涙の川が生まれていく
いつも通りにかにかと笑っている顔を、涙が伝ってはすぐに蒸発して消えていく。
空の仕事場は灼熱地獄の中でも特に暑いから、燐は息を吸い込むたびに肺が乾く気がする。
「お空どうしたの?どっか怪我した?痛い?悲しい?」
「あー、そういうんじゃなくて」
なんか出ちゃう、と言って、またにかにかと空は笑う。
特に笑うことに意味は無いのだろう。泣くよりは笑った方がいいじゃん、ぐらいの理由だ。きっと。
「拭きなよ。」
「だって止まらないし、すぐ乾くよ」
まだ小さかった頃は、体を寄せ合ってよく泣いていたような気がする。どちらともなく泣くのを堪えるようにしたのはいつだったか。
深い考えは無く、怪我をした場所を手で撫でるような心持ちで、燐は空の両目を片手で覆った。
すぅっと水が引くように空の涙は止まり、代わりとばかりに燐の視界は滲んでうまく見えなくなった。
泣くのは、空が異変を起こそうとした時以来だ。
あの時は涙を拭う暇すら惜しくて、必死で怨霊を地上に送っていた。それに比べれば、今は満ち足りすぎている。
「はは、うつっちゃった」
今度は自分の目からだらだらと零れ落ちる涙をぬぐいながら、燐が困ったように笑えば空は泣いていた時とは別物のようなひどい顔をして、ごめんね、と呟いた。
「お空が謝ることないよ」
「だって、それ私のせいじゃん」
「いいからいいから。ほら、また泣きそうになってる」
「やだよぅ、お燐泣くのやだ」
昔から空はこうだった。己の痛みにはおそろしく鈍いのに、誰かが泣くとそれが悲しいと泣く。
痛いくらいに空に抱きしめられながら、どうして自分の周りにはこんな人ばかりなんだろう、と燐は考えた。どうして自分はその度に何もできないんだろう、とも。
頬を流れる涙はさっきの空のと同じようにすぐに乾いていった。地獄の最果てのようなここでは、泣く事すらまともに出来ない。
涙の川が流れていく
大丈夫ですから、と壁を背にするまで逃げて首をぶんぶんと横に振るペットに、さとりはゆっくりと追い詰めるように近づく。
ここだけを誰かに見られたら、まるで自分が悪者のようだ、と思って頭が痛くなった。
「いいから、見せなさい」
「怪我してません!嫌なこともないです!だから、大丈夫ですってば!」
目からだらだら涙をこぼしているのを、普通大丈夫だとは言わないだろう。
さとりは一つため息を吐いて、とりあえず今の彼女が一番嫌がることをしてみた。
二呼吸ほど間を置いて、どういう仕組みがわからないが目元から生まれた水滴が、次から次へとカーペットに落ちては染みを作る。どこも痛くは無いが、ただ視界がぼやけて鬱陶しかった。
「さとり様のばか」
ぺたりと崩れ落ちるように座り込んで、燐は膝を抱えてうつむいた。責めるように伝わってくる悲しみに眉をひそめて、さとりは赤色の頭を撫でる。
「仮にも主に向かってばかはないでしょう」
「あなたの、そういう所が、あたいは、嫌いなんです」
途切れ途切れに呟きながらしゃくり上げる燐の頭を撫でながら、しばしさとりは謝るべきかそれともたしなめるべきか悩んだ。
どちらも場にはそぐわない気がするのだが、それ以外の動作が思い浮かばないのも事実だ。
「こんなに泣いたら、川が出来そうね、涙で」
「……なんですか、それ」
泣きはらして赤くなった目で、きょとんとした顔をして燐が見上げてくる。
昔、まだ地霊殿も無かった頃に泣いていた自分に、慰めるように言ったのは確か妹だったか。
「ねぇ、地霊殿にも川が出来たら素敵じゃない?」
「あたいは、さとり様やこいし様にはいつも笑っていて欲しいんですよ」
「別に悲しい訳でも、辛い訳でもないのよ」
さっきまで同じ理由で泣いていたからわかっているだろうに、燐はいやいやとでもするように首を振った。
膝立ちのまま燐は、さとりをしがみつくように抱きしめる。
どこかに行かないで、と口には出さずに訴えられる。
「今がとても幸せなんです。好きなひと達が側にいて、あたいに笑いかけてくれてあたいも笑って、そんなのが明日も明後日も一ヶ月後もずっとずっと続けばいいと思ってるんです。終わるのならここがいいんです」
さとりの腹に顔を押しつけるようにして、燐は泣きながら切れ切れに言った。さとりの顔から伝い落ちる涙が、ぽたりぽたりと燐の肩に染みをつくる。
早くこの、雨のように流れ落ちる涙を拭かなければ。このままでは燐を濡らしてしまう。
そう思いながら、腹から伝わってくるぬくもりは残酷な程にあたたかで、さとりは燐を撫でる手を止められなかった。
涙の川を運んでいく
近くに寄らない方がいいわ、と言ってから姉は数日部屋に引きこもったままだったが、そもそも彼女の言う事をまともに聞く方がこいしは少なかった。
ついさっきねじ切ったドアノブを放って、さとりの傍に近づく。さとりは何も言わず、ただ息を深く吐いた。
いつも通りの無表情のさとりの両目からは透明な水がひっきりなしに垂れ流されて、それを涙と理解するのに多少の時間がかかった。
「寄るなって言ってたの、その目のせい?」
「うつるのよ。あと、泣き顔なんて見ても楽しくは無いでしょう」
「ペット達心配してたよ。声、読めてるんでしょ」
「言っても心配するのは変わらないわ」
そう溜息のように呟いてから、さとりは膝の上に放っていたタオルで目元を押さえる。
地底で畏れられ嫌われてこそいるが、姉はそこまでの悪党ではないとこいしは思っている。
たまに、惨い程にやさしいだけで。
「ねぇお姉ちゃんのそれ、私にうつしてよ」
「泣くわよ?」
「泣いてみたいの」
ここ何年、ひょっとしたら何十年もこいしは泣いた覚えが無かった。
涙分けてちょうだい、とこいしは笑いながら、涙が止まらないさとりの瞼に睫毛を擦りつけるように顔を近づけた。
いくら目をつぶってその瞬間を待っても、頬を液体が流れる感触は来なかった。
「うつらない、ね」
「でも私の涙は止まったわ」
「ならよかった」
「全然よくないわ」
二日経ってもこいしの目から涙は一滴も零れようとはしなかった。
つまらない、と思いながらいつものようにふらふらと地上に出て、神社ですれ違った魔理沙の目の上を手で触ってみる。
だらり、と水があふれた。
魔理沙の顔から零れた涙が手を濡らして、思わずこいしは何歩か後ずさった。どうやらこいしの中に涙は存在しないのかもしれない。
なんだこれェ、と悲鳴のような声が背中の方でする。どうすればいいのかわからず、ごめんなさい、とだけ呟いて逃げるようにこいしは地面を蹴った。
涙の川を作っていく
美鈴が泣いていた事に気付いたのは、彼女が食事の時にも姿を見せなくなって三日目の夜だった。
門の脇でうずくまるようにして、膝を抱えて顎から滴るくらいに泣いている。
咲夜に、ナイフを投げられても弾幕で負けてもひどい事を言われても、いつもにこにこと笑ってばかりなのに、泣いた事など一度も無いのに、今の美鈴はぼろぼろと両の眼から涙をこぼしていた。
どうも止まらなくて、と咲夜の方を振り向いて、美鈴はへらりと笑う。妖怪だからなのか、人間と笑いどころがずれている気がする。
熱でもあるんじゃないの、と言いながら額を触れば、ああ、と美鈴は至極残念そうな顔をした。
「魔理沙さんが泣いてて、触ったらうつっちゃいまして」
そういえば黒白魔法使いも最近姿を見ていない。
滲む視界をぐいぐいと腕で拭っていれば、目が痛みますよ、と美鈴に抑えられた。
拭ったばかりなのに、次から次へと涙は溢れてくる。
泣く事よりも、こんなにも自分の中に涙があった事の方が咲夜は不思議だった。
「咲夜さん、哀しいですか?どこか、痛んだりしますか?」
黙って首を振れば、じゃあ笑ってください、と言われる。声は穏やかだったが、簡単に嫌と言えない程度の強さは含んでいた。
「なん、で?」
「咲夜さんの泣き顔は好きじゃないんです、それに」
目元に残っていた涙の名残を腕で拭って、美鈴がすくっと立ち上がる。
見上げた直後にぐいと見下ろされて、喰われるかもしれない、と唐突に咲夜は思った。
瞳は縦に割れてなんていないのに、今はこの門番がひどくこわい。
これは人を喰う妖怪。人間の意志など鑑みる事など生涯無い。だから、彼女は門番なのだ。
「泣いた後は笑わなきゃいけないんです」
これが真理とだとでも言いたげに、美鈴はにっこりと笑って言い切った。
馬鹿げてるわ、ととめどなく溢れてくる涙をぬぐいながら咲夜が苦笑すれば、それでいいんですと満足そうに美鈴は笑う。
その子供相手にするような笑顔が無性に悔しくなって、咲夜は心にも無い事を口にしてみる。
「これ、鬱陶しいからあなたにもう一回うつそうかしら」
「咲夜さんが存分に泣いた後ならいいですよ」
さっきまで泣いていたのが見間違いとすら思えるように、美鈴はいつもの陰りない笑顔を浮かべている。
ここで手を伸ばして美鈴の目を触ろうとしたら、何度か避ける振りをした後に避けそこなった振りをして、己の瞼を咲夜の手に触れさせるのだろう。
大人ぶらないでよ、と咲夜が悔し紛れに美鈴の肩を拳で叩けば、子供みたいですよ、と笑われた。腹が立つ。
涙の川を枯らしに行く
咲夜が何を考えているのか、急にぷつりと姿を見せなくなった。
いなくなっても彼女の仕事ぶりに変わりはなく、レミリアが紅茶が飲みたいと思ってメイドを探そうと立ち上がれば、目の前に湯気が立つ紅茶が入ったカップとティーポットが置かれていた。
「咲夜」
紅茶は飲みたい時にもっとも美味しい温度で出てくる。お茶菓子付きで。
掃除はいつも以上に目を光らせているらしく、妖精メイド達はまめに働いている。
だからといって、姿を見せなくてもいい訳などないとなぜわからない。
「ねぇ咲夜、いるんでしょ?」
返答はない。それでも近くには必ずいる筈なのだ。
さーくーやぁ、と少々舌ったらずな風に呼んでみる。
来ない。
さくやっ、と声を僅かに荒げてみる。
来ない。
さーくーやっ、と窓ガラスが震えるほどに怒鳴れば、ここに、とやっと背中の方で待ち望んだ声がした。
振り向けば、お決まりの笑みとお決まりのポーズの十六夜咲夜が立っていた。
いつもと違うと言えば、目から涙が二筋とめどなく流れているだけだ。
涙をじっと見ていれば視線に気付いたのか、見苦しい様で申し訳ございません、と咲夜が頭を下げた。
「最近いなかったのってそれのせい?」
「貰いものでして。どうやら誰かに触ると、この涙はうつるのです」
「ふーん」
「ですから、お嬢様や妹様にうつしては申し訳ないと思いまして姿を消しておりました」
あ、そう、と言いながらレミリアは背伸びをして咲夜の瞼の上を撫でた。
お嬢様ッ、と珍しく慌てて咲夜はレミリアの手を掴んでから顔を見て、目を大きく見開いた。
「あのね、自分の弱点を目から垂れ流す生き物はいないわ」
涙がぴたりと止まった咲夜の呆気にとられた顔が面白くて、レミリアはせり上がってくる笑いを噛み殺す。
吸血鬼は泣けない。涙腺らしきものはあるが、涙を流す行為そのものが出来ないようになっている。
どんなに悲しくても痛くても獣のように吠える事しかできないから、楽しい事だけ考えようとする。
ずっと笑っていられるように。
「わかったら、準備お願い」
「何の?」
「咲夜もいる事だし夜の散歩よ。神社まで行くわ」
「……わかりました、少々お待ちください」
いつ拭いたのか、さっぱりとした顔の咲夜が頭を下げ、次の瞬間には咲夜の手にはレミリアの日傘があった。
ほら早く、と咲夜の手を取る。一瞬またうつらないかとひやりとしたが、目元でなければ大丈夫のようだった。
変わり事は、起こすものか巫女に押し付けるものと相場が決まっている。
咲夜の目に触れた時からぼんやりと感じてはいたが、目元の痛痒感が気のせいではないとレミリアは確信した。
手の甲でこすってみるが、多少紛れる程度で消えはしなかった。
しばらく両眼をこすっていれば、なんだか泣いているみたいですよ、と咲夜が言った。
「咲夜、目がかゆい」
「お嬢様、私のせいなのは大変申し訳ないのですが、お行儀が悪いです」
「わかってる。誰かに見られないうちに早く飛ぶわよ」
「わかりました」
黙って空を飛ぶ速度を早めても、咲夜が持つ日傘は相変わらず月の光を遮っていた。
つくづく、何事にも器用な人間だと思う。嫌な言い方をすれば、使い勝手がよすぎる。
だから、百年生きた魔女も五百年生きた吸血鬼も、こんな生まれてから二十年やそこらの小娘にぶら下がるようにして生きてしまっている。
「こうしていると、あの夜が終わらない時を思い出すわね。あと肝試しとか」
「お嬢様」
たしなめる時の口調で遮られる。わかってるわよ、とレミリアが返せば、申し訳ございません、と咲夜が静かに言った。
嘘だ。わかっていない。諦めてもいない。
それでもレミリアが咲夜に止められるたびに口を噤むのは、咲夜を言い負かす言葉も打ち負かす手段も持っていないからだ。
泣いて泣いて、みっともなく鼻水でも垂らして、どうか行かないでくれ人間をやめてくれ、と頼む事が出来たとしたら何か変わるのだろうか。
きっと何も変わらないのだろう。レミリアの顔を綺麗に拭いた後で、申し訳ございません、と静かに笑って頭を下げるのがこのメイドだ。
「……だから人間なんて、嫌いよ」
呟いたつもりはなく、聞こえた自分の言葉にレミリアの方が驚いていた。
咲夜の方を見れば、少し困ったように眉根を下げて、それでいいのだと思います、と笑った。
レミリアは何か言おうと思ったが、今ここで何を言っても咲夜を困らせる気がして言葉を無くす。
笑っていられなくなる日の事を考えれば、急に目眩を覚えた気がして、レミリアは振り払うように黙って頭を振った。
泣きたい気分というのは、こんな時の事をいうのだろうか。
いつも通りにかにかと笑っている顔を、涙が伝ってはすぐに蒸発して消えていく。
空の仕事場は灼熱地獄の中でも特に暑いから、燐は息を吸い込むたびに肺が乾く気がする。
「お空どうしたの?どっか怪我した?痛い?悲しい?」
「あー、そういうんじゃなくて」
なんか出ちゃう、と言って、またにかにかと空は笑う。
特に笑うことに意味は無いのだろう。泣くよりは笑った方がいいじゃん、ぐらいの理由だ。きっと。
「拭きなよ。」
「だって止まらないし、すぐ乾くよ」
まだ小さかった頃は、体を寄せ合ってよく泣いていたような気がする。どちらともなく泣くのを堪えるようにしたのはいつだったか。
深い考えは無く、怪我をした場所を手で撫でるような心持ちで、燐は空の両目を片手で覆った。
すぅっと水が引くように空の涙は止まり、代わりとばかりに燐の視界は滲んでうまく見えなくなった。
泣くのは、空が異変を起こそうとした時以来だ。
あの時は涙を拭う暇すら惜しくて、必死で怨霊を地上に送っていた。それに比べれば、今は満ち足りすぎている。
「はは、うつっちゃった」
今度は自分の目からだらだらと零れ落ちる涙をぬぐいながら、燐が困ったように笑えば空は泣いていた時とは別物のようなひどい顔をして、ごめんね、と呟いた。
「お空が謝ることないよ」
「だって、それ私のせいじゃん」
「いいからいいから。ほら、また泣きそうになってる」
「やだよぅ、お燐泣くのやだ」
昔から空はこうだった。己の痛みにはおそろしく鈍いのに、誰かが泣くとそれが悲しいと泣く。
痛いくらいに空に抱きしめられながら、どうして自分の周りにはこんな人ばかりなんだろう、と燐は考えた。どうして自分はその度に何もできないんだろう、とも。
頬を流れる涙はさっきの空のと同じようにすぐに乾いていった。地獄の最果てのようなここでは、泣く事すらまともに出来ない。
涙の川が流れていく
大丈夫ですから、と壁を背にするまで逃げて首をぶんぶんと横に振るペットに、さとりはゆっくりと追い詰めるように近づく。
ここだけを誰かに見られたら、まるで自分が悪者のようだ、と思って頭が痛くなった。
「いいから、見せなさい」
「怪我してません!嫌なこともないです!だから、大丈夫ですってば!」
目からだらだら涙をこぼしているのを、普通大丈夫だとは言わないだろう。
さとりは一つため息を吐いて、とりあえず今の彼女が一番嫌がることをしてみた。
二呼吸ほど間を置いて、どういう仕組みがわからないが目元から生まれた水滴が、次から次へとカーペットに落ちては染みを作る。どこも痛くは無いが、ただ視界がぼやけて鬱陶しかった。
「さとり様のばか」
ぺたりと崩れ落ちるように座り込んで、燐は膝を抱えてうつむいた。責めるように伝わってくる悲しみに眉をひそめて、さとりは赤色の頭を撫でる。
「仮にも主に向かってばかはないでしょう」
「あなたの、そういう所が、あたいは、嫌いなんです」
途切れ途切れに呟きながらしゃくり上げる燐の頭を撫でながら、しばしさとりは謝るべきかそれともたしなめるべきか悩んだ。
どちらも場にはそぐわない気がするのだが、それ以外の動作が思い浮かばないのも事実だ。
「こんなに泣いたら、川が出来そうね、涙で」
「……なんですか、それ」
泣きはらして赤くなった目で、きょとんとした顔をして燐が見上げてくる。
昔、まだ地霊殿も無かった頃に泣いていた自分に、慰めるように言ったのは確か妹だったか。
「ねぇ、地霊殿にも川が出来たら素敵じゃない?」
「あたいは、さとり様やこいし様にはいつも笑っていて欲しいんですよ」
「別に悲しい訳でも、辛い訳でもないのよ」
さっきまで同じ理由で泣いていたからわかっているだろうに、燐はいやいやとでもするように首を振った。
膝立ちのまま燐は、さとりをしがみつくように抱きしめる。
どこかに行かないで、と口には出さずに訴えられる。
「今がとても幸せなんです。好きなひと達が側にいて、あたいに笑いかけてくれてあたいも笑って、そんなのが明日も明後日も一ヶ月後もずっとずっと続けばいいと思ってるんです。終わるのならここがいいんです」
さとりの腹に顔を押しつけるようにして、燐は泣きながら切れ切れに言った。さとりの顔から伝い落ちる涙が、ぽたりぽたりと燐の肩に染みをつくる。
早くこの、雨のように流れ落ちる涙を拭かなければ。このままでは燐を濡らしてしまう。
そう思いながら、腹から伝わってくるぬくもりは残酷な程にあたたかで、さとりは燐を撫でる手を止められなかった。
涙の川を運んでいく
近くに寄らない方がいいわ、と言ってから姉は数日部屋に引きこもったままだったが、そもそも彼女の言う事をまともに聞く方がこいしは少なかった。
ついさっきねじ切ったドアノブを放って、さとりの傍に近づく。さとりは何も言わず、ただ息を深く吐いた。
いつも通りの無表情のさとりの両目からは透明な水がひっきりなしに垂れ流されて、それを涙と理解するのに多少の時間がかかった。
「寄るなって言ってたの、その目のせい?」
「うつるのよ。あと、泣き顔なんて見ても楽しくは無いでしょう」
「ペット達心配してたよ。声、読めてるんでしょ」
「言っても心配するのは変わらないわ」
そう溜息のように呟いてから、さとりは膝の上に放っていたタオルで目元を押さえる。
地底で畏れられ嫌われてこそいるが、姉はそこまでの悪党ではないとこいしは思っている。
たまに、惨い程にやさしいだけで。
「ねぇお姉ちゃんのそれ、私にうつしてよ」
「泣くわよ?」
「泣いてみたいの」
ここ何年、ひょっとしたら何十年もこいしは泣いた覚えが無かった。
涙分けてちょうだい、とこいしは笑いながら、涙が止まらないさとりの瞼に睫毛を擦りつけるように顔を近づけた。
いくら目をつぶってその瞬間を待っても、頬を液体が流れる感触は来なかった。
「うつらない、ね」
「でも私の涙は止まったわ」
「ならよかった」
「全然よくないわ」
二日経ってもこいしの目から涙は一滴も零れようとはしなかった。
つまらない、と思いながらいつものようにふらふらと地上に出て、神社ですれ違った魔理沙の目の上を手で触ってみる。
だらり、と水があふれた。
魔理沙の顔から零れた涙が手を濡らして、思わずこいしは何歩か後ずさった。どうやらこいしの中に涙は存在しないのかもしれない。
なんだこれェ、と悲鳴のような声が背中の方でする。どうすればいいのかわからず、ごめんなさい、とだけ呟いて逃げるようにこいしは地面を蹴った。
涙の川を作っていく
美鈴が泣いていた事に気付いたのは、彼女が食事の時にも姿を見せなくなって三日目の夜だった。
門の脇でうずくまるようにして、膝を抱えて顎から滴るくらいに泣いている。
咲夜に、ナイフを投げられても弾幕で負けてもひどい事を言われても、いつもにこにこと笑ってばかりなのに、泣いた事など一度も無いのに、今の美鈴はぼろぼろと両の眼から涙をこぼしていた。
どうも止まらなくて、と咲夜の方を振り向いて、美鈴はへらりと笑う。妖怪だからなのか、人間と笑いどころがずれている気がする。
熱でもあるんじゃないの、と言いながら額を触れば、ああ、と美鈴は至極残念そうな顔をした。
「魔理沙さんが泣いてて、触ったらうつっちゃいまして」
そういえば黒白魔法使いも最近姿を見ていない。
滲む視界をぐいぐいと腕で拭っていれば、目が痛みますよ、と美鈴に抑えられた。
拭ったばかりなのに、次から次へと涙は溢れてくる。
泣く事よりも、こんなにも自分の中に涙があった事の方が咲夜は不思議だった。
「咲夜さん、哀しいですか?どこか、痛んだりしますか?」
黙って首を振れば、じゃあ笑ってください、と言われる。声は穏やかだったが、簡単に嫌と言えない程度の強さは含んでいた。
「なん、で?」
「咲夜さんの泣き顔は好きじゃないんです、それに」
目元に残っていた涙の名残を腕で拭って、美鈴がすくっと立ち上がる。
見上げた直後にぐいと見下ろされて、喰われるかもしれない、と唐突に咲夜は思った。
瞳は縦に割れてなんていないのに、今はこの門番がひどくこわい。
これは人を喰う妖怪。人間の意志など鑑みる事など生涯無い。だから、彼女は門番なのだ。
「泣いた後は笑わなきゃいけないんです」
これが真理とだとでも言いたげに、美鈴はにっこりと笑って言い切った。
馬鹿げてるわ、ととめどなく溢れてくる涙をぬぐいながら咲夜が苦笑すれば、それでいいんですと満足そうに美鈴は笑う。
その子供相手にするような笑顔が無性に悔しくなって、咲夜は心にも無い事を口にしてみる。
「これ、鬱陶しいからあなたにもう一回うつそうかしら」
「咲夜さんが存分に泣いた後ならいいですよ」
さっきまで泣いていたのが見間違いとすら思えるように、美鈴はいつもの陰りない笑顔を浮かべている。
ここで手を伸ばして美鈴の目を触ろうとしたら、何度か避ける振りをした後に避けそこなった振りをして、己の瞼を咲夜の手に触れさせるのだろう。
大人ぶらないでよ、と咲夜が悔し紛れに美鈴の肩を拳で叩けば、子供みたいですよ、と笑われた。腹が立つ。
涙の川を枯らしに行く
咲夜が何を考えているのか、急にぷつりと姿を見せなくなった。
いなくなっても彼女の仕事ぶりに変わりはなく、レミリアが紅茶が飲みたいと思ってメイドを探そうと立ち上がれば、目の前に湯気が立つ紅茶が入ったカップとティーポットが置かれていた。
「咲夜」
紅茶は飲みたい時にもっとも美味しい温度で出てくる。お茶菓子付きで。
掃除はいつも以上に目を光らせているらしく、妖精メイド達はまめに働いている。
だからといって、姿を見せなくてもいい訳などないとなぜわからない。
「ねぇ咲夜、いるんでしょ?」
返答はない。それでも近くには必ずいる筈なのだ。
さーくーやぁ、と少々舌ったらずな風に呼んでみる。
来ない。
さくやっ、と声を僅かに荒げてみる。
来ない。
さーくーやっ、と窓ガラスが震えるほどに怒鳴れば、ここに、とやっと背中の方で待ち望んだ声がした。
振り向けば、お決まりの笑みとお決まりのポーズの十六夜咲夜が立っていた。
いつもと違うと言えば、目から涙が二筋とめどなく流れているだけだ。
涙をじっと見ていれば視線に気付いたのか、見苦しい様で申し訳ございません、と咲夜が頭を下げた。
「最近いなかったのってそれのせい?」
「貰いものでして。どうやら誰かに触ると、この涙はうつるのです」
「ふーん」
「ですから、お嬢様や妹様にうつしては申し訳ないと思いまして姿を消しておりました」
あ、そう、と言いながらレミリアは背伸びをして咲夜の瞼の上を撫でた。
お嬢様ッ、と珍しく慌てて咲夜はレミリアの手を掴んでから顔を見て、目を大きく見開いた。
「あのね、自分の弱点を目から垂れ流す生き物はいないわ」
涙がぴたりと止まった咲夜の呆気にとられた顔が面白くて、レミリアはせり上がってくる笑いを噛み殺す。
吸血鬼は泣けない。涙腺らしきものはあるが、涙を流す行為そのものが出来ないようになっている。
どんなに悲しくても痛くても獣のように吠える事しかできないから、楽しい事だけ考えようとする。
ずっと笑っていられるように。
「わかったら、準備お願い」
「何の?」
「咲夜もいる事だし夜の散歩よ。神社まで行くわ」
「……わかりました、少々お待ちください」
いつ拭いたのか、さっぱりとした顔の咲夜が頭を下げ、次の瞬間には咲夜の手にはレミリアの日傘があった。
ほら早く、と咲夜の手を取る。一瞬またうつらないかとひやりとしたが、目元でなければ大丈夫のようだった。
変わり事は、起こすものか巫女に押し付けるものと相場が決まっている。
咲夜の目に触れた時からぼんやりと感じてはいたが、目元の痛痒感が気のせいではないとレミリアは確信した。
手の甲でこすってみるが、多少紛れる程度で消えはしなかった。
しばらく両眼をこすっていれば、なんだか泣いているみたいですよ、と咲夜が言った。
「咲夜、目がかゆい」
「お嬢様、私のせいなのは大変申し訳ないのですが、お行儀が悪いです」
「わかってる。誰かに見られないうちに早く飛ぶわよ」
「わかりました」
黙って空を飛ぶ速度を早めても、咲夜が持つ日傘は相変わらず月の光を遮っていた。
つくづく、何事にも器用な人間だと思う。嫌な言い方をすれば、使い勝手がよすぎる。
だから、百年生きた魔女も五百年生きた吸血鬼も、こんな生まれてから二十年やそこらの小娘にぶら下がるようにして生きてしまっている。
「こうしていると、あの夜が終わらない時を思い出すわね。あと肝試しとか」
「お嬢様」
たしなめる時の口調で遮られる。わかってるわよ、とレミリアが返せば、申し訳ございません、と咲夜が静かに言った。
嘘だ。わかっていない。諦めてもいない。
それでもレミリアが咲夜に止められるたびに口を噤むのは、咲夜を言い負かす言葉も打ち負かす手段も持っていないからだ。
泣いて泣いて、みっともなく鼻水でも垂らして、どうか行かないでくれ人間をやめてくれ、と頼む事が出来たとしたら何か変わるのだろうか。
きっと何も変わらないのだろう。レミリアの顔を綺麗に拭いた後で、申し訳ございません、と静かに笑って頭を下げるのがこのメイドだ。
「……だから人間なんて、嫌いよ」
呟いたつもりはなく、聞こえた自分の言葉にレミリアの方が驚いていた。
咲夜の方を見れば、少し困ったように眉根を下げて、それでいいのだと思います、と笑った。
レミリアは何か言おうと思ったが、今ここで何を言っても咲夜を困らせる気がして言葉を無くす。
笑っていられなくなる日の事を考えれば、急に目眩を覚えた気がして、レミリアは振り払うように黙って頭を振った。
泣きたい気分というのは、こんな時の事をいうのだろうか。
泣かなかったキャラが泣いたキャラよりかなしいなんて
誰の言葉かは覚えていませんが、ふと思い出しました。
とても、とても綺麗な話でした。
しかもこんなきれいな泣き顔を。 ありがとう