その日、地上の山をフラついていた古明地こいしは悲鳴を聞いた。それは絹を裂くような女性の悲鳴だった。ここから割と近いようだ。
今日の妖怪の山は、春先特有のぬるりとするような生温い風が吹き荒れている。
春は何かと危ない季節だ。特に春先などは陽気に誘われ迂闊に山なんかへ繰り出すと、冬眠明けの熊や猪なんかに襲われる。今の悲鳴もきっとその類の難に巻き込まれたのだろう。こいしは何となくそこへ向かった。別に誰かが襲われたからじゃない、果たして誰が誰を襲ったのか。単にそれが気になったからだ。
目的地は既に血のにおいで満ち溢れていた。広い山道だ。遠くには滝が望める。そんな風光明媚な場所に、血まみれになりうつ伏せに横たわる人間の姿があった。
乱れた長い髪から察するに女性のようだ。きっと悲鳴はこの人のものだったのだろう。近寄ってみるが生気は感じとれない。どうやら既に事切れているようだ。
こいしはその亡骸をひっくり返してみた。すると辺りの血生臭さが一層強くなる。それは少し鼻の効く者なら、たちまちえづいてしまうほどの噎せ返るようなにおいだった。
それもそのはずで、おそらく致命傷になったと思われる、引きちぎられたような傷跡からは未だに生暖かい血が溢れ続けている。それは今しがたまでこの女性に生があったと言う証拠に他ならなかった。おおかた喉笛を食いちぎられ、ほぼ即死と言ったところだろう。
どうやらやった相手は熊でほぼ決定のようだ。猪にやられたとしてもこんな傷を負う事はまずないだろうし、妖怪ならその場に放置なんてせずに、持ち運ぶはずだ。ましてやこんな人目につきやすいところで堂々と狩りをする訳がない。
こいしはふと別な方からも血のにおいがする事に気づく。彼女はその女性の亡骸を両脇で掴み、ずるずると引きずりながらその方へ向かった。
吹き付ける風は相変わらず生暖かく、どこか気怠い陽気だった。
彼女が向かった先では年端もいかぬ女の子どもが襲われていた。その相手はやはり熊だった。しかもそれはこいしの三倍以上の背丈があるのではないかというくらいの大きな熊だ。
そんな巨大なグリズリーが今まさに幼い少女に襲いかかろうとしていたのだ。
こいしはゆっくりとその場に近づく。別に子どもを救ってやる義理はない。
彼女が用あるのはその熊の方だった。
「さあ、狩りを始めるよ!」
こいしは誰にともなくそう告げる。あるいは地底にいる姉にでも伝えるつもりだったのだろうか。当然届くわけもないのだが。
「行くよー! 森の熊さん」
そう言いながらこいしは熊を正面から徐に突き倒す。
彼女はこうやって熊や猪を狩る事に最近凝っていた。そしてそれを地霊殿へ持ち帰るのだ。彼女の狩りには、ある決まり事がある。それは弾幕は使わずに身体能力だけで獲物を狩るという事だ。何故かと問われても特に理由などはない。言わば子どもが自分だけのルールを作って遊ぶようなものである。別に狩りと言っても彼女にとってはただの遊びの一つに過ぎないのだ。
極端に薄れている彼女の気配は、滅多に悟られる事はない。熊からしてみれば謎の衝撃で突然ぶっ倒された感覚だろう。そして並の熊なら今の一撃で大抵は瀕死に追いやられる。
彼女もこれで仕留めたと思い、余裕の表情でスカートに付いた汚れを手で払っていた。
しかし倒された熊は地を揺るがすような咆哮とともに起き上がると、その丸太のような腕でこいしをひねり潰そうとしてきた。いや、そう見えただけで彼女の気配がわかったわけではない。その熊は何かが近くにいるという事を咄嗟に感じ取り本能のままに腕を振り下ろしたのだ。
それでもこいしを驚かすには十分だった。その腕を振り下ろした風圧だけで彼女の小さな体躯は宙に浮いた。そして宙に浮いた状態のままで静止すると彼女はその熊を多少焦った様子で見下ろした。
「あーびっくりした。こいつもしかして私の事がわかるのかな?」
今までこんなのあった事がない。妖怪ならまだしも、まさか熊に反撃を食らうなんて思ってもいなかった彼女は、驚きとともに、この熊に対する興味が芽生えつつあった。こいつを倒して持ち帰りたい。そうすれば皆に自慢も出来るし、姉であるさとりへのいいおみやげとなる。ティータイムの話のネタにもなるだろう。そうでなくとも熊は鍋にして食うと美味しいし、毛皮は立派な絨毯になる。しかもこの熊は今まで見た事がないくらい巨大だ。さぞ食いでがあるだろうし、毛皮の見栄えも違うはず。彼女はそんな事を思いながら自分を探し回っている大熊を見下ろしていた。
とりあえずなんとなく地面に降りる事にしようと、彼女がすとんと着地したその時だ。
突如熊の鋭い爪が彼女の肩をかすった。
「うわっ!?」
バランスを崩して彼女は尻餅をついてしまう。ふと肩を見ると血がにじんでいる。熊は相変わらず四方八方にそのぶっとい腕を振り回し続けている。どうやらさっきの一撃は偶然だったのか。それにしても危なかった。こいしは思わずその熊を見つめる。その熊はよく見ると片目がなく、面構えもなかなか精悍なものだ。いかにも歴戦の猛者といった風格である。ますますこいしはその熊に興味を持った。
しかし、このまま下手に近づいたらまた吹っ飛ばされてしまうだけだ。いくら妖怪の体とは言え、あの腕の直撃を食らったらただじゃ済まないだろう。だからと言って大した策があるわけでもないのだが。
ふと彼女は何かが足にしがみついているのを感じた。見下ろしてみるとそれは先程の幼い少女だった。その子は全身をぷるぷると震えさせながら、何かを訴えかけるように見開いたまなざしで、こいしの事をじっと見つめている。よく見ると、その薄い緑色の衣服は赤茶けた血がにじんでいた。既にどこか重傷を負っているらしい。彼女は邪魔だったので思わず蹴り飛ばしたくなったが、寸前で留まった。自分でもわからなかったが何かが彼女の行為を留まらせたのだ。
その時だ。例の熊が明らかにこちらへと向かってきた。こいしはその理由がすぐわかった。血のにおいだ。その子の放つ血のにおいが熊をこちらに引き寄せていたのだ。
「あ~もう」
こいしは少女を抱きかかえてその場から一旦逃げた。その間も少女はこいしの顔をじっと見つめている。既に顔は蒼白状態だ。
「いい子だからここで大人しくしててよ」
と、こいしはその子を木の根元に下ろすと頭を撫でてやる。わずかに少女の顔が綻んだように見えた。こいしは振り返ると近づいてきている熊の方へと向かった。
奴は今まで出会ったどの熊よりも確実に強い。人間は勿論の事、もしかしたら下等な妖怪くらいなら打ち負かせるのではないだろうか。しかしいくら何でもやられっぱなしというのは癪に障った。無意識でふらふらしているとは言え彼女にだってプライドと言うものがある。こいしとて立派な妖怪なのだ。
――よし、必ずあいつを仕留めてやるんだ!
こいしは、奴の懐に助走つけて飛び込む。そして力を込めたこぶしで思いっきり殴り飛ばした。流石の奴もたまらず仰け反りそのまま地面に倒れかける。しかし、その寸前で身をよじり体勢を立て直すと、すかさずこちらに飛び掛ってきた。奴は明らかにこちらを狙っている。
そう、さっき彼女が負傷した箇所から流れている血のにおいで奴は確実にこちらの気配を感じ取っていたのだ。だが、そんなの今の彼女にとっては大した問題じゃなかった。
久々の強敵との戦い。しかもそれが思わぬ相手。
楽しくて楽しくて仕方がない。内なるものの高ぶりに彼女はいつになく気分が高揚していた。それは妖怪としての無意識の本能と言うべきか。
「さあ! 私はここだよ! 早く決着つけようよ!」
彼女が嬉々として叫ぶとそれに呼応するように奴も雄叫びを上げる。奴もまた、古明地こいしという強敵との対決を楽しんでいるのかもしれない。二人はそのままお互いを睨み合った。
奴には血のにおいでしか彼女の気配を読み取る術はなかったはずだ。しかし、確実に奴の隻眼は彼女の顔を見据えていた。そのまま二人は暫し膠着状態に入る。まるで侍の決闘のように張り詰めた空気が、辺りを飲み込んだ。
風はいつの間にか止み、空は雲が集まり徐々に薄暗くなってきていた。
そして春の生暖かい雨粒が二人にぽつぽつと当たり始めた。
その時だ。しびれを切らした熊が、その剛腕と爪で彼女に襲いかかってくる。こいしは咄嗟的に横に跳ね跳び、その攻撃をかわした。
すると奴はすかさず腕をなぎ払うようにして二撃目を放ってきた。流石に連続攻撃までしてくるとは思わなかったこいしは、不意を突かれそうになってしまうが、俊敏さで優る彼女はその小柄な体を思いっきり捻り、すれすれでかわす。そしてその捻った反動を利用するようにして振り向きざまに腕を思いっきり振り下ろした。それはあたかも今まで溜めていた力を放出するかの如く強烈なもので、その一撃で奴の脇腹は掻っ捌かれ、肋骨もえぐられた。
――やった!
勝利を確信した彼女は奴の返り血を浴びながらも、その達成感に浸った。
一方、奴は断末魔と共に地面に突っ伏す。
勝者と敗者のコントラストはあまりにも対照的だった。
彼女は愉悦に浸るような歪んだ笑みを自然と浮かべている。その場にいたのは間違いなく少女こいしではなく、妖怪古明地こいしだった。
熊はしばらく体を痙攣させていたが、やがてその動きも弱まりついには動かなくなった。
ふと彼女は獲物に触れてみる。徐々に冷たくなりゆくその巨体は何も語る事はない。
「楽しかったよ」
こいしはぽつりとその「ものを言わぬ強者」に向けてつぶやいた。こうして彼女の狩りは終わった。
こいしが先ほどの幼い少女の元へ行くと、その子はこいしに見せた微笑みの表情のまま既に亡骸となっていた。どうやらあの後すぐに事切れたようだ。
こいしはその様子を見て、にこりと笑みを浮かべる。そしてその子を女性の亡骸と一緒に道はずれの木の根本に寝かせてあげると、仕留めた熊を引きずりながらその場から立ち去った。
その日の夜、地霊殿のロビーには大きな熊が飾られていた。無論、こいしが仕留めた隻眼の熊である。沐浴を終え服を着替えたこいしは、濡れた髪をタオルで拭きながらその熊をじっと見つめていた。
「こいし様!」
不意の呼びかける声に振り向くと、そこには機嫌良さそうな燐の姿があった。
「言われた通り運んできましたよ」
と。言う彼女愛用の猫車には例の子供と女性の亡骸が積まれている。
「ね、いい死体でしょ?」
こいしが問いかけると燐は嬉しそうに答えた。
「はい! ちょっと母親の方の傷が激しいですが、これくらい加工すれば大丈夫ですね」
「母親?」
「あ、話を聞いたところによると、この二人は親子だったみたいですよ」
そう言って彼女は子供の死体を抱き抱える。
燐は死体や霊と会話が出来る能力を持っているのだ。
「そうだったんだ。じゃあ良かったね。どうせこれからずっと一緒にいられるんだから」
そう言ってこいしは無邪気な笑みを浮かべる。
「そうですね」
続けて燐も同じ笑みを浮かべる。
「大事にしてあげてね!」
「わかってますよ。なんたってこいし様からのプレゼントなんですから、部屋の一等席に飾らせてもらいますね! ありがとうございます」
と、彼女は一礼すると機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら猫車を押して自室の方へと消えていった。
幸か不幸か、この親子はこれから燐によって防腐処理等された後、文字通り永遠に彼女の部屋で飾られる事になるのだ。
「こいし」
「あ、おねーちゃん!!」
こいしは姉のさとりの姿を見るなり抱きつく。
「ねえ、聞いてよ! 聞いてよ! 私が仕留めたんだよ!」
「これはまた、大物ね……」
「でしょ? でしょ? あのね……」
こいしはさとりに今日の経緯をすべて話す。その様子はまるで、親に自慢をする子供のようだ。さとりはそんな彼女の武勇伝を嬉しそうに聞いた。
「そう、そんな事があったのね。それでこの熊どうするの?」
「その事でお願いがあるんだけど……」
「……え? 別にいいけど……」
こいしのお願いを聞いたさとりは思わず意外そうな表情を浮かべた。
数日後、こいしの部屋には大きな熊の剥製が飾られる。
そしてその熊を満足そうに見上げる彼女の姿があった。
そんな我が妹の様子を見たさとりは思った。
今までだったらこいしがこんな事頼むなんて有り得ない。
どうやら彼女の心に少しづつ変化が起きているの間違いないだろう。
もしかしたら、彼女が再び心を開く日はそう遠くないのかもしれないと。
今日の妖怪の山は、春先特有のぬるりとするような生温い風が吹き荒れている。
春は何かと危ない季節だ。特に春先などは陽気に誘われ迂闊に山なんかへ繰り出すと、冬眠明けの熊や猪なんかに襲われる。今の悲鳴もきっとその類の難に巻き込まれたのだろう。こいしは何となくそこへ向かった。別に誰かが襲われたからじゃない、果たして誰が誰を襲ったのか。単にそれが気になったからだ。
目的地は既に血のにおいで満ち溢れていた。広い山道だ。遠くには滝が望める。そんな風光明媚な場所に、血まみれになりうつ伏せに横たわる人間の姿があった。
乱れた長い髪から察するに女性のようだ。きっと悲鳴はこの人のものだったのだろう。近寄ってみるが生気は感じとれない。どうやら既に事切れているようだ。
こいしはその亡骸をひっくり返してみた。すると辺りの血生臭さが一層強くなる。それは少し鼻の効く者なら、たちまちえづいてしまうほどの噎せ返るようなにおいだった。
それもそのはずで、おそらく致命傷になったと思われる、引きちぎられたような傷跡からは未だに生暖かい血が溢れ続けている。それは今しがたまでこの女性に生があったと言う証拠に他ならなかった。おおかた喉笛を食いちぎられ、ほぼ即死と言ったところだろう。
どうやらやった相手は熊でほぼ決定のようだ。猪にやられたとしてもこんな傷を負う事はまずないだろうし、妖怪ならその場に放置なんてせずに、持ち運ぶはずだ。ましてやこんな人目につきやすいところで堂々と狩りをする訳がない。
こいしはふと別な方からも血のにおいがする事に気づく。彼女はその女性の亡骸を両脇で掴み、ずるずると引きずりながらその方へ向かった。
吹き付ける風は相変わらず生暖かく、どこか気怠い陽気だった。
彼女が向かった先では年端もいかぬ女の子どもが襲われていた。その相手はやはり熊だった。しかもそれはこいしの三倍以上の背丈があるのではないかというくらいの大きな熊だ。
そんな巨大なグリズリーが今まさに幼い少女に襲いかかろうとしていたのだ。
こいしはゆっくりとその場に近づく。別に子どもを救ってやる義理はない。
彼女が用あるのはその熊の方だった。
「さあ、狩りを始めるよ!」
こいしは誰にともなくそう告げる。あるいは地底にいる姉にでも伝えるつもりだったのだろうか。当然届くわけもないのだが。
「行くよー! 森の熊さん」
そう言いながらこいしは熊を正面から徐に突き倒す。
彼女はこうやって熊や猪を狩る事に最近凝っていた。そしてそれを地霊殿へ持ち帰るのだ。彼女の狩りには、ある決まり事がある。それは弾幕は使わずに身体能力だけで獲物を狩るという事だ。何故かと問われても特に理由などはない。言わば子どもが自分だけのルールを作って遊ぶようなものである。別に狩りと言っても彼女にとってはただの遊びの一つに過ぎないのだ。
極端に薄れている彼女の気配は、滅多に悟られる事はない。熊からしてみれば謎の衝撃で突然ぶっ倒された感覚だろう。そして並の熊なら今の一撃で大抵は瀕死に追いやられる。
彼女もこれで仕留めたと思い、余裕の表情でスカートに付いた汚れを手で払っていた。
しかし倒された熊は地を揺るがすような咆哮とともに起き上がると、その丸太のような腕でこいしをひねり潰そうとしてきた。いや、そう見えただけで彼女の気配がわかったわけではない。その熊は何かが近くにいるという事を咄嗟に感じ取り本能のままに腕を振り下ろしたのだ。
それでもこいしを驚かすには十分だった。その腕を振り下ろした風圧だけで彼女の小さな体躯は宙に浮いた。そして宙に浮いた状態のままで静止すると彼女はその熊を多少焦った様子で見下ろした。
「あーびっくりした。こいつもしかして私の事がわかるのかな?」
今までこんなのあった事がない。妖怪ならまだしも、まさか熊に反撃を食らうなんて思ってもいなかった彼女は、驚きとともに、この熊に対する興味が芽生えつつあった。こいつを倒して持ち帰りたい。そうすれば皆に自慢も出来るし、姉であるさとりへのいいおみやげとなる。ティータイムの話のネタにもなるだろう。そうでなくとも熊は鍋にして食うと美味しいし、毛皮は立派な絨毯になる。しかもこの熊は今まで見た事がないくらい巨大だ。さぞ食いでがあるだろうし、毛皮の見栄えも違うはず。彼女はそんな事を思いながら自分を探し回っている大熊を見下ろしていた。
とりあえずなんとなく地面に降りる事にしようと、彼女がすとんと着地したその時だ。
突如熊の鋭い爪が彼女の肩をかすった。
「うわっ!?」
バランスを崩して彼女は尻餅をついてしまう。ふと肩を見ると血がにじんでいる。熊は相変わらず四方八方にそのぶっとい腕を振り回し続けている。どうやらさっきの一撃は偶然だったのか。それにしても危なかった。こいしは思わずその熊を見つめる。その熊はよく見ると片目がなく、面構えもなかなか精悍なものだ。いかにも歴戦の猛者といった風格である。ますますこいしはその熊に興味を持った。
しかし、このまま下手に近づいたらまた吹っ飛ばされてしまうだけだ。いくら妖怪の体とは言え、あの腕の直撃を食らったらただじゃ済まないだろう。だからと言って大した策があるわけでもないのだが。
ふと彼女は何かが足にしがみついているのを感じた。見下ろしてみるとそれは先程の幼い少女だった。その子は全身をぷるぷると震えさせながら、何かを訴えかけるように見開いたまなざしで、こいしの事をじっと見つめている。よく見ると、その薄い緑色の衣服は赤茶けた血がにじんでいた。既にどこか重傷を負っているらしい。彼女は邪魔だったので思わず蹴り飛ばしたくなったが、寸前で留まった。自分でもわからなかったが何かが彼女の行為を留まらせたのだ。
その時だ。例の熊が明らかにこちらへと向かってきた。こいしはその理由がすぐわかった。血のにおいだ。その子の放つ血のにおいが熊をこちらに引き寄せていたのだ。
「あ~もう」
こいしは少女を抱きかかえてその場から一旦逃げた。その間も少女はこいしの顔をじっと見つめている。既に顔は蒼白状態だ。
「いい子だからここで大人しくしててよ」
と、こいしはその子を木の根元に下ろすと頭を撫でてやる。わずかに少女の顔が綻んだように見えた。こいしは振り返ると近づいてきている熊の方へと向かった。
奴は今まで出会ったどの熊よりも確実に強い。人間は勿論の事、もしかしたら下等な妖怪くらいなら打ち負かせるのではないだろうか。しかしいくら何でもやられっぱなしというのは癪に障った。無意識でふらふらしているとは言え彼女にだってプライドと言うものがある。こいしとて立派な妖怪なのだ。
――よし、必ずあいつを仕留めてやるんだ!
こいしは、奴の懐に助走つけて飛び込む。そして力を込めたこぶしで思いっきり殴り飛ばした。流石の奴もたまらず仰け反りそのまま地面に倒れかける。しかし、その寸前で身をよじり体勢を立て直すと、すかさずこちらに飛び掛ってきた。奴は明らかにこちらを狙っている。
そう、さっき彼女が負傷した箇所から流れている血のにおいで奴は確実にこちらの気配を感じ取っていたのだ。だが、そんなの今の彼女にとっては大した問題じゃなかった。
久々の強敵との戦い。しかもそれが思わぬ相手。
楽しくて楽しくて仕方がない。内なるものの高ぶりに彼女はいつになく気分が高揚していた。それは妖怪としての無意識の本能と言うべきか。
「さあ! 私はここだよ! 早く決着つけようよ!」
彼女が嬉々として叫ぶとそれに呼応するように奴も雄叫びを上げる。奴もまた、古明地こいしという強敵との対決を楽しんでいるのかもしれない。二人はそのままお互いを睨み合った。
奴には血のにおいでしか彼女の気配を読み取る術はなかったはずだ。しかし、確実に奴の隻眼は彼女の顔を見据えていた。そのまま二人は暫し膠着状態に入る。まるで侍の決闘のように張り詰めた空気が、辺りを飲み込んだ。
風はいつの間にか止み、空は雲が集まり徐々に薄暗くなってきていた。
そして春の生暖かい雨粒が二人にぽつぽつと当たり始めた。
その時だ。しびれを切らした熊が、その剛腕と爪で彼女に襲いかかってくる。こいしは咄嗟的に横に跳ね跳び、その攻撃をかわした。
すると奴はすかさず腕をなぎ払うようにして二撃目を放ってきた。流石に連続攻撃までしてくるとは思わなかったこいしは、不意を突かれそうになってしまうが、俊敏さで優る彼女はその小柄な体を思いっきり捻り、すれすれでかわす。そしてその捻った反動を利用するようにして振り向きざまに腕を思いっきり振り下ろした。それはあたかも今まで溜めていた力を放出するかの如く強烈なもので、その一撃で奴の脇腹は掻っ捌かれ、肋骨もえぐられた。
――やった!
勝利を確信した彼女は奴の返り血を浴びながらも、その達成感に浸った。
一方、奴は断末魔と共に地面に突っ伏す。
勝者と敗者のコントラストはあまりにも対照的だった。
彼女は愉悦に浸るような歪んだ笑みを自然と浮かべている。その場にいたのは間違いなく少女こいしではなく、妖怪古明地こいしだった。
熊はしばらく体を痙攣させていたが、やがてその動きも弱まりついには動かなくなった。
ふと彼女は獲物に触れてみる。徐々に冷たくなりゆくその巨体は何も語る事はない。
「楽しかったよ」
こいしはぽつりとその「ものを言わぬ強者」に向けてつぶやいた。こうして彼女の狩りは終わった。
こいしが先ほどの幼い少女の元へ行くと、その子はこいしに見せた微笑みの表情のまま既に亡骸となっていた。どうやらあの後すぐに事切れたようだ。
こいしはその様子を見て、にこりと笑みを浮かべる。そしてその子を女性の亡骸と一緒に道はずれの木の根本に寝かせてあげると、仕留めた熊を引きずりながらその場から立ち去った。
その日の夜、地霊殿のロビーには大きな熊が飾られていた。無論、こいしが仕留めた隻眼の熊である。沐浴を終え服を着替えたこいしは、濡れた髪をタオルで拭きながらその熊をじっと見つめていた。
「こいし様!」
不意の呼びかける声に振り向くと、そこには機嫌良さそうな燐の姿があった。
「言われた通り運んできましたよ」
と。言う彼女愛用の猫車には例の子供と女性の亡骸が積まれている。
「ね、いい死体でしょ?」
こいしが問いかけると燐は嬉しそうに答えた。
「はい! ちょっと母親の方の傷が激しいですが、これくらい加工すれば大丈夫ですね」
「母親?」
「あ、話を聞いたところによると、この二人は親子だったみたいですよ」
そう言って彼女は子供の死体を抱き抱える。
燐は死体や霊と会話が出来る能力を持っているのだ。
「そうだったんだ。じゃあ良かったね。どうせこれからずっと一緒にいられるんだから」
そう言ってこいしは無邪気な笑みを浮かべる。
「そうですね」
続けて燐も同じ笑みを浮かべる。
「大事にしてあげてね!」
「わかってますよ。なんたってこいし様からのプレゼントなんですから、部屋の一等席に飾らせてもらいますね! ありがとうございます」
と、彼女は一礼すると機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら猫車を押して自室の方へと消えていった。
幸か不幸か、この親子はこれから燐によって防腐処理等された後、文字通り永遠に彼女の部屋で飾られる事になるのだ。
「こいし」
「あ、おねーちゃん!!」
こいしは姉のさとりの姿を見るなり抱きつく。
「ねえ、聞いてよ! 聞いてよ! 私が仕留めたんだよ!」
「これはまた、大物ね……」
「でしょ? でしょ? あのね……」
こいしはさとりに今日の経緯をすべて話す。その様子はまるで、親に自慢をする子供のようだ。さとりはそんな彼女の武勇伝を嬉しそうに聞いた。
「そう、そんな事があったのね。それでこの熊どうするの?」
「その事でお願いがあるんだけど……」
「……え? 別にいいけど……」
こいしのお願いを聞いたさとりは思わず意外そうな表情を浮かべた。
数日後、こいしの部屋には大きな熊の剥製が飾られる。
そしてその熊を満足そうに見上げる彼女の姿があった。
そんな我が妹の様子を見たさとりは思った。
今までだったらこいしがこんな事頼むなんて有り得ない。
どうやら彼女の心に少しづつ変化が起きているの間違いないだろう。
もしかしたら、彼女が再び心を開く日はそう遠くないのかもしれないと。
人間の娘が死んだというのに、然程気に留めないこいしちゃん。悲しみなど皆無。そこには妖怪としての彼女、瞼を閉じた彼女の一面が表れているのだと思います。
たまには、このようなキャラクターを真正面から見つめた作品もいいかもしれませんね。
ひたすら自らの尺度で突っ走る彼女こそ、
最も自然な姿かもしれないと思いました。
妖怪には妖怪の価値観とか行動原理みたいなのがあるんですよね
しかしこう実際書かれたものを読んだら読んだで、なんというかもどかしい気持ちになります
ここまでのファクターを揃えてしまえば、後は最悪な展開を想像するのに不足はありませんでした。
尤も、杞憂に終わったようですが。作者様の描く、こいしらしさを存分に堪能できました。
感傷的な気分で熊を、そして親子をどうこうするのでなく、
ただ享楽の直線状としてやりたいからやった、という事実。
楽しまさせていただきました。
こんな妖怪らしいこいしは久しぶりに見ました。やっぱりこうでなくちゃね
つい忘れがちになるけどね。
だからこの日は地霊殿の住人にとってはとても素敵な一日だったのでしょうね。
どの死体も無駄にならないで本当によかった。