予感はあった。
予感と言うよりは予兆と言った方が正しいかも。
何せコレは身体に関することだから。
「えいりん……」
全身から滲み出てくる汗に、ガンガンと脈打つ頭の痛み。
熱さにうなされているはずなのに、寒さのせいで体をぶるりと震わせる。
――完全に、風邪だった。
「なんですか」
抑揚の無い喋り方で答える永琳。
手には湯呑みを持っていて、暢気に茶請けを漁っている。
人がこんなにも辛い思いをしていると言うのに、月の賢者らしく冷静沈着だった。
「私、死んじゃうかも……」
弱気に声を上げてみる。
永琳は最近、人間の里で医者まがいの事をしている。
診察と言うものをやっているらしい。
評判も聞くに上々なので、きっと優しい対応をしているのだろう。
そんな八意永琳ともあろうお方が、こんなにも苦しんでいるか弱い女性を無碍にするだろうか。
きっと手厚く看病を――
「ただの風邪です。寝ていればそのうち治りますよ」
――してくれる、気配すらなかった。
一応無駄だとは思いつつも食い下がってみる。
「で、でも」
「でももへちまもありません。ちゃんと寝ていれば治るのですから、安静にしていてください」
ぱきり、と小気味良い音を立てながら煎餅を食している。
ああ……美味しそう……じゃなくて。
「熱、出てるのよ?」
「風邪の時に熱が出るのは自然治癒力のせいですよ。人体と言うのはですね、体温を上昇させて免疫力を上げているのです。自然治癒するから風邪になる、と言うのが適切でしょうか」
「頭も痛いし……」
「だから安静に、と言っているのです。動いて辛いのは輝夜ですからね」
がりがり、ずずず、もぐもぐ――なんて羨ましい音。
想像しただけで垂涎モノだけれど、熱のおかげかあまり煎餅を口に入れたいとは思わない。
思わないんだけど……美味しそう。
と言うより、永琳の態度が非常に気に入らない。
なんで私がこんな目にあっているのに、永琳は暢気にお茶してるの?
そう言いたいけれど言えないのが悲しい。
言えば言ったで、「そんなの、体調管理も出来ない輝夜が悪いんですよ」なんて言われそうだから。
私は悔しい思いを胸に仕舞いつつ、永琳とは反対の方向に寝返った。
頭に載せていた濡れ手拭がぼたりと落ちたので、それを拾って近くに置かれている桶の中へと放る。
それで気がついた。
「あめ……」
いつの間にか雨が降っていた。
ざぁざぁとしっかりした雨ではなく、霧のような、さぁさぁと静かで優しい雨だ。
竹林の葉も揺らさず、ただ存在を押し殺して振り続ける五月雨。
そう、ついさっきまで忘れていたけれど、今は梅雨の時期だった。
昨日、軽い頭痛と熱の症状を永琳に訴えたとき、梅雨の季節に風邪を引くなんて珍しいですね、と言っていたのを思い出した。
どうしてそう思ったのかは聞いてないけれど、きっと永琳のことだからちゃんとした根拠のある理由なのだろう。
私はどう転んでも勉強不足だから、永琳の示す理由に対して理解すら出来ないだろうけど。
それにしても――どうしてこう、永遠亭の住人たちはみんな冷たいのかしら?
鈴仙は風邪なんてうつさないでくださいよ、とか言ってそそくさと逃げてしまうし、永琳は永琳でこの通りだ。
他に誰かいるわけでもないけれど、こういう時くらい誰かさんが優しくしてくれてもいいのに、と思ってしまうのは贅沢なことなのだろうか。
こういう時に限ってアイツも来ないし。
「…………」
はぁ、と無意識に小さくため息が出てしまった。
今回の風邪はあまり咳が出ない。
おかげで喉は比較的楽だから、寝ているよりはお喋りをしたいのに。
でもまぁ、頭が痛いし、熱も下がってこないから、やはり永琳の言うように安静が一番かも。
「永琳」
「なんですか?」
「それ、絞って」
「……はいはい」
「はいは一回、でしょ?」
「……はい」
永琳の困った顔を見るのは楽しい。
いつもは完璧主義のせいか涼やかな顔をしているから、こうしてあらかさまに嫌そうな顔とか困った顔になると、その鉄仮面が剥がれ落ちるような気がして、見ているこちらが楽しくなる。
なんだか永琳じゃない永琳を見れるような気がして嬉しい。
そして最近私の中で、永琳の口癖とか行動を真似するのが、楽しみの一つとして追加された。
はいは一回でしょ、と言うのも永琳の口癖である。
こうやって真似事をすると、決まって永琳は顔を複雑にさせるものだから、こちらとしては楽しさ二倍、なのだった。
「元気なら自分でやってください」
「安静に、と言ったのは永琳じゃなくて?」
「……寝てください」
ぺちっと音を立てて乗せられた手拭が、冷たくて気持ちがいい。
まるで私の上昇した分の体温を全て手拭が持ち去ってくれているよう。
「うん、わかった」
「本当、いつまで経っても輝夜は輝夜のままですね」
くすり、と。
本当に微かな笑みをこぼした永琳。
その顔はまるで『母親』のような温かさで――ふと、『母親』とはどんなものなのか、と自問してしまった。
聞き伝えで知っている私の母親像は、優しくて温もりに溢れる女性、と言う感じなのだけれど、残念ながら体感した記憶は一切無い。
だからこれは私の想像の中での母親で、そのイメージに永琳の笑みが合致しただけの話だ。
――そう、それだけの……。
「輝夜?」
「なんでもない。……寝る」
「……?」
瞳をきつく閉じて、一度深呼吸。
視界は真っ暗で、雨の音は相変わらず聞こえてはこない。
永琳も私が目を閉じたことで寝たのだろうと、腰を浮かしてどこかへ行ってしまった。
そうして私は心の中で呟く。
――永琳がお母さんだったらな、と。
~~~梅雨日の出来事~~~
これだから梅雨は嫌いなんだ。
火の付きも悪いし、何よりジトジトと鬱陶しいことこの上ない。
雨のせいで服もすぐ濡れるし、人間も外を歩かなくなるから護衛業も無い。
しかもアイツも永遠亭に閉じこもって出てこないし。
「あー……クソッ」
そこら辺に落ちていた桶を蹴ると、ばきゃ、なんて冗談みたいな音がした。
慌てて音がした方を覗くと――壁に、見事な大穴が開いていた。
「ばっかじゃねーのか? これくらいで壊れやがって……」
桶は金具も外れて大破。
家の壁は素材が質素なせいか、ぽっかりと拳大の大きさで穴が開いてしまっている。
……二次災害もいいところだ。
しかも微妙に蹴った足、痛いし。
「クッソ……」
悪態をついたところで誰かが来るわけでもない。
外が晴れたら修理すればいいだけの話か。
それでも……桶は直せそうも無いな。
壁なんてそこいらの木々を拾ってこれば直せるけど、桶は流石に職人技のような気がする。
仕方ない、今度人間の里に行ったときに修理依頼してくるか。
修理するくらいなら新しいのを買え、なんて言われそうだが。
それにしても、五月雨とは言え今日の雨はヤケに静かだな。
まるで存在自体してないみたいだ。
とは言っても、手を伸ばせばちゃんと濡れるんだから、雨自体は降ってるんだよなぁ、不思議と。
雨の匂いもするし。
しかし――問題は暇ってことだ。
アイツも来ないし護衛も無いとくれば、ただこうして家の中で亀になるしかない。
家の中でやることなんて何も無いから……さて、本当に困った。
「あーあ」
布団に身を投げてみても、眠気なんてもちろん来ない。
腕を枕代わりに天井を見つめるも、五分で飽きた。
――こうなったら、
「引っ張り出すか?」
八意永琳が外出した隙を狙って永遠亭を襲撃。
そうすれば否応にもアイツが出てくるだろう。
でもって、そのまま殺し合いが出来れば御の字だ。
しかしそのためにはまず、あの邪魔な八意永琳がどこかに行ってくれないと話しにならない。
だけど薬も最近はあの兎に売りに行かせてるみたいだし、里で病人でも出ない限りこんな雨の中、外出するなんてことは無い……よな。
「大人しく寝るか……」
晴耕雨読とはよく言うが、雨の日に本を読むなんて柄じゃない。
それよりも果報は寝て待て、寝る子は育つ、だ。
丁度小腹も空いてきたことだし、寝てしまえば料理をしなくても済むのだから、経済的かつ精神衛生的にもいい睡眠を選択するとしよう。
――――そのまま仰向けになって、私は瞳を閉じた。
/
「――で、こうしてここに来たと?」
「暇だったんだ。いいだろ別に」
「いいことはいいが、食事の邪魔はしないでおくれよ」
「…………」
そう言って膳を整え始める慧音。
慧音――上白沢慧音はこの寺小屋で子供たちに勉強を教えている、言わば先生である。
中には年配の人もいるみたいだが、基本的には幼い子供たちが対象だ。
慧音は知識が豊富なので、私とは正反対の属性であろう。
そんな彼女の、今日のお昼ご飯の献立は野菜炒めらしい。
生徒たちも雨で来ないので、本でも眺めながら食事をとろうとしていたところに、私が現れたのだとか。
全く以って間が悪いのだった。
「いただきます」
ちゃんと背筋を伸ばし、お辞儀をしてから箸を手にする慧音。
並べられた茶碗たちからは素敵な香りがしてくる。
匂いに負けそうになりながらも、耐え凌ぐ。
そして一口目――どうやら慧音は味噌汁から攻めるらしい。
箸で撫でるようにかき混ぜながら口へと運ぶと、彼女の喉がこくりと震えた。
「うん、美味しいな」
自画自賛もいいところだ。
しかし見た目も美しく、香りも良いと来れば本当に美味しいのだろう。
涎が出そうになるのを堪え、慧音の方とは逆を向く。
このまま食事風景を見るのは拷問まがいだ。
「本でも読むか?」
「いい。寝る」
「なら家でも良かったろうに」
変なヤツだな、と嘯きながら、もぐもぐと言う食事の音が聞こえてくる。
――耐えろ、私。
一食抜いたからって、人間死にはしない。
特に私のような不死者には。
「んぐんぐ」
そう、私は不死者。
どれだけ食事を抜こうが、どれだけ火にあぶられようが死ぬことは無い。
灰になってもそこから生還できるのだ。
背面にいる慧音は『獣人』と呼ばれる妖怪ではあるが、不死ではない。
飢えれば死ぬし、焼かれても死ぬ。
私は人間の身でありながら妖怪よりもおぞましい存在である。
だからこれしきのことで根を上げるわけもなく、
“ぐぅー……”
根を上げるのは、いつだって私の心では無く体なのだった。
「…………」
「…………」
そっと慧音の方を振り向く。
今の腹の虫の音を聞かれなかったか確認するために。
でも――そんな私の危惧を嘲笑うかのように、慧音の顔が歪んでいた。
「――――」
「……や、やぁ?」
ぎこちない仕草で、意味不明なアクションをとる慧音。
左手にはご飯茶碗が、手を振ってきた右手には箸が握られている。
その顔はまさしく「これはまずいものを聞いてしまった」と言わんばかりだ。
そんな慧音に対し、私が出来ることはたった一つ。
「……飯、まだあるか?」
恥を忍んで下手に出ることだけだった。
「くくっ、そういうことだったか」
「な、なんだよ。笑うこと無いじゃないか」
これがアイツだったら即行でブチ殺している。
こうして不貞腐れるだけに留めているのは、あくまで相手が慧音だからだ。
友人のような恩人のような、けれど目上のような慧音だからこそ、自我を抑えているのであって、慧音以外だったら即、恥を消去しにかかるだろう。
「で、あまってる?」
「ああ、安心しろ。いつも少し多めに用意しているんだ。ここの生徒には貧しい者もいるからな」
「……そうか」
そうだよ、と言って茶碗を膳に戻し、慧音は席を立った。
その後姿が見えなくなったことを確認し、私はため息を漏らす。
「貧しい者、か……」
父上に存在を隠蔽されたとは言え、私は朝廷の権力者の家に生まれた。
だから幼い頃に飢え苦しむ経験なんてしたことは無いし、不死になってからは飢えても死にはしないと言う後ろ盾のおかげで、辛いと嘆くことも無かった。
けれど本当に貧しい家門に生まれた幼子は飢えに苦しみ、挙句には“子返し”と呼ばれる、言わば食い扶持減らしの儀式にかけられ、その命を絶たれてしまう世だ。
それはどんなに苦しくて悲しいことだろうか。
外の世界の人間たちは『食料』を巡って争ってきたきらいがあるが、ここ幻想郷では、今のところそのような争いは、私が知る限りでは無い。
それを喜ぶべきかどうかは微妙なところではあるが、それでもやはり貧富の差があるのは、いつの時代も、どこの世界でも同じことなのだろうか。
「どうした、考え事か?」
「ん? あ、ああ……」
どうやら自覚も無く深く考え込んでいたようだ。
いつの間にか膳を持ってきた慧音が、すぐ目の前にいた。
「今日は冴えないな。雨のせいかな」
「そうかもしれない」
言って、私は慧音から膳を受け取った。
彼女と全く同じ野菜炒めの定食である。
白いご飯には粟や稗などが混じっているが、それでも小山状に盛られている米を見ると、やはりさっきの言葉が脳内で反響してしまう。
“――貧しい者もいるからな”
普段そんなことは全く考えないのだが、だからこそ、こう言う不快な雨の日に考え込んでしまうのか。
私は箸を掴む前に、慧音に聞いてみることにした。
「なぁ。さっき言ってた、貧しい者ってどんなヤツだ?」
「どんなヤツと言われてもな。そのまんまの意味だよ。ここは寺小屋だから、今度授業に来る子たちを良く見てみるといい」
「何で?」
「一目瞭然だからさ。ほら、裕福な家庭の子が、継ぎ接ぎだらけの安い麻で出来た服に身を包むと思うか? 逆も然りだ。だから身なりをみただけでも、すぐに違いがわかるだろう?」
「確かに」
「服装が立派か立派じゃないかなんて学問には関係無いけどね。実際、どんなに酷いボロを着ていても、秀才は秀才さ。この寺小屋ではそれがすぐにわかる」
それがどうしたと言いつつ、慧音が腰を下ろす。
私も箸を手にし、ご飯の入った茶碗を持ち上げた。
「いやさ、ちょっとした疑問があって」
「ほう、いつも感性だけで生きてきたんだと豪語している妹紅らしくないな」
そんなことを言った覚えは一切無いけど。
「……好きに言ってくれ」
「で? 何が聞きたいんだ?」
「ああ、たいしたことじゃないんだけど」
「ふむ」
「何で貧富の差ってあるのかな?」
なんとなく浮き出た疑問を口にしただけなんだが、慧音は難しい顔つきで考え込んでしまった。
言葉を選んでるのか、微妙な沈黙が漂い始める。
これはちょっと……苦手な空気だ。
なので会話をはぐらかせることにする。
「なぁ慧音。それよりも飯を食べ――」
「そうだな。言ってしまえば『欲』のためじゃないかな」
私の誘導策は空振りに終わり、代わりに真面目な会話が始まった。
「欲?」
「そう、欲だ。人間に限らず全ての生物は欲を中心に生きている。だからじゃないかな」
「欲ねぇ。わかったような、わからないような」
ちっともわかっちゃいないがね。
こう言う小難しい話は嫌いなので、早々に話題を変更したいところではあるのだが、
「欲って言うのはな」
目の前の先生は題目を変える気なんてさらっさら無かったのだった。
私の嫌そうな表情を見ていないのか、慧音は正座までして話し始める。
「実直に言えば『差』のことさ。今の現状と比べてどうなのか、と常に……とは言ってもほぼ無意識の内にだけれど、生物は考えて行動している。
妹紅もそうだろう? 理想と現実に差があるからこそ、ああしたい、こうしたいと思うはずだ」
「ん……まぁ、ね」
「人によってその欲の物差しは変わるけれど、みんなその差を埋めるために躍起になってるんだ。これが欲だよ」
前々から慧音の語り部は難解だとは思っていたが、今日のは輪をかけて難しい。
結局私が知りたいのは単純明快な結論であり、考察ではないのだ。
けれど賢者と呼ばれる者たちはみんなそうなのか、どうも考察そのものを話すのが好きらしい。
つまりは益体も無い説明が好きなのだ。
だからいつも小難しく感じてしまうのかもしれない。
「で? それが貧富の差とどう繋がるんだ?」
「……今の話しを聞いていなかったのか?」
「いや、聞いてたけど。……ん? つまり欲があるから貧富の差がうまれる?」
「そうだよ。――いや、きっとそうだ、が正解だな。明確な答えとして言えるような疑問じゃないからな、今のは。きっと人間社会の永遠のテーマだろうさ」
なるほど、慧音の発言は言い得て妙だ。
外の世界でもいたからな、平等に命をかけていたヤツが。
貧富の差や貴賎の差なんて本当は無い、生きとし生けるもの全ては平等なのだと、声が嗄れるまで叫び続けていたヤツが。
彼らの掲げた信念に対して、「それは人間が持つ欲のせいですよ」なんて軽々しく発言出来まい。
彼らだってそんなことは百も承知で命を懸けていたのだろうから。
「そう考えると貧富の差も悪くは無いかな」
「今日は一体どうしてしまったんだ? 妹紅らしくもない」
「いや、なんでもないよ」
言って、慧音の用意してくれた食事に手を出すことに。
慧音も私を訝りつつも箸を握った。
「変な妹紅」
変人扱いはとうに慣れているので、今更言われても何とも思わない。
それより――この味噌汁、うまいな。
/
しっとりと濡れる道を独り歩く。
傘をさしても霧状になった雨が体に浸潤してくるので、諦めて素のまま家に向かっている。
道中には誰も歩いていなくて、気味が悪いほど静かだ。
自分の足音だけが周りに伝播していく。
こんなことなら、あのまま慧音のところで雨が止むまで雨宿りするんだった、と後悔。
「でもなぁ」
食事が終わった後、何をするでも無い私を見て、慧音が発した言葉は「働かずもの喰うべからず、だ」であり、その言葉通り私は労働させられる羽目になった。
内容としては、まさに『写経』である。
稗田阿求から借りたと言う歴史書なるモノを、書き写せときた。
そんな七面倒臭いことをやりたいはずも無く、私は適当に用事を作って寺小屋から避難した。
これはその罰かもしれない。
そう思ったところで手伝う気になんてなれないけど。
それにしても、さっきの欲の話は考えを改めさせられるいい会話だったと思う。
慧音の言っていた通り、世界はきっと『差』で出来ている。
生物はその差を無意識に感じ取り、いろんなことを確認しているのだろう。
自分と言う概念だって『他の誰か』と言う差を見出せなければ確認しようが無いんだから。
自分とは違う誰かがそこにいるからこそ、自分と言うのがはじめてわかる。
だから人は『差』を生もうとするんだ。
差が差を生み価値が生まれて社会が回転していくことを、無意識下で知っている。
そう考えると、一見複雑に見える私とアイツの関係も簡単なモノだ。
「ありゃ」
珍しく考え事ばかりしていたせいか、向かっていたはずの家とは正反対の道に来てしまっていた。
目の前には香霖堂が佇んでいる。
まさかボケか……と肩を落としつつ家のある方角に向き直ると、そこに見慣れた人物がいた。
「鈴仙か」
人物の正体は、永遠亭の使い走りである兎だった。
鈴仙・優曇華院・イナバと言うクソ長ったらしい名前を持つ、人間スタイルの兎である。
見た目は人間のソレだが、長い耳と丸々とした尻尾、それに毒々しい紅の瞳はどう見ても人間のモノではない。
ヤツはアイツと同じく月から堕ちてきたらしい。
一体月の都とやらはどう言う世界なのか。
脱走者ばかりじゃないか。
「おい、そこのオマエ」
「――――え?」
今の今まで私に気がついていなかったのか。
間抜けな返事をしつつ傘を上げる。
「あ」
嫌なもの見ちゃったよ、みたいな顔をしてたな、今。
絶対そうだ。
そうじゃなかったら、即行で傘を下げるわけがない。
「避けてるな」
「さ、避けて……」
無いですよ、とは言わない辺りが永遠亭の住人って感じだな。
私に対する不信感丸出しだ。
アイツとは殺し合いをしているくらいだし、それも仕方ないことではあるが。
「どうでもいいけど。アイツ――輝夜は何してるんだ?」
「アイツじゃありません、輝夜様です。はぁ……風邪を引いて寝込んでますよ」
「――――は!?」
「そ、そんなに驚かなくても」
思わず声を大きくしてしまった。
最近見ないと思ったら、風邪を引いた――だって?
「ちょ、調子はどうなんだ?」
「どうって……風邪なんだからいいわけ無いかと」
「それもそうか」
きっと今頃は熱にうなされているのだろう。
不死者である輝夜と私は死ぬことが無い。
だから風邪なんて、些細なことだ。
放っておけばそのうち全快する。
殺し合いで悲惨な傷跡を残しても再生するくらいだ、たかが風邪で再起不能になるなんてことは無いはずだ。
それでも――そうわかっていても、心臓の鼓動は高鳴る一方だった。
「今は永遠亭か?」
「他にどこへ行くと?」
鈴仙は深くため息をつくと、私に向かって、
「お願いですから面倒事を増やさないでください。こっちも参ってるんですから」
人を狂気に陥れると噂の紅い瞳で、私の心の中を覗き込むように見つめたかと思うと、そのまま背を見せた。
もうこれ以上は話すことは無いと、その背が語っている。
だからこの会話はもうお終いで、私もそれ以上追及することが出来ない。
私から声がかからないのを確認した後、鈴仙・優曇華院・イナバはゆっくりと歩き出す。
じゃりじゃりと、わざとらしい足音を立てて去っていく鈴仙。
――――気に、入らない。
「なぁ」
声をかける。
鈴仙の足が止まる。
けれど顔をこちらに向けようとはしない。
――かまわない。
「一つ良い事を教えてやるよ」
餌を撒いてもこちらを向こうとしない――かまうもんか。
これはただの悪戯だ、それ以上でも以下でもない。
私の自尊心が傷つくことだってないのだから、放っておけばいい。
所詮は八意永琳の飼い兎なのだから。
「アイツに伝えてやってくれ」
自分でもぞくっとするような、冷たい声だった。
さぁさぁと降り続く雨のせいか、私の心は燻り続けている。
高鳴っていた心音も次第に低く静かになっていく。
だからかもしれない、こんなにも冷ややかな声色なのは。
「風邪を引いた時に、蒼い鬼火を見ると呪われるらしいぞ、ってな」
☆★☆
「妹紅がそんなことを?」
「そうなんですよ。どうにかしてくださいよ、あの横暴人」
鈴仙はぶすっと不貞腐れながら、薬の代金を永琳に渡しつつ、そんなことを言う。
耳の垂れ具合から察するに、相当な精神的ダメージを受けたようだ。
……まぁ、アイツに絡まれるとみんなこうなるか。
ぶっきらぼうだしね。
「それで? 私にどうしろって?」
「さぁ。お師匠様は今の話しを聞いて、どう思います?」
付き合いきれないと代弁する表情と共に永琳に投げる。
すると永琳は、鈴仙から受け取った売上金を手にしながら艶やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、まだまだ子供の域を出ませんね」
「……永琳から見ればみんな子供にしか見えないんじゃないの?」
「――なに?」
「な、なんでも」
急いで布団を被りなおす。
ああ怖い、本当のことを言っただけなのに。
永琳は私よりも長生きしているし、これからも私より長生きするだろう。
そんな長老とも呼べるべき永琳の立場からすれば、生ける者は全て子供みたいに見えるに違いない。
でも永琳は、遠回りにでも“年増”と言われるのが大層お嫌いなのだった。
「で、お師匠様的には、藤原妹紅の話にはどんな意味があると?」
「それは貴方、ほら。子供がすることなんて一つでしょ?」
「……?」
首を傾げる鈴仙に、永琳は一呼吸置いて、
「悪戯に決まっているじゃない」
なんて、馬鹿らしい答えを返した。
「悪戯?」
「そうよ。きっと最近会いに来ない輝夜にやきもきしているのね」
「そんなわけないじゃない。アイツだってもう千年は生きているのよ? 今更そんな感情なんて、」
「心は死なない限り、それこそ愚かなほど執拗に繰り返すのよ、輝夜。それは貴方も知っているでしょう? 最も、心は死んでしまっても蘇ることもあるみたいだけど」
意地悪な笑い方だ。
何かこう……智慧ある人にだけ許された笑みって言うか。
凡人から見たらイラッと来る笑い。
「そうだとしても、あまりにも意味が無いわ。そんな、鬼火がどうとかなんて、平安時代でもあるまいし」
「平安の世では無いにせよ、妖怪と言うのは人間の心から生まれた怪物らしいから。輝夜、貴方が信じてしまえば、それが現実に成り得るのよ」
「――――」
それは、なんとも形容し難い気分だった。
鬼火なんて単語自体が聞くに久しいモノであるのに、永琳の一言で嫌な気分――いや、これは予感か――に切り替わってしまった。
なんていう脆弱な精神力。
永琳のこのいやらしい笑みは、私の心を掻き乱すためだったんだ――!
「まぁ千年も生きている輝夜が本気にはしないでしょうけれど」
「あ……当たり前じゃない。鬼火なんて昔はそこいらにいたわよ」
「蒼い鬼火は私も見たこと無いから、本当に現れたら一目みたいわね」
鬼火――それは突如出現し、空中を彷徨う正体不明の火の玉の妖怪だ。
赤や黄色、白色の鬼火は私も過去に何度か見たことがあるけれど、蒼いのはいまだ遭遇したことがなかった。
いや、伝承ではあちこちから蒼い鬼火が出るとは聞き及んでいて、見たことが無いだけなのだけれど。
逆に西洋の方では蒼い鬼火が頻発していたらしく、向こうでは『ウィルオーウィスプ』と呼んでいるのだとか。
いずれにせよ、共通しているのが『雨の日に現れやすい』と言うのと、『墓場や湿地に現れやすい』と言うことである。
正体不明のくだり通り、鬼火についてはいまだ謎が多い。
どうして急に発生するのか、何のために彷徨うのか。
人間たちは鬼火をよく死人の魂だとか言っていたが、それが本当なのか確かめようが無い。
確かめようがない故に――永琳は楽しみなのだろう、鬼火に出会えることが。
色なんて特に意味は成さない。
長く生きる私たちには、刺激が必要なのだ。
楽しめそうなものがあれば、すぐ興味の対象になりえる。
でも、最近は鬼火自体見ていない。
幻想郷にはあまりいないらしい。
……私は別にあえなくてもいいのだけれど、ね。
「そんなのきっとデマよ。信じなくてもいいわ」
「輝夜様は信じて無いので?」
「信じていないというか……さっきも永琳がいいこと言ったじゃない」
「え?」
「アイツの悪戯なんだから」
「――ああ」
妙に納得する鈴仙に、私は笑いかけた。
そしていつの間にか引き剥がしていた布団を元に戻して、長い長い闘病生活に戻ったのでした。
/
「大丈夫、鬼火なんて見えやしないわ」
時刻はまもなく子の刻。
霧雨もようやく降り止んで、静謐だけが世界に浸透している。
草木も眠る丑三つ時まではまだ一刻ほど時間があるが、それにしたって静かだ。
自分の呼吸がくまなく聞こえる。
そのせいか、昼間の出来事を思い出してしまうのだった。
――そう、アイツが口にしたと言う、あの言葉を。
“風邪を引いた時に、蒼い鬼火を見ると呪われるらしいぞ”
私は死なない体を有するが、死なないのと呪われないのはまた別の話である。
死ななくても、死ぬまで苦しみ続けることになる――それが呪いなのだ。
呪いと言うのは呪術のことだけれど、これがまた恐ろしい。
人間はとにかく、正の感情よりも負の感情の方が何倍も強い。
呪術はその負の感情を形にするものだ。
一番わかりやすい例が『祟り』である。
祟りは死の間際に負の想念が強すぎるがために、死して生ける者の息の根を止める。
個体の弱さ故に『想い』が強いのが人間の長所であり、それをうまく利用したのが呪術と言うわけだ。
祟りこそ呪術的な段取りを行っていないが、丑の刻参りなどは最たるものと言えよう。
憎き相手を殺したくとも力の無い女性が、想いだけで願望を成就させるのだから、その負の力の偉大さは恐れに値する。
月の科学は優秀だけれど、月の住人は種族として優秀なために感情に欠ける部分がある。
だからこれは地上だけの特権、地上だけの優れた技術だろう。
月の住人たちは地上を『穢れた地』と言うが、なるほど、呪いが存在している時点で相当な穢れだ。
私たちが忌み嫌っていた穢れの、最も危険な形が『呪い』なのだから。
「そう考えると……」
眠れなくなるのだ。
きっと妹紅の言った台詞はただの悪ふざけなのだろう。
けれど、もし彼女が言ったことが本当なのだとしたら?
人々は鬼火を『人魂』と言った。
ともなれば呪いが具現化したのが鬼火なのではないか?
そう考えれば考えるほど、私の心は底なし沼にはまっていく。
呪術の恐ろしい点を更にもう一つ挙げるとすれば、それは決して目には見えない、と言うことだ。
目に見えない。
目には映らない。
視界には入らないが――――呪いは、確かにある。
過去の人々がそれを証明してきた。
見えなければ対策も打ちにくいし、原因不明だと匙を投げられてしまうだろう。
期待の出来ない対策を、それでも期待してずっと恐怖を引き擦っていろと?
「…………」
背に、汗がじとりと纏わり付く。
外には星も無ければ月も無い。
ただ暗黒が広がるばかりで、いつもは小うるさい梟も、雨が降ったせいか鳴いていない。
本当に世界が死んでしまっているかのようだ。
なのに自分の心臓の音はちゃんと聞こえていて、まるで、闇の奥でもうすぐこの鼓動も消えるのだと嗤っているようで――――
「――――っ!」
私は思いっきり布団を頭から被せた。
熱のせいか全身が熱くて、でも背中だけひんやりとしている感覚。
咳こそ出ない風邪は、けれど発熱と頭痛のせいで自分がいま異常なのだと思い知らされる。
――妹紅は言った。
風邪の時に蒼い鬼火を見ると、と。
ならば風邪が治るまで、毎晩こうして頭から布団を被って、きつく瞳を閉じて眠ってしまえば、たとえ鬼火が現れても見なくて済むはずだ。
そうよ、それは名案。
こうしていればきっと――――。
☆★☆
「酷くなってますね」
「う……ゲホッ、ゲホッ」
翌朝、私の身体は酷いことになっていた。
「今回の熱は長引いてますね、輝夜」
「ぅー……」
「はい、落とさないように」
ひんやりと冷たい手拭を額に乗せられ、ぞくっとしてしまった。
昨日は気持ちいいと感じれたのに、今日は悪寒に襲われる羽目に。
これも症状が悪化したせいだろうか。
……それしか考えられないけど。
でも、これはちょっと。
「ごほっ」
本気で辛いから、永琳に薬を作って貰いたいなぁ……なんて。
「な、なんですか? その捨てられた猫のような目をして」
「……けほ」
「そんな顔しても薬は出しませんよ? 全く……。そもそも風邪に効く薬なんてあるはずがないんですからね」
「……すん」
ちょっと鼻をならしてみる。
鼻汁は全く出て無かったけれど、同情を誘うには効果があるはずだ。
「~~~……っ」
私の思惑通り、ワナワナと体を震わせる永琳。
最近になってようやく永琳の扱いがわかってきた気がする。
「し、知りません!」
そそくさと逃げていく永琳。
……ありゃ、失敗しちゃった。
今回の演技は結構自信あったんだけどなぁ。
仕方ない、楽になる薬は諦めよう。
しかし私も永琳の扱いはまだまだのようだ。
「…………」
今日も鈴仙は人里の方へ使いに行った。
永琳の薬を必要としている人間がごまんといるらしい。
殆ど毎日永琳が薬を調合し、鈴仙が売りに行っている。
今日は天気もいいから、兎な彼女は鼻歌でも奏でながら道中を満喫しているに違いない。
兎の陽気さはてゐを見ていればわかる。
鈴仙本人はてゐと同属だと言うのを断固として拒んでいるが、結局は同じ穴の狢だ。
きっと今頃は暢気に人里へと繰り出しているのだろう。
おかげで永琳が傍を離れた今、とても閑散としていて切なくなる。
――それはそうと、私の風邪がこうして酷くなったのは、やはりアイツのせいな気がしてならない。
おかげさまで昨晩はぐっすりと眠ることが出来なかった。
症状が悪化したのはまさにそのせいに違いない。
きっと寝不足のせいで免疫力が低下したのだろう、鏡を見ればそこにはきっと、酷い顔をした私がいる。
「……はぁ」
しかし……頭痛まで酷くなると、何もやる気が出なくなってしまって困る。
お喋りだって少し辛いし、立ち上がったりなんてしたらガンガンと頭に響くのは目に見えているから、出来るだけ動きたくない。
いつもは何もしないことで有名な私であるが、何故かこうして暇が出来ると何かしらしたくなってしまう。
一体全体、どんな神経をしているのか、我ながら不可思議でしょうがない。
とは言え、昨晩寝つけなかった分、今から寝ると言う選択は有り、か。
「……おやすみなさい」
誰もいない部屋、お日様だけが煌々としている庭に向かって、私は小さくおやすみを言った。
/
「――で、夜なわけね」
誤算だった。
まさか仮眠を通り越して爆睡してしまうなんて。
風邪は――まだ良くなってないみたい。
頭の重さは寝すぎだとしても、寒気がするのは立派な風邪の症状と言っていいだろう。
今は何時なのかと起き上がってみると、すぐ傍にお盆が置いてあった。
乗っているのはお握り二つと、すっかり冷め切ってしまっているであろう緑茶の入った湯のみ。
そして永琳の手紙が一つ。
手にとって、霞みがかかる視界越しに読んでみた。
『寝る子は育つ。食べる子はもっと育ちますよ』
……何のことか、と一瞬考え込んでしまった。
それが他愛も無い一文なのだと理解した時には、視線が胸にいっていた。
「……どうせ胸、無いわよ」
人の気にしていることでもズバズバと言い捨てるのが永琳と言う人である。
手紙をお盆に返し、目をこすって庭の方に目を向ける。
ぼーっとする頭に、なかなか回復してこない視力。
そのせいか――――何か良くないモノを、見た。
「……火?」
視界の右隅にある、拳大の炎。
ゆらゆらと不規則に揺れる謎の物体が、私の視神経を犯していく。
――アレは、まさか。
「そんなはずは、」
無い、と。
声にならない声で呻きつつ、私はソレを見つめる。
いえ、見つめているのではない。
見つめているのではなくて、目が離せないだけだ。
ぞ、ぞ、ぞ、と鳥肌が立ってくるのがわかる。
どくん、と心臓が一躍した。
目の前には白髏のようなまん丸い月と、静かに佇む竹の群れ。
厳粛なる和風庭園の下、ソレはいた。
「――――鬼火」
幽かなる蒼い炎が、空中でチロチロと燃えている。
まるでこちらを窺っているようにそこから動こうとしない。
ぽつんと一匹、私以外何も無いこの部屋を見ている。
「――――」
ごくりと唾液を飲み込む。
もう何百年も見ていなかった鬼火を前に、全身が慄いている。
しかもいま目の前にいるのは、藤原妹紅が鈴仙に語ったという“蒼い鬼火”だ。
本当にいたんだという感心と、本当に呪われてしまうという恐怖心。
その、どちらも反目する感情が私の心中で鬩ぎあっている。
「――――ぁ」
何か言わなければ。
何かしなければ、
何か、何か、何か――――!
「――――!」
全身に電気が走った。
毛先までびりびりっと痺れる。
原因はとても単純で、その場に留まっていた鬼火が、こちらに向かってゆっくりと前進し始めたのだ。
一生懸命心を落ち着かせようとするも、心臓はばっくんばっくんとポンピングする。
おかげで体中の体温が一気に上がった気がした。
もう、体は暖機されていつでも動けるぞと言ってくれているのに、私は動けない。
情けないことに――腰が抜けてしまったのである。
「、っ」
布団を力一杯握り締めるも、体は動いてくれる気配が無い。
相手はそんな私を嘲笑しているのか、右に左に、弧を描くように揺れている。
暗闇の中、蒼い軌跡が笑みを象っているのに対し、私といえば奥歯をカタカタと震わせて、目の逸らせないソレを見続けながら叫び出したくなるのを必死に抑えるので精一杯だった。
“呪われる”
頭の中は、いまだかつて経験したことの無い『呪い』という不確かな事象のことでいっぱいで、妹紅の言うことなんて悪ふざけ以外の何物でもないと思っていた自分が恥ずかしい。
呪われる、呪われる、呪われる――――呪われて、しまう。
呪いの中身は聞き伝でしか無い。
発狂するほど恐ろしいのだとは聞いたが、何せ呪われた人間は押し並べて最後は死んでいるのだ、不死である私は一体どうなるのだろう?
ああいや、そんなことは今はどうでもいい。
今はそれどころじゃないんだって。
もうすぐそこに、蒼い炎が――――。
「、あ」
近い。
もうどう足掻いても逃げられない位置に、ソレが来た。
私の目と鼻の先にいる穢れの塊。
これだけ近いと髪を燃やされそうで嫌だ。
この黒髪は私の唯一の自慢なのに。
「、……」
震えは止まった。
心臓の鼓動も止まったのか、どっどっど、というやかましい音はもう聞こえてはこない。
代わりに耳が痛くなるほどの静寂。
まるで時が止まったかのような錯覚。
その、永遠のような時間の中、私は庭を白く照らし上げている月の下で、横並びの塀の上に何かが在るのに気がついた。
「だれ……?」
ようやく搾り出せた言葉。
誰なのか、と問う。
人間なのか物なのかはわからない。
ただ、先程は無かったような影を見ただけで。
それでもこの鬼火を意識せずに済むのなら何でも構わなかった。
私の問いかけに答えてくれるとは思っていなかったけれど、意外にもその影は声を持ち合わせていた。
「よう」
まるで友人にでも声をかけるような気軽さで返事を寄越してきた。
だからこそ、もう一度問う。
「貴方は誰?」
今度はしっかりとした声と台詞で言うことが出来た。
目の前の影は月の正面に立っていて、月光を背に浴びているせいで面が真っ黒な物体にしか見えないけれど、返事をしたということは、少なくとも生物ではあるようだ。
だが――こともあろうかその影は、私の二度目の問いかけに、大声を上げて笑いはじめた。
「誰かときたか。こりゃあ傑作だな!」
「――――」
正直、ただの馬鹿笑いだ。
私の神経を逆撫でにするだけの笑い。
そこではたと気がついた。
――――聞き覚えのある、声?
「……まさか」
「くくくっ、まさかこんな幼稚な手にかかるなんてな」
影が立ち上がる。
同時に鬼火も、しゅぼっ、なんてしょぼくれた音と一緒に消えて亡くなった。
そうして私は確信する。
この影は、
「妹紅……!」
「せーかい。やっと気がついたか」
悠々と庭園に降り立つ怨敵。
どうやら今まで浮遊していた鬼火は彼女の仕掛けたモノらしい。
逆光のせいで表情が読み取れないが、きっと勝ち誇った顔をしているに違いない。
どうせ一部始終を見ていただろうから。
どうせ私が腰を抜かしていた姿も見ていただろうから。
どうせ――震える私の姿を見ていただろうから!
「いつからそこに!?」
「ずっとだよ。オマエさんが寝てる間も、ずっとな」
「……っ!」
がばっと布団を剥ぐ。
抜けてしまった腰は、今では何事も無かったように機能した。
慌てて立ち上がると、私も縁側の方へと足を運んだ。
「な、何してるのよ!」
「何って。ただの意地悪だよ」
「はぁ?」
呆れ返る私を一瞥すると、妹紅は下を向きながら話し始めた。
「オマエのところの兎が突っかかってきたんでね。そのお返し」
「突っかかって来たって……鈴仙が?」
むしろ突っかかって来たのはそっちなんじゃないのか、と言いたかったけれど、憶測で話をするのは良くない。
鈴仙も妹紅と同じくぶっきらぼうなところがあるし。
そんな私の考えはどうやら的中したらしく、妹紅はため息をつきながら答えた。
「そうだよ、全く。躾ぐらいしておいてくれよ」
「……わ、悪かったわ」
なんとなく屈辱的ではあるが、鈴仙も一家の一員だ。
家族の不始末は家族が謝罪するべきだろう。
「まぁ、そのおかげでいいモン見れたから良しとするか」
「…………」
――――前言撤回。
これはきっと妹紅の陰謀だ。
「本当に鈴仙がケチつけたの?」
「あぁそうだよ。私を見るなりそっぽ向きやがったし、面倒事を起こすなとか珍妙な事も言ってたな」
「それは往々にして貴方のせいじゃない……」
「何言ってるんだ。私がいつ、ここの住人に迷惑かけたんだ?」
「いつもでしょ。何せ私を何度も殺しているんだから」
逆に言えば、妹紅も何度も殺しているけれど。
「ハッ。もう姫でもなんでもないのに、大層なご身分だな」
「姫だったのは貴方もでしょう、妹紅。
――……ああ、そう言えば、貴方は望まれていない姫だったのよね?」
ビシ、と。
空間に亀裂が入ったような、気がした。
「――――なに?」
「だってそうでしょう? ずっと閉じ込められていたなんて、そんなの、」
邪魔者だったんじゃない、と告げる前に、熱風が目の前で荒れ狂った。
「……、っ」
チリチリと空気が焼けるような音と、焦げた臭いが広がる。
一瞬にして現れた妹紅の紅い翼。
背から生えるように出現した炎の塊が、ばさりとはためいた。
「よく言うぜ。オマエだって罪人のクセに」
一足で天空まで飛翔し、待ち構える妹紅。
どう見ても、決闘のお誘いだった。
仕方ない……私も飛ぶとしよう。
でも、仕方ないと言うのは間違いか。
こうなるように焚き付けたのは私だ。
彼女も私との殺し合いをしたいがために、こんな手の込んだ悪戯を敢行したのだろうから。
「始めますか」
とん、と縁側から足を離す。
今宵は月明かりも眩しいほどに輝いている。
そして時刻も適当だ、邪魔も入らないだろう。
もしかしたら永琳は気付いているかもしれないけれど、止めに来ないのだから放って置いても問題は無い……と思う。
私は妹紅と同じ高度まで上昇すると、颯爽と身構えた。
さぁ――――死合いの始まり始まり。
/
先制は藤原妹紅の火球だった。
彼女の右の拳から振り下ろされたソレが、敵対する蓬莱山輝夜の顔面へと一直線に飛んでいく。
しかし輝夜が少し体をずらしただけで、火の玉はいとも簡単にかわされてしまった。
「そんな遅い攻撃が当たると思って?」
惰性で地上へと落ちていく火球。
虚しく不発に終わるはずのその攻撃はしかし、妹紅にとって作戦の一部だった。
「何を言ってやがる。誰がオマエを狙ったって?」
「え?」
「私が狙ったのはあくまで、」
それだよ、と指差した先には、大きな屋敷が一つ。
古き和の建築様式を呈したその屋敷は永遠亭と言い、輝夜たちが現在住まう場所であった。
驚愕に目を見開く月の姫は、即座にその火球を対処しようと急下降する。
しかしそれは敵に背を向けると言うことに他ならない。
にやり、と妹紅の口端が吊り上る。
「馬鹿が!」
空いていた左拳で火球を作り直すと、今度は先程の火球とは比べようも無い速度でそれを打ち出した。
狙いはもちろん、輝夜の背中である。
妹紅に背を曝す格好にある輝夜に、その攻撃は見えていない。
結果――――完全なる不意打ちを喰らうことになった。
「ぐっ、っ」
被弾した瞬間、輝夜の表情が苦悶に歪んだ。
だが、そんなことは問題ではなかった。
戦闘開始から一分と経たずして、輝夜は二度目の驚愕を味わうことになったのだから。
「!?」
急降下中にダメージを受けた輝夜は、攻撃の勢いを殺しきれず、更に加速することに。
そして目の前には、家を守るため除去しようとしていた、第一の火球があった。
まさかの展開に目を剥くも、最早手遅れとしか言いようが無かった。
彼女に出来ることと言えば、目をきつく閉じて少しでも防御力を上げることだけだ。
「、きゃ、、、っ」
ど、っと鈍い音と共に体に衝撃が走る。
続いて目を閉じている輝夜に聞こえてきたのは、何かが燃える音だった。
もちろん燃えているのは自分の体と服である。
急いで体をばたつかせ火を消そうと試みるも、
「隙だらけだな」
いつの間にか距離を詰めていた妹紅に腹部を殴られ、悶絶する羽目になった。
「――――、ぁ」
くの字に折れ曲がった輝夜の体を、追い討ちをかけんとばかりに妹紅は大きくスイングし、その背に全力の蹴りを放った。
「ガ、ッ?!」
呼吸が詰まるような痛み。
それが妹紅に背を蹴られたせいだと輝夜が認識した時にはもう、眼前に地面が見えていた。
ぶつかる――――恐怖心が全身を襲った瞬間、彼女は咄嗟に両の腕を犠牲にする道を選んでいた。
その選択が正しかったのかどうか。
勢いよく落下した殆どの衝撃をその腕が吸収した結果、ぶちゃ、なんて不気味な音が耳に届いた。
それでも殺げなかったエネルギーが、蓬莱山輝夜と言う、体躯の小さな女を吹き飛ばす。
「――、っあ、ああ!」
一回、二回と地面に叩きつけられては浮かび、叩きつけられる。
それを四回繰り返した後、背中から竹林に突っ込んだ。
おかげで体は制止するに至ったが、その姿はもう戦闘不能と言わざるを得ない状態である。
右腕には突き出てしまった骨の先が見えている。
左腕はおかしな方向に曲がってしまった。
口からは血が細い線となって滴り、衣服にはまだ火種が残っている。
目も虚ろで、どう見ても死に体だった。
満身創痍な輝夜とは打って変わって、炎を操る妹紅は満面の笑みでゆっくりと空から降りてくる。
「よぉ、気分はどうだ?」
「…………っ」
答える気力も失われたのか、小さく口を開くだけで何も言葉は出てこない。
そんな仇敵を見て、妹紅はため息をついた。
「おいおい。さっきまでの威勢はどこへいっちまったんだ? たった手合わせ一回で終わりとかあんまりだぜ?」
「……が、ない」
「ん?」
「……がない、なぁ……もう……」
息も絶え絶えに、何かを呟く。
その顔は決して絶望に塗れているモノではなく――――むしろ嗤っていた。
「――――!?」
異変に気がついた妹紅が飛び退く。
しかし気付くのが数秒遅かった。
目が眩むほどの光量が、瞬時に二人の体を包む。
それは、輝夜の懐から発せられたものだ。
咄嗟に目を閉じた妹紅だったが、何故か痛むはずの目からは何の情報電流も流れてこなかった。
代わりに、
「ギ――、アぁああああああ……っ!」
想像を絶するほどの痛みを、右足が訴えてきた。
起きたことを視認することもせず、妹紅は痛みから逃れるために転げまわる。
背の翼は霧散して、素のままの彼女が露になった。
その様を、まさにたった今、多量の血を口から吐いた輝夜が見つめた。
ごふ――と、赤ではない、黒く汚らしい自分の血で胸元を濡らす。
そこには、蒸気の舞う大きな火傷の跡が展開されていた。
……まさに今のこの反撃は、捨て身の一手だったのである。
自分ごと焦熱で放った業は、神宝である『ブディストダイアモンド』によるモノだった。
白熱のレーザーで焼き払うブディストダイアモンド。
光の速さで動けるはずもない妹紅にとって、今の慢心は手痛い犠牲となって還ってきた。
輝夜の奇襲により、右足の踝から下を失うと言う結果を招いてしまったのだから。
戦闘不能に近いダメージを受けてしまっていた輝夜にとっては、自分の身まで削らなければ反撃自体出来なかったわけだが、瞬時に閃いた手としては最善だったに違いない。
結果が全てを証明している。
たとえそれが“不死”と言う特殊な条件のおかげであったのだとしても。
そして――お互いに同じように相当な深手を負っていても、浮かべている表情は全く異なっていた。
「ふふ……油断、だわね……」
「ぐっ、ぐぐ……、」
笑っている月人の輝夜と、苦虫を噛み潰したような渋面をしている地上人の妹紅。
しかし輝夜は奇襲が功を奏したとは言え、両腕は使い物にならず胸も抉れて内臓も深刻なダメージを残している。
だが妹紅はまだ右足を一本失っただけである。
不死同士の戦い、それも飛行出来るとあっては、足一本の損失など瑣末な問題だ。
地を蹴る力も、足で踏ん張る力もいらないのだから。
だからこの現状を振り返る限り、不利なのは輝夜の方だ。
地上人よりも遥かに優れているとされる、月人の存在。
その姫であった輝夜は、この状況をどう捉えているのだろうか。
「これで、仕切りなおし……ね」
「……ふ、ふん……私はまだ足一本だ、負けるはず、ない」
「それは――どうかしら?」
言って、焼け残った懐より取り出したるは、七色の玉をつけただけの、何の変哲も無い木の枝だった。
そんな棒きれ一本で何が出来るのか。
震える右手でかろうじで掴んでいる、その枝。
だがしかし、たかが枝に妹紅は警戒の色を示した。
あれは危険なモノだと、その顔が何よりも訴えている。
「ちっ。真打ち登場、ってか」
「ふふ……。蓬莱の玉の枝よ――――私に、今こそ」
輝夜の声に歓喜するように、玉と枝が光り輝き出す。
蓬莱の玉の枝――それこそが、その枝の真名だったのか。
握られた茎は金、七つの玉には虹を暗示するような七色が、それぞれに燈っている。
「これを使うのも、久しぶりね……」
「――そっちがその気なら、こっちだって」
言うが早いか、妹紅は髪を結っていた大きなリボンを解き、それを失った右足の先に巻きつけ縛り、もう一度背に炎の翼を生やして空へと舞った。
「今日は手加減なんてしないからな」
指貫に貼り付けられている札が、一斉に律動しはじめた。
文字色は黒から赤へと変化し、札を仄かな赤色に染め上げる。
そうして――吼えた。
「あ――――――ああああああああああああああああああああああ!!」
上体を大きく反らし、腹の奥底から声を上げる。
大気が震え、妹紅に同調するような咆哮を上げる。
それが合図なのか、妹紅の全身が炎に包まれた。
自殺行為のようなその発火現象こそ、彼女の大技の前触れなのである。
瞬く間に火力を増大していく妹紅の姿を、地上から見上げる輝夜。
その顔には笑みが張り付いていた。
「そっちも久々よね。まぁ……勝つのは私だけど」
まるで花火でも観賞しているかのような気楽さで、炎に包まれる妹紅を仰ぎながら大技の発動を待つ。
だが満身創痍の輝夜にはそれだけの余裕は無いはずだ。
それを承知で待っているのだとしたら、それはただの愚行に他ならない。
今ここで、手に持っている得物で攻撃すれば効率よく勝利を収められると言うのに。
それでも待ち続ける輝夜の顔は、やはり笑っていた。
「――――行くぞ」
準備が整ったのか、高らかに攻撃宣言をする藤原妹紅。
燃え盛る彼女の体には、再び翼のようなモノが生えている。
「いつでもどうぞ」
輝夜はそう返事をしつつ、手にした蓬莱の玉の枝をそっと口元に運ぶと、大胆不敵にも瞳を閉じた。
今から必殺の攻撃が迫り来ると言うのに、枝を持っていればそれだけで勝てるとでも言うのか。
「負け惜しみなんて聞かないからな。――――喰らえ、鳳翼天翔――――!!」
ずず、と重みのある音と共に妹紅の体から剥がれて行く炎の塊。
その塊には、目と嘴、それに翼が備わっていた。
月の罪人であるカグヤを断罪するかの如く現れたソレは、古来より、火より生まれいずる鳥として信仰されてきた『鳳凰』そのものだった。
火より生まれ火を纏い、天空を優雅にたゆたう霊鳥、鳳凰。
不死のシンボルともみられ、炎により罪を浄化する鳥を、蓬莱山輝夜に引けを取らぬ罪を犯した妹紅が作り出すのは何の因果か。
罪人によって生み出された鳳凰が、大きな口を開けながら全速力で輝夜へと肉薄していく。
対する輝夜は不動だった。
静かに瞳を閉じて、その場に佇むだけ。
煌々と輝く七色の玉たちだけが、今か今かと主人の命を待っている。
「万策でも尽きたか!」
嘲笑う妹紅の声も彼女には届いていない。
まるで悟りを開いた僧のように、穏やかに、そして緩やかに心を漂わせている。
それに何の意味があるのだろう。
もう目の前には不死鳥がいて、数秒の後に飲み込まれてしまうと言うのに。
「――――」
ごう、と熱と風とが身体に襲ってきた。
おそらくは次の瞬間には、劫火に包まれ葬られることだろう。
そう分析し、諦め――――
「――――玉の枝よ」
るわけもなく、輝夜は鋭く開眼した。
「夢色の郷を――――!」
ようやくだ、と待ちわびたと言わんばかりに、七色の玉、その全てが弾け跳んだ。
主人を守るようにして円状に散らばる七つの玉。
――瞬間、鳳凰が雄叫びを上げた。
空気を切り裂くような金切り声。
獲物を捕らえたと喜びをあげているのだろうか。
しかし――姿形は鳳凰とは言え、所詮は人の作りしものである。
贋作は作れても、本物の神を作ることは叶わない。
だからこの戦いでは、妹紅は少なくとも真贋に関わる業を繰り出してはいけなかった。
何故なら、輝夜の持つ蓬莱の玉の枝は、彼女が唯一所持する本物のアイテムなのだから。
「っ、づ?!」
「いっけ――――っ!!」
そのとき妹紅は良くないモノを見た。
自分の持てる全ての妖力を注ぎ込んで作り上げた火の鳥が、何かしらの力によって押し返されているのを。
それが輝夜によるモノだと気がついたときには、逃げる術も無かった。
妹紅は持てる全ての力を注ぎ込んだ。
だからこの攻撃は、防がれたり避けられたりしてはいけなかったのだ。
大技を撃った反動で彼女の体はもう、満足に動かすことも出来なかった。
体中が麻痺している感覚、とでも言うか。
小刻みに震えるだけで、指一本思い通りに動かせない。
そこへ突っ込んでくる自分の妖力の塊と、輝夜の満を持しての最大の攻撃。
「く――クソ」
何とかしなければ。
何とかしなくては。
何か――――何か出来ることは!?
「クッソォォオ……ッ!」
それが、この戦闘の最後のセリフとなった。
/
「――――はぁ」
夜空にかかる虹を見た私は、その場に崩れ落ちた。
妹紅の繰り出してきた巨大な火の鳥は、丁重にお返しした。
おかげで自分の攻撃と、私の攻撃を一気に受ける羽目になった妹紅は、被弾したあと燃えながら落下していった。
かくいう私も、もう限界。
夢色の郷が撃てただけでも僥倖に等しいと言っても過言じゃない状態である。
つまりは満身創痍、ボロ雑巾な感じだ。
「…………」
枝を放り出して夜空を仰ぐ。
こうしてゴロ寝をしているところを永琳に見つかったら、きっと怒られるんだろうな、なんてことを考えていたら、本当に足音がしてぎょっとした。
「ち、違うのよ」
慌てて取り繕う。
こんなところで寝転がっているのも疚しいことだが、それ以上に、妹紅との殺し合いの方が疚しいことだった。
ボロボロな現状を見られてしまっては、きっと近くにいる妹紅に止めを刺しに行くに違いない。
それだけは勘弁して欲しかった。
――けれど、どうやらそれは私の杞憂で。
「……なにがだよ」
やって来たのは、上半身真っ裸な妹紅だった。
「あら。……服、燃えたのね」
「おかげさまでな。足もまだ生えてこないし」
そう言うと、私の隣にどかっと座ってくる妹紅。
銀色の髪に月明かりが反射して、幻想的な輝きを放っている。
「なんだよ」
「な、なんでもない」
「風邪のせいで頭やられたか?」
「――あ」
そう言えば、私は風邪を引いていたのだった。
でも、もう悪寒も無ければ熱っぽさも無い。
つまり……治った?
「どうやら成功だな」
「な、何の話よ」
「いやさ、昔のことだけど。迷信みたいなのを聞いてね。『風邪のときに汗をかくと治りが早い』って」
「――――」
その一言で、色んなことが頭の中でフラッシュバックした。
思い出してみれば――そう、そうよ。
「ご明察。きっと考えてることは正解だ。いい汗かけただろう? 色んな意味で」
「な……な……」
鬼火のせいで嫌な汗をかき、戦闘のせいで冷や汗と運動汗をかいた。
妹紅は火を操る。
だから戦闘になれば自然と汗が吹き出るのは明白で。
私は、まんまと妹紅の掌で踊っていたことになる。
「で、でも。鈴仙は?」
「ああ、あの兎はいいように利用させてもらっただけだよ。でも、失礼千万だったのは間違いないがね」
「…………」
「嘘なんてついてないぞ、そんな顔しても」
「そ、そう?」
「ああ」
なんだか嘘のようだ。
目の前にいるのは藤原妹紅、優しさとは程遠い存在だ。
冷血で無愛想なのがウリなのに……。
「まぁでも、この梅雨時期でイライラしてたから、私も発散したくてね」
「結局そっちが本音でしょう!」
「バレたか」
「自分からバラしてるんじゃない……」
流石は私の怨敵だ。
一筋縄ではいかない。
妹紅は言いたいことは全部言い切ったようで、無言のまま仰向けに転がった。
……私も寝転びなおす。
「姫様らしからぬ格好だな」
「妹紅だって。姫様だったくせに」
「……そんなことは、ない」
消え入るような声で、否定する。
それはそうか。
何せ望まれぬ児として生まれてしまったのだから。
幼少期の殆どを監禁されていたのなら、姫としての待遇なんてこれっぽっちもなかったに違いない。
「でもな」
妹紅は言う。
「私は恵まれていたんだと思うよ。飢えることもなかったし」
「え?」
「この前慧音と話していたんだけど。貧しい者っているじゃない?」
「う、うん」
何で急にそんなことを言うのかと思ったが、話をあわせることにした。
「貧しい家に生まれたら、人間、それだけで不幸になるんだ。月の世界じゃ、貧富の差なんてあまりないんだろ?」
「あることにはあるけれど……そうね、地上よりかは遥かにマシね」
「明日どころか今日の飯の心配もしなきゃいけない。働いても働いても報われない。色々な貧しさがあるけれど、やっぱり飢える辛さは並大抵じゃないと思うんだ」
「飢え……」
私も妹紅も不死者だ。
だからひもじい思いをしても死ぬことは無い。
けれど普通の地球人は違う。
穢れた民は、生きるために食料がいる。
私のように楽しむためではなく、それこそ生存をかけた食事が。
生きるための食事を止められたら、あとは死ぬだけだ。
永遠ではない人々から見れば、飢えは最上の恐怖かもしれない。
「慧音の寺小屋にも、貧しい出のヤツがいるらしくてね。ビックリしたよ、この幻想郷でもそんな人がいるんだって。
外の世界じゃ世の常だったけれど、まさかここでも飢えを経験しているなんて」
「そう、ね」
妹紅に限らず、それは私も見てきた事実だ。
飢饉があれば人は犬でも同族でも食していた。
そのときは穢れのせいで見ていられず、全部穢れのせいだと思っていただけで、人間たちの苦しみなんて考えたことも無かったけれど。
「だから不死になるまでの間、そう言った苦しみを味わなかっただけでも、姫って立場だったんだなと、改めて思う」
「…………」
「月じゃ、食料を巡って争いなんて起きたことないだろ?」
「多分」
「こっちじゃ、争いの中心は大体権力か食料だった。そう考えると、月の国はいいところかもな」
それはどうだろう、と思ってしまった。
確かに食料でもめたことは無いけれど、人間と違って月の住人たちはみな心が殆ど無い。
永遠に近いせいか有限を卑下し、汚らしいと言う。
私もこちらに来て穢れてしまったせいか、感情と言うものがいかに大切なものなのかを認識し始めた。
永琳もきっと同じで、だからこそ最近では薬を作って売ったり、回診に周ったりしているのだろう。
だから月はいいところなのではなくて――――きっと、可哀想な場所だ。
手に入れられるはずのものを遠ざけて、手に入らないものだけを守り続ける、憐れな一族。
私はそこの姫だったのだ。
「……ここも」
「え?」
「この世界も、いつかは月の国のように――飢えない世界になるかな」
それは私の知る妹紅のセリフではなくて。
思わず目を点にしてしまった。
「いいや、忘れてくれ。どうもさっきのが頭まできいてるみたいだ」
妹紅は起き上がって、自分の頭をポカポカと叩いた。
それが照れ隠しなんだってことは、長い年月を付かず離れずで過ごしてきた私にはすぐわかる。
だから私は知らん振りをして、
「そうね。私たちが死ぬまでにはそうなるかもね」
「ならなきゃおかしいだろ」
「だからずっとならないかも、ってこと」
「ひでぇな……」
妹紅の心も、私の心も、地球では移ろいゆく。
月ではありえなかった現象が、ここでは普通にありえるのだ。
だから私の知らない妹紅が日々現れて、妹紅の知らない私が日々現れる。
この星に永遠は、無い。
穢れた地に両足をつけている私もまた、月人だったにしろ穢れていくのだから。
魂は永遠に彷徨っても――――心は永遠でありえない。
それが地球、それが地上。
私と妹紅が、これからも歩む道。
「これからも――――」
よろしく、と。
妹紅には聞こえないように、小さく囁いた。
☆★☆
「ようやく形になってきたな」
「私が毎日のように水をあげてるんだから当然よ」
「三日に一度しか来ないヤツが何言ってやがる」
「でも、こうやって本当に出来上がると嬉しいわね」
「茎を植えたんだから、ちゃんと育てれば普通は出てくるって」
「で? このサツマイモはいつになったら収穫できるの?」
「慧音が言うには、あと一ヶ月くらいらしい」
「へー。こっちから見てると葉っぱしかないけど」
「芋は地面の中にあるからな……って、おい! 抜くなよ!」
「なんで?」
「なんでって……育たなくなるだろうが!」
「また戻せばいいじゃない」
「はぁ……疲れる」
「早く子供たちに食べさせて上げれるといいわね」
「……ああ、そうだな」
「きっと喜んでくれるわ」
「喜んでくれなきゃ、心が死ぬ」
「体は死なないものね」
「そうだな。まぁ結局心もそのうち生き返るけどさ」
「確かに、ね」
それは燦々たる太陽の光の下、二人で笑いあった記憶の一部。
たとえ未来永劫、この世界から貧富の差が無くならないとしても。
みんなが飢えることだけは無くなるようにと動き出した、ある日の出来事――――
END
予感と言うよりは予兆と言った方が正しいかも。
何せコレは身体に関することだから。
「えいりん……」
全身から滲み出てくる汗に、ガンガンと脈打つ頭の痛み。
熱さにうなされているはずなのに、寒さのせいで体をぶるりと震わせる。
――完全に、風邪だった。
「なんですか」
抑揚の無い喋り方で答える永琳。
手には湯呑みを持っていて、暢気に茶請けを漁っている。
人がこんなにも辛い思いをしていると言うのに、月の賢者らしく冷静沈着だった。
「私、死んじゃうかも……」
弱気に声を上げてみる。
永琳は最近、人間の里で医者まがいの事をしている。
診察と言うものをやっているらしい。
評判も聞くに上々なので、きっと優しい対応をしているのだろう。
そんな八意永琳ともあろうお方が、こんなにも苦しんでいるか弱い女性を無碍にするだろうか。
きっと手厚く看病を――
「ただの風邪です。寝ていればそのうち治りますよ」
――してくれる、気配すらなかった。
一応無駄だとは思いつつも食い下がってみる。
「で、でも」
「でももへちまもありません。ちゃんと寝ていれば治るのですから、安静にしていてください」
ぱきり、と小気味良い音を立てながら煎餅を食している。
ああ……美味しそう……じゃなくて。
「熱、出てるのよ?」
「風邪の時に熱が出るのは自然治癒力のせいですよ。人体と言うのはですね、体温を上昇させて免疫力を上げているのです。自然治癒するから風邪になる、と言うのが適切でしょうか」
「頭も痛いし……」
「だから安静に、と言っているのです。動いて辛いのは輝夜ですからね」
がりがり、ずずず、もぐもぐ――なんて羨ましい音。
想像しただけで垂涎モノだけれど、熱のおかげかあまり煎餅を口に入れたいとは思わない。
思わないんだけど……美味しそう。
と言うより、永琳の態度が非常に気に入らない。
なんで私がこんな目にあっているのに、永琳は暢気にお茶してるの?
そう言いたいけれど言えないのが悲しい。
言えば言ったで、「そんなの、体調管理も出来ない輝夜が悪いんですよ」なんて言われそうだから。
私は悔しい思いを胸に仕舞いつつ、永琳とは反対の方向に寝返った。
頭に載せていた濡れ手拭がぼたりと落ちたので、それを拾って近くに置かれている桶の中へと放る。
それで気がついた。
「あめ……」
いつの間にか雨が降っていた。
ざぁざぁとしっかりした雨ではなく、霧のような、さぁさぁと静かで優しい雨だ。
竹林の葉も揺らさず、ただ存在を押し殺して振り続ける五月雨。
そう、ついさっきまで忘れていたけれど、今は梅雨の時期だった。
昨日、軽い頭痛と熱の症状を永琳に訴えたとき、梅雨の季節に風邪を引くなんて珍しいですね、と言っていたのを思い出した。
どうしてそう思ったのかは聞いてないけれど、きっと永琳のことだからちゃんとした根拠のある理由なのだろう。
私はどう転んでも勉強不足だから、永琳の示す理由に対して理解すら出来ないだろうけど。
それにしても――どうしてこう、永遠亭の住人たちはみんな冷たいのかしら?
鈴仙は風邪なんてうつさないでくださいよ、とか言ってそそくさと逃げてしまうし、永琳は永琳でこの通りだ。
他に誰かいるわけでもないけれど、こういう時くらい誰かさんが優しくしてくれてもいいのに、と思ってしまうのは贅沢なことなのだろうか。
こういう時に限ってアイツも来ないし。
「…………」
はぁ、と無意識に小さくため息が出てしまった。
今回の風邪はあまり咳が出ない。
おかげで喉は比較的楽だから、寝ているよりはお喋りをしたいのに。
でもまぁ、頭が痛いし、熱も下がってこないから、やはり永琳の言うように安静が一番かも。
「永琳」
「なんですか?」
「それ、絞って」
「……はいはい」
「はいは一回、でしょ?」
「……はい」
永琳の困った顔を見るのは楽しい。
いつもは完璧主義のせいか涼やかな顔をしているから、こうしてあらかさまに嫌そうな顔とか困った顔になると、その鉄仮面が剥がれ落ちるような気がして、見ているこちらが楽しくなる。
なんだか永琳じゃない永琳を見れるような気がして嬉しい。
そして最近私の中で、永琳の口癖とか行動を真似するのが、楽しみの一つとして追加された。
はいは一回でしょ、と言うのも永琳の口癖である。
こうやって真似事をすると、決まって永琳は顔を複雑にさせるものだから、こちらとしては楽しさ二倍、なのだった。
「元気なら自分でやってください」
「安静に、と言ったのは永琳じゃなくて?」
「……寝てください」
ぺちっと音を立てて乗せられた手拭が、冷たくて気持ちがいい。
まるで私の上昇した分の体温を全て手拭が持ち去ってくれているよう。
「うん、わかった」
「本当、いつまで経っても輝夜は輝夜のままですね」
くすり、と。
本当に微かな笑みをこぼした永琳。
その顔はまるで『母親』のような温かさで――ふと、『母親』とはどんなものなのか、と自問してしまった。
聞き伝えで知っている私の母親像は、優しくて温もりに溢れる女性、と言う感じなのだけれど、残念ながら体感した記憶は一切無い。
だからこれは私の想像の中での母親で、そのイメージに永琳の笑みが合致しただけの話だ。
――そう、それだけの……。
「輝夜?」
「なんでもない。……寝る」
「……?」
瞳をきつく閉じて、一度深呼吸。
視界は真っ暗で、雨の音は相変わらず聞こえてはこない。
永琳も私が目を閉じたことで寝たのだろうと、腰を浮かしてどこかへ行ってしまった。
そうして私は心の中で呟く。
――永琳がお母さんだったらな、と。
~~~梅雨日の出来事~~~
これだから梅雨は嫌いなんだ。
火の付きも悪いし、何よりジトジトと鬱陶しいことこの上ない。
雨のせいで服もすぐ濡れるし、人間も外を歩かなくなるから護衛業も無い。
しかもアイツも永遠亭に閉じこもって出てこないし。
「あー……クソッ」
そこら辺に落ちていた桶を蹴ると、ばきゃ、なんて冗談みたいな音がした。
慌てて音がした方を覗くと――壁に、見事な大穴が開いていた。
「ばっかじゃねーのか? これくらいで壊れやがって……」
桶は金具も外れて大破。
家の壁は素材が質素なせいか、ぽっかりと拳大の大きさで穴が開いてしまっている。
……二次災害もいいところだ。
しかも微妙に蹴った足、痛いし。
「クッソ……」
悪態をついたところで誰かが来るわけでもない。
外が晴れたら修理すればいいだけの話か。
それでも……桶は直せそうも無いな。
壁なんてそこいらの木々を拾ってこれば直せるけど、桶は流石に職人技のような気がする。
仕方ない、今度人間の里に行ったときに修理依頼してくるか。
修理するくらいなら新しいのを買え、なんて言われそうだが。
それにしても、五月雨とは言え今日の雨はヤケに静かだな。
まるで存在自体してないみたいだ。
とは言っても、手を伸ばせばちゃんと濡れるんだから、雨自体は降ってるんだよなぁ、不思議と。
雨の匂いもするし。
しかし――問題は暇ってことだ。
アイツも来ないし護衛も無いとくれば、ただこうして家の中で亀になるしかない。
家の中でやることなんて何も無いから……さて、本当に困った。
「あーあ」
布団に身を投げてみても、眠気なんてもちろん来ない。
腕を枕代わりに天井を見つめるも、五分で飽きた。
――こうなったら、
「引っ張り出すか?」
八意永琳が外出した隙を狙って永遠亭を襲撃。
そうすれば否応にもアイツが出てくるだろう。
でもって、そのまま殺し合いが出来れば御の字だ。
しかしそのためにはまず、あの邪魔な八意永琳がどこかに行ってくれないと話しにならない。
だけど薬も最近はあの兎に売りに行かせてるみたいだし、里で病人でも出ない限りこんな雨の中、外出するなんてことは無い……よな。
「大人しく寝るか……」
晴耕雨読とはよく言うが、雨の日に本を読むなんて柄じゃない。
それよりも果報は寝て待て、寝る子は育つ、だ。
丁度小腹も空いてきたことだし、寝てしまえば料理をしなくても済むのだから、経済的かつ精神衛生的にもいい睡眠を選択するとしよう。
――――そのまま仰向けになって、私は瞳を閉じた。
/
「――で、こうしてここに来たと?」
「暇だったんだ。いいだろ別に」
「いいことはいいが、食事の邪魔はしないでおくれよ」
「…………」
そう言って膳を整え始める慧音。
慧音――上白沢慧音はこの寺小屋で子供たちに勉強を教えている、言わば先生である。
中には年配の人もいるみたいだが、基本的には幼い子供たちが対象だ。
慧音は知識が豊富なので、私とは正反対の属性であろう。
そんな彼女の、今日のお昼ご飯の献立は野菜炒めらしい。
生徒たちも雨で来ないので、本でも眺めながら食事をとろうとしていたところに、私が現れたのだとか。
全く以って間が悪いのだった。
「いただきます」
ちゃんと背筋を伸ばし、お辞儀をしてから箸を手にする慧音。
並べられた茶碗たちからは素敵な香りがしてくる。
匂いに負けそうになりながらも、耐え凌ぐ。
そして一口目――どうやら慧音は味噌汁から攻めるらしい。
箸で撫でるようにかき混ぜながら口へと運ぶと、彼女の喉がこくりと震えた。
「うん、美味しいな」
自画自賛もいいところだ。
しかし見た目も美しく、香りも良いと来れば本当に美味しいのだろう。
涎が出そうになるのを堪え、慧音の方とは逆を向く。
このまま食事風景を見るのは拷問まがいだ。
「本でも読むか?」
「いい。寝る」
「なら家でも良かったろうに」
変なヤツだな、と嘯きながら、もぐもぐと言う食事の音が聞こえてくる。
――耐えろ、私。
一食抜いたからって、人間死にはしない。
特に私のような不死者には。
「んぐんぐ」
そう、私は不死者。
どれだけ食事を抜こうが、どれだけ火にあぶられようが死ぬことは無い。
灰になってもそこから生還できるのだ。
背面にいる慧音は『獣人』と呼ばれる妖怪ではあるが、不死ではない。
飢えれば死ぬし、焼かれても死ぬ。
私は人間の身でありながら妖怪よりもおぞましい存在である。
だからこれしきのことで根を上げるわけもなく、
“ぐぅー……”
根を上げるのは、いつだって私の心では無く体なのだった。
「…………」
「…………」
そっと慧音の方を振り向く。
今の腹の虫の音を聞かれなかったか確認するために。
でも――そんな私の危惧を嘲笑うかのように、慧音の顔が歪んでいた。
「――――」
「……や、やぁ?」
ぎこちない仕草で、意味不明なアクションをとる慧音。
左手にはご飯茶碗が、手を振ってきた右手には箸が握られている。
その顔はまさしく「これはまずいものを聞いてしまった」と言わんばかりだ。
そんな慧音に対し、私が出来ることはたった一つ。
「……飯、まだあるか?」
恥を忍んで下手に出ることだけだった。
「くくっ、そういうことだったか」
「な、なんだよ。笑うこと無いじゃないか」
これがアイツだったら即行でブチ殺している。
こうして不貞腐れるだけに留めているのは、あくまで相手が慧音だからだ。
友人のような恩人のような、けれど目上のような慧音だからこそ、自我を抑えているのであって、慧音以外だったら即、恥を消去しにかかるだろう。
「で、あまってる?」
「ああ、安心しろ。いつも少し多めに用意しているんだ。ここの生徒には貧しい者もいるからな」
「……そうか」
そうだよ、と言って茶碗を膳に戻し、慧音は席を立った。
その後姿が見えなくなったことを確認し、私はため息を漏らす。
「貧しい者、か……」
父上に存在を隠蔽されたとは言え、私は朝廷の権力者の家に生まれた。
だから幼い頃に飢え苦しむ経験なんてしたことは無いし、不死になってからは飢えても死にはしないと言う後ろ盾のおかげで、辛いと嘆くことも無かった。
けれど本当に貧しい家門に生まれた幼子は飢えに苦しみ、挙句には“子返し”と呼ばれる、言わば食い扶持減らしの儀式にかけられ、その命を絶たれてしまう世だ。
それはどんなに苦しくて悲しいことだろうか。
外の世界の人間たちは『食料』を巡って争ってきたきらいがあるが、ここ幻想郷では、今のところそのような争いは、私が知る限りでは無い。
それを喜ぶべきかどうかは微妙なところではあるが、それでもやはり貧富の差があるのは、いつの時代も、どこの世界でも同じことなのだろうか。
「どうした、考え事か?」
「ん? あ、ああ……」
どうやら自覚も無く深く考え込んでいたようだ。
いつの間にか膳を持ってきた慧音が、すぐ目の前にいた。
「今日は冴えないな。雨のせいかな」
「そうかもしれない」
言って、私は慧音から膳を受け取った。
彼女と全く同じ野菜炒めの定食である。
白いご飯には粟や稗などが混じっているが、それでも小山状に盛られている米を見ると、やはりさっきの言葉が脳内で反響してしまう。
“――貧しい者もいるからな”
普段そんなことは全く考えないのだが、だからこそ、こう言う不快な雨の日に考え込んでしまうのか。
私は箸を掴む前に、慧音に聞いてみることにした。
「なぁ。さっき言ってた、貧しい者ってどんなヤツだ?」
「どんなヤツと言われてもな。そのまんまの意味だよ。ここは寺小屋だから、今度授業に来る子たちを良く見てみるといい」
「何で?」
「一目瞭然だからさ。ほら、裕福な家庭の子が、継ぎ接ぎだらけの安い麻で出来た服に身を包むと思うか? 逆も然りだ。だから身なりをみただけでも、すぐに違いがわかるだろう?」
「確かに」
「服装が立派か立派じゃないかなんて学問には関係無いけどね。実際、どんなに酷いボロを着ていても、秀才は秀才さ。この寺小屋ではそれがすぐにわかる」
それがどうしたと言いつつ、慧音が腰を下ろす。
私も箸を手にし、ご飯の入った茶碗を持ち上げた。
「いやさ、ちょっとした疑問があって」
「ほう、いつも感性だけで生きてきたんだと豪語している妹紅らしくないな」
そんなことを言った覚えは一切無いけど。
「……好きに言ってくれ」
「で? 何が聞きたいんだ?」
「ああ、たいしたことじゃないんだけど」
「ふむ」
「何で貧富の差ってあるのかな?」
なんとなく浮き出た疑問を口にしただけなんだが、慧音は難しい顔つきで考え込んでしまった。
言葉を選んでるのか、微妙な沈黙が漂い始める。
これはちょっと……苦手な空気だ。
なので会話をはぐらかせることにする。
「なぁ慧音。それよりも飯を食べ――」
「そうだな。言ってしまえば『欲』のためじゃないかな」
私の誘導策は空振りに終わり、代わりに真面目な会話が始まった。
「欲?」
「そう、欲だ。人間に限らず全ての生物は欲を中心に生きている。だからじゃないかな」
「欲ねぇ。わかったような、わからないような」
ちっともわかっちゃいないがね。
こう言う小難しい話は嫌いなので、早々に話題を変更したいところではあるのだが、
「欲って言うのはな」
目の前の先生は題目を変える気なんてさらっさら無かったのだった。
私の嫌そうな表情を見ていないのか、慧音は正座までして話し始める。
「実直に言えば『差』のことさ。今の現状と比べてどうなのか、と常に……とは言ってもほぼ無意識の内にだけれど、生物は考えて行動している。
妹紅もそうだろう? 理想と現実に差があるからこそ、ああしたい、こうしたいと思うはずだ」
「ん……まぁ、ね」
「人によってその欲の物差しは変わるけれど、みんなその差を埋めるために躍起になってるんだ。これが欲だよ」
前々から慧音の語り部は難解だとは思っていたが、今日のは輪をかけて難しい。
結局私が知りたいのは単純明快な結論であり、考察ではないのだ。
けれど賢者と呼ばれる者たちはみんなそうなのか、どうも考察そのものを話すのが好きらしい。
つまりは益体も無い説明が好きなのだ。
だからいつも小難しく感じてしまうのかもしれない。
「で? それが貧富の差とどう繋がるんだ?」
「……今の話しを聞いていなかったのか?」
「いや、聞いてたけど。……ん? つまり欲があるから貧富の差がうまれる?」
「そうだよ。――いや、きっとそうだ、が正解だな。明確な答えとして言えるような疑問じゃないからな、今のは。きっと人間社会の永遠のテーマだろうさ」
なるほど、慧音の発言は言い得て妙だ。
外の世界でもいたからな、平等に命をかけていたヤツが。
貧富の差や貴賎の差なんて本当は無い、生きとし生けるもの全ては平等なのだと、声が嗄れるまで叫び続けていたヤツが。
彼らの掲げた信念に対して、「それは人間が持つ欲のせいですよ」なんて軽々しく発言出来まい。
彼らだってそんなことは百も承知で命を懸けていたのだろうから。
「そう考えると貧富の差も悪くは無いかな」
「今日は一体どうしてしまったんだ? 妹紅らしくもない」
「いや、なんでもないよ」
言って、慧音の用意してくれた食事に手を出すことに。
慧音も私を訝りつつも箸を握った。
「変な妹紅」
変人扱いはとうに慣れているので、今更言われても何とも思わない。
それより――この味噌汁、うまいな。
/
しっとりと濡れる道を独り歩く。
傘をさしても霧状になった雨が体に浸潤してくるので、諦めて素のまま家に向かっている。
道中には誰も歩いていなくて、気味が悪いほど静かだ。
自分の足音だけが周りに伝播していく。
こんなことなら、あのまま慧音のところで雨が止むまで雨宿りするんだった、と後悔。
「でもなぁ」
食事が終わった後、何をするでも無い私を見て、慧音が発した言葉は「働かずもの喰うべからず、だ」であり、その言葉通り私は労働させられる羽目になった。
内容としては、まさに『写経』である。
稗田阿求から借りたと言う歴史書なるモノを、書き写せときた。
そんな七面倒臭いことをやりたいはずも無く、私は適当に用事を作って寺小屋から避難した。
これはその罰かもしれない。
そう思ったところで手伝う気になんてなれないけど。
それにしても、さっきの欲の話は考えを改めさせられるいい会話だったと思う。
慧音の言っていた通り、世界はきっと『差』で出来ている。
生物はその差を無意識に感じ取り、いろんなことを確認しているのだろう。
自分と言う概念だって『他の誰か』と言う差を見出せなければ確認しようが無いんだから。
自分とは違う誰かがそこにいるからこそ、自分と言うのがはじめてわかる。
だから人は『差』を生もうとするんだ。
差が差を生み価値が生まれて社会が回転していくことを、無意識下で知っている。
そう考えると、一見複雑に見える私とアイツの関係も簡単なモノだ。
「ありゃ」
珍しく考え事ばかりしていたせいか、向かっていたはずの家とは正反対の道に来てしまっていた。
目の前には香霖堂が佇んでいる。
まさかボケか……と肩を落としつつ家のある方角に向き直ると、そこに見慣れた人物がいた。
「鈴仙か」
人物の正体は、永遠亭の使い走りである兎だった。
鈴仙・優曇華院・イナバと言うクソ長ったらしい名前を持つ、人間スタイルの兎である。
見た目は人間のソレだが、長い耳と丸々とした尻尾、それに毒々しい紅の瞳はどう見ても人間のモノではない。
ヤツはアイツと同じく月から堕ちてきたらしい。
一体月の都とやらはどう言う世界なのか。
脱走者ばかりじゃないか。
「おい、そこのオマエ」
「――――え?」
今の今まで私に気がついていなかったのか。
間抜けな返事をしつつ傘を上げる。
「あ」
嫌なもの見ちゃったよ、みたいな顔をしてたな、今。
絶対そうだ。
そうじゃなかったら、即行で傘を下げるわけがない。
「避けてるな」
「さ、避けて……」
無いですよ、とは言わない辺りが永遠亭の住人って感じだな。
私に対する不信感丸出しだ。
アイツとは殺し合いをしているくらいだし、それも仕方ないことではあるが。
「どうでもいいけど。アイツ――輝夜は何してるんだ?」
「アイツじゃありません、輝夜様です。はぁ……風邪を引いて寝込んでますよ」
「――――は!?」
「そ、そんなに驚かなくても」
思わず声を大きくしてしまった。
最近見ないと思ったら、風邪を引いた――だって?
「ちょ、調子はどうなんだ?」
「どうって……風邪なんだからいいわけ無いかと」
「それもそうか」
きっと今頃は熱にうなされているのだろう。
不死者である輝夜と私は死ぬことが無い。
だから風邪なんて、些細なことだ。
放っておけばそのうち全快する。
殺し合いで悲惨な傷跡を残しても再生するくらいだ、たかが風邪で再起不能になるなんてことは無いはずだ。
それでも――そうわかっていても、心臓の鼓動は高鳴る一方だった。
「今は永遠亭か?」
「他にどこへ行くと?」
鈴仙は深くため息をつくと、私に向かって、
「お願いですから面倒事を増やさないでください。こっちも参ってるんですから」
人を狂気に陥れると噂の紅い瞳で、私の心の中を覗き込むように見つめたかと思うと、そのまま背を見せた。
もうこれ以上は話すことは無いと、その背が語っている。
だからこの会話はもうお終いで、私もそれ以上追及することが出来ない。
私から声がかからないのを確認した後、鈴仙・優曇華院・イナバはゆっくりと歩き出す。
じゃりじゃりと、わざとらしい足音を立てて去っていく鈴仙。
――――気に、入らない。
「なぁ」
声をかける。
鈴仙の足が止まる。
けれど顔をこちらに向けようとはしない。
――かまわない。
「一つ良い事を教えてやるよ」
餌を撒いてもこちらを向こうとしない――かまうもんか。
これはただの悪戯だ、それ以上でも以下でもない。
私の自尊心が傷つくことだってないのだから、放っておけばいい。
所詮は八意永琳の飼い兎なのだから。
「アイツに伝えてやってくれ」
自分でもぞくっとするような、冷たい声だった。
さぁさぁと降り続く雨のせいか、私の心は燻り続けている。
高鳴っていた心音も次第に低く静かになっていく。
だからかもしれない、こんなにも冷ややかな声色なのは。
「風邪を引いた時に、蒼い鬼火を見ると呪われるらしいぞ、ってな」
☆★☆
「妹紅がそんなことを?」
「そうなんですよ。どうにかしてくださいよ、あの横暴人」
鈴仙はぶすっと不貞腐れながら、薬の代金を永琳に渡しつつ、そんなことを言う。
耳の垂れ具合から察するに、相当な精神的ダメージを受けたようだ。
……まぁ、アイツに絡まれるとみんなこうなるか。
ぶっきらぼうだしね。
「それで? 私にどうしろって?」
「さぁ。お師匠様は今の話しを聞いて、どう思います?」
付き合いきれないと代弁する表情と共に永琳に投げる。
すると永琳は、鈴仙から受け取った売上金を手にしながら艶やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、まだまだ子供の域を出ませんね」
「……永琳から見ればみんな子供にしか見えないんじゃないの?」
「――なに?」
「な、なんでも」
急いで布団を被りなおす。
ああ怖い、本当のことを言っただけなのに。
永琳は私よりも長生きしているし、これからも私より長生きするだろう。
そんな長老とも呼べるべき永琳の立場からすれば、生ける者は全て子供みたいに見えるに違いない。
でも永琳は、遠回りにでも“年増”と言われるのが大層お嫌いなのだった。
「で、お師匠様的には、藤原妹紅の話にはどんな意味があると?」
「それは貴方、ほら。子供がすることなんて一つでしょ?」
「……?」
首を傾げる鈴仙に、永琳は一呼吸置いて、
「悪戯に決まっているじゃない」
なんて、馬鹿らしい答えを返した。
「悪戯?」
「そうよ。きっと最近会いに来ない輝夜にやきもきしているのね」
「そんなわけないじゃない。アイツだってもう千年は生きているのよ? 今更そんな感情なんて、」
「心は死なない限り、それこそ愚かなほど執拗に繰り返すのよ、輝夜。それは貴方も知っているでしょう? 最も、心は死んでしまっても蘇ることもあるみたいだけど」
意地悪な笑い方だ。
何かこう……智慧ある人にだけ許された笑みって言うか。
凡人から見たらイラッと来る笑い。
「そうだとしても、あまりにも意味が無いわ。そんな、鬼火がどうとかなんて、平安時代でもあるまいし」
「平安の世では無いにせよ、妖怪と言うのは人間の心から生まれた怪物らしいから。輝夜、貴方が信じてしまえば、それが現実に成り得るのよ」
「――――」
それは、なんとも形容し難い気分だった。
鬼火なんて単語自体が聞くに久しいモノであるのに、永琳の一言で嫌な気分――いや、これは予感か――に切り替わってしまった。
なんていう脆弱な精神力。
永琳のこのいやらしい笑みは、私の心を掻き乱すためだったんだ――!
「まぁ千年も生きている輝夜が本気にはしないでしょうけれど」
「あ……当たり前じゃない。鬼火なんて昔はそこいらにいたわよ」
「蒼い鬼火は私も見たこと無いから、本当に現れたら一目みたいわね」
鬼火――それは突如出現し、空中を彷徨う正体不明の火の玉の妖怪だ。
赤や黄色、白色の鬼火は私も過去に何度か見たことがあるけれど、蒼いのはいまだ遭遇したことがなかった。
いや、伝承ではあちこちから蒼い鬼火が出るとは聞き及んでいて、見たことが無いだけなのだけれど。
逆に西洋の方では蒼い鬼火が頻発していたらしく、向こうでは『ウィルオーウィスプ』と呼んでいるのだとか。
いずれにせよ、共通しているのが『雨の日に現れやすい』と言うのと、『墓場や湿地に現れやすい』と言うことである。
正体不明のくだり通り、鬼火についてはいまだ謎が多い。
どうして急に発生するのか、何のために彷徨うのか。
人間たちは鬼火をよく死人の魂だとか言っていたが、それが本当なのか確かめようが無い。
確かめようがない故に――永琳は楽しみなのだろう、鬼火に出会えることが。
色なんて特に意味は成さない。
長く生きる私たちには、刺激が必要なのだ。
楽しめそうなものがあれば、すぐ興味の対象になりえる。
でも、最近は鬼火自体見ていない。
幻想郷にはあまりいないらしい。
……私は別にあえなくてもいいのだけれど、ね。
「そんなのきっとデマよ。信じなくてもいいわ」
「輝夜様は信じて無いので?」
「信じていないというか……さっきも永琳がいいこと言ったじゃない」
「え?」
「アイツの悪戯なんだから」
「――ああ」
妙に納得する鈴仙に、私は笑いかけた。
そしていつの間にか引き剥がしていた布団を元に戻して、長い長い闘病生活に戻ったのでした。
/
「大丈夫、鬼火なんて見えやしないわ」
時刻はまもなく子の刻。
霧雨もようやく降り止んで、静謐だけが世界に浸透している。
草木も眠る丑三つ時まではまだ一刻ほど時間があるが、それにしたって静かだ。
自分の呼吸がくまなく聞こえる。
そのせいか、昼間の出来事を思い出してしまうのだった。
――そう、アイツが口にしたと言う、あの言葉を。
“風邪を引いた時に、蒼い鬼火を見ると呪われるらしいぞ”
私は死なない体を有するが、死なないのと呪われないのはまた別の話である。
死ななくても、死ぬまで苦しみ続けることになる――それが呪いなのだ。
呪いと言うのは呪術のことだけれど、これがまた恐ろしい。
人間はとにかく、正の感情よりも負の感情の方が何倍も強い。
呪術はその負の感情を形にするものだ。
一番わかりやすい例が『祟り』である。
祟りは死の間際に負の想念が強すぎるがために、死して生ける者の息の根を止める。
個体の弱さ故に『想い』が強いのが人間の長所であり、それをうまく利用したのが呪術と言うわけだ。
祟りこそ呪術的な段取りを行っていないが、丑の刻参りなどは最たるものと言えよう。
憎き相手を殺したくとも力の無い女性が、想いだけで願望を成就させるのだから、その負の力の偉大さは恐れに値する。
月の科学は優秀だけれど、月の住人は種族として優秀なために感情に欠ける部分がある。
だからこれは地上だけの特権、地上だけの優れた技術だろう。
月の住人たちは地上を『穢れた地』と言うが、なるほど、呪いが存在している時点で相当な穢れだ。
私たちが忌み嫌っていた穢れの、最も危険な形が『呪い』なのだから。
「そう考えると……」
眠れなくなるのだ。
きっと妹紅の言った台詞はただの悪ふざけなのだろう。
けれど、もし彼女が言ったことが本当なのだとしたら?
人々は鬼火を『人魂』と言った。
ともなれば呪いが具現化したのが鬼火なのではないか?
そう考えれば考えるほど、私の心は底なし沼にはまっていく。
呪術の恐ろしい点を更にもう一つ挙げるとすれば、それは決して目には見えない、と言うことだ。
目に見えない。
目には映らない。
視界には入らないが――――呪いは、確かにある。
過去の人々がそれを証明してきた。
見えなければ対策も打ちにくいし、原因不明だと匙を投げられてしまうだろう。
期待の出来ない対策を、それでも期待してずっと恐怖を引き擦っていろと?
「…………」
背に、汗がじとりと纏わり付く。
外には星も無ければ月も無い。
ただ暗黒が広がるばかりで、いつもは小うるさい梟も、雨が降ったせいか鳴いていない。
本当に世界が死んでしまっているかのようだ。
なのに自分の心臓の音はちゃんと聞こえていて、まるで、闇の奥でもうすぐこの鼓動も消えるのだと嗤っているようで――――
「――――っ!」
私は思いっきり布団を頭から被せた。
熱のせいか全身が熱くて、でも背中だけひんやりとしている感覚。
咳こそ出ない風邪は、けれど発熱と頭痛のせいで自分がいま異常なのだと思い知らされる。
――妹紅は言った。
風邪の時に蒼い鬼火を見ると、と。
ならば風邪が治るまで、毎晩こうして頭から布団を被って、きつく瞳を閉じて眠ってしまえば、たとえ鬼火が現れても見なくて済むはずだ。
そうよ、それは名案。
こうしていればきっと――――。
☆★☆
「酷くなってますね」
「う……ゲホッ、ゲホッ」
翌朝、私の身体は酷いことになっていた。
「今回の熱は長引いてますね、輝夜」
「ぅー……」
「はい、落とさないように」
ひんやりと冷たい手拭を額に乗せられ、ぞくっとしてしまった。
昨日は気持ちいいと感じれたのに、今日は悪寒に襲われる羽目に。
これも症状が悪化したせいだろうか。
……それしか考えられないけど。
でも、これはちょっと。
「ごほっ」
本気で辛いから、永琳に薬を作って貰いたいなぁ……なんて。
「な、なんですか? その捨てられた猫のような目をして」
「……けほ」
「そんな顔しても薬は出しませんよ? 全く……。そもそも風邪に効く薬なんてあるはずがないんですからね」
「……すん」
ちょっと鼻をならしてみる。
鼻汁は全く出て無かったけれど、同情を誘うには効果があるはずだ。
「~~~……っ」
私の思惑通り、ワナワナと体を震わせる永琳。
最近になってようやく永琳の扱いがわかってきた気がする。
「し、知りません!」
そそくさと逃げていく永琳。
……ありゃ、失敗しちゃった。
今回の演技は結構自信あったんだけどなぁ。
仕方ない、楽になる薬は諦めよう。
しかし私も永琳の扱いはまだまだのようだ。
「…………」
今日も鈴仙は人里の方へ使いに行った。
永琳の薬を必要としている人間がごまんといるらしい。
殆ど毎日永琳が薬を調合し、鈴仙が売りに行っている。
今日は天気もいいから、兎な彼女は鼻歌でも奏でながら道中を満喫しているに違いない。
兎の陽気さはてゐを見ていればわかる。
鈴仙本人はてゐと同属だと言うのを断固として拒んでいるが、結局は同じ穴の狢だ。
きっと今頃は暢気に人里へと繰り出しているのだろう。
おかげで永琳が傍を離れた今、とても閑散としていて切なくなる。
――それはそうと、私の風邪がこうして酷くなったのは、やはりアイツのせいな気がしてならない。
おかげさまで昨晩はぐっすりと眠ることが出来なかった。
症状が悪化したのはまさにそのせいに違いない。
きっと寝不足のせいで免疫力が低下したのだろう、鏡を見ればそこにはきっと、酷い顔をした私がいる。
「……はぁ」
しかし……頭痛まで酷くなると、何もやる気が出なくなってしまって困る。
お喋りだって少し辛いし、立ち上がったりなんてしたらガンガンと頭に響くのは目に見えているから、出来るだけ動きたくない。
いつもは何もしないことで有名な私であるが、何故かこうして暇が出来ると何かしらしたくなってしまう。
一体全体、どんな神経をしているのか、我ながら不可思議でしょうがない。
とは言え、昨晩寝つけなかった分、今から寝ると言う選択は有り、か。
「……おやすみなさい」
誰もいない部屋、お日様だけが煌々としている庭に向かって、私は小さくおやすみを言った。
/
「――で、夜なわけね」
誤算だった。
まさか仮眠を通り越して爆睡してしまうなんて。
風邪は――まだ良くなってないみたい。
頭の重さは寝すぎだとしても、寒気がするのは立派な風邪の症状と言っていいだろう。
今は何時なのかと起き上がってみると、すぐ傍にお盆が置いてあった。
乗っているのはお握り二つと、すっかり冷め切ってしまっているであろう緑茶の入った湯のみ。
そして永琳の手紙が一つ。
手にとって、霞みがかかる視界越しに読んでみた。
『寝る子は育つ。食べる子はもっと育ちますよ』
……何のことか、と一瞬考え込んでしまった。
それが他愛も無い一文なのだと理解した時には、視線が胸にいっていた。
「……どうせ胸、無いわよ」
人の気にしていることでもズバズバと言い捨てるのが永琳と言う人である。
手紙をお盆に返し、目をこすって庭の方に目を向ける。
ぼーっとする頭に、なかなか回復してこない視力。
そのせいか――――何か良くないモノを、見た。
「……火?」
視界の右隅にある、拳大の炎。
ゆらゆらと不規則に揺れる謎の物体が、私の視神経を犯していく。
――アレは、まさか。
「そんなはずは、」
無い、と。
声にならない声で呻きつつ、私はソレを見つめる。
いえ、見つめているのではない。
見つめているのではなくて、目が離せないだけだ。
ぞ、ぞ、ぞ、と鳥肌が立ってくるのがわかる。
どくん、と心臓が一躍した。
目の前には白髏のようなまん丸い月と、静かに佇む竹の群れ。
厳粛なる和風庭園の下、ソレはいた。
「――――鬼火」
幽かなる蒼い炎が、空中でチロチロと燃えている。
まるでこちらを窺っているようにそこから動こうとしない。
ぽつんと一匹、私以外何も無いこの部屋を見ている。
「――――」
ごくりと唾液を飲み込む。
もう何百年も見ていなかった鬼火を前に、全身が慄いている。
しかもいま目の前にいるのは、藤原妹紅が鈴仙に語ったという“蒼い鬼火”だ。
本当にいたんだという感心と、本当に呪われてしまうという恐怖心。
その、どちらも反目する感情が私の心中で鬩ぎあっている。
「――――ぁ」
何か言わなければ。
何かしなければ、
何か、何か、何か――――!
「――――!」
全身に電気が走った。
毛先までびりびりっと痺れる。
原因はとても単純で、その場に留まっていた鬼火が、こちらに向かってゆっくりと前進し始めたのだ。
一生懸命心を落ち着かせようとするも、心臓はばっくんばっくんとポンピングする。
おかげで体中の体温が一気に上がった気がした。
もう、体は暖機されていつでも動けるぞと言ってくれているのに、私は動けない。
情けないことに――腰が抜けてしまったのである。
「、っ」
布団を力一杯握り締めるも、体は動いてくれる気配が無い。
相手はそんな私を嘲笑しているのか、右に左に、弧を描くように揺れている。
暗闇の中、蒼い軌跡が笑みを象っているのに対し、私といえば奥歯をカタカタと震わせて、目の逸らせないソレを見続けながら叫び出したくなるのを必死に抑えるので精一杯だった。
“呪われる”
頭の中は、いまだかつて経験したことの無い『呪い』という不確かな事象のことでいっぱいで、妹紅の言うことなんて悪ふざけ以外の何物でもないと思っていた自分が恥ずかしい。
呪われる、呪われる、呪われる――――呪われて、しまう。
呪いの中身は聞き伝でしか無い。
発狂するほど恐ろしいのだとは聞いたが、何せ呪われた人間は押し並べて最後は死んでいるのだ、不死である私は一体どうなるのだろう?
ああいや、そんなことは今はどうでもいい。
今はそれどころじゃないんだって。
もうすぐそこに、蒼い炎が――――。
「、あ」
近い。
もうどう足掻いても逃げられない位置に、ソレが来た。
私の目と鼻の先にいる穢れの塊。
これだけ近いと髪を燃やされそうで嫌だ。
この黒髪は私の唯一の自慢なのに。
「、……」
震えは止まった。
心臓の鼓動も止まったのか、どっどっど、というやかましい音はもう聞こえてはこない。
代わりに耳が痛くなるほどの静寂。
まるで時が止まったかのような錯覚。
その、永遠のような時間の中、私は庭を白く照らし上げている月の下で、横並びの塀の上に何かが在るのに気がついた。
「だれ……?」
ようやく搾り出せた言葉。
誰なのか、と問う。
人間なのか物なのかはわからない。
ただ、先程は無かったような影を見ただけで。
それでもこの鬼火を意識せずに済むのなら何でも構わなかった。
私の問いかけに答えてくれるとは思っていなかったけれど、意外にもその影は声を持ち合わせていた。
「よう」
まるで友人にでも声をかけるような気軽さで返事を寄越してきた。
だからこそ、もう一度問う。
「貴方は誰?」
今度はしっかりとした声と台詞で言うことが出来た。
目の前の影は月の正面に立っていて、月光を背に浴びているせいで面が真っ黒な物体にしか見えないけれど、返事をしたということは、少なくとも生物ではあるようだ。
だが――こともあろうかその影は、私の二度目の問いかけに、大声を上げて笑いはじめた。
「誰かときたか。こりゃあ傑作だな!」
「――――」
正直、ただの馬鹿笑いだ。
私の神経を逆撫でにするだけの笑い。
そこではたと気がついた。
――――聞き覚えのある、声?
「……まさか」
「くくくっ、まさかこんな幼稚な手にかかるなんてな」
影が立ち上がる。
同時に鬼火も、しゅぼっ、なんてしょぼくれた音と一緒に消えて亡くなった。
そうして私は確信する。
この影は、
「妹紅……!」
「せーかい。やっと気がついたか」
悠々と庭園に降り立つ怨敵。
どうやら今まで浮遊していた鬼火は彼女の仕掛けたモノらしい。
逆光のせいで表情が読み取れないが、きっと勝ち誇った顔をしているに違いない。
どうせ一部始終を見ていただろうから。
どうせ私が腰を抜かしていた姿も見ていただろうから。
どうせ――震える私の姿を見ていただろうから!
「いつからそこに!?」
「ずっとだよ。オマエさんが寝てる間も、ずっとな」
「……っ!」
がばっと布団を剥ぐ。
抜けてしまった腰は、今では何事も無かったように機能した。
慌てて立ち上がると、私も縁側の方へと足を運んだ。
「な、何してるのよ!」
「何って。ただの意地悪だよ」
「はぁ?」
呆れ返る私を一瞥すると、妹紅は下を向きながら話し始めた。
「オマエのところの兎が突っかかってきたんでね。そのお返し」
「突っかかって来たって……鈴仙が?」
むしろ突っかかって来たのはそっちなんじゃないのか、と言いたかったけれど、憶測で話をするのは良くない。
鈴仙も妹紅と同じくぶっきらぼうなところがあるし。
そんな私の考えはどうやら的中したらしく、妹紅はため息をつきながら答えた。
「そうだよ、全く。躾ぐらいしておいてくれよ」
「……わ、悪かったわ」
なんとなく屈辱的ではあるが、鈴仙も一家の一員だ。
家族の不始末は家族が謝罪するべきだろう。
「まぁ、そのおかげでいいモン見れたから良しとするか」
「…………」
――――前言撤回。
これはきっと妹紅の陰謀だ。
「本当に鈴仙がケチつけたの?」
「あぁそうだよ。私を見るなりそっぽ向きやがったし、面倒事を起こすなとか珍妙な事も言ってたな」
「それは往々にして貴方のせいじゃない……」
「何言ってるんだ。私がいつ、ここの住人に迷惑かけたんだ?」
「いつもでしょ。何せ私を何度も殺しているんだから」
逆に言えば、妹紅も何度も殺しているけれど。
「ハッ。もう姫でもなんでもないのに、大層なご身分だな」
「姫だったのは貴方もでしょう、妹紅。
――……ああ、そう言えば、貴方は望まれていない姫だったのよね?」
ビシ、と。
空間に亀裂が入ったような、気がした。
「――――なに?」
「だってそうでしょう? ずっと閉じ込められていたなんて、そんなの、」
邪魔者だったんじゃない、と告げる前に、熱風が目の前で荒れ狂った。
「……、っ」
チリチリと空気が焼けるような音と、焦げた臭いが広がる。
一瞬にして現れた妹紅の紅い翼。
背から生えるように出現した炎の塊が、ばさりとはためいた。
「よく言うぜ。オマエだって罪人のクセに」
一足で天空まで飛翔し、待ち構える妹紅。
どう見ても、決闘のお誘いだった。
仕方ない……私も飛ぶとしよう。
でも、仕方ないと言うのは間違いか。
こうなるように焚き付けたのは私だ。
彼女も私との殺し合いをしたいがために、こんな手の込んだ悪戯を敢行したのだろうから。
「始めますか」
とん、と縁側から足を離す。
今宵は月明かりも眩しいほどに輝いている。
そして時刻も適当だ、邪魔も入らないだろう。
もしかしたら永琳は気付いているかもしれないけれど、止めに来ないのだから放って置いても問題は無い……と思う。
私は妹紅と同じ高度まで上昇すると、颯爽と身構えた。
さぁ――――死合いの始まり始まり。
/
先制は藤原妹紅の火球だった。
彼女の右の拳から振り下ろされたソレが、敵対する蓬莱山輝夜の顔面へと一直線に飛んでいく。
しかし輝夜が少し体をずらしただけで、火の玉はいとも簡単にかわされてしまった。
「そんな遅い攻撃が当たると思って?」
惰性で地上へと落ちていく火球。
虚しく不発に終わるはずのその攻撃はしかし、妹紅にとって作戦の一部だった。
「何を言ってやがる。誰がオマエを狙ったって?」
「え?」
「私が狙ったのはあくまで、」
それだよ、と指差した先には、大きな屋敷が一つ。
古き和の建築様式を呈したその屋敷は永遠亭と言い、輝夜たちが現在住まう場所であった。
驚愕に目を見開く月の姫は、即座にその火球を対処しようと急下降する。
しかしそれは敵に背を向けると言うことに他ならない。
にやり、と妹紅の口端が吊り上る。
「馬鹿が!」
空いていた左拳で火球を作り直すと、今度は先程の火球とは比べようも無い速度でそれを打ち出した。
狙いはもちろん、輝夜の背中である。
妹紅に背を曝す格好にある輝夜に、その攻撃は見えていない。
結果――――完全なる不意打ちを喰らうことになった。
「ぐっ、っ」
被弾した瞬間、輝夜の表情が苦悶に歪んだ。
だが、そんなことは問題ではなかった。
戦闘開始から一分と経たずして、輝夜は二度目の驚愕を味わうことになったのだから。
「!?」
急降下中にダメージを受けた輝夜は、攻撃の勢いを殺しきれず、更に加速することに。
そして目の前には、家を守るため除去しようとしていた、第一の火球があった。
まさかの展開に目を剥くも、最早手遅れとしか言いようが無かった。
彼女に出来ることと言えば、目をきつく閉じて少しでも防御力を上げることだけだ。
「、きゃ、、、っ」
ど、っと鈍い音と共に体に衝撃が走る。
続いて目を閉じている輝夜に聞こえてきたのは、何かが燃える音だった。
もちろん燃えているのは自分の体と服である。
急いで体をばたつかせ火を消そうと試みるも、
「隙だらけだな」
いつの間にか距離を詰めていた妹紅に腹部を殴られ、悶絶する羽目になった。
「――――、ぁ」
くの字に折れ曲がった輝夜の体を、追い討ちをかけんとばかりに妹紅は大きくスイングし、その背に全力の蹴りを放った。
「ガ、ッ?!」
呼吸が詰まるような痛み。
それが妹紅に背を蹴られたせいだと輝夜が認識した時にはもう、眼前に地面が見えていた。
ぶつかる――――恐怖心が全身を襲った瞬間、彼女は咄嗟に両の腕を犠牲にする道を選んでいた。
その選択が正しかったのかどうか。
勢いよく落下した殆どの衝撃をその腕が吸収した結果、ぶちゃ、なんて不気味な音が耳に届いた。
それでも殺げなかったエネルギーが、蓬莱山輝夜と言う、体躯の小さな女を吹き飛ばす。
「――、っあ、ああ!」
一回、二回と地面に叩きつけられては浮かび、叩きつけられる。
それを四回繰り返した後、背中から竹林に突っ込んだ。
おかげで体は制止するに至ったが、その姿はもう戦闘不能と言わざるを得ない状態である。
右腕には突き出てしまった骨の先が見えている。
左腕はおかしな方向に曲がってしまった。
口からは血が細い線となって滴り、衣服にはまだ火種が残っている。
目も虚ろで、どう見ても死に体だった。
満身創痍な輝夜とは打って変わって、炎を操る妹紅は満面の笑みでゆっくりと空から降りてくる。
「よぉ、気分はどうだ?」
「…………っ」
答える気力も失われたのか、小さく口を開くだけで何も言葉は出てこない。
そんな仇敵を見て、妹紅はため息をついた。
「おいおい。さっきまでの威勢はどこへいっちまったんだ? たった手合わせ一回で終わりとかあんまりだぜ?」
「……が、ない」
「ん?」
「……がない、なぁ……もう……」
息も絶え絶えに、何かを呟く。
その顔は決して絶望に塗れているモノではなく――――むしろ嗤っていた。
「――――!?」
異変に気がついた妹紅が飛び退く。
しかし気付くのが数秒遅かった。
目が眩むほどの光量が、瞬時に二人の体を包む。
それは、輝夜の懐から発せられたものだ。
咄嗟に目を閉じた妹紅だったが、何故か痛むはずの目からは何の情報電流も流れてこなかった。
代わりに、
「ギ――、アぁああああああ……っ!」
想像を絶するほどの痛みを、右足が訴えてきた。
起きたことを視認することもせず、妹紅は痛みから逃れるために転げまわる。
背の翼は霧散して、素のままの彼女が露になった。
その様を、まさにたった今、多量の血を口から吐いた輝夜が見つめた。
ごふ――と、赤ではない、黒く汚らしい自分の血で胸元を濡らす。
そこには、蒸気の舞う大きな火傷の跡が展開されていた。
……まさに今のこの反撃は、捨て身の一手だったのである。
自分ごと焦熱で放った業は、神宝である『ブディストダイアモンド』によるモノだった。
白熱のレーザーで焼き払うブディストダイアモンド。
光の速さで動けるはずもない妹紅にとって、今の慢心は手痛い犠牲となって還ってきた。
輝夜の奇襲により、右足の踝から下を失うと言う結果を招いてしまったのだから。
戦闘不能に近いダメージを受けてしまっていた輝夜にとっては、自分の身まで削らなければ反撃自体出来なかったわけだが、瞬時に閃いた手としては最善だったに違いない。
結果が全てを証明している。
たとえそれが“不死”と言う特殊な条件のおかげであったのだとしても。
そして――お互いに同じように相当な深手を負っていても、浮かべている表情は全く異なっていた。
「ふふ……油断、だわね……」
「ぐっ、ぐぐ……、」
笑っている月人の輝夜と、苦虫を噛み潰したような渋面をしている地上人の妹紅。
しかし輝夜は奇襲が功を奏したとは言え、両腕は使い物にならず胸も抉れて内臓も深刻なダメージを残している。
だが妹紅はまだ右足を一本失っただけである。
不死同士の戦い、それも飛行出来るとあっては、足一本の損失など瑣末な問題だ。
地を蹴る力も、足で踏ん張る力もいらないのだから。
だからこの現状を振り返る限り、不利なのは輝夜の方だ。
地上人よりも遥かに優れているとされる、月人の存在。
その姫であった輝夜は、この状況をどう捉えているのだろうか。
「これで、仕切りなおし……ね」
「……ふ、ふん……私はまだ足一本だ、負けるはず、ない」
「それは――どうかしら?」
言って、焼け残った懐より取り出したるは、七色の玉をつけただけの、何の変哲も無い木の枝だった。
そんな棒きれ一本で何が出来るのか。
震える右手でかろうじで掴んでいる、その枝。
だがしかし、たかが枝に妹紅は警戒の色を示した。
あれは危険なモノだと、その顔が何よりも訴えている。
「ちっ。真打ち登場、ってか」
「ふふ……。蓬莱の玉の枝よ――――私に、今こそ」
輝夜の声に歓喜するように、玉と枝が光り輝き出す。
蓬莱の玉の枝――それこそが、その枝の真名だったのか。
握られた茎は金、七つの玉には虹を暗示するような七色が、それぞれに燈っている。
「これを使うのも、久しぶりね……」
「――そっちがその気なら、こっちだって」
言うが早いか、妹紅は髪を結っていた大きなリボンを解き、それを失った右足の先に巻きつけ縛り、もう一度背に炎の翼を生やして空へと舞った。
「今日は手加減なんてしないからな」
指貫に貼り付けられている札が、一斉に律動しはじめた。
文字色は黒から赤へと変化し、札を仄かな赤色に染め上げる。
そうして――吼えた。
「あ――――――ああああああああああああああああああああああ!!」
上体を大きく反らし、腹の奥底から声を上げる。
大気が震え、妹紅に同調するような咆哮を上げる。
それが合図なのか、妹紅の全身が炎に包まれた。
自殺行為のようなその発火現象こそ、彼女の大技の前触れなのである。
瞬く間に火力を増大していく妹紅の姿を、地上から見上げる輝夜。
その顔には笑みが張り付いていた。
「そっちも久々よね。まぁ……勝つのは私だけど」
まるで花火でも観賞しているかのような気楽さで、炎に包まれる妹紅を仰ぎながら大技の発動を待つ。
だが満身創痍の輝夜にはそれだけの余裕は無いはずだ。
それを承知で待っているのだとしたら、それはただの愚行に他ならない。
今ここで、手に持っている得物で攻撃すれば効率よく勝利を収められると言うのに。
それでも待ち続ける輝夜の顔は、やはり笑っていた。
「――――行くぞ」
準備が整ったのか、高らかに攻撃宣言をする藤原妹紅。
燃え盛る彼女の体には、再び翼のようなモノが生えている。
「いつでもどうぞ」
輝夜はそう返事をしつつ、手にした蓬莱の玉の枝をそっと口元に運ぶと、大胆不敵にも瞳を閉じた。
今から必殺の攻撃が迫り来ると言うのに、枝を持っていればそれだけで勝てるとでも言うのか。
「負け惜しみなんて聞かないからな。――――喰らえ、鳳翼天翔――――!!」
ずず、と重みのある音と共に妹紅の体から剥がれて行く炎の塊。
その塊には、目と嘴、それに翼が備わっていた。
月の罪人であるカグヤを断罪するかの如く現れたソレは、古来より、火より生まれいずる鳥として信仰されてきた『鳳凰』そのものだった。
火より生まれ火を纏い、天空を優雅にたゆたう霊鳥、鳳凰。
不死のシンボルともみられ、炎により罪を浄化する鳥を、蓬莱山輝夜に引けを取らぬ罪を犯した妹紅が作り出すのは何の因果か。
罪人によって生み出された鳳凰が、大きな口を開けながら全速力で輝夜へと肉薄していく。
対する輝夜は不動だった。
静かに瞳を閉じて、その場に佇むだけ。
煌々と輝く七色の玉たちだけが、今か今かと主人の命を待っている。
「万策でも尽きたか!」
嘲笑う妹紅の声も彼女には届いていない。
まるで悟りを開いた僧のように、穏やかに、そして緩やかに心を漂わせている。
それに何の意味があるのだろう。
もう目の前には不死鳥がいて、数秒の後に飲み込まれてしまうと言うのに。
「――――」
ごう、と熱と風とが身体に襲ってきた。
おそらくは次の瞬間には、劫火に包まれ葬られることだろう。
そう分析し、諦め――――
「――――玉の枝よ」
るわけもなく、輝夜は鋭く開眼した。
「夢色の郷を――――!」
ようやくだ、と待ちわびたと言わんばかりに、七色の玉、その全てが弾け跳んだ。
主人を守るようにして円状に散らばる七つの玉。
――瞬間、鳳凰が雄叫びを上げた。
空気を切り裂くような金切り声。
獲物を捕らえたと喜びをあげているのだろうか。
しかし――姿形は鳳凰とは言え、所詮は人の作りしものである。
贋作は作れても、本物の神を作ることは叶わない。
だからこの戦いでは、妹紅は少なくとも真贋に関わる業を繰り出してはいけなかった。
何故なら、輝夜の持つ蓬莱の玉の枝は、彼女が唯一所持する本物のアイテムなのだから。
「っ、づ?!」
「いっけ――――っ!!」
そのとき妹紅は良くないモノを見た。
自分の持てる全ての妖力を注ぎ込んで作り上げた火の鳥が、何かしらの力によって押し返されているのを。
それが輝夜によるモノだと気がついたときには、逃げる術も無かった。
妹紅は持てる全ての力を注ぎ込んだ。
だからこの攻撃は、防がれたり避けられたりしてはいけなかったのだ。
大技を撃った反動で彼女の体はもう、満足に動かすことも出来なかった。
体中が麻痺している感覚、とでも言うか。
小刻みに震えるだけで、指一本思い通りに動かせない。
そこへ突っ込んでくる自分の妖力の塊と、輝夜の満を持しての最大の攻撃。
「く――クソ」
何とかしなければ。
何とかしなくては。
何か――――何か出来ることは!?
「クッソォォオ……ッ!」
それが、この戦闘の最後のセリフとなった。
/
「――――はぁ」
夜空にかかる虹を見た私は、その場に崩れ落ちた。
妹紅の繰り出してきた巨大な火の鳥は、丁重にお返しした。
おかげで自分の攻撃と、私の攻撃を一気に受ける羽目になった妹紅は、被弾したあと燃えながら落下していった。
かくいう私も、もう限界。
夢色の郷が撃てただけでも僥倖に等しいと言っても過言じゃない状態である。
つまりは満身創痍、ボロ雑巾な感じだ。
「…………」
枝を放り出して夜空を仰ぐ。
こうしてゴロ寝をしているところを永琳に見つかったら、きっと怒られるんだろうな、なんてことを考えていたら、本当に足音がしてぎょっとした。
「ち、違うのよ」
慌てて取り繕う。
こんなところで寝転がっているのも疚しいことだが、それ以上に、妹紅との殺し合いの方が疚しいことだった。
ボロボロな現状を見られてしまっては、きっと近くにいる妹紅に止めを刺しに行くに違いない。
それだけは勘弁して欲しかった。
――けれど、どうやらそれは私の杞憂で。
「……なにがだよ」
やって来たのは、上半身真っ裸な妹紅だった。
「あら。……服、燃えたのね」
「おかげさまでな。足もまだ生えてこないし」
そう言うと、私の隣にどかっと座ってくる妹紅。
銀色の髪に月明かりが反射して、幻想的な輝きを放っている。
「なんだよ」
「な、なんでもない」
「風邪のせいで頭やられたか?」
「――あ」
そう言えば、私は風邪を引いていたのだった。
でも、もう悪寒も無ければ熱っぽさも無い。
つまり……治った?
「どうやら成功だな」
「な、何の話よ」
「いやさ、昔のことだけど。迷信みたいなのを聞いてね。『風邪のときに汗をかくと治りが早い』って」
「――――」
その一言で、色んなことが頭の中でフラッシュバックした。
思い出してみれば――そう、そうよ。
「ご明察。きっと考えてることは正解だ。いい汗かけただろう? 色んな意味で」
「な……な……」
鬼火のせいで嫌な汗をかき、戦闘のせいで冷や汗と運動汗をかいた。
妹紅は火を操る。
だから戦闘になれば自然と汗が吹き出るのは明白で。
私は、まんまと妹紅の掌で踊っていたことになる。
「で、でも。鈴仙は?」
「ああ、あの兎はいいように利用させてもらっただけだよ。でも、失礼千万だったのは間違いないがね」
「…………」
「嘘なんてついてないぞ、そんな顔しても」
「そ、そう?」
「ああ」
なんだか嘘のようだ。
目の前にいるのは藤原妹紅、優しさとは程遠い存在だ。
冷血で無愛想なのがウリなのに……。
「まぁでも、この梅雨時期でイライラしてたから、私も発散したくてね」
「結局そっちが本音でしょう!」
「バレたか」
「自分からバラしてるんじゃない……」
流石は私の怨敵だ。
一筋縄ではいかない。
妹紅は言いたいことは全部言い切ったようで、無言のまま仰向けに転がった。
……私も寝転びなおす。
「姫様らしからぬ格好だな」
「妹紅だって。姫様だったくせに」
「……そんなことは、ない」
消え入るような声で、否定する。
それはそうか。
何せ望まれぬ児として生まれてしまったのだから。
幼少期の殆どを監禁されていたのなら、姫としての待遇なんてこれっぽっちもなかったに違いない。
「でもな」
妹紅は言う。
「私は恵まれていたんだと思うよ。飢えることもなかったし」
「え?」
「この前慧音と話していたんだけど。貧しい者っているじゃない?」
「う、うん」
何で急にそんなことを言うのかと思ったが、話をあわせることにした。
「貧しい家に生まれたら、人間、それだけで不幸になるんだ。月の世界じゃ、貧富の差なんてあまりないんだろ?」
「あることにはあるけれど……そうね、地上よりかは遥かにマシね」
「明日どころか今日の飯の心配もしなきゃいけない。働いても働いても報われない。色々な貧しさがあるけれど、やっぱり飢える辛さは並大抵じゃないと思うんだ」
「飢え……」
私も妹紅も不死者だ。
だからひもじい思いをしても死ぬことは無い。
けれど普通の地球人は違う。
穢れた民は、生きるために食料がいる。
私のように楽しむためではなく、それこそ生存をかけた食事が。
生きるための食事を止められたら、あとは死ぬだけだ。
永遠ではない人々から見れば、飢えは最上の恐怖かもしれない。
「慧音の寺小屋にも、貧しい出のヤツがいるらしくてね。ビックリしたよ、この幻想郷でもそんな人がいるんだって。
外の世界じゃ世の常だったけれど、まさかここでも飢えを経験しているなんて」
「そう、ね」
妹紅に限らず、それは私も見てきた事実だ。
飢饉があれば人は犬でも同族でも食していた。
そのときは穢れのせいで見ていられず、全部穢れのせいだと思っていただけで、人間たちの苦しみなんて考えたことも無かったけれど。
「だから不死になるまでの間、そう言った苦しみを味わなかっただけでも、姫って立場だったんだなと、改めて思う」
「…………」
「月じゃ、食料を巡って争いなんて起きたことないだろ?」
「多分」
「こっちじゃ、争いの中心は大体権力か食料だった。そう考えると、月の国はいいところかもな」
それはどうだろう、と思ってしまった。
確かに食料でもめたことは無いけれど、人間と違って月の住人たちはみな心が殆ど無い。
永遠に近いせいか有限を卑下し、汚らしいと言う。
私もこちらに来て穢れてしまったせいか、感情と言うものがいかに大切なものなのかを認識し始めた。
永琳もきっと同じで、だからこそ最近では薬を作って売ったり、回診に周ったりしているのだろう。
だから月はいいところなのではなくて――――きっと、可哀想な場所だ。
手に入れられるはずのものを遠ざけて、手に入らないものだけを守り続ける、憐れな一族。
私はそこの姫だったのだ。
「……ここも」
「え?」
「この世界も、いつかは月の国のように――飢えない世界になるかな」
それは私の知る妹紅のセリフではなくて。
思わず目を点にしてしまった。
「いいや、忘れてくれ。どうもさっきのが頭まできいてるみたいだ」
妹紅は起き上がって、自分の頭をポカポカと叩いた。
それが照れ隠しなんだってことは、長い年月を付かず離れずで過ごしてきた私にはすぐわかる。
だから私は知らん振りをして、
「そうね。私たちが死ぬまでにはそうなるかもね」
「ならなきゃおかしいだろ」
「だからずっとならないかも、ってこと」
「ひでぇな……」
妹紅の心も、私の心も、地球では移ろいゆく。
月ではありえなかった現象が、ここでは普通にありえるのだ。
だから私の知らない妹紅が日々現れて、妹紅の知らない私が日々現れる。
この星に永遠は、無い。
穢れた地に両足をつけている私もまた、月人だったにしろ穢れていくのだから。
魂は永遠に彷徨っても――――心は永遠でありえない。
それが地球、それが地上。
私と妹紅が、これからも歩む道。
「これからも――――」
よろしく、と。
妹紅には聞こえないように、小さく囁いた。
☆★☆
「ようやく形になってきたな」
「私が毎日のように水をあげてるんだから当然よ」
「三日に一度しか来ないヤツが何言ってやがる」
「でも、こうやって本当に出来上がると嬉しいわね」
「茎を植えたんだから、ちゃんと育てれば普通は出てくるって」
「で? このサツマイモはいつになったら収穫できるの?」
「慧音が言うには、あと一ヶ月くらいらしい」
「へー。こっちから見てると葉っぱしかないけど」
「芋は地面の中にあるからな……って、おい! 抜くなよ!」
「なんで?」
「なんでって……育たなくなるだろうが!」
「また戻せばいいじゃない」
「はぁ……疲れる」
「早く子供たちに食べさせて上げれるといいわね」
「……ああ、そうだな」
「きっと喜んでくれるわ」
「喜んでくれなきゃ、心が死ぬ」
「体は死なないものね」
「そうだな。まぁ結局心もそのうち生き返るけどさ」
「確かに、ね」
それは燦々たる太陽の光の下、二人で笑いあった記憶の一部。
たとえ未来永劫、この世界から貧富の差が無くならないとしても。
みんなが飢えることだけは無くなるようにと動き出した、ある日の出来事――――
END
永遠を生きていく二人ですから、二人仲良くすごしていってほしいです。
文章も非常に丁寧で読みやすかったです。
あえて批評するならば、“――”が少し多かったのと、冒頭での引きの弱さがもったいなかったと感じました。
次回作も期待してます!
話はよかったです
話の構成や文章力は素晴らしいの一言につきると思います。
が、二次創作としてはちょっと弱いかなと。
キャラに違和感が感じられたのが残念な部分でした。
まだ東方世界に入って日が浅い印象で……。
それでも小説と言う観点では抜きん出ていると思うので、これからも東方だけにこだわらず沢山作品を作っていってください。
長文になってしまいましたが、とても面白かったです!
凄い量ですね(笑
でも輝夜かわいかった!
帝かっこよかった!
今回のも妹紅はともかく輝夜に萌えました。
文章もとても綺麗ですし、何より話しの運び方がうまい!
戦闘ではどきどきさせられてしまいましたし。
ただ、途中から飢えやら貧富の差やらが出てきてかなり暗めに・・・
それはそれで良かったですけど!
次回作があるみたいなので是非頑張ってほしいですね。
ちなみに通るかはわかりませんが、リクとしては翠香でお願いします!!
なんともらしい二人のやりとりは、見ていて安心できました。
しかし、それはまあ作者さんなりの考え方なのでしょう。
創作に対する真摯な姿勢は十分に窺えますので、その点ではとても好感が持てました。
今後の投稿も楽しみにさせていただきます。
前作から読ませてもらってます。
なんかこういう雰囲気がてるもこのいいところなんだと思います。
人間の心理描写を書くのがとてもうまくて、世界観も読んでいてすんなりはいっていく感じ。
でも言葉ややり取りがギクシャクしている感じに見受けられます。
人間が中心の物語というよりも世界からみた人間の物語という感じといえばいいのかな?
こうなると二次創作では弱く見えてしまうかも知れませんが、それだけしっかりとした土台があるということでしょう。
今後も期待してます。
さすがです、としか……
慧音も妹紅より上手な感じで、なんかちょっと茶目っ気を感じますなぁv
姫様をビビらせて風邪を治させようとする妹紅マジつんでれ
言い回しで気になる部分もありましたが、独特な筆使いで十分に楽しめました。
次回も楽しみにしてますので、頑張って下さい。
だが熱い