時は四月の終わり頃、春の花が全盛期を迎えている温かい晴れたある日。
男が一人山道を歩く。
杖をつき、足元はおぼつかない。
杖でしきりにあちこちを突きながら、男は休まずゆっくり山道を上へ登る。
山道といっても、人の踏み固めたしっかりしたものではなく、細く掘り下げられた獣道でしかない。
二日前に雨がやみ、それでも周りが木々に囲まれた地面は、水溜りこそないものの、草鞋を履いた男の歩をそれだけ危うくさせている。
紺一色に染め上げられた簡素な、それでいてどことなく高価そうな着流しで、あまり日の差し込まない人の通らぬ道を歩く。
裾は言うまでもなく泥だらけで、それほど気温が高くもなくむしろ涼しいくらいの森の中なのに、うっすら汗を流しながら・・・・・・
妖精や妖怪、幽霊が自由気ままに跋扈する幻想の楽園。
人里離れた山を行くのは自殺行為も甚だしいのだが、その男は運がいいのかここまで危険に見舞われてはいなかった。
「ハァ・・・・・・ハァ・・・・・・」
男はそれでも帰る素振りを見せない。
目的地があるように迷ってうろうろすることもない。
ときどき足をもつれさせながらも、しばらく歩き続けていると、急に瞼に刺激が走り、思わず空いている左手をかざして影をつくる。
それは森から抜けたことを意味していた。
少しの間かざし続けていると慣れてきた。
手をおろし、杖を掴んでいた右手に重ね、一息つく。
「ふぅ・・・・・・」
ここが目的地なのか、立ち止まったまましばらく風にあたる。
するといつの間にか後ろに気配が現れていた。
・・・・・・
その気配は沈黙を守り、男が何をするのか待っている。
明確な敵意を感じさせないものの、やんわりとして捉えどころのない、それにもかかわらず一切の隙をみせない警戒の物腰。
「このような場所で誰かに出くわすとは思いませんでした。」
丁寧な口調で男は後ろの気配に話しかけた。相手の警戒に気付いているのかいないのかわからないが、こちらはひどくリラックスしている。
自分の背後にいる気配が、いったい誰なのか知っているように、本当に無防備に返事を待つ。
「私も・・・・・・、ここで人に会うのは久しぶりですわ。」
そよ風が一際強く吹いた。
女性の声を響かせるその気配は、口元に手を添えて微笑む。
「あなたは何をしにここへ・・・・・・?」
警戒を全く緩めることなく、男を見据える。
そういう男は後ろの声に振り返ることもしない。
「ええ、少し・・・・・・花を見に来たのですよ。」
男は態度を変えない。
「ここには色とりどりの花があります。好きなだけ見ていただいてもかまいませんが、その後はどうされます?」
「私が花を摘んで持ち帰ると思って、警戒されているのですか?」
警戒している理由を勘繰られて気配は警戒を強めるが、口調等からは一切表に出さない。
「はい、間違いございませんわ。・・・・・・それで? 質問を繰り返すようですが、この後どうされます?」
「・・・・・・そうですねぇ・・・・・・」
男はそこで言葉を止めて、小さく深呼吸した。
それからまたしばらく沈黙する。自分が何をしに来たのか、何をしたいのか確かめるように少しだけ空を仰ぎ見る素振りを見せる。
そうしていると業を煮やしたのか気配から声をかけてきた。
「・・・・・・花は・・・・・・見えますか? その閉じた目で・・・・・・」
男は目を閉じていた。花を見に来たのに目を閉じたままでは何も見ることができない。
気配は男がこちらに向き直ってもいないのにそれを言い当てた。
男の返答を待つ。
「すみません・・・・・・、目が・・・・・・見えないもので・・・・・・」
気配は少し驚いた。
自分の顔が驚いた顔になっていることに気付くくらいの驚きだ。
人里から遠く離れたこの場所まで、目の見えない人が来ること自体、幾百幾千の時めぐる中で初めてのことなのだ。
そもそも、目の見えない人がどうして花を見に来ようと思い至ったのか?
「それでは何も見ることができませんわ。」
「はい、残念ながら・・・・・・」
男はそう言うと、杖を突きながらゆっくり、しかしまっすぐ背後の女性に振り返った。
年齢はおそらく三十代、白髪が既に目立ち、その男の人生を物語っている。
体躯は長身痩躯であるものの、決してひ弱には見えない骨張ってしっかりした顔。
表情は見えない目を隠すように閉じた瞼と、非の打ち所のない微笑によって人の良さを表している。
・・・・・・だというのに、その男は・・・・・・、
強い風が吹けば簡単に吹き飛び折れてしまいそうなほどの儚さを、誰しもに感じさせてしまうような雰囲気をまとっていた。
「私の話を・・・・・・、聞いてはいただけないでしょうか?」
「お時間は如何程でしょうか?」
唐突に男は女性に対してお願いをしてきた。その意図が掴めず、別段時間に余裕がないわけでもないのに、そう返してしまう。
「あまりお時間はとらせません。」
柔和な表情は全く崩れない。
「・・・・・・あなたほど、長い年月を生きているわけではありませんから。・・・・・・あぁ、失礼をしました。女性に向かってこのような暴言・・・・・・お許しください。」
「!」
男はゆっくり頭を下げる。
今度の驚きは一入だった。
まさか・・・・・・
「・・・・・・許しましょう。・・・・・・ですがあなたは、私の正体に気付いておられるのですか? それとも只の妄言でしょうか?」
調子が少し狂わされる。
女性の背後の木々が風に揺れる。木漏れ日もそれに合わせて変化する。
まるで女性の心の動揺を表すように・・・・・・
ゆらゆらと・・・・・・
さらさらと・・・・・・
「ここのことは、以前に聞き及んでおります。なんでも、この世のものとは思えない美しい花々が咲き乱れる・・・・・・そんな花園が広がっている場所がある、と・・・・・・」
男は顔を上げ、さっきまでと何ら変わらぬ人懐っこい笑みを浮かべながら、
「その花園には、それを管理している、とても強い妖怪がいて、花を少しでも荒らしたり、摘み盗ったりした者を容赦なく殺しているとも、聞きました。」
「・・・・・・それで?」
続きを即す。
「あなたが、その強い妖怪だと、思う次第です。」
・・・・・・
強い風が吹く。
二人の髪が煽られる。
女性は差していた日傘をとじ、片手で軽く髪を押さえた。
何もかもが優美で、それこそ花のようなしぐさだ。
「・・・・・・お見事ですわ。目が見えない人間にこうもあっさり見破られるとは思いませんでした。心眼というものを体得なさっていらっしゃる武道の達人かしら?」
「私はそのような大したものではございません。・・・・・・人里で、しがない金物屋を営んでおります、只人です。」
「腕に覚えがあってここまで力試しに来たわけではないのですね?」
「はい、・・・・・・只、花を見に・・・・・・」
「・・・・・・いいでしょう。あなたは花を荒らしに来たわけでも、摘みに来たわけでもないことを認めましょう。・・・・・・お話して、下さるかしら?」
「ありがとうございます。」
慇懃に頭を下げ、人間の男は妖怪の女性に話し始めた。
「私は先ほど申し上げたとおり、この幻想の宮で生まれ育った、老舗の金物屋の一人息子でございます。当然のように、父より金物屋を譲り受け、両親にも、友人にも、妻にも、子供にも恵まれた、私にとって幸せな日々でした・・・・・・」
いたって平穏そうな生活、妖怪住まう危険な場所に、わざわざ出向く理由が欠片も感じられない。
わけがわからない。
この人間はどうして花を見るためにここまで来たのか?
結局疑問はそこに返ってしまう。
どうして・・・・・・、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして・・・・・・
「精を出して仕事をしました。そのせいで、家族には大変迷惑をかけました。ほとんど顧みずに仕事をしていましたから・・・・・・」
まだ繋がらない。
「父と同じように、子供に金物屋を継がせるために、厳格に育てました。・・・・・・しかしながら、跡継ぎの目処が立たないまま・・・・・・、私は、体を壊してしまいました・・・・・・」
あぁ、そうなのか。
花を見に来た理由はまだわからないが、どうしてこの男が儚く感じたのか。
「不治の・・・・・・病だそうです。・・・・・・まったく、仕事仕事と家族に迷惑を散々かけたというのに、病気で倒れて、結局また迷惑をかけ続ける・・・・・・、とんだお荷物です・・・・・・」
余命幾許もないその男からは、妖怪だからこそ、人間の常識の埒外だからこそわかる、死ぬ前の人間が放つ、死の空気のようなものを感じ取れた。
だから儚いと感じたのだ。
そんな人間がここに来ることがあるはずなかったから、久しく忘れてしまっていた感覚だったのだ。
だから・・・・・・、気付かなかった。
「病気のせいで、体は思うように動かず、視力を完全に失い、家の事全てを妻と子供に押し付けて・・・・・・、かなり、疎まれていたと思います。会話らしい会話さえ、ろくにない生活でした・・・・・・」
男は、何もしてやれなかった家庭に、言い知れない悲しみと悔しさを抱えていた。
それはもう、自縛霊としていつまでも居残ってしまいそうな、深い未練。
「あなたは・・・・・・、幽霊になっても家に居座りたくなくて、ここへ来たのですか?」
そのようなことでここに来られても、正直傍迷惑なことこの上ない。
それが理由だと言うなら、脅かして家に帰すつもりで尋ねた。
「はは・・・・・・、無意識にそのような思いが、あったかもしれません。・・・・・・しかし、私がここに来たいと思い至ったのは、もっと単純です。」
決して、人間に対して友好的ではない、むしろ人間との友好度が最悪の部類に入る妖怪の女性は、そんなことお構いなしに、気軽に話をするその男を、知らず知らずのうちに気になってしまっていた。
少し苛立ったことを、すっかり忘れてしまうくらいに・・・・・・
瞬間、空気が重くなった。
カラン
何かが地面の石に当たった音とともに、男はうつ伏せに倒れた。
雑草が地面を隠していたおかげで泥だらけにならずに済んだものの、もはや立ち上がることもできなくなってしまった男は、それでも立ち上がろうともがいている。
苦しそうに・・・・・・
悔しそうに・・・・・・
杖は転がっていってしまって、男の傍に掴まれそうなものは何もない。
見苦しい。
いつもなら、女性はそう切り捨てただろう。
そう思えなかった。
思わず、男に駆け寄ってしまっていた。
抱き起こしてしまっていた。
自分の気持ちがわからない。
愛用の日傘さえ投げ捨てて・・・・・・、男を助けてしまった。
「・・・・・・ありがとうございます・・・・・・。怖い妖怪と、聞き及んでおりましたから、まさか助けてくれるとは思いませんでした・・・・・・」
不思議な男。
『私は何をやっている? 何を考えている? この男はいったい何だ?』
思考がまとまらない。
表情が困惑に歪みそうになって、寸でのところで気付いて不敵な笑みを作り直す。
「どうしてでしょう・・・・・・。あなたを助ける理由なんて、ないというのに・・・・・・」
男は、女性の膝の上で苦しそうに、それでも笑顔で語る。
「・・・・・・どうか、このまま、聞いていただけませんか・・・・・・?」
「ええ・・・・・・、構いません。」
許してしまった。
自身の思いが、ひどく単純なものであると理解できたのに、それに当てはまる言葉が出てこない。
「目を、失って・・・・・・、色を、失って・・・・・・、誰の顔も、わからなくなって・・・・・・」
見えない、閉じた目から、涙がこぼれる。
「初めて・・・・・・、・・・・・・っ気付きました・・・・・・」
苦しいのに穏やかで・・・・・・
悔しいのに安らかで・・・・・・
「目が見えるのに、何も見ていなかったことに・・・・・・」
それが・・・・・・最大の未練。
「願い事ばかりで、申し訳ございませんが・・・・・・、もう二つだけ・・・・・・私の願いを、聞いては、いただけないでしょうか・・・・・・?」
頷く。
涙なんて流れない。
人間相手に流す涙なんて持ち合わせていない。
それでも・・・・・・
いつの間にか、自分も穏やかになっていた。
男はその動作がわかったのか、語り始める。
「私は、もう家に帰れません・・・・・・。私が死んだら、遺体はあなたの好きに、してください・・・・・・」
そして、
「最後に・・・・・・、あなたの、あなたの花を・・・・・・、あなたの命溢れる花を、私に見せていただけませんか・・・・・・?」
見えない目から涙は止め処なく溢れ落ち、女性のスカートを湿らせる。
涙はまるで、その男の命のよう・・・・・・。
「・・・・・・承知しましたわ。」
男を立たせ、数歩先に広がる花園の端へ導いていく。
妖怪の腕力は人間をはるかに凌駕する。それこそ人間一人なぞ軽々片手で持ち上げて投げ飛ばせるほどの膂力を誇る。
だというのに・・・・・・
その男の体はひどく重かった。
いや、実際の重さは成人男性より若干以上に軽い。
軽いのに・・・・・・、重い。
男を座らせ、自身も屈む。
「着きましたわ・・・・・・。あなたの来たかった場所に・・・・・・」
そう言って男の手を取り、一番近くにあった低木に咲く小さな花に、その手を、その指を、触れさせる。
その花が散らないように静かに・・・・・・
男の手が壊れないようにそっと・・・・・・
男の体が小刻みに震えだした。
震えているのに、花は落ちない。
男が精一杯、手の震えを堪えているから。
花を・・・・・・散らさないように・・・・・・
「・・・・・・お嬢さん・・・・・・」
「何でしょうか・・・・・・?」
男は自分で手を引き戻す。
頬を伝う涙は、冷たいものから暖かいものへ変わっていた。
女性の手を、小さな花を濡らす。
「・・・・・・あなたの、お名前を・・・・・・」
あぁ、私は笑っている。笑っていることがわかる。
ほぼ全ての者に見せる無表情の笑顔ではなく、仮面も何もない・・・・・・
むき出しの・・・・・・笑顔。
「私は・・・・・・、私は、風見幽香と申します。」
あぁ、忘れていた。
「あなたのお名前は・・・・・・?」
「・・・・・・私は・・・・・・、立花万(よろず)と、申します・・・・・・。」
急に体重がかかってきた。
右横へ、女性のいるほうへ、静かに、すべるように・・・・・・
ほとんど最後の力を振り絞って、必死の思いで・・・・・・
花を自分の体で潰さないように・・・・・・
自然、膝に男の頭が納まる。
男の顔は、さっきまでとは変わっていた。
穏やかで安らかだったその表情は、言いようもない感動と、言い知れない喜びに満ち溢れていた。
・・・・・・重い。
それでも・・・・・・体は、軽かった。
「・・・・・・風見、さん・・・・・・風見さん・・・・・・」
もう、わかった。
この男がここに来た理由。
この男が花を見たい理由。
そして女性が、この男に抱いた気持ち。
その全て。
「・・・・・・はい。」
男の手が女性の頬に触れ、そっと撫でる。
ごつごつして、金物のようで、少しむず痒い。
「・・・・・・ありがとう! 本当に・・・・・・ありがとう!」
・・・・・・
腕が落ちる。
男の体はそれっきり動かない。
家族の誰にも見取られることなく、今日遇ったばかりの妖怪の腕の中で・・・・・・
男は彼岸へ旅立ち始めた。
男が一人山道を歩く。
杖をつき、足元はおぼつかない。
杖でしきりにあちこちを突きながら、男は休まずゆっくり山道を上へ登る。
山道といっても、人の踏み固めたしっかりしたものではなく、細く掘り下げられた獣道でしかない。
二日前に雨がやみ、それでも周りが木々に囲まれた地面は、水溜りこそないものの、草鞋を履いた男の歩をそれだけ危うくさせている。
紺一色に染め上げられた簡素な、それでいてどことなく高価そうな着流しで、あまり日の差し込まない人の通らぬ道を歩く。
裾は言うまでもなく泥だらけで、それほど気温が高くもなくむしろ涼しいくらいの森の中なのに、うっすら汗を流しながら・・・・・・
妖精や妖怪、幽霊が自由気ままに跋扈する幻想の楽園。
人里離れた山を行くのは自殺行為も甚だしいのだが、その男は運がいいのかここまで危険に見舞われてはいなかった。
「ハァ・・・・・・ハァ・・・・・・」
男はそれでも帰る素振りを見せない。
目的地があるように迷ってうろうろすることもない。
ときどき足をもつれさせながらも、しばらく歩き続けていると、急に瞼に刺激が走り、思わず空いている左手をかざして影をつくる。
それは森から抜けたことを意味していた。
少しの間かざし続けていると慣れてきた。
手をおろし、杖を掴んでいた右手に重ね、一息つく。
「ふぅ・・・・・・」
ここが目的地なのか、立ち止まったまましばらく風にあたる。
するといつの間にか後ろに気配が現れていた。
・・・・・・
その気配は沈黙を守り、男が何をするのか待っている。
明確な敵意を感じさせないものの、やんわりとして捉えどころのない、それにもかかわらず一切の隙をみせない警戒の物腰。
「このような場所で誰かに出くわすとは思いませんでした。」
丁寧な口調で男は後ろの気配に話しかけた。相手の警戒に気付いているのかいないのかわからないが、こちらはひどくリラックスしている。
自分の背後にいる気配が、いったい誰なのか知っているように、本当に無防備に返事を待つ。
「私も・・・・・・、ここで人に会うのは久しぶりですわ。」
そよ風が一際強く吹いた。
女性の声を響かせるその気配は、口元に手を添えて微笑む。
「あなたは何をしにここへ・・・・・・?」
警戒を全く緩めることなく、男を見据える。
そういう男は後ろの声に振り返ることもしない。
「ええ、少し・・・・・・花を見に来たのですよ。」
男は態度を変えない。
「ここには色とりどりの花があります。好きなだけ見ていただいてもかまいませんが、その後はどうされます?」
「私が花を摘んで持ち帰ると思って、警戒されているのですか?」
警戒している理由を勘繰られて気配は警戒を強めるが、口調等からは一切表に出さない。
「はい、間違いございませんわ。・・・・・・それで? 質問を繰り返すようですが、この後どうされます?」
「・・・・・・そうですねぇ・・・・・・」
男はそこで言葉を止めて、小さく深呼吸した。
それからまたしばらく沈黙する。自分が何をしに来たのか、何をしたいのか確かめるように少しだけ空を仰ぎ見る素振りを見せる。
そうしていると業を煮やしたのか気配から声をかけてきた。
「・・・・・・花は・・・・・・見えますか? その閉じた目で・・・・・・」
男は目を閉じていた。花を見に来たのに目を閉じたままでは何も見ることができない。
気配は男がこちらに向き直ってもいないのにそれを言い当てた。
男の返答を待つ。
「すみません・・・・・・、目が・・・・・・見えないもので・・・・・・」
気配は少し驚いた。
自分の顔が驚いた顔になっていることに気付くくらいの驚きだ。
人里から遠く離れたこの場所まで、目の見えない人が来ること自体、幾百幾千の時めぐる中で初めてのことなのだ。
そもそも、目の見えない人がどうして花を見に来ようと思い至ったのか?
「それでは何も見ることができませんわ。」
「はい、残念ながら・・・・・・」
男はそう言うと、杖を突きながらゆっくり、しかしまっすぐ背後の女性に振り返った。
年齢はおそらく三十代、白髪が既に目立ち、その男の人生を物語っている。
体躯は長身痩躯であるものの、決してひ弱には見えない骨張ってしっかりした顔。
表情は見えない目を隠すように閉じた瞼と、非の打ち所のない微笑によって人の良さを表している。
・・・・・・だというのに、その男は・・・・・・、
強い風が吹けば簡単に吹き飛び折れてしまいそうなほどの儚さを、誰しもに感じさせてしまうような雰囲気をまとっていた。
「私の話を・・・・・・、聞いてはいただけないでしょうか?」
「お時間は如何程でしょうか?」
唐突に男は女性に対してお願いをしてきた。その意図が掴めず、別段時間に余裕がないわけでもないのに、そう返してしまう。
「あまりお時間はとらせません。」
柔和な表情は全く崩れない。
「・・・・・・あなたほど、長い年月を生きているわけではありませんから。・・・・・・あぁ、失礼をしました。女性に向かってこのような暴言・・・・・・お許しください。」
「!」
男はゆっくり頭を下げる。
今度の驚きは一入だった。
まさか・・・・・・
「・・・・・・許しましょう。・・・・・・ですがあなたは、私の正体に気付いておられるのですか? それとも只の妄言でしょうか?」
調子が少し狂わされる。
女性の背後の木々が風に揺れる。木漏れ日もそれに合わせて変化する。
まるで女性の心の動揺を表すように・・・・・・
ゆらゆらと・・・・・・
さらさらと・・・・・・
「ここのことは、以前に聞き及んでおります。なんでも、この世のものとは思えない美しい花々が咲き乱れる・・・・・・そんな花園が広がっている場所がある、と・・・・・・」
男は顔を上げ、さっきまでと何ら変わらぬ人懐っこい笑みを浮かべながら、
「その花園には、それを管理している、とても強い妖怪がいて、花を少しでも荒らしたり、摘み盗ったりした者を容赦なく殺しているとも、聞きました。」
「・・・・・・それで?」
続きを即す。
「あなたが、その強い妖怪だと、思う次第です。」
・・・・・・
強い風が吹く。
二人の髪が煽られる。
女性は差していた日傘をとじ、片手で軽く髪を押さえた。
何もかもが優美で、それこそ花のようなしぐさだ。
「・・・・・・お見事ですわ。目が見えない人間にこうもあっさり見破られるとは思いませんでした。心眼というものを体得なさっていらっしゃる武道の達人かしら?」
「私はそのような大したものではございません。・・・・・・人里で、しがない金物屋を営んでおります、只人です。」
「腕に覚えがあってここまで力試しに来たわけではないのですね?」
「はい、・・・・・・只、花を見に・・・・・・」
「・・・・・・いいでしょう。あなたは花を荒らしに来たわけでも、摘みに来たわけでもないことを認めましょう。・・・・・・お話して、下さるかしら?」
「ありがとうございます。」
慇懃に頭を下げ、人間の男は妖怪の女性に話し始めた。
「私は先ほど申し上げたとおり、この幻想の宮で生まれ育った、老舗の金物屋の一人息子でございます。当然のように、父より金物屋を譲り受け、両親にも、友人にも、妻にも、子供にも恵まれた、私にとって幸せな日々でした・・・・・・」
いたって平穏そうな生活、妖怪住まう危険な場所に、わざわざ出向く理由が欠片も感じられない。
わけがわからない。
この人間はどうして花を見るためにここまで来たのか?
結局疑問はそこに返ってしまう。
どうして・・・・・・、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして・・・・・・
「精を出して仕事をしました。そのせいで、家族には大変迷惑をかけました。ほとんど顧みずに仕事をしていましたから・・・・・・」
まだ繋がらない。
「父と同じように、子供に金物屋を継がせるために、厳格に育てました。・・・・・・しかしながら、跡継ぎの目処が立たないまま・・・・・・、私は、体を壊してしまいました・・・・・・」
あぁ、そうなのか。
花を見に来た理由はまだわからないが、どうしてこの男が儚く感じたのか。
「不治の・・・・・・病だそうです。・・・・・・まったく、仕事仕事と家族に迷惑を散々かけたというのに、病気で倒れて、結局また迷惑をかけ続ける・・・・・・、とんだお荷物です・・・・・・」
余命幾許もないその男からは、妖怪だからこそ、人間の常識の埒外だからこそわかる、死ぬ前の人間が放つ、死の空気のようなものを感じ取れた。
だから儚いと感じたのだ。
そんな人間がここに来ることがあるはずなかったから、久しく忘れてしまっていた感覚だったのだ。
だから・・・・・・、気付かなかった。
「病気のせいで、体は思うように動かず、視力を完全に失い、家の事全てを妻と子供に押し付けて・・・・・・、かなり、疎まれていたと思います。会話らしい会話さえ、ろくにない生活でした・・・・・・」
男は、何もしてやれなかった家庭に、言い知れない悲しみと悔しさを抱えていた。
それはもう、自縛霊としていつまでも居残ってしまいそうな、深い未練。
「あなたは・・・・・・、幽霊になっても家に居座りたくなくて、ここへ来たのですか?」
そのようなことでここに来られても、正直傍迷惑なことこの上ない。
それが理由だと言うなら、脅かして家に帰すつもりで尋ねた。
「はは・・・・・・、無意識にそのような思いが、あったかもしれません。・・・・・・しかし、私がここに来たいと思い至ったのは、もっと単純です。」
決して、人間に対して友好的ではない、むしろ人間との友好度が最悪の部類に入る妖怪の女性は、そんなことお構いなしに、気軽に話をするその男を、知らず知らずのうちに気になってしまっていた。
少し苛立ったことを、すっかり忘れてしまうくらいに・・・・・・
瞬間、空気が重くなった。
カラン
何かが地面の石に当たった音とともに、男はうつ伏せに倒れた。
雑草が地面を隠していたおかげで泥だらけにならずに済んだものの、もはや立ち上がることもできなくなってしまった男は、それでも立ち上がろうともがいている。
苦しそうに・・・・・・
悔しそうに・・・・・・
杖は転がっていってしまって、男の傍に掴まれそうなものは何もない。
見苦しい。
いつもなら、女性はそう切り捨てただろう。
そう思えなかった。
思わず、男に駆け寄ってしまっていた。
抱き起こしてしまっていた。
自分の気持ちがわからない。
愛用の日傘さえ投げ捨てて・・・・・・、男を助けてしまった。
「・・・・・・ありがとうございます・・・・・・。怖い妖怪と、聞き及んでおりましたから、まさか助けてくれるとは思いませんでした・・・・・・」
不思議な男。
『私は何をやっている? 何を考えている? この男はいったい何だ?』
思考がまとまらない。
表情が困惑に歪みそうになって、寸でのところで気付いて不敵な笑みを作り直す。
「どうしてでしょう・・・・・・。あなたを助ける理由なんて、ないというのに・・・・・・」
男は、女性の膝の上で苦しそうに、それでも笑顔で語る。
「・・・・・・どうか、このまま、聞いていただけませんか・・・・・・?」
「ええ・・・・・・、構いません。」
許してしまった。
自身の思いが、ひどく単純なものであると理解できたのに、それに当てはまる言葉が出てこない。
「目を、失って・・・・・・、色を、失って・・・・・・、誰の顔も、わからなくなって・・・・・・」
見えない、閉じた目から、涙がこぼれる。
「初めて・・・・・・、・・・・・・っ気付きました・・・・・・」
苦しいのに穏やかで・・・・・・
悔しいのに安らかで・・・・・・
「目が見えるのに、何も見ていなかったことに・・・・・・」
それが・・・・・・最大の未練。
「願い事ばかりで、申し訳ございませんが・・・・・・、もう二つだけ・・・・・・私の願いを、聞いては、いただけないでしょうか・・・・・・?」
頷く。
涙なんて流れない。
人間相手に流す涙なんて持ち合わせていない。
それでも・・・・・・
いつの間にか、自分も穏やかになっていた。
男はその動作がわかったのか、語り始める。
「私は、もう家に帰れません・・・・・・。私が死んだら、遺体はあなたの好きに、してください・・・・・・」
そして、
「最後に・・・・・・、あなたの、あなたの花を・・・・・・、あなたの命溢れる花を、私に見せていただけませんか・・・・・・?」
見えない目から涙は止め処なく溢れ落ち、女性のスカートを湿らせる。
涙はまるで、その男の命のよう・・・・・・。
「・・・・・・承知しましたわ。」
男を立たせ、数歩先に広がる花園の端へ導いていく。
妖怪の腕力は人間をはるかに凌駕する。それこそ人間一人なぞ軽々片手で持ち上げて投げ飛ばせるほどの膂力を誇る。
だというのに・・・・・・
その男の体はひどく重かった。
いや、実際の重さは成人男性より若干以上に軽い。
軽いのに・・・・・・、重い。
男を座らせ、自身も屈む。
「着きましたわ・・・・・・。あなたの来たかった場所に・・・・・・」
そう言って男の手を取り、一番近くにあった低木に咲く小さな花に、その手を、その指を、触れさせる。
その花が散らないように静かに・・・・・・
男の手が壊れないようにそっと・・・・・・
男の体が小刻みに震えだした。
震えているのに、花は落ちない。
男が精一杯、手の震えを堪えているから。
花を・・・・・・散らさないように・・・・・・
「・・・・・・お嬢さん・・・・・・」
「何でしょうか・・・・・・?」
男は自分で手を引き戻す。
頬を伝う涙は、冷たいものから暖かいものへ変わっていた。
女性の手を、小さな花を濡らす。
「・・・・・・あなたの、お名前を・・・・・・」
あぁ、私は笑っている。笑っていることがわかる。
ほぼ全ての者に見せる無表情の笑顔ではなく、仮面も何もない・・・・・・
むき出しの・・・・・・笑顔。
「私は・・・・・・、私は、風見幽香と申します。」
あぁ、忘れていた。
「あなたのお名前は・・・・・・?」
「・・・・・・私は・・・・・・、立花万(よろず)と、申します・・・・・・。」
急に体重がかかってきた。
右横へ、女性のいるほうへ、静かに、すべるように・・・・・・
ほとんど最後の力を振り絞って、必死の思いで・・・・・・
花を自分の体で潰さないように・・・・・・
自然、膝に男の頭が納まる。
男の顔は、さっきまでとは変わっていた。
穏やかで安らかだったその表情は、言いようもない感動と、言い知れない喜びに満ち溢れていた。
・・・・・・重い。
それでも・・・・・・体は、軽かった。
「・・・・・・風見、さん・・・・・・風見さん・・・・・・」
もう、わかった。
この男がここに来た理由。
この男が花を見たい理由。
そして女性が、この男に抱いた気持ち。
その全て。
「・・・・・・はい。」
男の手が女性の頬に触れ、そっと撫でる。
ごつごつして、金物のようで、少しむず痒い。
「・・・・・・ありがとう! 本当に・・・・・・ありがとう!」
・・・・・・
腕が落ちる。
男の体はそれっきり動かない。
家族の誰にも見取られることなく、今日遇ったばかりの妖怪の腕の中で・・・・・・
男は彼岸へ旅立ち始めた。
作品は、全体として良くまとまっており、内容も場にふさわしい選択だと思います。作品全体を通して表現され、花に仮託されて散ってゆく情景の美しさ。そしてそれが、風見嬢の心境描写や万翁の述懐にかすかに感じられる。佳作です。詩的な表現も良くマッチしていると思います。
連作との事ですが、とりあえず80点を入れさせて頂きます。では。
最後に、これはあくまで形式ですが三点リーダーは「…」をお使い下さい。「・」は中黒です。また、全ての行末に改行を置くなら、文頭のインデントは不要だと思います。
しかしこの話の続きというのが、自分には全く想像出来ません。いやぁ、気になります。
幽香は花を粗末にする輩には厳しくて、その代わり花を荒らさなければとても優しいのね。