――私は、見ている。
――私はいつだって、貴方を見ている。
――それが、私の全てで。
――当たり前の事なのだから。
――決して、触れる事はない。
――言葉を交わす事すらない。
――気づかなくて良い。気づく必要は無い。
――そこに意味など無いのだから。
< >
眼を開く。見えた天井は見慣れたものだ。身体を起こせば自分を覆うように被った布団。それを静かに畳むように押し退ける。寝間着は薄い。その為に布団が暖めてくれていた身体は外気に晒され、その温度差に一瞬身を震わせる。
しまった、と思うのは遅かった。完全に眼が覚めてしまった。これではどうしようもない。再び眠気が来るまで大人しく布団を被って寝ているのがベストなのだろう。そう、それが良い筈だ。
そう思い、もう一度身体を横に倒した。天井を再び見上げる形になる。見慣れた天井。それを何度か瞬きと共に瞳に納め、布団に手を伸ばそうと視線を動かした。
ふと、囁きのような、呼ぶような、そんな小さな声。いや、声というよりは気配と言うべきか。振り向けば、枕元には二本の刀が添えられていた。いつでも手に取れるように置いたのだろう。それを見てしまえば、寝よう、と身体を鎮めようとしていた筈の身体に熱が籠もり出す。
駄目だ、と眼を反らす。そのまま勢いよく枕に頭を押しつけ、布団を足で蹴り、後ろ手で自分の肩まで引っ張ってくる。まだ完璧に熱を失っていなかった布団は暖かい。さぁ、この布団の温もりに身を任せて寝てしまえ。思って、固く瞳を閉じる。
どく、どく、どく…。
心臓の鼓動の音が嫌に聞こえる。気持ち悪くなって思わず吐いてしまいそうになる。されど、それに堪えて、歯を噛み締めて堪える。いけない。それはいけない。そう、いけないのだ。わかっているだろう。いけないのだ。何度も、何度も言い聞かせるように心の中で呟く。
どく、どく、どく…。
収まらない。どうしよう、困ったように心の中で呟く。駄目だ、と律しても、いけない、と呟いても鼓動の音は止まらない。力を入れているのも疲れ、ぐったりと力を抜いた。無駄に身体に込めた力の分だけ溜まった熱が眠りへと誘って行けば良いのに。
どく、どく、どく…。
あぁ、鼓動の音は、やはり止まらない。我慢するのが段々と億劫になってきた。布団に押しつけていた顔を上げる。そこには、先ほどと変わらぬ場所に置かれている二本の刀がある。
「――少し、だけ」
どく、り。
まるで心臓が喜ぶように跳ねた。やれやれ、と思うのは一瞬。戸惑いと…僅かな喜び。手を伸ばし、鞘に手を伸ばす。手に取った刀は冷えていた。冷えた刀と、熱の籠もった自分の身体。それ故だろうか。手に収まるその刀の感触は…ただ心地良かった。
< >
――私は、共にある。
――私はいつだって、貴方と共にある。
――それが、私の全てで。
――当たり前の事なのだから。
――決して、気づかれる事はない。
――触れ合う事などあり得ない。
――気付かなくて良い。気付く必要は無い。
――そこに意味など無いのだから。
< >
月が浮かぶ。弧を描いた三日月。その三日月に沿わせるように刀を振るう。下から掬い上げるように振るう。そしてそのまま今度はその三日月を両断する勢いで振り下ろす。
ひゅんっ、と。静かに。だが確かに刀が空気を切り裂く。ふぅ、と息を吐き出し、再度吸い込む。肺に溜め込むようにゆっくりと、しかし確実に空気を貯めて、吐き出すのと同時に刀を振るう。
息を止める。ただ刀に全てを預ける。自分は刀であり、刀は自分であり。故に、思考などいらぬ。ただ刀に合わせる。刀が望むように、刀が示す斬閃を追っていく。左。振り下ろし、右足、踏み込み、上、切り上げ、左、踏み込み、振り下ろし、地を裂くその寸前でぴたり、と刀を止める。
ふぅ、と再び息を吐き出す。身体には熱が籠もっている。心地よい熱だ。外気に晒され冷える表面との対比が何とも言えぬ感覚を与えてくる。それを惜しむように一度、刀を握り直し、構えを取る。
瞳を閉じる。太刀筋はぶれないように意識を高める。そう、刀は自分。自分は刀。刀は私の力となり、刀は手足を欲する。自らの存在意義を果たさんが為に。
しかし、人が聞けば笑うだろうか。刀が手足を欲するなど、所詮、刀は道具でしか無いのだ、と。お前のソレはただのまやかし。思いこみによる幻想。そこに実は無く、得るものなど何もないのだと。
笑え。私も笑う。それがどうした、と。お前の見る目と私の見る目が違うのだ。異なっていて当たり前であろう、と。ただ、それだけだ。
…邪念だ。まったく不要なものだ。だが、不要だからと言って捨てるべきでもない。ようは押さえ込んでしまい。ようはコントロールしていけば良い。私は刀、刀は私。だが私は私なのだ。笑えばすれば、泣きもする。怒りもすれば、巫山戯もするのだ。
人がどうだとか、常識がどうだとか、そんなのは関係ない。いや、確かに計る為には必要な事で、必要な事だ。だが、それでも譲る必要のないものもある。それが私の中での真実で、歪む事も、揺らぐ事も無いのだから。
ただ、澄め。汚れ無き水面のごとく。刀に震えはいらない。刀は真っ直ぐに断つ。それだけで良い。ならば震えはいらない。これぞ明鏡止水。瞳をゆっくりと開く。ふと、刀の表面と自分の目を合わせるように持って行く。
刀の表面に移る自らの瞳を見つめる。そこには表情はいらない。そこに震えはいらない。感情はいくらあっても良い。ただそれでも水面を震わせる事は駄目だ。奥に、そう底で轟かせる。されど、決して水面を揺らす事はない。
ひゅん、と。再び私は刀を振り下ろす。良い太刀だ。身体に無駄が無い。刀が私に望んだ動作だ。刀は私であり、私は刀だ。私が私だが、刀と共にあるならば私が私である必要は無い。ならば限りなく、私は私を鎮めれば良い。水面の底で沈んでいれば良い。さすれば明鏡の水面は移してくれよう。そして刀はそれに答えてくれよう。
応、と私は刀を振るう。楽しいな、と言う。あぁ、楽しいな、と私は言う。楽しいな。本当に。だから私は刀を振るう。身体に溜まった熱が心地よい。肌を刺す冷たさが心地よい。景色を照らす月光が美しい。
まだ、と望む。飢え、乾くかのように私は刀と共にある事を望む。故に構える。向き合い、感じ、思い、鎮め、されど殺す事無く。
故に切った。無粋とも言える乱入したソレを。
切り上げる。抵抗なく切れたソレを、私は今度は足を動かし、今度は横に叩ききる。四つに分かれたそれは宙を舞う。上の二つはまだ上に切った勢いがある。故に落ちない。しかし下の二つに切ったものは既に沈む。
切り上げる。右から左へ、そのまま手首を返し、下へと振り、跳ね上げさせるように左から右へ。切り上げる際に下と上も関係なく切り捨てる。落ちる前に切る。切る。切る。ただ無心に切り、切り続ける。
ぱらり、と、細切れにされたそれは地に落ちていく。私はそれを確認して小さく溜息を吐き出した。ぱち、ぱち、ぱちと音が聞こえた。振り向けばそこには一人の女性が立っていた。穏和そうな顔つきに、それと違わぬふわふわと雲のように掴み所のない雰囲気を纏った女性だ。
「――お見事。だけど勿体なかったわ」
「リンゴは切られる為にあるのですか? 私は食す為にあると存じていたのですが?」
「食べて良いわよ。良い感じに細かくなってるわ。地に落ちちゃったけど、食べる?」
「いりません。腹を下すとわかっていて何故食べると貴方は問うのか…」
「あら、三秒ルール、知らない?」
「汚れてしまえば一秒も二秒も三秒もありません。汚れが付いた。その事実は翻りませんよ? なので食べないでくださいね」
地に落ちたのはリンゴだ。赤い果皮に白にも見える黄の実。中心部は蜜が蓄えられ、普通に切って出されたのならば思わず食欲をそそっていた事だろう。思わずすまない、と私は呟く。君の本分は切り裂かれる事では無かっただろう、と。
せめてもの償いとは言わないが、綺麗に片付けよう、と私は歩を進める。
「あぁ、ねぇ、月見酒、付き合ってよ」
「……私が、ですか?」
「えぇ。貴方が」
「……1つ、断らせていただきます。2つ、断らせてください。3つ、だが断る。どれかで」
「では、4つめ。諦めなさい」
くす、と微笑む女性に私は思わず頭が痛くなり、額を抑えて首を振るのであった。
< >
――私は、そこにいる。
――私はいつだって、そこにいる。
――それが、私の全てで。
――当たり前の事なのだから。
――決して、誰かの目を引く事はない。
――気に留められることなどない。
――気に留めなくて良い。気に留める必要はない。
――そこに意味など無いのだから。
< >
「これは、罰なのでしょうね」
月光が照らす見事な枯山水。空に浮かぶ三日月に瞬く星。それに盃に注がれた酒を揺らしながら私は言う。隣で盃を傾けていた女性は、あら、と声をあげてこちらを見る。ふわり、と掴み所のない笑みを浮かべながら。
「何故おいしいお酒を飲む事が罰なのかしら?」
「ご冗談を。わかってて仰ってらっしゃるでしょう? だから罰なのです」
「わからないわ。お酒はむしろ褒美よ。大人しく呑みなさいな。そして悦びなさい」
「――あぁ、やはり罰だ。私はこの酒を口に含むたびに罪を重ね、その重さに苦しめと、そして貴方はその笑顔の裏でざまぁみろ、と笑うのですね」
「貴方がどういう眼で私を見ているのかよーくわかったわ」
「なに、普段の意趣返しですよ」
唇を盃につけ、注がれた酒を喉に通す。舌をなぞり、喉を伝っていく液体は確かに旨い。どこの酒かは知らない。どの酒であっても、私は旨いとしか言えないのだから。
だから、本当に高尚なものを出していないか不安になる。どこから出したんだ、この酒。まったく、本当に底の知れない人だ。俗に言う腹が黒い、というのだろう。狐? 狸? どちらかと言えば狐か? そんな益のない思考がくるり、くるくると回る。
いかん、酒に呑まれているやもしれん。そう思えばくらり、と頭が揺れる。こめかみに手を伸ばしてほぐす。やはりこれ以上は駄目だ、と酒を一気に煽る。そうすれば盃を置いて自らの身を抱きしめるように手を回す。
「あら? もう良いの?」
「そもそもお断りした筈ですが? 本当に意地が悪い人だ。だからいつも苦労させているんだ」
「あらあら、私が虐めているように言わないでくれる? からかっているだけよ」
「それに付き合わされる身になってください」
まったく、と言うように私は溜息を吐いた。酒が入ったからか、身体がぽかぽかしている。そういえば適量の飲酒は睡眠に良かったんだったか、といつかどこかで聞いた話を思い出す。あぁ、確かこれは月の兎だったか?
彼女もまた苦労人だからな、頑張って欲しい所だ。いや、本当にね。掛け値なしにそう思う。ふぅ、と息を吐き出して空を見上げる。
「…楽しかった?」
「…えぇ。十分過ぎる程。身に余る程」
「過ぎる、余るなんて事は無いと思うけど?」
「何故貴方はそうも私を引っ張る。貴方にはいつも彼女がいるでしょう。ならばそれで良いでしょう?」
「だって、貴方も貴方じゃない」
――妖夢、と。
私は首を振る。止めてください、と言わんばかりに小さく、だがそれでも確かにしっかりと。
「幽々子様…本当に意地悪ですよ? 泣きたくなります」
「だって可愛げが無いんですもの。普段はあんな大人しいのに」
「私が私だからです。それ以上でもそれ以下もない。そしてその先も後もない。未来永劫、それは決して変わる事はないのです」
「先ほどのリンゴもそうですが…本分を超えた所で幸せなど無いのですよ、幽々子様」
敬愛すべき主に私は言う。固く瞳を閉じる。これ以上は駄目だな、と思い私は席を立つ。
幽々子様に背を向けて私は歩いていく。その背に、ねぇ、と声をかけられた。
「貴方は、幸せ?」
「えぇ。幸せですよ」
「じゃあ、貴方は?」
「同じ問いですよ?」
「違うわ。それは違う。だって、貴方は貴方じゃない」
「私は私なのですよ。だから、答えも変わりません」
足を回し、半身で私は幽々子様へと振り返る。そう、私は幸せだ。その思いを惜しみなく表情へと乗せて私は言う。
「私は幸せです。幽々子様」
そして私は歩き出す。幽々子様に背を向ける。一体どれだけの時間、刀を振っていたか。一体どれだけ幽々子様との対峙していたか。およそ、一刻…二刻か。長い時間だった。いや、幸いな時間だ。そして、これ以上本分を犯すべきではない。
故に私は寝床へと戻る。愛刀である二本の刀と共に。
そして私はその背を見送る。私に背を向けて歩んでいくその背中を。小柄な身体、銀色の髪、纏う服はいつもと変わらぬ出で立ち。ただ1つ違うと言えば、その頭にはいつもの黒いリボンが無いことと……。
「ねぇ…それで、貴方は本当に良いのかしら?」
わからないわ、と私は呟く。私は彼女の事を理解してやれない。だからこそ、そっと溜息を吐く。見送る視線は淀みなく歩を進めていく。その歩に迷いは無い。ただ、真っ直ぐに歩んでいく。
その背には………いつもの半霊はいなかった。
< >
半人半霊。
生者と死者の間に生まれし子。その特徴として、傍らにはいつも魂魄が付いている。それこそ、半人半霊を見分ける術である。
彼らは決して人とは変わらない。考え方も、趣向も、限りなく人に近い。その傍らにいる霊さえなければ彼らは完全に人に紛れる事が出来よう。
魂魄 妖夢。彼女は半人半霊だ。故に彼女の側にはいつも魂魄が付き添っている。彼女が笑っている時も、彼女が泣いている時も、彼女が怒っている時も。
何時、如何なる時であろうとも魂魄は彼女からは離れない。そう、何故ならばそれはとても至極当たり前の事。魂魄もまた彼女の一部なのだから。
人に心臓があるように、当たり前のように魂魄は半人半霊にあるものだ。だから魂魄は離れない。自分の身体からは決して。何故ならばそれが当たり前だから。
――私はここにいる。
――でも、そこに意味など求める必要は無い。
今日も「私」は見守る。私が笑う、私が泣く、私が怒る、私が得たものを「私」が得たように感じ、思ったように思い、そして共にある。
決して「私」はいらない。だが、1つだけ。「私」は私と相違がある。それがほんのたった1つだけの「私」と私の違い。
「私」は私の幸せを願っている。そして、それが「私」の至上の幸せだと言う事。故に私は学ぶ。故に私は覚える。故に私は――ここにある。
いつか、もしも、私が崩れ落ちそうな時…――「私」の刃が全てを断てるように。
――「私」に、断てぬものはない。
私が斬れぬものなど、あんまり無いのだから。なら、「私」は全てを断とう。全ては私が為に。それが…「私」の存在意義なのだから。
今日も「私」は付いて行く。今日も「私」は眺めている。望みもなく、ただ1つの意義を抱えてふよふよと。
そこに、やはり意味などいらないのだから。
――私はいつだって、貴方を見ている。
――それが、私の全てで。
――当たり前の事なのだから。
――決して、触れる事はない。
――言葉を交わす事すらない。
――気づかなくて良い。気づく必要は無い。
――そこに意味など無いのだから。
< >
眼を開く。見えた天井は見慣れたものだ。身体を起こせば自分を覆うように被った布団。それを静かに畳むように押し退ける。寝間着は薄い。その為に布団が暖めてくれていた身体は外気に晒され、その温度差に一瞬身を震わせる。
しまった、と思うのは遅かった。完全に眼が覚めてしまった。これではどうしようもない。再び眠気が来るまで大人しく布団を被って寝ているのがベストなのだろう。そう、それが良い筈だ。
そう思い、もう一度身体を横に倒した。天井を再び見上げる形になる。見慣れた天井。それを何度か瞬きと共に瞳に納め、布団に手を伸ばそうと視線を動かした。
ふと、囁きのような、呼ぶような、そんな小さな声。いや、声というよりは気配と言うべきか。振り向けば、枕元には二本の刀が添えられていた。いつでも手に取れるように置いたのだろう。それを見てしまえば、寝よう、と身体を鎮めようとしていた筈の身体に熱が籠もり出す。
駄目だ、と眼を反らす。そのまま勢いよく枕に頭を押しつけ、布団を足で蹴り、後ろ手で自分の肩まで引っ張ってくる。まだ完璧に熱を失っていなかった布団は暖かい。さぁ、この布団の温もりに身を任せて寝てしまえ。思って、固く瞳を閉じる。
どく、どく、どく…。
心臓の鼓動の音が嫌に聞こえる。気持ち悪くなって思わず吐いてしまいそうになる。されど、それに堪えて、歯を噛み締めて堪える。いけない。それはいけない。そう、いけないのだ。わかっているだろう。いけないのだ。何度も、何度も言い聞かせるように心の中で呟く。
どく、どく、どく…。
収まらない。どうしよう、困ったように心の中で呟く。駄目だ、と律しても、いけない、と呟いても鼓動の音は止まらない。力を入れているのも疲れ、ぐったりと力を抜いた。無駄に身体に込めた力の分だけ溜まった熱が眠りへと誘って行けば良いのに。
どく、どく、どく…。
あぁ、鼓動の音は、やはり止まらない。我慢するのが段々と億劫になってきた。布団に押しつけていた顔を上げる。そこには、先ほどと変わらぬ場所に置かれている二本の刀がある。
「――少し、だけ」
どく、り。
まるで心臓が喜ぶように跳ねた。やれやれ、と思うのは一瞬。戸惑いと…僅かな喜び。手を伸ばし、鞘に手を伸ばす。手に取った刀は冷えていた。冷えた刀と、熱の籠もった自分の身体。それ故だろうか。手に収まるその刀の感触は…ただ心地良かった。
< >
――私は、共にある。
――私はいつだって、貴方と共にある。
――それが、私の全てで。
――当たり前の事なのだから。
――決して、気づかれる事はない。
――触れ合う事などあり得ない。
――気付かなくて良い。気付く必要は無い。
――そこに意味など無いのだから。
< >
月が浮かぶ。弧を描いた三日月。その三日月に沿わせるように刀を振るう。下から掬い上げるように振るう。そしてそのまま今度はその三日月を両断する勢いで振り下ろす。
ひゅんっ、と。静かに。だが確かに刀が空気を切り裂く。ふぅ、と息を吐き出し、再度吸い込む。肺に溜め込むようにゆっくりと、しかし確実に空気を貯めて、吐き出すのと同時に刀を振るう。
息を止める。ただ刀に全てを預ける。自分は刀であり、刀は自分であり。故に、思考などいらぬ。ただ刀に合わせる。刀が望むように、刀が示す斬閃を追っていく。左。振り下ろし、右足、踏み込み、上、切り上げ、左、踏み込み、振り下ろし、地を裂くその寸前でぴたり、と刀を止める。
ふぅ、と再び息を吐き出す。身体には熱が籠もっている。心地よい熱だ。外気に晒され冷える表面との対比が何とも言えぬ感覚を与えてくる。それを惜しむように一度、刀を握り直し、構えを取る。
瞳を閉じる。太刀筋はぶれないように意識を高める。そう、刀は自分。自分は刀。刀は私の力となり、刀は手足を欲する。自らの存在意義を果たさんが為に。
しかし、人が聞けば笑うだろうか。刀が手足を欲するなど、所詮、刀は道具でしか無いのだ、と。お前のソレはただのまやかし。思いこみによる幻想。そこに実は無く、得るものなど何もないのだと。
笑え。私も笑う。それがどうした、と。お前の見る目と私の見る目が違うのだ。異なっていて当たり前であろう、と。ただ、それだけだ。
…邪念だ。まったく不要なものだ。だが、不要だからと言って捨てるべきでもない。ようは押さえ込んでしまい。ようはコントロールしていけば良い。私は刀、刀は私。だが私は私なのだ。笑えばすれば、泣きもする。怒りもすれば、巫山戯もするのだ。
人がどうだとか、常識がどうだとか、そんなのは関係ない。いや、確かに計る為には必要な事で、必要な事だ。だが、それでも譲る必要のないものもある。それが私の中での真実で、歪む事も、揺らぐ事も無いのだから。
ただ、澄め。汚れ無き水面のごとく。刀に震えはいらない。刀は真っ直ぐに断つ。それだけで良い。ならば震えはいらない。これぞ明鏡止水。瞳をゆっくりと開く。ふと、刀の表面と自分の目を合わせるように持って行く。
刀の表面に移る自らの瞳を見つめる。そこには表情はいらない。そこに震えはいらない。感情はいくらあっても良い。ただそれでも水面を震わせる事は駄目だ。奥に、そう底で轟かせる。されど、決して水面を揺らす事はない。
ひゅん、と。再び私は刀を振り下ろす。良い太刀だ。身体に無駄が無い。刀が私に望んだ動作だ。刀は私であり、私は刀だ。私が私だが、刀と共にあるならば私が私である必要は無い。ならば限りなく、私は私を鎮めれば良い。水面の底で沈んでいれば良い。さすれば明鏡の水面は移してくれよう。そして刀はそれに答えてくれよう。
応、と私は刀を振るう。楽しいな、と言う。あぁ、楽しいな、と私は言う。楽しいな。本当に。だから私は刀を振るう。身体に溜まった熱が心地よい。肌を刺す冷たさが心地よい。景色を照らす月光が美しい。
まだ、と望む。飢え、乾くかのように私は刀と共にある事を望む。故に構える。向き合い、感じ、思い、鎮め、されど殺す事無く。
故に切った。無粋とも言える乱入したソレを。
切り上げる。抵抗なく切れたソレを、私は今度は足を動かし、今度は横に叩ききる。四つに分かれたそれは宙を舞う。上の二つはまだ上に切った勢いがある。故に落ちない。しかし下の二つに切ったものは既に沈む。
切り上げる。右から左へ、そのまま手首を返し、下へと振り、跳ね上げさせるように左から右へ。切り上げる際に下と上も関係なく切り捨てる。落ちる前に切る。切る。切る。ただ無心に切り、切り続ける。
ぱらり、と、細切れにされたそれは地に落ちていく。私はそれを確認して小さく溜息を吐き出した。ぱち、ぱち、ぱちと音が聞こえた。振り向けばそこには一人の女性が立っていた。穏和そうな顔つきに、それと違わぬふわふわと雲のように掴み所のない雰囲気を纏った女性だ。
「――お見事。だけど勿体なかったわ」
「リンゴは切られる為にあるのですか? 私は食す為にあると存じていたのですが?」
「食べて良いわよ。良い感じに細かくなってるわ。地に落ちちゃったけど、食べる?」
「いりません。腹を下すとわかっていて何故食べると貴方は問うのか…」
「あら、三秒ルール、知らない?」
「汚れてしまえば一秒も二秒も三秒もありません。汚れが付いた。その事実は翻りませんよ? なので食べないでくださいね」
地に落ちたのはリンゴだ。赤い果皮に白にも見える黄の実。中心部は蜜が蓄えられ、普通に切って出されたのならば思わず食欲をそそっていた事だろう。思わずすまない、と私は呟く。君の本分は切り裂かれる事では無かっただろう、と。
せめてもの償いとは言わないが、綺麗に片付けよう、と私は歩を進める。
「あぁ、ねぇ、月見酒、付き合ってよ」
「……私が、ですか?」
「えぇ。貴方が」
「……1つ、断らせていただきます。2つ、断らせてください。3つ、だが断る。どれかで」
「では、4つめ。諦めなさい」
くす、と微笑む女性に私は思わず頭が痛くなり、額を抑えて首を振るのであった。
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――私は、そこにいる。
――私はいつだって、そこにいる。
――それが、私の全てで。
――当たり前の事なのだから。
――決して、誰かの目を引く事はない。
――気に留められることなどない。
――気に留めなくて良い。気に留める必要はない。
――そこに意味など無いのだから。
< >
「これは、罰なのでしょうね」
月光が照らす見事な枯山水。空に浮かぶ三日月に瞬く星。それに盃に注がれた酒を揺らしながら私は言う。隣で盃を傾けていた女性は、あら、と声をあげてこちらを見る。ふわり、と掴み所のない笑みを浮かべながら。
「何故おいしいお酒を飲む事が罰なのかしら?」
「ご冗談を。わかってて仰ってらっしゃるでしょう? だから罰なのです」
「わからないわ。お酒はむしろ褒美よ。大人しく呑みなさいな。そして悦びなさい」
「――あぁ、やはり罰だ。私はこの酒を口に含むたびに罪を重ね、その重さに苦しめと、そして貴方はその笑顔の裏でざまぁみろ、と笑うのですね」
「貴方がどういう眼で私を見ているのかよーくわかったわ」
「なに、普段の意趣返しですよ」
唇を盃につけ、注がれた酒を喉に通す。舌をなぞり、喉を伝っていく液体は確かに旨い。どこの酒かは知らない。どの酒であっても、私は旨いとしか言えないのだから。
だから、本当に高尚なものを出していないか不安になる。どこから出したんだ、この酒。まったく、本当に底の知れない人だ。俗に言う腹が黒い、というのだろう。狐? 狸? どちらかと言えば狐か? そんな益のない思考がくるり、くるくると回る。
いかん、酒に呑まれているやもしれん。そう思えばくらり、と頭が揺れる。こめかみに手を伸ばしてほぐす。やはりこれ以上は駄目だ、と酒を一気に煽る。そうすれば盃を置いて自らの身を抱きしめるように手を回す。
「あら? もう良いの?」
「そもそもお断りした筈ですが? 本当に意地が悪い人だ。だからいつも苦労させているんだ」
「あらあら、私が虐めているように言わないでくれる? からかっているだけよ」
「それに付き合わされる身になってください」
まったく、と言うように私は溜息を吐いた。酒が入ったからか、身体がぽかぽかしている。そういえば適量の飲酒は睡眠に良かったんだったか、といつかどこかで聞いた話を思い出す。あぁ、確かこれは月の兎だったか?
彼女もまた苦労人だからな、頑張って欲しい所だ。いや、本当にね。掛け値なしにそう思う。ふぅ、と息を吐き出して空を見上げる。
「…楽しかった?」
「…えぇ。十分過ぎる程。身に余る程」
「過ぎる、余るなんて事は無いと思うけど?」
「何故貴方はそうも私を引っ張る。貴方にはいつも彼女がいるでしょう。ならばそれで良いでしょう?」
「だって、貴方も貴方じゃない」
――妖夢、と。
私は首を振る。止めてください、と言わんばかりに小さく、だがそれでも確かにしっかりと。
「幽々子様…本当に意地悪ですよ? 泣きたくなります」
「だって可愛げが無いんですもの。普段はあんな大人しいのに」
「私が私だからです。それ以上でもそれ以下もない。そしてその先も後もない。未来永劫、それは決して変わる事はないのです」
「先ほどのリンゴもそうですが…本分を超えた所で幸せなど無いのですよ、幽々子様」
敬愛すべき主に私は言う。固く瞳を閉じる。これ以上は駄目だな、と思い私は席を立つ。
幽々子様に背を向けて私は歩いていく。その背に、ねぇ、と声をかけられた。
「貴方は、幸せ?」
「えぇ。幸せですよ」
「じゃあ、貴方は?」
「同じ問いですよ?」
「違うわ。それは違う。だって、貴方は貴方じゃない」
「私は私なのですよ。だから、答えも変わりません」
足を回し、半身で私は幽々子様へと振り返る。そう、私は幸せだ。その思いを惜しみなく表情へと乗せて私は言う。
「私は幸せです。幽々子様」
そして私は歩き出す。幽々子様に背を向ける。一体どれだけの時間、刀を振っていたか。一体どれだけ幽々子様との対峙していたか。およそ、一刻…二刻か。長い時間だった。いや、幸いな時間だ。そして、これ以上本分を犯すべきではない。
故に私は寝床へと戻る。愛刀である二本の刀と共に。
そして私はその背を見送る。私に背を向けて歩んでいくその背中を。小柄な身体、銀色の髪、纏う服はいつもと変わらぬ出で立ち。ただ1つ違うと言えば、その頭にはいつもの黒いリボンが無いことと……。
「ねぇ…それで、貴方は本当に良いのかしら?」
わからないわ、と私は呟く。私は彼女の事を理解してやれない。だからこそ、そっと溜息を吐く。見送る視線は淀みなく歩を進めていく。その歩に迷いは無い。ただ、真っ直ぐに歩んでいく。
その背には………いつもの半霊はいなかった。
< >
半人半霊。
生者と死者の間に生まれし子。その特徴として、傍らにはいつも魂魄が付いている。それこそ、半人半霊を見分ける術である。
彼らは決して人とは変わらない。考え方も、趣向も、限りなく人に近い。その傍らにいる霊さえなければ彼らは完全に人に紛れる事が出来よう。
魂魄 妖夢。彼女は半人半霊だ。故に彼女の側にはいつも魂魄が付き添っている。彼女が笑っている時も、彼女が泣いている時も、彼女が怒っている時も。
何時、如何なる時であろうとも魂魄は彼女からは離れない。そう、何故ならばそれはとても至極当たり前の事。魂魄もまた彼女の一部なのだから。
人に心臓があるように、当たり前のように魂魄は半人半霊にあるものだ。だから魂魄は離れない。自分の身体からは決して。何故ならばそれが当たり前だから。
――私はここにいる。
――でも、そこに意味など求める必要は無い。
今日も「私」は見守る。私が笑う、私が泣く、私が怒る、私が得たものを「私」が得たように感じ、思ったように思い、そして共にある。
決して「私」はいらない。だが、1つだけ。「私」は私と相違がある。それがほんのたった1つだけの「私」と私の違い。
「私」は私の幸せを願っている。そして、それが「私」の至上の幸せだと言う事。故に私は学ぶ。故に私は覚える。故に私は――ここにある。
いつか、もしも、私が崩れ落ちそうな時…――「私」の刃が全てを断てるように。
――「私」に、断てぬものはない。
私が斬れぬものなど、あんまり無いのだから。なら、「私」は全てを断とう。全ては私が為に。それが…「私」の存在意義なのだから。
今日も「私」は付いて行く。今日も「私」は眺めている。望みもなく、ただ1つの意義を抱えてふよふよと。
そこに、やはり意味などいらないのだから。
作品の内容にマッチした澄んだ文体で、舞台の中の空気すら感じられるようでした。
今後の作品も楽しみにさせて戴きます。