01.
部屋のドアを開けた人物が友人のパチュリー・ノーレッジであると認めた時、私ことフランドール・スカーレットは、思わず読んでいた本を閉じてしまった。
読書は、私にとって数少ない趣味の内の一つである。恥ずかしい話だが、常日頃から私は私室に引き篭もる事が多く、一日の内の大半を自分の部屋で過ごす。新しく読み始めた本が存外に面白かった時には、日を跨いで文字の世界に没頭する事も珍しくは無い。今こうしてパチュリーが部屋に訪れなければ、きっと今回も今日と明日の境界が無くなっていただろう。因みに、今読んでいた本は長編の恋愛小説で、その頁数は四桁に達する程である。半分辺りまで読み終えた所で、丁度場面が変わる所だったので、読むのを中断した所としても特段支障があるわけではない。それよりも寧ろ、目の前で“あいつ”の様に不敵に笑うパチュリーの方が気になったのだ。
「……パチュリー、だよね?」
「変な事を聞くのね」
我ながら間の抜けた質問だったとは思う。しかし、今扉の前に佇む彼女が、私の知るパチュリー・ノーレッジとは異なって見えたのだ。
背中から腰ほどまであった髪はばっさりと切られ、肩口辺りで整えられている。彼女のトレードマークだった帽子も今は無く、私の頭上にある空調にその細い髪を僅かに揺らしていた。おかげで、それまで彼女とは無縁であっただろう“快活”と言う言葉が思わず頭に浮かんだ。
彼女は早口な上に、俯き気味にぼそぼそと喋る癖があった。それには二つの理由があり、種族としての理由と、あとは彼女自身の理由がある。今でこそスペルカードルールと言う物が確立された幻想郷だけれど、そもそもとして私や彼女は外の世界から幻想郷にやって来た。外の世界では紛争や戦争が絶えず、私達が他者の命を奪ってきた事も少なくない。魔法遣いと言う種族である彼女は、肉弾戦に長ける私と違い、精霊を使役したりする事で戦うのだが、その主な手段は詠唱をする事にある。そして詠唱をしている間は基本的に無防備になる為、私や“あいつ”が彼女を守ってきた。その結果、一秒でも早く詠唱を終える為、彼女は早口になったのだ。この幻想郷では誰かの命を奪うなんて事はないけれど、長年染み付いた癖はそう簡単に洗い流せるものではない。
もう一つの理由としては、これは単に彼女自身の問題で、実は彼女は喘息を患っている為、あまり大きな声で話したりする事が出来ないのだ。何時も図書館に居る彼女は、まるで読んでいる本に自身の言葉を書き加えているかのような喋り方をする。慣れない者が彼女と会話をするとその辺りに違和感を覚えるようだけれど、私はもう慣れたので、今では彼女の声が心地いい。二人して本を読んでいる時は会話も少なく、お互い顔を合わせる訳ではないけれど、それでも数少ない会話の中に彼女の絹の様な声を聞くのが好きで堪らないのだ。
それが、今はどうだろうか。絹の様な囁き声は変わらない。しかし、それを語る口上は早くなく、私を説き伏せるような口調だった。だからこそ私は、思わず彼女がパチュリーなのかどうか確認してしまったのだけれど。
「髪、切ったんだ」
「ええ。折角だからね」
兼ねてから私はパチュリーから相談を受けており、その内容は親友である“あいつ”に対して抱いた恋心についてだった。
これもまた、恥ずかしい話にはなるが、私が先ほどから“あいつ”と呼んでいるのは、実の姉であるレミリア・スカーレットの事である。何時だって自信と行動力に満ち溢れている姉に対して、何時からか私は得も知れぬ感情を抱いていた。何も私は中国の虎ではない。尊大な自尊心と羞恥心が傷つけられたわけではないのだけれど、しかし私は姉に対して素直になる事が出来なかった。実に四百九十五年もの間、私は反抗期を続けていたわけだ。我ながら情けない。しかし私とて、姉が嫌いなわけではない。私の両親(つまり、姉の両親でもあるが)は既に他界しており、目の前のパチュリーやメイドの咲夜も勿論家族だとは思っているが、血の繋がった、文字通りの意味での家族は姉唯一人である。出来る事ならば嫌いたくはないのだが、何分私は長い間地下に篭りすぎた。その為、歩み寄り方を忘れてしまっていたようである。一度も変わらず私を妹として愛してくれる姉に、そろそろ私も地下室の衣を脱ぎ捨てねばならないと感じたのだ。だから私は出来る限りの協力をパチュリーにしてあげたつもりだ。地上さえも知らない私が、地上はおろか月夜を飛び回るあの姉の何が分かるのだろうかとは思ったが、しかし私にとって魔法遣いは唯一と言っていい友人である。出来る事ならば彼女の想いが姉に届けば良いと思ったのだ。
しかし、姉がパチュリーを選ぶ事は無かった。姉は姉で、自身の恋愛を達成してしまったのだ。無理も無い。パチュリーも私も、自分の部屋以外に世界を持たない。対して姉は月夜の空や、灼熱の地底さえ庭の様に駆け巡る自由な吸血鬼なのだから。姉を繋ぎ止める術を、私も彼女も持っていなかった。
思えば私もまた、姉に対して淡い思いを抱いていたのかもしれない。そんな感情を抱くのは生まれて初めてで、ましてや相手は血の繋がった家族である。気づけと言う方が難題だ。私はパチュリーの思いや瞳を通して、姉に恋をしていたに違いない。でなければ、パチュリーが姉にスペルカードルールでの勝負を挑んだ際に、彼女に協力などしなかっただろう。
レミリア・スカーレットが己の想いに応えてくれないと分かった時、パチュリーは、姉に対して勝負を挑んだのだ。二人が対決するのは私が知る限りでは初めてであるが、きっとそれがパチュリーなりの決別だったのだろう。わざわざ雨の降っていない満月の日を選ぶ程の徹底ぶりだったのだから。
結果からすれば、私とパチュリーは負けた。私もパチュリーも、抱いているとすれば叶わないと知った、いわば蟠りの様な心の痛みである。自由に夜空を飛翔する姉に手が届かないのも、無理はない。地上が広いと知った代わりに、私もパチュリーも一つ痛みを覚えたと言う事にしておこう。
それから数日経った日が、今である。例えあの時の弾幕勝負で私達が勝ったとしても、恋心が叶わない事に変わりは無かった。単に自分の心の着地点を求めただけである。なので、勝とうが負けようがパチュリーが髪を切っていただろう事位は想像に難くないし、それ以外の変化もいわば必然なのだろう。
「にしても、わざわざどうしたのさ。動かない図書館ともあろう人が」
パチュリーは、私同様にその半生を私室で過ごしてきた。それどころか、濃度と言う点に関しては、パチュリーの方が濃いのかもしれない。彼女の私室は通常の私室と異なり、数える事さえままならない量の蔵書で埋め尽くされている。その為、彼女を評する言葉に先に挙げた“動かない図書館”とのがあるくらいだし、彼女自身も満更ではない様子だった。何を隠そう私が読んでいる本も、大半は彼女の図書館の棚に並んでいるものである。
そんな彼女が、図書館を出て私の所に来ると言うのは、考えられないような出来事だったのだ。
「ええ、小悪魔にでも頼もうかと思ってたんだけどね」
小悪魔、と言うのは彼女に使えている司書である。いい加減名前で呼んであげても良いのではないか、と思っているのは私だけだろうか。
「折角だから直接言おうかと想って。これ」
そして彼女が掲げたのは、先ほどから右手に持っていた紙袋だった。仕方無しに閉じた本を本棚に戻し、パチュリーの元まで歩み寄る。私は栞を本に挟む事を好まない。栞を用いると、僅かにとは言え頁がよれてしまうからだ。それを最初に教えてくれたのはパチュリーなのだけれど、成程と感じて以来、私は本に栞を挟まなくなった。最も、今回の様に読書を中断させられる事自体が稀だと言うのもあるが。
本の中の恋人達に心で謝りながら、私はパチュリーから紙袋を受け取った。重くは無い。重くは無い、が。
「……これ」
「ええ、そう。着物よ」
紙袋の中にあったのは、かつて一度だけ着た事のある和服だった。しかし、私の中ではその一度は既に過去のものであり、かつあまり良い思い出ではない。
元々この着物は姉から受け取ったものであり、その当時にやっていた祭りに私を誘う口上でもあった。思い出すだけでも恥ずかしくなるような、クランベリーの様な姉妹のやりとりが、いまでもありありと蘇ってきそうだ。
地下室に篭っている私でも、その話題は知っていた。何でも今日は、人里で祭りが開かれるらしい。流し雛だったかひな祭りだったか、名称は忘れたけれど、神様がくるくる踊ると言う事だけは理解していた。地下室の廊下は妖精メイドさえ行き来をしない。図書館でパチュリーと小悪魔がそういう会話をしていたのを思いだしたのだ。
祭り、そして着物。まるでフラれる前の姉とのやり取りを思い出して、思わず苦笑した。フラれた、と言うにはあまりに一方的だけれど、きっと間違ってはいない。それは目の前のパチュリーも同じだろう。先日弾幕勝負を終えた際に、姉はポツリと、
「知らなかった。パチェが、私を……」
そう零したのだから。我侭で自分勝手で、人の心に忍びこむのが得意な癖に鈍感なのが、私の姉なのだ。
「フランの着物姿、似合っていたから。もう一度見せて頂戴」
「じゃあさ」
しかし私は素直ではない。四百九十五年姉にそうして来たように、今度は失恋を振り切って蛹を脱ぐパチュリーの言葉に、簡単に首を縦に振りたくは無かった。
「私だけ着物を着るのは嫌だ。パチェも着なよ」
「そのパターンは失念していたわ」
その言葉に、一度だけ会った事のある姉の恋人を思い出した。持って回った言い方である。ある程度頭が良くなると、会話のスムーズさは寧ろ失われるのだろうか。
しかし、まぁ、そんな事はどうでも良かった。後ろ手に扉を閉じて、私は廊下を右手に歩きだした。呆気に取られながらも、パチュリーが数歩遅れて私についてくる。
「フラン、どこに行くの?」
「図書館。どの道これ、一人じゃ着れないでしょ。小悪魔に手伝って貰うから」
「私が手伝うと言うパターンはなかったのね」
「やーだ。そう言えばさ、パチェ」
歩みを遅らせて、後ろのパチュリーが並ぶのを待った。あまり早く歩き過ぎるのは、喘息のパチュリーにとって辛いだろう。
やがて横に並んだパチュリーが私に疑問符をぶつける。
「何時の間に“妹様”から“フラン”になったんだ。あ、いや、そのままで良いよ。嫌なわけじゃないから」
言われてもいないのに、自分で弁明を挟んでしまった。対してパチュリーは、一度だけ笑って、そして再び歩きだした。
その笑顔は、どちらかと言うと寂しげなものだった様に思える。
「フラれた者同士、友達かなって思ったのよ」
今度は、私が呆気に取られる番だった。私の視界を、これまでは見えなかったパチュリーの細い肩が通り過ぎた。揃えられた髪以上に、パチュリーの後ろ姿が以前とは違って見える。淡々としていながらも、しっかりとした足取り。パチュリーの歩みは私よりも遅く、追いつく事は容易だったけれど、何故だかその気にはなれなかった。代わりに、紙袋を持つ手を右から左に変えて、一度だけ大きく息を吐いた。
叶わなかった恋は辛いけれど、私もパチュリーの様に変わってみようか。具体的にはどうすればよいかなんて、全く分からなかったけれど、分からなかったら友人に聞けば良い。何しろ私の友人は頭が良いし、そして私と同じ人にフラれたのだから。
「……ああ、そうだ」
ふと、先ほどまで読んでいた本の事を思い出す。頁の中の恋人もまた、これからデートに向かう所だった。自分勝手な女に振り回されながらも、男は楽しんでいた様に思える。姉に勝てるとは思えないが、私も自分勝手になってみようか。そもそも私は妹なのだ、姉に我侭を言っても良いだろう。
そう思い、少しだけ笑う余裕が出来た。もう少し、姉の事は“あいつ”と呼んでやろう。祭りで顔を合わせたら舌を出してやろう。あいつは存外私に嫌われたくは無いみたいなので、きっと祭りを楽しみながらもどこか心にもやもやを抱えるに違いない。それで良かった。一方的にフラれたのだから、せめて最後に嫌がらせくらいしてやる。終わった恋に対しての、泣かない代わりの矜持がそれだった。
本棚で私の帰りを待つあの本に、お礼を言っておく。待っていろ、帰ったら良い報告をしてあげよう。
物語の四百九十六ページ目。読みかけて閉じた、私の世界の続きだ。
02.
診療所の天井に染み付かせるように、目の前の女性が煙草の煙を吐いた。
日も高い正午だ。あれから小悪魔の協力を得て着物を着た私とパチュリーは、人里の診療所に居た。なんでも喘息の薬を毎週ここで用意して貰っているらしい。何時もは人里で買い物をした咲夜が帰り道に取りによるのだけれど、今回は祭りに行く前に自ら取りに来たと言うわけだ。
「悪いわね、フラン。寄り道させちゃって」
「別に良いよ、これくらい」
寧ろ私としては、図書館で着替えた時の光景が頭から離れない。
哀しいかな、同じ引き篭もりなのにも関わらず、私とパチュリーにはある一点において決定的な違いがあったのだ。姉と同じく寸胴型の私に対して、どこでそんな無駄な物を付けたというのか、パチュリーの胸部は、実に豊かだった。例えるならば、私や姉が水平線だとして、パチュリーのそれは妖怪の山である。人の体を妖怪だの山だの言うのは失礼かと思ったが、魔法遣いなのだから妖怪と大差ないだろう。極めて妥当な比喩である。しかし魔法使いは食事をしないと聞いたのだが、あるいはそう言う魔法でも遣ったというのか。私の横で着替えながら揺れるそれに、思わず右手を握り締めてやろうかと思ったくらいだ。
さて、診療所には私の他に数人がいるけれど、その内医者は一人な上、今患者はいない。居るのは銀色の髪をかつてのパチュリー以上に長く伸ばしている奴と、私達以上に着物に着慣れている姫の様な人だ。
医者の名は鈴仙・優曇華院・イナバと言い、銀髪の奴の名は藤原妹紅と言うらしい。二人は何れも煙草を吸っており、開けられた窓から白い煙が出て行く様は、まるで料理でもしているかのようだった。まぁ、私は料理なんてした事がないので、あくまで想像にすぎないけれど。
「妹紅、それからイナバも。いい加減煙草、止めたら?」
唯一タバコを吸っていない女性、蓬莱山輝夜が、そう二人を嗜める。少しだけ眉根を顰めている辺り、恐らく煙草が苦手なのだろう。
輝夜の言葉に、二人して言葉を詰まらせた。どちらから言うでもなく灰皿に二つの煙草を押し付けている様は、見ていて面白い。
「申し訳ありません」
「悪いね」
「特に妹紅。貴女死なないからって、すこし不摂生なんじゃない? この間家に行った時だって、ろくに掃除もしてない様子だったし」
どうも二人とも、輝夜に頭が上がらないようだ。
「酷い言い草ね」
「まぁ、姫様の仰っている事が正しいんですけどね」
「美味しそうに煙草ふかしてる医者に言われたくないわよ」
妹紅の言葉に、うどんげが無言の視線で返す。おお怖い、と首をすくめる妹紅だけれど、全然そんな風には見えない。
人里の診療所。それが今回パチュリーの目的地でもあり、うどんげと言う人の職場でもある。とは言え、今本人に聞いた話だと、難しい手術や投薬に関しては彼女はやらない。あくまで彼女は、人里と訪ねる事さえままならない永遠亭とを結ぶ架橋に過ぎないと言う事らしい。
彼女は、この人里で、やって来た患者に対して手当てをしたりするのに加え、彼女の方から往診をしたりもする。
彼女は少し前まで永遠亭と言う屋敷に住んでいたのだけれど、元々永遠亭というのは、月からこの幻想郷へやって来た輝夜(なんと月のお姫様らしい。道理で先ほどからうどんげがそう呼んでいたわけだ)が月からの使者の目を欺く為に建てた物で、そのおかげで今までは大きな問題も無かった。でも、一つだけ問題があった様で、それは月の追っ手どころか、幻想郷の者も永遠亭に辿り付けないという事らしい。
生活をするにはお金が要る。紅魔館は“あいつ”が好奇心と幸運を生かしてお金を捻出しているらしい。出来る女はモテると言うけれど、おかげで咲夜を含めた従者は皆“あいつ”にべったりである。唯一“あいつ”に対してそう言う感情を持たないのが門番の美鈴で、週に一度与えられている休日には必ず嬉しそうな表情を浮かべてどこかへ向かっていく。以前美鈴が持ち帰ってきたお土産を見るに、どうやら最近幻想郷に出来た新しい寺に足を運んでいるようだ。とは言え、美鈴の目当てが誰なのかは分からないので、今はおいておこう。
生活の為にお金がいるのは永遠亭も同様だ。とはいえ、まさか姫である輝夜にそれをさせる訳にはいかないらしく、元から薬学や医学に精通していたうどんげの師匠、八意永琳の発案の元に診療所を営む事にしたと言う。
幻想郷に医者は少ない。しかも永琳の腕や知識は確かな物で、名が浸透するのにはそう時間が掛からなかったのだけれど、何しろ立地条件が悪い。永遠亭の周りには迷いの竹林と言う、妖怪でさえ無事に辿り着くことが出来ないと言われている空間がある。そのせいで、患者が一人で永遠亭に来る事はありえないというのだ。
「まぁ、おかげで私も食いっぱぐれないで済むんだけどね」
と言うのは妹紅の談である。妹紅は永く生きているからか、迷いの竹林を無事に通る事の出来る数少ない存在だ。その為、永遠亭まで行きたい患者を案内する事が多いと言う。
「じゃあ、これからはどうするのさ?」
「さぁねぇ」
そんな需要と供給、診察を受けたいけれど受けられないと言う行き違いをなくす為に出された答えが、この診療所と言う事だ。一通りの知識を仕入れ、実地経験も少なくないうどんげが、誰でも通う事の出来る人里に診療所を設けた。いわば、独立と言う事らしい。最も、それ意外にも理由は在るようだけれど。
「煙草が吸いたいだけでしょ、貴女の場合」
「そう言わないで下さい」
輝夜の住む永遠亭でタバコを吸うには、夜中にこっそりと吸わなければならない。それはそうだ、永遠亭は輝夜の為にあって、その輝夜が煙草を嫌っているのだから、まさか面前で吸うわけにもいかない。加えて煙草の匂いを付けて輝夜の前に居るわけにもいかないだろう。その為、夜中に水を浴びるか好きでもない香水をかけて寝る事も時々あったと言う。やめると言う選択肢は無かったのかと私は思ったけれど、私が思ったところでどうにかなるわけでも無い。
「とは言えどっちもどっちなのよね。前者のだったら冬は寒いし、後者は後者で、師匠に叱られた事もあったっけ」
「後者って、香水?」
「そう。いくら布団に香水がついてるからって、誰かと寝たなんてねぇ。私が銃以外に興味なくて、ましてや恋人なんて作る気もない事くらい、師匠も知ってるだろうに」
……鈍感だ。うどんげは、鈍感だった。
「鈍感」
「鈍感ね」
「鈍感だわ」
他の三人も同じ感想だったらしく、口々に同じ言葉を発した。うどんげだけが納得の言ってない様子で、むぅと口を尖らせていたのが面白い。
「むしろ意外だったのは姫様です。まさか煙草の事を知ってたらしたなんて」
「私に隠し事が通じる訳ないでしょう。まぁ、貴女が永遠亭を出る日の朝、私の後ろでうーうー唸る永琳は面白かったけどね」
そんな訳で、うどんげは永琳の反対を振り切り、人里で個人の診療所を出す事にした。とはいえ、本人曰く、“まだまだ師匠には敵わない。なので、投薬や難しい手術は師匠に一任している”らしい。なるほど、道理で先ほどからそれらの単語が聞かれなかった訳だ。
「週に一度永遠亭に戻って、報告や食事を兼ねて患者の薬を貰うって事になってるんだけどね」
「パイプ役みたいな物?」
「そ。まぁ、最近では師匠がやたら泊まっていけって言うから、そうさせて貰ってるけどね」
「鈍感」
「は?」
「何でもない。じゃあ、妹紅はこれからどうするのさ」
人里に診療所が出来て、患者自ら永遠亭に行かなくて済むならば、迷いの竹林を案内すると言う妹紅の仕事は無くなると思ったのだが。
「ああ……うん、その辺は、まぁ、大丈夫よ」
どうにも歯切れが悪い。答えが無いと言うわけではなく、答えはあるけれど言いづらい。まるでそんな様子である。ぽりぽりと頬をかき、落ち着きなく診療所を見回している。
そんな私の問いに答えたのは妹紅本人ではなく、輝夜だった。何故か可笑しそうな表情で、
「それなら心配しないで良いわよ。今の妹紅は案内役よりよっぽど良い仕事をしているから」
と言った。そんな輝夜に対して顔を赤くするものの、反論が思いつかなかったらしい。椅子から立ち上がった妹紅は、口をパクパクさせて、再び座ってしまった。すると輝夜がまた続けて言う。
「妹紅は恥ずかしがりやで自分じゃ言えないみたいだから、私が言ってあげるわ。実は妹紅、あの屋台の女将さんと付き合ってるのよ。仕事には困らないって言うのは、そう言う事よ」
へぇ、と言った表情を浮かべたのはうどんげだけだった。それもそのはず、私もパチュリーも普段は家から出ない。屋台もその女将も全く知らないのだ。妹紅は妹紅で今にも輝夜に掴みかかりそうな勢いだし、輝夜はそんな妹紅をからかって楽しんでいる。なんとも不思議な光景だった。何にせよ、耳が痛い話だと言う事だけは理解出来た。
「ごめん、私もパチュリーもあんまり外には出ないから良く分からないや。まぁ、妹紅が誰かと恋愛してるのは分かったけど」
「あら、それは失礼」
「“失礼”じゃないでしょ。これじゃ単に私が恥ずかしい思いしただけじゃない」
「細かい事は気にしないの。で、今日の祭り行くの?」
わざわざ恋人だらけの祭りに、独り身同士で行くほど面倒な事はないだろう。私もパチュリーに誘われなければ、今こうして外で時間を潰している事もなかった。そう思うと、何だか自分が少しずつ変化しているようで、むず痒い気もする。但し、それは決して嫌なものではなく、寧ろパチュリーには感謝しても良いくらいだ。
「そう言えば、なぜだか師匠は今日の流し雛をしきりに気にしてましたね」
「それは貴女、だって……」
今日初めて会ったのに、このうどんげと言う人がどうしようも無く恋愛に興味がないのが良くわかった。ついでに、会ってさえいない永琳が不憫に思えて仕方ない。
「しかも、流し雛本人でさえ新聞記者といちゃいちゃする様な場所に、正直行くたくなんかないんだけど。それよりかはまだ家で銃の手入れをしてたいなぁ。この間幻想郷に新しく出来た店で仕入れた銃の名前だって決めてないし」
致命的にアウトだった。外で誰かが壁に頭をぶつけた音がしたけれど、気にしない。実は先ほどから、青と赤混じりの帽子がちらちらと窓の外に見えていたのだ。唯、本人は黒いメガネにマスクを付けていたので、もしかしたらばれない様にしているのだと思い、敢えて私は口にしなかったけれど。
どうやら私の他にそれに気付いているのは輝夜だけの様で、目があった瞬間、人差し指を口許にたてられた。姫と言うのはなかなかに気遣いが出来る人物らしい。“あいつ”にも見習って欲しいくらいだ。やたらと人の心に踏みいる癖がある“あいつ”には、是非とも爪の垢を飲ませたい。
「それで妹紅は、女将さんと祭りにいくんでしょう?」
「……いや、それとなく誘ってみたんだけど。祭りに興味ないらしくて」
「ああ……女将さん、確かにそう言うところあるからね」
かさりと紙袋の音を立て、パチュリーが立ち上がる。そろそろ祭りの時間らしい。つられて私も立ち上がり、診療所を後にする事にしようと玄関まで来た時、ふと誰かがやってきた。私達の後ろにいた妹紅が彼女を見てやたら慌てている。
「ミ、ミスティア。何でここに」
「自宅に居なかったから」
妹紅が彼女を連れて外へ出た。廊下でくすくすと笑う輝夜を見る限り、なるほど今の女性が妹紅の恋人なのだろう。確か屋台の女将と言ったか、道理で私達よりも和服が似合っているはずだ。
私の中でむくむくと悪戯心が芽生えた。それはどうやらパチュリーも同じだったらしく、私達は目を合わせるや否や、首を縦に振り合った。
「それで、どうしたの?」
「誘ったのは妹紅だった気がしたけど。祭りは今日よね?」
「え。確かに誘ったけど、まさか了承してくれるとは……」
「だって恋人でしょう、私達」
「ああ、うん。まぁ、そうだけど。屋台は?」
「休むわよ。当たり前でしょう?」
「ああ、うん。まぁ、そうだけど」
「私じゃ不満だったかしら」
「まさか。ミスティア以外と祭りに行くつもりなんてこれっぽっちもないわよ」
慌てふためく妹紅の隣に並び、肩を叩く。
「さぁお二人さん、揃ったなら一緒に行きましょうか」
「ちょっと、まさか、ついてくるつもり?」
「だって、目的地は一緒じゃない。どうせなら一緒に行こうよ」
道中で悪戯する気はまんまんだが。
あえてミスティアと妹紅の間に割って入る様にした私に倣う様に、今度はパチュリーが私とミスティアの間に加わった。妹紅の口が引き攣っているのが面白い。
そして祭りへ向かう道中、私は妹紅を弄り続け、パチュリーはパチュリーでミスティアに質問攻めをする事になった。
03.
いやはや、人をからかうのは面白い。“あいつ”が我侭なのもどことなく納得が行く気がした。
客でごった返した人里を遠目に、私とパチュリーはテラスで一休みをしている。私にとって人込みは初めての経験だ。パチュリーは何度か霊夢の神社で開かれる宴会に参加した事があるらしく、人込み自体は初めてではないのだけれど、しかし体調の問題がある。幾ら性格が変わったといっても、喘息は治っていないのだから、適度に休憩を入れないとならない。そんな訳で、今こうして私達は椅子に座っていた。
しかし、祭りだと言うのに、私もパチュリーもその表情は冴えない。と言うのも、その理由はテーブルの上に広げてある物にある。
「で、これが?」
「それが十円。こっちが百円」
実は私もパチュリーも、お金を触るのはこれが初めてなのだ。と言うよりも、私に至ってはどれが何円分の価値のある物なのかさえ分からない。幸いパチュリーが知っていたので、こうして財布の中身を広げているわけだ。因みにこのお金は、全てパチュリーのものだ。私もパチュリーに倣って本を書こうかと本気で考えた。
まぁ、閑話休題。
紅魔館にいる時ならば、声を一つ掛けるだけで咲夜が紅茶を運んで来てくれるのだけれど、生憎今はそう言うわけにはいかない。数ある屋台から自分で購入しなければならないのだ。初めてのお使いと言うべきか。しかも間が悪い事に、パチュリーの体調が少し良くないらしい。つまりは、私一人で買ってこなければならない。
「ごめんね、フラン」
「いいよ、パチェはここで待ってて」
そうして私は財布を握り締めて、勢いよく立ち上がった。出だし位張り切っておかないと、この先不安で仕方ないのと言うのは内緒だ。
「取り合えず、飲み物だよね」
きょろきょろと辺りを見回す。と、すぐそこに見知った顔があった。
型抜きをしていたのは、アリスだった。
「あら、フラン。一人なんて、珍しいわね」
「ちょっとね。何してるの?」
アリスの説明を受ける。どうやら決められた型通りに線をなぞってくりぬく遊び、らしい。細かい作業が嫌いな私には向いていない気がした。と、アリスの隣で巫女服を着た緑の髪の女性が突然立ち上がった。
「無理です、出来ません!」
高らかな敗北宣言だった。尊敬の念さえ覚え、あ、いや、やっぱり覚えない。
「そもそも手先の器用さでアリスさんに勝とうと言うのが無理な話……あれ」
「どうも」
ようやくここで緑の巫女と目があった。どうもこの女性は突っ走り癖がある様で、あまり関わりたくない。
幾らか逡巡して、ようやく緑の巫女が、ああ、と手を打った。リアクションが古くないか。
「レミリアさんの妹さんですね。レミリアさんなら、あちらに居ましたよ」
別に誰もそんな事を尋ねてはいない。礼を言う代わりにテンプルを打ち抜いてやった。
次に私が見つけたのは、魔理沙だった。どうやら私と同じく一人らしい。私の姿を見るや否や、手を挙げて近づいてきた。
「珍しいな、お前が一人で」
どいつもこいつも、人を珍獣か何かと勘違いしてやいないか。
少し慌てた様子で、魔理沙は辺りをきょろきょろと見回している。誰かを探しているのだろうか。
「惜しい、その逆だ。逃げてる最中だぜ」
惜しくない。寧ろ探されていると言う事は、正反対だ。そしてある方角を見るや否や、げっと言う表情を浮かべた。釣られてその先を見ると、そこに居たのは緑の髪に変わった帽子、そして何やら棒の様な物を持っている。
「あれって確か、閻魔じゃ」
「おう、そうだぜ。良いかフラン、お前は誰にも会っていない。少なくとも魔理沙なんて奴は知らん。良いな」
「……まぁ、いいけど」
「助かるぜ。ああ、あと、レミリアならあっちにいたぜ」
そう言って、指を差した方角と反対の方向へ行ってしまった。それから遅れる事十数秒後に、閻魔がやってきた。少しだけ乱れた呼吸を一つ、咳で整えると、すっと真っ直ぐに私を見据える。
「おや、貴女はフランドール・スカーレットではありませんか。善行積んでいますか?」
「いや、そんなには」
「正直で宜しい。しかしいけません。折角ですから一つ説教をあげましょう」
「魔理沙ならあっちに行ったよ」
「そうですか。ではまた今度にしましょう」
私は悪くない。これは正当防衛だ。
そして、歩く事十分後。
見慣れた背中と見慣れない背中が一つずつ、一つの傘の中に収まっていた。覚悟を決めていたはずの心が一瞬だけ軋み、思わず紅葉饅頭を食べていた手が止まった。
時折見える横顔は私の知っている様な“あいつ”にも見えたし、良く知らない“あいつ”にも見えた。それを見て、ああ、本当に私はフラれたんだな、と、今更になって実感したのだ。そう思うと、口の中の紅葉饅頭が、途端に味気ない物に感じられた。最初に食べた時には、初めての味に酷く驚いたのに。
人込みの中、私の足取りが鈍くなり、そして、完全に止まってしまった。
写真を切り抜いた様に、二人の表情は眩しい。満面の笑み、と言うわけではないけれど、心から信頼しあっている事だけは分かった。
そんな二人がふと振り向いて、私と目があった。
「……フラン」
そう名前を呼ばれるのは、実に何日振りだっただろうか。恐らくはパチュリーと共に、弾幕勝負を挑んだとき以来に違いない。
口の中の紅葉饅頭を、こくりと飲み込む。同時に、幾つかの感情も心の中に溶け込んでいった気がする。
距離にして一メートル。そんな微妙な距離を残して、私達姉妹は見つめあった。それがきっと、今の二人の関係なのだろう。何時かこの距離が零になる事は、果たしてあるのだろうか。
「……貴女も、来てたのね」
「うん、パチェと一緒に」
「そう。パチェは?」
「今向こうで休んでる。飲み物買おうと思って」
「そう。じゃあ、戻ってあげなさい。一人にしたらいけないわ」
“あいつ”の中のパチュリーは、未だに図書館で長い髪を揺らしているのだろう。言葉を選ぶように、“あいつ”が話す。そんな姿は初めて見るが、それもそのはずか。パチュリーの想いを聞いたのも、そしてそれを断ったのも初めてだし、あれからこうして面と向かって話すのも初めてだった。全てが全て、以前とは違っていたのだ。
言葉を返す代わりに、丁度近くにあった屋台で、飲み物を買った。
「ねぇ」
「何?」
「実はさ、私、今日まで買い物なんてした事がなかったんだよね」
「ええ、そうでしょうね。それどころか、お金も知らなかったでしょう」
「うん。でも、今は知ってるし、買い物だって出来る」
「そうね」
「パチェが髪切ったのは知ってた?」
「……え。いいえ、知らなかったわ」
「で、パチェもわざわざ祭りの為に外に居る」
「そうなの……それが、どうかしたの?」
出来る限りの皮肉を込めて、笑ってやった。人差し指で目の下を触り、舌を出して私が言う。
「私もパチェも、もうあんたが知ってる二人じゃ無いって事! お幸せに!」
すぐに踵を返したので、“あいつ”――いや、もう、姉と呼んでやろうか。姉の表情は分からなかったけれど、そんな事はどうでも良かった。花火を見ようとする人込みを掻き分けて、逆走する。時折羽が周りの邪魔をするけれど、気にしない。
閻魔に捕まった魔理沙や、ふくれる緑の巫女を宥めるアリスの横を通り過ぎ、パチュリーのいる所まで戻ってきた。持ってきていた本を開いて時間を潰していたらしい。私を見ると、本をぱたりと閉じた。
「はいパチェ、おまたせ」
「随分楽しそうね」
「あいつに会ったんだ」
紅茶を受け取るパチュリーの手が、一瞬だけ止まった。けれど、それは本当に一瞬の事で、すぐに元のパチュリーに戻った。
「へぇ。で、何か言ってやったの」
「さすがパチェ、理解が早い」
そして私は、先ほど姉にしたのと同じ台詞と行動を、パチェにしてやった。すると存外それがパチュリーのツボに入ったらしく、紅茶をテーブルに置いて、口許を隠して笑い出した。一瞬喘息でも始まったのかとおもって心配してしまったじゃないか。
「それは良いわ、私もそうすれば良かったかしら」
「パチェが、ねぇ」
想像する。あれ、可愛いな。
そんな私の思考を振り払う様に、大きな音と、遅れて空に光が瞬いた。
「花火、始まったわね」
薄暗い空に一つ二つと、鮮やかな花火が打ち上がる。その度にパチュリーの横顔が違う色に染まった。その中で僅かに持ち上がった口の端に、何となく魅入ってしまった。
花火とパチュリーを眺める事、数分。やがてパチュリーがふと呟いた。
「そうだわ、フラン」
「ん?」
「ちょっと練習しても良いかしら」
「練習、って、何の?」
「レミィに舌を出す練習よ」
何を言うのかと思って、パチュリーの方を見る。すると、私とは逆の左手を目許に持っていったパチュリーが、舌を出した。
瞬間、花火が私達の間の上空に弾けた。それがパチュリーの横顔を紅く照らす。
おいおい、これは。ちょっと、可愛すぎやしないか。
馬鹿な事をしたな、私の姉は。こんな表情が出来ると知ったら、きっとフッた事を後悔するに違いない。
「どう?」
「……や、まだ改良の余地があると思うよ」
「あら、意外と難しいのね」
決めた。今のパチュリーの表情は、私だけの物にしよう。ごめんねパチュリー、そのあっかんべーは一生改良し続ける事になると思うよ。姉には勿体無いくらいだ。
さらさらと、パチュリーの短い髪が風に流れる。花火の色と檸檬色が、パチュリーの手の中で幾度と塗りかえられていくのをみて、私は一つ夜空を見上げた。今頃姉も、これと同じ空を恋人と見ているのだろう。そう思うと、無性に本の続きが読みたくなってきた。けれど、隣のパチュリーが楽しそうに花火を見上げているのをみて、せめてこの花火が終わるまではこうしている事にする。
部屋で見ていた四百九十六ページ目は、二人の男女が互いの失恋を乗り越える所から始まる。さて、私とパチュリーは今何ページ目だろうか。それは分からなかったが、少なくとも、もう二度とパチュリーが髪を切ったりしないで済む様に、それだけを夜空に願った。
部屋のドアを開けた人物が友人のパチュリー・ノーレッジであると認めた時、私ことフランドール・スカーレットは、思わず読んでいた本を閉じてしまった。
読書は、私にとって数少ない趣味の内の一つである。恥ずかしい話だが、常日頃から私は私室に引き篭もる事が多く、一日の内の大半を自分の部屋で過ごす。新しく読み始めた本が存外に面白かった時には、日を跨いで文字の世界に没頭する事も珍しくは無い。今こうしてパチュリーが部屋に訪れなければ、きっと今回も今日と明日の境界が無くなっていただろう。因みに、今読んでいた本は長編の恋愛小説で、その頁数は四桁に達する程である。半分辺りまで読み終えた所で、丁度場面が変わる所だったので、読むのを中断した所としても特段支障があるわけではない。それよりも寧ろ、目の前で“あいつ”の様に不敵に笑うパチュリーの方が気になったのだ。
「……パチュリー、だよね?」
「変な事を聞くのね」
我ながら間の抜けた質問だったとは思う。しかし、今扉の前に佇む彼女が、私の知るパチュリー・ノーレッジとは異なって見えたのだ。
背中から腰ほどまであった髪はばっさりと切られ、肩口辺りで整えられている。彼女のトレードマークだった帽子も今は無く、私の頭上にある空調にその細い髪を僅かに揺らしていた。おかげで、それまで彼女とは無縁であっただろう“快活”と言う言葉が思わず頭に浮かんだ。
彼女は早口な上に、俯き気味にぼそぼそと喋る癖があった。それには二つの理由があり、種族としての理由と、あとは彼女自身の理由がある。今でこそスペルカードルールと言う物が確立された幻想郷だけれど、そもそもとして私や彼女は外の世界から幻想郷にやって来た。外の世界では紛争や戦争が絶えず、私達が他者の命を奪ってきた事も少なくない。魔法遣いと言う種族である彼女は、肉弾戦に長ける私と違い、精霊を使役したりする事で戦うのだが、その主な手段は詠唱をする事にある。そして詠唱をしている間は基本的に無防備になる為、私や“あいつ”が彼女を守ってきた。その結果、一秒でも早く詠唱を終える為、彼女は早口になったのだ。この幻想郷では誰かの命を奪うなんて事はないけれど、長年染み付いた癖はそう簡単に洗い流せるものではない。
もう一つの理由としては、これは単に彼女自身の問題で、実は彼女は喘息を患っている為、あまり大きな声で話したりする事が出来ないのだ。何時も図書館に居る彼女は、まるで読んでいる本に自身の言葉を書き加えているかのような喋り方をする。慣れない者が彼女と会話をするとその辺りに違和感を覚えるようだけれど、私はもう慣れたので、今では彼女の声が心地いい。二人して本を読んでいる時は会話も少なく、お互い顔を合わせる訳ではないけれど、それでも数少ない会話の中に彼女の絹の様な声を聞くのが好きで堪らないのだ。
それが、今はどうだろうか。絹の様な囁き声は変わらない。しかし、それを語る口上は早くなく、私を説き伏せるような口調だった。だからこそ私は、思わず彼女がパチュリーなのかどうか確認してしまったのだけれど。
「髪、切ったんだ」
「ええ。折角だからね」
兼ねてから私はパチュリーから相談を受けており、その内容は親友である“あいつ”に対して抱いた恋心についてだった。
これもまた、恥ずかしい話にはなるが、私が先ほどから“あいつ”と呼んでいるのは、実の姉であるレミリア・スカーレットの事である。何時だって自信と行動力に満ち溢れている姉に対して、何時からか私は得も知れぬ感情を抱いていた。何も私は中国の虎ではない。尊大な自尊心と羞恥心が傷つけられたわけではないのだけれど、しかし私は姉に対して素直になる事が出来なかった。実に四百九十五年もの間、私は反抗期を続けていたわけだ。我ながら情けない。しかし私とて、姉が嫌いなわけではない。私の両親(つまり、姉の両親でもあるが)は既に他界しており、目の前のパチュリーやメイドの咲夜も勿論家族だとは思っているが、血の繋がった、文字通りの意味での家族は姉唯一人である。出来る事ならば嫌いたくはないのだが、何分私は長い間地下に篭りすぎた。その為、歩み寄り方を忘れてしまっていたようである。一度も変わらず私を妹として愛してくれる姉に、そろそろ私も地下室の衣を脱ぎ捨てねばならないと感じたのだ。だから私は出来る限りの協力をパチュリーにしてあげたつもりだ。地上さえも知らない私が、地上はおろか月夜を飛び回るあの姉の何が分かるのだろうかとは思ったが、しかし私にとって魔法遣いは唯一と言っていい友人である。出来る事ならば彼女の想いが姉に届けば良いと思ったのだ。
しかし、姉がパチュリーを選ぶ事は無かった。姉は姉で、自身の恋愛を達成してしまったのだ。無理も無い。パチュリーも私も、自分の部屋以外に世界を持たない。対して姉は月夜の空や、灼熱の地底さえ庭の様に駆け巡る自由な吸血鬼なのだから。姉を繋ぎ止める術を、私も彼女も持っていなかった。
思えば私もまた、姉に対して淡い思いを抱いていたのかもしれない。そんな感情を抱くのは生まれて初めてで、ましてや相手は血の繋がった家族である。気づけと言う方が難題だ。私はパチュリーの思いや瞳を通して、姉に恋をしていたに違いない。でなければ、パチュリーが姉にスペルカードルールでの勝負を挑んだ際に、彼女に協力などしなかっただろう。
レミリア・スカーレットが己の想いに応えてくれないと分かった時、パチュリーは、姉に対して勝負を挑んだのだ。二人が対決するのは私が知る限りでは初めてであるが、きっとそれがパチュリーなりの決別だったのだろう。わざわざ雨の降っていない満月の日を選ぶ程の徹底ぶりだったのだから。
結果からすれば、私とパチュリーは負けた。私もパチュリーも、抱いているとすれば叶わないと知った、いわば蟠りの様な心の痛みである。自由に夜空を飛翔する姉に手が届かないのも、無理はない。地上が広いと知った代わりに、私もパチュリーも一つ痛みを覚えたと言う事にしておこう。
それから数日経った日が、今である。例えあの時の弾幕勝負で私達が勝ったとしても、恋心が叶わない事に変わりは無かった。単に自分の心の着地点を求めただけである。なので、勝とうが負けようがパチュリーが髪を切っていただろう事位は想像に難くないし、それ以外の変化もいわば必然なのだろう。
「にしても、わざわざどうしたのさ。動かない図書館ともあろう人が」
パチュリーは、私同様にその半生を私室で過ごしてきた。それどころか、濃度と言う点に関しては、パチュリーの方が濃いのかもしれない。彼女の私室は通常の私室と異なり、数える事さえままならない量の蔵書で埋め尽くされている。その為、彼女を評する言葉に先に挙げた“動かない図書館”とのがあるくらいだし、彼女自身も満更ではない様子だった。何を隠そう私が読んでいる本も、大半は彼女の図書館の棚に並んでいるものである。
そんな彼女が、図書館を出て私の所に来ると言うのは、考えられないような出来事だったのだ。
「ええ、小悪魔にでも頼もうかと思ってたんだけどね」
小悪魔、と言うのは彼女に使えている司書である。いい加減名前で呼んであげても良いのではないか、と思っているのは私だけだろうか。
「折角だから直接言おうかと想って。これ」
そして彼女が掲げたのは、先ほどから右手に持っていた紙袋だった。仕方無しに閉じた本を本棚に戻し、パチュリーの元まで歩み寄る。私は栞を本に挟む事を好まない。栞を用いると、僅かにとは言え頁がよれてしまうからだ。それを最初に教えてくれたのはパチュリーなのだけれど、成程と感じて以来、私は本に栞を挟まなくなった。最も、今回の様に読書を中断させられる事自体が稀だと言うのもあるが。
本の中の恋人達に心で謝りながら、私はパチュリーから紙袋を受け取った。重くは無い。重くは無い、が。
「……これ」
「ええ、そう。着物よ」
紙袋の中にあったのは、かつて一度だけ着た事のある和服だった。しかし、私の中ではその一度は既に過去のものであり、かつあまり良い思い出ではない。
元々この着物は姉から受け取ったものであり、その当時にやっていた祭りに私を誘う口上でもあった。思い出すだけでも恥ずかしくなるような、クランベリーの様な姉妹のやりとりが、いまでもありありと蘇ってきそうだ。
地下室に篭っている私でも、その話題は知っていた。何でも今日は、人里で祭りが開かれるらしい。流し雛だったかひな祭りだったか、名称は忘れたけれど、神様がくるくる踊ると言う事だけは理解していた。地下室の廊下は妖精メイドさえ行き来をしない。図書館でパチュリーと小悪魔がそういう会話をしていたのを思いだしたのだ。
祭り、そして着物。まるでフラれる前の姉とのやり取りを思い出して、思わず苦笑した。フラれた、と言うにはあまりに一方的だけれど、きっと間違ってはいない。それは目の前のパチュリーも同じだろう。先日弾幕勝負を終えた際に、姉はポツリと、
「知らなかった。パチェが、私を……」
そう零したのだから。我侭で自分勝手で、人の心に忍びこむのが得意な癖に鈍感なのが、私の姉なのだ。
「フランの着物姿、似合っていたから。もう一度見せて頂戴」
「じゃあさ」
しかし私は素直ではない。四百九十五年姉にそうして来たように、今度は失恋を振り切って蛹を脱ぐパチュリーの言葉に、簡単に首を縦に振りたくは無かった。
「私だけ着物を着るのは嫌だ。パチェも着なよ」
「そのパターンは失念していたわ」
その言葉に、一度だけ会った事のある姉の恋人を思い出した。持って回った言い方である。ある程度頭が良くなると、会話のスムーズさは寧ろ失われるのだろうか。
しかし、まぁ、そんな事はどうでも良かった。後ろ手に扉を閉じて、私は廊下を右手に歩きだした。呆気に取られながらも、パチュリーが数歩遅れて私についてくる。
「フラン、どこに行くの?」
「図書館。どの道これ、一人じゃ着れないでしょ。小悪魔に手伝って貰うから」
「私が手伝うと言うパターンはなかったのね」
「やーだ。そう言えばさ、パチェ」
歩みを遅らせて、後ろのパチュリーが並ぶのを待った。あまり早く歩き過ぎるのは、喘息のパチュリーにとって辛いだろう。
やがて横に並んだパチュリーが私に疑問符をぶつける。
「何時の間に“妹様”から“フラン”になったんだ。あ、いや、そのままで良いよ。嫌なわけじゃないから」
言われてもいないのに、自分で弁明を挟んでしまった。対してパチュリーは、一度だけ笑って、そして再び歩きだした。
その笑顔は、どちらかと言うと寂しげなものだった様に思える。
「フラれた者同士、友達かなって思ったのよ」
今度は、私が呆気に取られる番だった。私の視界を、これまでは見えなかったパチュリーの細い肩が通り過ぎた。揃えられた髪以上に、パチュリーの後ろ姿が以前とは違って見える。淡々としていながらも、しっかりとした足取り。パチュリーの歩みは私よりも遅く、追いつく事は容易だったけれど、何故だかその気にはなれなかった。代わりに、紙袋を持つ手を右から左に変えて、一度だけ大きく息を吐いた。
叶わなかった恋は辛いけれど、私もパチュリーの様に変わってみようか。具体的にはどうすればよいかなんて、全く分からなかったけれど、分からなかったら友人に聞けば良い。何しろ私の友人は頭が良いし、そして私と同じ人にフラれたのだから。
「……ああ、そうだ」
ふと、先ほどまで読んでいた本の事を思い出す。頁の中の恋人もまた、これからデートに向かう所だった。自分勝手な女に振り回されながらも、男は楽しんでいた様に思える。姉に勝てるとは思えないが、私も自分勝手になってみようか。そもそも私は妹なのだ、姉に我侭を言っても良いだろう。
そう思い、少しだけ笑う余裕が出来た。もう少し、姉の事は“あいつ”と呼んでやろう。祭りで顔を合わせたら舌を出してやろう。あいつは存外私に嫌われたくは無いみたいなので、きっと祭りを楽しみながらもどこか心にもやもやを抱えるに違いない。それで良かった。一方的にフラれたのだから、せめて最後に嫌がらせくらいしてやる。終わった恋に対しての、泣かない代わりの矜持がそれだった。
本棚で私の帰りを待つあの本に、お礼を言っておく。待っていろ、帰ったら良い報告をしてあげよう。
物語の四百九十六ページ目。読みかけて閉じた、私の世界の続きだ。
02.
診療所の天井に染み付かせるように、目の前の女性が煙草の煙を吐いた。
日も高い正午だ。あれから小悪魔の協力を得て着物を着た私とパチュリーは、人里の診療所に居た。なんでも喘息の薬を毎週ここで用意して貰っているらしい。何時もは人里で買い物をした咲夜が帰り道に取りによるのだけれど、今回は祭りに行く前に自ら取りに来たと言うわけだ。
「悪いわね、フラン。寄り道させちゃって」
「別に良いよ、これくらい」
寧ろ私としては、図書館で着替えた時の光景が頭から離れない。
哀しいかな、同じ引き篭もりなのにも関わらず、私とパチュリーにはある一点において決定的な違いがあったのだ。姉と同じく寸胴型の私に対して、どこでそんな無駄な物を付けたというのか、パチュリーの胸部は、実に豊かだった。例えるならば、私や姉が水平線だとして、パチュリーのそれは妖怪の山である。人の体を妖怪だの山だの言うのは失礼かと思ったが、魔法遣いなのだから妖怪と大差ないだろう。極めて妥当な比喩である。しかし魔法使いは食事をしないと聞いたのだが、あるいはそう言う魔法でも遣ったというのか。私の横で着替えながら揺れるそれに、思わず右手を握り締めてやろうかと思ったくらいだ。
さて、診療所には私の他に数人がいるけれど、その内医者は一人な上、今患者はいない。居るのは銀色の髪をかつてのパチュリー以上に長く伸ばしている奴と、私達以上に着物に着慣れている姫の様な人だ。
医者の名は鈴仙・優曇華院・イナバと言い、銀髪の奴の名は藤原妹紅と言うらしい。二人は何れも煙草を吸っており、開けられた窓から白い煙が出て行く様は、まるで料理でもしているかのようだった。まぁ、私は料理なんてした事がないので、あくまで想像にすぎないけれど。
「妹紅、それからイナバも。いい加減煙草、止めたら?」
唯一タバコを吸っていない女性、蓬莱山輝夜が、そう二人を嗜める。少しだけ眉根を顰めている辺り、恐らく煙草が苦手なのだろう。
輝夜の言葉に、二人して言葉を詰まらせた。どちらから言うでもなく灰皿に二つの煙草を押し付けている様は、見ていて面白い。
「申し訳ありません」
「悪いね」
「特に妹紅。貴女死なないからって、すこし不摂生なんじゃない? この間家に行った時だって、ろくに掃除もしてない様子だったし」
どうも二人とも、輝夜に頭が上がらないようだ。
「酷い言い草ね」
「まぁ、姫様の仰っている事が正しいんですけどね」
「美味しそうに煙草ふかしてる医者に言われたくないわよ」
妹紅の言葉に、うどんげが無言の視線で返す。おお怖い、と首をすくめる妹紅だけれど、全然そんな風には見えない。
人里の診療所。それが今回パチュリーの目的地でもあり、うどんげと言う人の職場でもある。とは言え、今本人に聞いた話だと、難しい手術や投薬に関しては彼女はやらない。あくまで彼女は、人里と訪ねる事さえままならない永遠亭とを結ぶ架橋に過ぎないと言う事らしい。
彼女は、この人里で、やって来た患者に対して手当てをしたりするのに加え、彼女の方から往診をしたりもする。
彼女は少し前まで永遠亭と言う屋敷に住んでいたのだけれど、元々永遠亭というのは、月からこの幻想郷へやって来た輝夜(なんと月のお姫様らしい。道理で先ほどからうどんげがそう呼んでいたわけだ)が月からの使者の目を欺く為に建てた物で、そのおかげで今までは大きな問題も無かった。でも、一つだけ問題があった様で、それは月の追っ手どころか、幻想郷の者も永遠亭に辿り付けないという事らしい。
生活をするにはお金が要る。紅魔館は“あいつ”が好奇心と幸運を生かしてお金を捻出しているらしい。出来る女はモテると言うけれど、おかげで咲夜を含めた従者は皆“あいつ”にべったりである。唯一“あいつ”に対してそう言う感情を持たないのが門番の美鈴で、週に一度与えられている休日には必ず嬉しそうな表情を浮かべてどこかへ向かっていく。以前美鈴が持ち帰ってきたお土産を見るに、どうやら最近幻想郷に出来た新しい寺に足を運んでいるようだ。とは言え、美鈴の目当てが誰なのかは分からないので、今はおいておこう。
生活の為にお金がいるのは永遠亭も同様だ。とはいえ、まさか姫である輝夜にそれをさせる訳にはいかないらしく、元から薬学や医学に精通していたうどんげの師匠、八意永琳の発案の元に診療所を営む事にしたと言う。
幻想郷に医者は少ない。しかも永琳の腕や知識は確かな物で、名が浸透するのにはそう時間が掛からなかったのだけれど、何しろ立地条件が悪い。永遠亭の周りには迷いの竹林と言う、妖怪でさえ無事に辿り着くことが出来ないと言われている空間がある。そのせいで、患者が一人で永遠亭に来る事はありえないというのだ。
「まぁ、おかげで私も食いっぱぐれないで済むんだけどね」
と言うのは妹紅の談である。妹紅は永く生きているからか、迷いの竹林を無事に通る事の出来る数少ない存在だ。その為、永遠亭まで行きたい患者を案内する事が多いと言う。
「じゃあ、これからはどうするのさ?」
「さぁねぇ」
そんな需要と供給、診察を受けたいけれど受けられないと言う行き違いをなくす為に出された答えが、この診療所と言う事だ。一通りの知識を仕入れ、実地経験も少なくないうどんげが、誰でも通う事の出来る人里に診療所を設けた。いわば、独立と言う事らしい。最も、それ意外にも理由は在るようだけれど。
「煙草が吸いたいだけでしょ、貴女の場合」
「そう言わないで下さい」
輝夜の住む永遠亭でタバコを吸うには、夜中にこっそりと吸わなければならない。それはそうだ、永遠亭は輝夜の為にあって、その輝夜が煙草を嫌っているのだから、まさか面前で吸うわけにもいかない。加えて煙草の匂いを付けて輝夜の前に居るわけにもいかないだろう。その為、夜中に水を浴びるか好きでもない香水をかけて寝る事も時々あったと言う。やめると言う選択肢は無かったのかと私は思ったけれど、私が思ったところでどうにかなるわけでも無い。
「とは言えどっちもどっちなのよね。前者のだったら冬は寒いし、後者は後者で、師匠に叱られた事もあったっけ」
「後者って、香水?」
「そう。いくら布団に香水がついてるからって、誰かと寝たなんてねぇ。私が銃以外に興味なくて、ましてや恋人なんて作る気もない事くらい、師匠も知ってるだろうに」
……鈍感だ。うどんげは、鈍感だった。
「鈍感」
「鈍感ね」
「鈍感だわ」
他の三人も同じ感想だったらしく、口々に同じ言葉を発した。うどんげだけが納得の言ってない様子で、むぅと口を尖らせていたのが面白い。
「むしろ意外だったのは姫様です。まさか煙草の事を知ってたらしたなんて」
「私に隠し事が通じる訳ないでしょう。まぁ、貴女が永遠亭を出る日の朝、私の後ろでうーうー唸る永琳は面白かったけどね」
そんな訳で、うどんげは永琳の反対を振り切り、人里で個人の診療所を出す事にした。とはいえ、本人曰く、“まだまだ師匠には敵わない。なので、投薬や難しい手術は師匠に一任している”らしい。なるほど、道理で先ほどからそれらの単語が聞かれなかった訳だ。
「週に一度永遠亭に戻って、報告や食事を兼ねて患者の薬を貰うって事になってるんだけどね」
「パイプ役みたいな物?」
「そ。まぁ、最近では師匠がやたら泊まっていけって言うから、そうさせて貰ってるけどね」
「鈍感」
「は?」
「何でもない。じゃあ、妹紅はこれからどうするのさ」
人里に診療所が出来て、患者自ら永遠亭に行かなくて済むならば、迷いの竹林を案内すると言う妹紅の仕事は無くなると思ったのだが。
「ああ……うん、その辺は、まぁ、大丈夫よ」
どうにも歯切れが悪い。答えが無いと言うわけではなく、答えはあるけれど言いづらい。まるでそんな様子である。ぽりぽりと頬をかき、落ち着きなく診療所を見回している。
そんな私の問いに答えたのは妹紅本人ではなく、輝夜だった。何故か可笑しそうな表情で、
「それなら心配しないで良いわよ。今の妹紅は案内役よりよっぽど良い仕事をしているから」
と言った。そんな輝夜に対して顔を赤くするものの、反論が思いつかなかったらしい。椅子から立ち上がった妹紅は、口をパクパクさせて、再び座ってしまった。すると輝夜がまた続けて言う。
「妹紅は恥ずかしがりやで自分じゃ言えないみたいだから、私が言ってあげるわ。実は妹紅、あの屋台の女将さんと付き合ってるのよ。仕事には困らないって言うのは、そう言う事よ」
へぇ、と言った表情を浮かべたのはうどんげだけだった。それもそのはず、私もパチュリーも普段は家から出ない。屋台もその女将も全く知らないのだ。妹紅は妹紅で今にも輝夜に掴みかかりそうな勢いだし、輝夜はそんな妹紅をからかって楽しんでいる。なんとも不思議な光景だった。何にせよ、耳が痛い話だと言う事だけは理解出来た。
「ごめん、私もパチュリーもあんまり外には出ないから良く分からないや。まぁ、妹紅が誰かと恋愛してるのは分かったけど」
「あら、それは失礼」
「“失礼”じゃないでしょ。これじゃ単に私が恥ずかしい思いしただけじゃない」
「細かい事は気にしないの。で、今日の祭り行くの?」
わざわざ恋人だらけの祭りに、独り身同士で行くほど面倒な事はないだろう。私もパチュリーに誘われなければ、今こうして外で時間を潰している事もなかった。そう思うと、何だか自分が少しずつ変化しているようで、むず痒い気もする。但し、それは決して嫌なものではなく、寧ろパチュリーには感謝しても良いくらいだ。
「そう言えば、なぜだか師匠は今日の流し雛をしきりに気にしてましたね」
「それは貴女、だって……」
今日初めて会ったのに、このうどんげと言う人がどうしようも無く恋愛に興味がないのが良くわかった。ついでに、会ってさえいない永琳が不憫に思えて仕方ない。
「しかも、流し雛本人でさえ新聞記者といちゃいちゃする様な場所に、正直行くたくなんかないんだけど。それよりかはまだ家で銃の手入れをしてたいなぁ。この間幻想郷に新しく出来た店で仕入れた銃の名前だって決めてないし」
致命的にアウトだった。外で誰かが壁に頭をぶつけた音がしたけれど、気にしない。実は先ほどから、青と赤混じりの帽子がちらちらと窓の外に見えていたのだ。唯、本人は黒いメガネにマスクを付けていたので、もしかしたらばれない様にしているのだと思い、敢えて私は口にしなかったけれど。
どうやら私の他にそれに気付いているのは輝夜だけの様で、目があった瞬間、人差し指を口許にたてられた。姫と言うのはなかなかに気遣いが出来る人物らしい。“あいつ”にも見習って欲しいくらいだ。やたらと人の心に踏みいる癖がある“あいつ”には、是非とも爪の垢を飲ませたい。
「それで妹紅は、女将さんと祭りにいくんでしょう?」
「……いや、それとなく誘ってみたんだけど。祭りに興味ないらしくて」
「ああ……女将さん、確かにそう言うところあるからね」
かさりと紙袋の音を立て、パチュリーが立ち上がる。そろそろ祭りの時間らしい。つられて私も立ち上がり、診療所を後にする事にしようと玄関まで来た時、ふと誰かがやってきた。私達の後ろにいた妹紅が彼女を見てやたら慌てている。
「ミ、ミスティア。何でここに」
「自宅に居なかったから」
妹紅が彼女を連れて外へ出た。廊下でくすくすと笑う輝夜を見る限り、なるほど今の女性が妹紅の恋人なのだろう。確か屋台の女将と言ったか、道理で私達よりも和服が似合っているはずだ。
私の中でむくむくと悪戯心が芽生えた。それはどうやらパチュリーも同じだったらしく、私達は目を合わせるや否や、首を縦に振り合った。
「それで、どうしたの?」
「誘ったのは妹紅だった気がしたけど。祭りは今日よね?」
「え。確かに誘ったけど、まさか了承してくれるとは……」
「だって恋人でしょう、私達」
「ああ、うん。まぁ、そうだけど。屋台は?」
「休むわよ。当たり前でしょう?」
「ああ、うん。まぁ、そうだけど」
「私じゃ不満だったかしら」
「まさか。ミスティア以外と祭りに行くつもりなんてこれっぽっちもないわよ」
慌てふためく妹紅の隣に並び、肩を叩く。
「さぁお二人さん、揃ったなら一緒に行きましょうか」
「ちょっと、まさか、ついてくるつもり?」
「だって、目的地は一緒じゃない。どうせなら一緒に行こうよ」
道中で悪戯する気はまんまんだが。
あえてミスティアと妹紅の間に割って入る様にした私に倣う様に、今度はパチュリーが私とミスティアの間に加わった。妹紅の口が引き攣っているのが面白い。
そして祭りへ向かう道中、私は妹紅を弄り続け、パチュリーはパチュリーでミスティアに質問攻めをする事になった。
03.
いやはや、人をからかうのは面白い。“あいつ”が我侭なのもどことなく納得が行く気がした。
客でごった返した人里を遠目に、私とパチュリーはテラスで一休みをしている。私にとって人込みは初めての経験だ。パチュリーは何度か霊夢の神社で開かれる宴会に参加した事があるらしく、人込み自体は初めてではないのだけれど、しかし体調の問題がある。幾ら性格が変わったといっても、喘息は治っていないのだから、適度に休憩を入れないとならない。そんな訳で、今こうして私達は椅子に座っていた。
しかし、祭りだと言うのに、私もパチュリーもその表情は冴えない。と言うのも、その理由はテーブルの上に広げてある物にある。
「で、これが?」
「それが十円。こっちが百円」
実は私もパチュリーも、お金を触るのはこれが初めてなのだ。と言うよりも、私に至ってはどれが何円分の価値のある物なのかさえ分からない。幸いパチュリーが知っていたので、こうして財布の中身を広げているわけだ。因みにこのお金は、全てパチュリーのものだ。私もパチュリーに倣って本を書こうかと本気で考えた。
まぁ、閑話休題。
紅魔館にいる時ならば、声を一つ掛けるだけで咲夜が紅茶を運んで来てくれるのだけれど、生憎今はそう言うわけにはいかない。数ある屋台から自分で購入しなければならないのだ。初めてのお使いと言うべきか。しかも間が悪い事に、パチュリーの体調が少し良くないらしい。つまりは、私一人で買ってこなければならない。
「ごめんね、フラン」
「いいよ、パチェはここで待ってて」
そうして私は財布を握り締めて、勢いよく立ち上がった。出だし位張り切っておかないと、この先不安で仕方ないのと言うのは内緒だ。
「取り合えず、飲み物だよね」
きょろきょろと辺りを見回す。と、すぐそこに見知った顔があった。
型抜きをしていたのは、アリスだった。
「あら、フラン。一人なんて、珍しいわね」
「ちょっとね。何してるの?」
アリスの説明を受ける。どうやら決められた型通りに線をなぞってくりぬく遊び、らしい。細かい作業が嫌いな私には向いていない気がした。と、アリスの隣で巫女服を着た緑の髪の女性が突然立ち上がった。
「無理です、出来ません!」
高らかな敗北宣言だった。尊敬の念さえ覚え、あ、いや、やっぱり覚えない。
「そもそも手先の器用さでアリスさんに勝とうと言うのが無理な話……あれ」
「どうも」
ようやくここで緑の巫女と目があった。どうもこの女性は突っ走り癖がある様で、あまり関わりたくない。
幾らか逡巡して、ようやく緑の巫女が、ああ、と手を打った。リアクションが古くないか。
「レミリアさんの妹さんですね。レミリアさんなら、あちらに居ましたよ」
別に誰もそんな事を尋ねてはいない。礼を言う代わりにテンプルを打ち抜いてやった。
次に私が見つけたのは、魔理沙だった。どうやら私と同じく一人らしい。私の姿を見るや否や、手を挙げて近づいてきた。
「珍しいな、お前が一人で」
どいつもこいつも、人を珍獣か何かと勘違いしてやいないか。
少し慌てた様子で、魔理沙は辺りをきょろきょろと見回している。誰かを探しているのだろうか。
「惜しい、その逆だ。逃げてる最中だぜ」
惜しくない。寧ろ探されていると言う事は、正反対だ。そしてある方角を見るや否や、げっと言う表情を浮かべた。釣られてその先を見ると、そこに居たのは緑の髪に変わった帽子、そして何やら棒の様な物を持っている。
「あれって確か、閻魔じゃ」
「おう、そうだぜ。良いかフラン、お前は誰にも会っていない。少なくとも魔理沙なんて奴は知らん。良いな」
「……まぁ、いいけど」
「助かるぜ。ああ、あと、レミリアならあっちにいたぜ」
そう言って、指を差した方角と反対の方向へ行ってしまった。それから遅れる事十数秒後に、閻魔がやってきた。少しだけ乱れた呼吸を一つ、咳で整えると、すっと真っ直ぐに私を見据える。
「おや、貴女はフランドール・スカーレットではありませんか。善行積んでいますか?」
「いや、そんなには」
「正直で宜しい。しかしいけません。折角ですから一つ説教をあげましょう」
「魔理沙ならあっちに行ったよ」
「そうですか。ではまた今度にしましょう」
私は悪くない。これは正当防衛だ。
そして、歩く事十分後。
見慣れた背中と見慣れない背中が一つずつ、一つの傘の中に収まっていた。覚悟を決めていたはずの心が一瞬だけ軋み、思わず紅葉饅頭を食べていた手が止まった。
時折見える横顔は私の知っている様な“あいつ”にも見えたし、良く知らない“あいつ”にも見えた。それを見て、ああ、本当に私はフラれたんだな、と、今更になって実感したのだ。そう思うと、口の中の紅葉饅頭が、途端に味気ない物に感じられた。最初に食べた時には、初めての味に酷く驚いたのに。
人込みの中、私の足取りが鈍くなり、そして、完全に止まってしまった。
写真を切り抜いた様に、二人の表情は眩しい。満面の笑み、と言うわけではないけれど、心から信頼しあっている事だけは分かった。
そんな二人がふと振り向いて、私と目があった。
「……フラン」
そう名前を呼ばれるのは、実に何日振りだっただろうか。恐らくはパチュリーと共に、弾幕勝負を挑んだとき以来に違いない。
口の中の紅葉饅頭を、こくりと飲み込む。同時に、幾つかの感情も心の中に溶け込んでいった気がする。
距離にして一メートル。そんな微妙な距離を残して、私達姉妹は見つめあった。それがきっと、今の二人の関係なのだろう。何時かこの距離が零になる事は、果たしてあるのだろうか。
「……貴女も、来てたのね」
「うん、パチェと一緒に」
「そう。パチェは?」
「今向こうで休んでる。飲み物買おうと思って」
「そう。じゃあ、戻ってあげなさい。一人にしたらいけないわ」
“あいつ”の中のパチュリーは、未だに図書館で長い髪を揺らしているのだろう。言葉を選ぶように、“あいつ”が話す。そんな姿は初めて見るが、それもそのはずか。パチュリーの想いを聞いたのも、そしてそれを断ったのも初めてだし、あれからこうして面と向かって話すのも初めてだった。全てが全て、以前とは違っていたのだ。
言葉を返す代わりに、丁度近くにあった屋台で、飲み物を買った。
「ねぇ」
「何?」
「実はさ、私、今日まで買い物なんてした事がなかったんだよね」
「ええ、そうでしょうね。それどころか、お金も知らなかったでしょう」
「うん。でも、今は知ってるし、買い物だって出来る」
「そうね」
「パチェが髪切ったのは知ってた?」
「……え。いいえ、知らなかったわ」
「で、パチェもわざわざ祭りの為に外に居る」
「そうなの……それが、どうかしたの?」
出来る限りの皮肉を込めて、笑ってやった。人差し指で目の下を触り、舌を出して私が言う。
「私もパチェも、もうあんたが知ってる二人じゃ無いって事! お幸せに!」
すぐに踵を返したので、“あいつ”――いや、もう、姉と呼んでやろうか。姉の表情は分からなかったけれど、そんな事はどうでも良かった。花火を見ようとする人込みを掻き分けて、逆走する。時折羽が周りの邪魔をするけれど、気にしない。
閻魔に捕まった魔理沙や、ふくれる緑の巫女を宥めるアリスの横を通り過ぎ、パチュリーのいる所まで戻ってきた。持ってきていた本を開いて時間を潰していたらしい。私を見ると、本をぱたりと閉じた。
「はいパチェ、おまたせ」
「随分楽しそうね」
「あいつに会ったんだ」
紅茶を受け取るパチュリーの手が、一瞬だけ止まった。けれど、それは本当に一瞬の事で、すぐに元のパチュリーに戻った。
「へぇ。で、何か言ってやったの」
「さすがパチェ、理解が早い」
そして私は、先ほど姉にしたのと同じ台詞と行動を、パチェにしてやった。すると存外それがパチュリーのツボに入ったらしく、紅茶をテーブルに置いて、口許を隠して笑い出した。一瞬喘息でも始まったのかとおもって心配してしまったじゃないか。
「それは良いわ、私もそうすれば良かったかしら」
「パチェが、ねぇ」
想像する。あれ、可愛いな。
そんな私の思考を振り払う様に、大きな音と、遅れて空に光が瞬いた。
「花火、始まったわね」
薄暗い空に一つ二つと、鮮やかな花火が打ち上がる。その度にパチュリーの横顔が違う色に染まった。その中で僅かに持ち上がった口の端に、何となく魅入ってしまった。
花火とパチュリーを眺める事、数分。やがてパチュリーがふと呟いた。
「そうだわ、フラン」
「ん?」
「ちょっと練習しても良いかしら」
「練習、って、何の?」
「レミィに舌を出す練習よ」
何を言うのかと思って、パチュリーの方を見る。すると、私とは逆の左手を目許に持っていったパチュリーが、舌を出した。
瞬間、花火が私達の間の上空に弾けた。それがパチュリーの横顔を紅く照らす。
おいおい、これは。ちょっと、可愛すぎやしないか。
馬鹿な事をしたな、私の姉は。こんな表情が出来ると知ったら、きっとフッた事を後悔するに違いない。
「どう?」
「……や、まだ改良の余地があると思うよ」
「あら、意外と難しいのね」
決めた。今のパチュリーの表情は、私だけの物にしよう。ごめんねパチュリー、そのあっかんべーは一生改良し続ける事になると思うよ。姉には勿体無いくらいだ。
さらさらと、パチュリーの短い髪が風に流れる。花火の色と檸檬色が、パチュリーの手の中で幾度と塗りかえられていくのをみて、私は一つ夜空を見上げた。今頃姉も、これと同じ空を恋人と見ているのだろう。そう思うと、無性に本の続きが読みたくなってきた。けれど、隣のパチュリーが楽しそうに花火を見上げているのをみて、せめてこの花火が終わるまではこうしている事にする。
部屋で見ていた四百九十六ページ目は、二人の男女が互いの失恋を乗り越える所から始まる。さて、私とパチュリーは今何ページ目だろうか。それは分からなかったが、少なくとも、もう二度とパチュリーが髪を切ったりしないで済む様に、それだけを夜空に願った。
ひゃっほうっ!!
貴方様はほんと良い恋愛ものを書きなさる。
甘く切ない、だが悲しくない恋話
切なさが心地よくてはちきれそうなほどに苦しい、なんて。
それぞれの想いが交錯して、美しい。
それはそうと、閻魔理沙についてkwsk!!
百合でなくともいいコンビだ!
しかし、なんとも不完全燃焼に思えてしまいました。
心動かす山場があれば、もっともっと楽しくなりそうだなあ、と。