輝夜が作ってくれた月見うどんをゆっくりと啜っていると、入り口に付けられたままになっていたドアベルが、カランカランと来客を告げた。
いつものお昼といえば聞こえはいいが、実際には僕は一人で食事をする事が多い。
今日はたまたま輝夜が来ていたので、彼女の言葉に甘えたという訳だ。
そんなところに、来客のベル。
「誰かしら?」
「誰だろうね」
僕と輝夜は、お互いの顔をみて、首を傾げた。
はてさて、今頃に僕を訪ねてくる者なんているのだろうか。
物取りの類でなければ良いのだが。
僕が腰を上げ様とすると、輝夜がすっくと立ち上がって先に行ってしまった。
「やれやれ」
まぁ、先に行かれてしまうと、どうにも立ち上がる気力は削がれてしまう。
しょうがない、とばかりに僕はうどんへと向き直った。
2、3本くらいをずぞぞぞぞっと啜ったところで、輝夜は戻ってきた。
「霖之助さん」
輝夜の言葉にそちらを見ると、氷の妖精が俯いたまま立っていた。
スカートのをギュッと握っており、皺になっている。
顔は俯き加減で、伺う事が出来ない。
それでも、彼女がチルノである事は簡単に分かる。
少しだけヒヤリとした空気が流れてくるしね。
「霖之助……」
少女が呟く言葉は、僕の名前。
少しだけ震えて、泣き出しそうなそんな声。
「おやおや、最強の妖精がどうしたんだい?」
僕の言葉に、チルノは顔をあげた。
すでに目が少しだけ赤い。
どうしたのだろう。
彼女の涙を、僕は初めて見た気がする。
「おいで」
僕が手招きをすると、彼女はゆっくりと僕の元へ来た。
僕はチルノの頭を撫でてやり、そのまま僕の膝へ座らせてやった。
少しだけヒヤリとした冷気を感じるが、これ位はどうという事はない。
「あたい、弱くなったよ……」
「泣いたからかい?」
こくん、とチルノは頷く。
泣かない者は強い者。
なるほど、妖精らしい理論だ。
「そんな事はないね」
僕はニヤリと笑い、彼女の頭をポンポンと優しく叩いた。
「弱い奴は泣くのを恥ずかしいと思っている。強い奴は泣けないのが悔しいと思っている。チルノ、君はようやく涙を見せた。君はやっぱり最強だよ」
弱い者は涙を見せる。
それが恥だと思っている。
強い者は弱さを見せられない。
それが苦しみでもある。
だから、涙を流さないと決めた者が、涙を流したのだ。
立派な事だと、僕は思うんだけれど。
さてさて、これで機嫌を直してくれたらいいのだけれど。
そうはいかないみたいだ。
「はい、おろし醤油うどん」
と、ここで輝夜が新しい器にチルノの分のうどんを作ってきてくれた。
相変わらず仕事が速い。
温かいうどんじゃなくて、冷たいうどんだ。
大根おろしが乗せてあって、さっぱりとした印象を受ける。
「うん」
チルノはチルチルとうどんを1本づつ啜っていく。
僕と輝夜はそれを見てから、食事を再開させた。
まぁ、僕はチルノの頭に汁を零さない様にするのが、大変だったけど。
~☆~
「それで、どうしたんだい?」
春一番が吹き、もうすぐ春になるだろうと思われる空。
それを縁側で眺めながら、僕、チルノ、輝夜はまるで親子の様に座っている。
僕と輝夜の間に、しょんぼりと落ち込んだチルノ。
さてさて、僕達親子に少女の悩みを解決する事が出来るだろうか。
無駄な経験が多い僕と、無駄に経験が多い輝夜。
な行の1つ目と2つ目で、まるで意味が変わってくるな。
なんて事を思っていると、チルノがポツリポツリと喋り始めた。
「レティがね……友達になってくれない……」
チルノは少しづつ、ゆっくりと語ってくれた。
チルノの言い分は、こうだ。
いつも一人でいるレティ・ホワイトロックは可哀想。
だから、友達になろうとした。
かつて自分が一人きりだった事。
それは、とてもとても寂しいという事。
そう、だから、友達になろうと声をかけた。
でも。
でも、レティは拒絶した。
友人になろうとしたチルノを拒絶した。
そして、拒絶された少女は、涙を流すしかなかった。
「そう。それは寂しいわね」
輝夜はチルノの頭をなでる。
以前の彼女なら、輝夜の手を振り払っただろう。
甘んじて慰めを受け入れる。
やはりチルノは強くなったな。
「だから、霖之助に聞きに来た。どうすればいい? どうすればレティと友達になれる?」
ふむ、と僕は腕を組んだ。
友達になる方法か。
本来は、友達になるのなんて、簡単なはずだ。
一言、声をかければ良い。
知り合いになれば良い。
一緒に遊べば良い。
友達とは、所詮は、その程度だ。
難しい話ではない。
もし、恋仲になりたいというのなら、それは難しい話だけれど。
「一度拒絶された相手と友達になる方法か」
それは、まるで恋仲になる位の難易度だ。
ふ~む……難しいな。
「レティは何て言ったの?」
僕が悩んでいるのを見かねてか、輝夜がチルノに質問する。
「……友達なんかいらないって。私は一人がいいんだって言ってた……」
なるほどね、と輝夜は呟く。
「雪女らしい言葉ね」
「雪女?」
「えぇ。レティ・ホワイトロックは雪女っていう種族よ」
雪女。
一番有名な話が、小泉八雲という人物が描いた話だろうか。
彼は元々、パトリック・ラフカディオ・ハーンという名前だったそうだが、小泉八雲に改名したそうだ。
そんな小泉八雲の描いた雪女は、結構な面食いだ。
猟師の2人が山小屋で寒さをしのいでいると、雪女が現れる。
老人は殺してしまうが、若い男は見逃した。
その代わり、この事を誰かに言うと、お前を殺すという呪いを残して、彼女は姿を消す。
数年後、この青年はほっそりとした女性を妻にする。
たくさんの子供に恵まれ、幸せだった青年だが、ふと雪女の事を妻に言ってしまう。
すると、妻は自分が雪女だと告げた。
ただし、雪女は青年を殺せなかった。
自分達の子供を思うと、夫を殺す事が出来なかったのだ。
そして、雪女は再び姿を消す。
そんな物語だが、これは雪女の一目惚れなんだろうな、と思う。
青年と恋仲になりたいが為に、呪いを植えつけた。
自分を一生を忘れない様に。
そして、青年が口を滑らしたが為に、呪いは実行しなければならない。
だが、それは出来ない。
子供たちを思うと、殺してしまうという呪いなど、とても実行できるものではない。
だからこそ、雪女は消えてしまった。
この雪女の物語は恐ろしさを語った話ではなく、悲恋を描いているのだ。
「雪女っていうのはね、元は月世界のお姫様で、退屈な日常から逃げる為に雪と共に地上に降りてきたの。でも、月に帰れなくなったから、雪の降る月夜に現れるそうよ」
「へ~、レティはお姫様だったのか」
僕がそんな事を思っていると、輝夜は一般的ではない知識を披露している。
あれは極一部の地域の伝説だ。
まぁ、輝夜が語るには一番適した逸話かもしれない。
もしかしたら、事実の可能性もあるのだけれどね。
何にしても、全ての雪女に共通するのは『儚さ』だ。
物悲しさ、そんな物が漂ってくる話が多い。
それは、レティにも通じるものがあるのだろうか。
雪女は幸せじゃない。
そんな事は、あるのだろうか。
「う~ん、チルノとレティ……まるで男女の恋みたいね……あ~、それじゃ夜這いっていうのはどうかしら?」
「夜這いって……えっちな事か?」
なんという暴論を吐くんだ、このお姫様は……
と、思ったが、輝夜のいう夜這いとは、本来の意味の夜這いだ。
現在は、夜這いと言えばチルノの言った通りの強姦的な意味になる。
しかし輝夜の生きて来た経験からは、夜這いの意味は元来のものとなる。
「違う違う。元々夜這いっていうのは、『呼ばい』なのよ」
輝夜は説明していく。
ある時代、男女が結婚する為のプロセスは、まず歌から始まる。
男性が歌を送り、女性がその返事を歌で返す。
それを何度か繰り返した後、男性は夜に女性の元へと訪れるのだ。
最初は断られるが、そこで無理に入ろうとせず大人しく帰るのがマナー。
そして交際が始まり、結婚へと繋がる訳である。
当時の平均的な結婚年齢は男子が17歳、女子が13歳と言われているが、もっと低年齢化が進み、ほとんど子供の夫婦がいたそうだ。
まぁ、想像するに、何とも微笑ましい感じがするね。
「つまり、手紙を出したらどうかしら」
「おぉ、手紙か」
「なるほど、それはいい」
僕は早速とばかりに、便箋とペンを持ってきた。
輝夜はお茶と煎餅を用意している。
僕と輝夜は熱いお茶を、チルノには冷たいお茶を用意してくれた。
「う~ん、何て書けばいいかな」
チルノは紙を前にして、僕と同じ様に腕を組んで考える。
「単純な方がいい。そうだな……『ともだちになってください』でいいんじゃないかな」
僕の言葉にチルノは、分かった、と答えてペンを取った。
緊張の為か、少しだけ震えた文字で完成した手紙。
僕は封筒も用意してやり、便箋を折り畳んで封をした。
よし、とばかりにチルノはお茶を飲み干す。
そして手紙を持って早速とばかりに、縁側から飛び立とうとした。
「あ、待って待って」
「お?」
輝夜はチルノを呼び止め、リボンとタイをきちんと整えてやった。
それから、チルノの口元に人差し指をあてて、くいっと上にあげてやる。
「いぃ、笑顔よ笑顔。それから、手紙はその場で破られる可能性もあるから。読んでもらえたら、チルノ、あなたの勝ちよ。レティは『呼ばい』に答えた。つまり『読ばい』よ。分かった?」
「うん。分かった」
チルノは神妙に頷く。
それから、ありがとう、と輝夜と僕に言ってから飛び去った。
「はぁ~、それにしても妖精相手に夜這い論とはね」
「あら、誰かさんが全く行動を起こして下さらないんだもの。待ちくたびれた思いを、チルノに託しただけよ」
「はっはっは、それはすまなかったね。どれ、今からでも歌でも送ろうか」
「もう遅いわよ」
ドスっと輝夜の肘が僕のわき腹に刺さった。
あいたたた、と大げさに痛がって見せる。
ツンと済ました輝夜だが、慌てて僕に駆け寄ってくれた。
うん、まぁ、これくらいが丁度いいかな。
『抱き合う 向かいし僕と 彼女には 恋仲よりも 親子の如く』
いだきあう、と、痛きあうを掛けて、向かいし、と、昔、を掛けてみたのだが……
そんなに上手くないな。
「はぁ、やっぱり年は取りたくない」
~☆~
次の日。
僕はいつも通り、ストーブの仄かな温もりを楽しんでいた。
お気に入りのロッキングチェアーを揺らしながらの読書。
まだまだ春が遠い昨今は、これが僕の生活スタイルの大半を占めている。
静かな読書は、僕が一番好きな時間だ。
ただ、それも賑やかな時間があればこそ。
たった一人になれる読書という行為は、誰かと一緒にいる事があるからこそ、価値が出てくる。
体を揺すられながら読む文庫本は、それなりに面白く、黙々と読み進めていた。
丁度、章の移り変わりになったところで、ドアベルが来客を告げる。
また藤原妹紅でもやって来たのか、と思ったが……
炎を纏う彼女とは正反対の、チルノだった。
「あぁ、そうか……チルノ、手紙はどうだった?」
僕の言葉に、チルノは、
「受け取ってもらえたよ」
と、答えて僕の膝の上へ乗ってきた。
やれやれ、読書はお終いだな。
チルノは、まるで子供みたいだ。
いつかの魔法使いの少女を思い出す。
僕は優しく、ポンポンと彼女の頭を叩く。
「破られるかと思ったけど、受け取ってもらえた。中身は読んでもらったか分からないけれど」
「ふむ……本当に嫌っていたら、その場で捨てるか、破るか、だからね。案外、レティは君を気に入ってるのかもしれないよ」
どうだろう、なんてチルノは腕を組んだ。
まったく、微笑ましい限りだ。
「それで、今日はどういう理由で来たんだい?」
「あ、そうだった。えっとね、レティが月のお姫様なら、輝夜も月のお姫様でしょ。だったら、私は霖之助と同じだから、どうしたんだろうと思って」
少し難解な氷精の言葉。
噛み砕くと、こうだ。
レティが月のお姫様というのなら、輝夜と同じという事になる。
だったら、輝夜と仲の良い僕とチルノの立場は同じだから、僕が輝夜と仲良くなった切欠を聞きたい、という訳だ。
さてさて、どういう理由で僕は輝夜と知り合ったのだろうか。
「そうだね~。僕と輝夜はずっと昔に知り合ったんだけど、どういう切欠かは忘れたな~。ん~、もしかすると、輝夜がお客さんでやって来たのかもしれない」
うん、そうだった気がする。
僕がまだお店を、香霖堂を営んでいる頃の話だ。
優雅で豪奢な、いつまで経っても変わらない彼女を、僕は恐らく、覚えている。
「ふ~ん。霖之助は輝夜が好きなのか?」
「好きか、嫌いか。それで答えると、好きだね」
「おぉ~。結婚する?」
「残念ながら、彼女と結婚しようとすると、とんでもない物を要求されるんだ」
「とんでもない物?」
うん、と僕は頷く。
「宝物さ。幻想郷には存在しない、いや、外の世界にも存在しない凄い宝物。それを持ってきたら、輝夜と結婚できるよ」
「霖之助は探さなかったの、宝物」
宝物か。
果たして僕は……探さなかった、のかな~。
もう記憶が曖昧となっている。
付き合いが長いと、人と人との出会いなど希薄になってしまうのだろうか。
もっとも、僕の半分は妖怪だし、彼女は宇宙人だ。
一般的な事が全く当てはまらないのかもしれない。
「探さなかったのかな。というより、僕は意気地なしだったのかもしれない。チルノみたいに勇気がなかったんだ」
まぁ、蓬莱山輝夜を嫁に貰うには、まだまだいっぱいの勇気が必要だ。
覚悟とも言い換えれる。
「そうなの?」
「あぁ。だから僕はいつまで経っても、こうやって本を読んでいる」
そうか、とチルノは首を傾げながらも頷いた。
「そういうチルノはどうだい? レティ以外で好きな子はいるかい?」
「大妖精の大ちゃん! あと、サニーとルナとスターも好きだよ!」
「誰かと結婚したいかい?」
「ん~、ん? ん~……霖之助、結婚って何だ?」
「うん、何だろうね。実は僕も結婚した事ないから、良く分からないんだ」
ほんと、結婚って何だろうな。
新しく家族を作ること?
愛の最終段階?
理論は知っている。
でも、事実は知らない。
「そうか。霖之助でも知らない事があるんだね」
「あぁ。僕は以外と何にも知らないんだよ。だから一生懸命考えるんだ。そうすると見えてくる物がある。だから、チルノ。君も考えてみればいい。いずれ、君は異変の中心になれるかもしれないよ?」
「え~。レミリアにも勝てなかったのに?」
「あはは。また協力してやるさ」
エクストラボスが僕だったら、博麗の巫女も驚くに違いない。
歴史上最弱になってしまうのは、何だか申し訳ない気がするけど。
さてさて。
「ところで、チルノ。レティの所に行かなくてもいいのかい?」
「うん、でもドキドキしてて」
ほら、とチルノが僕の手を取り、胸に当てさせる。
妖精の小さな鼓動は、言葉通り早かった。
なるほど、立派に緊張しているらしい。
少女も二の足を踏む、という事か。
「なに、友達なんてのは、成ってから気づくものさ。いつも通りの君でいい。だから、恐れずに話しかければいい。君は、チルノは、最強の妖精なんだろ?」
くしゃり、とチルノの髪をなでてやる。
僕の言葉に、勇気を持ってくれたのだろう。
チルノは笑顔を浮かべた。
そして、
「うん!」
と、力強く頷く。
それから、ドアベルを鳴らして駆けて行った。
まったく……いつまで経っても、彼女は元気だ。
それも妖精の特権だろうか。
いつまでも変わらず、いつまでも無邪気で、いつまでも存在する。
その生涯を終えてもまた元の存在となる妖精。
羨ましくもあり、怖くもある。
「下手をすれば、永遠の地獄だ」
もっとも、陽気で暢気な妖精には、地獄は似合わないのだけれどね。
~☆~
さて、僕は今、家の外にいる。
吹きすさぶ風は、春一番にも似た強さを持っていた。
いよいよ冷たい冬が終わろうとしている。
いよいよ温かい春が来ようとしている。
春は喜ばしいものだ。
春は歓迎するべきだ。
春は生き物を活性させる。
春は全ての始まりを表している。
「さてさて、どういう心変わりをしたんだい?」
僕は隣に立つ雪女に声をかけた。
腕を組み、ただただ空を見上げるレティ・ホワイトロックは少しだけ笑う。
春を憎む者。
春を恐れる者。
春を歓迎しない者。
彼女はいつだって、春の訪れを疎んでいるのだろうか。
「心変わり、というよりかは、心が折れた、ね」
レティはそう答える。
なるほど。
チルノに根負けした訳か。
いや、もしかしたら、やはり寂しかったのかもしれないな。
雪女は儚い存在。
心は、それほど強くないのかも知れない。
妖精という陽気で暢気な存在は正反対になる。
しかし、チルノは妖精の中でも異端だ。
そんな彼女に何か思う事があったのかもしれない。
それは、僕の、勝手な想像だけれど。
本当は殴り合いのケンカをしたのかもしれない。
本当は、最初から仲が良かったのかもしれない。
本当は、愛し合ってるのかもしれない。
他人の気持ちなど、欠片も分からない僕には、想像するしかないのだけれど。
「何にしても、仲が良いのは、そのまま良い事だ」
僕の言葉に、レティはツンと済まして再び上空を見つめる。
穏やかな風は、いよいよ持って春を予感させる。
雪女の怨敵だろう。
リリーホワイト。
彼女もまた、陽気で暢気な妖精だ。
あぁ、もしかすると……それでチルノの事も嫌っていたのかもしれない。
坊主憎けりゃ袈裟まで。
リリー憎けりゃチルノまで。
「本当に行くの?」
レティが声をかける。
彼女の隣には、準備運動をしているチルノがいた。
屈伸したり、腕を伸ばしたり、体を捻ったり。
少しだけ震える足を誤魔化しながら、パンパンと頬を叩いて気合いを入れている。
「あったりまえさ! せっかくレティと友達になったんだもん、1分1秒だって長く一緒にいるんだ!」
チルノは、啖呵を切る。
見栄を……張る。
本当は逃げ出したいはずなのに。
本当は怖いはずなのに。
本当は、笑顔を浮かべる余裕もないはずなのに。
「また来年の冬、ちゃんと私は来るわよ。もちろん、あなたのお友達として」
少しだけ頬を朱に染めながら、レティはチルノの頭を撫でた。
ありがとう、とチルノは微笑む。
「ううん、でも、あたいは今、レティといたいんだ。レティが少しでも長くいれる様に。だからあたいはあいつと戦う。でも、見ててね、レティ。応援しててね、レティ。あたい、頑張るから」
「えぇ。分かったわ。頑張って、チルノ」
にひひ、とチルノはカチカチと震えそうになる歯をみせて笑う。
まったく、酷く愚かな行為だ。
「いいのかい、チルノ。リリーは春に限り、幻想郷最強にも近いよ。妖精種最強の君では――」
僕の言葉を、チルノは手で制した。
そして、空を見上げて、彼女は言う。
「少女には、負けると分かっていても戦わなきゃならない時がある!」
あぁ。
なるほど。
その通り。
その通りだ、チルノ。
もう、僕には、君を応援する権利も無い。
君の身だけを案じていた僕には、もう君を見守る事も出来ない。
君が撃墜されたら、レティが助けてくれるだろう。
君の心まで、ちゃんと理解しているレティが。
僕は、もう、傍観者にすぎない。
語り部は、大人しく幕を引こう。
「じゃ、レティ、霖之助、行ってきます!」
空に、リリーの姿が見えた。
それを確認して、チルノは飛び立つ。
負け戦に、勝ちに行く様に。
彼女は笑って飛び立ち、彼女は笑って見送った。
「それじゃレティ……チルノをよろしく」
「えぇ。お爺ちゃんの役目は終わりね」
僕はニコリと笑って頷いた。
老兵は静かに去るとしよう。
まぁ、僕は兵士になった覚えもないし、戦った記憶もない。
ゆっくり静かに、善行を積みながら、後の余生を楽しむとしよう。
チルノはもう、大丈夫。
さてさて。
僕は、果たして、大丈夫なのかな?
それを考えるだけでも、あとしばらくは生きていられそうだ。
いつものお昼といえば聞こえはいいが、実際には僕は一人で食事をする事が多い。
今日はたまたま輝夜が来ていたので、彼女の言葉に甘えたという訳だ。
そんなところに、来客のベル。
「誰かしら?」
「誰だろうね」
僕と輝夜は、お互いの顔をみて、首を傾げた。
はてさて、今頃に僕を訪ねてくる者なんているのだろうか。
物取りの類でなければ良いのだが。
僕が腰を上げ様とすると、輝夜がすっくと立ち上がって先に行ってしまった。
「やれやれ」
まぁ、先に行かれてしまうと、どうにも立ち上がる気力は削がれてしまう。
しょうがない、とばかりに僕はうどんへと向き直った。
2、3本くらいをずぞぞぞぞっと啜ったところで、輝夜は戻ってきた。
「霖之助さん」
輝夜の言葉にそちらを見ると、氷の妖精が俯いたまま立っていた。
スカートのをギュッと握っており、皺になっている。
顔は俯き加減で、伺う事が出来ない。
それでも、彼女がチルノである事は簡単に分かる。
少しだけヒヤリとした空気が流れてくるしね。
「霖之助……」
少女が呟く言葉は、僕の名前。
少しだけ震えて、泣き出しそうなそんな声。
「おやおや、最強の妖精がどうしたんだい?」
僕の言葉に、チルノは顔をあげた。
すでに目が少しだけ赤い。
どうしたのだろう。
彼女の涙を、僕は初めて見た気がする。
「おいで」
僕が手招きをすると、彼女はゆっくりと僕の元へ来た。
僕はチルノの頭を撫でてやり、そのまま僕の膝へ座らせてやった。
少しだけヒヤリとした冷気を感じるが、これ位はどうという事はない。
「あたい、弱くなったよ……」
「泣いたからかい?」
こくん、とチルノは頷く。
泣かない者は強い者。
なるほど、妖精らしい理論だ。
「そんな事はないね」
僕はニヤリと笑い、彼女の頭をポンポンと優しく叩いた。
「弱い奴は泣くのを恥ずかしいと思っている。強い奴は泣けないのが悔しいと思っている。チルノ、君はようやく涙を見せた。君はやっぱり最強だよ」
弱い者は涙を見せる。
それが恥だと思っている。
強い者は弱さを見せられない。
それが苦しみでもある。
だから、涙を流さないと決めた者が、涙を流したのだ。
立派な事だと、僕は思うんだけれど。
さてさて、これで機嫌を直してくれたらいいのだけれど。
そうはいかないみたいだ。
「はい、おろし醤油うどん」
と、ここで輝夜が新しい器にチルノの分のうどんを作ってきてくれた。
相変わらず仕事が速い。
温かいうどんじゃなくて、冷たいうどんだ。
大根おろしが乗せてあって、さっぱりとした印象を受ける。
「うん」
チルノはチルチルとうどんを1本づつ啜っていく。
僕と輝夜はそれを見てから、食事を再開させた。
まぁ、僕はチルノの頭に汁を零さない様にするのが、大変だったけど。
~☆~
「それで、どうしたんだい?」
春一番が吹き、もうすぐ春になるだろうと思われる空。
それを縁側で眺めながら、僕、チルノ、輝夜はまるで親子の様に座っている。
僕と輝夜の間に、しょんぼりと落ち込んだチルノ。
さてさて、僕達親子に少女の悩みを解決する事が出来るだろうか。
無駄な経験が多い僕と、無駄に経験が多い輝夜。
な行の1つ目と2つ目で、まるで意味が変わってくるな。
なんて事を思っていると、チルノがポツリポツリと喋り始めた。
「レティがね……友達になってくれない……」
チルノは少しづつ、ゆっくりと語ってくれた。
チルノの言い分は、こうだ。
いつも一人でいるレティ・ホワイトロックは可哀想。
だから、友達になろうとした。
かつて自分が一人きりだった事。
それは、とてもとても寂しいという事。
そう、だから、友達になろうと声をかけた。
でも。
でも、レティは拒絶した。
友人になろうとしたチルノを拒絶した。
そして、拒絶された少女は、涙を流すしかなかった。
「そう。それは寂しいわね」
輝夜はチルノの頭をなでる。
以前の彼女なら、輝夜の手を振り払っただろう。
甘んじて慰めを受け入れる。
やはりチルノは強くなったな。
「だから、霖之助に聞きに来た。どうすればいい? どうすればレティと友達になれる?」
ふむ、と僕は腕を組んだ。
友達になる方法か。
本来は、友達になるのなんて、簡単なはずだ。
一言、声をかければ良い。
知り合いになれば良い。
一緒に遊べば良い。
友達とは、所詮は、その程度だ。
難しい話ではない。
もし、恋仲になりたいというのなら、それは難しい話だけれど。
「一度拒絶された相手と友達になる方法か」
それは、まるで恋仲になる位の難易度だ。
ふ~む……難しいな。
「レティは何て言ったの?」
僕が悩んでいるのを見かねてか、輝夜がチルノに質問する。
「……友達なんかいらないって。私は一人がいいんだって言ってた……」
なるほどね、と輝夜は呟く。
「雪女らしい言葉ね」
「雪女?」
「えぇ。レティ・ホワイトロックは雪女っていう種族よ」
雪女。
一番有名な話が、小泉八雲という人物が描いた話だろうか。
彼は元々、パトリック・ラフカディオ・ハーンという名前だったそうだが、小泉八雲に改名したそうだ。
そんな小泉八雲の描いた雪女は、結構な面食いだ。
猟師の2人が山小屋で寒さをしのいでいると、雪女が現れる。
老人は殺してしまうが、若い男は見逃した。
その代わり、この事を誰かに言うと、お前を殺すという呪いを残して、彼女は姿を消す。
数年後、この青年はほっそりとした女性を妻にする。
たくさんの子供に恵まれ、幸せだった青年だが、ふと雪女の事を妻に言ってしまう。
すると、妻は自分が雪女だと告げた。
ただし、雪女は青年を殺せなかった。
自分達の子供を思うと、夫を殺す事が出来なかったのだ。
そして、雪女は再び姿を消す。
そんな物語だが、これは雪女の一目惚れなんだろうな、と思う。
青年と恋仲になりたいが為に、呪いを植えつけた。
自分を一生を忘れない様に。
そして、青年が口を滑らしたが為に、呪いは実行しなければならない。
だが、それは出来ない。
子供たちを思うと、殺してしまうという呪いなど、とても実行できるものではない。
だからこそ、雪女は消えてしまった。
この雪女の物語は恐ろしさを語った話ではなく、悲恋を描いているのだ。
「雪女っていうのはね、元は月世界のお姫様で、退屈な日常から逃げる為に雪と共に地上に降りてきたの。でも、月に帰れなくなったから、雪の降る月夜に現れるそうよ」
「へ~、レティはお姫様だったのか」
僕がそんな事を思っていると、輝夜は一般的ではない知識を披露している。
あれは極一部の地域の伝説だ。
まぁ、輝夜が語るには一番適した逸話かもしれない。
もしかしたら、事実の可能性もあるのだけれどね。
何にしても、全ての雪女に共通するのは『儚さ』だ。
物悲しさ、そんな物が漂ってくる話が多い。
それは、レティにも通じるものがあるのだろうか。
雪女は幸せじゃない。
そんな事は、あるのだろうか。
「う~ん、チルノとレティ……まるで男女の恋みたいね……あ~、それじゃ夜這いっていうのはどうかしら?」
「夜這いって……えっちな事か?」
なんという暴論を吐くんだ、このお姫様は……
と、思ったが、輝夜のいう夜這いとは、本来の意味の夜這いだ。
現在は、夜這いと言えばチルノの言った通りの強姦的な意味になる。
しかし輝夜の生きて来た経験からは、夜這いの意味は元来のものとなる。
「違う違う。元々夜這いっていうのは、『呼ばい』なのよ」
輝夜は説明していく。
ある時代、男女が結婚する為のプロセスは、まず歌から始まる。
男性が歌を送り、女性がその返事を歌で返す。
それを何度か繰り返した後、男性は夜に女性の元へと訪れるのだ。
最初は断られるが、そこで無理に入ろうとせず大人しく帰るのがマナー。
そして交際が始まり、結婚へと繋がる訳である。
当時の平均的な結婚年齢は男子が17歳、女子が13歳と言われているが、もっと低年齢化が進み、ほとんど子供の夫婦がいたそうだ。
まぁ、想像するに、何とも微笑ましい感じがするね。
「つまり、手紙を出したらどうかしら」
「おぉ、手紙か」
「なるほど、それはいい」
僕は早速とばかりに、便箋とペンを持ってきた。
輝夜はお茶と煎餅を用意している。
僕と輝夜は熱いお茶を、チルノには冷たいお茶を用意してくれた。
「う~ん、何て書けばいいかな」
チルノは紙を前にして、僕と同じ様に腕を組んで考える。
「単純な方がいい。そうだな……『ともだちになってください』でいいんじゃないかな」
僕の言葉にチルノは、分かった、と答えてペンを取った。
緊張の為か、少しだけ震えた文字で完成した手紙。
僕は封筒も用意してやり、便箋を折り畳んで封をした。
よし、とばかりにチルノはお茶を飲み干す。
そして手紙を持って早速とばかりに、縁側から飛び立とうとした。
「あ、待って待って」
「お?」
輝夜はチルノを呼び止め、リボンとタイをきちんと整えてやった。
それから、チルノの口元に人差し指をあてて、くいっと上にあげてやる。
「いぃ、笑顔よ笑顔。それから、手紙はその場で破られる可能性もあるから。読んでもらえたら、チルノ、あなたの勝ちよ。レティは『呼ばい』に答えた。つまり『読ばい』よ。分かった?」
「うん。分かった」
チルノは神妙に頷く。
それから、ありがとう、と輝夜と僕に言ってから飛び去った。
「はぁ~、それにしても妖精相手に夜這い論とはね」
「あら、誰かさんが全く行動を起こして下さらないんだもの。待ちくたびれた思いを、チルノに託しただけよ」
「はっはっは、それはすまなかったね。どれ、今からでも歌でも送ろうか」
「もう遅いわよ」
ドスっと輝夜の肘が僕のわき腹に刺さった。
あいたたた、と大げさに痛がって見せる。
ツンと済ました輝夜だが、慌てて僕に駆け寄ってくれた。
うん、まぁ、これくらいが丁度いいかな。
『抱き合う 向かいし僕と 彼女には 恋仲よりも 親子の如く』
いだきあう、と、痛きあうを掛けて、向かいし、と、昔、を掛けてみたのだが……
そんなに上手くないな。
「はぁ、やっぱり年は取りたくない」
~☆~
次の日。
僕はいつも通り、ストーブの仄かな温もりを楽しんでいた。
お気に入りのロッキングチェアーを揺らしながらの読書。
まだまだ春が遠い昨今は、これが僕の生活スタイルの大半を占めている。
静かな読書は、僕が一番好きな時間だ。
ただ、それも賑やかな時間があればこそ。
たった一人になれる読書という行為は、誰かと一緒にいる事があるからこそ、価値が出てくる。
体を揺すられながら読む文庫本は、それなりに面白く、黙々と読み進めていた。
丁度、章の移り変わりになったところで、ドアベルが来客を告げる。
また藤原妹紅でもやって来たのか、と思ったが……
炎を纏う彼女とは正反対の、チルノだった。
「あぁ、そうか……チルノ、手紙はどうだった?」
僕の言葉に、チルノは、
「受け取ってもらえたよ」
と、答えて僕の膝の上へ乗ってきた。
やれやれ、読書はお終いだな。
チルノは、まるで子供みたいだ。
いつかの魔法使いの少女を思い出す。
僕は優しく、ポンポンと彼女の頭を叩く。
「破られるかと思ったけど、受け取ってもらえた。中身は読んでもらったか分からないけれど」
「ふむ……本当に嫌っていたら、その場で捨てるか、破るか、だからね。案外、レティは君を気に入ってるのかもしれないよ」
どうだろう、なんてチルノは腕を組んだ。
まったく、微笑ましい限りだ。
「それで、今日はどういう理由で来たんだい?」
「あ、そうだった。えっとね、レティが月のお姫様なら、輝夜も月のお姫様でしょ。だったら、私は霖之助と同じだから、どうしたんだろうと思って」
少し難解な氷精の言葉。
噛み砕くと、こうだ。
レティが月のお姫様というのなら、輝夜と同じという事になる。
だったら、輝夜と仲の良い僕とチルノの立場は同じだから、僕が輝夜と仲良くなった切欠を聞きたい、という訳だ。
さてさて、どういう理由で僕は輝夜と知り合ったのだろうか。
「そうだね~。僕と輝夜はずっと昔に知り合ったんだけど、どういう切欠かは忘れたな~。ん~、もしかすると、輝夜がお客さんでやって来たのかもしれない」
うん、そうだった気がする。
僕がまだお店を、香霖堂を営んでいる頃の話だ。
優雅で豪奢な、いつまで経っても変わらない彼女を、僕は恐らく、覚えている。
「ふ~ん。霖之助は輝夜が好きなのか?」
「好きか、嫌いか。それで答えると、好きだね」
「おぉ~。結婚する?」
「残念ながら、彼女と結婚しようとすると、とんでもない物を要求されるんだ」
「とんでもない物?」
うん、と僕は頷く。
「宝物さ。幻想郷には存在しない、いや、外の世界にも存在しない凄い宝物。それを持ってきたら、輝夜と結婚できるよ」
「霖之助は探さなかったの、宝物」
宝物か。
果たして僕は……探さなかった、のかな~。
もう記憶が曖昧となっている。
付き合いが長いと、人と人との出会いなど希薄になってしまうのだろうか。
もっとも、僕の半分は妖怪だし、彼女は宇宙人だ。
一般的な事が全く当てはまらないのかもしれない。
「探さなかったのかな。というより、僕は意気地なしだったのかもしれない。チルノみたいに勇気がなかったんだ」
まぁ、蓬莱山輝夜を嫁に貰うには、まだまだいっぱいの勇気が必要だ。
覚悟とも言い換えれる。
「そうなの?」
「あぁ。だから僕はいつまで経っても、こうやって本を読んでいる」
そうか、とチルノは首を傾げながらも頷いた。
「そういうチルノはどうだい? レティ以外で好きな子はいるかい?」
「大妖精の大ちゃん! あと、サニーとルナとスターも好きだよ!」
「誰かと結婚したいかい?」
「ん~、ん? ん~……霖之助、結婚って何だ?」
「うん、何だろうね。実は僕も結婚した事ないから、良く分からないんだ」
ほんと、結婚って何だろうな。
新しく家族を作ること?
愛の最終段階?
理論は知っている。
でも、事実は知らない。
「そうか。霖之助でも知らない事があるんだね」
「あぁ。僕は以外と何にも知らないんだよ。だから一生懸命考えるんだ。そうすると見えてくる物がある。だから、チルノ。君も考えてみればいい。いずれ、君は異変の中心になれるかもしれないよ?」
「え~。レミリアにも勝てなかったのに?」
「あはは。また協力してやるさ」
エクストラボスが僕だったら、博麗の巫女も驚くに違いない。
歴史上最弱になってしまうのは、何だか申し訳ない気がするけど。
さてさて。
「ところで、チルノ。レティの所に行かなくてもいいのかい?」
「うん、でもドキドキしてて」
ほら、とチルノが僕の手を取り、胸に当てさせる。
妖精の小さな鼓動は、言葉通り早かった。
なるほど、立派に緊張しているらしい。
少女も二の足を踏む、という事か。
「なに、友達なんてのは、成ってから気づくものさ。いつも通りの君でいい。だから、恐れずに話しかければいい。君は、チルノは、最強の妖精なんだろ?」
くしゃり、とチルノの髪をなでてやる。
僕の言葉に、勇気を持ってくれたのだろう。
チルノは笑顔を浮かべた。
そして、
「うん!」
と、力強く頷く。
それから、ドアベルを鳴らして駆けて行った。
まったく……いつまで経っても、彼女は元気だ。
それも妖精の特権だろうか。
いつまでも変わらず、いつまでも無邪気で、いつまでも存在する。
その生涯を終えてもまた元の存在となる妖精。
羨ましくもあり、怖くもある。
「下手をすれば、永遠の地獄だ」
もっとも、陽気で暢気な妖精には、地獄は似合わないのだけれどね。
~☆~
さて、僕は今、家の外にいる。
吹きすさぶ風は、春一番にも似た強さを持っていた。
いよいよ冷たい冬が終わろうとしている。
いよいよ温かい春が来ようとしている。
春は喜ばしいものだ。
春は歓迎するべきだ。
春は生き物を活性させる。
春は全ての始まりを表している。
「さてさて、どういう心変わりをしたんだい?」
僕は隣に立つ雪女に声をかけた。
腕を組み、ただただ空を見上げるレティ・ホワイトロックは少しだけ笑う。
春を憎む者。
春を恐れる者。
春を歓迎しない者。
彼女はいつだって、春の訪れを疎んでいるのだろうか。
「心変わり、というよりかは、心が折れた、ね」
レティはそう答える。
なるほど。
チルノに根負けした訳か。
いや、もしかしたら、やはり寂しかったのかもしれないな。
雪女は儚い存在。
心は、それほど強くないのかも知れない。
妖精という陽気で暢気な存在は正反対になる。
しかし、チルノは妖精の中でも異端だ。
そんな彼女に何か思う事があったのかもしれない。
それは、僕の、勝手な想像だけれど。
本当は殴り合いのケンカをしたのかもしれない。
本当は、最初から仲が良かったのかもしれない。
本当は、愛し合ってるのかもしれない。
他人の気持ちなど、欠片も分からない僕には、想像するしかないのだけれど。
「何にしても、仲が良いのは、そのまま良い事だ」
僕の言葉に、レティはツンと済まして再び上空を見つめる。
穏やかな風は、いよいよ持って春を予感させる。
雪女の怨敵だろう。
リリーホワイト。
彼女もまた、陽気で暢気な妖精だ。
あぁ、もしかすると……それでチルノの事も嫌っていたのかもしれない。
坊主憎けりゃ袈裟まで。
リリー憎けりゃチルノまで。
「本当に行くの?」
レティが声をかける。
彼女の隣には、準備運動をしているチルノがいた。
屈伸したり、腕を伸ばしたり、体を捻ったり。
少しだけ震える足を誤魔化しながら、パンパンと頬を叩いて気合いを入れている。
「あったりまえさ! せっかくレティと友達になったんだもん、1分1秒だって長く一緒にいるんだ!」
チルノは、啖呵を切る。
見栄を……張る。
本当は逃げ出したいはずなのに。
本当は怖いはずなのに。
本当は、笑顔を浮かべる余裕もないはずなのに。
「また来年の冬、ちゃんと私は来るわよ。もちろん、あなたのお友達として」
少しだけ頬を朱に染めながら、レティはチルノの頭を撫でた。
ありがとう、とチルノは微笑む。
「ううん、でも、あたいは今、レティといたいんだ。レティが少しでも長くいれる様に。だからあたいはあいつと戦う。でも、見ててね、レティ。応援しててね、レティ。あたい、頑張るから」
「えぇ。分かったわ。頑張って、チルノ」
にひひ、とチルノはカチカチと震えそうになる歯をみせて笑う。
まったく、酷く愚かな行為だ。
「いいのかい、チルノ。リリーは春に限り、幻想郷最強にも近いよ。妖精種最強の君では――」
僕の言葉を、チルノは手で制した。
そして、空を見上げて、彼女は言う。
「少女には、負けると分かっていても戦わなきゃならない時がある!」
あぁ。
なるほど。
その通り。
その通りだ、チルノ。
もう、僕には、君を応援する権利も無い。
君の身だけを案じていた僕には、もう君を見守る事も出来ない。
君が撃墜されたら、レティが助けてくれるだろう。
君の心まで、ちゃんと理解しているレティが。
僕は、もう、傍観者にすぎない。
語り部は、大人しく幕を引こう。
「じゃ、レティ、霖之助、行ってきます!」
空に、リリーの姿が見えた。
それを確認して、チルノは飛び立つ。
負け戦に、勝ちに行く様に。
彼女は笑って飛び立ち、彼女は笑って見送った。
「それじゃレティ……チルノをよろしく」
「えぇ。お爺ちゃんの役目は終わりね」
僕はニコリと笑って頷いた。
老兵は静かに去るとしよう。
まぁ、僕は兵士になった覚えもないし、戦った記憶もない。
ゆっくり静かに、善行を積みながら、後の余生を楽しむとしよう。
チルノはもう、大丈夫。
さてさて。
僕は、果たして、大丈夫なのかな?
それを考えるだけでも、あとしばらくは生きていられそうだ。
いいお話をありがとうございます
『雪女』の月姫説は始めて知ったなぁ。すげぇ。
春の日差しのような優しい物語に、最近強張っていた肩の力が少し抜けた気がした。
イイハナシダナー
シリーズ化しなくとも時々でいいから書いていただけるとうれしいです。
雪女や夜這いなどの対比させての物語の描写が良かったです
香霖堂に春が来ないで思ったんですが、霖之助がフラグクラッシャーなのもまさか……。