我が家のお風呂は、あまり広くない。
先日訳あって預かった地上の巫女にも「意外ね…こんなに広い家だからお風呂もさぞ大きいんだと思ってたわ」とか言われた。
とはいえ、それはあくまで「家の大きさに比べて」あまり広くない、というだけの事。それなりのスペースは確保している。
そう、今この時のように豊姫お姉様と一緒に入れるくらいには。
「どう、依姫? 手が届いてないところはあるかしら?」
「いえ、ないです」
「ならいいわ。じゃあ、もう少ししたら流すわね」
しゃかしゃか。お姉様のほっそりした指が、髪をかき分けてゆく。頭に触れるその指は爪を立てることなく、腹を使って往復する。
つまり、私はお姉様に髪を洗ってもらっているというわけだ。
どういうわけか、私の髪の手入れはお姉様の担当で。
洗うのも、乾かすのも。櫛をかけるのも、結うのも。全部ひっくるめてしてくれている。
おかげで、すっかり髪の手入れについては疎くなってしまった。一度など「トリートメントって、リンスをそのあとに使うのならいらないんじゃないですか?」と言ってしまったのが運の尽き。朝までトリートメントとリンスの役割の違いについて泣きながら熱く語られることになった。
できれば、その情熱をもっと別の方向に傾けていただきたい。主に、もっと私をかまってくれる方向に。
「さ、流すわよ。泡が目に入ると痛いから、ちゃんと閉じておきなさい」
「分かってま…きゃ」
「あら、目じゃなくて口を閉じるように言った方が良かったかしら」
「…………」
このやりとりも、もう日課になってしまっている。私としても苦い思いをするのは嫌なので口を閉じておきたいのは山々なのだけど、話しかけられたらつい返事をしたくなってしまうのだから仕方がない。
お姉様が毎日注意してくれるのがいけないのだ。うん、きっとそうだ。
シャンプーの泡が、流されてゆく。
泡が残らないようにと首の後ろをそっとこすってくれるお姉様の手は、いつも通りに温かかった。
シャンプーの後にはもちろんトリートメントとリンスが待っていた。身体を洗って、先に浴槽につかって伸びをしていたお姉様を追うようにお湯へと沈む。
ほんの少しだけ近づけば簡単に触れられる距離に、ふたり、向かい合わせ。
「いいお湯。兎たちと一緒に運動した甲斐があったわ」
「じゃあ、これから毎日そうしましょう」
「えーっ」
「えーっ、じゃありませんよ……」
まったくもう、と呟いて口をつぐむと浴室を沈黙が支配した。どうしよう、話題がない。
せっかくお姉様と二人きりでいられる貴重な時間を無駄にしたくなくて、膝を抱えて必死でその理由を考える。
答えは、すぐに見つかった。
『お姉様が珍しく兎たちの訓練を手伝ってくれたから』
いつもは別行動をとっていることが多いのでお互いその日にあったことが違う。だから話題に事欠くことがなかったのだ。
はじき出された答えの、あんまりな本末転倒ぶりに、今度は内心頭を抱えた。
手伝ってもらえるのは嬉しいけれど、手伝ってもらってしまえば話題がなくなる。
兎たちの訓練をとるか、お風呂での話題をとるか。私にとって究極の二者択一。
「綿月依姫」個人としては迷わずお風呂での話題をとるが、「月の使者のリーダーである綿月依姫」としては兎たちの訓練をとることが求められる。
ああ、まったく。立場というものはなんとまあ―
「……ひめ…り…め…依姫っ!!」
「は、はいっ!?」
揺さぶられる感覚と大声に弾かれるようにして顔を上げれば、目の前に口をとがらせ、むくれたお姉様の顔。その手は私の肩をぎゅっとつかんでいる。
「もう…何度も呼んでるのに」
「えっ、呼んでらしたんですか?」
「ええ、ずうっと。急に膝抱えて下向いちゃったから心配で」
そう言ってお姉様はさらに顔を近づけてくる。すごく…可愛いです…って、あう、近い。近すぎる。
少しでも距離をとりたくて、肩をつかんでいるお姉様の手をそっと外しながら思いっきり背を反らす。
「あうっ!!」
確かに距離はとれたが。その代わり私はしたたかに背中を浴槽の縁にぶつけることになった。少し…いやかなり痛かった。
「えっ、ちょ、大丈夫?」
「だ、大丈夫、大丈夫ですから」
いつも呑気なお姉様が珍しく慌ててこちらに身を乗り出してくる。おかげで痛みと引き換えに得たはずの距離も、一気にゼロへと逆戻り。もう一度あの背骨に響くような痛みを味わいたくはないし、逃げるスペースももうないので諦めてお姉様のなすがままにされることにした。
「いたいのいたいのとんでいけ」
私の首に左腕を絡め、抱きしめるような体勢になりながら、お姉様はぶつけた背中をなでてくれる。伝わってくる、規則正しい心臓の鼓動。
耳元で囁いてくれるその声と、なでてくれるその手は本当に温かいから。
さっき距離をとろうとしたくせに、今度は今この時が永遠に続いてくれればいい、なんて都合のいいことを考えた。
永遠を自由にできる輝夜が、こんな時は無性にうらやましい。
「……ねえ依姫、もう痛みは引いた?」
お姉様の声がする。とっくのとうに痛みはなくなっていたけど、お姉様は私から手を離してしまうだろうから肯定の返事をしたくはない。
でも、こんな身勝手な理由で嘘を吐きたくもない。
返事が出来ないまま、ただ時間だけが過ぎてゆく。
「依姫?……もう、また聞いてないのね」
ごめんなさい、実はばっちり聞いてます。この体勢だと顔は見えないから、返事がなければお姉様がそう思うのも無理はない。胸に棘が刺さったかのような罪悪感が襲ってくる。
「ふふふ、話を聞かない悪い子は後悔するって教えてあげるわ」
何かを企んでいる時の、お姉様の小さな笑い声。わわわ、どうしよう。何だか事態がものすごくまずい方向にマッハで進んでいるような気がする。多分八意様の矢よりも速く。
ほら、心臓だってこんなに跳ねて―ない。お姉様にとんでもない目に合わされることはいつもの事だからだろうか、私の心臓の鼓動はいたって平常通りだった。それはそれでちょっと悲しい。
となると、この鼓動はお姉様のものということになるわけだけれど…どうしてこんなに早鐘を打っているのだろう。
息を吸い込む気配。そして―
依姫、だいすき。
そうお姉様は囁いた。
「…………」
驚きに、身体の自由を奪われた。心臓だけが、まるで私のものではないように好き勝手に跳ねまわっている。
これでは聞こえているのがばれてしまうと焦ったけれど、お姉様の心臓は私のもの以上に跳ねまわっていたから、きっと私の心臓の鼓動が速まったことは気がつかれていない。
その証拠にお姉様は、
「すき、すき、だいすき……」
と、熱に浮かされたように繰り返している。どこか切なげなその声は少しずつ大きくなってきているし、空いている右手で私の髪を梳いているので、これでは本当に私が聞いていなかったとしても流石に気がついてしまうだろう。
「光栄です、お姉様」
くすくす笑いながら声をかければ、小動物のようにびくりと震えるお姉様の身体。水面にゆらりと波紋が広がって、消えていった。
「……いつから気がついてたの」
「ごめんなさい、実は最初から」
「ばかばか、聞いてるなら聞いてるって早く言いなさいよ」
「だって―」
嬉しかったんですもの。もっともっと、好きって言ってもらいたかったんですもの。
「……あとで、新しいリボンおろしてあげるわね」
「……? ありがとうございます」
急に髪飾りの話が出て一瞬だけ戸惑うけれど、これはお姉様流の照れ隠し。いつもは相手を照れさせる側なので、いざ自分が照れると、どうしたらいいのか分からなくなってしまうらしい。
照れてくれたということは、お姉様の「好き」という言葉が真実だということ。
そのことが本当に嬉しくて、私はお姉様をそっと抱きしめて目を閉じる。
完全に目が閉じるその瞬間。私たちふたりの髪が一房、絡まりあって美しい螺旋を描いているのが見えたような気がした。
先日訳あって預かった地上の巫女にも「意外ね…こんなに広い家だからお風呂もさぞ大きいんだと思ってたわ」とか言われた。
とはいえ、それはあくまで「家の大きさに比べて」あまり広くない、というだけの事。それなりのスペースは確保している。
そう、今この時のように豊姫お姉様と一緒に入れるくらいには。
「どう、依姫? 手が届いてないところはあるかしら?」
「いえ、ないです」
「ならいいわ。じゃあ、もう少ししたら流すわね」
しゃかしゃか。お姉様のほっそりした指が、髪をかき分けてゆく。頭に触れるその指は爪を立てることなく、腹を使って往復する。
つまり、私はお姉様に髪を洗ってもらっているというわけだ。
どういうわけか、私の髪の手入れはお姉様の担当で。
洗うのも、乾かすのも。櫛をかけるのも、結うのも。全部ひっくるめてしてくれている。
おかげで、すっかり髪の手入れについては疎くなってしまった。一度など「トリートメントって、リンスをそのあとに使うのならいらないんじゃないですか?」と言ってしまったのが運の尽き。朝までトリートメントとリンスの役割の違いについて泣きながら熱く語られることになった。
できれば、その情熱をもっと別の方向に傾けていただきたい。主に、もっと私をかまってくれる方向に。
「さ、流すわよ。泡が目に入ると痛いから、ちゃんと閉じておきなさい」
「分かってま…きゃ」
「あら、目じゃなくて口を閉じるように言った方が良かったかしら」
「…………」
このやりとりも、もう日課になってしまっている。私としても苦い思いをするのは嫌なので口を閉じておきたいのは山々なのだけど、話しかけられたらつい返事をしたくなってしまうのだから仕方がない。
お姉様が毎日注意してくれるのがいけないのだ。うん、きっとそうだ。
シャンプーの泡が、流されてゆく。
泡が残らないようにと首の後ろをそっとこすってくれるお姉様の手は、いつも通りに温かかった。
シャンプーの後にはもちろんトリートメントとリンスが待っていた。身体を洗って、先に浴槽につかって伸びをしていたお姉様を追うようにお湯へと沈む。
ほんの少しだけ近づけば簡単に触れられる距離に、ふたり、向かい合わせ。
「いいお湯。兎たちと一緒に運動した甲斐があったわ」
「じゃあ、これから毎日そうしましょう」
「えーっ」
「えーっ、じゃありませんよ……」
まったくもう、と呟いて口をつぐむと浴室を沈黙が支配した。どうしよう、話題がない。
せっかくお姉様と二人きりでいられる貴重な時間を無駄にしたくなくて、膝を抱えて必死でその理由を考える。
答えは、すぐに見つかった。
『お姉様が珍しく兎たちの訓練を手伝ってくれたから』
いつもは別行動をとっていることが多いのでお互いその日にあったことが違う。だから話題に事欠くことがなかったのだ。
はじき出された答えの、あんまりな本末転倒ぶりに、今度は内心頭を抱えた。
手伝ってもらえるのは嬉しいけれど、手伝ってもらってしまえば話題がなくなる。
兎たちの訓練をとるか、お風呂での話題をとるか。私にとって究極の二者択一。
「綿月依姫」個人としては迷わずお風呂での話題をとるが、「月の使者のリーダーである綿月依姫」としては兎たちの訓練をとることが求められる。
ああ、まったく。立場というものはなんとまあ―
「……ひめ…り…め…依姫っ!!」
「は、はいっ!?」
揺さぶられる感覚と大声に弾かれるようにして顔を上げれば、目の前に口をとがらせ、むくれたお姉様の顔。その手は私の肩をぎゅっとつかんでいる。
「もう…何度も呼んでるのに」
「えっ、呼んでらしたんですか?」
「ええ、ずうっと。急に膝抱えて下向いちゃったから心配で」
そう言ってお姉様はさらに顔を近づけてくる。すごく…可愛いです…って、あう、近い。近すぎる。
少しでも距離をとりたくて、肩をつかんでいるお姉様の手をそっと外しながら思いっきり背を反らす。
「あうっ!!」
確かに距離はとれたが。その代わり私はしたたかに背中を浴槽の縁にぶつけることになった。少し…いやかなり痛かった。
「えっ、ちょ、大丈夫?」
「だ、大丈夫、大丈夫ですから」
いつも呑気なお姉様が珍しく慌ててこちらに身を乗り出してくる。おかげで痛みと引き換えに得たはずの距離も、一気にゼロへと逆戻り。もう一度あの背骨に響くような痛みを味わいたくはないし、逃げるスペースももうないので諦めてお姉様のなすがままにされることにした。
「いたいのいたいのとんでいけ」
私の首に左腕を絡め、抱きしめるような体勢になりながら、お姉様はぶつけた背中をなでてくれる。伝わってくる、規則正しい心臓の鼓動。
耳元で囁いてくれるその声と、なでてくれるその手は本当に温かいから。
さっき距離をとろうとしたくせに、今度は今この時が永遠に続いてくれればいい、なんて都合のいいことを考えた。
永遠を自由にできる輝夜が、こんな時は無性にうらやましい。
「……ねえ依姫、もう痛みは引いた?」
お姉様の声がする。とっくのとうに痛みはなくなっていたけど、お姉様は私から手を離してしまうだろうから肯定の返事をしたくはない。
でも、こんな身勝手な理由で嘘を吐きたくもない。
返事が出来ないまま、ただ時間だけが過ぎてゆく。
「依姫?……もう、また聞いてないのね」
ごめんなさい、実はばっちり聞いてます。この体勢だと顔は見えないから、返事がなければお姉様がそう思うのも無理はない。胸に棘が刺さったかのような罪悪感が襲ってくる。
「ふふふ、話を聞かない悪い子は後悔するって教えてあげるわ」
何かを企んでいる時の、お姉様の小さな笑い声。わわわ、どうしよう。何だか事態がものすごくまずい方向にマッハで進んでいるような気がする。多分八意様の矢よりも速く。
ほら、心臓だってこんなに跳ねて―ない。お姉様にとんでもない目に合わされることはいつもの事だからだろうか、私の心臓の鼓動はいたって平常通りだった。それはそれでちょっと悲しい。
となると、この鼓動はお姉様のものということになるわけだけれど…どうしてこんなに早鐘を打っているのだろう。
息を吸い込む気配。そして―
依姫、だいすき。
そうお姉様は囁いた。
「…………」
驚きに、身体の自由を奪われた。心臓だけが、まるで私のものではないように好き勝手に跳ねまわっている。
これでは聞こえているのがばれてしまうと焦ったけれど、お姉様の心臓は私のもの以上に跳ねまわっていたから、きっと私の心臓の鼓動が速まったことは気がつかれていない。
その証拠にお姉様は、
「すき、すき、だいすき……」
と、熱に浮かされたように繰り返している。どこか切なげなその声は少しずつ大きくなってきているし、空いている右手で私の髪を梳いているので、これでは本当に私が聞いていなかったとしても流石に気がついてしまうだろう。
「光栄です、お姉様」
くすくす笑いながら声をかければ、小動物のようにびくりと震えるお姉様の身体。水面にゆらりと波紋が広がって、消えていった。
「……いつから気がついてたの」
「ごめんなさい、実は最初から」
「ばかばか、聞いてるなら聞いてるって早く言いなさいよ」
「だって―」
嬉しかったんですもの。もっともっと、好きって言ってもらいたかったんですもの。
「……あとで、新しいリボンおろしてあげるわね」
「……? ありがとうございます」
急に髪飾りの話が出て一瞬だけ戸惑うけれど、これはお姉様流の照れ隠し。いつもは相手を照れさせる側なので、いざ自分が照れると、どうしたらいいのか分からなくなってしまうらしい。
照れてくれたということは、お姉様の「好き」という言葉が真実だということ。
そのことが本当に嬉しくて、私はお姉様をそっと抱きしめて目を閉じる。
完全に目が閉じるその瞬間。私たちふたりの髪が一房、絡まりあって美しい螺旋を描いているのが見えたような気がした。