一昨年の夏。二度も博麗神社を崩され、伊吹萃香と天狗の助けで再建された後。落成祝いの大宴会で、神社破壊犯のすきま妖怪・八雲紫に訊ねられた。
「貴方は此処が好き?」
此処とは何処のことか。酒盛りの会場になっている夜の神社か、幻想郷そのものか。どちらにしても、
「考えたことなかったわ」
「貴方らしいわね」
博麗霊夢は答えて、朱漆の大盃を深々傾けた。中辛口の、冷やした古酒が喉に沁みた。
気付いたときには、大結界の空を飛んでいた。親の顔は記憶になかった。ある日何者かに連れられて、鳥居をくぐった。紅白の装束に袖を通し、子供の手には大きな幣を握った。博麗の姓と名前、使命を与えられ、巫女となった。結界を見守り妖怪を退治し、異変を解決する。それが仕事で日常だった。日常に、好きも嫌いも意味もない。
あんたはどうなのと、勢いで問いかけてやめた。回答はわかっていたから。「美しく残酷にこの大地から往ね」、だったか。社殿に細工しようとした比那名居天子を、紫は全力で叩きのめした。平時の余裕と怠け振りは何処へやら、怒りで周囲が軋んでいた。決闘を終えた今は、だらしなく隙間に寄りかかっているけれど。お酒くらい自分で注げ。
ほろ酔いの瞳で、紫は辺りを眺めていた。弾幕論を闘わせる、霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドを。火吹き芸で場を沸かせる萃香と、ござに横になる西行寺幽々子を。蘇り立ての博麗神社を。眼下に広がる、幻想郷の夏景色を。この世に二つとない、宝物を見るかのように。古歌のひとつも口ずさみそうだった。
霊夢は紫のようには、世界を見られない。同じ幻想郷の守護者でも。
「もう壊すんじゃないわよ」
「ええ、私の神社ですもの」
何時あんたの所有物になった。突き出された空の猪口を、指で弾いた。
一年二年と季節は巡り、白銀の冬が天地を覆った。紫は恒例の冬眠に入っている。代わりに式神の八雲藍が、大結界を検査して回っていた。狐の尻尾が暖かそうで、数本分けて貰いたかった。
神社の居住空間の畳を退けて、掘り炬燵を出して久しい。境内の雪かきを中断しては、温もりに戻った。時々魔理沙が潜り込んでいた。この炬燵は火力が足りないぜ、私が倍燃やしてやろうか。親指を突き立てた拳で誘われた。とんがり帽子から彼女の秘密兵器、ミニ八卦炉が転がり出た。散々な結果になるのは目に見えている。火事は御免と断った。屋根の凍て雪が一塊落ちた。
妙に寒いと思ったら、裏庭で氷精チルノと雪女のレティ・ホワイトロックが雪合戦をしていた。蛙入りの特製雪玉を、相手の顔面目掛けて投げていた。流れ弾が霊夢の頭にもぶつかった。仕事を増やすな厄介者。大入り退魔符で追い払った。
まともな参拝客は来なかった。
二月になってから、一回も日めくりを破っていなかった。日付の感覚は薄い。時の経過は日差しの色や、空気の匂いから感じ取るものだ。時間にうるさいメイドの十六夜咲夜が買い物帰りに来ていたので、今日が何日か訊いた。人里の版画職人製の、大判日めくりをむしり取っていった。七枚の和紙が床に散った。そのうちの一枚に、立春、節分とあった。紅魔館では鬼退治の豆まきをして、縁起物の太巻きを食べたそうだ。今年の恵方は西南西でしたと、訊ねてもいないのに教えてくれた。報告よりも煎り豆や太巻き寿司そのものが欲しい。お酒のつまみに良さそうだ。帰り際、今日は本当は二月五日よと咲夜は明かし笑った。信用ならない犬だ。
暦の春を過ぎても、雪の融ける気配はない。積もり深まる一方だ。屋根の雪下ろしで腕が疲れた。休憩中にアリスに愚痴を零したら、我が家は人形全自動と自慢された。彼女の対面に座る魔理沙が、数体寄越せと手を出した。同感だ。爆薬入りで良ければと返された。
やっぱりまともな参拝客は来なかった。賽銭箱の底に氷が張っていた。雪風が入り込んで、融けて凍ったのだろう。お湯を入れて引っくり返した。
三杯程度で酔う輩はいない。澄んだ風の晩、神社に集まっていた面子で小宴会を開いた。幽々子が百人一首と、桜の花葉入りのお酒の瓶を持ってきていた。一足早い陽春の味を楽しみ、かるたに興じた。炬燵の天板に取り札を散らばせた。私がやったら全部取れちゃうからと、幽々子が読み手になった。専属庭師の魂魄妖夢に、貴方は私の一番弟子なのだから、七割三厘は取れるわよねと囁いていた。取れぬ札など殆どないと意気込んだ彼女は、天子に大差をつけられていた。年中歌い暮らす私に勝てるはずがないじゃないと、天子は胸を張った。中途半端にしか歌を覚えていない霊夢は、数枚取るのがやっとだった。まあそんなものだと納得した。妖怪退治以外の勝ち負けには、大して興味がない。妖夢と天子を圧倒したのは命蓮寺の村紗水蜜と雲居一輪、千年超えの執念と反射神経で札をものにしていた。ただ入道の雲山でバリケードを作るのは反則だろう。住職の聖白蓮は更にその上を行った。最初こそ和やかに観戦していたものの、中盤に覚醒。超人の聴力と速度で場を荒らした。当たり札の角を豪速で払い、嵐と煙を起こした。硬い紙札が襖に刺さりかけた。今後神社でかるた競争をするのはやめよう。一戦終了後、霊夢は坊主めくりへの競技変更を提案した。
白蓮が蝉丸の札をめくって、此処は幻想郷の逢坂の関なのですねと言っていた。これやこの、行くも帰るも別れては。帰る前に宴の残骸を片付けてくれればいい。
四十数度の湯温が、寒中で凍えた肌に優しい。日暮れ時に、神社の近くに湧いた温泉に行った。かじかんでいた手足が、湯気に触れた瞬間熱くなった。骨の芯からほどけていく。大岩で囲まれた泉の方々に、妖精や妖怪がいた。温泉が参拝客寄せにならないわけだ。水橋パルスィが耳を尖らせ、湯に唇まで浸かって泡を立てていた。楽しそうにしている連中が妬ましいそうな。気に入らないならさっさと上がれ。地霊殿の火焔猫燐と霊烏路空が、人の姿で泳いでいた。せめて動物のままでいればいいものを。ばた足の飛沫が目に入った。飼い主の古明地さとりに苦情を言おうとしたら、我が家は基本放任ですと澄まし顔をされた。妹のこいしが突然湯の中から現れた。大幣を簡易脱衣所に置いてきたのが悔やまれる。唸っていたら、さとりが雪で冷やした瓶牛乳をくれた。カルシウム如きで苛立ちが治まるか。一気飲みの最中に彼女は小声で言った。深いところではどうでもいいのでしょう。怒ろうが呆れようが、貴方の特別は何処にもない。霊夢はわざわざ読解ありがとうと瓶を置いた。何が特別かなんて考えたことがなかった。それより妖怪退治だ。急に周りだけ暗くなった。星は見えない夜には早い。闇の妖怪ルーミアの仕業か。髪と身体を乾かすのもそこそこに、装束をまとって地を蹴った。
五回立て続けにくしゃみが出た。先日の湯冷めが後を引いている。押入れから綿入り半纏を出して着た。防虫線香の渋い匂いが鼻を突いた。休暇中の閻魔の四季映姫・ヤマザナドゥが、心身を健康に保つのも善行だとのたまった。
襟巻きをして里に買出しに行った。円らな雪が斜めに降っていた。こういうとき、有能な部下のいる奴が羨ましくなる。切れかけの緑茶とお酒、味噌やお米を補充した。重いものが多かったので数往復した。お米は少し買い過ぎた。近くにあった稗田の家に分けてやった。お返しにと蕎麦粉のおやきを渡された。稗田阿求は執筆中で出てこなかった。温かいおやきをかじりながら帰った。醤油味の切り干し大根が入っていた。もうちょっとしたら中身は山菜に変わるだろう。リリーホワイトはまだ来ない。
境内に設置した分社の様子を確かめに、山から八坂神奈子と東風谷早苗が下りてきた。早苗が社の雪を風で落とし、藁の小箒で掃き清めた。ついでに屋根の雪を払ってくれと頼んだら、管轄外ですと笑顔で断られた。この巫女は常識と礼儀を取り戻すべきだ。二人と一柱で、砂糖大豆を摘みながらお茶を飲んだ。
六度三分の平熱が、八度四分まで上がった。水銀体温計を振る腕がだるかった。布団を敷いて眠ろうとした。汗で白い着物が肌に貼り付いた。関節痛や喉の痛み、吐き気はなかった。ひたすらに暑苦しくて、寒気がして、頭がふらついた。浮いているみたいだった。いつもと変わらないか。
枕元でフラッシュが焚かれた。新聞記者天狗の射命丸文が、写真機を構えていた。『博麗の巫女、鬼の霍乱』という大見出しの新聞が届けられた。活字は読みたくなかった。写真の私は、半分口を開けて荒く呼吸していた。追い払うべきだった。
記事を読んだのか、人妖が様子を見に訪れた。
魔理沙は森の茸を持ってきた。身体にいいそうだ。赤褐色の斑点があった。パチュリー・ノーレッジの書庫の図鑑で見た、笑い茸に似ている気がした。口に入れるのはやめておいた。
吸血鬼のレミリア・スカーレットが、咲夜を連れてやってきた。指を差して人間の貧弱さを笑い、鬼には程遠いわねと評した。咲夜は霊夢の額に手を当てて目を細めた。馬鹿は風邪を引かないと言うわ、馬鹿脱出おめでとう。出て行けと怒鳴った。細い雨が降り出した。泊めてやるしかなかった。
夜雀ミスティア・ローレライが、元気になれと陽気に唄っていた。騒々しい、高熱の上に鳥目にするつもりか。退治して戻ったら熱が増した。
竹林の薬師・八意永琳が医療鞄を携えて入ってきた。霊夢の様子を見るなり、開けた鞄を閉じた。放っておけば治るそうだ。放っておいて欲しい。永遠亭の住民達は、霊夢の寝床の横で酒宴を始めた。診察代と称して、秘蔵の甕酒の封を解いていた。腹を立ててねだった。寝酒は良くないと、毒々しい苔色の薬草粥を出された。苦かった。
ずっと雪下ろしをしていないのに、神社は潰れなかった。
日めくりは誰かの手で毎日めくられていた。
異教の呪文を複数人が唱えていた。お経か。
梅や冬薔薇や桃の実の香りが枕辺に添えられた。
皆がいて、霊夢がいた。
七度台前半まで、熱が下がった。未だにだるさは抜けなかった。伸びをして左右に転がった。肩が鳴った。
西日が遠方から射していた。起き上がって戸を閉めた。脚はよろけなかった。白梅の枝を挿した花瓶に、つまづいたけれど。花弁の縁は乾いて丸まっていた。
誰もいなかった。社殿にも境内にも上空にも。今日は客人なしかもしれない。久々に静かに眠れる。満足して毛布に包まった。
具合の悪いときは人恋しくなるもんだぜと、茸を片手に魔理沙がにやけていた。人恋しくなる暇もなかった。他人を欲する気持ちもあまり理解できない。
仮に風邪をこじらせて逝っても、次の博麗の巫女が選出されるだけ。姓も名も貰い物で、これと言って愛着がない。今際の時に呼びたい奴もいない。雲のように行き、水のように流れて消える。巫女も神社も幻想郷も死も、当たり前の日常の一部だ。
霊夢は此処にいて、何処にもいない。誰とも交わらない。
(なんて言ったら、あいつは笑うのかな)
胡散臭い微笑みが、ふと脳裏を掠めた。
八雲紫が、眠りの国から帰還した。立春からうんと遅れて、博麗神社に現れた。
快気祝いの宴会の後片付け中に、空間に黒い線が走った。両端をリボンで括った隙間が広がって、紫色のドレスの妖女が登場した。室内で日傘、金髪から雪粒が落ちる、突っ込みたい点は色々あったが、
「グッドモーニング。いい子にしてたかしら」
「今何時だと思ってるの。夜更けよ」
「合ってるじゃない」
とりあえず挨拶を指摘した。紫は気にした風もなく、座って炬燵に脚を入れた。手元に隙間を作り、傘を収めて袋を引き出した。香霖堂でたまに見るような、白くて薄い膜の手提げ袋だった。『ごみは資源・リサイクル』という緑の文字がプリントされている。皿や盃を退かしたばかりの天板に置いて、
「冬眠土産ですわ」
「何時から眠りに土産がついてくるようになったのよ」
大きく開いた首元を扇で煽いだ。霊夢は向かいに座して中身を取り出した。紫お得意の外の品か。
最初に掴んだのは軽い瓶だった。透明で中の液体が見える。早苗がプラスチックとかペットボトルとか言っていたか。瓶の中部に青と白の模様の膜が巻かれている。蓋は捻ったら開いた。お茶でもお酒でもジュースでもない、薄甘しょっぱい味がした。果物の色をしていないのに、果物の匂いがするのが奇怪だった。水が欲しくなった。
次も似たような材質の器だった。茶碗の形に近い。入っているものは何となくわかった。紅魔館で食べたことがある。紫は平皿を出して器を覆う膜を剥いだ。引っくり返して底部の突起を倒すと、薄黄色の軟らかい物体が落っこちた。プリンだ。半透明の軽スプーンに盛って、紫はあーんと促した。宴会料理をたらふく詰め込んだ胃には、少々重かった。加えて、酒気と甘味は相性が悪い。三口目は拒んだ。残りは紫のものになった。
続いて、平べったい膜の袋。持ち上げると水気と重みがあった。『熱湯で温めるだけ、玄米粥(梅干味)』。風邪の間に食べ飽きた、当分見たくない。
他、腹部を押すときゅーんと鳴く狸の縫いぐるみや、ポプリ入りのアイマスク、紐付きの桜餅のミニチュア、冷感を与える粘着シート、唇の保湿クリーム、詰め将棋の小冊子等が出てきた。どうもずれている。紫のセンスは本人同様謎だ。
「ろくなもんがないわね。お酒とかお茶とか持ってきなさいよ」
「そのうち前向きに善処するわ」
「何もしないってことね」
「うぅん、生クリーム乗せにすればよかったかしら」
紫は楽しそうにプリンを啜っていた。
酔って肌が火照っている。閉め切った戸を数寸開いて、風を招いた。昨日から降り続いていた雪が、止んでいた。明日は暖かくなるかもしれない。
背後から艶めいた声がかかった。
「私がいなくて淋しかった?」
以前「貴方は此処が好き?」と訊かれた時と、同じような響きがあった。
紫の冬眠も、日常の一端だ。普段より長く眠って、起きてくる。
霊夢は炬燵に胸まで埋もれて、
「考えたことなかったわ」
奇妙な味の飲み物を舐めた。
淋しさ自体よくわからない。人は個でいるのが普通だろうに。
あんたはどうなのと、質問しかけてやめた。睡眠中に淋しいも人恋しいもない。
子狸の縫いぐるみを鳴かせて、紫は話した。
「貴方の夢を見たわ」
「ああそう」
「割と愛されてて安心しました。不安にもなったけど」
「どっちよ」
箱庭の、郷をたゆたふ蓮花蝶。そらにやどりて己が名を識る。
紫が唐突に詠い上げた。聞いたことのない和歌だった。
急に狭さを感じた。見れば、隙間を使って紫が隣に来ていた。炬燵の中の霊夢の手を握って、
「貴方は此処にいる。何処かじゃない。気持ちや意味は、後から幾らでもついてくる」
だから、此処にいて。そう願ってきた。一語一語に真摯な重みがあった。
相変わらず不可解なことを言う。言葉遊びか丁寧な予言か。七度瞬いて、謎解きを中断した。こいつの言動に付き合っていたら、朝日が昇る。それに、霊夢が此処、幻想郷の博麗神社にいるのは当然の決まりだ。特別執着も愛情もなくても。
「当たり前でしょう。私は何処にも行かないわ」
熱くも冷たくもない手を振り解いた。紫は紅を塗った唇で笑って、ペットボトルの液体を飲んだ。やけに嬉しそうだった。
(全く)
何故だろう、声に出したらほっとした。浮いていた足が地に着いたようだった。
霊夢は、此処にいる。
「それ、物凄く変な味だったわ。何味」
「健康的な点滴味」
冬風に、春の音が交わった。
でも、そのよくわからない微妙な関係こそが、ゆかれいむ
読めて良かったと思える話でした
面白い構成ですね
山無し谷無し落無しなのがそれを際立たせていると言うか、
少ないセリフが地を潰さない程度にしっかりしていて面白かったです
>紫と霊夢の関係
様々な描き方があって好きです。
紫の冬眠土産は、お見舞いに良さそうなものを選びました。伝わりにくかったら、ごめんなさい。
>山無し谷無し落無し
数字遊びが際立っていれば幸いです。
起伏のあるお話も書ければなぁと思います。
>観測者がいてくれる
とても有難いことです。気付いていても、いなくても。
幻想郷、霊夢、……いいですね。
起伏の少ない描写が、かえって霊夢やそれを取り巻く登場キャラクターを鮮やかに浮かび上がらせているように感じました
読んでいてとても幸せな気持ちになれました
凄く、凄く流麗で、そして温かい話であると思いました。
とてもおもしろかったです。