朝起きると無性に体がだるく、どうにも起き上がりたくない。
皆様にはそんなご経験はあるだろうか。
しかしこういったものは大抵は気持ちの問題であったりするもので、起きてみれば意外と大したことがなかったりするものだ。
では、そうでない場合は?
それは勿論――、
「うーん、これは風邪をひいたようだな」
――本当に体調が悪い場合である。
「まったく、遅くまで出掛けているからだぞ?」
そう言いながら慧音が測り終わった体温計を仕舞う。
「だって、輝夜がさ……」
布団の中、ぐったりとした様子で妹紅が呟くが、
「だって、じゃないだろう」
ぴしゃりと慧音がいった。
「とりあえず、今日一日はゆっくりと休むことだ。必要になりそうなものは持ってきたから、自由に使ってくれ」
「すまないね……」
そんな妹紅の言葉を聞いて、慧音がくすりと笑う。
「なに、別に気にするほどのことじゃないさ。困ったときはお互い様だろう?」
「……うん。ありがとう……こほっ……こほっ」
「気にしなくていいと言ってるだろう? ……本当は私が看病をしてやりたい所なのだが、今日もこれから寺子屋で授業があってな」
そう申し訳なさそうに慧音がいった。
「いや、これだけでも十分にありがたいよ」
「そうか。そう言ってもらえると私も嬉しいよ。しかし――」
意外そうな表情をして続ける。
「やはり、不老不死でも風邪をひいたりするんだな」
不老不死とは読んで字の如く、不老と不死を約束するものであって、決して生涯の健康を保障するものではないのである。
「そりゃ風邪くらいひくよ……」
そう妹紅は渋面を作って呟いた。
◇◇◇
風邪をひいてしまった。
熱を測ったら38度ちょっと、意識は朦朧とするし、おまけに咳も止まらない。
ボロボロである。
私、藤原妹紅はそんな状態で布団に横になっていた。
我が愛すべきボロ小屋は残念ながら建付けが悪いらしく、どこからともなく冷たい隙間風がヒューヒューと吹き込んでくる。
季節は冬。
布団から窓を見上げてみれば、降り続ける雪がちらちらと見える。
囲炉裏にはしっかりと火が灯っているが、それでもやっぱりちょっと寒い。
寒さから身を守るように布団に包まる。
そうして漸く寒さからは逃れることが出来たのだが、
くぎゅるる……
不意にお腹が鳴った。
「そういえば、今日はまだ何も食べてないんだっけ……」
慧音が今朝来た時に朝食を作ってくれたのだが、その時はどうにも食欲がなくて食べなかったのだ。
今はちょうどお昼時、流石にお腹も空いてきた。
慧音は確か、後で温めて食べるようにとお粥を土間に置いていってくれた筈だ。
それをなんとか囲炉裏まで持ってくることが出来れば、あとは温めて食べるだけだ。
早速土間へ向かおうと、布団から起き上がろうとするが、
「……っと、とと」
途端に体がふらっと揺れる。
どうやら思っていた以上に弱っているようだ。
どうしても視線がまっすぐ定まらず、右へ左へふらふら泳ぐ。
これでは立って移動するのは難しい。
「……くそっ」
仕方なく、もそもそと四つん這いで布団から這い出して、寝巻きをずるずるとひきずりながら土間へと向かう。
ああ、なんだかこれって物凄く格好悪い気がする。まるで芋虫みたいだ。
そんな事を今の自分の姿を想像して思う。
けれど今はそんなことには構ってられない。
いくら不老不死でもお腹は空くのだ。当り前だが、空腹のまま過ごすのは非常に辛い。
だから、ここは何としても土間に辿り着き、食事を手に入れなければならない。
しかし、そんな気持ちとは裏腹に体は思うように進まない。
そうしている間にも冷たい空気がどんどん体の熱を奪っていく。
「ま、まずい……」
この寒さは、病の身には些かきつい。
このまま倒れでもしたら、次に起きた時はどうなっているか、考えただけでも恐ろしい。
流石に死ぬようなことはないだろうが、まず間違いなく症状は悪化しているだろう。
それだけならまだいいが、そんな事になったら慧音に一体なんて言われるか。
「いいか妹紅、いつも言っていることだがお前は自分を粗末に扱いすぎだ。私はな、いくら不老不死だからといって、お前にあまり無茶をして欲しくないんだ。それに、お前だって女の子だろう。もうちょっと髪の手入れとか、肌にだって気を使うべきだと思うんだ。服だって、もっと色々おしゃれをしたっていいと――」
以下省略。
「慧音の話は、長い……んだよなぁ……」
出来ればそれは勘弁願いたい。
そのためにも、一刻も早く土間に向かわなければ。
その一心で前へと進む。
普段なら数秒で移動できるはずの場所へと、倍以上の時間をかけてじりじりと進んで行き――漸く土間へと辿り着いた。
「や、やっと着いた……」
壁に寄りかかりながら立ち上がり、ゆらりゆらりと覚束ない足取りで竈へと近づいていく。
そうして、竈に置かれた土鍋を手にとる。中には今朝慧音が作ってくれた白粥が入っているはずだ。
「よし……、後はこれを持って戻るだけ……」
ここでもし転んだりしたら全てが台無しである。
土鍋を持って慎重に歩を進める。
ゆっくりと、ゆっくりと。
ふらふらとしながらも、何とか居間の入り口まで辿り着く。
そして、土間から居間へと上がる敷居に足を掛けた時、
ずるっ!
それまで何とか体を支えていた足からふっと力が抜け、踏み出していた右足がずるりと滑った。
「――あ」
体を支えようにも両手は土鍋でふさがっている。
為す術も無く、私は重力に従って前のめりにすっ転んだ。
かしゃあん、と甲高い音が鳴り響く。
転んだ姿勢のまま、恐る恐る手元を見る。
幸い土鍋は無事だったが、蓋は遥か前方へと弾き飛ばされていて、
「あちゃあ……」
そしてその中身――白粥も、蓋と一緒にその回りに飛び散っていた。
土鍋の中には、お粥は殆ど残っていない。今はその大半が茶色い床を真っ白に飾っている。
「あー、やっちゃったよ……」
やっとの思いでここまで来たのに、肝心の食事を台無しにしてしまった。これでは折角作ってくれた慧音に申し訳ない。
その上、撒き散らしてしまったお粥を片付けるという、新たな作業まで発生してしまったわけだ。
お粥を片付けようと立ち上がろうとするが、
「――あれ?」
なんだろう、体に力が入らない。
立ち上がろうと手に力を込めるが、意思に反して腕はだらりと伸びきったままだ。
頭がぼうっとして、熱い。
視界も何だかぼやけてきて……。
「ちょ、ちょっと……」
これは本格的にまずい気がする。
しかし、そう思っても自分ではどうすることも出来ない。
そして、次第に意識も薄れていって――冷たい床に突っ伏したまま、私はとうとう意識を手放した。
◇◇◇
次に目を覚ました時、まず私の目に映ったのは、
「……漸くお目覚めかしら」
私の宿敵である蓬莱山輝夜の憎たらしい笑顔だった。
「……なんでお前がここにいるんだ?」
ただでさえ体調が悪いというのに、起き抜けに輝夜の顔を見ることになるとは最悪だ。
「あら、酷い言い草ね。折角、倒れていたあんたをここまで運んであげたって言うのに」
「……運んだ?」
改めて見ると、私はちゃんと布団で横になっていた。
寝起きでぼんやりとしている頭を奮い立たせ、記憶を掘り起こす。
確か私は――。
「あんたは土間で倒れてたのよ。それを私がここまで運んであげた、というわけね」
混乱する私に輝夜が言う。
「もう、大変だったんだから。運ぶだけなら兎も角、何故か回りにはお粥が散らばっているし……」
徐々に記憶がよみがえっていく。
どうやら私は土間で転んだ後、そのまま気を失ってしまったらしい。
それを輝夜が発見し、ここまで運んでくれた――という事のようだ。
そうとわかると、途端に顔が熱くなる。
まさか、あんな無様な姿をこいつに、よりにもよって輝夜に見られるとは。
「お粥を掃除するのも大変だったんだから。……まったく、自分の部屋だって掃除したことなんて殆ど無いのに」
土間の方に目を遣ると、辺りに飛び散っていたお粥は何処にも見当たらなかった。
それも、輝夜が片付けてくれた――らしい。
「それで、妹紅さん」
こほんとわざとらしく咳をして、輝夜が気持ち悪い位の笑顔で言う。
「……何だよ」
私は仏頂面で応える。
「私に、何か言うことがあるんじゃないかしら?」
やはりそう来たか。
こんな、私を馬鹿にする絶好の機会をあの輝夜が見逃すはずも無い。
輝夜はニヤニヤとしながらこちらを見つめている。
しかしこんなやり取りは、私にとっても慣れたもの。
こういう時は、
「……ありがとう、助かったよ」
変に反発せず、素直に礼を言うに限る。
ここで少しでも嫌そうな素振りを見せては、それこそ相手の思う壺、輝夜を喜ばせるだけである。
以前の私なら誰が礼など言うものかと真っ向から抵抗していただろうが、人は成長するものだ。今更これくらいで動揺する私ではない。
しかし、そんな私の考えは、今回に限って言えばまったくの的外れだった。
なにしろあいつは、そんな私の言葉を受けて、
「どういたしまして」
にっこりと、柔らかく微笑みながらそう言ったのだから。
これはちょっと――いや、まったく予想外の反応だ。
てっきり、目論見が外れて悔しがるとばかり思っていたのに。
こうも素直に返されると、こちらの調子が狂ってしまう。
「どうしたのよ。変な顔しちゃって」
きょとんとした顔で輝夜が言う。
しかし、その理由を正直に言えるはずも無く、
「別になんでもないっ。そ、それよりも、何でお前がここにいるんだ?」
そうどもりながら誤魔化した。
「ん? ああ、簡単なことよ。今朝方、慧音がうちに来てね」
「慧音が?」
時間的な都合を考えると、今朝ここを発ってから、その足で永遠亭に寄ったという所だろうか。
「そうよ。わからないかしら? あんたが風邪をひいたからって、わざわざ永遠亭まで風邪薬を買いに来たのよ」
……なるほど。
どうやら慧音にはまた面倒をかけてしまったようだ。ありがたいと思う反面、なんだか申し訳ないようにも思う。
お粥も駄目にしてしまったし、後でちゃんとお礼をしなければならないだろう。
「それでね。薬を買ったのはいいのだけど、寺子屋の時間が迫っていたからあんたに届けるだけの時間が無かったのよ。そこで――」
「――お前が代わりに届けに来たってわけか」
「そういうこと」
何の用も無しにこいつがここまで来るはずがないと思っていたが、それなら納得もできる。
「それでいざ来てみればあんたは倒れてるし、お粥は撒き散らされてるし、一体どうしようかと思ったわよ」
しかし、まだ疑問に思うことがある。
「なあ、輝夜」
「……なにかしら?」
疑問をそのまま口にする。
「なんで――、なんでわざわざお前が届けに来たんだ?」
薬を届けに来たというのはわかるが、それなら別に他の者でも良かったはずだ。
例えばそう、あの月兎――ウドンゲとか。それで事は済むはずだ。
こう見えてもこいつは、一応あの永遠亭の主なのだ。
その主が、わざわざ薬を届けに来るとはどういうことだろう。
「……そんなの、決まっているじゃない」
そんなこともわからないのかと言いたげな表情で私を見る。
「私はね、あんたのことを――」
そこで一拍の間をおいて、
「――嘲笑いにきたのよ」
口の端を吊り上げながらそう言った。
「いやぁ、聞けばあの妹紅が起き上がれないほどの風邪だって言うじゃない? これはもうお見舞いついでに止めでも刺してやらなきゃと思ってね!」
そんなことだろうと思いました。
今度こそ、予想通りの回答である。
矢張り輝夜はこうでないと、こちらとしても落ち着かない。
勿論、迷惑なことには変わりはないが。
「……まあ、いいや。それで、もう用は済んだだろう?」
正直こいつの相手をするのに疲れてしまった。
ここは一つ、輝夜にはさっさとお帰り頂いてゆっくり休みたいところだ。
「なんか、暗に帰れって言われているようね」
「言葉がちゃんと届いているようで安心したよ」
「ふぅん、そんなこと言っちゃっていいのかしら。 本当は私に看病して欲しいんじゃない?」
何故か不敵に笑いながら輝夜が言う。
まったく意味がわからない。輝夜に看病されたとしても、私にとっては百害あって一利あるかどうか怪しい所だというのに。
そんな私の考えを読み取ったのか、輝夜が白い小さな紙袋を私の目の前にかざした。
袋には『八意製 風邪薬』と書いてある。
「……これがどうしたんだ?」
まさか薬を渡さないとでも言うつもりだろうか。
「ほら、もうちょっと下の方をよく見てみなさい」
言われるままに視線を下ろす。
「……食後に服用してください?」
そう書かれていた。
何が言いたいのかさっぱりわからない。
「つまりね、薬を飲むには食事を摂る必要があるわけよ」
「……それで?」
「さて、今この家に食べ物はあるのかしら?」
「……あ」
食べ物はあった。私が土間で盛大にすっ転ぶ直前までは。
「それに妹紅、今の貴方が自分で食事の準備をできるのかしらね」
「べ、別にそれくらい――」
「土鍋一つ満足に運べないくせに?」
「――ッ!」
それを言われると、私としては黙るほかに無い。
だがしかし。
「ふん、別に無理をして薬を飲む必要はないよ。これくらい、寝ていれば治るさ」
「なるほど、そうかもしれないわね。でも――わざわざ薬を届けるようにお願いした慧音は何て思うかしらね?」
「む……」
たしかに、その通りだ。
慧音は忙しい中わざわざ永遠亭まで行き、少しでも早く私に薬を届けようとこの宅配を頼んだのだ。
薬を飲まずに放置することは、そんな慧音の気持ちを無駄にすることになる。
それに、お粥を駄目にしたのは私自身の責任だ。それを理由にはしたくない。
むう、と私が唸っていると、
「というかね」
唐突に輝夜が口を開いた。
「つい癖で、何だか意地悪な言い回しになってしまったけれど、そんな大げさに考える必要なんてないのよ。ちょっと看病するだけじゃない?」
「いや、そうは言ってもさ」
流石に長年の宿敵である輝夜に看病されるというのはどうだろう。
「……それにね、私としてもあんたには早く風邪なんか治して欲しいのよ」
「……へ?」
予想外の言葉に間抜けな声が口から漏れる。
その私の様子を見て、輝夜が慌てたように言う。
「い、いやっ、別に深い意味はないのだけれどね。 ほら、私としては万全の状態のあんたを殺したいじゃない? だから、出来るだけ早く快復して欲しいってわけよ。そうよ、そうなのよ」
そう、早口で捲くし立てる。
私はそれが何だか可笑しくって、つい笑ってしまった。
「ああもうっ! そんなことはいいから、とりあえず今日は――」
ああ、もしかしたらこいつは、
「――今日は私に任せときなさいっ!」
私が思ってるいよりも、ずっといい奴なのかもしれない。
……色々と不安ではあるけれど。
◇◇◇
「そんなわけで、お粥を作りたいと思います」
「ああ、うん。それはいいんだけど……」
そこまで言って、視線を輝夜の手に移す。
「……なんで、石鹸なんて持っているんだ?」
輝夜は、何故か右手にしっかりと石鹸を握り締めていた。
「え、今からお米を洗おうと思ったのだけど」
「いや、それはわかってるけど、何でそこに石鹸が出てくるんだ?」
私の知る限り、それの出る幕は微塵もないと思うのだが。
「えっ?」
「えっ?」
何これ怖い。
「ちょっと待ってくれ。輝夜、お前もしかして――」
「いえ、大丈夫よ。任せなさい。お米の洗い方くらいちゃんと知っているわ。えぇ、ちゃんと」
そういって、後ろ手に石鹸をそっと隠す。
本当に大丈夫なんだろうか。
疑惑の篭った目で輝夜を見る。
「いやねぇ、ちょっとしたルナティックジョークよ。これからは真剣にやるから任せておいて!」
と、取り繕うように言う輝夜だが、その頬を流れる一筋の汗を私は見逃さなかった。
「……まったく」
「な、なによっ」
恐らく輝夜はお粥の作り方なんて知らないのだろう。米のとぎ方すら知らない位だからきっとそうなのだろうと思う。
輝夜のことだ。正面からそれを指摘すれば、素直に認めず、むしろ逆方向へと迷走していくことは間違いないだろう。
この意地っ張りめ。
だがしかし、だからといってこのまま輝夜の好きにやらせるわけにもいかない。
なにしろ、その先に出来上がるであろうお粥らしき何かを食べるのは私なのである。
不老不死とはいえ、石鹸を食べるような事態は出来れば避けたい所だ。
ここは何とかして、輝夜に気取られないよう上手く誘導していくしかない。
「……そういえば輝夜、お前は米をとぐ時どうしてる?」
「と、研ぐ時って……?」
「いや、私は釜に米と水を入れて直接洗う派なんだけどね。最近はざるとかを使う人も多いらしいんだ」
「あ、あぁ、そういうことね」
漸く合点がいったのか、輝夜が呟く。
「釜で直接洗うとき、こうシャカシャカと水と混ぜるようにするだろ? それを米をざるの上に落としてやるんだってさ。やり過ぎると米が割れちゃうらしいけど、水を切るときなんかは便利らしいよ」
「ふ、ふーん……?」
輝夜が曖昧な相槌を打つ。
「そこら辺に使えそうなざるがあったと思うから、折角だし試してみたらどうだ?」
「な、なるほどね。私も普段はお釜で直接洗う派だけど、あんたがそう言うならちょっと試してみようかしら」
あくまで料理が出来るという体裁を保ちつつ輝夜が言った。
『普段』とか言っているが、そんなことをしたことないのは間違いないだろう。
本当に意地っ張りだ。
これで米のとぎ方がわかってくれたならいいのだが。
そんな具合に今度はお粥の作り方を説明していく。
結局、調理は私の目の届く囲炉裏でしてもらうことにした。
こうすれば変なことをしないか見張ることも出来る。余程のことが無い限り、食べられないものは出てこないだろう。
そうして輝夜がお粥を作り始めてから数十分後には、大きな問題も無く、無事に囲炉裏でぐつぐつと土鍋が煮られていた。
輝夜はというと、その土鍋をじっと睨み続けている。
別にそこまで慎重にならなくてもいいのだが、余り料理の経験がない分、心配なのだろう。
しかし、そうやって真剣に土鍋を見つめる様は、なんだか微笑ましく思えた。
それにしても、これ程までに生活力が無くて、よくもまあ今まで生きてこられたと感心する。
輝夜には永琳もいるし、一人で暮らしてきた私と比べても仕方が無いのだろうが。
元々は地上ではなく月に住んでいたという話だし、そういった所の常識も私とは随分違うのかもしれない。
月の民、あの空で輝く月の裏側――月の都に住まう人々。
実際に月に行った奴らの話では、その都には穢れも無く、食にも不自由することなく、死を恐れる必要もないという。
輝夜も以前はその一員であったらしい。しかも、そこのお姫様だったという。
冗談みたいで本当の話だ。
そこではたと思う。
輝夜は何故、地上になんかに下りて来たのだろう。
月の都は、話に聞いただけでも実に快適そうで、生活をするには申し分ないように思える。
何でも、蓬莱の薬を飲んだために罰として地上に落とされた――という話だが、何故輝夜はそんなことをしたのだろう。
蓬莱の薬、不老不死をもたらす禁断の秘薬。
しかし、月の民である輝夜が、それを必要とするだろうか。
たとえば地上人が不老不死を望むならば、その理由も大体は察しがつく。
妖怪などに比べれば、圧倒的に短いその人生。もっと長く生きたいと願う者がいてもおかしくはないだろう。そのことは、様々な伝説が示す通りだ。
しかし、月の都が話に聞いた通りの場所なら、わざわざそんな事をする必要もないように思える。
何か、他の理由があるのだろう。私にはまったく見当もつかないけれど。
そんな事を考えて、ふと可笑しくなって笑ってしまう。
わからないのも当り前だ。
何しろ私達は――私と輝夜は、もう三百年も付き合いがあるというのに、腰を据えて語り合ったことなど殆ど無いのだから。
そう、三百年も――いや。
『たったの三百年』、そう考えるべきだろう。
私があいつに再会したのは、『たったの三百年』前なのだ。
あいつがどれ程の時間を生きてきたかは知らないが、少なくとも私よりは長い時を過ごしてきたのだろう。
それを私はまったく知らない。
それも当然だ――この三百年間ただ殺し合うだけだったのだから。
しかし、それだって考えてみればおかしな話だ。
私が輝夜を狙う理由、それははっきりとしている。
それは、父に恥をかかせ多くの人の人生を狂わせた輝夜への復讐であり、また私が生を実感するために必要なことでもある。
それが、私があいつと殺し合う理由。
しかしあいつは――輝夜はどうなのだろうか。
この殺し合いは私からの一方的なものではなく、あいつの方から仕掛けられる事だって多々あるのだ。
あいつは何故、私を殺そうとするのだろう。
私が自分を狙っているから?
だがそれならば、輝夜では無理でも、例えば――例えばあの八意永琳ならば、殺すことは出来ずとも私を永遠に遠ざけることも、もしかしたら可能なのではないだろうか。
なのに、そうしようともしないのは何故だろう。
私など取るに足らない存在だと思っているのだろうか。けど、それならわざわざ私を殺しに来ることもないだろう。
あいつは――輝夜は、私のことをどう思っているのだろう。
再会してから三百年もの時間を経て、今更――本当に今更、私はそんな事を思った。
何故地上で暮らすことに決めたのか。
私という存在をどう思っているのか。
永遠に尽きることの無い時間の中、私と同じように――孤独を感じることがあるのだろうか。
それを、知りたいと思った。
「……ねえ、妹紅ってば!」
ふと顔を上げると、目の前に輝夜の顔があった。
「……どうしたんだ?」
そういえば、こんなに落ち着いて輝夜と話したのは一体いつ振りだろう。
滅多にあることではないのは確かだろう。しかし、たまには――たまにはこういうのも悪くないと、そう思う。
「お粥が出来たのだけど、いくら呼んでもあんたが返事をしないんだもの」
そう言って非難するように私を睨みつける。
その手元に視線を下ろすと、先程まで囲炉裏に吊るされていた土鍋があった。
どうやら随分と長い間ぼうっとしていたらしい。
「それじゃあ早速食べてみようかな」
お粥を食べようと、私は布団から起き上がろうとする――が、
「……あれっ?」
上手く力が入らずに、再び布団へ体が倒れる。
大分良くなったと思っていたのだが、まだ起き上がるのは無理なようだ。
「なに、起き上がれないの?」
「……面目ない」
「うーん、どうしようかしら。……ああ、そうだわ」」
そんな私の様子を見て、何を思いついたのか、ニヤニヤとしながら輝夜が枕元へとにじり寄って来る。
「ちょっと、何をする気?」
「何って、決まっているじゃない」
そう言って、土鍋の蓋を開けて蓮華でお粥を掬う。
「勿論、あんたにお粥を食べさせるのよ」
そう言って蓮華を私の口元へと運ぶ。
なるほど、どうやら起き上がれない私にお粥を食べさせてくれるつもりのようだ。
しかし、ニヤニヤとしているのは何故だろう。
「ほら、あーん」
もしかして、いや、もしかしなくてもそれで私が恥ずかしがるとでも思っているのだろうか。
はあ、と小さく溜息をつく。
まったくもって馬鹿馬鹿しい。
そんなのは病人に食事をさせるならどこでもやるような、ごく普通のことだ。
今更そんなことで私が照れるはずも無い。
「はいはい、わかったよ」
呆れながら、私は蓮華に顔を寄せていく――が、
「どうしたのよ?」
蓮華に触れるか触れないかといった所で、その動きがぴたりと止まる。
「いや、なんでもない……」
なんだろうこれは。
別に普通な事のはずなのに――いざ自分がやろうとすると、思った以上に恥ずかしい。
まったくの予想外だ。
何故だか妙に顔も熱い。
「どうしたのよ、妹紅。ほら、あーんってば」
ニヤついた顔で輝夜が蓮華を差し出してくる。
しかし、今更文句も言えない。
私は暫く逡巡した後に、
「くっ……」
仕方なく、蓮華を口にした。
そして、もぐもぐとゆっくり咀嚼する。
「……味の方はどうかしら?」
そう輝夜が訊ねる。
「あぁ、えっと、そうね……」
それに対して私は口ごもる。
何故なら、率直に言ってお粥が不味かったからだ。
食べられないようなものではなかったが、味がないのだ。
全然、まったく、微塵の隙もなく、米の味しかしなかった。
輝夜の方をみると、どこか期待するような眼差しでこちらを見つめている。
決して美味くはなかった。
しかし、私のために慣れない料理をしてくれた輝夜にそう告げるような事は――私には出来ない。
私は散々に迷った挙句、
「……うん、美味しかったよ」
結局、そう言った。
そんな私の言葉を聞いて、一瞬意外そうな顔をして輝夜が言う。
「あら、妹紅って随分と薄味が好みなのね」
「……へ?」
意味がわからずに、間の抜けた声を漏らす。
「だってそれ――味がないでしょ?」
にんまりと笑って輝夜が言う。
これは、まさか――、
「お前、確信犯かっ!」
まるで悪びれた様子もなく、輝夜はくすくすと笑っている。
「お前なぁ! 人が折角気を使って――」
「ふふっ、御免なさい。ちょっとした悪戯のつもりだったのだけれど、まさかそんなに真面目に応えてくれるとは思わなくって」
楽しそうに笑いながら輝夜が言った。
「……妹紅ってば、優しいのね?」
そう言われて、また途端に顔が熱くなる。
ああもう、今日はどうしたんだろう。
これも風邪のせいなんだろうか。
「それと、これ」
そう言って、輝夜が小瓶を差し出す。
「なんだ、それ?」
「お粥を美味しくする、魔法の粉よ」
差し出された小瓶を受け取ると、それには小さく『塩』と書かれていた。
「風邪をひくと味覚も弱くなるって言うからね。自分で調整した方がいいかと思って」
そう照れ臭そうに輝夜が言う。
「ああ、うん……ありがとう」
私はそれを聞いて、それまで散々からかわれたことも忘れてそう言ってしまった。
たまには――たまには、こういうのも悪くないかと思いながら。
それから、恥ずかしいのを我慢して私はお粥を全て食べきった。
ちゃんと味があるお粥は――思ったよりも美味しかった。
「さて、それじゃあ私はそろそろ帰ろうかしら」
輝夜がそう言ったのは、私が食事を終えて薬を飲んだ直後のことだった。
「え、もう帰るのか?」
「えぇ、だってもう用は済んだじゃない? 元々薬を届けるだけの予定だったしね」
それは、考えてみれば当り前のことだ。
輝夜の言う通り元々その筈だったのだし、それに私は――早く帰って欲しいと思っていたはずだ。
私は、確かにそう思っていた。
しかし今、私はまったく逆のことを思っている。
輝夜ともう少しだけ、こうして話していたいと。
「まあ、ゆっくり休んで養生することね。なにしろあんたには、元気になって私に殺されるっていう大事な役目があるんだから」
それじゃあね、そう言って輝夜が立ち上がる。
「ちょ――ちょっと待った」
慌てて私は輝夜を呼び止める。
だって、こんな機会は殆どなくて、
「……なによ?」
「あ、あのな、輝夜」
まだ話したいことがあって、
「うん?」
「ええと、その、アレだ」
まだ聞きたい事があって
「だから何なのよ?」
「あの、もう少し――ここで話していかないか?」
まだ知りたいことが沢山あるんだ。
「……へ?」
輝夜が、きょとんとした顔でこちらを見返す。
「妹紅、今なんて――?」
「だ、だからっ!」
思い切って私は言った。
「お前と、もうちょっと話がしたいな、って……」
なんだか最後は尻すぼみになってしまったけれど。
慣れない台詞を、慣れない相手に言ったせいか、顔が一気に火照るのを感じる。
「ええと、私と話がしたい、の?」
「そ、そうだよ」
私がそう言うと、輝夜はニヤニヤと笑いながら言った。
「……なるほど、するとこういうわけね。あの藤原妹紅さんが、この蓬莱山輝夜とどうしても、なんとしても、是が非でもお話がしたいと、そう仰るわけね」
「そこまでは言ってな――」
「違うのかしら?」
思わず反射的に言い返しそうになるが、
「――違わ、ないっ!」
ぎりぎりの所で踏みとどまる。
この忍耐力には自分で自分に喝采を送りたいと思う。
「――そう」
私の返答を聞くと、輝夜は満足したように微笑み、再び座り込んだ。
まったく、手間のかかる奴だ。
「それじゃあ何の話をしようかしらね」
そう輝夜が言うけれど、それについては決まっている。
「ああ、ちょっと聞きたい話があるんだ」
「……聞きたい話?」
顔に疑問符を浮かべて輝夜が問う。
「ああ、ちょっと昔の話をね――」
◇◇◇
さて、その数時間後。話し疲れて同じ布団で眠っている二人が慧音によって発見された。
後日、誰にうつされたのか輝夜が風邪をひいてしまったそうだが、それはまた別のお話である。
無限ループって怖くね
ニヤニヤしました
老夫婦のような熟成具合ですな。まあ金婚式の六倍も顔つきあわせてたらそうなるか。
とりあえず風邪引いたときのおじやの(ry
ずっと交互に看病し続けてください
282828
両方読ませていただきました
やはりこの二人は良い
「ああ、ちょっと昔の話をね――」
この終わらせ方、好きだわ。
もう一方の方でも思ったけど、話し疲れると同じ布団で眠っちゃうのかww
何と言う同衾!
しかし、2828するぜw
これは二作とも面白かったと言わざるを得ませんなぁ。少なくとも俺得であったことは間違いなし。
>ルナティックジョーク
なにこのフレーズ凄い気に入りました
と思ってしまった。