01.
――また会いに来ちゃいました。
そう彼女に言われた時、しかし私は特別何も言わなかった。紅茶を一口分喉に滑らせ、読んでいた本を一ページ捲って、そこで初めて
「そう」
とだけ答えたのだ。
普段着ている、紅白の方に比べて清涼感が漂う巫女服はどこへやら。至って普通の、カジュアルな服装である。腋は出ていない。
彼女の名前は東風谷早苗。元々は外の世界の住人で、自らが仕えている神様と共にこの幻想郷へやって来た。二人(正確には神様は一柱二柱と数えるそうだが)の神様に加え、更には住んでいた神社も含めて丸ごと幻想郷へ来たのだから、随分大掛かりな引越しだったなと思う。
幻想郷は、外の世界で忘れさられた者が辿り着く、最後の拠り所である。その為、外の世界では存在し得ないであろう者も多く見られる。何を隠そう私も魔法遣いと言う種族であり、厳密にいえば人間ではなく、妖怪に値する。まぁ、同じ魔法の森に住むもう一人の魔法遣いの方が、殺しても死ななさそうな人間ではあるが。
それはさておき、今私の前に座っている彼女とは、恋人同士に当たる。自分でいうのは恥ずかしい話だが、私は昔から自らの事を“都会派”だと称したりしており、割と恋愛には奥手だった。ましてや相手は同性である。付き合い始めた切欠は早苗からの告白だったけれど、当初は非常に悩んだ。今となっては私も早苗の事を大事に思っているが、もしあの瞬間で、少しでも私が違う環境におかれていたら、きっと今の未来は無いだろう。そう思うと同時に、果たして外の世界では同性同士での恋愛と言う物は成立するのだろうか、また、仮に成立するとして、それは全体の恋愛のカテゴリーの中で通常として獲得し得る選択肢なのだろうか、非常に興味深くもあった。何故ならこの幻想郷は、外の世界から忘れ去られたモノが辿り着く場所である。それは物や人だけではなく、文化や思考と言った、目に見えづらい部分さえも流れてくるからだ。
いわば幻想郷は外の世界の残滓とも言える場所である。最も、そんな事を言ったら、この幻想郷を創ったと言う八雲紫が黙ってはいないだろうけれど。妖怪の大賢者と言われる彼女の怒りを買ったら、私の様な唯の七色など、簡単に消されるだろう。そうなったらもう、彼女を鎮められるのは吸血鬼の姉だけになるが、十中八九姉は八雲紫の味方だろうから、結局私は無事では済まないと言う事になる。とは言え、よもやこの幻想郷に不満などありはしない。だから、私があの二人の怒りを買うことになるのは、まだまだ先の話になりそうだ。
「それで、何か用?」
「え、いいえ、別に――」
読んでいた本から視線を外し、早苗に向ける。どうやら彼女はぼんやりとしていたらしく、少し慌てた様子で私と目を合わせた。
早苗がこの発言をするのは、今日で三回目である。お昼を少し過ぎた辺りにやって来て、何をするでもなくこうして私の正面に座っているのだ。
普段ならばそんな事は無いのだが、今日は珍しく紅茶に手を付けていなかった。恐らくはもう温くなっているだろう。仕方無しに本に栞を挟み、パタンと閉じて立ち上がった。それに反応した早苗は、まるでこれから叱られる事を理解した寺子屋の子供の様だった。何も私はあのワーハクタクではない。恋人に頭突きなどするはずが無いだろうに。そう思うと何故だか苦笑してしまった。
「む、何で笑うんですか」
先の発言を受けたのが三度目だと私は言ったが、実は最初のやり取りで決着は付いていた。何か用かという私の問いに、言い難そうにもじもじとする返しを受けたのが、今から遡る事三十分前と言う事になる。因みにその後もう一度同じ事を言われたが、そのときもやはりそれ以上の言葉は聞かれなかったので、私としては三度目のこの言葉には斜に構えて対応せざるを得なかった。そしてその結果が今に至ると言うわけだ。
はてさて、一体早苗は何をしに来たのだろうか。よもや唯私服を見せに来たわけでもあるまいに。
沸騰したお湯をポットに注ぐ。勿論ポット自体も既に温めており、中の茶葉も十分に蒸らしてその葉を大きく開いている。そしてそれを洗って再度温めたティーカップに注いだ。深く澄んだ紅が、カップの中で揺らめいている。そしてそれを、ミルクと共に早苗の前に置く。早苗は紅茶の中でも、とりわけミルクティーを好んで飲む事を、私は知っていた。その為、ミルクティーにしやすいアッサムの茶葉が、私の台所の棚には必ず用意されている。最もそれは、私が好んで飲むダージリンと収穫時期が一緒だからと言うのも、あるけれど。
「そう言えばアリスさん、聞いた話なんですけど」
「何?」
くるくると早苗がミルクティーを混ぜながら言った。
「ミルクティーって、ミルクを先に入れる方が良い、とか」
「まぁ、間違いではないわね」
早苗のミルクティーと違い、私のカップの中は琥珀色を保っている。マスカットフレーバーと呼ばれるこの強い香りが、私は好きだ。その為、味はセカンドフラッシュにやや劣るものの、敢えてファーストフラッシュを飲む事もある。残念ながらダージリンは発酵度が低いので、早苗と一緒になってミルクティーを飲む事は出来ないけれど。
「ミルクを先に入れる方が良い理由は二つ。まず一つ目は、ミルクよ」
そう言うと早苗は、今は空になったミルク入れをちらりと見た。
「ミルク、ですか」
「ええ、ミルクよ。ミルクには幾つか種類があるの。で、紅茶が盛んな西洋では六十度から六十五度の間で三十分ほどかけて殺菌する低温殺菌牛乳を使うのよ。その場合、後からミルクを注ぐとミルクの蛋白質が変化して風味を損なうの」
「ほへぇ。じゃあ、二つ目は何ですか?」
「それはカップの問題ね。ティーカップは大抵薄い事が多いから、いきなり熱い紅茶を注ぐとヒビが入りやすいのよ。だから先に冷たいミルクを入れておくのね。最も、今私が出した牛乳は高温殺菌牛乳だから蛋白質の変化は無いし、予めティーカップを温めておいたから、問題は無いわよ」
私の数少ない取り柄、と言うと我ながら悲しくなるけれど。紅茶は好きなので自然と詳しくなったのだ。そんな私の説明に、左手で髪を梳きながら早苗がミルクティーを掻き混ぜる。香りの強いダージリンの中を一瞬だけ、早苗の混ぜるミルクティーが駆け抜けた。その匂いを感じると共に、私は得も知れぬ感覚を感じていた。
広くは無い幻想郷、道を行けば知っている者に会う事が多い。とは言え、特別声を掛ける程に付き合いのある者と言ったら、まぁ、哀しいかな両手で数えられる程度でしか無い。更に、私が住むこの魔法の森は瘴気が発生する為、安全とはいえない。加えて、日の光が入る事も少なく、湿気に満ちている。人間はおろか、妖怪でさえあまり好んで住まないと言う。現に魔法の森に住む者と言ったら、私以外にはあの白黒くらいしか見当たらないし、あの妖怪の賢者でさえ、
「この森は、ちょっと健康に悪いですわ」
と言う次第である。それどころか、時折人里で顔を合せる度に心配されるのが癪だ。あのスキマ妖怪が実は心配性で人想いだと言うのは、あの紅魔館の主と夜空で抱きあった辺りから周知の事実である。
さて、要は何が言いたいかと言うと、私に友人と呼べる者は余り多くは無い、と言う事だ。魔法の森には時折人が迷い込んでくるので、そう言う者の面倒を見る事はあっても、何か会話をするわけではない。紅魔館に住んでいる者か、後は今目の前でちらちらと私に上目遣いを送ってくる早苗くらいである。その為、私の紅茶に対する思いや薀蓄を聞いてくれるものがいないのだ。そして間が悪い事に、早苗はどちらかと言うと聞き上手と言う事もあってか、私は普段誰にも言った事のない想いを語る事になった。
「でもね早苗、どちらかと言うと高温殺菌牛乳より、低温殺菌牛乳を入れたミルクティーの方が美味しいのよ。その点については許して欲しいの。何せ幻想郷には低温殺菌牛乳が売ってなかったから。
だから今度はダージリンを飲みましょう。あまり渋味が好きじゃないって言ってたけど、飲んで見れば分かるわ。
そもそもダージリンは香りと渋味両方を楽しむものであって、渋味を嫌う様じゃ、紅茶を楽しむのは難しいわよ。で、この渋味と香りだけど、これにもちゃんとした名前があるのよ。ダージリンの強い香りはマスカットフレーバー、舌に残る刺激的な味はパンジェンシーっていうんだけどね。ほら、見て、この琥珀色。凄く澄んでるでしょう。私普段はミネラルウォーターを飲むんだけど、紅茶の時だけは別。ミネラルウォーターみたいな硬水で紅茶を淹れると、アクも水色も濃くなっちゃうのよね。だから軟水、つまり水道水で淹れてるのよ。
そうそう、早苗は妖怪の山の上に住んでるわよね。妖怪の山がどのくらいの高さかは分からないけど、茶葉は標高の高い場所で栽培した方が香りが強くなるのよ。まぁ、だからと言ってそれ以外で作る茶葉が駄目だとは言わないわ。低地でも日射が強ければ良い味の茶葉が出来るしね。とは言え、流石に高地の茶葉に比べたらアクが強いし、水色が濃くなるけど。
ねぇ、妖怪の山って標高何メートルかしら。四千フィートはあるかしら。ああ、そうか、日本だとあまりフィートは使わないんだっけ。えっと一フィートが大体三十センチだから……千二百メートルくらいかしらね。まぁ、とにかくそれくらいあれば、良いハイ・グロウンが出来るんじゃないかしら。ミディアムでもいいけど。ああ、でも、高さがあっても、土はどうかしらね。茶葉は弱酸性の土壌でしか育たないし、水はけが良くないと腐っちゃうわ。雨は時々降るみたいだけど。
そうか、確か早苗はミルクティーが好きなんだっけ。それだったら、アッサムじゃなくてウバ茶を注いであげれば良かったわ。多分初めて見た時は声を出すと思うわよ。ゴールデンリングって言ってね、ウバ茶を注いだ時には内側に金色の輪が見えるのよ。後面白いのはね、ウバ茶は茶葉によって香りが全く違うのよ。お花みたいな香りの茶葉も有ればハッカの香りが強い事もあるし。私はあまりウバ茶を飲まないけど、ミルクティーにするんだったら、アッサムよりそっちの方が向いてるから、今度買っておいてあげるわ。でもウバ茶は八月辺りが一番美味しいから、その時期にはダージリンが楽しめないのが欠点よねぇ。
まぁ、今度はケーキも一緒に作っておくから、その時はアールグレイを出してあげるわ。ベルガモットなんて幻想郷に生ってたかしら。まぁ良いわ、どうせスキマ妖怪辺りが取り寄せたんでしょう。恩恵に預からなくちゃ。……どうしたの、早苗?」
「……しょ……」
「?」
俯いてふるふると震えている早苗の表情は分からない。そしてまた左手で髪の毛を梳いて――左、手?
あれ、確か。早苗の髪って……。
「そうじゃあ、ないでしょう!」
「うわ」
ずだん、と、物凄い勢いで早苗がテーブルを叩いて立ち上がった。見ればその目には大粒の涙が。
ああ、あれか。私は、やらかしたのか。
その、髪飾りが一つも無い、何時もよりほんの少しだけ短い髪を振り乱して、早苗が私に滲み寄る。
「長々と紅茶の解説有難うございました! でももっと私に言う事有るんじゃないですか!?」
「……えっと。髪、整えた?」
「この期に及んでどうして疑問系なんですか! しかもやっぱり気付いてないんですね!」
そう言われて、早苗の格好を頭から爪先まで、全て見下す。本当に今更だけれど、ようやく普段と違うのに気が付いた。
「あー……似合ってるわよ」
「慣れない化粧までしてきたんですよ。巫女服以外の服を着るのなんて、一世一代の決心だったんですよ!」
早苗は先ほどから一度も、ティーカップに口を付けていない。まさかそれが、口紅を落したくないからだとすれば、可愛らしい理由である。本人の言う通り、化粧に慣れていないのだろう。
「それが何ですか、恋人が来たって言うのに本を読みながら“そう”の一言だけ。もっと驚いて私を、見る、とか、してくれても、いいのに……」
怒っているかと思えば、今度は泣き出してしまった。意外に感情の起伏が激しいのが早苗だ。
「アリスさんなんて嫌いです、馬鹿人形遣い!」
「どう言う事よ!?」
私の制止を振り切って、早苗が玄関に――ではなく、二階へ走りだした。はてどうして二階に逃げるのか、それは私の私室が有るからである。思えば彼女が二階にあがるのは初めてだ。突飛な言動を取る早苗は、その実真面目で、恋人になった今でさえ私の部屋に足を踏み入れない。友人であるかどうかも怪しい隣の白黒は勝手にやって来たり泊まったりしていくが、早苗がそんな事をした事は一度もない。白黒と違って、諏訪子や神奈子と言った家族が居るというのもあるが、基本的に奥手なのだ。だからこそ、化粧などには私が気付いてあげるべきだったのだけれど、今となっては後の祭り。一足先に私の部屋に閉じこもった早苗によって、扉は開かなくなってしまった。部屋に鍵は無い。だとすると、きっと扉の前に早苗が座りこんでしまったのだろう。
「早苗、私が悪かったから出てきて頂戴」
返事は返ってこない。けれど、廊下の私に一番近い扉の前に居る事は確かだ。だとしたら、少なくとも、私の声は届く。
「……ねぇ、早苗。早苗はどうして、何も言わなかったの? 折角おしゃれをしてきたんだから、言ってくれても良かったのに」
返事は無い。家の中に、私の声と微かな啜り声だけが響く。
「私に、気づいて欲しかった。早苗はそういったわよね。ええ、それは間違っていないでしょうね。恋人に自分のおしゃれを気付いてもらえる事は、女性にとってこの上ない幸せでしょうから」
扉に背を預け、私も座りこむ。背中と背中、ドア一枚を挟んで、早苗に想いを紡ぐ。
「でも、本当に理由はそれだけ? 他にも理由があるんじゃないかしら。例えば、自分から言うのが恥ずかしかった、とか」
白い廊下の壁に、早苗の姿を思い出す。
仄かに紅く染まった唇が、
何時もより艶の多い髪が、
私の所為で濡れた睫毛が。
それら全てを思い出すだけで、私の体温が上がっていく事を、きっと早苗は知らない。何故か知らないけれど気付かれてはいけない気がして、まるで紅茶の葉から水分を取る様に心を殺していたのだ。けれども、どうやら私の心と早苗の心は同じ葉だった様で、私の心を殺すと同時に、私は、早苗の思いをないがしろにしてしまっていた。
「私も一緒。一緒よ。貴女を素直に褒めるのが恥ずかしくて、言えなかったわ。
でも、今なら言える。扉越しだけど、聞いて頂戴。いかに今日の貴女が、私にとって刺激的だったかを。
髪、整えただけじゃなくて、シャンプーもリンスも変えたでしょう。何時もより艶が多かったわ。確かに貴女は髪の量が多いから、そのくらい梳いた方が可愛いわ。
さすがにアイシャドーは幻想郷にないみたいね。でも、私で良ければ今度やってあげるわよ。私が居た魔界にはあったから。でも、あんまり期待はしないでね。貴女は睫毛が長いからマスカラもしっかり選ばないとね。
口紅、控え目で良いじゃない。でも、貴女はそんなに唇の色が薄いわけじゃないから、グロスでも良いかもね。それが嫌なら、リキッドルージュなんてどうかしら。
それか、らっ?」
不意に、背中の支えが無くなった。内開きの扉が開いたのだ。その為、膝を抱えて体育座りをしていた私は当然そのまま後ろへ倒れる。
見上げると、早苗の顔があった。アイシャドーが幻想郷に無くて良かった、もし早苗がアイシャドーをしていたら、きっと今頃剥がれ落ちていただろうから。
「……もう一回、聞かせてください」
鼻を啜りながら、早苗がそういった。時折落ちる涙が、私の肩を濡らす。
「一回で良いの?」
「取敢えずは」
早苗の双眸が揺れる。それが湖に広がる波紋を想像させて、不意にその水面を掬いたいと、思った。そうして、早苗の背中に手を回す。早苗を支えていた両手の内、左手がその役割を失い、そして早苗の顔が近くなって――
さっと、それを避けた。
がくりとつんのめる早苗を余所に、私は立ち上がる。そして早苗を立ち上がらせる。唇を引き攣らせ、早苗が抗議の声を上げた。
「なんでこの状況でそうなりますかね。いい加減怒りますよ」
もうさっき怒ったじゃないの、とは言わずに、踵を返す。
「ちょ、ちょっと、アリスさん!」
「貴女の意思を尊重するまでよ」
「何を言ってるんですか?」
「貴女、結局一口もミルクティー飲まなかったでしょ。だから私も、口を濯いできてあげるわ」
「う。気付いてたんですか……」
「初めてのキスの味はダージリン、って言うのも洒落てると思うけどね」
「……紅茶じゃなくて、アリスさんが良いんです……」
あ。やばい。それは、卑怯だ。
気が付いたら、私は再び、早苗の方を向いていた。そして、じりじりと一歩ずつ早苗に近づく。
「初めてのキスは何々の味って言うの、私好きじゃないんです。なんて言ったら良いか分からないんですけど」
「つまり、私の味を知りたいと」
私が一歩近づく度に、早苗が一歩下がる。二人の距離は変わらないものの、私の部屋はそこまで広くは無い。気が付けば早苗は追い詰められ、後ろには家具があった。
家具と言うか、ベッドだけれども。
「は、はっきり言わないで下さい……。それより、アリスさん、目が怖いんですけど」
先ほどから口紅よりも染まった早苗の顔をじっと見る私に、早苗がそう言った。
「失礼ね。貴女の可愛い顔を見てるだけよ」
「そ、それはどうも。じゃあ、何で近づいてくるんですか?」
下がりきれなくなった早苗の踵がベッドの淵に当たり、早苗がベッドに倒れこんだ。対して私は、あくまで一歩ずつ早苗に近づくだけ。早苗の唇は、まだ引き攣ったままだ。
「それは勿論、貴女にキスをするためよ」
「で、出来ればもっと穏かなキスがしたいなぁ、なんて。口を濯ぐ話は一体どこへ」
「ああ、行こうと思ったけど止めたわ。あまりに貴女が可愛いから」
ベッドの端まで逃げていた早苗だが、とうとう逃げ場が無くなった。あくまで優しく早苗の腕を握る。びくっと、早苗が震えるけれど、気にしない。そして先ほどと同じ様に、早苗の背中に腕を回す。
観念したのか、早苗が両目を瞑った。二人の身長はあまり変わらないので、私が顔を近づければそれで良い。行き場をなくした早苗の両手が、二人の間で組まれている。きっと早苗には私の鼓動が届いているだろう。そして私もまた、その両手から早苗の鼓動を聞いていた。緊張しているからか、やはり鼓動は早い。とは言え、恐らく私も同じくらいの速度だろうから、何も言わないでおいた。
顔を近づけると、触れてもいない早苗の顔から熱が伝わってくる。僅かに窄めた唇が小刻みに震えていて思わず苦笑してしまう。なので、一秒だけ、唇を重ねてみた。
「……え……?」
「なぁに?」
「ん、いいえ、何でもないです……」
何でもないと言う割に、寂しそうな顔だった。まぁ、予想は出来ていたけれど。
「今のじゃ不満?」
「そう言う訳じゃ……」
「冗談よ」
「……酷いですよ」
「ふふ、ごめんね。貴女の困ってる顔が見たかったのよ。もう一回、目、閉じて?」
「イジワル」
そう言いながらも、早苗が再び眼を閉じた。今度は時間を掛けず、すぐに唇を重ねる。ふわりと、新しいシャンプーの香りがした。
五秒、十秒、二十秒。
「……んぅ……」
空気を求めて僅かに早苗の唇が、開いた。その隙を逃さず、舌を滑りこませる。緊張の真っ只中にある早苗の口の中は、少し乾いていた。同様に、舌も私の方と比べ、僅かにざらついている。
「っ、んむぅ……」
びくりと、早苗の体が動いた。抱き締める腕の力を少しだけ強くする。早苗の熱がその両腕からも舌からも伝わってきた。早苗の呼吸が荒くなって来た所で、口を離してあげると、呼吸を乱しながら、早苗が私によりかかってきた。
「ア、アリスさん、急すぎましゅ……」
呂律が回っていない。へたりと早苗の両手が、ベッドの上に落ちた。それを見て、腰に回した手を緩める。最も、早苗が私にもたれかかってきた時点で、腰に手は回せていないのだが。代わりに、頭を撫でてあげることにした。さらさらと、早苗の髪の中を私の指が流れた。
「それで早苗、もう一度だけ聞くけど」
「はぁい」
人の胸に顔をうずめないで欲しいのだが、まぁ、この際放っておく事にした。
とろんと蕩けた声を出しているのは、キスの余韻か、それとも頭を撫でられているからか。意外と両方かもしれない。
「何回褒めて欲しい?」
「……ずっとです。この先、ずぅっと」
「そう、じゃあ」
両肩を優しく掴んで、ポンと軽く押す。突然の事に、早苗の身体はあっけなくベッドに広がった。早苗に倣って、私も髪飾りを外す。潤んだ早苗の双眸が私を捉えた。
取り敢えず、次に飲むのは夜明けのミルクティーか。私の家に紅茶以外はないし、早苗は苦いのが苦手だから、ミルクを多めにしてあげよう。
私は、いや、私も。たまには甘ったるいミルクティーでも飲むとしよう。溶けきらないほどの砂糖を入れよう。
「貴女の今夜は、私の物よ」
三度、早苗に唇を重ねる。果たして、今度の早苗は何秒呼吸を保てるだろうか。まぁ、どうでも良いか。
舌も意識も時間さえも、全てが部屋の中で絡み合う。三十七度の私達が、ティーカップではなく、ベッドの上で熱を一つにする。
とくんと一つ、私と早苗の心臓が、共鳴しあう様に空に音を奏でた。
――また会いに来ちゃいました。
そう彼女に言われた時、しかし私は特別何も言わなかった。紅茶を一口分喉に滑らせ、読んでいた本を一ページ捲って、そこで初めて
「そう」
とだけ答えたのだ。
普段着ている、紅白の方に比べて清涼感が漂う巫女服はどこへやら。至って普通の、カジュアルな服装である。腋は出ていない。
彼女の名前は東風谷早苗。元々は外の世界の住人で、自らが仕えている神様と共にこの幻想郷へやって来た。二人(正確には神様は一柱二柱と数えるそうだが)の神様に加え、更には住んでいた神社も含めて丸ごと幻想郷へ来たのだから、随分大掛かりな引越しだったなと思う。
幻想郷は、外の世界で忘れさられた者が辿り着く、最後の拠り所である。その為、外の世界では存在し得ないであろう者も多く見られる。何を隠そう私も魔法遣いと言う種族であり、厳密にいえば人間ではなく、妖怪に値する。まぁ、同じ魔法の森に住むもう一人の魔法遣いの方が、殺しても死ななさそうな人間ではあるが。
それはさておき、今私の前に座っている彼女とは、恋人同士に当たる。自分でいうのは恥ずかしい話だが、私は昔から自らの事を“都会派”だと称したりしており、割と恋愛には奥手だった。ましてや相手は同性である。付き合い始めた切欠は早苗からの告白だったけれど、当初は非常に悩んだ。今となっては私も早苗の事を大事に思っているが、もしあの瞬間で、少しでも私が違う環境におかれていたら、きっと今の未来は無いだろう。そう思うと同時に、果たして外の世界では同性同士での恋愛と言う物は成立するのだろうか、また、仮に成立するとして、それは全体の恋愛のカテゴリーの中で通常として獲得し得る選択肢なのだろうか、非常に興味深くもあった。何故ならこの幻想郷は、外の世界から忘れ去られたモノが辿り着く場所である。それは物や人だけではなく、文化や思考と言った、目に見えづらい部分さえも流れてくるからだ。
いわば幻想郷は外の世界の残滓とも言える場所である。最も、そんな事を言ったら、この幻想郷を創ったと言う八雲紫が黙ってはいないだろうけれど。妖怪の大賢者と言われる彼女の怒りを買ったら、私の様な唯の七色など、簡単に消されるだろう。そうなったらもう、彼女を鎮められるのは吸血鬼の姉だけになるが、十中八九姉は八雲紫の味方だろうから、結局私は無事では済まないと言う事になる。とは言え、よもやこの幻想郷に不満などありはしない。だから、私があの二人の怒りを買うことになるのは、まだまだ先の話になりそうだ。
「それで、何か用?」
「え、いいえ、別に――」
読んでいた本から視線を外し、早苗に向ける。どうやら彼女はぼんやりとしていたらしく、少し慌てた様子で私と目を合わせた。
早苗がこの発言をするのは、今日で三回目である。お昼を少し過ぎた辺りにやって来て、何をするでもなくこうして私の正面に座っているのだ。
普段ならばそんな事は無いのだが、今日は珍しく紅茶に手を付けていなかった。恐らくはもう温くなっているだろう。仕方無しに本に栞を挟み、パタンと閉じて立ち上がった。それに反応した早苗は、まるでこれから叱られる事を理解した寺子屋の子供の様だった。何も私はあのワーハクタクではない。恋人に頭突きなどするはずが無いだろうに。そう思うと何故だか苦笑してしまった。
「む、何で笑うんですか」
先の発言を受けたのが三度目だと私は言ったが、実は最初のやり取りで決着は付いていた。何か用かという私の問いに、言い難そうにもじもじとする返しを受けたのが、今から遡る事三十分前と言う事になる。因みにその後もう一度同じ事を言われたが、そのときもやはりそれ以上の言葉は聞かれなかったので、私としては三度目のこの言葉には斜に構えて対応せざるを得なかった。そしてその結果が今に至ると言うわけだ。
はてさて、一体早苗は何をしに来たのだろうか。よもや唯私服を見せに来たわけでもあるまいに。
沸騰したお湯をポットに注ぐ。勿論ポット自体も既に温めており、中の茶葉も十分に蒸らしてその葉を大きく開いている。そしてそれを洗って再度温めたティーカップに注いだ。深く澄んだ紅が、カップの中で揺らめいている。そしてそれを、ミルクと共に早苗の前に置く。早苗は紅茶の中でも、とりわけミルクティーを好んで飲む事を、私は知っていた。その為、ミルクティーにしやすいアッサムの茶葉が、私の台所の棚には必ず用意されている。最もそれは、私が好んで飲むダージリンと収穫時期が一緒だからと言うのも、あるけれど。
「そう言えばアリスさん、聞いた話なんですけど」
「何?」
くるくると早苗がミルクティーを混ぜながら言った。
「ミルクティーって、ミルクを先に入れる方が良い、とか」
「まぁ、間違いではないわね」
早苗のミルクティーと違い、私のカップの中は琥珀色を保っている。マスカットフレーバーと呼ばれるこの強い香りが、私は好きだ。その為、味はセカンドフラッシュにやや劣るものの、敢えてファーストフラッシュを飲む事もある。残念ながらダージリンは発酵度が低いので、早苗と一緒になってミルクティーを飲む事は出来ないけれど。
「ミルクを先に入れる方が良い理由は二つ。まず一つ目は、ミルクよ」
そう言うと早苗は、今は空になったミルク入れをちらりと見た。
「ミルク、ですか」
「ええ、ミルクよ。ミルクには幾つか種類があるの。で、紅茶が盛んな西洋では六十度から六十五度の間で三十分ほどかけて殺菌する低温殺菌牛乳を使うのよ。その場合、後からミルクを注ぐとミルクの蛋白質が変化して風味を損なうの」
「ほへぇ。じゃあ、二つ目は何ですか?」
「それはカップの問題ね。ティーカップは大抵薄い事が多いから、いきなり熱い紅茶を注ぐとヒビが入りやすいのよ。だから先に冷たいミルクを入れておくのね。最も、今私が出した牛乳は高温殺菌牛乳だから蛋白質の変化は無いし、予めティーカップを温めておいたから、問題は無いわよ」
私の数少ない取り柄、と言うと我ながら悲しくなるけれど。紅茶は好きなので自然と詳しくなったのだ。そんな私の説明に、左手で髪を梳きながら早苗がミルクティーを掻き混ぜる。香りの強いダージリンの中を一瞬だけ、早苗の混ぜるミルクティーが駆け抜けた。その匂いを感じると共に、私は得も知れぬ感覚を感じていた。
広くは無い幻想郷、道を行けば知っている者に会う事が多い。とは言え、特別声を掛ける程に付き合いのある者と言ったら、まぁ、哀しいかな両手で数えられる程度でしか無い。更に、私が住むこの魔法の森は瘴気が発生する為、安全とはいえない。加えて、日の光が入る事も少なく、湿気に満ちている。人間はおろか、妖怪でさえあまり好んで住まないと言う。現に魔法の森に住む者と言ったら、私以外にはあの白黒くらいしか見当たらないし、あの妖怪の賢者でさえ、
「この森は、ちょっと健康に悪いですわ」
と言う次第である。それどころか、時折人里で顔を合せる度に心配されるのが癪だ。あのスキマ妖怪が実は心配性で人想いだと言うのは、あの紅魔館の主と夜空で抱きあった辺りから周知の事実である。
さて、要は何が言いたいかと言うと、私に友人と呼べる者は余り多くは無い、と言う事だ。魔法の森には時折人が迷い込んでくるので、そう言う者の面倒を見る事はあっても、何か会話をするわけではない。紅魔館に住んでいる者か、後は今目の前でちらちらと私に上目遣いを送ってくる早苗くらいである。その為、私の紅茶に対する思いや薀蓄を聞いてくれるものがいないのだ。そして間が悪い事に、早苗はどちらかと言うと聞き上手と言う事もあってか、私は普段誰にも言った事のない想いを語る事になった。
「でもね早苗、どちらかと言うと高温殺菌牛乳より、低温殺菌牛乳を入れたミルクティーの方が美味しいのよ。その点については許して欲しいの。何せ幻想郷には低温殺菌牛乳が売ってなかったから。
だから今度はダージリンを飲みましょう。あまり渋味が好きじゃないって言ってたけど、飲んで見れば分かるわ。
そもそもダージリンは香りと渋味両方を楽しむものであって、渋味を嫌う様じゃ、紅茶を楽しむのは難しいわよ。で、この渋味と香りだけど、これにもちゃんとした名前があるのよ。ダージリンの強い香りはマスカットフレーバー、舌に残る刺激的な味はパンジェンシーっていうんだけどね。ほら、見て、この琥珀色。凄く澄んでるでしょう。私普段はミネラルウォーターを飲むんだけど、紅茶の時だけは別。ミネラルウォーターみたいな硬水で紅茶を淹れると、アクも水色も濃くなっちゃうのよね。だから軟水、つまり水道水で淹れてるのよ。
そうそう、早苗は妖怪の山の上に住んでるわよね。妖怪の山がどのくらいの高さかは分からないけど、茶葉は標高の高い場所で栽培した方が香りが強くなるのよ。まぁ、だからと言ってそれ以外で作る茶葉が駄目だとは言わないわ。低地でも日射が強ければ良い味の茶葉が出来るしね。とは言え、流石に高地の茶葉に比べたらアクが強いし、水色が濃くなるけど。
ねぇ、妖怪の山って標高何メートルかしら。四千フィートはあるかしら。ああ、そうか、日本だとあまりフィートは使わないんだっけ。えっと一フィートが大体三十センチだから……千二百メートルくらいかしらね。まぁ、とにかくそれくらいあれば、良いハイ・グロウンが出来るんじゃないかしら。ミディアムでもいいけど。ああ、でも、高さがあっても、土はどうかしらね。茶葉は弱酸性の土壌でしか育たないし、水はけが良くないと腐っちゃうわ。雨は時々降るみたいだけど。
そうか、確か早苗はミルクティーが好きなんだっけ。それだったら、アッサムじゃなくてウバ茶を注いであげれば良かったわ。多分初めて見た時は声を出すと思うわよ。ゴールデンリングって言ってね、ウバ茶を注いだ時には内側に金色の輪が見えるのよ。後面白いのはね、ウバ茶は茶葉によって香りが全く違うのよ。お花みたいな香りの茶葉も有ればハッカの香りが強い事もあるし。私はあまりウバ茶を飲まないけど、ミルクティーにするんだったら、アッサムよりそっちの方が向いてるから、今度買っておいてあげるわ。でもウバ茶は八月辺りが一番美味しいから、その時期にはダージリンが楽しめないのが欠点よねぇ。
まぁ、今度はケーキも一緒に作っておくから、その時はアールグレイを出してあげるわ。ベルガモットなんて幻想郷に生ってたかしら。まぁ良いわ、どうせスキマ妖怪辺りが取り寄せたんでしょう。恩恵に預からなくちゃ。……どうしたの、早苗?」
「……しょ……」
「?」
俯いてふるふると震えている早苗の表情は分からない。そしてまた左手で髪の毛を梳いて――左、手?
あれ、確か。早苗の髪って……。
「そうじゃあ、ないでしょう!」
「うわ」
ずだん、と、物凄い勢いで早苗がテーブルを叩いて立ち上がった。見ればその目には大粒の涙が。
ああ、あれか。私は、やらかしたのか。
その、髪飾りが一つも無い、何時もよりほんの少しだけ短い髪を振り乱して、早苗が私に滲み寄る。
「長々と紅茶の解説有難うございました! でももっと私に言う事有るんじゃないですか!?」
「……えっと。髪、整えた?」
「この期に及んでどうして疑問系なんですか! しかもやっぱり気付いてないんですね!」
そう言われて、早苗の格好を頭から爪先まで、全て見下す。本当に今更だけれど、ようやく普段と違うのに気が付いた。
「あー……似合ってるわよ」
「慣れない化粧までしてきたんですよ。巫女服以外の服を着るのなんて、一世一代の決心だったんですよ!」
早苗は先ほどから一度も、ティーカップに口を付けていない。まさかそれが、口紅を落したくないからだとすれば、可愛らしい理由である。本人の言う通り、化粧に慣れていないのだろう。
「それが何ですか、恋人が来たって言うのに本を読みながら“そう”の一言だけ。もっと驚いて私を、見る、とか、してくれても、いいのに……」
怒っているかと思えば、今度は泣き出してしまった。意外に感情の起伏が激しいのが早苗だ。
「アリスさんなんて嫌いです、馬鹿人形遣い!」
「どう言う事よ!?」
私の制止を振り切って、早苗が玄関に――ではなく、二階へ走りだした。はてどうして二階に逃げるのか、それは私の私室が有るからである。思えば彼女が二階にあがるのは初めてだ。突飛な言動を取る早苗は、その実真面目で、恋人になった今でさえ私の部屋に足を踏み入れない。友人であるかどうかも怪しい隣の白黒は勝手にやって来たり泊まったりしていくが、早苗がそんな事をした事は一度もない。白黒と違って、諏訪子や神奈子と言った家族が居るというのもあるが、基本的に奥手なのだ。だからこそ、化粧などには私が気付いてあげるべきだったのだけれど、今となっては後の祭り。一足先に私の部屋に閉じこもった早苗によって、扉は開かなくなってしまった。部屋に鍵は無い。だとすると、きっと扉の前に早苗が座りこんでしまったのだろう。
「早苗、私が悪かったから出てきて頂戴」
返事は返ってこない。けれど、廊下の私に一番近い扉の前に居る事は確かだ。だとしたら、少なくとも、私の声は届く。
「……ねぇ、早苗。早苗はどうして、何も言わなかったの? 折角おしゃれをしてきたんだから、言ってくれても良かったのに」
返事は無い。家の中に、私の声と微かな啜り声だけが響く。
「私に、気づいて欲しかった。早苗はそういったわよね。ええ、それは間違っていないでしょうね。恋人に自分のおしゃれを気付いてもらえる事は、女性にとってこの上ない幸せでしょうから」
扉に背を預け、私も座りこむ。背中と背中、ドア一枚を挟んで、早苗に想いを紡ぐ。
「でも、本当に理由はそれだけ? 他にも理由があるんじゃないかしら。例えば、自分から言うのが恥ずかしかった、とか」
白い廊下の壁に、早苗の姿を思い出す。
仄かに紅く染まった唇が、
何時もより艶の多い髪が、
私の所為で濡れた睫毛が。
それら全てを思い出すだけで、私の体温が上がっていく事を、きっと早苗は知らない。何故か知らないけれど気付かれてはいけない気がして、まるで紅茶の葉から水分を取る様に心を殺していたのだ。けれども、どうやら私の心と早苗の心は同じ葉だった様で、私の心を殺すと同時に、私は、早苗の思いをないがしろにしてしまっていた。
「私も一緒。一緒よ。貴女を素直に褒めるのが恥ずかしくて、言えなかったわ。
でも、今なら言える。扉越しだけど、聞いて頂戴。いかに今日の貴女が、私にとって刺激的だったかを。
髪、整えただけじゃなくて、シャンプーもリンスも変えたでしょう。何時もより艶が多かったわ。確かに貴女は髪の量が多いから、そのくらい梳いた方が可愛いわ。
さすがにアイシャドーは幻想郷にないみたいね。でも、私で良ければ今度やってあげるわよ。私が居た魔界にはあったから。でも、あんまり期待はしないでね。貴女は睫毛が長いからマスカラもしっかり選ばないとね。
口紅、控え目で良いじゃない。でも、貴女はそんなに唇の色が薄いわけじゃないから、グロスでも良いかもね。それが嫌なら、リキッドルージュなんてどうかしら。
それか、らっ?」
不意に、背中の支えが無くなった。内開きの扉が開いたのだ。その為、膝を抱えて体育座りをしていた私は当然そのまま後ろへ倒れる。
見上げると、早苗の顔があった。アイシャドーが幻想郷に無くて良かった、もし早苗がアイシャドーをしていたら、きっと今頃剥がれ落ちていただろうから。
「……もう一回、聞かせてください」
鼻を啜りながら、早苗がそういった。時折落ちる涙が、私の肩を濡らす。
「一回で良いの?」
「取敢えずは」
早苗の双眸が揺れる。それが湖に広がる波紋を想像させて、不意にその水面を掬いたいと、思った。そうして、早苗の背中に手を回す。早苗を支えていた両手の内、左手がその役割を失い、そして早苗の顔が近くなって――
さっと、それを避けた。
がくりとつんのめる早苗を余所に、私は立ち上がる。そして早苗を立ち上がらせる。唇を引き攣らせ、早苗が抗議の声を上げた。
「なんでこの状況でそうなりますかね。いい加減怒りますよ」
もうさっき怒ったじゃないの、とは言わずに、踵を返す。
「ちょ、ちょっと、アリスさん!」
「貴女の意思を尊重するまでよ」
「何を言ってるんですか?」
「貴女、結局一口もミルクティー飲まなかったでしょ。だから私も、口を濯いできてあげるわ」
「う。気付いてたんですか……」
「初めてのキスの味はダージリン、って言うのも洒落てると思うけどね」
「……紅茶じゃなくて、アリスさんが良いんです……」
あ。やばい。それは、卑怯だ。
気が付いたら、私は再び、早苗の方を向いていた。そして、じりじりと一歩ずつ早苗に近づく。
「初めてのキスは何々の味って言うの、私好きじゃないんです。なんて言ったら良いか分からないんですけど」
「つまり、私の味を知りたいと」
私が一歩近づく度に、早苗が一歩下がる。二人の距離は変わらないものの、私の部屋はそこまで広くは無い。気が付けば早苗は追い詰められ、後ろには家具があった。
家具と言うか、ベッドだけれども。
「は、はっきり言わないで下さい……。それより、アリスさん、目が怖いんですけど」
先ほどから口紅よりも染まった早苗の顔をじっと見る私に、早苗がそう言った。
「失礼ね。貴女の可愛い顔を見てるだけよ」
「そ、それはどうも。じゃあ、何で近づいてくるんですか?」
下がりきれなくなった早苗の踵がベッドの淵に当たり、早苗がベッドに倒れこんだ。対して私は、あくまで一歩ずつ早苗に近づくだけ。早苗の唇は、まだ引き攣ったままだ。
「それは勿論、貴女にキスをするためよ」
「で、出来ればもっと穏かなキスがしたいなぁ、なんて。口を濯ぐ話は一体どこへ」
「ああ、行こうと思ったけど止めたわ。あまりに貴女が可愛いから」
ベッドの端まで逃げていた早苗だが、とうとう逃げ場が無くなった。あくまで優しく早苗の腕を握る。びくっと、早苗が震えるけれど、気にしない。そして先ほどと同じ様に、早苗の背中に腕を回す。
観念したのか、早苗が両目を瞑った。二人の身長はあまり変わらないので、私が顔を近づければそれで良い。行き場をなくした早苗の両手が、二人の間で組まれている。きっと早苗には私の鼓動が届いているだろう。そして私もまた、その両手から早苗の鼓動を聞いていた。緊張しているからか、やはり鼓動は早い。とは言え、恐らく私も同じくらいの速度だろうから、何も言わないでおいた。
顔を近づけると、触れてもいない早苗の顔から熱が伝わってくる。僅かに窄めた唇が小刻みに震えていて思わず苦笑してしまう。なので、一秒だけ、唇を重ねてみた。
「……え……?」
「なぁに?」
「ん、いいえ、何でもないです……」
何でもないと言う割に、寂しそうな顔だった。まぁ、予想は出来ていたけれど。
「今のじゃ不満?」
「そう言う訳じゃ……」
「冗談よ」
「……酷いですよ」
「ふふ、ごめんね。貴女の困ってる顔が見たかったのよ。もう一回、目、閉じて?」
「イジワル」
そう言いながらも、早苗が再び眼を閉じた。今度は時間を掛けず、すぐに唇を重ねる。ふわりと、新しいシャンプーの香りがした。
五秒、十秒、二十秒。
「……んぅ……」
空気を求めて僅かに早苗の唇が、開いた。その隙を逃さず、舌を滑りこませる。緊張の真っ只中にある早苗の口の中は、少し乾いていた。同様に、舌も私の方と比べ、僅かにざらついている。
「っ、んむぅ……」
びくりと、早苗の体が動いた。抱き締める腕の力を少しだけ強くする。早苗の熱がその両腕からも舌からも伝わってきた。早苗の呼吸が荒くなって来た所で、口を離してあげると、呼吸を乱しながら、早苗が私によりかかってきた。
「ア、アリスさん、急すぎましゅ……」
呂律が回っていない。へたりと早苗の両手が、ベッドの上に落ちた。それを見て、腰に回した手を緩める。最も、早苗が私にもたれかかってきた時点で、腰に手は回せていないのだが。代わりに、頭を撫でてあげることにした。さらさらと、早苗の髪の中を私の指が流れた。
「それで早苗、もう一度だけ聞くけど」
「はぁい」
人の胸に顔をうずめないで欲しいのだが、まぁ、この際放っておく事にした。
とろんと蕩けた声を出しているのは、キスの余韻か、それとも頭を撫でられているからか。意外と両方かもしれない。
「何回褒めて欲しい?」
「……ずっとです。この先、ずぅっと」
「そう、じゃあ」
両肩を優しく掴んで、ポンと軽く押す。突然の事に、早苗の身体はあっけなくベッドに広がった。早苗に倣って、私も髪飾りを外す。潤んだ早苗の双眸が私を捉えた。
取り敢えず、次に飲むのは夜明けのミルクティーか。私の家に紅茶以外はないし、早苗は苦いのが苦手だから、ミルクを多めにしてあげよう。
私は、いや、私も。たまには甘ったるいミルクティーでも飲むとしよう。溶けきらないほどの砂糖を入れよう。
「貴女の今夜は、私の物よ」
三度、早苗に唇を重ねる。果たして、今度の早苗は何秒呼吸を保てるだろうか。まぁ、どうでも良いか。
舌も意識も時間さえも、全てが部屋の中で絡み合う。三十七度の私達が、ティーカップではなく、ベッドの上で熱を一つにする。
とくんと一つ、私と早苗の心臓が、共鳴しあう様に空に音を奏でた。
甘いなぁ、ほんのり甘いなぁ。
友人曰く、初めて飲んだのがインスタントミルクティだったから問題で、紅茶はストレートに限るとか?
このお話を読んで、ちょっと紅茶を飲んでみたくなりました。
アリスの入れた紅茶、飲んで見たい。
サナアリ?好きですよ!
大変けしからんので、続きを要求します。
学園もので早アリとかあったらいいのに
紅茶は缶のミルクティーがおいしい、自分で入れてもなぜかおいしくないんだよね。
紅茶の薀蓄が照れ隠しで楽しめて、知識として楽しめて一石二鳥とはこの事か!
しかしそうか、アリスはクールぶっちゃうからなぁ
アリスが格好よくて最高だった。
早苗さん可愛いなあ。アリスも決めるとこは決めるし、良いね。