鴎の甲高い声が耳につく。
大海の黒渦に飲まれたはずの私は、天照らす日の光を受けてたじろいだ。
思い出す。
何をするのか。
何をしなければならないのか。
甲板の上に仰向けになった私が身を起こすと、船の先端に紫色の法衣を纏った僧侶が微笑んでいた。
そうだ。
私は、
仲間を救わなくてはならない。
■■
「…船長」
黒い視界がぐにゃりと歪み、引き裂けた割れ目から白い光が差し込んでくる。
目の奥にじくじくと響いてくるその声に、不快感を催す。それでも、意識と体が離れていく感覚に身を任せる。
「船長!」
ひと際大きい怒鳴り声にようやく私は目を開けた。寝起き眼で声の主を探しても目の前にはいない。その代わり、耳にこそばゆい気配を感じ、耳元で怒鳴られたということを理解した。
「ん、あぁ。すまん」
覚醒しない頭に違う声が割り込んでくる。
「水蜜…日和るのはいいが、戦闘ではぬけてくれるなよ」
褐色に煌めく引きしまった肉体。白いさらしをたすきがけにまいた胸は締め付けても豊満さを主張している。開いた口には、白い八重歯をのぞかせ、日焼けした肌によく合う漆黒の髪が水に濡れて艶めいていた。
海の女。こいつは、鵜汲(うぐめ)水咲。私の心強い相棒でもあり、親友でもある。
「あぁ、わかってるさ。水咲」
私は立ちあがって舳先へ向かう。白い波が弾けて頬をなぜる。先の海戦で得た自慢の帽子をぐいと押し上げ、水平線を睨みつける。
潮の匂いと降り注ぐ日の光、頭上を舞う鳥たちの声。航海にはもってこいの日和だ。
「さぁ、帆を立てろ、野郎ども。出港だ」
「ハハ、水蜜。もう船は出てるぞ。」
「そうです、船長が寝ている間に沖合まで出てますから」
「うるさいやい。こうでもしないと調子が狂うんだ」
波間に漂う笑い声を乗せながら、私たちは海を駆ける。
■■
海賊、夜走りの団。それが私たちに付けられた名前だ。
別段そのような名前を付けた訳ではないが、私たちが夜に商船を襲うこと、逃げ足の速いことから付けられたものだと思う。
だが、夜に船を襲うのも、逃げ足が速いのにも理由があった。つまるところ私、村沙水蜜を含め、船団の団員の多くが女であることが原因であった。
薄暗い宵闇の中では、自らの容姿を偽装して相手を威嚇することができる。女であるからといって侮られることもなければ、余裕の心を持たせる暇など与えない。精神的に錯乱していてくれた方が仕事がやりやすい。
だがいくら容姿を偽ったところで、地の力は変わらない。長期戦になれば、身元が分かるし、何より私たちの体力が持たない。
ゆえに仕事を手早く済ませ、闇に乗じて退散しなくてはいけない。
速攻で襲い、速攻で逃げる。それが私たちの戦術であった。
「今宵の獲物は、あれか」
水咲が声を駆ける。視線の先には、大陸のものと思われる商船の船影が浮かんでいた。
「都合がいいな。奴らなら後ろ髪が引かれなくていい」
私は、海流の方向を調べ、最適な逃走経路を探す。近海の漁師である私たちは、身を持ってこの海を知っているが、念には念を入れて海図も開いた。
がちゃがちゃと音を立てて武具を揃える船員たちが、そこかしこを忙しく走り回る。私は海図を丸め、小姓にそれを手渡し、使い古した銛を手にする。
「水咲、近くに手頃な岩礁がある。斥候船で、気付かれないように接近して、あの船の舵を壊せ。そしてそこに誘導して座礁させろ」
「合点」
私たちの船には、斥候船と言われる小型舟艇が備えられている。本来の用途は偵察用なのであるが、小回りがよく機動性に優れているため、使い勝手が良い。
このように夜の海では、静かに波風立てず航行する斥候船は、非常に重宝する。
我が本船は船員50人を有する中型帆船であり、不格好な大型商船に比べれば足が速いが、それでも斥候船には敵わない。
水咲ら少数精鋭を乗せた小船は、まっすぐ静かに、それでいて殺気を絶ったまま商船へ接近していった。私はそれを見届ける。歯がかちかちとなった。海戦の前はいつもこうだ。
斥候船はまともな装備がない。だからこそ高速性に優れている。だが一方で見つかって攻撃されればひとたまりもない。
危険な任務だ。だが、その戦略に無しには、非力な私たちが勝てる見込みがないのだ。船長である私が、一番つらい時間がこの待っている時間だった。
進路が変わった。ごく自然に波に舵を取られたかのように商船の舳先が岩礁のある方向を向いた。成功を確認した水咲たちは、脱兎のごとく商船から離れ本船へ合流した。
「あのまま向かえば、数分で座礁だ。さぁて戦闘だ」
水咲は、藍色の頭巾を頭に被り長い髪をそこに隠した。
何もない海の中、何かに引き込まれるように商船は不自然な軌跡を描き進んでいく。
「(前方に岩があるぞ!)」
「(何をばかな、そんなものがどこに)」
「(見てください。白波がたっています)」
「(こいつぁ、まずい!!! 面舵いっぱい! 船を回すぞ! しっかりつかまっておけ)」
木霊する絶叫が、私の耳に届いた。その悲鳴が鳴りやむことはない。なぜなら、舵はもう岩礁の方に向け固定されているからだ。もはや停止するしか道はないが、もう間に合うはずもない。血迷ったように勢いよく岩礁へ突き進む商船。低く曇った破砕音が、海に波紋が広がるがごとく海に虚しく反響した。
「着船する! 行くよ、アンタたち」
私は銛を振り上げ、叫ぶ。後方では鬨の声が上がり、帆を張った帆船は座礁した商船へ突撃していく。
*****
私たちが海賊に身をやつす発端となったのは、大陸からの侵略行為に他ならない。略奪され凌辱され、男は殺され、女は犯された。
島に残ったのは、子どもと老人、そして身重の女ぐらいである。
働き手を欠いた島で生きていく為には、手っ取り早く現物を調達したほうが早かった。何より、島を破滅させた大陸の連中がたまらなく憎かった。ただの復讐だった。しかし、海賊を続けるうちに、大陸以外の船を襲ってしまうこともあった。
それは認めなくてはならないことだ。だが、生きていくにはそうするしかなかったのだ。
せめてもの良心か、私たちの船団では不殺を徹底して略奪に終始した。
そうして始めた海賊稼業ではあったが、その甲斐があって確かに島は潤った。子どもが死ぬことも少なくなったし、売られていく娘もなくなった。島の皆に笑顔が戻ったのだ。後ろめたさはあったが、私たちの船が救いの船と呼ばれるようになった時は、本当にうれしかった。
だから私は、この船で、この仲間たちと共に航海を続けていかなくてはならない、そう思った。
*****
座礁し、かろうじて沈没を免れた船には、私たちに抗う術などなかった。
ほとんど戦闘は起こらず、命の保証と引き換えに商材の引き渡しを承知させた。あっけない時はあっけないものだ。乗っていた船が難破したのだから、気が動転して当然と言えば当然だが。
手早く、積荷を本船に移しおえると、最低限舵の修理と舟艇の修復をし航行を可能にしてやった。「もう海賊に襲われるなよ」、と伝わっているかわからない皮肉を口にして、帰島することにした。
戦闘による極度の緊張のあとで、船員の気は緩みっぱなしであった。
流石の水咲も大酒をかっくらい、酔っ払った挙句に大口を開けて寝息を立てている。
「呑気なものだよ」
私は一人ごちるが、手に持った煙管の紫煙を眺めて一息をついた。つい操舵を握る手を休める。床に置いた盃に酒を満たして、星空を映す。星の金箔を浮かべたその酒を一口に飲み下す。焼けるのどの痛み、火照る頬が夜風に吹かれて心地よかった。
穏やかな海の揺りかごに揺られて、私はうつらうつらと船を漕ぎだした。
船が着岸する。手を振り満面の笑みで走り寄る子どもたちが大きな声で叫んでいる。私はまだ結婚していないので、子どもはいないけれど、船に乗る女たちは少なからず母親であった。
水咲もその内の一人で、大変な子煩悩で、いわゆる親馬鹿というやつだった。水咲を呼ぶ声が聞こえると、水咲は、ひと際大きな声で子どもの名前を呼んだ。そして、ひらりと船の縁から飛び降りると、愛する我が子を抱きしめた。
海は魔物だ。無法者である私たちが畏れるのは、海そのもの他ならない。だから航海に出る度に、港には見送りの人々が押し寄せる。そして親や友人の無事を祈る。
よく私は水咲のそんな様子を冷やかしたものだが、「お前が守りたいものを考えてみな」という水咲の言葉を聞いて少しその気持ちが分かった。
私はこの島の人々が好きだし、守ってやりたい。この救いの船で、人々の暮らしを豊かにしたい。
そういずれは、海賊なんかやめて、この船を活かして貿易ができたらいいと思う。だがその前には地盤が必要だ。だから、今は島の力を蓄えておく時期なのだ。
「ムラサ船長!!!」
錨を降ろす私に、後ろから子どもたちが体当たりを喰らわしてくる。背骨に綺麗に入った頭突きに、思わず身をかがめてしまった。そんな様子を尻目に子どもたちは、錨を中心にあしらった船長帽子を頭からひったくって逃げて行った。
「こんのくそガキどもぉぉぉ」
私は苦笑で相好を崩しながら、村の通りを走り去る子どもたちを追いかけていく。
「あらあら、船長さんなのに、みっちゃんはいつもこうねぇ」
「だからいい人がみつからないんじゃないかね」
「おーい、みっちゃんは帰りはうちによっとくれよぉ」
口々にやかましく声をかけてくる威勢の良い村の人たち。その喧騒が、心をくすぐる。
「まちやがれぇい」
黄色い歓声を上げながら走る子どもたちの背中を見ながら、私は一時の幸せを感じたのだった。
そういう生々しい夢だった。
迂闊だった。最近航業が上手くいきすぎて油断していた。海はもっとも畏れるべきものなのに。あろうことか、船員の命を預かる船長なのに。
気付いた時には船は大渦に巻き込まれていた。
海は静かな捕食者だ。気配もなく、母のような慈愛に満ちた抱擁で、時に船ごと打ち砕く。
誰も気づかなかった。誰も気付けなかった。いや、私が気付けたはずなのだ。船長である私は気付かなくてはならなかった。
どれくらい時間が経ったのか、いつのまにか空は重く沈んだ鋼のような曇天であり、風が強く吹いていた。今にも雨粒が落ちてきそうで、黒い雲は時折稲光を発していた。
「起きろ! 起きてくれ! 皆、大変だ!」
狂ったように叫んで、寝ていた船員を叩き起こす。状況が飲みこめない瞳が、驚愕と恐怖に染まった。
「時化だ。急いでこの海域を脱出する!」
だが、その時すでに、船の前方には黒い渦が獲物をいまかいまかと待っていた。
すっかり酔いが醒めた水咲は櫓を取りだし、他の船員たちと一緒に必死に船を漕ぐ。だが、そんなものは何の役にも立たなかった。船はどんどん渦に吸い寄せられる。
半狂乱になりながら、船から飛び降りる者もいた。斥候船を出す者もいたが、すぐに波に浚われ、沈没した。
「畜生…」
時にして五分も経っていなかったろう。
牙をむいた海に何もできず、船は海中に没した。
沈みながら私は、投げ出された船員たちのことも、親友の水咲のことも、自身のことすらも思っていなかった。
―沈んでいく。船が、私たちの船が…
この船がなければ、皆を救えない。
夢を乗せた船がなければ、島を救えない―
引きこまれた海中は思いのほか、穏やかで、ゆっくりと私は沈んでいった。塩水は辛いはずなのに、見開いた瞳にはなんの感覚もなかった。ただ、その瞳に映った船の残骸に心が痛んだ。
涙を流したのだろうか。
周りが水だから分からない。
薄れゆく意識を手離さぬように、近くにあった木片を握りしめる。
口からは気泡が漏れ、その度に、視界が暗くなっていく。
―私はこのまま死ぬのだろうか。
浮かんでくる島の人たちの顔。
だれもかれもが笑っていた。
その笑顔を守るために、私はここまでやってきたのだ。
だが、今はその顔を見ることができなかった。
「ごめんなさい。私はみんなを救えなかった…」
そうして私は、冥府の底に堕ちていった。
■■
稀代の大魔法使い、聖白蓮。
若き美貌と強き法力を持った彼女は、多くの人間に信頼されていた。その噂は、朝廷にまで轟き、やれ鬼を滅したとか、やれ龍を調伏したという噂が市井にまことしやかに話されていた。噂の真偽は結局、わからずじまいであったが、彼女自身の持つ力はまぎれもなく本物であった。
その昔白蓮は、彼女の弟、命連から法術を学んだ。
しかし、命蓮は白蓮よりも早くこの世を去った。弟の死を嘆き悲しんだ白蓮は、死を極端に怖れるようになった。死にたくないその一心で、若返りの力を手に入れた。それは法力に基づいた術式ではなく、妖怪の生命力を基底にした妖力といったものだった。その結果、類まれない力を手にし、魔法使いとして名を馳せるようになったのだ。
そんな彼女にある依頼が持ち込まれた。
それは、とある海域に現れる舟幽霊の滅却の依頼であった。
白蓮は、二つ返事で承諾し、船に乗り込んでいったのだった。
■■
「ムラサ。それが、その妖怪の名前です」
白蓮に付いてきた朝廷の使いの者が言う。
「ムラサ。ですか…」
白蓮は悩ましげに声を漏らした。その様子に使いの男は、思わず赤面してしまいそうになるが、使命を思い出し自らを律した。
そんな様子を知ってか知らずか、白蓮は静かに微笑んだ
「その海を通りがかった船は、不思議な力によって沈没させられてしまいます。
最初の内は被害も少なく、そいつはただの低級霊だったようですが、人の畏れを喰らううちに妖怪としての格が上がり、強大な力を身につけてしまったようです。
そして、その力を使ってさらに多くの船を沈めることで、人々の恐怖を掻きたて、また力を蓄えると言う悪循環が生じています」
「えぇ、それは確かに問題ですわ。時が経つにつれて、手に負えない大妖になってしまうかもしれません」
「はい、ですから、白蓮殿の力を見込んで、このほどムラサを討伐の任を受けてもらったのです。
大陸からの船の被害も大きく、このままでは貿易を中止せざるをえません。なるべく早くこの案件を始末してしまいたいところです」
「委細わかりました。おまかせください」
「さすが白蓮殿、大僧侶と称されるだけあります」
大船に乗ったつもりで高く笑った使いは、船室へ引っ込んでいった。
白蓮は、船べりに手を置き、打ち寄せる波を眺めていた。蒼穹には白い海鳥が思いのままに飛び回っており、海面に反射した光がきらきらと輝いていた。
白蓮は、さざなみのような長い紫色の髪を軽くかきあげ、ため息をこぼした。
明らかにその海域は、他と常軌を逸していた。
そこには、法力を持たぬただの乗組員にも感じ取れるほどまがまがしい妖気が生じていた。海域に踏み入れたというより、向こうから船が浮かぶ周囲の海を浸食したように、突然その姿を現した。あまりに濃い瘴気に、法術師の一人は卒倒し倒れ、使いの男もただならぬ雰囲気に気圧され顔を青くしていた。
「引き返せ、とは忠告してくれないようですね。ふふ、悪い子」
「白蓮殿、だ、大丈夫なのですか」
「えぇ。まあ、多分大丈夫でしょう」
「た、多分って」
「ほら、件の亡霊のお目見えですよ」
白蓮が示す先には、法衣とも着物ともつかぬ奇怪ないでたちの少女が海の上に立っていた。
袴を短くひざ丈にしたような股引と、若緑の線が入った一枚つなぎの服を着ていた。少女の頭の上には烏帽子とは違うのっぺりとした帽子がのっていた。
少女は、白蓮の姿を認めると口元を半月に歪めて凄惨に笑った。
「柄杓をよこせ、大僧侶」
⇔
自分を退治しようとする人間がくることを知った時、私はとても心躍った。それも、高名な大僧侶であるらしい。
正直なところ、普通の船を沈めることに何の感慨もなくなってきていた。だが、その大僧侶とやらをやりこめることができれば、さらに畏れを集められる。自縛霊として縛られた身から開放されるだけの力を得られるかもしれない。
「お前が、私を退治しに来た大僧侶とかいうやつかい?」
「えぇ、そういう貴女はムラサさんでよかったかしら?」
その僧侶は私を見据えた上で、畏れもせずに尋ね返してきた不遜な態度に私は刺激された。少なからず船を沈めてきた私は、それに見合う力を持っていると自負していた。なのに、この僧侶は事無げな顔で普通に語りかけてきた。
―つぶしてやる。
大層な船にのりやがって、妬ましい、憎らしい―
轟々と渦巻く私の感情がそのまま、海の表情に現れる。どす黒い濁流となった波が、かの大僧侶を乗せた船を叩きつける。
どよどよとした雰囲気が感じ取れたが、何故か船の人間たちは安心しているようだった。
それもこの僧侶の徳と法力の為せる業なのだろうか。
私は傲慢に、僧侶を精一杯見下して返した。
「だとしたら?」
その言葉に僧侶は、蓮の花がひっそりと花開くように、小さく微笑んだ。
「その歪んだ心、私が叩いて伸ばしてまっすぐにしてあげましょう」
血管の切れる音がした。私は、持てるすべての力で大時化を引き起こした。
なんの工夫もない力技だ。うねる海流で船底を抉り、船の骨子を破壊する。荒ぶる怒りを津波に変えて、船体を震わす。憎しみと嫉妬と憧れが入り混じった情動が、絡み合いひしめき合い、その姿が螺旋となる。
「さぁ、大僧侶。貴様の法力を使って我が怨嗟の暴力を受け止めきれるか?!!」
船を襲う私の力はさながら八岐大蛇、海の災いそのものだった。
果たしてどのくらいこの僧侶が私の力を止められるのか。
期待した。
力を持て余した私は、本気になることが少なかったのだ。
不敵に笑う私に対して、その僧侶は笑みを崩さなかった。
「無理だわ」
「…は?」
疑問を口に出す前に、僧侶が乗った船は木端微塵に打ち砕け、大渦に飲まれて海の藻屑に消えた。
「どういう…」
意味が分からなかった。大魔法使いとも言われた僧侶がただの一撃で、海に没した。
れだけ私の力が強かったのか。いや、あの僧侶は違った。なんの抵抗も見せなかったのだ。拍子抜けもいいところだった。
乾いた声が漏れた。大笑いしたい気分だった。
ひきつったように笑う。
高慢なあの僧侶は、何の力も発せず滅んだ。
それなのに。それだから、
私の心は波にうがたれた岩のように虚しかった。
ひとしきり笑い終え、顔を上げた。
帰ろう、今日はもう眠りたい気分だった。
夢でも見ているのだろう。海の上にはあの僧侶が微笑みを浮かべていた。
重くなった瞼が急に開かれた。気だるさなど吹き飛んでしまっていた。
夢ではない。
僧侶は海に投げだされていたわけではなかった。海の上に、その忌々しい僧侶は直立していたのだ。
だが、海面に立っているなら、波の上下に合わせて体が動くはずなのに、その僧侶は微動だにしない。まるでなにかに乗っているかのように。
「心配しなくても大丈夫よ。海に落ちた子たちは後でしっかり引き上げてあげるから」
「そんなことは聞いていない!」
「あら、顔面蒼白にして、冷や汗を流していたものだからてっきりそう思ってしまったわ、ごめんなさい」
僧侶はやはり笑みを絶やさないまま頭を下げた。
私が見ている前で、僧侶は指を鳴らすと、海中からは先ほど沈んだ船とは違った船体が浮かび上がった。
僧侶は帆柱の先端に乗っていた。だから海の波にも揺られずに立っていたのだ。
だが、そんなことはどうでもよいことだった。
私が見たその船は、
―どうしようもなく
昔の記憶のない私の脳裏に
懐かしい友の、島の人々の顔が浮かぶ
周りは白い霧に包まれたかのように、その人たちの姿しか見えない
ひび割れる
頭が痛い
私は何を忘れてしまっていたのだろうか
そうだ、大切な想いがあった
私はだから海に繰り出した
だけどそれは…―
知らず私は涙を流していた。泣いていることに気づかないほどに自然に。
口にしみた塩の味。その時はじめて、私は大粒の涙をこぼし、鼻水をたらしながら慟哭していることに気付いたのだ。
「貴女にとっての救いの船はこれでしょう。村沙船長」
「その船は…その船は」
「海賊と言う罪にまみれた貴女を海は許さなかった。けれど、その船にかけた純粋な想いにまでは、敵わなかったのでしょうね。
後悔と責任、呵責と贖罪。弱き心は強き情念にたちまち支配される。貴女は船を探していた。仲間を救うために、自らの夢を叶えるために。
だから、船を失った自分を慰めるように違う船はすべて沈めた。船に乗る人間が憎い。と」
目の前に僧侶がいた。その顔には変わらぬ笑顔を湛えて、
「私の乗ってきた船は、不慮の、ええ不幸な事故で沈んでしまいました。
なんとか私はこの船をつくることができましたが、私にはこの船を操れません。
だから、貴女が私たちを救ってください
この聖輦船は貴女の船なのですから。」
光に包まれた気がした。
手を差し伸べる僧侶の背後には、水咲や村人、こどもたちの姿が確かにあったと思う。
迷いはなかった。私はまっすぐに手を伸ばし、そして、後に仕えることになる白蓮様の手を取った。
その時から私は、自縛霊ではなくなった。
■■
呪いの海域を脱出したあと、ふらふらと倒れこんでしまった水蜜を白蓮は自身の膝に乗せ介抱していた。
白蓮は最初から、妖怪ムラサを退治しようと思っていなかった。なのになぜその任を受けたかと言えば、白蓮が断れば、違う法力使いにその任が委譲されてしまい、ムラサが退治されてしまうかもしれないからだった。
聖白蓮は、超人である。だが、その本質はどこまでも人間であった。死を畏れ、それから逃れるために何でもした。それは丁度、不老不死の薬を求め、私財を投げ打ち、衰亡する貴族のように。
白蓮は、死からの逃避を妖力に求めた。命連から受けついだ聖なる法力をもってすれば、妖魔を滅すことなど容易いことではあったが、逆に、その法力をもってでしか滅せない妖魔の生命力に関心を持った。血のにじむ研鑽を重ね、妖術を会得し、魔術までも体得した。
しかし、その過程で妖力を失うことへの恐怖を知ってしまった。
ゆえに、白蓮は妖魔を滅ぼせなくなった。妖魔から得た妖力は、妖魔を滅し尽くせば失われてしまう。
だから、彼女は妖怪を敬うようになった。己の命を保つ小欲の下に、白蓮は妖怪を助けた。僧侶である彼女には妖怪退治の依頼が来るが、裏では退治するふりをして、その妖怪を助けていたのだ。
妖怪の手助けをするうちに、私欲から生じた妖怪への想いは変わっていった。人を喰らう悪しき化生には、お灸をすえなくてはならないと思ったが、迫害される力なき妖怪たちの境遇には思わず同情した。決して人間と敵対するわけではない。人間と同じように心を持つ妖怪を平等に扱い、互いの共存を図ろうとしていていたのだ。いつしかそれは白蓮の大欲、つまりは使命感になっていった。
白蓮は、数百年前にとある島で海賊の一味が全滅したということを知っていた。そしてその船員の魂が、舟幽霊となっているだろうことも。だからこそ白蓮は、船に囚われたムラサの心を正すため、妖怪退治の任を受け入れたのだった。
■■
鴎の甲高い声が耳につく。
大海の黒渦に飲まれたはずの私は、
天照らす日の光を受けてたじろいだ。
思い出す。
何をするのか。
何をしなければならないのか。
甲板の上に仰向けになった私が身を起こすと
船の先端に紫色の法衣を纏った僧侶が微笑んでいた。
そうだ。
私は、
仲間を救わなくてはならない。
海中に沈んだかつての仲間、その魂を救わなくてはならない。
そう、私は妖怪なのだから。
オリキャラが出てくるなら注意書きを軽く書くべきかタグを追加するべきかと。
出番が僅かとはいえ、急に知らないキャラが出てきたので誰こいつ?ってなりました。
オリキャラの注意書きを加えました。指摘ありがとうございました。
7>
それについては確かに考えました。
これについては、あとから見返して描写、文章とも足りない部分がありまして、
妖怪になってしまったから、同じく、船団の仲間の魂=他の船幽霊になってしまっている仲間を助けるという意味で、
妖怪だから、同じ妖怪仲間になってしまった船団の乗組員を救わなくてはならないとしたわけです。
最後の文章だけであると、「妖怪だから」というニュアンスが伝わらなかったことに気づき、申し訳なく思っています。
水蜜はもう人ではなく、人として仲間を救うことはできなくなっています。 自分の中では、この物語の中での船長という立場は、あくまでも人間時代であった水蜜の象徴だと考えています。妖怪化した彼女は、船長でありながら、もはや船長になることはできず、船長であった者の船幽霊でしかないと思うのです。そして水蜜自身も、自分は人である、もしくは人であったという認識がなくなっています。
私個人の認識としては、白蓮の妖怪救済は、良い意味にも悪い意味にも人間性にあふれたものであると思うのです。神のようにすべてを見通す力はなく、あくまでも、彼女の主観に基づいて、そして独善的に救済を行っていると思います。その中で、水蜜の魂の救済は、妖怪の心に染まった水蜜の心自体を人間時代のものに戻すのではなく、妖怪の心を持ちながら、そして妖怪として生きるようにしむけているように思えました。自縛霊であった水蜜を縛っていた船への執着心を解放すれば、水蜜は成仏していたはずです。しかし、水蜜はその後も白蓮に仕え、聖輦船を操っています。そのことを考えると、船への執着から生じた仲間への想いを利用して、水蜜を現世にとどまらせ続け、聖輦船の管理をさせていると思えます。それ自体、白蓮が望んだことではないかもしれませんし、水蜜が仲間を救いたいという夢、そして欲求を持っていることから、その使命を果たさせてあげようとしてあげたのかもしれません。しかし、いずれにせよ、水蜜の救いたかった仲間は、もう死んでおり、いたとしても幽霊となりこの世をさまよっています。そんな仲間を救おうとするあてもなく、むなしい選択を水蜜は選び、後悔と贖罪の念を一生感じ続けると思います。それは果たして水蜜の幸せなのだろうか、と思うと、とても残酷な話であると感じるのです。
船長として救えなかった仲間を、今度は同じ妖怪の仲間である自分が救おうというそんな切ない感じをだしたくて、締めの一文を「妖怪」にしました。
東方の世界には残酷な部分が多く隠されています。そんな残酷な世界観をもっとしっかり描けるようにしたいです。
ご指摘ありがとうございました。
表現の拙さから、自分の思っていたことを伝えきれていませんでした。読んで頂いている読者の方にもっとわかりやすく、文章を考えていこうと思います。長くなってしまって申し訳ないです。
それでは、次はしっかりとした表現で、作品づくりをしていきます。
ここまで読んで頂いた方、よろしければ、次回作の方もよろしくおねがいします。
ムラサの過去話とかのSSは涙が出てくるなぁ。そしてこの作品も俺を泣かしたうちの一つ、と。