「咲夜、唇から血が出てるわよ」
「えっ」
私の言葉に、咲夜は唇を軽く指でぬぐう。
その先が赤く染まったのを見て、「あら」と呟いた。
「厭ですわ。冬になると乾燥しやすくって」
そう言って微笑む咲夜の唇には、まだじんわりと血が滲んでいた。
……血。
咲夜の、血。
―――そのとき、私の中で何かが滾った。
「咲夜」
「はい?」
それは、無意識による衝動的行動であったと言って差し支えない。
「――――」
次の瞬間、私は咲夜の唇に付いた血液を、舌先でぺろりと舐め取っていた。
咲夜が大きく目を見開く。
「……なな、な、なにをなさるのですか! お嬢様!」
顔を真っ赤にして叫ぶ咲夜。
しかし私は構わず、そのまま彼女の血を口内で堪能した。
「……うむ。美味い」
活きの良いヘモグロビンが五臓六腑に染み渡る。
流石は完全で瀟洒な従者・十六夜咲夜の血液であると言わざるをえない。
そんな具合に、私が感慨に耽っていると。
「……はじめて……」
「えっ」
ふいに、小さな呟きが私の耳に届いた。
その方向を見れば、顔を俯かせ、スカートの裾をぎゅっとつまんでいる咲夜がいた。
「……はじめて、だったのに……」
「……?」
私が咲夜の言葉の意味を理解しかねていると。
「―――失礼します」
咲夜は私に背を向け、扉の方へと駆け出した。
「あ、おい。咲夜」
私の呼び掛けにも応じず、咲夜はそのまま部屋を出て行ってしまった。
……ありゃ。
もしかして、怒らせてしまったのかな……。
やはり無断で血液を頂戴したのがまずかったのだろうか。
でもたった一滴だしなあ……そこまで怒るようなことでもないと思うのだけど。
うぅむ。
「……そうだ」
困ったときは、まず相談。
私はすぐに、頼れる親友の眠そうな顔を思い浮かべた。
―――大図書館。
「……というわけなのだけど」
「ふむ」
私が悩みを打ち明けるに相応しい相手として、彼女の右に出る者はいない。
知識の魔女、パチュリー・ノーレッジが静かな声で私に告げる。
「レミィ」
「はい」
「今すぐ土に還りなさい」
「なんで!?」
思いもよらぬ親友の辛辣な言葉に私は狼狽した。
パチェは溜め息混じりに続ける。
「……本当に分からないの? レミィ。なぜ、咲夜が逃げ出したのか」
「う、うん……あ、いや待てよ」
「どうしたの?」
私は去り際の咲夜の言葉を思い出した。
「……そういえば、咲夜はこう言ってた。『はじめてだったのに……』って」
「そう! それよ! レミィ」
その瞬間、パチェの表情がぱあっと明るくなった。
どうやら的を射たらしい。
私は調子をよくして続けた。
「じゃあ、初めて他人に血を舐め取られたのが、あんな不意打ちのような形でだったから、それで怒ったってこと?」
「…………」
その瞬間、パチェの表情がまた眠そうなものへと戻った。
おかしいな。
私は何か間違ったことを言ったのだろうか。
するとパチェは、妙に優しい声色で私に言った。
「レミィ」
「はい」
「さっきの言葉を撤回するわ」
「! パチェ」
なんだ。
やっぱり私は間違ってなかったのか。
そう思い、私がほっと胸を撫で下ろした矢先。
「今すぐ大地の肥やしになりなさい」
「!?」
……結局、パチェはそれ以上何も教えてはくれなかった。
ちくしょう。
―――地下室。
「……というわけなのだけど」
「ふぅん」
私は次の相談相手として、我が妹、フランドールを選んだ。
フランは私と同じ吸血鬼なのだから、私と同じ立場に立って考えることができるはず。
そうすれば、咲夜が逃げ出した理由も分かるかもしれない。
「……分かったよ。お姉さま」
「! 本当か」
「うん」
無邪気な笑顔で頷くフラン。
やはりフランに相談してよかった。
そう思い、私がほっと安堵の溜め息をついたとき。
フランが無垢な笑顔を浮かべたまま―――四人に分裂した。
「……え? なんで、このタイミングでフォーオブアカインド?」
「大丈夫だよ、お姉さま。ちょっとお姉さまの両手両足をそれぞれ違う方向に引っ張るだけだから」
「いやそれ大丈夫じゃないよねどう考えても!?」
吸血鬼の力でそんなことをされたらどうなるのかなんて、火を見るよりも明らかだ。
フランは笑顔で言う。
「大丈夫だよ、お姉さま。吸血鬼は頭さえ無事なら再生できるから」
「いやいやいや!」
私は迫り来る四人の妹から逃げるようにして、地下室の扉から転がり出た。
……結局また、何も分からなかった。
ちくしょう。
―――咲夜の部屋の前。
その扉には、『お嬢様立ち入り禁止』という張り紙がされていた。
うーむ。
やっぱり咲夜は怒っているようだ。それも相当に。
しかしその理由がわからないのでは、こちらとしてもどうすればいいのかわからない。
「うぅむ……」
だからといって、このままここに立ち尽くしていても、事態は何ら進展しない。
ならば結局、何らかの行動に出る他ない。
「……仕方ないか」
私はすぅっと息を吸った。
意を決し、扉越しに声を掛ける。
「ねぇ、咲……」
「咲夜は今いません」
うわぁ。
間髪入れずに機械音声のような台詞が返ってきた。
「そう言わないで。話だけでもさせてくれないか」
「…………」
「なあ、咲夜」
「…………」
暫しの間。
これは駄目か。
そう思い、私が踵を返そうとしたとき。
「……どうぞ。鍵なら開いてます」
「えっ」
思わずドアノブに手を掛けると、拍子抜けするくらいにあっさりと開いた。
最初から施錠はしてなかったのか。
そのまま部屋に足を踏み入れると、すぐに咲夜の姿が目に入った。
メイド服のまま、ベッドの上で三角座りをしている。
「……何か御用ですか」
じとっとした目で私を睨む咲夜。
少し充血しているようだ。
もしかして泣いていたのだろうか。
「え、えっと」
「…………」
無言の重圧が私を襲う。
くそ、負けるなレミリア・スカーレット。
「わ……わからないんだ」
「……何がですか」
「その、咲夜が、なんでそんなに怒ってるのか」
「…………」
咲夜の視線が一層強張る。
なんかちくちくする感じだ。
「だから、その……教えてくれないか。お前が怒っている理由を」
「…………」
「それで、私に落ち度があったなら、謝るから」
「…………」
またも沈黙が場を包む。
胃が痛くなりそうだ。
だが今度は、それを先に破ったのは咲夜だった。
「……はじめて、だったんです」
「……確かに、さっきもそう言っていたが……一体、何がはじめてだったんだ? 他人に血を舐め取られたことがか?」
「…………」
咲夜はきゅっと目を細めた。
「……唇を奪われたのが、です」
「えっ」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ごめん咲夜、意味がよく」
「ファーストキス、という意味です」
「ファーストキス……」
……。
いや。
いやいや。
「私、咲夜にキスなんかした?」
「……舐めたじゃないですか。私の……唇を」
「それはそうだけど、でもそれってキスとは違うんじゃ」
「同じです」
「…………」
咲夜は私をきっと見据えたまま、続ける。
「乙女からすれば、唇に唇を重ねられるのも、唇を舌で舐められるのも、同じです」
「…………」
そうなのだろうか。
でも乙女の咲夜が言うのなら、まあそうなのかもしれない。
「じゃあつまり、私は咲夜のファーストキスを奪ってしまった……ということか」
「はい」
私の方の認識はともかく、咲夜にとっては、あれがキスに入ることに疑いはないようだ。
「……だから、怒ってたんだな」
「はい。乙女のファーストキスを一方的に奪っておきながら、そのことを微塵も認識していないお嬢様のデリカシーのなさに、私は怒ったのです」
「…………」
言い訳をさせてもらうと、私はあの行為がキスとして受け取られるとはまったく思っていなかった。
……まあでも、それは文字通り、単なる言い訳にしかならないんだろうな。
だから私は、素直に頭を下げることにした。
「わかった。わかったよ咲夜。ごめん。この通りだ」
「…………」
「ただ、わかってほしい。私はあくまで、お前の血が舐めたかっただけなんだ。お前の血を見て、本能的な衝動に駆られて、つい……」
「…………」
「だから、その……咲夜を傷つけるつもりも、怒らせるつもりもなかったんだ」
「…………」
またも静寂。
あぁ、胃がきりきりする。
「……いいです」
「えっ」
少し柔らかい感じの咲夜の声に、思わず顔を上げる。
「もう、いいです」
「咲夜……」
咲夜の表情から、さっきまでの刺々しさが消えていた。
私の心に安堵が満ちる。
「怒っていたのは本当ですけど……でも、私、よかったな、とも思ってるんです」
「えっ」
「はじめての相手が、お嬢様で」
「咲夜……」
どうやら咲夜は、ファーストキスを奪われたこと自体に怒っていたわけではないらしい。
私は救われたような気がした。
そして今度は、咲夜がぺこりと頭を下げた。
「……私の方こそ、申し訳ありませんでした。子供のような態度を取ってしまって」
「いや、いいよ。お前の気持ちももっともだ」
そう。
咲夜は、私の態度に怒っていたのだ。
咲夜のファーストキスを奪っておきながら、そのことに気付いてすらいなかった、この私の態度に。
だから私は、再び頭を下げた。
「今回は、全面的に私が悪かった。この通り」
「いえ、もう……いいですから。お顔を上げて下さい」
そう言われて顔を上げてみると、そこには、普段どおりの咲夜の笑顔があった。
「咲夜……」
「はい」
その瞬間、ようやく世界が色づいたような気がした。
窓の外からは、小鳥のさえずりも聞こえてくる。
「ありがとう。咲夜」
「……いえいえ。もうこの件は、これでおしまいに致しましょう」
そう言って、咲夜はベッドから降り立った。
しゃんと背筋を伸ばして瀟洒に。
そんな咲夜に、私は微笑みながら言う。
「……じゃあ早速、紅茶を淹れてくれるかい? いつもみたいに、美味しいやつを」
「はい。直ちに」
咲夜は、何事もなかったかのようにお辞儀をしてみせた。
こうしてすぐに元に戻れる関係が、私達なんだよね。
「……あ。お嬢様」
「ん?」
ふいに咲夜が、悪戯っぽい顔で言う。
「私の血も、お入れした方がよろしいでしょうか?」
「っ!?」
「……くすくす。冗談ですわ」
そう言い残して、咲夜は音もなく消え去った。
「……ったく」
相変わらず、ふざけたやつ。
調子を取り戻したと思ったらすぐこれだ。
「……でも」
私はふと、あのとき舐めた、咲夜の血の味を思い出した。
ほとばしるような苦味と酸味。
そのすべてが、私の味覚を蹂躙してやまなかった。
もし許されるのなら、もう一度味わいたいと思うくらいに美味だった。
そのとき、咲夜の言葉が私の脳裏をかすめた。
―――厭ですわ。冬になると乾燥しやすくって。
「……ふむ」
今度、河童に頼んで、除湿機でも作ってもらおうかしら。
私はそんなことを考えながら、くつくつと笑った。
了
それはもう、カリスマが消し飛ぶほどに。
でもそこから生まれるカリスマがある不思議。
そして乙女な咲夜さんにヒトメボレですわ。
ところで、削除した作品とやらが再投稿されるのはいつですかと小一時間問いつめたい
やっぱり、この二人のやりとりは最高ですわぁ。
しかしあれだ、読んでるときにパンデモニウムさんが頭をよぎ……いや、なんでもないです。
削除された作品、気、気になる!
ニブちんお嬢様に乙女咲夜さんとかおいしすぎる
読んでて2828が止まらなかったぜ・・・
こんどは本格的なキッスに挑戦ですね!待ってますww
と思いつつまりまりささんなら仕方ないと思う俺ガイル
お嬢様カリスマっぽい喋り方なのに、立場低いw
>言い訳をさせてもうと~
させてもらうと、でしょうか?
今回もご馳走様でした
従者に弱いお嬢様は最高です。
これは素晴らしく俺の求めていたレミ咲です。
この二人がいつまでも、そのほんわかした関係であるように…