微かに緑色に染まった液体を口に含む。アルコールの苦みが一瞬舌を付き、その後に豊かな甘みが広がる。そのまま胃へと流し込むと、胃が熱くなるような感覚と共に、何とも言えぬ芳しい芳香が鼻を抜けていく。
至福の時だ。今日は珍しく、少なくない売り上げがあった。そしてこれもまた珍しく、賑やかだが金を払わない客の姿も無かった。秘蔵にしていた外の世界の酒を飲むには相応しい一日だ。まるで桜のような香りのするこの洋酒を舐めながら、今日は幻想の花見を楽しむとしよう。
――カランカラン
……だが、残念ながら僕のもくろみは早々にご破算になってしまったらしい。ドアの向こうに、何やら大きな袋を抱えた魔理沙の姿が見えた。つまり、静かで穏やかな時間が終わりを迎えた。ということだ。
「おい香霖? 大丈夫かい? 噂に聞いたんだが、拾い物で食いつないでるとかなんとか……」
「拾い物とはこれのことかい?」
僕は、目の前に有った酒瓶を魔理沙に手渡した。
「なんだこりゃ? ええと……ズブロッカ?」
外の世界の文字で書かれたラベルを前にして、魔理沙が考え込んでいた。
「ああ、そういう名のウオッカさ」
「ウオッカ? ああ、外の世界の酒だっけか」
「日本酒もワインも元はそうだけどね、殆ど全ての酒は百年ちょっとしかない幻想郷より古い歴史を持っているから。まあ、確かに幻想郷でウオッカを作っていると言う話は聞かないね」
と言いつつも、僕はグラスの中のウオッカ――ズブロッカ。と言う名のそれに口を付ける。
「要は、そいつは拾い物だってことだろう?」
「言い方を変えればそうかもしれないけどね。ただ、別にこれで食いつないでいるわけではないさ」
「そりゃそうだな。酒だけで生きていけるのは萃香くらいだ」
もっとも、幻想郷の少女達の酒量を考えると、みな酒で食いつないでるような気もするが、それは言うまい。ただ、僕としてはもう少し高尚な飲み方も知って欲しい、とは思うが。
「ちぇっ。心配して損したな、食材やらも持ってきてやったのに」
「すまないね。ただ、今日は久々に売り上げもよかったし、その辺りは心配してくれなくてもいいよ」
「いいよ。お詫びはこの酒で勘弁してやるぜ」
そう言いつつ、魔理沙は僕のグラスを取ると、それを一息で呷る。
「うーん。結構きついなあ、日本酒とはえらい違いだ」
「度数も随分とあるからね」
「空きっ腹じゃまずいな。いいや、食材は沢山あるからつまみでも作ってやるよ」
そう言い残すと、魔理沙は勝手知ったる厨房へと向かう、やれやれ、用件は済んだはずだが、ここに居残って貴重な酒を開けてしまう気らしい。まあ仕方ないか。いつものことだ。幾らかの静けさが戻ってきた今の内に、幻想の花見を楽しんでおくとしよう。
僕は空になった杯に再びズブロッカを注ぎ、魔理沙の鼻歌を聴きつつ、黙々と読書を続けていた。桜のような匂いを味わいつつ、文字で描かれた桜に思いを馳せていた。茸でも焼いているのだろうか。香ばしい音と匂いが漂ってくる。どうにも宴会のような気分になりつつも、僕は一人、見えぬ桜に思いを馳せていた。
「香霖ー」
「……」
「香霖! 出来たぜ!」
「……」
「香霖ってば!」
「ん? ああ、ありがとう」
「随分と夢中だったな、何を読んでたんだい?」
数度か魔理沙に呼ばれ、ようやく気づくことが出来た。見たことも無い茸や山菜が、焼かれたり、天ぷらにされて魔理沙の持つ皿の中に収められていた。
「短歌さ」
「短歌ねえ。私はああいうのは苦手なんだよな。どうにもわかりにくくて」
それ故に短歌は美しいのだが、魔理沙の好みではないのだろう。ともあれ、残念ながら僕の高尚な花見の時間は終わりを告げたようだ、せめて、つまみと酒でも心ゆくまで味わうとしよう。
僕はいくつかの焼き茸を皿に取り、醤油をかける。しかし、どの茸もまるで見たことが無い物だった。
「ちなみに、これは何という茸なんだい?」
「さあ? 私が付けた名前はあるけどな」
「……まさか、毒茸じゃないだろうね?」
「ああ、それは大丈夫だぜ。毒がないってのはわかってるから」
魔理沙は毒味、というわけでもないだろうが、早々に茸の一つを口に入れた。どうやら、今回は毒茸ではないらしい、僕は安心して口へと入れる。味はとてもよかった。僕も魔理沙も、続けて茸を口へと運ぶ。
「名前なんて美味しければどうでもいいぜ」
と、茸に舌鼓をうちつつ、笑みを浮かべつつ魔理沙は話していた。僕の能力を根っこから否定するような言葉でもあるが、同意出来ないこともない。僕はやはり名前のわからない山菜の天ぷらを小皿に取ると、茶塩を振りかけ口へと運ぶ。ほろ苦い味が心地よい。
「よし、じゃあこのズブロッカとやらをいただくぜ」
「ああ」
魔理沙は和風の杯にドブドブとズブロッカを注ぐ。とはいえ、流石にきついことはわかっているのか、両手で杯を持ちながら少しづつ、やけに可愛らしい仕草で口に運んでいた。
「不思議な匂いだな、桜みたいだ」
「そうだね」
「桜でもつけ込んでるのかい」
「いや、桜は一切入ってないよ、その匂いの元は香茅という草さ」
「なんだい? それは?」
「イネ科の多年草で――」
「いや、悪い、聞いた私が間違ってた」
魔理沙は僕の言葉を遮るかのように、再びズブロッカに手を付けていた。魔法使いとしては草花の知識も重要だと思うが……まあ、無理に教えることもないか。僕もまた、ズブロッカを口に運ぶ。桜が咲くにはまだ一月以上の時間はかかるが、この桜のような匂いを嗅いでいると、一足早い桜が、そして、どの桜よりも美しい幻想の桜が見られるように思える。
「でも不思議だな、どこにも桜なんてないのに、桜の匂いがするなんて」
「そう思うのは、僕たちが桜を知っているからだろうね」
この酒が造られたのは外の世界、ポーランドと言う国だ。大陸の遙か西に位置する国と聞くが、果たしてそこに桜は咲くのだろうか? 僕にはわからないし、それはどうでもいいことだろう。今ズブロッカを飲む僕らは、確かにこの匂いに桜を感じる。それだけで十分なのだから。
「どういうことだい?」
「人は知らない何かに触れた時、それを知っている何かに結びつけようとする、香茅を桜と思うようにね。そうだ、最近鵺の妖怪が幻想郷に来たんだろう?」
「ぬえのことかい? ってわかりにくい言い方だな。最近寺に来た奴だけど」
「恐らくそうだろうね」
鵺。サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足にトラツグミの声を持つ正体不明の妖怪と伝えられている。だが、これもおかしな話だ。サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足にトラツグミの声とわかっているではないか。鵺の絵が描かれた文献も数多く残されている。しかし、実際の所、噂に聞くにはぬえは小柄な少女だった、との事だ。
「僕は会ったことがないが、言い伝えとは随分違ったそうじゃないか」
「ああ、普通の妖怪に見えたな。もっと不気味なものだと思ってたんだが」
「どうしてただの少女がそう見えたんだと思う?」
「あれだろ? あいつの能力が正体不明にするとかなんとかだからだろ?」
「そうするとおかしいと思わないかい? それなら正体不明の妖怪、の一言で済むはずさ。サルの頭やタヌキの胴が出てくるわけがない」
そう言われた魔理沙は珍しく考え込む様子を見せる。もっとも、答えは簡単だ。ズブロッカを飲んで桜を感じるのと同じ事なのだから。
「わからん。教えてくれよ、香霖」
お手上げだ、という様子で考えるのを諦めた魔理沙は、両手を上げて降参するとズブロッカを口に運ぶ。僕は謎の茸……シメジのような味の茸を一口食べると、魔理沙に答えを返した。
「いいかい、鵺を見た人間が見たのはサルでもタヌキでもない。ただ正体不明の存在を見ただけなんだ」
「ふむ」
「ただ、人間は正体不明の存在をそのままにしておかない、君だってそうだろう? 例えばこの間君が持ってきた毒茸――妖念坊だったか」
「あの位の幻覚なんて毒のうちに入らないぜ。毒茸ってのは食べたら五秒であの世行きとかそういうのを言うんだ」
やれやれ。と言う気分になるが、瘴気の中に済む魔理沙には、あの程度のものは実際、毒とも思わないのかも知れない。ともあれ、本題からは逸れる話だ。
「あの妖念坊と言う名は、君が付けたと言っていたね」
「ああ、常念坊に似ているけど、常念坊よりでかいから妖怪の常念坊、妖念坊って付けたのさ」
「そう、君は常念坊に似た形から連想して、あの茸を妖念坊と名付けた、名前を付けるには至らないとしても、やはり人はどうにかして分類しようとする」
僕は先ほど食べた茸を指さしながら続ける。
「僕がこの名前もわからない茸を、シメジのような味がする茸と分類したようにね、そうでないと覚えてられないんだよ」
「確かに、私も新しい茸を見た時、その場じゃ名前を付けずに、なんたらのような茸、って覚えてたりするな」
「鵺も同じさ。見たことも無いものだったとしても、それを見た人間に取って一番近いのがサルやタヌキだったんだろう。ちなみに、別の言い伝えだと鵺はネコの頭にニワトリの体とも伝えられている」
「タヌキとニワトリじゃ全く違うじゃないか」
「そうさ。彼らが見た物が同じなのかも怪しいね。ただ、人々が正体不明の何かを見て、それを記憶に留めるため、どうにか分類しようとした。それで何かに例えたとした結果、鵺の伝承が生まれた、ということは間違いないだろう」
そう言うと、僕はまた杯に口を付ける。喉に微かにひりつくような感覚があるが、口と舌は滑らかになるような気がする。酒とは不思議なものだ。ああ、確かに、酒と比べても妖念坊は毒ではないのかもしれない。酒の酩酊作用に比べれば知れたものなのだから。
「なんだ、要は、人間知らない物を見ると何か知っている物を連想しようとするってことか?」
「そうさ、だから香茅を知らない君は、香茅の匂いが付いたズブロッカを飲んで桜を連想した。そういうことさ」
「言われて見れば、単純で当たり前のことだな」
「だけど、当たり前のこととは言っても、この連想する能力、これが人間、まあ妖怪もだけど、心の持つ素晴らしい物の一つだと思うね」
「どうしてだい?」
「連想するという力は、何も未知の物に限らず働くからだよ」
僕は先ほどの本を開き、魔理沙に手渡す。「見渡せば柳桜をこきまぜてみやこぞ春の錦なりける」という歌がそこには書かれている。
「どう思う?」
「短歌はよく意味がわからないんだよな」
「だけど、桜の歌だとは思うだろう?」
「そりゃあなあ。桜って書いてあるし」
「だったら、少し考えてみなよ」
「短歌を肴に飲むほど老いぼれちゃいないんだがなあ」
そう言いつつも静かに文字に目を走らせる魔理沙を見ながら、僕はズブロッカと共に幻想の桜を見ていた。あの歌を無理に今の言葉で言えば、「柳と桜を取り混ぜた風景を見渡せば、まるで都は春の錦のようだ」とでも言うのだろう。だが、それはどうにも無粋だ。散文的な言葉で表現出来ぬからこそ、歌に情景を読み込んだのだから。
「う~ん。まあ、都の桜が綺麗だって事はわかるぜ」
「なんだ。君にも短歌の美しさがわかったじゃないか」
「どうしてだ?」
「君は今、綺麗な桜をイメージしただろう」
「ああ」
「ここには桜なんてない、君が持っている物はただの紙と墨で作られた本だ、だけど、君は確かに心の中で桜を見たんだ。そうでなければ綺麗な桜なんて言葉は出てこないだろう」
釈然としない、という様子を浮かべつつも、いくらかはわかった様子も見える。もっとも、これは短歌に限ったことではない。弾幕だって同じだ。弾幕で例えればもう少し魔理沙にもわかりやすいだろう。
「そうだな、例えば君が弾幕を放つ、なんでもいいんだが……アステロイドベルトとでもしておこうか、君があれを撃つとき、実際に星を投げてるのかい?」
「まさか。魔法で作った弾に決まってるじゃないか」
「その通りさ、だけど、君も対戦者も僕も、あそこに小惑星帯を見ているんだ。規則的に動くだけの魔法の弾を、美しい星々だと感じるんだ」
「そういうことか」
というと魔理沙はポンと手を打った。ようやくわかってくれたのだろうか。
「私の魔法で作った弾幕を見て、有りもしない綺麗な星や銀河を見るように、短歌を見て有りもしない綺麗な花を見るって事か」
「簡単に言えばそうだね。これは短歌や弾幕に限らない。芸術や文学、食べ物だってそうさ、ズブロッカの匂いで僕は桜をイメージして、僕は桜を楽しむ事も出来る」
そして僕らはまた杯に口を付ける。流石にほろ酔い気分になってきた。魔理沙も少し顔が赤くなっている。だが、その分より幻想の花に浸ることが出来そうだ。だから酒を飲むのはやめられないのだろうか。まったく、これこそが最悪の毒かもしれない。一向に毒とも、飲むのをやめようとも思えない上に心地よいというおまけつきだ。
「ああ、なんとなく目を閉じると桜が見える気がするぜ」
「そうさ、これこそが高尚な花見だ、ただそこに有る桜を見るだけじゃない花見もいいものだろう? それにね」
「それに?」
「雨月の月がもっとも風流だと言われるように、心の中にある物が一番美しい物なのさ、桜でも星でもね」
魔理沙の撃つ星もまた美しい。だが、それは魔理沙のイメージした星だからこそ美しいのだ。実際の星など、余りにも大きく、余りにも無骨なただの石に過ぎないのだから――僕もまた、魔理沙に習って目を閉じてみる。偽物の桜の匂いだけが有る部屋で、僕は白玉楼にも決して負けないだろう桜を見ていた。そんな中で茸の匂いが鼻をつき、僕は茸に手を伸ばそうとする。
……だが、既に茸の載った皿は机の上には無かった。
「心の中に有る物が一番いいか。なるほどなあ、私もその境地に辿り着きたい物だぜ」
皿は、悪戯っぽく笑う魔理沙の左腕に移動していた。残念ながらここからでは手が届かない。
「香霖は心の中の茸を思いっきり味わってくれよ。いや、羨ましいぜ。どんな茸より美味しいって言うんだからな」
僕は小さな溜息を付く、
「私も食べてみたいが、まだその境地には達せないからな。目の前の茸で我慢しておくぜ」
そして、それに答えることもなく僕は机の上に乗っている魔理沙の小皿に手を伸ばす。相変わらず名前のわからない天ぷらが有った。ゼンマイのような風味で中々美味しい。
「おいおい! 待てよ香霖! そいつは最後の一個だから取っておいたんだぜ!?」
やかましく騒ぐ魔理沙。残念ながら魔理沙が高尚な花見をするにはまだ時間が必要なようだ。仕方ない。今は、現実の料理と騒がしい会話を楽しむとしよう。
「妖念坊」のエピソードの使い方なども見事。原作のエピソードを自然に絡め、話に音新婚でいると思いました。
とても素晴らしいです。
これは満点付けるしかないな。
素晴らしい、この一言に尽きます。
春はもうすぐです。もうすぐのはず。
でも原作並みに面白かったです。
・・・飲みたくなってきたっ
魔理霖はこういう雰囲気もいいんだよなぁ
春は間近だ!
広く深い世界を感じることができました。
ほろ酔い加減の酔っ払い2人のやり取りも軽快で、
なんとも香霖堂的な含蓄に飛んだお話、ありがとうございました。
飲みたくなってきた…
早速買いに行こう