少女は一人で生きてきた。
両親はとうに死んでいる。それでも少女は一人で生きてきた。
人に焦がれた事もある、だけど焦がれた人はあっという間に灰になる。
他の人間は、少女に比べて少々脆く、やがて命の炎に燃やし尽くされてしまう。
少女は燃えない体を持っていたので、これまで炎の中で生きてきた。
少女は一人で生きてきた。
ある日、いつものように森で食料を探していると、少女は鳴き声を聞いた。
今にも死にそうな、だけど生きたいと叫ぶ必死な声を聞いた。
声を頼りに薄暗い道を進み、立ちふさがる木々を退け、ようやくそれを見つけた。
隠れるようにそこにいたのは、汚くてみすぼらしくて死んでしまいそうな小さな猫。
傍らには、その兄弟だったものが転がっている。
少女は何度もそんな光景は見てきたから、なんの感慨も浮かんでこない。
けれど、叫ぶその子を見て、手を伸ばしてしまう。
「貴方はもうちょっと生きてみたい?」
少女は一人で生きてきた。
だから動物の世話なんてした事はない。彼女にとって、他の動物は食われるか食うかの関係だったから。
ひとまず自分の小屋に連れ帰って体を洗ってやった。
目ヤニや汚れを落とし終わると、黒かった猫の体は淡い灰色に変わった。ふと、少女は自分の姿を見て思う。
綺麗に洗えば、自分も綺麗になるのかと。すぐに頭を振って考え事を振り落とす。
そんな子どものような考えなんて、少女はもう持っていないと言い聞かせるように。
子猫の鳴き声に少女は慌てて向き直る。どうしたのかと体を撫でながら調べてみる。
怪我をしている様子はない。けれど骨ばった体の感触が、死んでいるのか生きているのか判らなくさせる。
とにかく、何かを食べさせようと少女は思った。少女が餓死した時はまさにこんな感じだった気がしたからだ。
しかし猫が食べるようなものは、生憎と空き家だったこの小屋にはない。
少女は子猫を抱きかかえ、外へと走った。
人間の医者に頼るなんてよほど気が動転していた、と少女は落ち着いてから恥じる。
結果的には猫に食べさせるものと処置の仕方が判ったので問題はないのだが。
胸元で毛布にくるまれたままの子猫を見る。まだ息をしているが決して元気ではない。
砂糖を溶かした水を布に含ませ、猫の口元に近づける。
これでちゃんと元気になるのか、不安ではあるが医者の言葉を信じる他ない。
半ば強引に口にねじ込もうとすると、猫は自分からそれをくわえた。
思わず少女に笑顔が満ちる。自分の手で小さな命を救える、そう思えた。
差し込んできた太陽の光で、少女は目を覚ます。いつの間にか寝てしまったらしい。
少女は慌てて抱いていた毛布の中を確認する。不安に駆られながら、恐る恐る毛布をめくった。
「みゃあ」
小さな声に、ほっと胸を撫で下ろす。生きていてくれた、それだけが少女にとってはありがたい事だった。
彼女に比べて、他の生き物はあまりにあっけなく死んでしまう。
だから、ただ生きていてくれた事が、少女にとっては嬉しかった。
生かす事が殺す事に比べて何より大変なのは、死ぬまで続けなければならない事だろう。
まず、温めていなければ寒さで死んでしまう。だから毛布に包んでずっと温めている。
次に、何か食べさせなければ飢えで死んでしまう。だから無理にでも砂糖水を飲ませている。
さらに、綺麗にしてあげなければ病気で死んでしまう。だから寝床も毎日掃除している。
それでも少女は文句を言わず、懸命に子猫の世話を続けた。
「頑張れ」そう語りかけながら。
少女は一人で生きてきた。
けれど、一年前からは小さな友人が常にそばにいた。
少女に比べてとても弱い、死の淵でもがく友人がそばにいた。
彼女は自分の名をもじり、幸せになるようにと、友人に姉幸(ねこう)と名付けた。
初めてその子を姉幸と呼んでから、早いもので一年ほどになる。
一年の間で姉幸は成長し、ご飯も自分からせがむようになった。
餌を用意するのに苦心するようにはなるが、それは些細な問題である。
少女にとっては、一緒に生きていてくれるだけで十分なのだから。
ご飯を戻した時は何が悪かったのかと不安に苛まれた。
下痢をした時はどうすれば治るのかと必死に考えた。
この頃は、とてもとても大変で、とてもとても幸せだった。
少女は一人で生きてきた。
でも今では、友人と一緒、一人と一匹で過ごしている。もう二年になろうとしていた。
二年目は、穏やかな日々だった。
この頃になると少女と姉幸の間に距離は無くなっていた。
居て欲しい時は名前を呼び、離れたい時はそっとどこかへ行く。
ときどき一人でどこかへ出かけ、ときどき一緒にどこかへ出かけ、のんびりと過ごす。
彼女と姉幸はお互いを大事な存在だと強く感じて過ごしていた。
少女は一人で生きてきた。
そんな一人の日々が、少女はもうだいぶ遠くに感じ始めていた。
少女の隣に友人がいるようになって、三年になる。
気づけば隣に姉幸が居る事が当たり前になっていた。
名前を呼べばいつでも顔を見せてくれる、たまにどこかへ行ってしまうけど。
姉幸が少女を呼べばいつでもエサを出してやる、たまに忘れて遅れてしまうけど。
寒い時は温かい場所で一緒になって、身を寄せ合って眠る。
暑い時は涼しい場所を取り合って、横顔を見つめて眠る。
それが日常だった。
少女は一人で生きてきた。
しかし、今は一人じゃない。一人で過ごした日々は忘れない。
それでも、もうその日々に戻る事は想像すらしていなかった。
隣に姉幸がいるようになって四度目の春が来ようとしていた。
「姉幸、姉幸、ご飯の用意が出来たわよ」
少女が名前を呼ぶ。それでも姉幸は現れない。
いつもならご飯を用意するだけで飛んでくるのに、と訝しがる。
ご飯を姉幸の寝床のそばに置き、少女は外へ飛び出す。
春が近いとはいえ、まだまだ夜は冷え込む。さすがに一晩外に居ては体を壊してしまうだろう。
それに、一緒に寝てくれないと自分も寒くて眠れないじゃないか。
誰に言うでもなく、少女は寒空の中をただただ歩いた。
しばらくして、まだつぼみのままの桜の下に見つける。
いつかのように、隠れるようにしてそこにいた猫を。
体が冷え切ってしまった猫を毛布に包んで必死に抱きしめる。
自分の温もりを分け与えられたら、自分の命を分け与えられたら、少女は嘆く。
まだ息をしている、まだ目が動いている、まだ生きている、少女は信じる。
死なせたくない、死んで欲しくない、少女は必死に願う。
「生きたいんじゃなかったの? ねぇ、姉幸」
差し込んできた太陽の光で、少女は目を覚ます。いつの間にか寝てしまったらしい。
少女は慌てて抱いていた毛布の中を確認する。不安に駆られながら、恐る恐る毛布をめくった。
「 」
手も、足も、体の一部も動かない。
まるで作り物のように硬く、抱かれたままの姿で時が止まったかのよう。
時が止まって、姉幸は、生きているかのようだった。
「姉幸」
頭を撫でる。冷たい感触と耳を触っても微動だにしない事が、少女にそれを気づかせた。
「姉幸」
腹を撫でる。硬い感触とがちがちに固まった手足が、少女にそれを確信させた。
「姉幸」
頬を撫でる。少女はそれを受け入れた。
「ごめん、ごめんね、ごめんね、ごめんね。 ごめんよ、姉幸、ごめんよ」
「ごめんよ」
桜に向かって呟く。そんな少女を見て、慧音は不思議に思う。
「どんな趣で桜に謝っているんだ?」
少女は笑って答える。
「何でもないよ。 私の思い出を語っていったらそれだけで日が暮れるわ」
「それもそうだな」
素直に慧音は肯定する。彼女の思い出は覗いた事は無いが、間違いなく胃もたれになる量だろうと慧音は思う。
一人で納得している慧音を見て、少女は小さな友人をまた思い出す。
少女は一人で生きてきた。
ここに来てから一人、二人、一緒にいる人が増えた。
最近は、もう少し大勢の人が近くにいるようになった。
今、少女はみんなと生きている。
「なぁ、慧音」
声をかけられて、慧音はどうしたのかと聞き返す。
そして、少女がやけに優しい顔をしているのを見て驚き、またどうしたのかと聞いた。
「思い出話を聴いてくれる?」
少女の言葉に、慧音は答えた。
「ああ、聴かせてくれるか、妹紅」
「実はね」
妹紅は、ゆっくりと話し始める。
「猫を拾った事があるの」
よくある死別話ながらも、染み入るような語り口で、しみじみと聴かせて頂きました