「紫様、紫様」
何者かがゆさゆさと紫の体を揺り起す。
もう少し寝ていたい気分の紫はゴロリと体の向きを変え、起きる事への拒否を示す。
「紫様、起きて下さい。紫様」
「やだ。あと8時間~」
「そんなに待ったら食事が冷めてしまいますよぅ」
その今にも泣きそうな声に紫はうっすらと目を開き、自分を起こさんとする者へと視線を向ける。
「紫様~、起きて下さらないと私が藍様に叱られてしまいますよぅ」
「……橙?」
紫は疑問に思った。何故橙が此処に居て、自分を起こそうとしているのだろうか。
それは本来藍の役目である。式の式であり八雲の名を持たない橙は遠慮してかあまりこの家に入ろうとはしない。
橙は普段妖怪の山で寝泊まりしており、紫の家で寝泊まりする様な事は滅多に無かった。
「何故貴方が此処に居るの? 誰が主人の寝室に入って良いと言ったの?」
紫はまだ眠い目を擦りながら橙に厳しい視線を送る。
「紫様が昨日仰いました」
「……あら、そうだったかしら?」
紫は大きな欠伸をし、「う~ん」と体を伸ばした。
「藍は?」
「もうお出掛けになりました」
「そう」
紫はベッドから降りると、纏っていた黒いネグリジェを床に脱ぎ捨てる。
露わになった主人の美しい肢体を見て橙は「あわわ」と両手で目を覆う。
「何をしているの? 着替えを持って来てちょうだい」
「は、はい!」
目覚めた主人の着替えを用意し、髪を梳くのもいつもは藍の役目だった。だが今日は藍は居ない。紫が命じた仕事の為に夜まで家に戻らない予定だ。
そこで藍は自分の代わりに紫の身の回りの世話を橙に命じたのだ。
一日二日藍が居ないからと言って紫は然程困りはしない。今回は紫の為と言うより橙の勉強の為、要するに藍の自己満足の為である。
特に断る理由も無く、たまには式の我儘くらい聞いてやろうという紫の気まぐれでそれを許可したのだった。
「い、痛ませちゃダメ。丁寧に、丁寧に」
「……何?」
櫛を持った橙の手がプルプルと震える。主人の美しい髪を決して痛ませてはならないと藍からきつく言われていたのだ。緊張で橙の手が震える。
「し、失礼します!」
橙は紫の髪に櫛を入れた。だが緊張の所為か力んでしまい、絡んだ髪の毛をグッと引っ張ってしまった。
髪の毛に引っ張られた紫の首が「グキッ」と後ろに逸れた。更に櫛に絡まった髪の毛が何本か抜けてしまっていた。
「う、うにゃーーーー!?」
橙は櫛を放り投げ、ベッドの下に素早く潜り込んだ。そこで「ごめんにゃさい! ごめんにゃさい!」と繰り返し叫んでいる。
「……か、髪の毛は自分でやるからいいわ」
ベッドの下に潜ったまま涙目で震える式の式を見て、紫は少し後悔し溜息を吐いた。
紫は朝食を採りに食堂へ向かう。朝食と言っても既に正午を回っている。世間一般では昼食の時間である。
テーブルの上にはパンやシチューが注がれた皿が並べられていた。
「これは橙が作ったの?」
「いいえ。藍様が下拵えしてくれたんです。温め直しただけなのでお口に合わないかもしれませんけど……」
「あーあ、和食が良かったんだけどなぁ~」
「え!?」
「……冗談よ」
藍は橙に昼食と夕食を用意させるのは難しいと判断し、温め直すだけで済む鍋料理を用意して行ったのだろう。パンがあればご飯を炊く必要も無い。
紫が駄々を捏ねて料理の出来ない橙に何か作らせても悲惨な結果になるだけである。
紫は椅子に座り「いただきま~す」と言って手を合わせた。その様子を橙は立ったまま見つめている。
「どうしたの? 自分の分は?」
「え? でも、藍様が先に食べたり紫様と一緒に食べちゃいけないって……」
どうやら一通りの主人に対する作法は教え込まれているらしい。
自分の式が主人に無礼を働いたとあったら藍も橙も只では済まない。藍はその事を充分に認識しているのであろう。同時に多少の粗相なら紫は目を瞑ると言う事も認識しているからこそ、藍は橙を置いていったのだ。
「いいから食べなさい。お腹空いてないの?」
タイミング良く「グ~」と橙の腹の虫が鳴く。
「あう。えへへ……」
橙は照れ臭そうに笑うと自分の分の食事を用意し、テーブルに並べた。紫はそれを待たずに既に食べ始めている。
椅子に座ると「いただきます」と言ってスプーンを上から握る様に持ち、猫背でシチューを掻きこんでいる。かなり行儀が悪かった。
「……橙」
「ふぁい?」
口の周りをシチューでベタベタにしながら橙は紫の方に顔を向ける。
「何て言うか、あまりはっきりとは言いたくないんだけど、はっきり言ってお行儀が悪いわ」
「ご、ごめんなさい」
「藍はどんな躾をしているのかしら?」
溜息を吐く紫に橙は慌てて藍を庇う様に声を大きくする。
「ら、藍様は悪くないんです! わた、私が悪いんです! お箸はちゃんと使えますよ!?」
そんな橙の素振りから藍が愛されているという事が良く伝わって来る。
「わかったわかった。いいから落ち付いて食べなさい」
夢中で食事をする橙の姿に紫は苦笑する。
「成る程ね。これだけ可愛ければそりゃ藍も甘やかすわよね」
「あ、甘やかされてなんかないです! しっかり勉強していつか藍様のお役に立つんです!」
「はいはい。貴方が藍が大好きな事は良く判ったわ」
普段藍は橙の頭を良く撫でている。それを思い出し、紫は橙の頭へと手を伸ばした。
しかしそれを見た橙はビクッと体を震わせ、身を縮めてしまった。紫は思わずムッとなった。
「何よ、私には頭も撫でさせてくれないわけ?」
「だ、だって、紫様のお力なら私なんか指一本で消し飛んじゃうって藍様が……」
橙はまた涙目になりながらあわあわとしている。
「別に消し飛ばしゃしないわよ……」
あの式神は自分の式に主人の事をどう吹き込んでいるのやら。紫はそう思い溜息を吐いた。そして橙の頭を強引にグリグリと撫で回した。
「あ、そうだ」
食事を終えると何かを大切な事を思い出したのか、橙は紫に向き直った。
「んー?」
「紫様、ありがとうございます」
急にお礼を言われた紫は不思議そうに橙の顔を見つめる。
「ん、何が?」
「私、ずっと紫様にお礼が言いたかったんです。ありがとうございます」
「待って待って。橙、一体何の話? 私はお礼を言われる様な事は貴方にしてないわよ?」
お礼を述べる橙の顔は至って真面目だった。紫は少し困った様に微笑む。
「えっと、紫様が藍様を式にしなければ私はきっと藍様に逢えなかったと思うんです」
橙は一所懸命に言葉を選んでその想いを伝えようとしていた。紫は何も言わずに橙が言葉を紡ぐのを待った。
「私、藍様に出逢えてすごく良かったと思ってます。私が藍様に逢えたのは紫様のお陰なんです。だから……紫様、ありがとうございます」
そう言うと橙はとても幸せそうに微笑んだ。
「……橙」
紫は橙の頭を撫でようと手を伸ばす。今度は橙もそれを受け入れる。そして優しく耳の生えたその頭を撫でた。
「藍もきっと橙と逢えて良かったと思ってるわよ。きっと貴方の事が世界で一番大切なんだと思うわ」
「え? 違いますよ。私は二番目です」
橙はキョトンとした顔で紫の顔を見つめている。
「あら、そうなの? じゃあ一番は誰なのかしら?」
「何言ってるんですか? 紫様に決まってるじゃないですか!」
「私……?」
意外な答えが橙から帰って来た。藍の橙への溺愛ぶりからは想像も付かない答えだった。
「どうして?」
「当たり前じゃないですか。藍様は紫様の式なんですから。主人が一番なのは当然ですよ」
「でも……」
紫は戸惑った。式である藍が自分の意思に従うのは当然の事だ。だがこれまで理不尽な事も言って来たし、気に入らない事があれば叩きもした。
「えと、私藍様に以前聞いたんです。藍様は私の事一番好きですかって。でもその時藍様は首を横に振りました」
橙はその時の事を思い出しながら、少し寂しそうに笑った。
「自分は紫様の式だから何よりも紫様を優先しないといけないって。だから橙は二番目だけどいいかって。ちょっぴり残念だったけど、私はそれでもすっごく嬉しかったです」
「…………」
「私もそうですよ。私の一番大切な方は藍様です! ……あ、でもでも! 紫様の事も同じくらい大切です!!」
「馬鹿ね……」
紫はぼそりと呟く。
「ご、ごめんなさい……」
紫が二番目だと言った事で叱られたと思ったのか、気落ちした橙の耳がクテッと垂れた。
「ほんと馬鹿ね、あの狐は。私は二番目でもそれ以下でも構わないのに……」
「ら、藍様は馬鹿じゃないですよぅ」
「ふふ、そうね。貴方の一番大切な人を馬鹿にしちゃ悪いわね」
紫はもう一度橙の頭を優しく撫でる。
「あ、紫様。私そろそろ洗濯とかお掃除とかやらないと!」
橙は壁に掛けられた時計を見て慌てて立ち上がる。
「そんなもん後でいいわよ。それより」
「それより?」
「今日はとっても天気が良いから縁側でお昼寝しましょう。日溜りはとてもあったかいわよ」
紫はパチリと橙にウインクをして見せた。
橙は一瞬戸惑った様な表情を見せたが、直ぐに満面の笑みを見せ頷いた。
太陽は西の空に沈み始め、もうすぐ幻想郷に夜が訪れようとしていた。
何時間眠っていたのだろう。紫はゆっくりと目を開く。
「紫様、お目覚めでしょうか?」
「……藍?」
目を開けた紫の目に藍の姿が映る。いつの間にか帰って来ていたらしい。余程橙の事が心配だったのだろうか、予定よりは大分早い帰宅だった。
「あんまり気持ち良さそうに眠っていらしたので、起こすに起こせませんでした」
「ああ、すっかり眠ってしまったみたいね」
「申し訳ありません紫様。やはり橙に家の仕事を任せるのは早かったみたいですね」
帰宅した藍は先ず昼食の後片付けもされていないテーブルを見て落胆した。おまけに掃除も洗濯もしてある様子がまるでなかった。
「それは橙の所為じゃ無いわ。私が悪いのよ。だから叱らないであげてね」
「はあ」
ゆっくりと上体を起こし、紫は眼を擦りながら隣で寝ている橙へと視線を向ける。藍の膝枕の上で幸せそうに眠る橙の顔を見て、自然と紫の顔が綻ぶ。
「ねえ、藍」
「はい、なんでしょう?」
紫は藍の瞳をジッと見つめて、呟いた。
「私は二番目でもいいから。橙を一番にしてあげなさい」
藍は主人の言葉の意味が理解出来なかったのか、キョトンとした顔をしている。
「はあ、お風呂の順番でしょうか? しかし橙の後だと(暴れるので)湯船のお湯がやたら減ってたり尻尾の毛が浮いてたりしますが」
紫の思考は常に藍の予想の遥か斜め上を行き過ぎている。藍が紫の真意を測れないのは仕方ない事だった。
そんな藍の答えに紫は妙案を得たとばかりに両手を「パンッ」と叩いた。
「そうだわ、今日は皆でお風呂に入りましょう。背中流しっこしましょうね」
「え、えぇ!? 急にどうされたのですか? 今日の紫様少し、いえ、かなり変ですよ?」
紫はスッと立ち上がると足元の空間に境目を作りだし、そこに体を沈めて行く。
「藍」
「はい」
「ありがとうね」
「……え?」
何に対しての礼なのかは藍には判らなかった。答えを聞く前に紫の体は完全に境界の向こうに消えてしまっていた。
藍は紫の消えた空間を見つめながら思った。それが自分の働きに対する礼であるならば、やはり今日の主人は少し変であると。
(だって紫様。私が紫様の為に働くのは当然の事です。貴方は私に礼を言う必要など全くないのです。何故なら……)
藍は自分の膝の上で眠る式の頭を優しく撫でる。
「感謝をしているのは、私の方なのですから」
紫と出会った事、紫の式になった事、そして橙と出会えた事。藍は橙と同様その全てに感謝していた。それこそどんなにお礼の言葉を述べても足りないくらいに。
「だから紫様。やっぱり紫様は私の一番なのですよ。勿論橙も何より大切です。一番が二人居るのはいけない事でしょうか?」
「……いけなくないと思います」
いつの間に起きていたのか、藍の膝の上で橙が声を漏らす。
「橙?」
「一番が二人居てもいいと思います! だって、私も藍様と紫様、お二人の事が世界で一番好きですから……」
上目遣いで真っ直ぐと藍を見つめる橙の瞳には強い光が宿っていた。例え何があっても二人の主人を守るという決意の光。
「──ッ!」
藍は思わず橙の体を強く抱き締めた。
「ら、藍様、苦しいです!」
「そう、だな。一番が二人居てもいいよな。きっと紫様も私と橙の事を同じくらい愛してくれているよ」
「本当ですか?」
「ああ」
さっき紫が姿を隠したのは単なる照れ隠しなのだろうか。藍は主人の照れた表情を想像し、ぷっと吹き出した。
「藍様、どうしたんですか?」
「なんでもないよ。それよりお風呂を沸かすのを手伝ってくれないか? 今日は三人で背中の流しっこだ」
「はい!」
紫は屋根の上に座り、昇り始めた月を眺めていた。
式は当然主人を護るものである。時には自分の身を犠牲にしてでも。
紫が礼を言ったのは式である藍にではない。自分を支えてくれている“家族”に対するものであった。
(ならば)
風呂の窯に火が入ったのか、煙突からもくもくと煙が上がり始める。
(一家の長として、家族を護るのもまた当然の事)
屋根から空中に一歩を踏み出し、傘を広げながらゆるゆると下降しる。
「そう、例え何があろうとも」
主人の姿を求め外に出て来た橙は、空から降りて来る紫の姿を認めると笑顔で大きく手を振った。
「紫様ー、お風呂沸きましたよー! 一緒の入りましょー!」
(貴方達が私を護ると言うならば、私も護ってあげるわ)
藍も橙の傍らに姿を現し、その頭を優しく撫でている。紫は二人の前にふわりと降り立つ。
「私達は、家族ですものね」
紫のいつもの不気味な笑顔とは違う柔らかい微笑みに、藍と橙も心から幸せそうな笑みを紫に返した。
「さ、私が橙の背中を流してあげるわ」
「では紫様のお背中は私が」
「それだと藍様のお背中が流せません!」
「藍はいいのよ。尻尾がスポンジみたいだし自分で洗えるでしょ」
「私だけひどいですよ紫様……」
これまで共に過ごして来た事を、これからも共に過ごせる事を、三人は感謝の言葉の代わりに笑顔で伝え合った。日溜りよりも暖かな、その家族の絆の中で。
それにしても背中の流し合い………見たい(笑)
理屈じゃない、強い絆で結ばれるのですね。
……ちょっと実家に帰ってみます。
正直、藍のセリフ中の“(暴れるので)”が気になりました。
すてきな話をありがとう。
家族の演出さが素晴らしかったです