「少しいいかしら。私と、お話しましょう?」
ある宴会の夜、水蜜を呼び止める声。
自分達のところの酒が切れたので、追加を取りに来ていた水蜜。
酒瓶を両手いっぱいに抱えたままで、声のした方向に振り返る。
そこには着物を着た一人の亡霊が、朗らかな微笑みを湛えて手招きをしていた。
「あの、すみません。戻らなくっちゃいけないので」
あまりのんびりと話をしている訳にもいかない、みんな次のお酒を待っている。
そう思って誘いを断ろうとしたが、相手の亡霊は笑顔のままで隣の人物へ話しかけた。
「妖夢、あのお酒を皆様のところへ。そのままそっちでお酌してらっしゃい」
「あ、はい。わかりました」
妖夢と呼ばれた少女は何の迷いもなく頷くと、すっくと立ち上がる。
そして水蜜の持っていた酒瓶をひょいひょいと取り上げてしまった。
「あ、あのぅ……妖夢、さん?」
「少しでいいので、お話してあげてください。お願いしますね」
困惑する水蜜に一礼して、妖夢はさっさと歩いていってしまった。
その後姿を見送ってから、亡霊は改めて水蜜に向かい手招きをする。
「さぁ、座って座って。大丈夫よ、皆には妖夢がちゃんと伝えてくれるわ」
「はぁ……そうですか、分かりました」
水蜜は突然のことに終始戸惑いながらも、誘いを受けることにする。
亡霊の隣に座って杯を受け取り、そして酒をついで貰って。
いただきます、と一口呑むと、ふんわりとした桜の香りが広がった気がした。
「自己紹介が遅れたわね。私は西行寺 幽々子よ」
「村紗 水蜜です。みんなからはムラサって呼ばれてます」
「よろしくね、水蜜ちゃん」
「はい、こちらこそ……って。そう呼びます?」
水蜜は少しだけ意外そうに、そう聞き返す。
大体は『ムラサ』と呼ばれるものだから、自然とそう反応してしまったのだろう。
対する幽々子もまた意外そうな表情になって、更に聞き返した。
「みーちゃんの方が良かった?」
初対面でいきなりそんな愛称で呼ばれると、流石にこそばゆい。
苦笑を浮かべながら、水蜜はやんわりとその提案を却下する。
「なんか恥ずかしいので、水蜜でいいです」
「そう、残念ね」
言葉どおり、かなり残念そうにする幽々子。
水蜜がどう反応すべきか迷っていると、突然顔を上げ、今度はこんなことを言い出す。
「そうそう。私のことはゆゆちゃんって呼んで頂戴」
本気なのか冗談なのか。その笑顔からは推し量る事が出来ない。
どう呼ぶべきか迷うまでもなく、水蜜はすぐにこう返事をした。
「ご遠慮しますわ、幽々子さん」
「む、水蜜ちゃんのいけずー」
そんな事を言い合いながら、互いの杯に酒をつぐ。
そして、今度は二人で乾杯を交わした。
§
しばらくの間、二人は他愛ない話を交わして笑い合っていた。
和やかな空気の中、お酒を呑み、横を通り過ぎる知り合いにちょっかいをかける。
そしてまた笑い合い、談笑は尽きる事無く続いていく。
お互いに、この世界に存在するようになってから長い時間を過ごした身。
初対面ともなれば、その全てを語りつくすまでに何度の宴を経ることになるだろう。
それぞれの能力について話してみたり、対して思ったことを言ってみたり。
やがて、互いの住まいや仲間達の話題へと移っていった時。
幽々子はふと空を見上げながら、呟くようにこう尋ねた。
「水蜜ちゃんは知っている? ……白玉楼」
「噂程度には。幽々子さんが管理されているのでしょう?」
現状の幻想郷情勢について勉強するために白蓮が集めてきた史料には、
水蜜も一通り目を通している。その内容を思い出しながら、水蜜は頷いた。
「そう、冥界は白玉楼。幽霊、亡霊が輪廻を待つ場所よ」
先ほどまでずっと感じていた、幽々子の朗らかさが消えている。
変わりつつある雰囲気を察知し、水蜜は居住まいを正した。
「……これが本題、ですか」
「そうよ。私は冥界の者として、確認しておかなければならない」
水蜜を呼び止め、会話に引きずり込んだ幽々子の本当の目的。
それは、水蜜がどんな存在なのかを見極めること。
幽々子は両手で水蜜の手を包み込み、きゅっと力を込める。
いきなり手を握られて驚いたものの、水蜜も特に抵抗はしない。
「柔らかい手ね、水蜜ちゃん」
「幽々子さんも。それに、温かいです」
「……そう、ね」
話すことが出来る。触れることが出来る。そして、温かい。
「水蜜ちゃんは亡霊、なのかしら?」
「どうかな……私は、舟幽霊ですけれど」
かつて、どこかの海という場所で何かを失った。
海に縛られた存在としての自分に気付いたのはいつだったか。
それ以来ずっと、ひたすらに舟を沈めてきた。とある出会いの日まで、ずっと。
水蜜は何かを思い出そうとして、けれど首を振って考えるのをやめた。
「でも、それ以上は考えた事、無かったです」
幽々子の手をそっと振りほどき、誤魔化すように杯を傾ける。
扇子を口元に当てながら、水蜜の顔をじっと見つめ続ける幽々子。
そして少しだけの沈黙を挟んでから、ポツリと呟いた。
「死体は、何処に?」
水蜜の身体が一瞬だけ動揺に跳ね、表情が変わった。
先までと打って変わって濁った瞳。虚空を見つめたままで動かなくなる。
「どうしてそんなことを?」
口だけを動かし、水蜜は抑揚無く質問を返した。
幽々子は自分の胸に手を当てて、瞳を閉じた。
「亡霊の話は亡霊が聞かなくちゃ。これでも私、閻魔様には信用されてるのよ?」
「……そう」
相手は、閻魔が認めた冥界の管理者だ。
幽霊、亡霊に属する者を野放しのままには出来ないのだろう。
水蜜は諦めたように一息つくと、パッと幽々子の方を見た。
その瞳はもう濁ってなどおらず、雑談をしている時の水蜜のものだった。
「たぶん、水中です。水の底。誰の手も届かない真っ暗な場所」
幽々子に向けられた水蜜の表情は、笑顔。
しかしその裏にある微かなわだかまりは、幽々子に筒抜けだった。
ゆっくりと幽々子の腕が伸びて、水蜜の頬に触れる。
そこは、水蜜の存在を証明するかのように温かかった。
「ごめんなさいね。辛いことを聞いたわ」
「いいえ。かえって良かったと思ってますよ、皆にも逢えましたし」
どんな道を辿るのが最良だったのかは分からない。
けれど今、水蜜が感じている幸せがあるのは紛れも無い事実で。
そんな気分を味わえるのであれば、少なくとも最悪ではあるまい。
「正解は無い。分かりきったことね」
「ええ。そうですとも、そうですとも」
こくこくと頷く水蜜を見て、幽々子はやっと朗らかな雰囲気を取り戻した。
「実はね、私も同じなのよ。尤も、私は自分のこと、何も分からないんだけどね」
笑顔で宣言するには、些か悲しい話題だった。水蜜は思わず言葉に詰まる。
「死体のことも?」
「さっぱり。でもね、それでも良いのよ」
やっと聞き返せたのも、気の利いた言葉とは言い難かった。
しかし幽々子は、水蜜がそうしたように笑顔で返して見せた。
幽々子が言いたい事は、水蜜にも手に取るように分かった。
二人とも、考える事は一緒。今を楽しめるのであれば、それでいい。
「身体無く、儚い者だからこそ感じられることだって、割とあるものよ?」
亡霊という存在。命は無く、されど在り続ける精神。
「勿体無いじゃない。こんなに、楽しいのだもの」
「ええ、同感です。こんな幸せなこと、ありません」
「いきなり今の生活が終わるだなんて、考えたくもないわよね」
「ですね。死体を勝手に供養なんてされたら……」
『死んでも死にきれない!』
二人の大きめな声が綺麗に揃い、周りの視線を集めた。
話の流れなど聞いてもいなかった酔っ払いたちがこぞって、
ここぞとばかりに『もう死んでるだろ!』という突っ込みを入れてくる。
「あはははっ! そうでした、私、舟幽霊でした!」
「でも失礼よね、死んでるからって死なないとは限らないと思うのよ~」
幽々子の意見に、周りから更に突っ込みが入る。
そこに真面目な話の空気など微塵も残っておらず、ただの騒がしい宴会のそれで。
けれどあんまり心地良かったものだから、水蜜も幽々子も素直に受け入れて、笑った。
§
ムラサー! ムラサー! どこー!
呑んで、笑って、また雑談に花を咲かせていた水蜜と幽々子。
そんな二人の耳に届いた、人捜しの声。
「あ……あの声……」
水蜜がすぐさま反応し、声の方へ視線を走らせる。
宴会の光景が広がっており、すぐには声の主が見つからなかった。
「幽々子さま、ただいま戻りました」
人ごみを掻き分けて戻ってきた妖夢。両手には沢山の空き瓶を抱えている。
「妖夢、これはなんの騒ぎ?」
「それが……酔いが回って『ムラサが居ない』って泣きそうになってる妖怪がいまして」
あー、と水蜜が表情を綻ばせる。
仕方ないな、という表情が半分、幸せそうな表情が半分だ。
「あらあら。そろそろ水蜜ちゃんを返してあげないと、可哀想かしらね」
幽々子は楽しそうに声を弾ませて、ここに残っていた酒瓶を全て水蜜に持たせた。
これを持って戻れと言うのだろう。水蜜は有難く受け取って立ち上がった。
「それじゃ、私はこれを片付けてきますね」
「片付けついでに、次のお酒持ってきて~」
幽々子の言葉に頷くと、妖夢は空き瓶を抱えたまま、また離れていった。
水蜜も元の場所に戻ろうと、幽々子に会釈をしてから歩き出す。
しかし、二歩ほど歩いてからくるりと振り返り、幽々子に向き直った。
不思議そうにしている幽々子に向かい、水蜜は躊躇いがちに尋ねる。
「そういえば、幽々子さん……さっきの話は結局、何だったんです?」
水蜜の種族のこと、そして死体について。
結局、有耶無耶のままで終わっていた会話。
幽々子の意図を量りかねた水蜜は、立ち去る前に直接その疑問をぶつけた。
「んー? 基本的にはねぇ、顕界の亡霊も冥界で管理したいところだからねー」
閻魔様との約束もあるし、と幽々子は真面目に答えてみせた。
答えを聞いた水蜜は、やっぱりかと言わんばかりに表情を曇らせる。
「つまり私は……命蓮寺から冥界に移らなければならないのですか?」
「ううん、その必要は無いと思うわよー」
しかし幽々子はあっさりと首を横に振って見せた。
その言葉は水蜜にとって嬉しいものだったが、同時に疑問も残る。
複雑な表情を浮かべた水蜜を見て、幽々子はにんまりと笑みを作った。
「だって、水蜜ちゃんは『舟幽霊』っていう『妖怪』なんでしょう?」
言葉の意味を理解するのに少しの時間を要した。
「……随分と、気を使って貰っちゃいましたね」
申し訳無さそうにする水蜜に、幽々子は寂しそうに微笑んだ。
「もしかすると一番、嫌われる話題かもしれないもの。私たちみたいな者にとって」
「ふふ。だから世間話から入ったと? さかのぼり過ぎですよ、話題」
「あら。死体の話以外に気を使った覚えは無いわねぇ」
困ったように眉をひそめた幽々子に向かって、水蜜はペコリと一礼する。
幽々子はすぐに微笑みを取り戻すと、バイバイ、と手を振って応えた。
「身体無く、儚い者同士。これからもよろしくお願いします」
「え? そりゃあお墓は無いけれど。やだ、寒いわ」
「いや、そうではなく……幽々子さんが言った言葉じゃないですか」
ムラサー! あーん、ムラサが帰ってこないー!
「まあまあ。ほら、お友達が呼んでるわ。またお話しましょう、水蜜ちゃん」
「……酔っ払っちゃって、あの子はもぉ……それでは、失礼します」
§
「……いいのですか、幽々子さま」
水蜜が戻ってしまってから、妖夢が酒瓶と共に帰ってくる。
「だって、彼女は『妖怪』だもの。管轄外管轄外」
妖夢の曖昧な表情に対し、幽々子のそれは実に晴れやかだった。
命は無く、されど在り続ける精神。
ただゆっくりと『今』を歩き続ける幸福を。
儚い、墓無い、桜の亡霊より。
儚い、墓無い、水底の少女へ。
物語自体は簡潔に綺麗にまとまっていて読みやすかったです。
ただその分全体的に物足りなさを感じました。それが唯一思った欠点ですかね。
それでも面白かったことには変わりなし、次回作も期待してます。
宴の雰囲気が伝わってきましたw
地底に封印されてた辺り妖怪でしょうけど、舟幽霊としたら亡霊っぽいですし。
まあ、幽々子様の名裁きお見事です。
>命は無く、されど在り続ける精神。
ただゆっくりと『今』を歩き続ける幸福を。
この二行に亡霊としての互いの人生が表されてるよね
命は無く、されど在り続ける精神などの綺麗な表現が良かったです
綺麗な文章にグッと引き込まれました。