彼女は身体の触れ合うのを嫌がる。曰く、私の身と心は毘沙門天様のものだから。加えて言うならくすぐったいし暑苦しいし面倒臭い。そういうのは好かないんだ。
聖が抱き寄せれば渋々応じる。私が腕に縋っても、しばらくはそのままでいてくれた。けれども彼女から触れてくることはまずない。千年間そうだった。時間で埋められない距離もある。
寒風の荒れる晩の道で、彼女は小さくくしゃみをした。繋ぎませんかと手を広げたら、突っぱねられた。結構だよ、ご主人様。
彼女の本当のご主人様、毘沙門天様は、遥か高いところにいる。どれほど努力をしても、長い時を共に生きても、私は本物にはなれない。
ただ、両手に白い息を吐きかける彼女は放っておけなかった。紺の綿布を巻いた首周りが寒そうだった。
それから約一ヶ月、私は聖の傍仕えと説法の合間を縫い、宝塔と独鈷杵を初心者用の鉤針にこっそり持ち替え、魔法の森の器用な人形遣いさんの指導を受け、紛らわしい目を正確に数え、夜なべをしてやっと、
「完成、です」
明け方の光に、毛糸の襟巻きをかざした。不慣れな手仕事に序盤こそ苦戦したけれど、時間をかけて何とかそれらしいものに仕上げられた。曙光が割と均等な編み目越しに射してくる。長さも十分、首に二巻きしても余裕がある。不恰好によれてもいない。森の先生も、これなら頷いてくれるだろう。
色は白に近い桜一色。女々しいと彼女は呆れるかもしれないが、淡い肌と紅珊瑚の瞳にはよく合うはずだ。
彼女に隠れて、心を籠めて編んできたものだ。柄布に包むか、リボンをかけるかして贈りたい。稚児のように素直に喜んでくれなくてもいい。ちょっと驚くか、君は馬鹿かと冷ややかな笑みのひとつもくれればいい。
出来立ての襟巻きを衣装棚にしまって、部屋を出た。睡眠時間を削ったからか瞼が重い。
顔を洗おうと水場に向かったら、廊下で聖と会った。朝の早い方だ。菫紫と金の緩く波打つ髪を、ご機嫌そうに揺らしている。
「おはよう、星。早いわね」
「おはようございます、聖。お散歩ですか」
「桜草が雪から顔を出していたわ。もうすぐ春ね」
春の盛りのような声で、おっとりうっとり語った。
日が落ちてからはもちろん、日中もまだまだ冷える日が続く。それでも次第に凍雪は融けつつある。寺の参拝客が、そろそろ雪降ろしも終わりだと嬉しそうに話していた。
「私達がお寺を開いて一年になるわ」
言われて、時の経過を認識した。もうそんなになるのか。
昨年の冬に、地底から突如聖輦船が出現して。ムラサや一輪達との再会を喜んで、聖復活のために出航して。魔界の辺境に赴いて、飛倉と宝塔の力で聖を救い出した。船を命蓮寺に変え、かつてのような素晴らしい信仰生活を始めた。皆で暮らし始めてからの日々は、短く感じられた。ぬえという新しい入門者も迎えて、寺はますます賑やかになった。
彼女の胸を借りて、涙することはなくなった。泣きたければ泣けばいい、神が嗚咽しないと誰が決めた。そう慰められることも。
「今夜、船を出しましょうか。たまにはお寺の皆だけで、わいわいやりましょう。平和な一年を祝って」
「いいですね。買い出しや料理はお任せください」
「あら私もやるわ。準備も楽しむのも皆で、ね」
朗らかに笑い合った。
そうだ、今晩彼女に襟巻きを贈ろう。千年と一年分の、ありがとうを告げて。
早朝の読経の後、聖はささやかな宴の計画を発表した。
「急だったかしら。だめ?」
愛らしく小首を傾げる聖に、逆らう寺の者はいない。
ぬえは来るご馳走にはしゃぎ、味見役を買って出た。ムラサが彼女をたしなめ、船仕込みの腕を見せてやると料理役に立候補。聖も厨房に立ちたいと手を挙げた。
残る一輪と雲山、私、そして彼女――ナズーリンが、買い出し班になった。
朝粥を食べながら、聖やムラサに必要なものを訊いた。野菜や調味料、林檎や桃のジュース、蓮の香りのお茶、お菓子、飾りつけ用の色紙やリボン、鶏肉と魚とお酒(幻想郷に来てから飲むようになった)。挙がる品々を憶え留めた。品数は多いが、量はそれほどではない。一往復で済むはずだ。
食器の片づけと日課の本堂掃除を終え、一輪と行く店の分担を決めた。
「重たいものは私と雲山に任せて。星とネズミは細々したものをお願い」
入道雲山が形を成して、豪腕を膨らませた。二人なら店の建物や蔵でも運べるだろう。安心して送り出せる。
「私達も行きましょうか、ナズーリン」
「了解」
人里の商店地図に丸印をつけて、彼女は立ち上がった。
「もう一年になるのか」
壁の暦表を見やって、重く静かに言葉を置いた。
時の長さや重みを、私とナズーリンは他の者より幾らかよくわかっていると思う。法界や地下に眠らされることなく、ひたすらに千年を過ごしてきたから。聖輦船の浮上する未来も希望も見えず、ただ生き続けた。
ナズーリンは、本物の毘沙門天様の遣いである。遥か昔の山寺時代、聖の許で毘沙門天様の代理を始めた私の監視にやってきた。正体を知るのは聖と私のみ。監視つきだなんて知られたら情けないだろうと、口端を上げていた。ムラサや一輪は彼女を自分達と同じ、聖に帰依する一妖怪だと思っていた。一輪が時々彼女をネズミ呼ばわりするので、腹を立てていないか心配だった。訊いてみたらどうでもいいと言われた。それより君の態度だ、もっと毘沙門天様らしく堂々と振る舞うべきだ。淡々と辛口のお説教をされた。
私に神になるきっかけを与えたのは聖だが、私を神に近づけたのはナズーリンだろう。彼女に認められたくて、毘沙門天様の教えを胸に刻み修行を積んだ。信者の前で威厳のある声と姿勢を保った。彼女は私の説法や談話を貶し、叱りつけ、稀に褒めてくれた。今日のは悪くなかったと。あっさりとした称賛が嬉しかった。彼女から毘沙門天様の神威の象徴たる宝塔を授けられたときは、思わずきつく抱擁してしまった。すぐに突き放された。
聖と仲間達の封印の際、私は一介の妖怪に戻りかけた。妖の本性を見せれば、仲間達の場所へ行けるだろうから。しかしそれでは聖の願いや、ナズーリンの信用を裏切ることになる。彼女を落胆させるのは許せなかった。彼女を毘沙門天様の許に帰したくなかった。私はこれからも毘沙門天様の代理を続け、信仰を集めます。だから私を見ていてください、ナズーリン。私の宣言に彼女は意外そうな顔を見せ、強く笑った。わかったよ、ご主人様。主と呼ばれたのはその時が初めてだった。
それから千年、彼女と共に歩んできた。
人間の信者に彼女の耳と尻尾が見つかりかけて、慌てた一幕があった。
弱者をいたぶる妖怪の集団相手に、背中合わせに戦った日があった。
聖や仲間を思い出して、号泣した夜があった。
枯れかけた力を取り戻すために、東方の幻想郷を目指した。
道中妖怪の病に倒れた彼女を救うべく、妖専門の医者を捜した。高額の謝礼を求められ、金の法具や宝塔を手放した。快復した彼女に宝塔をうっかり失くしたと詫びたら、ダウジングロッドで小突かれた。ご主人様は馬鹿か間抜けか、私がいないと駄目な虎だな。元気な怒声が聞けてよかった。真相は明かさなかった。
ナズーリンがいなかったら、今日の私はいない。私は彼女にとても感謝している。なかなか伝わらないけれど。
「昔と比べたら、ご主人様は大分ましになったよ」
女性や子供に人気の雑貨店で、装飾用の千代紙を選んでいる最中。最近の私は毘沙門天様の代理としてどうかと訊ねたら、ナズーリンは浅い褒め言葉をくれた。
「そうですか」
「そのへらへら笑いをやめれば更にましになる」
だらしなくにやけていたらしい。両頬を叩いて選定作業に戻った。鶴と亀のおめでたい柄の和紙を、会計用のざるに載せた。
「少なくとも私の前で泣くことはなくなった。聖達が戻ってきたからだろうね」
私では、彼らの代わりは務まらなかったということだ。呟いて、彼女は薄い色味の竹柄の千代紙を被せた。
毘沙門天様の代わりの私に、代用品の話をしないで欲しい。哀しくなってくる。
「ナズーリンがいなかったら、千年は耐えられませんでしたよ」
「この一年は耐えられたんじゃないかな」
「淋しいことを言わないでください。命蓮寺は誰を欠いてもいけません」
鮮烈な紅梅柄の紙を、竹柄の上に叩きつけた。ナズーリンは苦笑して、
「やれやれ。ご主人様といい聖といい、寺の面々は甘い」
暖色の細リボンを数巻き、平ざるの縁に重ねた。あるリボンには鳥が織り込まれていた。
聖を救出してから、私は時折靄のような不安を覚えていた。私が聖というかつての拠り所を得たことに、ナズーリンが安心して。私の役目は終わったとばかりに、毘沙門天様の許に帰ってしまうのではないかと。ある日突然、いなくなりはしないかと。未熟な神様代行の馬鹿げた心配事だけれど、心に居座り続けていた。
繋ぎとめたかった。
私は紅白のリボンと一緒に、焦げ茶のリボンを選んだ。両端に薄桃の線が走っている。彼女に贈る襟巻きに、結びつけるためのものだ。
会計を済ませて、品物を店先に置いていた二つの紙袋に入れた。袋の中には菓子店や茶店、道具店で買った商品が収められている。これで買い物は最後だ。各々一つ袋を持って、寺への道を歩いた。
太陽は蒼天の中心に昇ろうとしていた。寺ではムラサ達が軽い昼食を用意しているだろう。
風は北から冷たく吹いて、私の羽衣飾りを揺らした。ナズーリンの尻尾も震えて、籠の子鼠達が騒いだ。
彼女の手を引き寄せて握った。凍えていた。体温が低いのか、冷えやすいのか。私の熱を伝わせた。数店行ったところで、振り払われた。間に合っているよと。
命蓮寺の居住区域の玄関先で、聖が長靴を履いていた。
「ちょっと要るものができたから、行ってくるわ。お昼先に食べてて」
「私が行ってきましょうか」
「平気よ」
笑顔で背中を押された。西洋料理の香辛料でも切らしていたのだろうか。
ぬえ手製の正体不明の具のおにぎりを摘んで、午後は居間の飾りつけをした。
私は千代紙を細長く切って輪飾りにし、壁の上部に半円状に貼り付けた。墨を磨って「祝開山一周年 南無三」と書き、朱で「寅丸」と署名した。掛け軸に仕立てて、普段の仏画と入れ替えた。不器用ながら、リボンで蓮の花を模して軸の隅につけた。
ナズーリンは襖用の切り絵を作っていた。赤の紙に細筆で毘沙門天様の姿を下書きし、小刀で精密に切り進めた。亀甲文様や宝塔、梅の花枝も仕上げていた。本人は適当にやっているだけだと言っていたが、十分巧い。私の初編み襟巻きなど一笑に付されるかもしれない。
一輪と雲山は折り紙だ。色紙で幾つも同じ形を折って組み合わせ、薬玉をこしらえた。雲山の特大の玉の下に、一輪の小粒玉が連なった。五色の糸が流星の尾のように垂れ下がった。雲山の手で部屋の四方にくくりつけられた。可愛さを足しましょうと、一輪が要所要所にリボンを二重に結んだ。
紙もリボンも時間も余ったので、雲山の指導で箸置きとリボン編みのコースターも人数分用意した。
「こんなところかしら。やり過ぎてごてごてするのもね」
一輪の短評で一旦解散となった。
日は西に傾いていたが、空は未だ明るかった。夜の船出まで確実に一刻はある。
私は焦げ茶のリボンを持って、部屋に戻った。聖がおつかいから帰ってきていた。台所と自室を行き来しているようだった。慌しげな足音が聴こえた。宴会芸の準備だろうか。私も何か考えた方がいいのかもしれない。前に里で聞いた童謡を歌おうか。ナズーリンに馬鹿にされるか。
「さて」
衣装棚から毛糸の襟巻きを取り出した。
折り目がつかないよう優しく畳んだ。
リボンを適度な長さに切って、襟巻きの後ろに回した。雲山のリボン編み講座のおかげか、丁度いい丈に切れた。
一輪が薬玉に施していたように、二重に蝶結びを行った。何度か失敗してやり直した。
リボンの端を三角に切ったら、売り物のプレゼントのように見えた。
結び目が崩れないよう注意して、薄茶の紙袋に入れた。
後は宴会の際に、時期を見計らって渡せばいい。
心地良い疲労感が、頭の先から降ってきた。昨日からずっと、編み物で寝ていない。買い出し疲れと飾り疲れがそこに加わった。とどめに、ナズーリンへの贈り物を用意できたことの満足感。最高に眠かった。料理は聖やムラサがやってくれる。手助けは要らない。
今のうちに軽く寝ておこう。宴の途中で眠ってはもったいない。
座布団を枕にして、私は目を閉じた。
「ご主人、ご主人様」
頬を硬いもので突かれている。冷たくて痛い。
「ん、にゃずーりん?」
「起きたらどうだい。もう少しで始まるよ」
ナズーリンがダウジングロッドの先で、私の頬を叩いていた。Sの字の鉤部分が肉を引っ張っている。身体に触れない彼女らしい起こし方だ。昔からこうだった。せめて足にしてくれればいいのに。
部屋は群青色、暗かった。障子を開けたら星空が間近にあった。船はもう飛んでいる。
羽衣を肩に引っ掛けて、
「眠り過ぎましたか、私」
「いや。配膳も乾杯もまだだよ」
忘れずに襟巻きの包みを掴んで、襖を閉めた。ナズーリンは袋に一瞬視線を向けただけで、中身を訊かなかった。
「ここ千年で一番幸せそうな寝顔をしていたよ。平和ぼけかい」
「平和ですがぼけてはいませんよ。私はちゃんとした毘沙門天の代理です」
「そうだね、代理だ」
惚けていない証拠に、取り皿や箸をせっせと卓に運んだ。
幻想郷の宴席では、上座下座のこだわりは薄い。上下関係がさほどないからだろう。私達も、日に日に席を定めなくなっていった。今、上座にいるのは新顔のぬえ。反対の下座には聖が正座している。聖の向かって左側に私、右側に一輪と雲山。私の隣にナズーリン、雲山の隣にムラサが座っている。
「では、一年間お疲れ様でした。とても楽しかったわ、皆のおかげね。ありがとう。これからも素敵な日々が続くことを願って」
聖の音頭で、皆一斉に盃やグラスを掲げた。めいめいが近くの者や遠くの者と、器を打ち合わせる。後は飲むも自由食べるも自由、足を崩すのも自由の、幻想郷流の祝宴だった。堅苦しさがどこにもない。
「ムラサそれ取って、魚じゃなくて肉」
「あんた私の料理も食べなさい」
「私が一尾貰いましょう。ナズーリンもどうですか」
「気が向いたら頂こう。鼠達がチーズを欲しがっていてね」
ムラサの山女の焼き物は、お腹に玉ねぎや豆の詰め物がしてあった。外皮は小麦粉の衣に覆われ、バターを使って揚げるように焼かれている。西洋の手法だ。川魚の野趣に富む旨味に葱の甘味と動物油の膨らみが重なって、舌も胃も悦んだ。散らされた香草も味を引き立てている。白葡萄酒に合う。
「腕を上げましたね、ムラサ」
「色々使えるもの。面白かった」
命蓮寺を開いてから、料理の種類が増えた。元々持っていた仏道料理のレシピに、西方の材料と技法が交わった。寛容な聖はいかなる味をも引き入れた。結果、卓には和洋折衷、様々な味覚の花が咲いた。ぬえが次々取っているのは鶏の脚の揚げ物。ムラサが皿に盛っているのは魚介の炊き込みご飯。米は色素で黄色く色付けされている。レモンを絞って味わっていた。雲山は里芋と絹さやとがんもどきの煮物を取りつつ、麦酒で一杯やっている。一輪と聖は熱燗や、焼酎の果汁割り。ふうき味噌やポテトサラダで楽しんでいた。干菓子や林檎のゼリー、杏の紅茶煮も並べられている。
昨年の秋までは考えられなかったご馳走達だ。ナズーリンと二人で暮らしていた頃の食生活は、これほど豪華ではなかった。でも、彼女がいたから乗り越えられた。
私の隣で、ナズーリンは鼠達と白チーズ載せのクラッカーを齧っていた。目の前で繰り広げられるどんちゃん騒ぎを、黙って観賞しながら。冷静な視線も、グラスの炭酸柚子焼酎も変わらない。あかい瞳はほんのりと細められる。彼女も彼女なりに楽しさを感じているのだ。
私は後ろに置いた紙袋に手を伸ばし、
「あの、ナズーリン」
「皆聞いて、聖が渡したいものがあるって」
一輪の鍛え抜かれた大声に止められた。
皆が一斉に聖に注目する。聖は頬を酔いと照れで赤らめ、
「思いつきで急いで作ったから、大したものじゃないけれど」
魔力を込めた手で、空気を招いた。青紫と灰紫の二色、蓮柄の包装袋が六つ。廊下を浮いて行進してきた。宴会場の聖以外の六名、各人の膝に落ち着いた。両腕で包める大きさの袋だ。開けてみてと聖が促す前に、ぬえが包装紙を破り、
「マフラーだ!」
(ふぇ)
黒い毛糸の襟巻きを引き出した。ムラサや雲山も同様らしい。
私も袋の封を開けてみた。私の頭の花に合わせた、淡橙のマフラーが入っていた。所々濃い橙や紅に切り替えられている。終点には白い蓮の花と、私の名前のアルファベットが編み込まれていた。編み目は森の人形遣いさんのお手本のように均一、一片も狂いがない。糸を引き伸ばすような特殊な編み方をしているのに。
「春はすぐそこだけれど、しばらくは寒い日が続くわ。よかったら使って」
(どうしよう)
背中を汗が伝った。こんな手の込んだ品を、思いつきで急いで、一日に六本も? 聖はやはり超人だ、倍編めと言われたら三倍編むだろう。敵わない。
ナズーリンは灰色を基調としたマフラーを手に取って、一輪達に倣って首に巻いた。瞑目し、悪くないと漏らした。
「私好みの色だよ。ちくちくしない。悪くない」
彼女の最大級の賛辞だ。私は背後の紙袋を船外に投げ捨てたくなった。何もかも忘れて呑みたい。花丸の品を提示された今、彼女に渡したところでどうなる。二番煎じでは驚きは薄い。編み目は聖未満の未満、色だってナズーリンの趣味からは外れている。冷ややかに笑われるどころか、可哀想な目で見られるかもしれない。ああご主人様は所詮その程度の駄虎だろうなと。
手袋か耳当てか、とにかく市販品にしておくべきだった。
「ところでご主人様、さっき私を呼んだだろう。何だい」
「あ、いえ、はい。飲み物のお代わりはいかがですか」
「頂こうか」
私は俯いて、焼酎を無味の炭酸水で割った。櫛切りの柚子を絞り注ぐ。果皮の汁が目に入って、沁みた。
命蓮寺勢は、山の神々や天狗と比べるとお酒に弱い。呑み始めて一年という所為もあるのだろう。
宴を始めて数刻、聖は真っ赤な顔と声で朗々とお経を詠い上げるや、倒れて寝息を立て始めた。雲山が毛布を持ってきて入道の形を崩し、一輪も突っ伏した。首に聖の襟巻きを巻いたまま。
ナズーリンは風に当たってくると一言残して、甲板に出た。
私は白葡萄酒を蓮茶に切り替えたので、意識を保っていた。ムラサとぬえも平気だった。船酔いの感覚に比べれば苦しくないそうだ。ぬえは昔から飲んでいたので、問題がないという。二人は言葉でじゃれ合い、私はたまに間に入った。
頭の中は後悔と自己卑下で一杯だった。彼女に襟巻きをかけて長年の感謝を伝えるはずが、聖の完璧な品に圧されて挫折。何もできないでいる。別の日、別の場所に持ち越そうか。立ち上る湯気のように、思考は頼りなく揺らめいた。
「それ、手編みのマフラーでしょ。誰に渡すの」
「はい?」
ぬえが私の後ろを指差していた。手を合わせて舌を出し、
「ごめんね、部屋で包んでるの覗いちゃった。集中してて全然気付いてなかったよ」
「聖に渡したいなら、さっさと巻きつけちゃいなさいよ」
ムラサも会話に参加してくる。私は首を横に振った。
「これは、その。ナズーリンに渡せたらいいなと思っていたのですが。聖のものより遥かに劣る出来で、役に立たなそうで」
身体に溜まった酒気に操られるように、恥ずかしい理由を明かした。
「ナズーリンと星は付き合い長いの?」
「私とあんたの地底歴より長い」
「そうです、長いです、だからお礼で、寒そうにしてたので。でもやっぱり、やめておきます」
袋を抱え込んだ。感謝の気持ちは、いつだって伝えられる。彼女が帰らなければ、いつだって。
また不安が湧き上がった。ナズーリンは、いつまで私を見ていてくれるのだろう。監視が永遠に続くとは限らないはずだ。千年間付き合わされて、私の現状に安堵して。毘沙門天様の許に戻るかもしれない。別れの日はいきなり訪れる。聖の封印の日のように。
私の寝顔を、ここ千年で一番幸せそうと彼女は評した。幸せなのは、聖やムラサ達がいるからだけではない。ナズーリンもいてくれたから。私の喜怒哀楽の傍には、常に彼女がいた。
「行きなよ。面白くなりそう」
ぬえがテーブルを飛び越えて、私の背中を叩いた。ムラサも酒瓶で肩を揉みながら、隣に来た。紙の袋を逆さまにして、桜色の襟巻きを落とした。ぬえが可愛いとはしゃいだ。
「私がぬえや一輪と千年、封じられてきたみたいに。星達にも星達の千年、あったんでしょう」
これはその形。ムラサは私の眼前に、春色の塊を突きつけた。
目数を間違えては、数えた。編み目は均一なようで、よく見れば曲がっている。彼女と渡り歩いてきた日々のように。平坦な一本道ではなかった。危ない目にも遭った。でも、やめようとは思わなかった。手放したくなかった。
私の中で、彼女はかけがえのない存在になっていた。
「貴方たちの千年を、私は笑わない。誰とも比べない。仲間として誇るわ」
襟巻きが押し付けられた。
「毘沙門天様の勇敢なところ、見せてきなさい。さもないと、この船沈めるわよ」
お酒をラッパ飲みして、ムラサはウインクをくれた。
私は幸福だ。仲間にも、部下にも恵まれている。立ち上がって、覗かないでくださいねと釘を刺した。
「ごめんなさいムラサ。私の隣は、やはり彼女でないと落ち着きません」
船は東の夜空に留まっていた。甲板に続く戸を開くと、弥生の冷風がぶつかってきた。羽衣を内側に置いて、襟巻きを抱えて私は外に出た。
早春の星々が、聖なる船を見守っていた。アークトゥルス、デネボラ、スピカ。春の大三角形の下に、ナズーリンがいた。船縁に腕を置いて、天を見上げている。聖手編みの鼠色のマフラーの先が、上下左右に暴れていた。唇が動いている。何か歌うか、話すかしているらしい。近寄ると、
「以上です、毘沙門天様」
毘沙門天様への報告を終えたところだった。彼女は月に数回、本物の毘沙門天様に私の素行や寺の様子を連絡している。
振り向いて、
「盗み聞きとは趣味が悪いな、ご主人様」
「偶然です。最後しか聞きませんでしたよ」
ムラサやぬえに点けられた勇気の火が、風に消されないうちに。私は抱えた襟巻きを、ナズーリンの胸に押し当てた。彼女はリボンを引き、マフラーを夜風に広げた。
「貰ってください。私からナズーリンへ、千と一年分の感謝の気持ちです。あ、でもまじまじ見ないでください、最初の方とかぐちゃぐちゃで。聖のと比べるのもなしですよ、本当にもう」
勇敢さに羽が生えて飛んでいく。お空の毘沙門天様、この臆病な虎にひとかけらでも勇ましさをください。
彼女は襟巻きを端から端まで見つめ、口元を悪戯っぽく曲げた。
「聖に先に出されて、尻込みしたね。ムラサ船長辺りに勇気付けられて、何とか上ってきた。実にご主人様らしい」
「お見通しですか」
「何年一緒にいると思っているんだい」
編み目も色も指摘せず、彼女は首に巻いた。夜闇が不具合をぼやかしてくれたのかもしれない。長い両端をリボン結びにした。私は目を見開いた。編んだ身が言うのも何だけれど、悪くない。似合っている。可愛らしい。
「貰っておくよ。防寒具は幾つあっても邪魔にならない。これはこれで、いい」
よかった。今のは彼女なりの称賛の言葉だ。ナズーリンは風になびく短髪を払い、
「貰ってばかりだね。私は何も返せないよ」
「いいんです。ただ」
「ただ?」
「どこにも、行かないでくれれば」
彼女を北風から守るように、私は抱き締めた。息苦しくない程度に、最大限の強さで。
ナズーリンは私より小さくて、賢くて、毘沙門天様に近い。
「ご主人様?」
「行かないでください。私は貴方がいないと困ります。千年経っても、聖がいても」
天空を行く月は下弦の手前。欠けて閉じればいい。満月の扉が開かなければ、お姫様は帰らないで済む。
これからも、彼女と歩んでいきたい。触れ合いたい。本物の毘沙門天様に、渡したくない。
一方的な抱擁が続いた。彼女は背に手を回したり、胸に頬を押し付けたりせず、
「私をかぐや姫と勘違いしていないかい。行かないよ、どこにも」
こんな頼りないご主人様、放っておけない。喉奥を鳴らして笑った。
「ご主人様のどうしようもなさは、誰よりもよく知っている。妖怪の癖に神を目指そうとしたり、神様以上に熱心に信仰を集めたり。通りすがりの困っている妖怪を見捨てられなかったり、人間に水筒を丸ごと渡したり」
「過去の失態を列挙しないでください」
「私如きを助けるために、貴重な宝塔を売り飛ばしたり」
「え?」
抱く腕を緩めて、彼女を見下ろした。ナズーリンは片目を細めていた。意地の悪い笑顔だ。紅の瞳の奥で、星と私が揺れていた。
「ご主人様の優しさも、有能さもよく知っている。嘘が下手なことも。うっかり宝塔を失くすはずがない。騙されてやったがね」
「ナズーリン」
「全く、私を絆すには十分な馬鹿だったよ。ご主人様も、聖も、この寺は馬鹿ばかりだ。時々立場を忘れてしまう」
「ナズーリン、私は貴方を」
桜の襟巻きが口に押し当てられた。身を捩って、ナズーリンは私から離れた。片腕を抱いていた。
「私からは触らない。接触を避ける。これは私なりのけじめなんだ。私は本物の毘沙門天様のもの。自分から触れたが最後、使命を捨ててしまう気がしてね」
私も存外馬鹿だろう。きっとご主人様のが伝染したのさ。自嘲気味の台詞が風に乗った。
「ご主人様が、本物のご主人様ならよかったのだがね。おっと、これは失言だった。後で叱られてしまう」
歯噛みした。毘沙門天様に嫉妬した。どれほど努力をしても、長い時を共に生きても、私は本物にはなれない。
監視の使命を忘れて、触れればいいとは言えなかった。ナズーリンは毘沙門天様の遣い、巫女のようなものだ。立場を奪えば存在を壊してしまう。彼女自身を揺るがしかねない。
愛を語れず、恋を囁けず。
けれども私は、彼女に何かしたかった。千一年かけて編んだ想いを、示したかった。
「ナズーリン。今、毘沙門天様は私達を見ていますか」
「いや。多忙な方だからね、きっと見ていない。それが何か?」
身体を屈めて、マフラーの端っこで天蓋を隠した。これでもう、毘沙門天様が見下ろしていても大丈夫。
私はナズーリンの顎を上向かせ、唇同士をそっと触れ合わせた。
一秒。驚きの瞳と、私の虎目が交わった。私は瞬きを二度送った。
二秒。彼女が睨むような、泣き出しそうな目をした。全部受け止めた。
三秒。互いの双眸に、互いを映していた。今日の説法は悪くなかった。わかったよ、ご主人様。ご主人様は馬鹿か間抜けか。大分ましになったよ。行かないよ、どこにも。無数のやり取りを回想していた。
私の時間は、彼女のおかげで救われ輝いた。多分これからも。
触れるだけの接吻を切り上げて、第一声は
「すみません。うっかりキスしてました」
「ご主人様、うっかりを使えば私が騙されると思っていないかい」
「こ、今夜も凍えますね、もう中に入りましょうか」
目元を襟巻きで覆うナズーリンの背中を押して、私は船内へ誘導した。
「馬鹿だな、ご主人様は。本当に、どこまでも」
どこにも行かず、触れられず、はっきりと言葉にできない。毘沙門天様の賢い遣いは、溜息交じりに鳴いた。
鼠らしく、まるで口付けの擬音のように。
聖が抱き寄せれば渋々応じる。私が腕に縋っても、しばらくはそのままでいてくれた。けれども彼女から触れてくることはまずない。千年間そうだった。時間で埋められない距離もある。
寒風の荒れる晩の道で、彼女は小さくくしゃみをした。繋ぎませんかと手を広げたら、突っぱねられた。結構だよ、ご主人様。
彼女の本当のご主人様、毘沙門天様は、遥か高いところにいる。どれほど努力をしても、長い時を共に生きても、私は本物にはなれない。
ただ、両手に白い息を吐きかける彼女は放っておけなかった。紺の綿布を巻いた首周りが寒そうだった。
それから約一ヶ月、私は聖の傍仕えと説法の合間を縫い、宝塔と独鈷杵を初心者用の鉤針にこっそり持ち替え、魔法の森の器用な人形遣いさんの指導を受け、紛らわしい目を正確に数え、夜なべをしてやっと、
「完成、です」
明け方の光に、毛糸の襟巻きをかざした。不慣れな手仕事に序盤こそ苦戦したけれど、時間をかけて何とかそれらしいものに仕上げられた。曙光が割と均等な編み目越しに射してくる。長さも十分、首に二巻きしても余裕がある。不恰好によれてもいない。森の先生も、これなら頷いてくれるだろう。
色は白に近い桜一色。女々しいと彼女は呆れるかもしれないが、淡い肌と紅珊瑚の瞳にはよく合うはずだ。
彼女に隠れて、心を籠めて編んできたものだ。柄布に包むか、リボンをかけるかして贈りたい。稚児のように素直に喜んでくれなくてもいい。ちょっと驚くか、君は馬鹿かと冷ややかな笑みのひとつもくれればいい。
出来立ての襟巻きを衣装棚にしまって、部屋を出た。睡眠時間を削ったからか瞼が重い。
顔を洗おうと水場に向かったら、廊下で聖と会った。朝の早い方だ。菫紫と金の緩く波打つ髪を、ご機嫌そうに揺らしている。
「おはよう、星。早いわね」
「おはようございます、聖。お散歩ですか」
「桜草が雪から顔を出していたわ。もうすぐ春ね」
春の盛りのような声で、おっとりうっとり語った。
日が落ちてからはもちろん、日中もまだまだ冷える日が続く。それでも次第に凍雪は融けつつある。寺の参拝客が、そろそろ雪降ろしも終わりだと嬉しそうに話していた。
「私達がお寺を開いて一年になるわ」
言われて、時の経過を認識した。もうそんなになるのか。
昨年の冬に、地底から突如聖輦船が出現して。ムラサや一輪達との再会を喜んで、聖復活のために出航して。魔界の辺境に赴いて、飛倉と宝塔の力で聖を救い出した。船を命蓮寺に変え、かつてのような素晴らしい信仰生活を始めた。皆で暮らし始めてからの日々は、短く感じられた。ぬえという新しい入門者も迎えて、寺はますます賑やかになった。
彼女の胸を借りて、涙することはなくなった。泣きたければ泣けばいい、神が嗚咽しないと誰が決めた。そう慰められることも。
「今夜、船を出しましょうか。たまにはお寺の皆だけで、わいわいやりましょう。平和な一年を祝って」
「いいですね。買い出しや料理はお任せください」
「あら私もやるわ。準備も楽しむのも皆で、ね」
朗らかに笑い合った。
そうだ、今晩彼女に襟巻きを贈ろう。千年と一年分の、ありがとうを告げて。
早朝の読経の後、聖はささやかな宴の計画を発表した。
「急だったかしら。だめ?」
愛らしく小首を傾げる聖に、逆らう寺の者はいない。
ぬえは来るご馳走にはしゃぎ、味見役を買って出た。ムラサが彼女をたしなめ、船仕込みの腕を見せてやると料理役に立候補。聖も厨房に立ちたいと手を挙げた。
残る一輪と雲山、私、そして彼女――ナズーリンが、買い出し班になった。
朝粥を食べながら、聖やムラサに必要なものを訊いた。野菜や調味料、林檎や桃のジュース、蓮の香りのお茶、お菓子、飾りつけ用の色紙やリボン、鶏肉と魚とお酒(幻想郷に来てから飲むようになった)。挙がる品々を憶え留めた。品数は多いが、量はそれほどではない。一往復で済むはずだ。
食器の片づけと日課の本堂掃除を終え、一輪と行く店の分担を決めた。
「重たいものは私と雲山に任せて。星とネズミは細々したものをお願い」
入道雲山が形を成して、豪腕を膨らませた。二人なら店の建物や蔵でも運べるだろう。安心して送り出せる。
「私達も行きましょうか、ナズーリン」
「了解」
人里の商店地図に丸印をつけて、彼女は立ち上がった。
「もう一年になるのか」
壁の暦表を見やって、重く静かに言葉を置いた。
時の長さや重みを、私とナズーリンは他の者より幾らかよくわかっていると思う。法界や地下に眠らされることなく、ひたすらに千年を過ごしてきたから。聖輦船の浮上する未来も希望も見えず、ただ生き続けた。
ナズーリンは、本物の毘沙門天様の遣いである。遥か昔の山寺時代、聖の許で毘沙門天様の代理を始めた私の監視にやってきた。正体を知るのは聖と私のみ。監視つきだなんて知られたら情けないだろうと、口端を上げていた。ムラサや一輪は彼女を自分達と同じ、聖に帰依する一妖怪だと思っていた。一輪が時々彼女をネズミ呼ばわりするので、腹を立てていないか心配だった。訊いてみたらどうでもいいと言われた。それより君の態度だ、もっと毘沙門天様らしく堂々と振る舞うべきだ。淡々と辛口のお説教をされた。
私に神になるきっかけを与えたのは聖だが、私を神に近づけたのはナズーリンだろう。彼女に認められたくて、毘沙門天様の教えを胸に刻み修行を積んだ。信者の前で威厳のある声と姿勢を保った。彼女は私の説法や談話を貶し、叱りつけ、稀に褒めてくれた。今日のは悪くなかったと。あっさりとした称賛が嬉しかった。彼女から毘沙門天様の神威の象徴たる宝塔を授けられたときは、思わずきつく抱擁してしまった。すぐに突き放された。
聖と仲間達の封印の際、私は一介の妖怪に戻りかけた。妖の本性を見せれば、仲間達の場所へ行けるだろうから。しかしそれでは聖の願いや、ナズーリンの信用を裏切ることになる。彼女を落胆させるのは許せなかった。彼女を毘沙門天様の許に帰したくなかった。私はこれからも毘沙門天様の代理を続け、信仰を集めます。だから私を見ていてください、ナズーリン。私の宣言に彼女は意外そうな顔を見せ、強く笑った。わかったよ、ご主人様。主と呼ばれたのはその時が初めてだった。
それから千年、彼女と共に歩んできた。
人間の信者に彼女の耳と尻尾が見つかりかけて、慌てた一幕があった。
弱者をいたぶる妖怪の集団相手に、背中合わせに戦った日があった。
聖や仲間を思い出して、号泣した夜があった。
枯れかけた力を取り戻すために、東方の幻想郷を目指した。
道中妖怪の病に倒れた彼女を救うべく、妖専門の医者を捜した。高額の謝礼を求められ、金の法具や宝塔を手放した。快復した彼女に宝塔をうっかり失くしたと詫びたら、ダウジングロッドで小突かれた。ご主人様は馬鹿か間抜けか、私がいないと駄目な虎だな。元気な怒声が聞けてよかった。真相は明かさなかった。
ナズーリンがいなかったら、今日の私はいない。私は彼女にとても感謝している。なかなか伝わらないけれど。
「昔と比べたら、ご主人様は大分ましになったよ」
女性や子供に人気の雑貨店で、装飾用の千代紙を選んでいる最中。最近の私は毘沙門天様の代理としてどうかと訊ねたら、ナズーリンは浅い褒め言葉をくれた。
「そうですか」
「そのへらへら笑いをやめれば更にましになる」
だらしなくにやけていたらしい。両頬を叩いて選定作業に戻った。鶴と亀のおめでたい柄の和紙を、会計用のざるに載せた。
「少なくとも私の前で泣くことはなくなった。聖達が戻ってきたからだろうね」
私では、彼らの代わりは務まらなかったということだ。呟いて、彼女は薄い色味の竹柄の千代紙を被せた。
毘沙門天様の代わりの私に、代用品の話をしないで欲しい。哀しくなってくる。
「ナズーリンがいなかったら、千年は耐えられませんでしたよ」
「この一年は耐えられたんじゃないかな」
「淋しいことを言わないでください。命蓮寺は誰を欠いてもいけません」
鮮烈な紅梅柄の紙を、竹柄の上に叩きつけた。ナズーリンは苦笑して、
「やれやれ。ご主人様といい聖といい、寺の面々は甘い」
暖色の細リボンを数巻き、平ざるの縁に重ねた。あるリボンには鳥が織り込まれていた。
聖を救出してから、私は時折靄のような不安を覚えていた。私が聖というかつての拠り所を得たことに、ナズーリンが安心して。私の役目は終わったとばかりに、毘沙門天様の許に帰ってしまうのではないかと。ある日突然、いなくなりはしないかと。未熟な神様代行の馬鹿げた心配事だけれど、心に居座り続けていた。
繋ぎとめたかった。
私は紅白のリボンと一緒に、焦げ茶のリボンを選んだ。両端に薄桃の線が走っている。彼女に贈る襟巻きに、結びつけるためのものだ。
会計を済ませて、品物を店先に置いていた二つの紙袋に入れた。袋の中には菓子店や茶店、道具店で買った商品が収められている。これで買い物は最後だ。各々一つ袋を持って、寺への道を歩いた。
太陽は蒼天の中心に昇ろうとしていた。寺ではムラサ達が軽い昼食を用意しているだろう。
風は北から冷たく吹いて、私の羽衣飾りを揺らした。ナズーリンの尻尾も震えて、籠の子鼠達が騒いだ。
彼女の手を引き寄せて握った。凍えていた。体温が低いのか、冷えやすいのか。私の熱を伝わせた。数店行ったところで、振り払われた。間に合っているよと。
命蓮寺の居住区域の玄関先で、聖が長靴を履いていた。
「ちょっと要るものができたから、行ってくるわ。お昼先に食べてて」
「私が行ってきましょうか」
「平気よ」
笑顔で背中を押された。西洋料理の香辛料でも切らしていたのだろうか。
ぬえ手製の正体不明の具のおにぎりを摘んで、午後は居間の飾りつけをした。
私は千代紙を細長く切って輪飾りにし、壁の上部に半円状に貼り付けた。墨を磨って「祝開山一周年 南無三」と書き、朱で「寅丸」と署名した。掛け軸に仕立てて、普段の仏画と入れ替えた。不器用ながら、リボンで蓮の花を模して軸の隅につけた。
ナズーリンは襖用の切り絵を作っていた。赤の紙に細筆で毘沙門天様の姿を下書きし、小刀で精密に切り進めた。亀甲文様や宝塔、梅の花枝も仕上げていた。本人は適当にやっているだけだと言っていたが、十分巧い。私の初編み襟巻きなど一笑に付されるかもしれない。
一輪と雲山は折り紙だ。色紙で幾つも同じ形を折って組み合わせ、薬玉をこしらえた。雲山の特大の玉の下に、一輪の小粒玉が連なった。五色の糸が流星の尾のように垂れ下がった。雲山の手で部屋の四方にくくりつけられた。可愛さを足しましょうと、一輪が要所要所にリボンを二重に結んだ。
紙もリボンも時間も余ったので、雲山の指導で箸置きとリボン編みのコースターも人数分用意した。
「こんなところかしら。やり過ぎてごてごてするのもね」
一輪の短評で一旦解散となった。
日は西に傾いていたが、空は未だ明るかった。夜の船出まで確実に一刻はある。
私は焦げ茶のリボンを持って、部屋に戻った。聖がおつかいから帰ってきていた。台所と自室を行き来しているようだった。慌しげな足音が聴こえた。宴会芸の準備だろうか。私も何か考えた方がいいのかもしれない。前に里で聞いた童謡を歌おうか。ナズーリンに馬鹿にされるか。
「さて」
衣装棚から毛糸の襟巻きを取り出した。
折り目がつかないよう優しく畳んだ。
リボンを適度な長さに切って、襟巻きの後ろに回した。雲山のリボン編み講座のおかげか、丁度いい丈に切れた。
一輪が薬玉に施していたように、二重に蝶結びを行った。何度か失敗してやり直した。
リボンの端を三角に切ったら、売り物のプレゼントのように見えた。
結び目が崩れないよう注意して、薄茶の紙袋に入れた。
後は宴会の際に、時期を見計らって渡せばいい。
心地良い疲労感が、頭の先から降ってきた。昨日からずっと、編み物で寝ていない。買い出し疲れと飾り疲れがそこに加わった。とどめに、ナズーリンへの贈り物を用意できたことの満足感。最高に眠かった。料理は聖やムラサがやってくれる。手助けは要らない。
今のうちに軽く寝ておこう。宴の途中で眠ってはもったいない。
座布団を枕にして、私は目を閉じた。
「ご主人、ご主人様」
頬を硬いもので突かれている。冷たくて痛い。
「ん、にゃずーりん?」
「起きたらどうだい。もう少しで始まるよ」
ナズーリンがダウジングロッドの先で、私の頬を叩いていた。Sの字の鉤部分が肉を引っ張っている。身体に触れない彼女らしい起こし方だ。昔からこうだった。せめて足にしてくれればいいのに。
部屋は群青色、暗かった。障子を開けたら星空が間近にあった。船はもう飛んでいる。
羽衣を肩に引っ掛けて、
「眠り過ぎましたか、私」
「いや。配膳も乾杯もまだだよ」
忘れずに襟巻きの包みを掴んで、襖を閉めた。ナズーリンは袋に一瞬視線を向けただけで、中身を訊かなかった。
「ここ千年で一番幸せそうな寝顔をしていたよ。平和ぼけかい」
「平和ですがぼけてはいませんよ。私はちゃんとした毘沙門天の代理です」
「そうだね、代理だ」
惚けていない証拠に、取り皿や箸をせっせと卓に運んだ。
幻想郷の宴席では、上座下座のこだわりは薄い。上下関係がさほどないからだろう。私達も、日に日に席を定めなくなっていった。今、上座にいるのは新顔のぬえ。反対の下座には聖が正座している。聖の向かって左側に私、右側に一輪と雲山。私の隣にナズーリン、雲山の隣にムラサが座っている。
「では、一年間お疲れ様でした。とても楽しかったわ、皆のおかげね。ありがとう。これからも素敵な日々が続くことを願って」
聖の音頭で、皆一斉に盃やグラスを掲げた。めいめいが近くの者や遠くの者と、器を打ち合わせる。後は飲むも自由食べるも自由、足を崩すのも自由の、幻想郷流の祝宴だった。堅苦しさがどこにもない。
「ムラサそれ取って、魚じゃなくて肉」
「あんた私の料理も食べなさい」
「私が一尾貰いましょう。ナズーリンもどうですか」
「気が向いたら頂こう。鼠達がチーズを欲しがっていてね」
ムラサの山女の焼き物は、お腹に玉ねぎや豆の詰め物がしてあった。外皮は小麦粉の衣に覆われ、バターを使って揚げるように焼かれている。西洋の手法だ。川魚の野趣に富む旨味に葱の甘味と動物油の膨らみが重なって、舌も胃も悦んだ。散らされた香草も味を引き立てている。白葡萄酒に合う。
「腕を上げましたね、ムラサ」
「色々使えるもの。面白かった」
命蓮寺を開いてから、料理の種類が増えた。元々持っていた仏道料理のレシピに、西方の材料と技法が交わった。寛容な聖はいかなる味をも引き入れた。結果、卓には和洋折衷、様々な味覚の花が咲いた。ぬえが次々取っているのは鶏の脚の揚げ物。ムラサが皿に盛っているのは魚介の炊き込みご飯。米は色素で黄色く色付けされている。レモンを絞って味わっていた。雲山は里芋と絹さやとがんもどきの煮物を取りつつ、麦酒で一杯やっている。一輪と聖は熱燗や、焼酎の果汁割り。ふうき味噌やポテトサラダで楽しんでいた。干菓子や林檎のゼリー、杏の紅茶煮も並べられている。
昨年の秋までは考えられなかったご馳走達だ。ナズーリンと二人で暮らしていた頃の食生活は、これほど豪華ではなかった。でも、彼女がいたから乗り越えられた。
私の隣で、ナズーリンは鼠達と白チーズ載せのクラッカーを齧っていた。目の前で繰り広げられるどんちゃん騒ぎを、黙って観賞しながら。冷静な視線も、グラスの炭酸柚子焼酎も変わらない。あかい瞳はほんのりと細められる。彼女も彼女なりに楽しさを感じているのだ。
私は後ろに置いた紙袋に手を伸ばし、
「あの、ナズーリン」
「皆聞いて、聖が渡したいものがあるって」
一輪の鍛え抜かれた大声に止められた。
皆が一斉に聖に注目する。聖は頬を酔いと照れで赤らめ、
「思いつきで急いで作ったから、大したものじゃないけれど」
魔力を込めた手で、空気を招いた。青紫と灰紫の二色、蓮柄の包装袋が六つ。廊下を浮いて行進してきた。宴会場の聖以外の六名、各人の膝に落ち着いた。両腕で包める大きさの袋だ。開けてみてと聖が促す前に、ぬえが包装紙を破り、
「マフラーだ!」
(ふぇ)
黒い毛糸の襟巻きを引き出した。ムラサや雲山も同様らしい。
私も袋の封を開けてみた。私の頭の花に合わせた、淡橙のマフラーが入っていた。所々濃い橙や紅に切り替えられている。終点には白い蓮の花と、私の名前のアルファベットが編み込まれていた。編み目は森の人形遣いさんのお手本のように均一、一片も狂いがない。糸を引き伸ばすような特殊な編み方をしているのに。
「春はすぐそこだけれど、しばらくは寒い日が続くわ。よかったら使って」
(どうしよう)
背中を汗が伝った。こんな手の込んだ品を、思いつきで急いで、一日に六本も? 聖はやはり超人だ、倍編めと言われたら三倍編むだろう。敵わない。
ナズーリンは灰色を基調としたマフラーを手に取って、一輪達に倣って首に巻いた。瞑目し、悪くないと漏らした。
「私好みの色だよ。ちくちくしない。悪くない」
彼女の最大級の賛辞だ。私は背後の紙袋を船外に投げ捨てたくなった。何もかも忘れて呑みたい。花丸の品を提示された今、彼女に渡したところでどうなる。二番煎じでは驚きは薄い。編み目は聖未満の未満、色だってナズーリンの趣味からは外れている。冷ややかに笑われるどころか、可哀想な目で見られるかもしれない。ああご主人様は所詮その程度の駄虎だろうなと。
手袋か耳当てか、とにかく市販品にしておくべきだった。
「ところでご主人様、さっき私を呼んだだろう。何だい」
「あ、いえ、はい。飲み物のお代わりはいかがですか」
「頂こうか」
私は俯いて、焼酎を無味の炭酸水で割った。櫛切りの柚子を絞り注ぐ。果皮の汁が目に入って、沁みた。
命蓮寺勢は、山の神々や天狗と比べるとお酒に弱い。呑み始めて一年という所為もあるのだろう。
宴を始めて数刻、聖は真っ赤な顔と声で朗々とお経を詠い上げるや、倒れて寝息を立て始めた。雲山が毛布を持ってきて入道の形を崩し、一輪も突っ伏した。首に聖の襟巻きを巻いたまま。
ナズーリンは風に当たってくると一言残して、甲板に出た。
私は白葡萄酒を蓮茶に切り替えたので、意識を保っていた。ムラサとぬえも平気だった。船酔いの感覚に比べれば苦しくないそうだ。ぬえは昔から飲んでいたので、問題がないという。二人は言葉でじゃれ合い、私はたまに間に入った。
頭の中は後悔と自己卑下で一杯だった。彼女に襟巻きをかけて長年の感謝を伝えるはずが、聖の完璧な品に圧されて挫折。何もできないでいる。別の日、別の場所に持ち越そうか。立ち上る湯気のように、思考は頼りなく揺らめいた。
「それ、手編みのマフラーでしょ。誰に渡すの」
「はい?」
ぬえが私の後ろを指差していた。手を合わせて舌を出し、
「ごめんね、部屋で包んでるの覗いちゃった。集中してて全然気付いてなかったよ」
「聖に渡したいなら、さっさと巻きつけちゃいなさいよ」
ムラサも会話に参加してくる。私は首を横に振った。
「これは、その。ナズーリンに渡せたらいいなと思っていたのですが。聖のものより遥かに劣る出来で、役に立たなそうで」
身体に溜まった酒気に操られるように、恥ずかしい理由を明かした。
「ナズーリンと星は付き合い長いの?」
「私とあんたの地底歴より長い」
「そうです、長いです、だからお礼で、寒そうにしてたので。でもやっぱり、やめておきます」
袋を抱え込んだ。感謝の気持ちは、いつだって伝えられる。彼女が帰らなければ、いつだって。
また不安が湧き上がった。ナズーリンは、いつまで私を見ていてくれるのだろう。監視が永遠に続くとは限らないはずだ。千年間付き合わされて、私の現状に安堵して。毘沙門天様の許に戻るかもしれない。別れの日はいきなり訪れる。聖の封印の日のように。
私の寝顔を、ここ千年で一番幸せそうと彼女は評した。幸せなのは、聖やムラサ達がいるからだけではない。ナズーリンもいてくれたから。私の喜怒哀楽の傍には、常に彼女がいた。
「行きなよ。面白くなりそう」
ぬえがテーブルを飛び越えて、私の背中を叩いた。ムラサも酒瓶で肩を揉みながら、隣に来た。紙の袋を逆さまにして、桜色の襟巻きを落とした。ぬえが可愛いとはしゃいだ。
「私がぬえや一輪と千年、封じられてきたみたいに。星達にも星達の千年、あったんでしょう」
これはその形。ムラサは私の眼前に、春色の塊を突きつけた。
目数を間違えては、数えた。編み目は均一なようで、よく見れば曲がっている。彼女と渡り歩いてきた日々のように。平坦な一本道ではなかった。危ない目にも遭った。でも、やめようとは思わなかった。手放したくなかった。
私の中で、彼女はかけがえのない存在になっていた。
「貴方たちの千年を、私は笑わない。誰とも比べない。仲間として誇るわ」
襟巻きが押し付けられた。
「毘沙門天様の勇敢なところ、見せてきなさい。さもないと、この船沈めるわよ」
お酒をラッパ飲みして、ムラサはウインクをくれた。
私は幸福だ。仲間にも、部下にも恵まれている。立ち上がって、覗かないでくださいねと釘を刺した。
「ごめんなさいムラサ。私の隣は、やはり彼女でないと落ち着きません」
船は東の夜空に留まっていた。甲板に続く戸を開くと、弥生の冷風がぶつかってきた。羽衣を内側に置いて、襟巻きを抱えて私は外に出た。
早春の星々が、聖なる船を見守っていた。アークトゥルス、デネボラ、スピカ。春の大三角形の下に、ナズーリンがいた。船縁に腕を置いて、天を見上げている。聖手編みの鼠色のマフラーの先が、上下左右に暴れていた。唇が動いている。何か歌うか、話すかしているらしい。近寄ると、
「以上です、毘沙門天様」
毘沙門天様への報告を終えたところだった。彼女は月に数回、本物の毘沙門天様に私の素行や寺の様子を連絡している。
振り向いて、
「盗み聞きとは趣味が悪いな、ご主人様」
「偶然です。最後しか聞きませんでしたよ」
ムラサやぬえに点けられた勇気の火が、風に消されないうちに。私は抱えた襟巻きを、ナズーリンの胸に押し当てた。彼女はリボンを引き、マフラーを夜風に広げた。
「貰ってください。私からナズーリンへ、千と一年分の感謝の気持ちです。あ、でもまじまじ見ないでください、最初の方とかぐちゃぐちゃで。聖のと比べるのもなしですよ、本当にもう」
勇敢さに羽が生えて飛んでいく。お空の毘沙門天様、この臆病な虎にひとかけらでも勇ましさをください。
彼女は襟巻きを端から端まで見つめ、口元を悪戯っぽく曲げた。
「聖に先に出されて、尻込みしたね。ムラサ船長辺りに勇気付けられて、何とか上ってきた。実にご主人様らしい」
「お見通しですか」
「何年一緒にいると思っているんだい」
編み目も色も指摘せず、彼女は首に巻いた。夜闇が不具合をぼやかしてくれたのかもしれない。長い両端をリボン結びにした。私は目を見開いた。編んだ身が言うのも何だけれど、悪くない。似合っている。可愛らしい。
「貰っておくよ。防寒具は幾つあっても邪魔にならない。これはこれで、いい」
よかった。今のは彼女なりの称賛の言葉だ。ナズーリンは風になびく短髪を払い、
「貰ってばかりだね。私は何も返せないよ」
「いいんです。ただ」
「ただ?」
「どこにも、行かないでくれれば」
彼女を北風から守るように、私は抱き締めた。息苦しくない程度に、最大限の強さで。
ナズーリンは私より小さくて、賢くて、毘沙門天様に近い。
「ご主人様?」
「行かないでください。私は貴方がいないと困ります。千年経っても、聖がいても」
天空を行く月は下弦の手前。欠けて閉じればいい。満月の扉が開かなければ、お姫様は帰らないで済む。
これからも、彼女と歩んでいきたい。触れ合いたい。本物の毘沙門天様に、渡したくない。
一方的な抱擁が続いた。彼女は背に手を回したり、胸に頬を押し付けたりせず、
「私をかぐや姫と勘違いしていないかい。行かないよ、どこにも」
こんな頼りないご主人様、放っておけない。喉奥を鳴らして笑った。
「ご主人様のどうしようもなさは、誰よりもよく知っている。妖怪の癖に神を目指そうとしたり、神様以上に熱心に信仰を集めたり。通りすがりの困っている妖怪を見捨てられなかったり、人間に水筒を丸ごと渡したり」
「過去の失態を列挙しないでください」
「私如きを助けるために、貴重な宝塔を売り飛ばしたり」
「え?」
抱く腕を緩めて、彼女を見下ろした。ナズーリンは片目を細めていた。意地の悪い笑顔だ。紅の瞳の奥で、星と私が揺れていた。
「ご主人様の優しさも、有能さもよく知っている。嘘が下手なことも。うっかり宝塔を失くすはずがない。騙されてやったがね」
「ナズーリン」
「全く、私を絆すには十分な馬鹿だったよ。ご主人様も、聖も、この寺は馬鹿ばかりだ。時々立場を忘れてしまう」
「ナズーリン、私は貴方を」
桜の襟巻きが口に押し当てられた。身を捩って、ナズーリンは私から離れた。片腕を抱いていた。
「私からは触らない。接触を避ける。これは私なりのけじめなんだ。私は本物の毘沙門天様のもの。自分から触れたが最後、使命を捨ててしまう気がしてね」
私も存外馬鹿だろう。きっとご主人様のが伝染したのさ。自嘲気味の台詞が風に乗った。
「ご主人様が、本物のご主人様ならよかったのだがね。おっと、これは失言だった。後で叱られてしまう」
歯噛みした。毘沙門天様に嫉妬した。どれほど努力をしても、長い時を共に生きても、私は本物にはなれない。
監視の使命を忘れて、触れればいいとは言えなかった。ナズーリンは毘沙門天様の遣い、巫女のようなものだ。立場を奪えば存在を壊してしまう。彼女自身を揺るがしかねない。
愛を語れず、恋を囁けず。
けれども私は、彼女に何かしたかった。千一年かけて編んだ想いを、示したかった。
「ナズーリン。今、毘沙門天様は私達を見ていますか」
「いや。多忙な方だからね、きっと見ていない。それが何か?」
身体を屈めて、マフラーの端っこで天蓋を隠した。これでもう、毘沙門天様が見下ろしていても大丈夫。
私はナズーリンの顎を上向かせ、唇同士をそっと触れ合わせた。
一秒。驚きの瞳と、私の虎目が交わった。私は瞬きを二度送った。
二秒。彼女が睨むような、泣き出しそうな目をした。全部受け止めた。
三秒。互いの双眸に、互いを映していた。今日の説法は悪くなかった。わかったよ、ご主人様。ご主人様は馬鹿か間抜けか。大分ましになったよ。行かないよ、どこにも。無数のやり取りを回想していた。
私の時間は、彼女のおかげで救われ輝いた。多分これからも。
触れるだけの接吻を切り上げて、第一声は
「すみません。うっかりキスしてました」
「ご主人様、うっかりを使えば私が騙されると思っていないかい」
「こ、今夜も凍えますね、もう中に入りましょうか」
目元を襟巻きで覆うナズーリンの背中を押して、私は船内へ誘導した。
「馬鹿だな、ご主人様は。本当に、どこまでも」
どこにも行かず、触れられず、はっきりと言葉にできない。毘沙門天様の賢い遣いは、溜息交じりに鳴いた。
鼠らしく、まるで口付けの擬音のように。
意外と二人は相思相愛みたいな感じですね。千年も一緒にいればそうなるか・・・
もっとも星ちゃんはナズーリンに踏まれたいみたいですがw
星可愛いなぁ
どんな具なのか気になってしょうがないんだがw
あのすばらしいちゅうをもう一度
加えて今回は料理の描写がいつもより一層素晴らしい
思わず涎れが出てしまった
>雲山のリボン編み講座
ちょっと申し込んで来る
うそですごめんなさいこの命蓮寺大好きです
>ツンクールなナズーリン
ありがとうございます。冷たさが解けるのも好きですが、冷静さで情を包んでいるのも好きです。
>相思相愛
素敵な響きです。千年一緒で信頼は十分なのに、立場や遠慮や星の優しさと鈍さやナズーリンの落ち着きゆえに何もないことになっている。それが今作の二人かなぁと思います。
>正体不明の具のおにぎり
とりあえず食べられるもので出来ているはずです。お腹で蠢かないことを祈ります。
>料理の描写
お褒めくださりありがとうございます。居酒屋料理や家庭の味、お誕生日メニューが入り混じっています。命蓮寺勢は料理上手の多いイメージがあります。
クライマックスのシーンの流れるような文章が素敵で引き込まれました。切ない。
それと何か時々星がMみたく見えてしょうがないのですがww
命蓮寺の面々が素敵過ぎる!
なのに胸やけがする。
何故だろう
そしてぬえムラ要素があったのが嬉しいです。
星ナズいいなぁ
淡い感覚
暖かいけど切ない関係