『親愛なる、永遠亭の皆様へ――』
そんな書き出しの手紙が、永遠亭に届いた。
良く知った患者からの手紙で、後に続く丁寧な文字の並びが書き手の性格を伺わせる。それでも彼女らしからぬ、所々で線が震えているのはどうしてか。体の具合のせいで震えていたのかとも思ったが、雄弁に内心が浮き出る文面からして別な要因の方が強いと推測できる。
そんな流れるような言葉の羅列の中で、不恰好に波打ついくつかの文字は、普通であれば読み手の邪魔をするはず。
それでも手紙を開いた永琳には、輝いて見えた。
いずれは失われる命と知りながら、それでも机に向かい。必死で何かを伝えようとする。命が最後に激しく燃えるような幻想が、一文字一文字から浮き上がってくるよう。
「そう、それがあなたのささやかな願いであるなら」
さっきまで刺激臭のする薬品を準備していたせいか、それともこの熱い文面にやられたか。少しだけ鼻腔の奥が熱くなってしまう。年を重ねると涙腺が緩むという説もあるが、麗しき名医にはまだ該当しない言葉であろう。
瞼を下ろし、顔を上に向けながら。
感慨深く息を吐く。
長い三つ網を静かに揺らしながら瞳を開けば。
いつも変わらないはずの天井に、小さな蜘蛛の巣が張っていた。
◇ ◇ ◇
――言うまでもなく。
慧音は、いつも口うるさい。
緑の天蓋が夜空を覆い隠し、星たちの光が淡い光の筋でしか届かない場所。
竹の葉が敷き詰められた自然の絨毯の上で私はのんびりとした時間を過ごす。人里には暇つぶし程度に下りるけれど、生活用品を買い求めにいくか。気まぐれに寺子屋の様子を探りにいくだけ。昔は妖怪退治の依頼も引き受けていたものだけれど、異変を含めてその辺はこの世界の巫女に任せることにした。
だから、私は毎日を平坦に過ごす。その日常に変化があるとすれば、輝夜との深くて不快な付き合いくらい。しかし毎日そんな物騒なことをすると騒ぎになるので、数日に一回の周期を守っている。恨みというよりはほとんどもう、作業になりつつあった。自分の存在意義を確かめるための、そんな争い。争いがない日は、こうやって呆けたまま竹林を散歩しているだけ。
しかし、もう夜も遅い。
迷いの竹林をとおり永遠亭へこの時間から目指す人間もいないだろうし、そろそろ眠ろうかと一本の竹を背に座り込んだところで。
「こんばんは、いい夜だね。妹紅」
まるでそのときを見計らっていたかのように、長い髪の大人びた女性がいきなりやってきて、私を覗き込むように腰を折り挨拶してきた。ちょうど気持ちよくなってくる頃にやってくるので、維持を張って無視することもある。例えば輝夜のことを考えたりして虫の居所が悪いとき、そんなときは目を瞑ったまま視線を合わせようともしない。そうやって、ちょっとした意地悪をしていると。
どんっと地響きがするくらいの勢いで私の横に座り込み、額を爪でつんつんっと突付いてくる。
それすら無視していると、私が目を開けるまで指先の連打は止まらない。
額が赤くなろうとも繰り返してくるので、痛いし、地味だし、なんともいやらしい。仕方なく憂鬱な気分のまま瞼を持ち上げると、予想どおり。半眼状態で眉を吊り上げ、不機嫌そうに頬を膨らませた顔が私の視界一杯に広がる。そんな息がかかる距離まで詰め寄ってこなくても良いと思うのに。
「妹紅! 人が挨拶をしたら、挨拶を返す。これは人と人が出会ったときの最低限の礼儀じゃないかと私は思う。故人曰く、一期一会。その出会いが初めてだろうが、何度も繰り返されたことだろうが、誠意を持って相手に接するという心遣いが大事なんだよっ! 大体妹紅は最近いつもそうだ。私のことが邪魔なら邪魔と言ってくれてもいいんだぞっ!」
そんな鼻と鼻が触れ合いそうになるほどの至近距離から息巻いて来るのだから、もう生暖かい息が顔全体に襲い掛かってくる。何をそんなに興奮しているのかわからないけれど、瞳をじんわりと潤ませているし。
「誰も邪魔だなんて言ってないよ。いつも私が眠る頃にやってくる慧音が悪い」
そんな怒った顔を見ていると、少しだけ罪悪感が沸いてきてしまう。逃げるように背を向けながら横になり、今日は寝ると背中で語ってみるが。慧尾はそれを製するように後ろから私のわき腹に手を置いて。
「こんばんは……」
「はぁっ?」
また挨拶をしてきた。
不機嫌を装って短い返事をすると、今度はゆさゆさと私の体を揺らし始める。
「こんばんはっ!」
つまり、あれか。
これは挨拶を返せということか。段々と揺らす速度が上がっているし、そう思って間違いないだろう。まったく、慧音は本当に騒がしいなぁ。
「ああ、もう、うるさい。こんばんはっ! これでいい?」
維持を通してこれ以上激しく揺さぶられたら、酒も飲んでいないのに酔ってしまいそうだ。仕方なく私は半ば自棄で挨拶を返してみた。すると慧音の手が私の脇腹から消えて。
直後、不意に視界が暗くなる。
わずかに入り込んでいた星の光が雲で遮られたのかと、竹の葉をかさかさと鳴らしながら顔だけを上に向けて見れば。
ふわり、と。
私の視界を何かが覆う。
それは一瞬、ほんのわずかな時間だったけれど。
ゆるやかに流れる布地が、妙に印象に残った。
だって、そうだろう。
「……おーい。人の頭の上をスカート状態で飛び越えるのは誠意ある対応って言うんでしょうか。けーねせんせぇ」
「ん? 良い質問だ。妹紅くん」
いきなりそんな大胆な行動を取るのだから、驚くなという方が無理な話だ。
葉が地面に擦れる音を残し、私のすぐ前に着地した慧音はそんなことはお構いなしで、ぺたんっと地面の上に正座する。そしてまるで先生が子供に説明するときのように、指を一本立てて自慢気に胸を張る。
「挨拶を素直に返さない、不誠実な妹紅くんの反面教師を実践したまでだよ。わかったかね?」
「……誰のモノマネよ、それ」
「いや、なんとなく」
「ああもう、いいから寝かせてよ。今日はいろいろあって疲れたんだから」
「え、そうなの? 今日は輝夜との戦いはなかったのでしょう?」
「そうじゃなくても忙しいことがあるのよ、ほら、竹林の道案内とかね」
本当は嬉しかった。
どうしても他人との接触を避ける私に、踏み込んでくれる彼女の存在が。
輝夜とは別の付き合いができる、心の許せる存在としてとても大きかったから。でも私は意地を張る。
彼女の好意をうるさいと、跳ね除けようとしてしまうのだ。
そんな私の内心を知ってか知らずか。
どさっ
「うん、私も今日は疲れた。子供たちの宿題の採点が大変だったから」
「……じゃあ、なんで私前で寝転んでるわけ。疲れてるんならさっさと戻って、明日に備えるべきじゃない?」
彼女は良い意味で裏切ってくれる。
「いやいや、疲労が凄くてね。もう起き上がれそうにないんだよ。妹紅を飛び越えたことで最後の力を使い切ってしまったのかもしれないね」
「ああもう、ああ言えばこういう。……つまり、どういうこと? まさか朝までこのままとか言い出すんじゃ」
「ん? 拙いかな? どうしても拙いというなら、仕方ない。妹紅が私を背負って人里まで歩くしか……」
「絶対、イヤ」
「じゃあ、朝までこのままね。しかし、冷えるなぁ夜は。いくら竹の葉が柔らかくて自然の敷布団になるとは言っても、掛け布団かもしくは布、焚き火なんてあれば最高だとは思わないかね、妹紅くん」
「……だからその口調やめて。わかったから、準備するから」
いくら私が壁を作り上げても、それを軽々と乗り越えて私に近付こうとしてくれる。そのお礼が焚き火や布程度ならどうとでもなる。
ぱちぱちっ、と私と慧音の間に控えめに燃える火を作り出し。近くの洞の入り口で乾かしてあった毛布を掛けてやると。幸せそうに身じろぎして、屈託のない笑顔で私を見上げてくるものだから一気に体温が上がってしまった。
焚き火に照らされていたお陰でほんのり朱に染まった顔に気付かれなかったのが、唯一の救いだろうか。
そうやって二人、焚き火を挟んで寝転び。
どちらから口を開いたんだったか。
今日あったこと、昔のこと、そして将来のこと。大事なこと、くだらないこと。思い浮かんだことをただお互いにぶつけ合って。会話が止まったのは、慧音の口から寝息が零れ始めたときのことだった。
穏やかに、暖かく燃える焚き火に照らされ。
無防備な姿を堂々と私に晒してくる。
ああ、本当に。
慧音はうるさい。
そんな、耳に残る呼吸をされたら、私が寝られないじゃないの。
何故か悶々とした気分になってしまった私は、竹の落ち葉を鳴らしながら寝返りをうつことしかできず。
「んぅっ……もこぉ、うるさぁぃ……」
「あ、ごめん……」
何故か謝罪させられた。
うん、理不尽だ。理不尽すぎると思う、今日この頃の私。
――思い返してみれば、やっぱり。
うん、慧音はうるさい。
お節介って言うべきなのかな? まあ、それはそれとしてだ。私をからかって遊んでいるだけという気もして、ちょっと落ち着かない。
例えば――
日が変わる少し前の深夜。
慧音と談笑しているときに、昔のことを思い出して。
「また妖怪退治でもしようかな」
と、そうやってつぶやいただけなのに。
「駄目! そんな危ないことをしようとするなんて!」
だそうだ。
危ない? 誰が?
蓬莱の薬を飲んで不老不死になった私が?
そんなつまらないことを、身を乗り出して訴えてくるのだから驚きである。服が汚れることなど、お構いなしで。
ホントにもう。
私の方が大分年長者だというのに、いつもいつも自分が年上であるかのように命令してくるものだから困りものだ。
「大丈夫だって、私の妖力の強さよく知って――」
「危なすぎる! 山や森が!」
「そっちかぁ…… うん、まあ。いいけどさぁ……」
確かに、輝夜との争いでちょっとだけ山火事や竹林火事を起こした記憶はある。
でも小さな森の半分を焼いたり、妖怪兎たちから軽く非難が出る程度の損害しか出していないはず。それなのに、そうやってはっきり「あなたのことは心配していない」と表現されると、多少なりとも傷ついてしまう。
「少しくらいは……」
「ん? 心配してほしかったの?」
「そうじゃないけどっ! ぜんっっぜんっっ心配しなくていいけどっ!」
そうやってそっぽを向こうとする私に、慧音はどんっとその胸を叩いて見せる。
「大丈夫だよ、妹紅。ちゃんと私が守って――ゲホッこほっ」
「……力いっぱい叩き過ぎた?」
こくこく、と、咳を吐き出しながら涙目で首を縦に振る。
どうやってこんな慧音に頼れっていうのかしら。
「……けほっ! む、その目は人を信用していない目に見える」
「そこでどうやって慧音を信用できるのかを証明してほしいものね」
「ふむ、私が信用できないことの証明は無理というもの。何かの否定を証明するのは、悪魔の証明といってね。ほぼ不可能なんだよ。そのせいで歴史上悲しい事件に使われたことが多くて、魔女裁判という事件でも似たようなことが起きたとある」
「で、誤魔化そうとしているわけね」
「……そ、そんなことはないよ。私だってハクタクになればどんな妖怪だって」
「ハクタクになれればねぇ、いつも、ねぇ」
「うぅぅ……」
顔を赤くして縮こまっていく姿を見ていたら。
自然と、笑みが漏れた。
いつも私にちょっかいを出すのだから、今日くらいはやり返してもいいだろう。
「やっぱり、慧音は私がお守りしてあげないと駄目かな?」
意地悪っぽく膝を抱えながらそう言うと、慧音は何故か悔しそうにするでもなく。満足そうに微笑みを浮かべるだけ。さきほどまであたふたしていたのが嘘のようだった。
「よし、今日も守れた」
「何が?」
「いや、私にとっての単なるこだわりだよ」
言っていることがよくわからないけれど、それ以上聞いても『良い事だよ』としか言わないので聞かないことにした。
ただ、結論としてはやっぱり、慧音が私を守るのは無理だと思う。
どちらかと言えば、私が守らないといけない気がするし。
それでも慧音は私を守る、とうるさかったけれど。
そのうるささは、私には少しだけ心地よかった。
◇ ◇ ◇
それから少しだけ、慧音は忙しくなった。
寺子屋という仕事の他に、人里の自警団の長という役職を引き受けてしまったから。おそらく誰かに頼まれて嫌とは言えず、なし崩し的に任命されたのだろう。
昼は子供たちの相手。
夜は人里の警備。
私と会えるのは、寺子屋が休みの週一回になり。
私と会うときはいつも疲れきっていた。
会えたときも、ずっと私の側で昼寝をして過ごすことも多かった。きっと、慧音の性格だから、仕事中は笑顔で辛くてもそれを表に出さない。無理をしているに違いない。
冗談で言ったはずの、
『私が慧音を守る』
という言葉が、現実になってしまった。そう錯覚してしまう。
私の膝の上に頭を置いて眠る慧音の髪を掬っていると、なんだろう。どうしても助けてあげたくなるような、感情が溢れてきて人里に直談判したくなるところだが。
任期が終わるまでは頑張る。
慧音に頑なな態度で断られた。
半人半獣だから大丈夫だ、と。
しかし博霊の巫女も代がわりし、紅魔館でも多少人員の配置変更があった。妹紅が何も変わらない中で確かに時代は動いている。
出会った頃の年齢を考慮すれば。
少なく見積もっても慧音は100年近い年月をその身に重ねている。しかもハクタクという化け物を人間の体に収めて、だ。
それがどれほどの負担になるのか。
それとも雑貨屋の主人のように長命の要因に働くのか。
私にはわからなかった。
けれど、私は不安でしょうがなかった。
この膝の上に乗る感触がいつか消えてしまうんじゃないかと。
疲れ果てた慧音を見たら毎日毎日その不安が大きくなって。
ついに、ぷつり、と。
慧音からの連絡が、途絶えた。
一週間置きに。
一度も休まずに足を運んでいたその姿が、まったく見えなくなった。
できるだけ、いつもと同じ場所に。
慧音が見つけやすい場所にいるのに、二週間たっても、三週間たっても。
一ヶ月たっても、連絡すらない。
うじうじしているくらいなら人里へ行け。
誰だってそう思うだろう。
私だって、そう思ったよ。
でもね、足が動かなくなる。
もし寺子屋に行って、知らない先生が教えている姿を見たら、私はどうなってしまうだろう。もし寺子屋が休みで、ほっとしたとしても。その軒下に人の死を告げる提灯が下げられていたら。
私は、正気でいられるだろうか。
泣き叫ぶだけで、終わるだろうか。
不老不死となってから、いままでこうならないようにと、人との繋がりを避けたというのに。
あっちから心の中に入り込んできて。
引っ掻き回して。
一緒にいたいと思わせておいて。
いったい何のつもりなのか。
最低だ。
今日から、慧音は最低な女だって言い続けるんだから。
もしそれが嫌なら、早く私に謝りに来なさいよ。
手紙でもなんでもいいから、謝罪しなさいよ。
お願いだから……
声でも、姿だけでもいいから。
あなたがまだこの世界にいる。
そのことだけを証明して。
『ない』ことの証明なんてしなくていいから。
『ある』とだけ、示してよっ!
慧音! 慧――
「何て情けない顔をしているんだろうね、妹紅は」
「――け、慧音っ!」
「そうだよ、私があの蓬莱人にでも見える?」
「いや、そうじゃない! そうじゃないけどっ! ああもう、馬鹿っ! 大馬鹿!」
やっと会えた。
いつもよりも、少しだけ明るい夜に。
緑の天蓋から星々が瞬いて、出会いを祝福しているようにすら感じた。
私は二ヶ月間溜めに、溜めつづけた想いを吐き出しながら。
その懐かしい姿へと。
青く、美しい髪の彼女へと駆け寄った。
「……久しぶりに会えて嬉しかったのに、馬鹿って言われたときの悲しみは格別ね」
「だってそれは、慧音が私に連絡をよこさないから。人里にやってくる鈴仙を捕まえて、手紙くらい送ってくれてもいいじゃないのっ!」
夜空から竹林に差し込む淡い光、その筋の降りる中で慧音は髪を掻き上げ、光沢のある美しい波を空中に舞わせる。
見惚れるほどの流麗さは私の瞳に容易に焼き付くけれど。
こっちがこんなに心配しているというのに、慧音の余裕は少し私をむっとさせた。
少しくらい私のことを考えてくれてもいいのに。
「こちらも寺子屋が忙しくてね。夜は見回りもしないといけなくて。今日はそちらを休ませてもらったの」
「へえ、慧音が休むなんて珍しいこともあるね」
「私だって二ヶ月も妹紅と会えなかったら気になるから、早く会いたくて」
そう言ってくれるだけで、嬉しい。
会えてよかったと思う。
潤んだ瞳のせいで、その輪郭がはっきりしないけれど。
今夜はいつもより忙しいはずなのに、わざわざ来てくれるなんて。
だって、今夜は――
「……ねぇ、慧音?」
「どうしたの?」
そうだ、今夜は――
「……今日はゆっくりできるの?」
「ごめんなさい、どうしても外せない用があってね。少しだけお願いがあってきたの」
「……そっか、どんなお願い?」
「妹紅が人里にくるのに抵抗があるのは知ってるけど、明日、人里に来て欲しいの。ほら、しばらく会えなかったから久しぶりに話がしたくて、お休みを貰ったから」
「そう。お休みなんだね」
「ええ、ゆっくりと語り合いましょう」
慧音はそれだけ言い残して背を向けると、私から離れていく。
青が貴重の服と、その服よりも薄い色の髪を風に揺らして。
そうやって揺れる慧音の髪よりも少しだけ遅れて。
ざわざわ、と。
竹が葉をすり合わせる音が響いた。
続いて静寂がその林に満ちる。
慧音が地面を踏む足音だけが小さくなっていく中で、私はその背中に向かって声を投げ掛けていた。
歯を、食いしばりながら。
「ねえ、輝夜?」
「何かしら、妹こ――」
慧音が振り返った瞬間。
音が、消えた。
風が止み、慧音も足を止めたから。
単純に言えばそれだけ。
たったそれだけのことなのに。
風景の中のすべて、空や大地すら呼吸を止めてしまったかのようなそんな錯覚を覚えた。
輝夜が刹那を操ったわけでもないのに、空間に流れる時間が引き延ばされ。永遠に近い時間が私を包み込んだ。
私の瞳は、ただ一点。
驚愕で身体を固めた、慧音の姿をした別の誰かを見つめ続ける。
永い数秒の無音を切り裂いたのは。
幸か不幸か。
ざわざわと、背の高い観客が体を揺らし始める音だった。
「残酷ね。月に暮らす者たちは、こんな仕打ちを平気でするの? 私の父上の恋心を弄んだだけじゃなく、慧音の姿を使って私を馬鹿にする」
私は、抑揚のない声を響かせて輝夜を見る。
彼女はまだ慧音の姿をしたまま、まるで見下したように地面から浮かび上がった。何を警戒しているのかと疑問に思ったが。何、問うまでもなかった。
私の右腕から、いままで感じたことのないはずの熱量が自然と吹き上がっていたから。
「あらあら乱暴ね。さっきまでは、馬鹿ぁ、大馬鹿ぁって叫びながら子供のように走ってきて、あんなに可愛らしいかったのに。あなたも貴族の血筋を持つものなら多少の気品を持ち合わせていた方が良いわよ?」
慧音の姿のままで……
そんな姿で、へらへらと笑い。
大事な私の想いを汚す。
「それは鈴仙の仕業ね。波長を狂わせて、姿を別物に見せる」
「あら、その足りないおつむでよく気が付いたわね。ただし、それ以外にも永琳の薬の効果が混ざっているから。見破るなんてできないと思ったのに」
「本気で言っているの?」
「ええ、かなり」
「それなら、足りないのはそっちの脳味噌ね」
「あら、それならご教授願えるかしら、あなたが気づいた要因とやらを」
確かに、あの二人の協力があれば完璧に近い幻術を見せるくらいわけがない。
しかし足りない。
姿だけでは、圧倒的に。
知識も想いもない上辺だけの幻覚で騙せる筈がない。
「まず一つ、私に挨拶をしなかった」
最初に、違和感を感じるべきだった。
あれほど挨拶は大事とうるさく言っていたのだから。
「そしてもう一つ、私の前で永遠亭の住人を示す言葉を口にしない」
それを聞くと、過去のことを思い出し私が悲しむと思っているのだろう。
慧音は私から振らない限り、決して出すことはなかった。
そんな違和感の連鎖を、冷静に考えるべきだった。
しかしそんなことより。
「まだ、あるのかしら?」
もっと致命的な欠落が、ある。
失敗なんて簡単な言葉で示せないほど、愚か過ぎる失態が。
「空を見てみなよ、そこに答えがある」
私が攻撃してもすぐ空へと逃げられるように、輝夜は葉の天井の隙間。空が見える穴の下にいた。
だから、見えるはずだ。
そうやって半身を空に向けただけで。
雲ひとつない、空に溢れる濃紺。
その中で瞬く幾千、幾万の星たち。
そして――圧倒的な存在感を示す、金色の円。
「……そう、だったわね。今夜は」
今宵の月は――『満月』
慧音の姿が変わり、ハクタクの力を最も強く具現化させる日。
いつもと同じ姿のはずがないのだ。
だと言うのに、私はそれに気が付かず。
慧音が来てくれたと信じ、醜態を晒した。
「あらら、ここまで下手を踏むなんて、私も油断しすぎたかしら」
「余裕見せすぎなのよ、間抜けっ」
「その言葉、そっくりそちらにお返しするわ。甘えん坊の妹紅さん。さあ、今日は何をするの? 決して滅びない私たちの娯楽を始めるのでしょう?」
勝負か。
弾幕勝負なんて生ぬるいものじゃない。
ただ相手の命を何回滅ぼすか、それだけの享楽。それを私が怒りのままに求めていると輝夜は考えているんだろう。だからああやって、いつでも反撃ができるよう空中で手を下に向けている。
でも、私の感情はそんなんじゃない。
「ねえ、輝夜。正直答えて」
「何、いまさら会話なんて怖気づいた――」
「慧音は、あとどれくらい持つの?」
「――っ!」
私が今怒っているのは、慧音と輝夜を見間違えた自分に対してだけ。
だってそうだろう。
あのまま何事もなく輝夜がここを離れていれば、単なる伝言役として役割を終えていた。波風も立たないまま終わっていたはずだ。確かに、はっきり違うとわかったときは輝夜に対する怒りも同時に吹き上がった。
けれどそれは一瞬――
私は知っているから。慧音の次に、永遠亭のやつ等のことを。
輝夜は確かに私を挑発することはあるが、こんな陰湿なことはしない。
てゐも、後から笑えるようないたずらしか仕掛けない。
永琳だって、私のことを良い輝夜の相手としか思っていない。
鈴仙はどちらかと言えば厄介ごとを嫌うから、進んでこんなことはしない。
だからもし、こんな手の込んだことをして。
私を励まそうとする人がいるとすれば……
「教えてよ…… 永遠亭が私より先に慧音のことを知っているってことは、そういうことなんでしょう? ねぇ、お願いだから……」
慧音しかいない。
そう考えたら、空白の二ヶ月間のすべてが形を持つ。
空白の時間の間に、おそらく慧音の身体に何か異常が起きて、永遠亭の世話になり。そのまま外出もできなくなった。
だから、頼んだ。
私が少しでも寂しくしないように。
少しでも、悲しませないように。
「短くて明日、持って十日。それが……永琳の結論よ」
俯いて、吐き捨てるように輝夜が声をぶつけてくる。
ああ、だから。
明日までに人里へ行けといったのか。
「……病名は?」
「老衰よ。自然界の獣は老い始めたら早いらしいから。ハクタクの血のせいかもしれない、と」
「そうか、はは、老衰か……なら、慧音は天寿を全うしたことになるのね」
「ええ、少しだけ人間より永く生きた」
「……私たちからしたら、全部同じ」
「そうね……」
永遠の命を持ってしまった者の、罪。
輝夜が、俯き、必死に何かに耐えているのは。
慧音と誰かを重ねているからかもしれない。
「わかったでしょうっ! わかったなら早くいきなさいよっ! 竹林で汚れた体を洗って人里へ、時間なんて残されていないんだから! この馬鹿っ」
「言われなくてもそうするよ、この馬鹿……でも、こういうときはちゃんと言えって慧音が言ってたし」
たぶん、私の顔はぐしゃぐしゃになってる。
怒りとか悲しみでどんな表情かはわからないし。
涙や汗ですっかり濡れてしまった。
でも今だけは、そんな顔じゃなくて。
「ありがとう、輝夜」
今できる最高の笑顔で。
初めて、あの馬鹿に感謝した。
◇ ◇ ◇
それから、20日後。
慧音は息を引き取った。
まさかこんなに命が続くなんて奇跡だと、あの名医が言っていたけれど。
結局。長いか、短いかなんだよね。
きっと、慧音が旅立つとき私は泣きじゃくっていただろうから、偉そうなこと言えないんだけどさ。あのあと寺子屋に行ってわかったことがあったんだ。
ほら、慧音ってさ。
『守りたいもの』があるって言ってたじゃない。
私もそのことずっと忘れてたんだけど、寺子屋の壁をぼぅっと見てたらわかったんだよね。
『一日一笑』
綺麗な字でそう書かれた習字紙を見つけた。
一日一善と書いてある紙の横に貼ってあるのがとても印象に残ってね。だからわかったんだと思う。ああ、そういえば、慧音っていつも私を笑わせてくれたんだなって。やっと気が付いた。
だから、笑うことにするよ。慧音。
笑って、ここで暮らす。
意地でもあなたの居場所を守るから。
安心して転生してくるといい。
でも、一つだけ忠告。
寺子屋で不老不死のお姉さんを見つけても、怖がらずしっかり挨拶してよ。
「はじめましてっ!」
って、うるさいくらいにさ。
そんな書き出しの手紙が、永遠亭に届いた。
良く知った患者からの手紙で、後に続く丁寧な文字の並びが書き手の性格を伺わせる。それでも彼女らしからぬ、所々で線が震えているのはどうしてか。体の具合のせいで震えていたのかとも思ったが、雄弁に内心が浮き出る文面からして別な要因の方が強いと推測できる。
そんな流れるような言葉の羅列の中で、不恰好に波打ついくつかの文字は、普通であれば読み手の邪魔をするはず。
それでも手紙を開いた永琳には、輝いて見えた。
いずれは失われる命と知りながら、それでも机に向かい。必死で何かを伝えようとする。命が最後に激しく燃えるような幻想が、一文字一文字から浮き上がってくるよう。
「そう、それがあなたのささやかな願いであるなら」
さっきまで刺激臭のする薬品を準備していたせいか、それともこの熱い文面にやられたか。少しだけ鼻腔の奥が熱くなってしまう。年を重ねると涙腺が緩むという説もあるが、麗しき名医にはまだ該当しない言葉であろう。
瞼を下ろし、顔を上に向けながら。
感慨深く息を吐く。
長い三つ網を静かに揺らしながら瞳を開けば。
いつも変わらないはずの天井に、小さな蜘蛛の巣が張っていた。
◇ ◇ ◇
――言うまでもなく。
慧音は、いつも口うるさい。
緑の天蓋が夜空を覆い隠し、星たちの光が淡い光の筋でしか届かない場所。
竹の葉が敷き詰められた自然の絨毯の上で私はのんびりとした時間を過ごす。人里には暇つぶし程度に下りるけれど、生活用品を買い求めにいくか。気まぐれに寺子屋の様子を探りにいくだけ。昔は妖怪退治の依頼も引き受けていたものだけれど、異変を含めてその辺はこの世界の巫女に任せることにした。
だから、私は毎日を平坦に過ごす。その日常に変化があるとすれば、輝夜との深くて不快な付き合いくらい。しかし毎日そんな物騒なことをすると騒ぎになるので、数日に一回の周期を守っている。恨みというよりはほとんどもう、作業になりつつあった。自分の存在意義を確かめるための、そんな争い。争いがない日は、こうやって呆けたまま竹林を散歩しているだけ。
しかし、もう夜も遅い。
迷いの竹林をとおり永遠亭へこの時間から目指す人間もいないだろうし、そろそろ眠ろうかと一本の竹を背に座り込んだところで。
「こんばんは、いい夜だね。妹紅」
まるでそのときを見計らっていたかのように、長い髪の大人びた女性がいきなりやってきて、私を覗き込むように腰を折り挨拶してきた。ちょうど気持ちよくなってくる頃にやってくるので、維持を張って無視することもある。例えば輝夜のことを考えたりして虫の居所が悪いとき、そんなときは目を瞑ったまま視線を合わせようともしない。そうやって、ちょっとした意地悪をしていると。
どんっと地響きがするくらいの勢いで私の横に座り込み、額を爪でつんつんっと突付いてくる。
それすら無視していると、私が目を開けるまで指先の連打は止まらない。
額が赤くなろうとも繰り返してくるので、痛いし、地味だし、なんともいやらしい。仕方なく憂鬱な気分のまま瞼を持ち上げると、予想どおり。半眼状態で眉を吊り上げ、不機嫌そうに頬を膨らませた顔が私の視界一杯に広がる。そんな息がかかる距離まで詰め寄ってこなくても良いと思うのに。
「妹紅! 人が挨拶をしたら、挨拶を返す。これは人と人が出会ったときの最低限の礼儀じゃないかと私は思う。故人曰く、一期一会。その出会いが初めてだろうが、何度も繰り返されたことだろうが、誠意を持って相手に接するという心遣いが大事なんだよっ! 大体妹紅は最近いつもそうだ。私のことが邪魔なら邪魔と言ってくれてもいいんだぞっ!」
そんな鼻と鼻が触れ合いそうになるほどの至近距離から息巻いて来るのだから、もう生暖かい息が顔全体に襲い掛かってくる。何をそんなに興奮しているのかわからないけれど、瞳をじんわりと潤ませているし。
「誰も邪魔だなんて言ってないよ。いつも私が眠る頃にやってくる慧音が悪い」
そんな怒った顔を見ていると、少しだけ罪悪感が沸いてきてしまう。逃げるように背を向けながら横になり、今日は寝ると背中で語ってみるが。慧尾はそれを製するように後ろから私のわき腹に手を置いて。
「こんばんは……」
「はぁっ?」
また挨拶をしてきた。
不機嫌を装って短い返事をすると、今度はゆさゆさと私の体を揺らし始める。
「こんばんはっ!」
つまり、あれか。
これは挨拶を返せということか。段々と揺らす速度が上がっているし、そう思って間違いないだろう。まったく、慧音は本当に騒がしいなぁ。
「ああ、もう、うるさい。こんばんはっ! これでいい?」
維持を通してこれ以上激しく揺さぶられたら、酒も飲んでいないのに酔ってしまいそうだ。仕方なく私は半ば自棄で挨拶を返してみた。すると慧音の手が私の脇腹から消えて。
直後、不意に視界が暗くなる。
わずかに入り込んでいた星の光が雲で遮られたのかと、竹の葉をかさかさと鳴らしながら顔だけを上に向けて見れば。
ふわり、と。
私の視界を何かが覆う。
それは一瞬、ほんのわずかな時間だったけれど。
ゆるやかに流れる布地が、妙に印象に残った。
だって、そうだろう。
「……おーい。人の頭の上をスカート状態で飛び越えるのは誠意ある対応って言うんでしょうか。けーねせんせぇ」
「ん? 良い質問だ。妹紅くん」
いきなりそんな大胆な行動を取るのだから、驚くなという方が無理な話だ。
葉が地面に擦れる音を残し、私のすぐ前に着地した慧音はそんなことはお構いなしで、ぺたんっと地面の上に正座する。そしてまるで先生が子供に説明するときのように、指を一本立てて自慢気に胸を張る。
「挨拶を素直に返さない、不誠実な妹紅くんの反面教師を実践したまでだよ。わかったかね?」
「……誰のモノマネよ、それ」
「いや、なんとなく」
「ああもう、いいから寝かせてよ。今日はいろいろあって疲れたんだから」
「え、そうなの? 今日は輝夜との戦いはなかったのでしょう?」
「そうじゃなくても忙しいことがあるのよ、ほら、竹林の道案内とかね」
本当は嬉しかった。
どうしても他人との接触を避ける私に、踏み込んでくれる彼女の存在が。
輝夜とは別の付き合いができる、心の許せる存在としてとても大きかったから。でも私は意地を張る。
彼女の好意をうるさいと、跳ね除けようとしてしまうのだ。
そんな私の内心を知ってか知らずか。
どさっ
「うん、私も今日は疲れた。子供たちの宿題の採点が大変だったから」
「……じゃあ、なんで私前で寝転んでるわけ。疲れてるんならさっさと戻って、明日に備えるべきじゃない?」
彼女は良い意味で裏切ってくれる。
「いやいや、疲労が凄くてね。もう起き上がれそうにないんだよ。妹紅を飛び越えたことで最後の力を使い切ってしまったのかもしれないね」
「ああもう、ああ言えばこういう。……つまり、どういうこと? まさか朝までこのままとか言い出すんじゃ」
「ん? 拙いかな? どうしても拙いというなら、仕方ない。妹紅が私を背負って人里まで歩くしか……」
「絶対、イヤ」
「じゃあ、朝までこのままね。しかし、冷えるなぁ夜は。いくら竹の葉が柔らかくて自然の敷布団になるとは言っても、掛け布団かもしくは布、焚き火なんてあれば最高だとは思わないかね、妹紅くん」
「……だからその口調やめて。わかったから、準備するから」
いくら私が壁を作り上げても、それを軽々と乗り越えて私に近付こうとしてくれる。そのお礼が焚き火や布程度ならどうとでもなる。
ぱちぱちっ、と私と慧音の間に控えめに燃える火を作り出し。近くの洞の入り口で乾かしてあった毛布を掛けてやると。幸せそうに身じろぎして、屈託のない笑顔で私を見上げてくるものだから一気に体温が上がってしまった。
焚き火に照らされていたお陰でほんのり朱に染まった顔に気付かれなかったのが、唯一の救いだろうか。
そうやって二人、焚き火を挟んで寝転び。
どちらから口を開いたんだったか。
今日あったこと、昔のこと、そして将来のこと。大事なこと、くだらないこと。思い浮かんだことをただお互いにぶつけ合って。会話が止まったのは、慧音の口から寝息が零れ始めたときのことだった。
穏やかに、暖かく燃える焚き火に照らされ。
無防備な姿を堂々と私に晒してくる。
ああ、本当に。
慧音はうるさい。
そんな、耳に残る呼吸をされたら、私が寝られないじゃないの。
何故か悶々とした気分になってしまった私は、竹の落ち葉を鳴らしながら寝返りをうつことしかできず。
「んぅっ……もこぉ、うるさぁぃ……」
「あ、ごめん……」
何故か謝罪させられた。
うん、理不尽だ。理不尽すぎると思う、今日この頃の私。
――思い返してみれば、やっぱり。
うん、慧音はうるさい。
お節介って言うべきなのかな? まあ、それはそれとしてだ。私をからかって遊んでいるだけという気もして、ちょっと落ち着かない。
例えば――
日が変わる少し前の深夜。
慧音と談笑しているときに、昔のことを思い出して。
「また妖怪退治でもしようかな」
と、そうやってつぶやいただけなのに。
「駄目! そんな危ないことをしようとするなんて!」
だそうだ。
危ない? 誰が?
蓬莱の薬を飲んで不老不死になった私が?
そんなつまらないことを、身を乗り出して訴えてくるのだから驚きである。服が汚れることなど、お構いなしで。
ホントにもう。
私の方が大分年長者だというのに、いつもいつも自分が年上であるかのように命令してくるものだから困りものだ。
「大丈夫だって、私の妖力の強さよく知って――」
「危なすぎる! 山や森が!」
「そっちかぁ…… うん、まあ。いいけどさぁ……」
確かに、輝夜との争いでちょっとだけ山火事や竹林火事を起こした記憶はある。
でも小さな森の半分を焼いたり、妖怪兎たちから軽く非難が出る程度の損害しか出していないはず。それなのに、そうやってはっきり「あなたのことは心配していない」と表現されると、多少なりとも傷ついてしまう。
「少しくらいは……」
「ん? 心配してほしかったの?」
「そうじゃないけどっ! ぜんっっぜんっっ心配しなくていいけどっ!」
そうやってそっぽを向こうとする私に、慧音はどんっとその胸を叩いて見せる。
「大丈夫だよ、妹紅。ちゃんと私が守って――ゲホッこほっ」
「……力いっぱい叩き過ぎた?」
こくこく、と、咳を吐き出しながら涙目で首を縦に振る。
どうやってこんな慧音に頼れっていうのかしら。
「……けほっ! む、その目は人を信用していない目に見える」
「そこでどうやって慧音を信用できるのかを証明してほしいものね」
「ふむ、私が信用できないことの証明は無理というもの。何かの否定を証明するのは、悪魔の証明といってね。ほぼ不可能なんだよ。そのせいで歴史上悲しい事件に使われたことが多くて、魔女裁判という事件でも似たようなことが起きたとある」
「で、誤魔化そうとしているわけね」
「……そ、そんなことはないよ。私だってハクタクになればどんな妖怪だって」
「ハクタクになれればねぇ、いつも、ねぇ」
「うぅぅ……」
顔を赤くして縮こまっていく姿を見ていたら。
自然と、笑みが漏れた。
いつも私にちょっかいを出すのだから、今日くらいはやり返してもいいだろう。
「やっぱり、慧音は私がお守りしてあげないと駄目かな?」
意地悪っぽく膝を抱えながらそう言うと、慧音は何故か悔しそうにするでもなく。満足そうに微笑みを浮かべるだけ。さきほどまであたふたしていたのが嘘のようだった。
「よし、今日も守れた」
「何が?」
「いや、私にとっての単なるこだわりだよ」
言っていることがよくわからないけれど、それ以上聞いても『良い事だよ』としか言わないので聞かないことにした。
ただ、結論としてはやっぱり、慧音が私を守るのは無理だと思う。
どちらかと言えば、私が守らないといけない気がするし。
それでも慧音は私を守る、とうるさかったけれど。
そのうるささは、私には少しだけ心地よかった。
◇ ◇ ◇
それから少しだけ、慧音は忙しくなった。
寺子屋という仕事の他に、人里の自警団の長という役職を引き受けてしまったから。おそらく誰かに頼まれて嫌とは言えず、なし崩し的に任命されたのだろう。
昼は子供たちの相手。
夜は人里の警備。
私と会えるのは、寺子屋が休みの週一回になり。
私と会うときはいつも疲れきっていた。
会えたときも、ずっと私の側で昼寝をして過ごすことも多かった。きっと、慧音の性格だから、仕事中は笑顔で辛くてもそれを表に出さない。無理をしているに違いない。
冗談で言ったはずの、
『私が慧音を守る』
という言葉が、現実になってしまった。そう錯覚してしまう。
私の膝の上に頭を置いて眠る慧音の髪を掬っていると、なんだろう。どうしても助けてあげたくなるような、感情が溢れてきて人里に直談判したくなるところだが。
任期が終わるまでは頑張る。
慧音に頑なな態度で断られた。
半人半獣だから大丈夫だ、と。
しかし博霊の巫女も代がわりし、紅魔館でも多少人員の配置変更があった。妹紅が何も変わらない中で確かに時代は動いている。
出会った頃の年齢を考慮すれば。
少なく見積もっても慧音は100年近い年月をその身に重ねている。しかもハクタクという化け物を人間の体に収めて、だ。
それがどれほどの負担になるのか。
それとも雑貨屋の主人のように長命の要因に働くのか。
私にはわからなかった。
けれど、私は不安でしょうがなかった。
この膝の上に乗る感触がいつか消えてしまうんじゃないかと。
疲れ果てた慧音を見たら毎日毎日その不安が大きくなって。
ついに、ぷつり、と。
慧音からの連絡が、途絶えた。
一週間置きに。
一度も休まずに足を運んでいたその姿が、まったく見えなくなった。
できるだけ、いつもと同じ場所に。
慧音が見つけやすい場所にいるのに、二週間たっても、三週間たっても。
一ヶ月たっても、連絡すらない。
うじうじしているくらいなら人里へ行け。
誰だってそう思うだろう。
私だって、そう思ったよ。
でもね、足が動かなくなる。
もし寺子屋に行って、知らない先生が教えている姿を見たら、私はどうなってしまうだろう。もし寺子屋が休みで、ほっとしたとしても。その軒下に人の死を告げる提灯が下げられていたら。
私は、正気でいられるだろうか。
泣き叫ぶだけで、終わるだろうか。
不老不死となってから、いままでこうならないようにと、人との繋がりを避けたというのに。
あっちから心の中に入り込んできて。
引っ掻き回して。
一緒にいたいと思わせておいて。
いったい何のつもりなのか。
最低だ。
今日から、慧音は最低な女だって言い続けるんだから。
もしそれが嫌なら、早く私に謝りに来なさいよ。
手紙でもなんでもいいから、謝罪しなさいよ。
お願いだから……
声でも、姿だけでもいいから。
あなたがまだこの世界にいる。
そのことだけを証明して。
『ない』ことの証明なんてしなくていいから。
『ある』とだけ、示してよっ!
慧音! 慧――
「何て情けない顔をしているんだろうね、妹紅は」
「――け、慧音っ!」
「そうだよ、私があの蓬莱人にでも見える?」
「いや、そうじゃない! そうじゃないけどっ! ああもう、馬鹿っ! 大馬鹿!」
やっと会えた。
いつもよりも、少しだけ明るい夜に。
緑の天蓋から星々が瞬いて、出会いを祝福しているようにすら感じた。
私は二ヶ月間溜めに、溜めつづけた想いを吐き出しながら。
その懐かしい姿へと。
青く、美しい髪の彼女へと駆け寄った。
「……久しぶりに会えて嬉しかったのに、馬鹿って言われたときの悲しみは格別ね」
「だってそれは、慧音が私に連絡をよこさないから。人里にやってくる鈴仙を捕まえて、手紙くらい送ってくれてもいいじゃないのっ!」
夜空から竹林に差し込む淡い光、その筋の降りる中で慧音は髪を掻き上げ、光沢のある美しい波を空中に舞わせる。
見惚れるほどの流麗さは私の瞳に容易に焼き付くけれど。
こっちがこんなに心配しているというのに、慧音の余裕は少し私をむっとさせた。
少しくらい私のことを考えてくれてもいいのに。
「こちらも寺子屋が忙しくてね。夜は見回りもしないといけなくて。今日はそちらを休ませてもらったの」
「へえ、慧音が休むなんて珍しいこともあるね」
「私だって二ヶ月も妹紅と会えなかったら気になるから、早く会いたくて」
そう言ってくれるだけで、嬉しい。
会えてよかったと思う。
潤んだ瞳のせいで、その輪郭がはっきりしないけれど。
今夜はいつもより忙しいはずなのに、わざわざ来てくれるなんて。
だって、今夜は――
「……ねぇ、慧音?」
「どうしたの?」
そうだ、今夜は――
「……今日はゆっくりできるの?」
「ごめんなさい、どうしても外せない用があってね。少しだけお願いがあってきたの」
「……そっか、どんなお願い?」
「妹紅が人里にくるのに抵抗があるのは知ってるけど、明日、人里に来て欲しいの。ほら、しばらく会えなかったから久しぶりに話がしたくて、お休みを貰ったから」
「そう。お休みなんだね」
「ええ、ゆっくりと語り合いましょう」
慧音はそれだけ言い残して背を向けると、私から離れていく。
青が貴重の服と、その服よりも薄い色の髪を風に揺らして。
そうやって揺れる慧音の髪よりも少しだけ遅れて。
ざわざわ、と。
竹が葉をすり合わせる音が響いた。
続いて静寂がその林に満ちる。
慧音が地面を踏む足音だけが小さくなっていく中で、私はその背中に向かって声を投げ掛けていた。
歯を、食いしばりながら。
「ねえ、輝夜?」
「何かしら、妹こ――」
慧音が振り返った瞬間。
音が、消えた。
風が止み、慧音も足を止めたから。
単純に言えばそれだけ。
たったそれだけのことなのに。
風景の中のすべて、空や大地すら呼吸を止めてしまったかのようなそんな錯覚を覚えた。
輝夜が刹那を操ったわけでもないのに、空間に流れる時間が引き延ばされ。永遠に近い時間が私を包み込んだ。
私の瞳は、ただ一点。
驚愕で身体を固めた、慧音の姿をした別の誰かを見つめ続ける。
永い数秒の無音を切り裂いたのは。
幸か不幸か。
ざわざわと、背の高い観客が体を揺らし始める音だった。
「残酷ね。月に暮らす者たちは、こんな仕打ちを平気でするの? 私の父上の恋心を弄んだだけじゃなく、慧音の姿を使って私を馬鹿にする」
私は、抑揚のない声を響かせて輝夜を見る。
彼女はまだ慧音の姿をしたまま、まるで見下したように地面から浮かび上がった。何を警戒しているのかと疑問に思ったが。何、問うまでもなかった。
私の右腕から、いままで感じたことのないはずの熱量が自然と吹き上がっていたから。
「あらあら乱暴ね。さっきまでは、馬鹿ぁ、大馬鹿ぁって叫びながら子供のように走ってきて、あんなに可愛らしいかったのに。あなたも貴族の血筋を持つものなら多少の気品を持ち合わせていた方が良いわよ?」
慧音の姿のままで……
そんな姿で、へらへらと笑い。
大事な私の想いを汚す。
「それは鈴仙の仕業ね。波長を狂わせて、姿を別物に見せる」
「あら、その足りないおつむでよく気が付いたわね。ただし、それ以外にも永琳の薬の効果が混ざっているから。見破るなんてできないと思ったのに」
「本気で言っているの?」
「ええ、かなり」
「それなら、足りないのはそっちの脳味噌ね」
「あら、それならご教授願えるかしら、あなたが気づいた要因とやらを」
確かに、あの二人の協力があれば完璧に近い幻術を見せるくらいわけがない。
しかし足りない。
姿だけでは、圧倒的に。
知識も想いもない上辺だけの幻覚で騙せる筈がない。
「まず一つ、私に挨拶をしなかった」
最初に、違和感を感じるべきだった。
あれほど挨拶は大事とうるさく言っていたのだから。
「そしてもう一つ、私の前で永遠亭の住人を示す言葉を口にしない」
それを聞くと、過去のことを思い出し私が悲しむと思っているのだろう。
慧音は私から振らない限り、決して出すことはなかった。
そんな違和感の連鎖を、冷静に考えるべきだった。
しかしそんなことより。
「まだ、あるのかしら?」
もっと致命的な欠落が、ある。
失敗なんて簡単な言葉で示せないほど、愚か過ぎる失態が。
「空を見てみなよ、そこに答えがある」
私が攻撃してもすぐ空へと逃げられるように、輝夜は葉の天井の隙間。空が見える穴の下にいた。
だから、見えるはずだ。
そうやって半身を空に向けただけで。
雲ひとつない、空に溢れる濃紺。
その中で瞬く幾千、幾万の星たち。
そして――圧倒的な存在感を示す、金色の円。
「……そう、だったわね。今夜は」
今宵の月は――『満月』
慧音の姿が変わり、ハクタクの力を最も強く具現化させる日。
いつもと同じ姿のはずがないのだ。
だと言うのに、私はそれに気が付かず。
慧音が来てくれたと信じ、醜態を晒した。
「あらら、ここまで下手を踏むなんて、私も油断しすぎたかしら」
「余裕見せすぎなのよ、間抜けっ」
「その言葉、そっくりそちらにお返しするわ。甘えん坊の妹紅さん。さあ、今日は何をするの? 決して滅びない私たちの娯楽を始めるのでしょう?」
勝負か。
弾幕勝負なんて生ぬるいものじゃない。
ただ相手の命を何回滅ぼすか、それだけの享楽。それを私が怒りのままに求めていると輝夜は考えているんだろう。だからああやって、いつでも反撃ができるよう空中で手を下に向けている。
でも、私の感情はそんなんじゃない。
「ねえ、輝夜。正直答えて」
「何、いまさら会話なんて怖気づいた――」
「慧音は、あとどれくらい持つの?」
「――っ!」
私が今怒っているのは、慧音と輝夜を見間違えた自分に対してだけ。
だってそうだろう。
あのまま何事もなく輝夜がここを離れていれば、単なる伝言役として役割を終えていた。波風も立たないまま終わっていたはずだ。確かに、はっきり違うとわかったときは輝夜に対する怒りも同時に吹き上がった。
けれどそれは一瞬――
私は知っているから。慧音の次に、永遠亭のやつ等のことを。
輝夜は確かに私を挑発することはあるが、こんな陰湿なことはしない。
てゐも、後から笑えるようないたずらしか仕掛けない。
永琳だって、私のことを良い輝夜の相手としか思っていない。
鈴仙はどちらかと言えば厄介ごとを嫌うから、進んでこんなことはしない。
だからもし、こんな手の込んだことをして。
私を励まそうとする人がいるとすれば……
「教えてよ…… 永遠亭が私より先に慧音のことを知っているってことは、そういうことなんでしょう? ねぇ、お願いだから……」
慧音しかいない。
そう考えたら、空白の二ヶ月間のすべてが形を持つ。
空白の時間の間に、おそらく慧音の身体に何か異常が起きて、永遠亭の世話になり。そのまま外出もできなくなった。
だから、頼んだ。
私が少しでも寂しくしないように。
少しでも、悲しませないように。
「短くて明日、持って十日。それが……永琳の結論よ」
俯いて、吐き捨てるように輝夜が声をぶつけてくる。
ああ、だから。
明日までに人里へ行けといったのか。
「……病名は?」
「老衰よ。自然界の獣は老い始めたら早いらしいから。ハクタクの血のせいかもしれない、と」
「そうか、はは、老衰か……なら、慧音は天寿を全うしたことになるのね」
「ええ、少しだけ人間より永く生きた」
「……私たちからしたら、全部同じ」
「そうね……」
永遠の命を持ってしまった者の、罪。
輝夜が、俯き、必死に何かに耐えているのは。
慧音と誰かを重ねているからかもしれない。
「わかったでしょうっ! わかったなら早くいきなさいよっ! 竹林で汚れた体を洗って人里へ、時間なんて残されていないんだから! この馬鹿っ」
「言われなくてもそうするよ、この馬鹿……でも、こういうときはちゃんと言えって慧音が言ってたし」
たぶん、私の顔はぐしゃぐしゃになってる。
怒りとか悲しみでどんな表情かはわからないし。
涙や汗ですっかり濡れてしまった。
でも今だけは、そんな顔じゃなくて。
「ありがとう、輝夜」
今できる最高の笑顔で。
初めて、あの馬鹿に感謝した。
◇ ◇ ◇
それから、20日後。
慧音は息を引き取った。
まさかこんなに命が続くなんて奇跡だと、あの名医が言っていたけれど。
結局。長いか、短いかなんだよね。
きっと、慧音が旅立つとき私は泣きじゃくっていただろうから、偉そうなこと言えないんだけどさ。あのあと寺子屋に行ってわかったことがあったんだ。
ほら、慧音ってさ。
『守りたいもの』があるって言ってたじゃない。
私もそのことずっと忘れてたんだけど、寺子屋の壁をぼぅっと見てたらわかったんだよね。
『一日一笑』
綺麗な字でそう書かれた習字紙を見つけた。
一日一善と書いてある紙の横に貼ってあるのがとても印象に残ってね。だからわかったんだと思う。ああ、そういえば、慧音っていつも私を笑わせてくれたんだなって。やっと気が付いた。
だから、笑うことにするよ。慧音。
笑って、ここで暮らす。
意地でもあなたの居場所を守るから。
安心して転生してくるといい。
でも、一つだけ忠告。
寺子屋で不老不死のお姉さんを見つけても、怖がらずしっかり挨拶してよ。
「はじめましてっ!」
って、うるさいくらいにさ。
輝夜が慧音に化けている間の口調が、あまりに慧音っぽくなかったかなという気がします。満月は話の根幹なので仕方がないですが、輝夜なら口調くらいはもうちょっと上手くやるような気がするので、そこだけ差し引いてこの点数で。
維持を張って→意地を張って
しんみりといい話でした
輝夜と妹紅の関係も俺の理想と近くて、すごい素直に読めました。