禍々しい妖気で溢れ、生き物が住むには厳しい環境である魔界。
無限ともいえる広さをもつ異界である。
その一角に位置する領域――法界は、力を求める妖怪や人間達にとっては格好の修行場でもある。
正確には、修行場であった。とするべきか。
地底から間欠泉が沸き、未確認という好奇の的が空を舞うまで
――八百年もの長きに渡る間、その地は牢獄であった。
聖白蓮。
それが、法界に封じられた者の名だった。
尼僧・白蓮はその身に得た法力を使い、艱難辛苦する者を救ってきた。
そこには人間と妖怪の区別無く、困窮する者であれば誰にでも白蓮の手が差し伸べられた。
しかし、その平等な行いは認められなかった。
当時の人々は妖怪という力在る存在に恐怖し、怯えていた。
その為に人々は白蓮に縋り、その力を受け入れていた。
しかし、退け、打ち払う対象である妖怪をも手助けしていると明るみに出た時、人々は裏切り者と怒り狂った。
毘沙門天の助力の下、白蓮は愛する人間達に「人外」として法界へと追われ、遂に封印されてしまったのだ。
皮肉にも、師であり弟である命蓮が残した霊験あらたかな飛倉の法力によって。
封印の地である法界は魔界の一部であり、当然環境は劣悪であった。
それどころか、何も無いのである。
生き物どころか、草木に類するものすら無く、ただただ乾いた荒野が広がるだけである。
そんな過酷な環境は、封印によって更に厳しさを増す。
封印によって閉じ込められた妖気は循環する事無く、その穢れを増すばかりとなる。
魔界の僅かな光源すら封印によって遮られてしまい、封印の赤黒く淡く滲む光だけが視界を確保していた。
法界は修行の場から、死に絶えて当然の世界へと変貌していた。
だが、白蓮はそんな世界で生き続けた。
老いと飢え、渇きを克服した彼女にとって問題だったのは、穢れた妖気に抗う為に自らの法力は発揮できない事であった。
が、封印は白蓮の力ではどうにもできなかった。
飛倉の力――命蓮の法力は絶大である。
飛倉の法力は飛倉でしか解く事ができない。
飛倉は錠前であり、鍵であった。
そして、この世界には文字通り何も無いのである。
何か法力で対処しなければならない時があるとすれば、封印が解かれた時のみであった。
それから白蓮は気の遠くなる年月を、修行に費やす事で過ごした。
法界は本来、修行に使われる場所である。
邪魔の入りようが無い為、集中するにはうってつけであった。
瞑想に耽り心神を鎮め、真言を百万遍唱え信心を育み、厳しい修練に勤しみ身心を鍛え、疲労すれば深々と眠りに就いた。
法力も、年々穢れ、重く圧し掛かる妖気に抗い続けることで衰えるどころか力を増していった。
修行に精を出し始めてすぐに、白蓮にとって不慮の事態が起こった。
封印を超えて感じ取れていた弟の気配――飛倉がどこか遠くへ行ってしまったのである。
この事に白蓮は一抹の不安を抱いた。
なぜなら飛倉が失われてしまっては未来永劫この封印が解かれないのである。
しかし白蓮はすぐさま自らの浅慮に恥じる。
あの飛倉は伝説に名を残す、弟・命蓮の遺物である。
たとえバラバラに破壊されてもその法力は失われることは無いだろう。
それに、遠く離れたとは言え僅かばかりの気配は未だに感じ取ることができる。
それは飛倉の健在を意味していた。
ならば、八十、百八十、八百と時を重ねればいつかは何者かが封印を解いてくれるかもしれない。
その確率はゼロでは無いのだ。
そして待ち続けて八百年、白蓮の淡い希望は遂に叶えられた。
自らを慕い続けてくれた妖怪達の尽力の末、法界の封印は解かれたのである。
白蓮によって助けられた妖怪と飛倉は地底奥深くに追いやられていた。
妖怪達と飛倉が地上に出られたのは、地下からの間欠泉のお陰であった。
その間欠泉が噴き出す原因となったのは、山に移り住んだ神が実行した計画。
その山の神が幻想郷へと移転する原因は、信仰を忘れた人間であった。
奇しくも、人の手によって封印された白蓮は、人の手によって解放されたのである。
再び自由になった白蓮は妖怪達と共に幻想郷に命蓮寺を構えた。
妖怪達は久方ぶりの現世に慣れていないだろうと白蓮に常に付き従った。
人里へ挨拶に向かった白蓮を待っていたのは驚きだった。
殺生、財宝目当てで無い限り、人間、妖怪の区別無く受け入れるとの言葉を、彼らはすんなりと受け入れたのだ。
妖怪に肩入れした為に封印された白蓮には信じられない光景だった。
それどころか、寺が本来は聖輦船――村紗水蜜が八百年以上の間預かっていた宝船だと知ると縁起が良いと持て囃されたのである。
それは妖怪達にも同じだった。
彼ら妖怪が喜んだのは、白蓮が目指す妖怪の救済よりも、殺生を犯さない限り祭られている毘沙門天が自分達を調伏しないという事だった。
寺は瞬く間に人間、妖怪双方に愛され賑わいを見せた。
封印から解放されて全ては順風満帆であった。
挨拶を終えたその日の夜。
白蓮を慕った妖怪達によって復活の祝いとしてささやかな宴が催された。
台所で腕を振るうのは雲居一輪とナズーリン。
雲居一輪は白蓮を姐さんと慕う入道使い。
ナズーリンは毘沙門天の使いである。
白蓮も手伝おうとするが、彼女は主賓である。
座って居てくれと宥めたのは村紗水蜜と寅丸星だった。
村紗水蜜は舟幽霊であり、聖輦船を任され船長を勤めている。
寅丸星は毘沙門天の代理として祭られ、唯一地底に封じられなかった。
なぜなら妖怪である事を黙っていたからである。
そして、封印と解放どちらにも重要な役割を果たした存在だった。
自分の為に尽力してくれた彼女達の言葉に白蓮は素直に従うしかなかった。
そして、いざ料理が運ばれるとなった時に村紗が一輪達を手伝いに向かう。
星もそれに続いた。
当然、部屋には白蓮がただ一人残る事になった。
法界から解放されて以来、一人になったのは初めてであった。
それはほんの僅かな時間であった。
すぐさま料理を持って、四人が部屋に戻ってくる。
その際、部屋に入った僅かな瞬間に見せた表情は、その場には相応しくない物だった。
怯えたように顔を強張らせていたのである。
だが、すぐさま白蓮は柔和な笑みを湛えると、四人を迎え感謝の言葉を述べる。
そして、その異変に誰も気がつかないまま始まった宴は、何事も無く過ぎ去った。
その夜、寺を開くまでの聖輦船での生活では皆が同じ部屋で寝起きしていたが、
寺という住居を得た為に部屋が割り当てられる。
だが、この夜白蓮の姿は寅丸星の寝所にあった。
就寝の際、白蓮は恥ずかしそうに星と一緒に寝たいと申し出た。
星は長い封印の為にきっと人恋しいのだろうと思い、了承する。
星はその様に考えたが、これが一輪や村紗ならば勘ぐる事無く二つ返事だったろう。
それに、星も白蓮とは二人きりになりたかったのだ。
己の弱さが招いた惨事を謝罪するために。
床に就き、星は懺悔する。
自らも白蓮に恩のある妖怪であったのに、毘沙門天の立場に引きずられて救出が遅れた事を。
その告白を、白蓮は感謝の言葉で受け止めた。
星が居なければ封印の解き方を知る者は居なかったのである。
白蓮にとって封印される原因は自らにあり、星に感謝する事はあれ咎める事など何も無かった。
そうして、二人は同じ布団で眠りについた。
夜半過ぎ。
目が覚めた星は、隣で静かに寝息をたてる白蓮を起こさないよう、静かに布団を抜け出す。
ひやりとする夜風に身を震わせて、厠に向かう。
白蓮が封印されていた間、寅丸星も寂れゆく寺で一人、孤独に過ごしていたのだ。
早く布団に戻りたいと思うのは、寒さだけのせいでは無かった。
部屋の前まで星が戻ってくると、スンスンとすすり泣く声が耳に届く。
何事かと思い部屋に入ると、両手で涙を拭う白蓮の姿があった。
心配して傍らに駆け寄った星に名を呼ばれた白蓮は、大粒の涙を零しながら抱きついた。
混乱する星はとにかく泣き止ませようと、白蓮の背中をさすり、落ち着くように何度も何度も声をかける。
ようやく落ち着いた白蓮に何があったのかを聞くと、拍子抜けするような答えが返ってきた。
目が覚めたら誰も居なかったから。
この言葉に星は厠に行っていたと説明するが、白蓮は子供の用に首を振る。
もう独りはイヤなの、二度と独りにしないでぇ、と。
星にしがみつく白蓮の手にぎゅっと力が込められ、星は簡単に押し倒される。
白蓮は涙にぬれた頬を、星の胸に何度も摺り寄せて身を震わせる。
あぁ、と星は嘆息する。
いくら人を超越したとは言え、元々短命の人間である。
八百年という長すぎる年月を孤独に過ごして、無事な筈が無かった。
聖白蓮は八百年の孤独を耐え抜いた。
謀らずも人々を裏切ってしまったという、己への反省とその罰への覚悟。
人々が自分の行動が理解される時代が来る事への理想。
飛倉が健在であるという希望。
それらに加え、瞑想による精神の安定。
信仰による心の支え。
身体の鍛錬による身心の健全維持。
磨り減った心が折れないように支える要素が十分にあったのだ。
八百年前の白蓮ならば、八百どころか、八千でも八万でも耐え抜く事はできただろう。
しかし、今の白蓮は解放され、心の支えが不必要になっている。
封印から解放されたと同時に覚悟は消失し、
人間と妖怪の共存が成功している幻想郷が、彼女の理想を奪い、
順風満帆な日常生活を失いたくないという執着が生まれ、
再度、永劫の孤独が訪れるかもしれないといった恐怖が磨り減った心の奥底深くに根を下ろしていた。
何よりも、他者の温かみを再認識した白蓮に、再度の孤独は到底耐えられないものだった。
押し倒された星は、服を握り締める白蓮の手に手を重ね、子供をあやす様に優しく髪を撫で付ける。
もう独りにしないから大丈夫ですよ、と何度も何度も囁く。
星の言葉と温もりに安心したのか、白蓮は次第に寝息をたて始めた。
目が覚めて誰も居ない。
きっと、独りで居るという事が白蓮の心の傷を開くのだろう。
封印されていた間、修行によって押さえ込んでいた恐怖心が沸き起こり、
心と精神を揺るがす混乱をもたらす。
そしてその恐怖と混乱によって心が更に傷つかないよう封印や孤独とは無縁な頃まで、幼児退行を引き起こすのだろう。
寅丸星はその夜、静かに寝息をたてる白蓮の手をずっと握り、髪を撫で続けた。
朝日が昇り、白蓮が正気に戻っている事を確認するまで。
翌朝、目が覚めた白蓮は昨晩の事は覚えていなかった。
星を押し倒していた事実に赤面し、慌てふためくばかりであった。
だが、星は手下のナズーリンを白蓮に付き添わせると、他の者達を呼び集めた。
昨晩の事を告げる為だった。
四人居れば、常に誰かが傍らに居られる。
もしも心の傷の事を知られてしまえば、白蓮への信仰が失われてしまうかもしれない。
それよりも、何より恐ろしいのは、孤独に陥った白蓮が壊れてしまうかもしれない事だった。
それ以来、白蓮の傍らには常に誰かがつき従うようになった。
人里の人間はそれを見て、徳の高い尼僧と褒め称え、妖怪達も、より一層の信頼を寄せた。
ようやく得られた自分以外の声と温もりは二度と手放したくないのもわかる。
でも、ひじりんには可哀想だがこっそりとベッドを抜け出して幼児退行させて抱きつかれてぇ
ていうかあとがきwwwこれで死ぬのなら悔いはない。
ただ作者さんの意図したことだろうとはいえ、やや文章が説明的に過ぎると感じました。
むしろようやく安心出来たからこそ、今は凄くもろいというか。しっかりとみんなで支えてあげて欲しいですね。
あとがきやめれww