嫌忌を感じずにはおれなかった。
もんぺのポケットに突っ込まれた両手の甲。橙の光で染まりながらも侵しがたい白みが確かに輝いている。そこから伸びる腕とその付け根が、羽を震わす雛鳥を見ているようにもろく崩れやすいものと思えた。少しく汗ばんだ肌に密着した薄手の衣服に背中の真ん中に通った筋と、肩からかすかに盛り上がるように見える肩甲骨の突起がとりわけ凄艶の度を増していた。千年もの間あらゆる苦役に痛めつけられ、血に塗れ、何度となく宿敵との戦いと死と再生を繰り返してきた肉体だ。もっと、隆々として堅く鍛えられたものと漠然と思っていた。しかし、違う。あまりにも儚げな少女然としていて、たおやかさ、という言葉だけでは到底足りないくらい、今にも折れそうな華奢に過ぎる身体をしているのだ。
慧音はこれに触れたい。倒れるところを支えてやりたい。気の済むまでうんと抱きしめてやりたい――が、幾日より以前の、妹紅の唇に指を触れようとしたあの晩が思い出された。
忌々しい情欲が、再び脳髄の真ん中に湧きあがって来るのがおぞましい。
いったい、いつから自分はこんなに浅ましい者に成り果ててしまったのか。
こんなにも、手に入るはずもない喜びに餓えて、求めてはならないものを求める愚か者に。
もしかしたら、関わりある万人の記憶から完全に抹殺される未来が到来したところで、笑い飛ばせてしまうのかもしれない。妹紅の記憶に留まれないことの方が、その笑顔を向けられなくなる日がいつか訪れる方が、よほど怖ろしい未来なのかもしれない。確信を何度も何度も胸のうちにしまおうとして取り落し、無理矢理に忘れようとするくらい、慧音は妹紅を自身のうちに留めておきたかったし、妹紅の中に残りたいと願ってもいた。
さっき偶然にも見たあの男女のように、最も深く、他にありようも無い昇華の姿にも、予兆される終わりの光景にも、二人が到達することは許されない。
ならば――藤原妹紅と二人で歩くが故の、そのために訪れるたったひとりの孤独でさえ、上白沢慧音は幸福だと信じてみたいのだ。
誰にも知らせず自分ひとりが何かを耐えた方が、よほど気が楽なのだから。
「おっ! 慧音、あれ見てみなよ。彼岸の連中だ。何かの出し物かな」
「本当だ。四季映姫さまに、小野塚小町どのだな」
幾つかの通りが交わって、とりわけ大きくなっている辻の真ん中に、人が数人は乗れようかという大きさの木製の壇がしつらえてある。飾りも何も無い簡素な造りのようだが、実際に使用されているところを見るとそれなりに丈夫であるようだ。
そして、閻魔である四季映姫・ヤマザナドゥと、部下で死神の小野塚小町が、そこには確かに立っていた。
赤と黄色の揺らめく光が照らすその先に、ひときわ大きな人だかりがあった。円を作るようにして彼岸の二人を囲む人々は、みな一様に念仏を唱えたり、合掌したり、うなずいたりしているのである。こころなしか、年寄りが多いような気がした。
人の山の向こう側を背伸びして見ると、映姫がいかにも厳かな表情で何かを語っているではないか。背も低く、どこか幼げな顔立ちにも似合わぬものがあったが、その場の誰にも疑問を発する者は居なかった。
四季映姫・ヤマザナドゥは元来、真面目という概念に手と足が生えた挙句、相手を思いのままに断罪する絶大な権限を付与されたような人物である。それだけならまだしも、極めつけには休日であっても幻想郷中を歩き回っては人々に説教を垂れ、善行を勧めるというから、その謹厳実直ぶりはまことに堂に入ったものだ。慧音自身も何度かその場面に出くわしたことがあるが、その度に彼女の勤勉さに頭が下がる思いがしていた。
見ると、映姫はいつもの仕事道具である悔悟棒を一心に振りながら、自分のすぐ横にある何かを指し示している。
「彼女は、祭りのときでもお説教をなさるおつもりなのだろうか……」
あとで挨拶のひとつでもしておくべきか。
と、一応の礼儀として思いもしたが、それでもこんな祭りの場所でもなお普段のやり方を崩そうとしないかたくなさは、さすがに四季映姫といったところだろう。
腕を組みながら苦笑しいしい、遠巻きに眺めていると、ふと妹紅が振り返った。頬を思いきり歪ませて歯を見せ、ニヤリと笑みを浮かべる様。まさしく悪戯を思いついた子供そのものである。
「ね。気にならないか、何をやってるのか」
「ま、まあ……確かに」
「ちょっと前に出てみようか」
そう言うと、妹紅が慧音の手を取った。ぐッ! と引っ掴むように、ここではない、遠いどこかへ連れ去ろうとするように。
そのまま人の群れの最前列へ進み出るまで、慧音には何が起きているのか、自分が何をしているのかも解らなくなりそうだった。周りのすべてが無音だった。艶を帯びた懐かしい会話を交わす老人連の声も、夜気を震わす笛や太鼓の音も、切れ切れに耳に届いていたはずの閻魔の言葉も、何もかも。あらゆるものが静寂の地平に押し込めれられて、どんな人間や妖怪でさえ張りぼてと何ら違わない意味の無いものへと変じてしまったように思った。何も無くなったその中で、ただ自らの胸の高鳴りだけがやかましく鳴り渡っている。こんなものは聴きたくない。こんなものがある限り無意味な焦燥が繰り広げられるだけと考えるごとに、いま慧音に後ろ姿を見せる妹紅の手のひらの温度が、消え去ったどんな音よりも高く彼女の中に入り込んでくるような気がした。聞こえるはずのないもの、音でさえないものが――突き破るのではなく、ただあたたかく、彼女のうちに在ろうとして消えてくれない。響き渡って静まってくれない。
こんなものは、まるでおかしなことだ。
何もかも、気さえ違ってしまいそうだ――。
慧音の手を取る妹紅の手にはどこまでも熱い、生命がある。不死だとか、そんなことはまるで関係も無しに。この昂ぶった晩の元で、慧音は慧音で無くなるのだ。ただ剥き出しの生命が融けだして求めていたものとひとつになろうとする望みだけが、衝動と呼ぶさえおこがましい何ものかに変じようとしている。
極上の歓喜と、そして、耐え難い苦痛。
妹紅は慧音の手を取ったのだ。ここではない、遠いどこかへ連れ去ろうとするように。
では、いったいどこへ連れて行ってくれるというのだろう。何を見せようとするのだろうか。それが本当のことだったとしたら、そのときに自分はどうなるのだろう。自分は、どこに向かおうとしているのだろう。
妹紅と共に在る慧音とは、『私』とは、いったい、誰なのだろう――――?
小柄な閻魔の隣では、対照的に大柄で豊満な肉体をした小野塚小町が、どこか口惜しげな顔で頬を掻いている。「せっかくのお祭りなのに!」とでも言いたげである。
三途の河の渡し守にして死神たる彼女は、言うまでもなく普段は三途の川べりに居るはずだ。それが、上司の映姫と共にここに居る。それに、得物の鎌だって持っていないようだ。彼女は女性にしては体格の大きな方だから、映姫よりもよく様子を観察できてしまう。
「……先ほどもお話ししましたが、もう一度。死後、罪人が落とされる地獄は生前の行いによって、いくつかの種類があるのです。しかしそのいずれも、怖ろしい形相をした獄卒たちによって、罪人たちは気の遠くなるような年月を処刑されては生き返り、生き返っては処刑されます。刑期の終わりまで、彼らにできるのは己の罪を悔い、痛苦に身をよじることだけ。死ぬことすらも許されません。――小町、6枚目の絵を出しなさい」
慧音と妹紅が群衆の最前列まで躍り出ると、ようやく閻魔と死神が何をしているのかが見えた。やはり説教らしい。映姫の指示を受けた小町が、指定された何ものかを引っ張り出している。
彼岸からやって来た二人の傍らには、細密な装飾が施された額がいくつか置かれてある。
全体、古びてはいたようだったが、雑多とも称すべき牛頭・馬頭・獄卒らの鬼、それを取り巻くようにして燃え盛る大火炎、そして、てっぺんで悪に対する鉄槌を下さんと正義の憤怒に突き動かされる閻魔大王。それらは果たしていかなる職人の手になるものか、塗りの禿げかけた様子にも似合わず、あたかも“本物”をその目にしているかのような存在感を保っていた。
群衆の眼の珠が一心にそれを見つめ始めると、誰が最初ともなく感嘆の溜息が漏れ始める。おおッ……と、汗ばんだ手を握り込んでわれ知らず声を発する者もいる。
そして、彼らがようよう視線を釘付けにされずにおかないものは、額にはめ込まれた地獄の有様を描いた絵図なのである。
燃え盛る熱と火の大海原へ落着する罪人。彼らの首根っこををさすまたで押さえつけ、槍や矛で突き殺す獄吏たち。
筋肉の塊のような隆々たる体躯の鬼たちは、一片の慈悲もくれてはやらぬとばかりに刃を振るって帰り血を浴び、やせ細った罪人たちは、ひざまずいて許しを請ういとまさえ与えられぬままに、ぼろきれのように砕けていく。焼かれた皮膚が黒々と爛れ、髪の毛は肉ごと剥がれ去り、手足は千々に砕けて血と涙に塗れながらに骨ごとばらばらになっていく。生前の悪行の代償として地獄に叩き落とされた彼らが、みな一様に喘ぎ苦しみ泣き叫び、憎悪とも悲嘆とも哀惜とも見える表情で、言葉なき呻きの大音声を放ち続けているところを描き取っているのだった。彼らの身を焼きつくす焔は、断罪のためと言うにしてはひどく美麗なものに思えた。いつ止まるともなく揺れる提灯の光に照らされると赤にも黄にも金にも見え、真に迫った怖ろしげな地獄の姿であるにしては、見る者にひどく、不釣り合いな感慨を催させた。それらはことごとく、生者が抱き得る情念の、絵画として具象化したる炎であった。人の心に湧きあがる悪心そのものに身を焦がす者たちの、あまりにも凄烈に過ぎる懺悔の情景であった。
映姫はさっき、“地獄にはいくつかの種類がある”と言ったか。では、これと異なる種類の地獄がまだ幾つもあるということだ。慧音はごくりと唾を飲み込んだ。何と喜ばしきことであったろう、何と悲しきことであったろう。生は虚無などでなく、その後に必ずや訪れる最果ての体験こそが、何よりも生の限りの無い膨張を促すのだ。未来への予兆そのものを感ずる度に、生者はその歓びを噛み締めてしまうのだ。
地獄を、ただ地獄を、悠然と歩いているような錯覚がした。
孤独は責め苦となる炎でなく、生前の罪科として自らの良心を苛む何ものかで、そのためにこそ上白沢慧音は現世に在るはずもない空想上の地獄を、自らのうちに感じ取っていた。
妹紅が相も変わらずポケットに手を突っ込んで、まじまじと地獄絵を見詰めている。しかし、その表情は、どこか安堵にも似たもの。自分にとって有り得べからざる世界を垣間見るような、おとぎ話に耳を傾ける少女のもの。言うなれば――『憧憬』である。
その紅い瞳に悦びの兆すのを、察した。
息が弾むでもなく、肩を震わすでもなく、妹紅はただ口をつぐんで一心に、描かれた地獄を見つめている。いくら迫真の作とはいえ、それがただの絵であるというのは誰でも心のどこかで了解しているだろう。が、そんなことさえ忘れたように、妹紅は『自分にとって絶対に手に入らないもの』を必死に求めているように見えた。ふ――わりと風が吹き、少女の白髪がふと揺れる。その額の一面に張り付いた汗の珠を見るだに、慧音は絶望的なまでの断絶の感に襲われる。
妹紅はどこかで求めている。
死を、破滅を、消滅を。そして、地獄を。
だから、きっと――。
否!
慧音は頭をうち振りたい気持ちに駆られた。そんなことがあるものか。自分の孤独は自分だけのものだ。この悦びを、裏に潜む絶え間の無い不安を、誰からも忘れ去られるという恐怖を、知っているのは自分だけなのだ。まるで妹紅が既にその未来を確定させているようなことは、どうあっても考えたくない。慧音を慧音として在らしめる寂寥が、妹紅の持つ無限の命の中でいつしか跡形も無くなってしまうなど、切れ端ほども思いたくない。自分が妹紅の中に残ることができないなんて、そんなことは。
だから、彼女はいつものように言葉を紡いだ。それしかできようはずも無かった。
眼の奥底で形の無い涙を流しながら、別離の姿をまざまざと思い浮かべながら。
限られた時間に深く痕を刻み続けることだけが、自分にできる最上の手段なのだと信じて。やはりそれは、火炎のように地獄めく情念であったに違いない。
「見えるか、妹紅。“あれこそは苦悩だ”。あそこに描かれた火炎は死ではなく、生における苦悩そのものの姿なんだ。死んだ後のことをこそ、生きているから考えなければいけない。そうなることが、魂を焼く炎を見出したのか。炎の熱さに倦んだ記憶から、われわれは他界に思いを馳せるのか」
いつとも知れず雄弁になりかかる自らは、その言葉の連なりによって崩落しそうな足場を支えているようなものであったろう。そんなことを考えるだけの余裕があればこそ、何ごとかを繰り返し繰り返し語ったように慧音は思ったが、喉を越えて舌に乗る言葉はただ滑り落ちるだけで、本当に相手へ伝えようと思っているのかは甚だ疑わしかった。その傍らの妹紅が、ポケットに突っ込んでいた片手を引きぬいて顎をひと撫ですると、ようやくにして何かの機械が動作を止めるように、張っていた糸が切れてしまうように、乾ききった口内に未だ出かかっている言葉を留めることができたのである。
「そりゃ……そうだ」
濁したように、白髪の少女は呟いた。異様な苦々しさを伴った声だ。
往々にして苦しみこそ記憶には残るものだけれど、この夜のことを憶えていられるのかは判らないと慧音は思った。
いかに能力の恩恵で事物の歴史を知悉できたとしても、個人の許容そのものには自ずと限界が訪れる時が来る。まさしく、人はそのために歴史を記すのである。自らの忘却を怖れるがために、あるいは留めなければならないものを何としてでも伝えるために。むろん、慧音とてそんなことは解りきっているのは言うまでもない。だが、それでも不安は刺すような――と言うよりも、飲み込んだ針が駆け巡るような怖気を振るわずにはおかない。この地獄のような生を自覚した慧音が、果たして歓楽と苦痛の同居する一夜を、留め置くだけの理性を保ちうるのか。それは、妹紅だって、どうなのか。幾万もの無間の生に虜となった白髪を、昔日と同じ風が揺らしてくれるものか。
とつぜん早口で、妹紅は言った。
何か、出来の悪い芝居を観ているような、どこか不完全な諧謔を、慧音は感じた。
「生きることへの悩みなんて、きっと人間や妖怪しか持っちゃいない。大勢の生き物全体からすれば、今日明日とどうやって生き延びるべきかの方が遥かに重要だ。こんなにも懊悩そのものへ思い馳せるなんて、贅沢なことだね」
「では、その果てに――成功した生の伸長の果てに、悪徳があるとしたら。それがひとつの絶えざる衝動であり続け、そのために苦悩の余地があるとしたら」
例えば……すぐには言葉が出てこなかったが、それでも慧音はきッと妹紅の横顔を見ながら確かに言った。もはや地獄絵も閻魔の説教も意識に入らず、それどころか自らの意思で遮断したようなものだった。
例えば、妹紅が私を殺したとしたら?
「どうかなあ!」
今度こそ、妹紅は、呵々大笑といった風に大笑いをする。
突然の大声で周りの何人かが二人の方を見たようだが、それでもなお笑い続ける声が止むことは無かった。
「もし、何かの“気まぐれ”で藤原妹紅が上白沢慧音を殺したら……私は悩むだろうか。でも、それで後悔するなら初めっからそんな行いをしなきゃ良いだけの話だ。子供が虫の胴体を千切って遊ぶみたいに、ひとつのためらいだって無い生き方は、夢物語やおとぎ話よりもっと嘘っぱち」
「悩むだけの“衝動”は無いのか? 妹紅に私を殺すことは、できない?」
破滅への一念は、知っているくせに――。
ふふん、と、妹紅は鼻を鳴らす。慧音が妹紅へささやかな嘲りを感じたように、相手の方でも、どこかせせら笑うような色がある。
「きっと無理だよ。……今ンとこは」
「今のところは、か」
「そうだ、今のところはね。どうにもならないことを飲み込まなきゃあ、いけないときは、どうにもならないことがどうにかなるようにするしか無いんだろ。できないって、無駄なことだって、心の底から解っていても。……さっき、あんたが言ったことさ」
「殺さざるを得ないときは、いつになる。地獄に落ちるはずの無い者が、地獄に落ちていくときは」
嘲りは、本当に友人への嘲りだったのだろうか。
どこか遠くで醒めた視線を向けるもう一人の自分を、慧音は自覚した。どこに居るかなど初めから明確でない。しかし、確かに降り注ぐ視線が脳髄の裏に突き刺さって、ガアガアとわめき立てているのであった。それは、本当は誰に向けられたものだというべきか。妹紅ではない、果たして他の誰でもない。もしかしたら形ある人ではなく――地獄そのものだったのではないだろうか。人の苦悩たる炎の集積が、汲めども尽きぬ憧憬として付きまとう理性の裏側に、その傷跡を消えないようにと刻みこむ。その現実に、慧音は嫉妬を覚えていたのだろう。
手のひらが、氷のように冷たい。
それどころか、刃を握り込んだように痛みさえ感じる。どんどんと熱くなっていく劣情とは裏腹に、身体そのものが死体のごとく冷ややかな感触に近づきつつある。地獄。苦悩の果てにある地獄。妹紅には決して行くことも叶わない地獄。有限であるからこそ永遠に対し無謀な憧れを抱くように、永遠は時に有限を求める。とどのつまり、いずれにせよ『欠乏』であることには変わりが無いから。
「不死者が落ちる地獄は無く、ましてこの世も地獄と言うにはまだまだぬるい。けど地獄が無いって言うのなら、自分の手でもって創れば良い。他の誰にも触れられない、たったひとつっきりの、夢みたいに楽しくて、夢でも追いつけないような地獄をね」
「地獄を創る……? 随分と――」
大それた物言いだ。そんなことができるはずもないのに。それはただ、願っても叶わぬ理想のようなものだろう。自分に無いものを手に入れるために力を振るうのが人間なら、手の届かない望みを夢見るのもまた人間だ。そんな当たり前のことをあえて主張するようなものだと思ったが、あくまで妹紅は快活な様子で語り続ける。一片の躊躇さえないように、それは羨望さえも抱いてしまうほどに。
「あんたはおかしな話だと思うかい、慧音。きっと大概の連中は、そう言うだろうね。有り得ないものに憧れ続けてる。触れらないものを生きても死んでも願ってるんだよ。死ぬことなんてできない蓬莱人の、そのくだらない考えごとに悩み抜くのが、終わらない一生に“張り合い”を与えるようなものでさあ。……でも、だから私は人間なんだ。いや、人間だと思いたい。誰に何を言われたってね。だって――」
ようやく、彼女に躊躇する様子が見えた。あたかも侵すべからざる禁忌に手を触れたように、眼を伏せた様子には幾ばくかの悲壮があった。
「――だって、苦悩や葛藤の無い奴ってのは、獣とさして変わらない。本当の地獄に落ちたって後悔しないだろうから」
私は地獄を歩けるのだろうか。と、慧音は自問した。
妹紅が落ちたいと思える、本当の熱を持った地獄をだ。その死において、友人を苦悩させるに足る、地獄への道行きを導くことができるのかと。
もはやひとつの言葉も、視線すらも見交わすことの無くなった二人を取り巻いて、群衆の興奮と気炎はいよいよ確固たるものへと変化しようとしていた。
閻魔の説教とそれを拝聴する者たちは、慄然たる陶酔の妙として感嘆の中に掻き消えようとしていた。ひときわ高らかにかき鳴らされる楽の音が、時間も空間も超えた、眼に見えぬ至高の場所への導き手に変じてしまったかのようだ。飛び去りかけた理性のタガが、狂騒そのものを養分として自らを破壊しようと夜に喰らいつく。人と大地と生と死のにおい、いま始まるものと終わろうとするもの、交接と離脱の瞬間が、月すら隠してしまいかねないほどに世界を覆い尽くしている。幾度となく繰り返され、幾度となく忘れ去られたはずの営みが、その晩もまた祝祭として結実したのだ。いつ果てるともない快楽が、ようやく終局に向かおうとしている。けれども、それを受け入れる者こそあれ哀しむ者は一人も居なかったに違いない。
掻き回される無秩序の果てにあるであろう『肯定』を秩序立てて考えることなど、地上に生きている間は到底望むべくもない。可能なのは、それをささやかに感じることだけなのだ。
慧音もまた、いずれ来たる終わりを予感することしかできはしない。
それがいかなる歴史と成るかは、判らないが。
夜が弾け飛ぶ。
塗り固められた極夜の似姿に幾度も幾度もひびが入り、星々は仮初めの姿を捨てて地平の果てへと逃げ去っていく。
喪失の色を濃くし始めた終局の元では、月までも容易く融解するのだ。粉のように砕けた金色の矢じりが最後の足掻きにて地上を照らし、断ち割られた暗黒の天蓋を覗き込むように、燃え立つ日輪がいずれは流れ込む。
友人の白髪が千幾年のどんな風に揺られたことか、それを問うことは、あってはならない愚行に思えた。その中に何が残っているかも、これから何が存続していくのかも、生きている限りに――枷になろうとしてはならない。
ときおり慧音には、死との交合を求める妹紅の彷徨が、他の誰が行うどんな行為よりも貴ぶべきものに感じられて仕方の無いことがあった。
そうして、自身には絶対に手の届かぬ虚ろなる生の不気味な軌跡が、ひどく、羨ましくなる。
ここは地獄ではあるまいが、しかし地獄よりもよっぽど凄惨で、そして居心地の良い場所なのだ。二人で手を握り合って耐えるには、地獄の炎は少々冷たすぎる。導くよりもはるか以前に、きっと慧音は堕ち切っていたことだろう。
たとえ妹紅に忘れ去られる歴史が確かに訪れたとしても、もはや構わない。
その戦慄のために、何よりも熱い地獄の似姿を、悠然と歩くつもりにもなれるのだった。
四季映姫の説教は、いつの間にか終わっていた。
人々は散らばり、地獄絵はどこかに片づけられ、後にはただ壇だけがポツンと残されているだけである。世界の全てから取り残されたみたいに、孤独の極みとも言うべき情景。触れれば焼けそうな、自分自身の姿が炎に取り込まれているところを幻視した。
自分の顔がどうなってしまっているのか、慌てて声をかける妹紅の声が無ければ、彼女は、きっと、何も気付かなかった。
熱い何かが肉の奥底、それこそ魂の底から這い上がって来るような気がする。それはまずもって何よりも悲嘆であったのだけれど、同時に、この上も無い僥倖の結晶……。
「おい……慧音。なんで、あんたは泣いてんだ。“私はここに居るよ”。確かに、ここに居る。悲しいことなんて何にも無いんじゃないか」
頬を伝う涙を拭うこともできずに、慧音はただ泣き続けた。
嗚咽を堪えもしないで、聞き分けの無い子供のように、懺悔するように。まるで――自らをいたずらに生きさせようとする驕慢さそのものへ向けられているように。
「どうしてかな。私は、妹紅と一緒に居ると、どうしてか、寂しい。何かに取り残されたみたいに寂しい。でも、それがときどきは心地良いんだ。だから、私は、おまえと一緒に居たいから泣いているのかもしれない」
「……時々、妙に恥ずかしいことを言うんだな、あんたは。言われなくなって、逃げやしないよ。心配するな。寂しくなんかないだろう」
(でも、忘れてしまうのだろう?)
優しげに笑む友人には、何の裏も無い。ために、あまりに痛すぎた。
藤原妹紅の心の中に、きっと上白沢慧音は無い。いつか必ず跡形も無く消え去ってしまうときが来る。
何もかもが足りなすぎる。膨らんだ幸福に針を刺して破裂させるように、苦悩はいつでも付きまとっている。鋭い先端に狙い澄まされているせいで、どうしようもない喜びが同時に兆すと、よく解ってはいたけれど。
再び妹紅は慧音の手を取った。
二人は人混みに紛れていく。もうさっきのような無音ではなかった。むしろあまりにやかましくて、耳をつんざくどころか鉄砲でも撃ち込まれているようだ。気が付くというのは残酷なもの、やはりどこまで行っても『私』は『私』なのだと、慧音は思った。自らの幸福の“あら”を探すのは、ときに何と優しすぎる自嘲なのだろう。だからこそ、言いたかった。しかし言えない。
――――私は、妹紅の落ちる地獄になれるのか?
立ち込めるにおいが、ある濃密な気配を放っているのに気が付いた。べっとりと粘ついていて、目には見えなくても頭の片隅を占めている。けれど、きっとそれに思い馳せることは悪い楽しみだ。忌避と探求を同時に求めてしまいたくなるような、そんな誘惑のはずだ。
肺腑の奥底まで思い切り息を吸い込むと、少しだけ、眠気に見舞われたように思った。互いに手を繋ぎ合ったままで、二人の少女は光と闇の混ざり込んだその中に、陶然と、駆け去っていく。
夜が二人をどこに隠したか。
それを、誰も、知る由は無い。
でも、とめられない、止まらない。
そんなお話でした。
永遠からみた歴史にぐいぐい引き込まれたようでした。
引き込まれるように楽しんでいただき、幸いでした。
そしてこの作品は気に入りました。文章と、内容自体の雰囲気がその描写を受け入れさせてくれたんでしょうかね。
あと、個人的には前作よりもやっぱこっちの方が読み易かったです。
妹紅と慧音、二人の向かう先は……さて、どこなんでしょうねぇ。
まさか、前回から目を通して下さっていたとは……!
気に入っていただけて幸いです。
割と意識して読み易くなるよう書いたつもりなので、
前回よりはマシになったと解することにしましょうw
ありがとうございました。
>私は、妹紅の落ちる地獄になれるのか
全てはこの一言に尽きる
何だかセンスある評を頂いてしまって…恐悦至極。
二人の道筋は、決定的に交わらない部分がどうしても訪れる気がします。
あるいは、普遍的な懊悩かもしれませんが。
こんな陳腐なことしか言えなくて申し訳ない限り
お褒め頂くだけでも嬉しい物です。
こちらこそ、こんな作品に使って頂いたことに感謝いたします。
マーヴェラス! 肉体より先に精神が勃起した!
>「それは何と言うかだな、忙しさにかまけてというか、単に機械が無かったというか……」→単に機会が