鼠がチーズを好むと誰が決めたのだろうか。
この幻想郷には、様々な食べ物があるというのにどうして鼠だからとチーズを好むと人は思うのだろう。
確かに鼠は、新陳代謝の激しい生き物だ。
だから、エネルギー価の高いチーズが我々鼠にとって、好ましい食べ物である事は間違いない。
だからといって、色々な人々に遭う端から「やっぱチーズが好きなのか?」と、聞かれるのは辟易する。
だいたい、幻想郷ではチーズなんて上等な食べ物が滅多に食べられない事を彼らは分かっているのだろうか。
私だってチーズをたらふく食べてみたいのだけど、それが出来ないからチーズを憎むしかないというのに、その葛藤をどうして理解してくれないのだろうか。
「ナズーリン」
「あ、なんでしょう。ご主人様」
「人間の里にチーズ専門店が出来たそうなのだけど、知っていますか?」
「なん…だと…」
私は即座に駈け出した。
後ろでご主人様が何か喚いているが、それは後回しだ。
重要な事はチーズ専門店であり、それ以外の全てはどうでも良い。
ああ、チーズチーズチーズ。
なんと麗しい響きだろう。
その美味さ、そして入手の難しさから、我が愛と憎悪を一心に受けた黄色い物体。
一度食べたら無くなってしまい、私の手元には残らぬ神が恵んだ乳製品。
ああ、チーズ。
一口食べれば幸福の絶頂、二口食べれば大往生で、すべて食べれば極楽浄土。そして、チーズを全部平らげた暁には、チーズが消えた虚無と絶望が残るのみ。
しかし、それも今日で終わりだ。
チーズ専門店、なんて素敵な店だろう。
そこは常にチーズの扱っている店で、チーズが切れる事もない。そこは乳製品発酵の根本原理によって支配され、訪れれば必ずチーズが私を迎えてくれる、チーズ好きによるチーズ好きの為のチーズによって構成された楽園だ。
「いやぁっホウッ!」
奇声を上げながら、私は人間の里を走る。
人々が奇異の目を投げかけてくるが、些細なことだ。
チーズはすべてを優先するのである。
専門店はすぐに見つかった。
でっかいチーズを模した看板に、落ち着いた赤レンガの上品な店だ。流石はチーズ専門店、なんと格調高く気品に溢れた店だろうか。
「……ゴホン」
息を整え、埃を払う。
これから末長く付き合う事になる店だ。どうせなら上客と思われた方が良い。
私は、懐の財布を握り締めながらドアを開けた。
「やあ、いらっしゃい」
店主は口髭を生やした男だった。
私は少しだけ緊張する。人間の男と話す事など久しぶりだからだ。
「……ここは、チーズの店かな?」
私は、出来るだけ興味なさそうに店の中を見回す。
たまたま、散歩の途中で冷やかしに入ったような、そんな雰囲気を演出した。
「ああ、ここはチーズの店だよ。僕はチーズが大好きだから、幻想郷で簡単にチーズを供給できるようにこの店を作ったんだ」
素晴らしいの一言に尽きる。
しかし、そんな感情など表に出さず、私は興味なさげに「ふーん」と頷いて見せた。
あまり意地汚くしてはいけない、チーズは紳士淑女の食べ物なのだから。
「だったら、君の店でチーズは買えるのかな?」
「勿論だ」
心の中で私はガッツポーズを取ると、食べてみたいチーズリストを思い浮かべる。
「それじゃあ、レッド・レスターを貰おうかな」
そして、そんなに興味はないのだけどちょっとチーズでも食べてみようかな、などという空気を纏わせながら、店主にチーズを注文する。
レッド・レスターとは、赤みがかった穏やかな風味のチーズで、トーストの上に乗せたり、ホクホクのジャガイモと一緒に食べたりすると、実に美味いステキなチーズの事だ。
「おー、レッド・レスターね。あれは良いチーズだ」
店主も私の注文に賛辞を送る。
それを受けて、少し顔がにやけた。
やはり、同好の士に認められるのは嬉しい。
「うん。そうだろう。それで一個当たり幾らだ?」
財布を取り出しながら、私は店主に尋ねる。
このような店のチーズ一個当たりとなると、かなり値が張るだろう。
流石の私も、専門店のチーズを丸々一個買った事はない。持ち合わせで足りるか、少し心配だ。
「うーん」
「……なんだ、何を悩んでいるんだ?」
「いや、ちょっと困ったなぁって」
「うん? まさか、一見(いちげん)には売らないとか言うつもりじゃないだろうな」
「いやいや、そう言う事じゃないんだ。この店は誰にでもチーズを売るよ。ただね、困ったことに……」
「困ったことに?」
「レッド・レスターは切らしているんだ」
「あー」
思わず、声が漏れる。
私の中では、完全にレッド・レスターで決まっていた。
だから、ここで品切れとは、正直痛い。
「済まないねぇ」
「……いや、品切ればかりは仕方がない。それでは、そうだな……じゃあティルジットにしようか」
少し方向性を変えた方が良い。
そう考えた私は、東プロイセンの強い風味を持つチーズ、ティルジットを選択した。
「なるほど! ティルジットか、お客さん。通だね!」
「ありがとう」
なぜか握手を求められたので、私はそれに応じる。
そして、店主は少し顔を曇らせてこう言った。
「でも、残念ながらティルジットも切らしているんだ」
「それは……仕方がない」
二度連続の品切れに、私は僅かに肩を落とす。
しかし、仕方は無いだろう。もう少し幻想郷にありそうなチーズを注文するべきだったのだ。
ここはチーズ専門店。しかし、それはあくまで幻想郷の、だ。
どうした所で、限界はある。
「……それじゃあ、カーフィリーを頂こうか。これならどうだい?」
カーフィリーとは、クリーミーなウェールズのチーズだ。
「済まないねぇ。カーフェイリーは今朝まではあったんだけど」
「あったんだけど?」
「今朝食べてしまった」
私は、思わず、あちゃーと顔を押さえる。
「……うん、仕方がない。それは仕方がない事だ。それじゃ、ベル・パエーゼはどうだい?」
どうせならクリーミーなチーズが良いと思い、私はやはりクリーミーなベル・パエーゼを要求した。
「品切れで」
店主は、あっさり首を振る。
もう少し、粘ってくれてもバチは当たらないだろうに。
「し、品切れか。うん、品切れだったら仕方は無いな、うん。だったら、レッド・ウィンザーとか」
チェーダーを原料にしたプロセスチーズ、その表面には赤い大理石模様が走るという見た目でも魅せるチーズだ。
「うーん、今日は無いなぁ」
「だったら……スティルトンなどがあれば嬉しいのだが」
スティルトンは、いわゆるブルーチーズ。チーズの王様と呼ばれるほど偉大なチーズであり、私もお目にかかった事は無い。
「ないねぇ」
「まあ、そうだな。だったら……グリュエール!」
「ないな」
「なら、私の好物のエメンタール! 最初からコレを言えば良かったよ!」
「残念」
「ヤールスバーグ!」
「済まないなぁ」
「リプトア、ランカシャー、ホワイト・スティルトン、デンマークのブルーチーズ、ダブル・グロスター、チェシャー、ドーセット・ブルー・ヴィネイ!」
「全部無いなぁ」
「ないのか!」
思わず、私はチーズ専門店のカウンターに拳を叩きつけた。
しかし、店主は素知らぬ顔で帳簿などを眺めている。
どうにも、ここの店主は私の神経を逆撫でにしたいらしい。
「冗談が過ぎるぞ! ここはチーズ専門店じゃないのか! それなのにチーズがないなどと、こんな事が許されるのか!」
「お客さん」
「なんだ!」
「どうにも、お客さんは肝心なチーズを忘れているようだねぇ」
「肝心なチーズ?」
そこで、私はあるチーズに思い当たる。
「……そうだな。それがあったか」
ある意味、世界で最も有名なチーズ。あまりチーズが浸透していない地域でもよく知られたそれの事を。
「カマンベール!」
私は、世界でもっとも有名なチーズの名を呼ぶ。
カマンベールチーズは白カビを使ったチーズの女王。酒との相性もばっちりで、特に赤ワインの肴には最高だ。
「そうだね、カマンベールは良いチーズだ。まさに女王の名に相応しい!」
「そうだろう。カマンベールがないチーズショップはまずあり得ない。それで、カマンベールは一個幾らだい?」
「カマンベールは、ウチにはないよ」
「ふざけるな!」
頭が痛くなってきた。
カマンベールは、稀に幻想郷に入るほどありふれたチーズだというのに、この専門店には無いのだという。
そんな専門店があってたまるか。
「いい加減にしろよ、私のネズミはチーズよりも人肉の方が好みなんだからな」
「それは怖いねぇ。でも、お客さん? 私の言葉を覚えているかい? 僕は言ったよ、お客さんは肝心なチーズを忘れているって」
「……それは、ブラフじゃないだろうな」
「なぜ、僕がお客さんにブラフをかまさなければならないのかね」
「というか、本当にッ、ここにはチーズがあるんだろうな!」
「勿論だ。この店には必ずチーズがある」
店主は、私の目を真っ直ぐに見ている。
たぶん、嘘じゃないだろう。
嘘を吐く人間は、こんな真っ直ぐな目をしないはずだ。
私は、今まで挙げたチーズを思い返し、そして、挙げていないチーズ達を思い浮かべた。
オランダでよく食べられるゴーダ、やはりオランダのエダムチーズ、スコットランドのチーズであるケースネス、セージの香りが付いたセージ・ダービー、伝統あるイギリスのチーズのウェンズリーデイル……
「ゴルゴンゾーラ!」
「残念」
「パルメザン!」
「外れ」
「外れって、さては君、これを楽しんでるだろ!」
「いやいやいや」
店主は必死に否定するけど、その口の端は僅かに笑っていた。
まさか、私が人間におちょくられる日が来るなんて、チーズを買ったら絶対にネズミの餌にしてやる。
「トマトと食べると凄い美味しいモッツァレラ!」
「ああ! あれは本当に感動するほど美味しいよねぇ」
「で、あるんだろうね?」
「ない」
いけない。
そろそろ、いけない。
憎しみで人が殺せるなら、目の前の人間が百回は死んでるほど、私の怒りは高まっている。
「いい加減に……」
「しかし、どうもお客さんは、一番重要な所を忘れているようだねぇ。まあ、盲点というものは、そういうものなのかな?」
「また、適当な……」
「だいたい、お客さんは世界に数百とあるチーズの中から、ほんの19個しか注文をしていないんだよ。それでうちの店に吝嗇を付けられちゃ、堪らないなぁ」
その言葉に私は、ハタと気が付く。
そうだった。
チーズの世界は広くて深い。
私も知らないチーズだって、ゴロゴロしているのだ。
「とりあえず、お客さんがメジャーどころで忘れている奴。ヒント出そうか? イギリスで一番有名なチーズだよ」
「……そうか」
私は忘れていた。
英国が誇る最高のチーズの一つを。
小さな村で生まれたそのチーズは、工業化によって世界中に広まり、人々の口を楽しませてくれたのだ。
あまりに人の口に入ったが故に、存在する事が当たり前になってしまったチーズの王道、それを完全に忘れていたとは……
「チェダーチーズ!」
私は、チーズの代名詞を叫んだ。
そのチーズの名を聞いて、店主は微笑を浮かべる。
ようやく理解した。
この店主は、背伸びをして、珍しげなチーズばかりに目がいっていた私を、正そうとしてくれたのだ。
私が、迂闊にも忘れ去っていたチェダーチーズを、彼は思い出させてくれた。
「……ありがとう」
私は、穏やかな顔で礼を言う。
「ようやく、思い出してくれたようだねえ」
店主も、とても穏やかな顔をしていた。
「最初は、単にチーズが美味いと喜んでいるだけだったんだろう。しかし、チーズの世界はあまりに深すぎて、人はどんどん泥沼にはまってしまい、あまり名の知れていない珍しいチーズや希少価値の高いチーズにばかり血眼になる。だからこそ、僕はそこら辺で売っているチェダーチーズを思い返して欲しいんだ。純粋なチーズ好きとしての気持ちを取り戻して欲しい」
「ああ、君の気持ちは痛いほど分かった」
私は何度も頷く。
僅かに、涙で視界が滲んでしまう。
「で、チェダーチーズは?」
「残念な話だけど、チェダーチーズは切らしているんだ」
私の目の前は、真っ暗になった。
「結局、この店にはチーズは無いのか! 私の感動はなんだったんだ!」
頭が痛い。
頭に血が上り、こめかみの辺りがズキズキする。
「いや。お客さん早まっちゃいけない」
「早まってなどいない! むしろ怒髪天となるのが遅すぎたくらいだ!」
もはや私は、この似非チーズ屋に惑わされる事は無い。
ただ、怒りの赴くままに振舞うだけだ。
しかし、意外なほど店主は冷静だった。
「仕方がないねぇ。もう少し引っ張りたかったけど、それじゃあウチの店、唯一のチーズを用意しようか」
「え?」
思わず私は声を上げる。
だが、店主は拳を振り上げたままの私を放置して店の奥に引っ込むと、一つの箱を持ってきた。
「これがうちの店で扱っている唯一のチーズ、カース・マルツゥだ」
そう言って、店主は箱を開ける。
次の瞬間、私は悲鳴を上げて、この店から逃げだした。
カース・マルツゥ。
それは名前だけはよく知られている世界最凶のチーズ、安全面や衛生面でも疑問が提出され、イタリアでは売買する事が違法となった闇の食べ物。
その名は検索をしてはいけない言葉に入り、カース・マルツゥについて調べるのであれば、自己責任が要求されるという恐るべきチーズなのだ。
確かにこれは、幻想郷に安定供給されても仕方がないチーズなのかもしれない。
「それしか、それしかチーズが無いなんて!」
私は泣いた。
泣いて命蓮寺に逃げ込んだ。
「ナズーリン。どうしたんですか?」
帰ってから寝込んでいる私を心配して、ご主人様が覗きこんで来る。
「……なんでもないですよ」
「何でもない事はないでしょう。そんなにやつれて」
ご主人様がしつこいので、私はカース・マルツゥの事はぼかして、チーズ屋での出来事を話す。
「なるほど、チーズがないのですか」
こくりと私は頷いた。
すると、ご主人様は少し考えた後に「少し待っていてください」と言って、出かけてしまう。
一体、何処に行くのだろうか。
もしかして、チーズ屋の店主を懲らしめてくれるのかもしれない。
ならば、全力でザマァと言わせていただく。
「う、思いだしたら頭痛い」
あのチーズの事まで思い出してしまい、私はそれを忘れる為に布団に潜り込んだ。
ブルーチーズまでなら許す。
しかし、アレは食べ物としての一線を超えているのだ。
「……家ほどの大きさのエメンタールの穴に住みたい」
益体もない事を呟きながら、私は眠りにつく。
せめて夢の中ぐらいは、美味しいチーズに囲まれていたかった。
目が覚めると外が暗い。
随分と寝込んでいたようだ。
「起きましたか」
するとご主人様が鍋を持って私の布団に来る。
微かな酸味と乳の匂いが私の鼻を突いた。
「それは、なんですかご主人様」
「醍醐ですよ。幻想郷中を探しましたら、永遠亭の方々が作っていたので、分けて頂きました」
醍醐とは、随分昔にこの国で作られていたチーズに似た乳製品の事だ。
なるほど、確かに古くは貴人が食べた醍醐であれば、月の姫君の居る永遠亭で作っていてもおかしくはない。
蓬莱山輝夜は、月の貴人であると同時に古い時代の貴人でもあるのだから。
それにしたところで、簡単に醍醐などという貴重な食べ物を分けて貰えるわけはないだろう。見ればご主人様の袖だの服の端などが、何者かの弾幕によって傷ついている。
きっと、醍醐を手に入れる為に弾幕ごっこでもさせられたのだろう。
しかし、ご主人様はそれをおくびにも出さず、私に醍醐を差しだしていた。
「……あの、ご主人様」
「ん? なんですか」
「あ、あ、ありがとうございます」
改めて礼を言うのは、どうにも照れて仕方がない。
ご主人様の方はご主人様の方で、私のお礼に顔を緩めている。
何とも仕方のない主従だ、私達は。
「それでは、ナズーリン。あーんをしてください」
「は、恥ずかしいな。ご主人様は」
一応の抵抗は試みるが、それは無駄に終わる。
ご主人様の手で、醍醐が私の口に入れられた。
僅かな酸味に乳の濃厚な味、それはクリーミーなチーズに近い味、だが、それだけでは言い表せないほど、それは美味く……
まさに、それは醍醐味だった
……食べる時に目の保護が必要になるチーズって何なんだ……
後から読んだお前ら!「カース・マルツゥ」調べるなよ! 絶対調べるなよ!
ブルーチーズを頬張ってすぐに吐き出したことはありますがね。
ナズーリンの必死さや、店主や星との会話とかも面白かったです。
ナズーリン可愛いです
入ってるチーズがあったと思うんだけどそれかな
そんなことより必死なナズーリン可愛いいなぁ
気になってググるなというほうが無理あるぞw
一部「カース」が「カール」だったり、「マルツゥ」が「マスツゥ」になってるのでご報告を。
私は一体いつナズーリンになったのだろうwwwwww
チーズの種類の豊富さに驚きました。
……拳銃オチじゃなかったのが少し残念だが
チーズとナズ星ごちそうさまでした☆
件のアレは昔何かのテレビ番組で、モザイクも無しに大写しにされた事が…
件のチーズは名前だけ知るにとどめておきます。
内容はとても面白かった
チーズラブのナズと、とぼけた店主の掛け合いがベリーグッドでした
あとチーズくいてえ
そりゃナズーリンも逃げるわw
深い、チーズの世界はなんて深いんだ……。
オチがきれいだねえ。仏教関係のナズに言わせるのもまた、洒落が利いてる。
ググってみたカース・マルツゥ>自分も奇声を上げかけました
何を取っても素晴らしいの一言。
自分の知らないことを知ることができるのも、SSの醍醐味かもしれませんね。
だが店主、貴様はコロス
カース・マルツゥで検索→('A`)
エポワス・・・(ボソリ
詳細な写真付きだとアウトだな。っていうか最初に作ったヤツは、何考えてたんだ?
”納豆”のチーズ版かねぇ?
いつのまにか腐ってやがる!→試しに喰ったらコレはコレで(w
すると、生まれた蛆がチーズを食べては出してを繰り返す。
それよって生まれた非常にクリーミィなチーズを苦み迸る蛆と一緒に……。
ナズーリンw直にみせられたのかw