――――この物語を聞いたあなたは、その結末を知っているはずだ。
それならば、今はまだ待ってくれると幸いなんだ。
どうかあのお人がその顔を上げるまで、どうか。
きっと大丈夫だから。
私は、そう信じているよ。
私がそのお方に逢ったのは、出張った先の寺でだった。
力み過ぎている眉間の皺、堅く胸の前で結んだ両腕、畜生を見るかのようなその眼。
そんなお人に、出会い頭で浴びせられた言葉はなんだったと思う?
「私のオモリのつもりなんでしょうが、なんでこんな鼠なんですか?」
……だとさ。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
寅丸 星は私の出張先での上司だ。
出張とは名ばかりで、正確に言えばこの上司の監視さ。
直属の上司はかの毘沙門天様。同期の丑や午の妖怪どもには同情を頂いてしまったよ。
これは少なからず左遷の気色がある、とね。
同期の中では一番の実績持ちだったのに、どこで道を間違えたやら。
それでも私はめげないよ。いつか毘沙門天様のお膝元に戻ってやるさ。
「ナズーリン、ぼさっとしていないでお茶の用意を。聖の顔を汚してはなりませんよ」
たとえこき使われようともね、私は挫けないよ。
しかし、私はこれでもプライドが高いんだ。
第一印象での私の評価は最悪のようだが、なぁに近いうちに覆してみせる。
まずは私を蔑むその眼差しを変えてみせようじゃないか。
ここでの評価はきっと毘沙門天様も見てくれている。無駄にはならないはずだ。
「ナズーリン、鼠は檀家の方々に印象が悪い。間違っても見つからないように」
我慢、我慢だナズーリン。君はやれば出来る子、我慢の子だろう?
檀家の皆様方が帰られて、座布団や湯呑みの後始末をしていた時だ。
虎柄の上司が私に仕事を申し付けに来た。
「寺の周りの妖怪を追い払う?」
「そうです。檀家の方々が妖怪を忌み嫌っていてね、寺に来るのも危ういのです」
「でもそれは聖殿のお志しに背くのでは? それに私や貴女とて同じ妖怪だ」
聖 白蓮はこの寺の偉い僧侶さんだ。
人間も妖怪もみな平等、等しく救わなければならないと仰る奇特なお人だ。
だがそれは表に出せない秘め事、それがあらわになればこの寺も無事では済まない。
とかく世の中はややこしいが、この寺ではさらにひと周りほど以上ややこしい。
だって、妖怪が神格の代行をしているくらいなのだから。
「人間には隠していても、実際に排除するのでは妖怪達に反感を与えますよ」
聖殿が助ける弱い妖怪にとって、人間は脅威だ。
それは逆も然りだが、妖怪達は許容していても人間達はその志しを許さない。
戯言だと、一瞬のうちに唾棄するだろうさ。
「聖は人間です、だからその志しも人間が味方で居るうちだけです」
「神仏に仕えてはいますが私は妖怪です。仲間を敵にしたくない」
「……私は毘沙門天に帰依しています、その私がやれと言ったらやればいいのです」
それっきり口を噤み、私を睨み下げる毘沙門天の代理様に、取り付く島は一切無かった。
しぶしぶ了承してしまえば、床を鳴らして去っていく代理様。
まったくもって、先が思いやられるよ。
さて、どうするか。一応上司の命令だし、逆らう訳にはいかないな。
かといって仲間の妖怪を虐げるのも気が引ける。だいたい私はそんなに強くないし。
それならばここはひとつ、挽回の好機という事で。
……汚名を晒したつもりはないがね。
「ナズーリン、相変わらず妖怪達は寺の周辺をうろついているようですが?」
「それはそうでしょう。私は妖怪達を追っ払ったりしていないので?」
小首を傾げて対応する私に対し、目の前の上司の顔は如何せん曇っていた。
どうやら私の仕事が不服だったようだ。眉間の皺が海溝並みに深くなっている。
そのうちに深海魚でも住み着いてしまいそうだ。
「でも檀家の方々は妖怪達を見なくなってほっとしている、違いますかね?」
あ、海溝よりも深くなった。
「貴女という者は……。これだから賢しい部下は気に入らないのです」
私は妖怪達に食べるものを与えた、たったそれだけの事をしたまでさ。
ただ、時間帯を考慮させていただいたがね。
檀家の人間達は決まって朝の早い時間に来て正午前には帰って行く。
その両方の時間帯は妖怪たちも活動するから、そりゃ運悪く鉢合わせもするさ。
だから私は、寺に続く道及びその寺から離れた場所に食べ物を置き、妖怪達を集めた。
聖殿からの差し入れだと言えば、ここらの者達はこぞって食べに来るからね。
おっと、食べ物は人間じゃあないよ。私の小鼠はそれほど馬鹿ではないぞ。
「聖殿の株も上がって一石二鳥、非難されるような事は無いしね」
人間達はお幸せなものだ、眼に映らなければ妖怪など居ないのと同じなのだろう。
そのうちそんな人間ばかりになったら、少しは生き易い世の中になるのかね。
「……分かりました。私も鬼ではありませんし、勘弁しましょう。それに」
虎柄の上司は私に一歩近づき、膝を曲げて私と同じ高さまで顔を下ろした。
すると、深い皺の左右にある、美しい瞳で覗き込んでくる。
「賢しい部下は好きではないけど、嫌いでもありませんからね」
そこには澱みが無く、乱反射する光の筋の中に漂う私が映っていた。
なんとも仰天したような顔をして、琥珀色に魅入られた私が居たのだ。
宝石に似た、堅い信念に彩られる琥珀色に、ハッと気付かされて我に返る。
「ただし、今後口答えは許しませんよ。分かりましたね、ナズーリン」
そう言って振り向き返り、そそくさと私をその場に置いて行く虎柄の上司様。
そして固まってしまって動けない私は、心臓の高鳴りを必死で抑えた。
一瞬私がここに居ないような感覚に襲われたが、きっと気のせいに決まっている。
何度でも言うが、これでもプライドは高いんだ。
な、なるほどね、その瞳は澱んでなければあんな綺麗な琥珀色をしているのか。
……少し、覚えておこう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇◆◆◆◆◆
しばらく経ったある日、私は聖殿に部屋へ来るようにと呼ばれた。
これと言って呼ばれる理由に当ては無かったが、少し緊張する。
この寺に来てから聖殿の部屋に入るのは初めてだったし、一応にも偉いお人だし。
まさか私の小鼠がなにか悪さをしたのだろうか。
でも、もしそうならあの虎柄の上司がすっ飛んでくるかな。
「参りましたナズーリンです」
「はい、どうぞ。お入りになってください」
私が告げると、障子の向こうから落ち着いた声が聞こえて来た。
障子を開いてみると優雅な背中がひとつ、こちらに向かって意識を投げてくる。
緊張しなくていいのですと、そう囁いてくるかのような雰囲気の背中だった。
背中はさらに緊張する私を見つめ返している。
「ごめんなさいね、もう少しで終わるからちょっと待ってて下さい」
「滅相も無いです。私も時間より遅れてしまいまして、申し訳ありません」
ここまで虎柄の上司に遭遇しないよう、忍び足で来たのは内緒なのである。
見れば聖殿は写経をしているようだった。
邪魔をしないよう私が黙ると、筆を運ぶなだらかな音が部屋を満たす。
すると墨の香りと相まって、余計に厳格な想いに捕らわれてしまった。
それでも聖殿の背中には優しさが見えて、私も両肩の強張りを緩めようと努力したさ。
でもね。
「星に言われて幾度かお仕事をしたそうですね?」
私の印象とは裏腹に少し強めの口調で質問してくる聖殿に、私は寒気を覚えた。
「どんな事か教えていただけませんか?」
「え~と、寺の周りに居る妖怪達を、その、人間の目に付かないように……」
ぼそぼそと事の顛末を話す姿たるや、我ながら情け無いと思う。
無条件に口を割ってしまうような私に、斜に構える気力なんてある訳がない。
ただただ、聖殿の背中に懺悔するのみだった。
「はぁ……」
私が話し終わると、聖殿は溜め息を吐かれた。
「星には困ったものですね。私の知らない処でそんな事を貴女にやらせていたなんて」
「申し訳ない、です」
写経はまだ途切れずに、聖殿は変わらず背中を向けている。
肩越しに知れる腕の動きは滑らかで、よほどの達筆と思えた。
そう言えば、写経ってこんな話しながら行って良かっただろうか?
静かに心穏やかにして世の為人の為、と功徳を積むものだったはずだ。
「いいのです、貴女も星の命令だったのだし、寺の為を思っての善行なのでしょう」
……いえ、私は自分の意地の為にやりました。
などと言える空気ではないのである。
善行、と仰られてしまっては私の罪悪感が疼いてむず痒くなってしまうよ。
「星は、そういう事を黙って一人でやってしまって。困ったものです」
聖殿の言葉は、不思議と筆の進む音よりも小さく聴こえた。
かすれる筆が止めで墨を吐き、跳ねで身じろぎ、流して文字を生む。
「人と妖怪の間に線を引かないようにと、いつも言っているのに」
墨が切れたら硯で浸し、穂先を整え筆を進める。
その音よりも小さな独り言に、私はより耳を傾けて聞き逃さないよう意識してしまう。
もしや、これは聖殿になにかしらの意図があるのか?
「そういう事は絶対に私の耳には入れようとしないのですから、まったく」
だとするなら、この虚ろな独り言にどんな意味があるのだろう。
暗にしているが、私へと伝えたい事があるのではなかろうか?
「私に良く聞こえる耳や嗅ぎ取れる鼻があればいいのですが……云々、と」
ふむ。
聖殿がそう最後を濁らすと、肩の動きが止まり筆の音もしなくなった。
「はい、終わり。お待たせしました、貴女にこれを毘沙門天様へ届けてほしいのです」
「毘沙門天様に? ええ、それは構いませんが」
私が写経だと思っていたのはどうやら書簡だったらしい。
膝を中心にして回れ右をし、聖殿がこちらを向く。その顔は笑顔だった。
「でも星が誰かに仕事を頼むなんて珍しいものです。ほんとうに」
「ああ、私は部下ですから、なんの苦も無く申し付けられるのでしょう」
「いえいえ、部下だからとかではなく」
聖殿が両手を左右に広げて困ったポーズをとる。
笑顔は変わらないが内心はその格好の通り、あのヒトの頑固さに困っているのだろうか。
「星の性格じゃ全て自分でやってしまうから、という意味です」
「私はよっぽど申し付け易かったのでしょう」
「貴女はよっぽど星に信頼されているのでしょう。いえ、この一件で試したのです」
そうなのかな?
「これからどんどんお仕事任せられるかも、お楽しみにしてくださいね」
聖殿の前で、私は今一体どんな顔をしているだろう……。
私はプライドが……いや、いい。
これは切り返しに少々生意気言っても構わんよな。
「……私もよっぽどでなければ、どんな仕事もお受けいたしますよ。間諜でも、ね」
じわりと口端を上げてみる。
聖殿を窺えば、こちらもしたり顔。なかなかに曲者振りの良い微笑みだった。
なんだ、このお方とは馬が合いそうじゃないか。
「ナズーちゃんったらなにを言ってるのかしら、誰もそんな事言ってないじゃないの~」
「ナズーちゃん……」
「こんな事もし星に聞かれたら大変なんだから~、ダメよ」
「聞かれたらどうなるのですか?」
「…………お小言がね、長いのよ。うんざりするくらい……」
「あぁ~……」
手首を折り曲げて鬱蒼とした気持ちを表したお姿は、察してくれと嘆いていた。
私はそれがたまらなくおかしくて、あの深い深い眉間の皺を想い出してしまった。
「あはははは、それは難儀です、ほんとうに難儀です」
「ふふふ、でもやっぱりナズーちゃんは良い子でした。よかった」
聖殿はまた私に背中を向けて卓上の書簡を手に持った。
少しのあいだだけ、それを掌で遊ばせ、焦らすかのように翻す。
愛しむように、邪険にするように、ただの書簡のはずなのに、大切な書簡のはずなのに。
「これを貴女に。寅丸 星をよろしくおねがいしますね」
手渡された書簡は羽根のように軽くて、どこかに飛んで行きそうな気がした。
ついでに言えば聖殿の笑顔も嘘っぽくて、本当に笑っているのか分からなかった。
でも、この書簡は必ず毘沙門天様に渡さなければならないと思えた。
「お任せください。私の仕事に狂いはありませんから」
任された仕事はやり通す自信があった。
それに、これには聖殿の想いが込められているはずだったから。
はい、と返事をしてくれて、聖殿は笑っていた。
持ち場に戻る道すがら、私はこの書簡を観察した。
手渡された書簡には封が施されていて、一目見てこれは私に開封は無理だと覚る。
強力な封は見れば分かる。きっと毘沙門天様なら難なく開封出来るだろうが。
「よろしくおねがいしますね、か。口利きをして欲しいのはこちらだよ」
いまさら仕事環境をごねたって仕方がない、頭の切り替えは大事だ。
次に毘沙門天様にお会いするのもそう遠くはないし。
それまで、この書簡は私がお預かりしておこう。
「ここに居ましたね、ナズーリン。どこへ行っていたのです」
見つめる書簡に影が差して、ギクリという心拍音が私の内側から鳴り響く。
慌てて手を後ろに隠して見上げてみれば、記憶に新しい海溝があった。
「今なにを隠しました? 仕事もせずにさぼりですか?」
「こ、これから向かう所です、いえ、でした!」
「……もういいです、また貴女にやって貰いたい仕事があるのです」
琥珀色の瞳が輝いたが、どうやらお咎め無しのようだ。危ない危ない。
両腕も相変わらず堅く結ばれて、このお人、食事の時はどうしているのだろうと想う。
「はい、なんですか?」
「卒塔婆を書くのを手伝ってください。急ですが、大量に必要なのです」
そう言う上司の顔は、先日とは違った理由で眉間に皺が深々と刻まれていた。
卒塔婆は人間達が墓に供える供養板だ。
これが必要という事は人が死んだという事。それが大量に、とは……。
「また、戦です……懲りないものですね、人間は」
つまりはそういう事だ。また沢山の人間が死んだのだ。
命を賭けた陣取り合戦、多くの人間が死んで得をするのは棺屋か及第点の死神か。
まったく、つまらんものに夢中になっている人間が居るものだ。
近ごろは戦も多くなって、親兄弟を失う家族も増えていると言う。
それらの捌け口に弱い妖怪達が虐げられているなどとの噂もちらほら。
たまったものではない。
「そんな顔をしないでください。人間とて、死にたくて死ぬわけではないのですから」
「ああいえ、そんな事をしてなんになるのかと想いましてね」
死にたくなければそんな戦なんぞしなければいいのに。
一体これで何度目だというのか、成長しないというか懲りないというか。
「一部の人間はそういう性質なのです。さあ、ナズーリン手伝ってくださいよ」
虎柄の上司はそう言って、私に背を向け着いて来いと促す。
この寺は基本的に慈善事業の為、仏さんの墓を預かっても大した利益にはならない。
むしろ敷地内にまた墓が増えて寺がその分狭くなってしまうのだ。
ただでさえ狭っ苦しいのに、これ以上になると寝る場所が墓石の上になりそうだ。
そんなの嫌だよ私は、この鼠色は別に保護色じゃないんだから。
だけどもし、そうなったとしたら少しだけ、前を歩く虎柄が羨ましく想えてくるかな。
私と違って、光を乱反射する琥珀の瞳、嫌でも目立つ虎柄の精神。
きっとどんな場所に居たって、持ち前の堅い意志で周囲から浮いてしまうだろうから。
でもそれも、周りが鼠色だからこその強がりに見えてしまうけれど。
そんなお人の『お手伝い』は、私もまんざらではないのさ。
聖殿お墨付きの頑固者に、せいぜいついて行くとしよう。
「ナズーリン、急いでください。少しは頼りにしているんですから」
はいはい。
その心根の意図は分からんが、よろしくと言われたのだからね。
信じてもらえるのは、悪い気はしないのさ。
――その日、卒塔婆書きは朝まで行われ、言うまでもなくその後私は布団に突っ伏した。
二人とも持つ筆が震えるほど多くの経文を書いて腕がくたくたになってしまった。
これでしばらく、上司殿は腕を組むのが億劫だろうさ。ふふん。私もだけど。
思惑からは程遠いが、また一つ目標達成?
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
この寺にもいつしか慣れ、普段の仕事も手早くこなせるようになった。
お堂の雑巾掛けは一番に終わるし、集めるホコリの量は誰よりも多い。
最近では家庭菜園の楽しさも覚えた。どうだい、見てくれないかこの大きな南瓜を。
でも、実はこれらの仕事は私がやらなくていいものばかりだったりする。
と言うのも、虎柄の上司様が自ら様々な仕事をしているのでそのお鉢が回ってくるのだ。
私としても最初は割に合わない気がしたが、これがなかなか、やってみれば面白い。
お陰で土の匂いの良さに気づいてしまったよ。
今ではむしろ見張り役の方が疎かになってしまうし、困ったものだ。
それでも聖殿からの頼み事は逐一きっちりやっている。
これでは誰の部下なのか分からなくなるが、頼まれたのだから仕方が無い。
例えば戦から落ち延びた人間を門前払いにした事や、妖怪達をさらに寺から遠ざけた事。
逆に人間の母子を匿った事、人間を襲わないように妖怪達へ食料を与えた事。
それ以外にも、私があの上司殿に任された仕事は全て聖殿に伝えていた。
報告するたびに聖殿の部屋に上がり込むので、すっかり仲良くなってしまったよ。
取り留めの無い話で盛り上がってしまうから、上司殿には怒られてしまうがね。
しかしながら、申し付かる仕事の内容はどうにも節操が無い気がする。
人間の味方なのか妖怪の味方なのか、それともどちらでもないのか。
あの上司殿の考えが一体どこへ向けられているか分からなかった。
折を視て、私は聖殿に尋ねてみた。
「さあ、私にも図りかねますね。星はそういうことはなにも言いませんから」
また、それか。
「いくら頑固者でも、それだと貴女の意向に背いている気がしますがね」
「だからこそなにも言わないのでしょう。
それに、その為にナズーちゃんにこんな事をしてもらっているのですからね。
本当にこまった子です」
聖殿はそう言って、自嘲気味に笑っていた。
「……なにも言わぬから私に逐一報告させる。それでも聖殿の思慮が届かぬと?」
「貴女が言いたい事は分かります」
「いいえ、言わせていただきます。本当は聖殿は内心気付いていらっしゃるのでは?
あのお人がなにをしようとしているのかを、なにを考えているのかを。
その上で私を付けさせる意図はなんです、私になにをさせようと言うのですか」
これでも、プライドは高いのだ。
信じてもらえるのはありがたいが、これでは私が聖殿を信用出来ない。
理由も知らされずに扱われるほど私は落ちぶれちゃいないのさ。
「……こんなお話をご存知ですか? 虎がバターに」
「誤魔化さないでいただきたい」
「まあまあ、聴いてくださいな。昔々、ある所に虎の妖怪がいました。
その妖怪は美しく強い、琥珀の瞳を持っていました。
妖怪はそれが自慢であり、琥珀と同じくらい堅く強い心を持っていました。
しかしある日、妖怪はその瞳が非道く安っぽいものに感じました。
なぜなら、それまでの自分の世界は嘘だったからです。
堅い心は衝撃に脆く、失意に挫き簡単に大切なものの意味を失くしてしまいました。
安易な自己満足に囚われ、代わりに得られたものはただの石ころでしたとさ。
めでたし、めでたし」
「……そのお話と私の質問の答えとなにか関係が?」
「いいえ、なにも? ただの誤魔化しです」
にっこり微笑む聖殿は、小首を傾げて私の前に佇んでいる。
なんだろう、この回し車に乗せられてる感は。
腹立たしさよりも、自らの本能の空回りを感じるよ……。
「このお話の続きはいづれ。さあ、ナズーちゃんお仕事の時間ですよ!」
「うぐぅえッ」
首根っこを後ろから括り上げられれば誰だってこんな声になるさ。
「ナズーリン、またさぼって! しっかり仕事をしなさい!」
「違いますよ、星。ナズーちゃんは私のところに顔を売りに来ただけで」
「聖、もう少しまともな冗談は無かったのですか。貴女も早くお支度を」
「く……くるじぃ……」
突然の上司来襲に取り繕う間も無く吊るし上げられ、頭と身体が離れたかと思った。
でも辛うじて手足をバタつかせられて、そのつど苦しくなるから大丈夫です。
いやいやいや、全く大丈夫じゃないよ! 苦しいのよさ!
「ナズーリンに聖の支度を手伝わせたのに、話し込むとは何事です」
「ですから、ナズーちゃんは油を売りに」
「なおさら駄目ですから」
お二方、私を無視しないでほしいのだが!
もう、本当に、この括りを、なんとか、して……。
「じゃあ、夢を売りに。っと、あらあら、ナズーちゃんの顔がみるみる鼠色に」
ね、ねずみですから……。
「おっと力を入れ過ぎた。ナズーリン、大丈夫ですか? ナズーリン、ちょっと」
もう、手遅れ、ですから……。
遠のく視界とお二方の声、定かにならない言葉と共にだんだん意識が薄まっていく。
あれ、私って、こんな、立ち位置、だった、け……。
揺れる視界、頬をかすめる風、なびく毛並みに目を凝らすとそれが馬の首だと分かった。
はて、私はいつの間に馬に乗っていたのか。
記憶の糸を手繰ってみれば、括られていた首筋に鈍痛が残っているのに気付く。
「ああ、ナズーリン。やっと起きましたね」
そうだそうだ、この声の主に絞め上げられたんだ。
よくもあんな馬鹿力で絞めてくれたもんだ。意識が飛ぶほどって、どれだけだよ。
今更湧き上がる感情に、少し反省してもらおうとすぐ後ろからの声に振り向く。
ん、すぐ後ろ?
「うわぁ近い近いッ!」
「暴れないでください、馬が驚きますよ」
馬の背中で目が覚めれば、これはなんの冗談かまだ夢の中なのか。
迫る鼓動に近過ぎる声、背後に感じる気配は間違いなく虎柄の上司殿。
眠っている間に馬に乗せられ、私は上司殿と相乗りになっていた。
暖かささえ分かるほどのこの至近距離に、私の胸が飛び上がる。
何故にこれほど体温が上がる? 何故にこれほど声が上ずる!
「ちょとこれ、えッ!? 上司の背中が馬の毛にちゅ……ッ!」
「まだ寝ぼけているんですか? ああ、先ほどは力を掛け過ぎてすみませんでした」
律儀にも詫びてくる上司殿に、さらに私は慌ててしまう。
頭を下げるとまた近くなるから!
「き、気になさらずほんとに、だから、そんなに。私降ります」
「なにを言ってるんです、危ないですよ」
現状が一番危険なのですよ……!
「寝ぼけるのもいい加減にしてください。今は急いでるので馬は止められませんよ。
今日、聖の行脚が始まるから、途中まで護衛をすると前々に伝えておいたはずです。
話し込んだせいで予定が遅れているのですからね」
いえ、それは存じているんですがね、至って寝ぼけてもいないし。
腫れ物のように上司殿を避け、後ろを伺えば、聖殿も馬に跨って後を付いて来ていた。
聖殿は揺れる馬上ながら手綱は堅く姿勢は微動だにせず、構える姿は絵になっていた。
あ、私に気づいた。あ~あ~、そんなに手を振っては危ないよ。
「と、ところであとどの位で都に到着するのでしょう?」
「もう半分は過ぎましたから、あと一刻といったところですかね」
「あと一刻……」
その間ずっとこのままか。なんたる拷問、なんたる屈辱。
「ナズーリン、貴女はほとんど寝てたんだからしっかり気を配ってくださいよ」
なんで、なんで私がこんな辱めを、こんな想いをしなければならないのさ。
私はプライドが高いんだ。これは目に余る事だ、許容出来ぬ事だ。
「聖にもしもの事があっては大変です。五体あってのものなのですからして」
そもそも上司殿があんなに馬鹿力で締めなければこんな事にはならなかったのだ。
なんでこんな、なんでこんなに動悸が鎮まらないんだ。
背後に貴女を感じるだけで、近くで貴女の声を聴くだけで。
私の鼓動は馬蹄のように、どんどんどんどん、際限なく加速していく。
この小さな私の心臓は、一体どこへ行こうというのだろう。
どうして。どうして。
「大事な大事なお方です。私は、聖の為ならなんだって。聞いてます?」
……どうして、こんなに胸が苦しくなるのだろう。
また上司殿の馬鹿力で締め上げられているのか、なにかが喉の奥に詰っているのか。
それだったら幾らかマシだ。こんな原因不明の苦しさなどよりずっとマシだ。
こんな想いに駆られるのであれば。
「どうしたのです、もしかしてまだ首が痛むのですか? どれ見せて……」
触れようとする左手に意識が向く。一瞬、凍りついた感情が燃え上がるのが分かった。
激情が行動に至るには時間など関係なく、稲光の後に雷鳴が轟くかの如く。
私は、その手を払った。
「あ……」
後から追いついた理性は役には立たず、ただ冷静に琥珀を見つめる私が居た。
馬蹄の速度は変わらずに、しかし私の鼓動は静けさを取り戻していく。
「失礼、だ、大丈夫ですので」
自分でも驚くほどに落ち着いて、寒気がするほど後悔に苛まれる。
震える心が曝け出され、貴女のその瞳にはなにが映るのか、私には分からない。
琥珀が見つめる、私を見つめる。
私が見つめる、瞳を見つめる。
「ああ、すみません。迂闊でした、気に障ったのですね、ごめんなさい」
視線の衝突を先に外され、私の目は宙を泳ぐ。
そこには風だけが流れ、横目に見える貴女は非道く頼りなさげに捉えられた。
上司殿の見つめる先は、いつの間にやら傍らに居た聖殿。
つられて視線を向ければ、にこり、微笑む顔を直視出来ず、視線はさらに泳ぐ。
私の小さな心臓は、馬蹄の音に隠れるように怯えてしまっている。
辛うじて捉えられる残滓を、私は、乱暴にしまい込んだ。
――――都までの一刻、私は一度も口を開かなかった。
到着してすぐに毘沙門天様にお会いすると言って、お二方と別れた。
別に嘘ではないよ。ここには毘沙門天様に帰依する御本尊があるんだ。
でもお二方の顔は見れなかった。見ればなにかが終わってしまうような気がしたから。
こんな馬鹿な事あるわけない。
私は自分が信じられなかった。想い過ごしであって欲しかった。
詫びの言葉など欲しくなかった。でもどんな言葉が欲しかったのかは分からない。
曖昧で、瑣末で、不可視で、無遠慮で、無慈悲で、めちゃくちゃで。
本当に回し車に乗っているような錯覚を覚えて。
私は、その名を知っていた。
こんな馬鹿な事、あるわけないのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇◆◆◆◆◆
「寅丸 星は滞り無く仕事をこなしております。多少、聖 白蓮に偏り気味ですが」
古寺の毘沙門天像を前に、仰々しく語る私は些か滑稽だろうかな。
でも仕方ない。この像は古くは神の手と呼ばれた造仏師が作った物だ。
長い年月を経て、帰依に帰依を重ねると像は模した神仏により近づくという。
現に毘沙門天様はこの像とは一心同体、その気になれば手足のように動かせるのだ。
「……ほう、よしなにしておるか、それは、なによりだ」
このようにお声さえ出せる。だから雰囲気や重圧もご本人様そのものだった。
お久しぶりにお会いするのに、もうちょっと着飾れば良かったかな。
「お前もご苦労であった。慣れぬ仕事のくせに、よくも働いてくれる」
「はっ 有り難きお言葉。恐悦至極にございます」
……あれ? お前、も……?
そうか、毘沙門天様は私のことを名前では呼んでくださらなかったのだな。
今までもそうだったはずなのに、なぜかお言葉の端にシコリを感じてしまう。
これはいかんよ、部下のくせに意識を持ち過ぎている。
あの寺では名前で呼ばれていたからなにか違和感を感じてしまった、それだけの事さ。
「あやつも何事も無く精進しているようだな。ふん」
声の調子が途端に深みを帯びる。
身じろぎ一つしない像が発するには些か役不足だと思われた。
だいたいが世にある仏像は御神仏各々に似て無さ過ぎる。なにが神の手さ。
毘沙門天様はもっとこう、ごつごつとした岩山のような。
「嘘の吐けぬような顔をして、なにを考えておるのやら、な」
なにやら本当にご機嫌が悪いようだ。一体どうなさったのだろうか。
普段は温和なお方なのに、今日に限って虫の居所が良くない。折角お会い出来たのに。
「はぁ、それはどのような意味で……」
「そいつはなんだ。気に入らぬ気配を放ちおって」
なぜ機嫌が悪いのかお聞きしたいが、先にご質問が飛んできた。
おっとそうだ、これを毘沙門天様にお渡しするのだった。
「あ、これは、そうでした。聖 白蓮から書簡を預かっております」
「なに? 書簡だと? 見せてみろ」
私の懐にあっても強力な封印の気配を察したのか、毘沙門天様は興味がお有りのようだ。
ささっと像の足元に書簡を置くと、像の目が光り書簡が空中に浮いていく。
遠くに居ながらにしてこのお力、さらにあの強力な封印も容易に解いてしまわれた。
さながら豆腐を斬るかのようにするっと真っ二つだ。
像の目の前で書簡が開き、その内容があらわになる。
「恐れながらなんと書かれているのでしょう?」
以前から気にはなっていた書簡の内容。機会があればと伺っていたその内容。
知りたくないと言えば、嘘になる。
上目遣いで必死に教えて欲しいと訴えてみるが、毘沙門天様は書簡の内容に夢中だ。
ならばと毘沙門天様の心根を眼で盗もうと努力してみる。
木で出来た像の表情では、いかんせん肝心な所が読み取れないが。
「……くくく、これはいい。上出来だ、これは面白い」
その木で出来ているはずの表情が、口元が僅かに吊り上がるのが見えた。
木目で分かりにくいのだが、確かに卑屈そうに歪んだのだ。
先程までの不機嫌とは反対に愉快そうに、だが、私はそれがたまらなく不安に思えた。
「お前、寺での聖 白蓮と寅丸 星の仲はどうだった?」
「はぁ?」
「どうだったと聞いているのだ。なんの為の間諜か」
そんな事を仰られても、私は、そのような事を調べる為にあの寺に居る訳では……。
「……二人の仲は良き様に見えました。
お互いに尊び合い、敬意に敬意を重ねて居るようです。
特に寅丸 星は聖 白蓮に恩があるらしく、自らの身をも顧みない想いを……」
途端に声が詰まる。
無意識の視線が泳ぎ部屋の隅を捉える。黒く湿ったシミが見えた。
静まる鼓動、それとは反比例して鋭くなる感覚。
私は、それを声に出すのが恐ろしくなったのかもしれない。
「――――自らの身をも顧みない想いを抱いて、心身ともに尽くしているのです。
何者よりも優先し、聖 白蓮への囚われぬ忠誠心は並々ならぬもの。
朝は共に経を上げ昼は説法を広め、晩は夕餉の支度に肩を並べる。
そこに誰が入り込めるでしょうか、どんな感慨の余地があるのでしょうか。
足元の浅瀬ならばいざ知らず、深海の畔に手が届く訳がない。
割り込めるとしたらそれは余程の恥晒し、愚かしいにも程がある。
動けず想いふけるならば、さぞや楽でしょう」
やめろ。
私はなにを言っているんだ。
「盲目でもあるまいし、耳が遠い訳でもない。
ただただそれを追い求める。仰ぎ見て、吸い込まれ、縛られる。
あの琥珀に見初められんが為、あの乱反射する瞳に捉えられんが為に。
ほんの少しだけでも名を呼んでくれるならば、私は……」
馬鹿者め。
「なにを言っている? なにが欲しい、なにが望みだ?」
悔しさで奥歯に力が篭る。握る拳にも爪が立てられ指の関節が軋みを上げる。
身体中の細胞がたぎり、泳いでいた瞳はもう瞼を開けてもいられない。
毘沙門天様の問いに答えられる気力は無く、ただ後悔と言う重石に括られていく。
口から言霊にすればするほど重さを増し、耐えかねて捨てようにも捨てきれない。
それを心の裏側へぽつねんと置き去りにして、表側と見比べてみればなんと滑稽な事か。
そこに想いを隠しているという事実を知る私を観察している、もう一人の私が居るのだ。
冷静に見つめる瞳はそれこそ石ころかガラス玉で、あの琥珀と釣り合うはずがない。
なにがプライドが高いだ。自尊心の強いただの我侭ではないか。
なにが聖殿と仲が良いだ。そのくせ何かしらが溢れるのに手を拱いているのではないか。
なにが仕事が楽しいだ。未練がましい想いにすがり、欺いているだけではないか。
本当は分かっているのだろう? 自覚しているのだろう?
頬を赤らめる想いを、鼓動が高鳴る理由を、引きずる想いの心地良さを。
とんだ恥晒し者が居たもんだ。
だまれだまれだまれダマレッ!
「まあいい。つまりは仲違いという事なのだろう、くくく、見物だな」
瞼に篭る力が緩まる。
聞き間違いだと思う一方で、まさかといった感情が私の顔を上げさせていた。
仲違い? 誰が誰と? 一体なんの事を仰っている?
「仲違いとは、どういう事ですか」
「この書簡に書いておるのだ。寅丸 星を我が寺から除けさせて欲しい、とな」
嘘だ。あのお二人が険悪な関係になる訳がない。
上司殿は言うに及ばず、聖殿とて上司殿を大切に想っているはずだ。
そうでなければあの頑固者をあそこまで尽くさせる気持ちには出来はしない。
信頼の関係性をお互いが強調し、補正しあっているんだ。
聖殿が想うから上司殿も想い、上司殿も想うから聖殿が想う。
そうでなければ、そうでなければいけないんだ。
「ふん、信じられぬと言った顔をしているが、自分で見てみればいい」
「し、失礼致します」
奪い取るように乱暴に書簡を掴む。毘沙門天様が驚かれた気がするが構っていられない。
書簡は丁寧な定型文から始まって、適度な持ち上げに入り、そして本題へと続く。
私は眼を疑った。確かに上司殿を寺から遠ざけて欲しいと書いてある。
しかし、これは……。
「面白き事になってきたのう、くくくく」
ふと、指が違和感に気づいた。この書簡、一枚にしては厚みがあり過ぎる。
擦るようにずらしてやれば、やはりこれは二枚が重なったもの。
毘沙門天様はそのお姿故に手で持つ事が出来ず、お気づきになられなかったようだ。
前髪の隙間から仏像のお顔を覗く。
「さっそくあやつに使いを出そう、これで思惑は頓挫したも同然、愉快だわ」
相変わらず表情は無いがこちらに注意は向いていない様子。
素早く上と下を入れ替え、二枚目の書簡に眼を落とす。
<ナズーちゃんへ>
私の名前が、聖殿の達筆の中に佇んで居た。
「それともお前の口から伝えるか? 先程まで共に居たのであろう?」
「い、いえ、私は」
仏像の眼には見えないように、咄嗟に書簡に角度を付けて私の名を隠す。
気取られぬよう、ごく自然に二枚を一枚に見せる。
私は顔を上げた時の勢いに合わせて書簡を床板に伏せた。
「まあ無理にとは言わぬ。手空きの者は幾らでも居るからな」
「は、はぁ。ありがとうございます」
いかんせん苦笑いだけは隠しきれなかったが、幸い毘沙門天様は他に気を向けている。
ついでにこのまま二枚目の書簡の存在自体知らない方がいいだろう。
「では、話は終りだ。報告も以上だな? ならば寺に戻り再び励め」
「はっ 了解致しました」
その後、私は書簡の処分を任せて頂き、一先ずほっと胸をなで下ろした。
もしこれがばれたら即刻クビだろうが、そうなったらその時に考えればいい。
今はなによりも大切な事がある。
そう、大切な、大切な……。
「馬鹿者め」
毘沙門天様の気配が消えたらすぐに目を通すはずだったのに、書簡を持つ手が止まる。
非道い自己嫌悪がその理由だが、頭を振り回して霧散するよう努力する。
私の気持ちは私だけのもので、聖殿には関係ない。
大切なのは変わらないのだから、そんな事で迷惑を掛けたくないのだ。
口に出しただけでも、幾らか楽になる。みっともない限りだ。
「後悔なんて後でも出来るさ」
誰に言うでもなく、いや、自分に言い聞かせたかったのだ。
呟いた言葉をきっかけにして、再び手に力を込める。
開いた書簡にはやはり私の名前が載っており、聖殿のお気持ちが綴られていた。
--------------------------------------
ナズーちゃんへ
まずは貴女に謝らなければなりません。私は、貴女を利用しました。
ごめんなさい、許して欲しい訳ではないのですが、一言謝りたかったのです。
ナズーちゃんが寺に来てから数日、私は貴女をずっと見ていました。
以前は毘沙門天様の元に居ただけあって大変優秀で聡明な努力家のようです。
お仕事を頼めば手を抜かずに最後まで全うし、その仕事ぶりは立派でした。
そしてこれならば、星が居なくなってもこの寺は大丈夫、そう想えたのです。
私は、貴女に星の代わりになって欲しいと想うのです。
その為に星に付かせ、仕事を憶えてもらい、星の行いを見せました。
星の動向を逐一報告して頂き、星の考え方や物事の捉え方なども知って欲しいのです。
これは今からちょっと意地惡な言い方で伝えますが、頭のいい貴女なら分かってくれるはず。
でもそれは、私の勝手な考えです。
自己意識の高い貴女なら、きっと怒ってしまうでしょう。
一番大事な事を知らせずに身勝手な思惑を押し付けてしまい、本当に申し訳ありません。
もしかしたら、こんな手紙を残す事自体が卑怯かもしれません。
しかし私にはこうするしか無かったのです。
星はナズーちゃんが想う通りの者です。私がなにを言うのも必要ないでしょう。
私と同じ想いなら、きっと私の考えも了承は出来なくとも理解は出来ると想うのです。
星は、この寺に居てはなりません。すぐにでも出て行くべきです。
それが星の為なのです。
突然の手紙で驚いたことでしょう。ごめんなさい。
もしこれを見ていなかったら、余計な荷物を背負わせずに済んだのかもしれません。
だけど、私はうれしいのです。
これがナズーちゃんに届いていると想像すると、とても胸が暖かくなります。
だってこれを見ているという事は、きっと大切なものを見つけられたからでしょう。
あとは、貴女に任せます。ナズーちゃんの想うままに事を成して下さい。
これが私が頼める最後の仕事になるかもしれません。
勝手をした報いです。貴女が決めた事に私はなんの憂慮もありません。
どうか、想うがままに。
聖 白蓮
--------------------------------------
…………聖殿のお気持ちは理解した。私が想っていた通りのお人だった。
だが、何度だって言うが、これでも私はプライドが高いんだ。
「誰がこんな話しに乗るもんか」
私は書簡を乱暴に懐へと詰め込み、わざと一歩目を大きくとって歩き出す。
踏み鳴す勢いで土煙が立つ。靴が汚れるが、この際どうでもいいさ。
私があの上司殿の代わりをする? 聖殿と同じ想いを持っている?
なにか勘違いをなさっているのではないだろうか。私には私の意思があるんだ。
聖殿が勝手をするんだったら私も勝手にさせてもらう。
憤りなんてものじゃない、激昂なんてものじゃない。
ただ私は、このままなにもかもを誰かに決めつけられるのがたまらなかった。
毘沙門天様の言うままに間諜めいた仕事。傲慢な左遷。
出張った先の寺でいつの間にやら期待されて、心を掻き回されて。
私の行き先を勝手に決めて、私がどう想ってるか勝手に決めて。
それでこうしろああしろと、これでは全てが駄目になってしまう。
原因は私にもある。私がなにも言わないでいるのがそもそもの元凶なんだ。
子供じゃないんだから、黙ってて伝わる事などある訳がないのに。
分かったフリをしていつも黙っていた。
賢く振る舞っている手前、事の真実から目を背けていたんだ。
それなのに、私は誰かのせいにしていた。自分が悪い事さえ気づけなかった。
勝手なのは、私の方だった。
「情けない。だが……」
ああ、そうさ。ならばこのまま突き進んでやる。無様でも、恥晒しでも。
事の真実が見えぬならそれでいい、手探りでも這いずってでも進んでやる。
この灰色の、石ころめいた瞳に映ったものが私の真実だ。
虎柄のように綺羅びやかではなくても、琥珀のように透き通ってなくても。
この眼で、この耳で、この心で。
感じて悟った事が私の全て。私の世界は、そこにあるんだ。
だから、
「聖殿の話しには乗れない。絶対にやりたくない」
それはもしかしたら初めての反抗だったかもしれない。
嫌だと想いながらも口に出さず、言いなりに従ってきた私とは、さよならだ。
プライドがあるなどとはそんな自分を肯定する為の嘘。
ただ振り回されるのが気に入らないから、そう想って誤魔化していたに過ぎない。
そんなものはプライドじゃない、虚勢なんだ。
「上司殿は寺から離れては駄目だ。あのお人は、あそこに居るべきお人だ」
誰かの想いを知れない人が居る、自分がどんなに罪つくりか知らぬ者だ。
誰かの想いを知れる人が居る、心の奥底の真実に辿り着ける強い者だ。
到底無理な話だけど、誰もが皮を被っただけの生き物なら、こんな想いはせずに済むのだろう。
もしもこの想いがチラリともさえしなければ、僅かながらの積りも無ければ。
ままを貫き通す勇気を持つ事も可能だったかもしれない。
それでも、誰かの想いを知りたいとする人が居る。
「聖殿と上司殿はあんなにも想い合っているんだ、それこそ、互いが傷つく事も厭わないくらいに」
それが例え、私の想い違いだったとしても、誰かの幸せを願うのは偽りじゃない。
さらに私には確信があった。
聖殿からまだ、大切な言葉を聞いてはいない。
『星と離れたくない』と。
至極簡単な言葉だ。全然難しい事などない。
聖殿がなぜ上司殿を寺から遠ざけようするのか、私には分からない。
きっとそうしなければいけない理由があって、それを言えない理由もあるのだろう。
でも、毘沙門天様が仰るような仲違いでは決してないはずだ。
だってそうでなければ私に上司殿の代わりをさせようなど想わないだろう?
考え方や物事の捉え方まで知って欲しいなんて、ほとんど本人になりきるのと同じだ。
それに、まあ、聖殿と私が同じ想いだとするなら、唯一納得出来る部分もあるにはある。
「星はナズーちゃんが想う通りの者、か。なおさら従いたくなくなった」
私が上司殿をどう想っているか? そんなの聖殿が一番良く分かってるじゃないか。
「くやしい、全部が全部あの人の回し車の上での出来事みたいだ」
せかせかと空回りさせる自分の姿を想像して、顔に苦笑を浮かべてみる。
聖殿の仰る事には歯向かうが、ひた隠すその想いには従うへそ曲がり具合にもだ。
その実、拒みきれない優柔不断さなのかもしれないけどさ。
「ふふふふ、さあこうしちゃいられない、早く戻らないと」
駆け出す足元を見て、やはり靴が汚れてしまっていたが私の心情は晴れた気がした。
それにこんな考え事していたら存外遅くなってしまった。
先に帰って構わないとぶっきら坊に言ってしまった手前、戻るのに少しの不安がある。
だがあのお人の事だから、きっと生真面目に待っているんだろうな。
さっきの、手を払ってしまった事も、謝らないといけない。
「素直に謝れるかな」
きっと謝れるさ、そしてそれを上司殿もきっと許してくれる。
またあの乱反射する琥珀の瞳で、私を覗き込んでくるに違いない。
そうしたら、心の内側まで見透かされて、言わなくてもいい事も言ってしまうかも。
「全くもって、度し難いな」
頬が赤らむのが自分でも分かる。
からっ風に当てられて冷たくなった両手で冷やせば、寝言も覚めるというものだ。
そういえば最近、一段と寒くなってきた。冬も近づきつつあるのかな。
さあ、早く戻ろう。でなきゃ上司殿も私も風邪を引いてしまう。
駆ける足に勢いが増す、握る拳に熱が篭る、頬の熱が移ったようだ。
掌を胸に当ててその熱を私の小さな心臓に宿せば、この高鳴る鼓動も心地好く思えた。
私の小さな心臓は、ダウジングロッドのように、あのお人への指針になっていた。
近づくにつれて高鳴る鼓動、私は、生粋のダウザー。
我ながら良く出来たものだと、頬を赤らめる。
しかし、上司殿の元に戻って、私の心臓は途端に静かになってしまった。
いや、それどころかまるで冷たくなってしまったかのように、鳴りを潜めている。
もうすでに、毘沙門天様から異動の御達しが上司殿に渡っていたのだ。
この時ばかりは、毘沙門天様の手の早さに舌打ちをした。
「ああ、ナズーリン戻りましたね。寺に、帰りましょうか」
そう言う上司殿の顔は、笑っていた。
御達しには、ご丁寧にこの異動は聖殿たっての希望だと付け加えられていたのに。
私は掛ける言葉を失った。
そして、先程までの私の浮かれた気分を恥じた。
上司殿の手には、昇進祝いらしい『宝塔』が大事そうに抱えられていた。
口数少なく、伏せられた瞳は乱反射する事はない。
その姿を見た私の心が代わりに乱れ叫び、もう己の無力さにほぞを噛むしかなかった。
帰り路、一人きりで乗る馬上は薄ら寒くて、抜けるような空は凍えるようだった。
風がやけに、石ころの瞳に染みた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◇◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
あれから上司殿の顔は一向に晴れず、数日経った今も快方に向かっていなかった。
余程今回の事が堪えたのか、時折ぼうっとしている事もあった。
それでいて仕事は真面目にいつも通りこなすのだから、却って胸がキリキリする。
聖殿が居ない分も、まるで本物のご本人のように務めていた。
傍から見ても上司殿の仰りようや行動に至るまで、全てが聖殿にそっくりだった。
上司殿の隣に聖殿が付き添っているかのような、私は、そんな気がした。
でも、上司殿がお一人で居る時は、側にその影は無い。
午後の仕事が一段落した頃、寺社裏の軒先に座り、空を眺めている上司殿が居た。
いつもの気丈な振る舞いが欠け落ちて、抜け殻のような姿だった。
私がたまらないと想ったときには、足がすでに動いていた。
「上司殿……なにか言いたい事があるのではないのですか」
「…………それより仕事は終わりましたか? 駄目ですよ、油を売ってては」
こんな時まで、このお人は。
「仕事、仕事と。今はそれより大事な事があるのではないのですか。
貴女のその瞳はなんの為にあるのですか。琥珀に映すのは地の黄色ではないはず。
仕事よりも、いや、仕事なんていつでも出来るではありませんか」
噛み付かんばかりの勢いで、私は上司殿に詰め寄る。
その琥珀の瞳に飛び込むつもりで、自らを上司殿の心に沈ませるつもりで。
例え届かなくても、本音が、聞きたかったんだ。
「ナズーリンは、仕事が嫌いですか? 私は好きですよ、お仕事」
「……聖殿よりも、ですか?」
少し、意地が悪い言葉だったかもしれない。
「聖と……比べると難しいですね。聖も大切ですし、仕事だって蔑ろには出来ません。
どちらが好きと問われれば、正直、悩んでしまいます」
「そんなの答えは決まっているでしょう。なにをすべきかなんて、考えるまでもない」
「ナズーリン」
名を呼ばれ、目が合う。
その琥珀は、微かに光を反射していた。
「ナズーリン、仕事というのはですね、頼まれたその場その時にしなければ意味がないのです。
後で片付けよう、まだ間に合う、それではいつまでも終わりはしない。
これは嫌だからやりたくない、したくないではなにも始まらない。
私は、聖にこの寺の一切を託されました。私の仕事です。
お金を頂けるわけじゃない。毎日勤しみ、休みの日なんて無い。
でもね、ナズーリン」
私は、その瞳に捕らわれていた。
自分から飛び込もうとしておいて、取り込まれると身動き出来ないなんて。
しかし、やはりそこには、乱反射する琥珀色に包まれた私が映っていた。
「私にとって仕事は誰かとの絆なのです。私を必要としてくれる誰かとの。
生き甲斐とか使命とかじゃなく、それ以上の価値があるのです。
存在理由と言っても過言じゃありません。
誰かが私を必要としてくれている、それだけで生きる理由になると想いませんか?」
琥珀には、確かなものが宿っていた。
瞬く瞳に陰る想いなど無く、ただただ、堅い信念を、纏わぬ気持ちを私に魅せる。
それを感じられたのは、このお人の心に触れたからかもしれなかった。
そして琥珀が一層その存在を輝かせると、身動ぎさえ出来ない私に語りかけてくる。
「聖には……沢山の返し切れない恩があります。
それこそ、私がこうしていられるのも全て聖のお陰なのです。
同時に、ぞんざいな私に仕事の意味と意義を、生きる理由を教えてくれました。
大切な、とても大切な人です。でもね、ナズーリン」
お話の所々で私の名前を呼んでくれるのは、どうしてだろう?
私は、ちゃんと貴女のお話を聴いてますよ、お声を感じておりますよ。
もしそう捉えられていないのであれば、それは私のせいではないんだ。
いや、きっとそうじゃなくて、私の瞳を覗いているんだろう、探っているんだろう。
「聖が教えてくれた生きる理由を、聖の為に投げ出すなんて私には出来ないのです。
それは私が生きる事を望んでくれた聖への裏切りになってしまう。
だからね、私は仕事をやらない訳にはいかない。
この世界で一番大切な人に頂いた、大切な絆だからです」
「しかしそれは、あまりにもそれは辛くありませんか。
大切な方に逢いたい時に逢えないなんて、切な過ぎるではないですかっ」
一瞬のうちに声が大きくなって、私は上司殿に気持ちをぶつけていた。
そんな事をしても、このお方のお気持ちは揺るぎもしないと知っていながら。
それに行き着いたのは、理由があった。
上司殿の言葉が、私に一つの区切りを与えてくれたから。
「だから、今困ってるんです。どうにも、どうにも整理がつかないのです。
私の心が言う事を聞かないのですよ、勝手に暴れてしまって。
すぐにでも聖の元に行きたい、逢いたい、お話しをしたい……。
なるべく考えないようにしているんですが、これがなかなか難しい。
私も、まだまだです。ナズーリンに、お説教なんて出来ませんね」
砂を齧るような音がして、下に目をやれば地面をこする足があった。
そこには何度も何度も、耐え忍んだ痕が見えた。
普段は自身に威厳を持たせている腕組みも、今は感情の抑制にあてられている。
二の腕に喰い込む指が、葛藤の深さを物語っていた。
「……貴女が出来ないのであれば、私がするまでです」
「ナズーリン?」
私は、貴女の部下なんだ。貴女の手伝いをするのが部下の仕事だ。
先日触れられるのを拒んだ上司殿の左手を、今度は私が強く強く握る。
暖かくも仕事慣れした手に、あの時払い除けた事を少しだけ後悔した。
「私が貴女を聖殿の元に連れていきます。貴女はただ黙ってついてくればいい」
強引に引っ張ると前のめりになりながら上司殿が立ち上がる。
それを案外軽く感じたのは、想い違いではない気がした。
大勢を崩して私が支えた上司殿の体重は、決して重いものではなかったから。
「失礼、さあ行きましょう。今ならまだそう遠くはないはずです」
「ナズーリン……!」
私の名を呼ぶ声を無視して空を仰ぐ。
人間に見つからないよう、普段は翔ぶ事を自粛しているが、構わず地面を蹴る。
しかし上司殿と繋ぐ手に邪魔されて、その勢いが失せてしまった。
「私は……私はそんな事頼んでいませんし、逢ったって聖に合わす顔が」
「二度も言わせないでください。黙ってついてくればいいのです」
「だけど、私は……」
そんな顔を、しないでください。
「貴女がどうしたいかはこの際関係無いのです。これは私の問題だから。
これは私の仕事です。誰かに頼まれたのでも言われたからでもない。
私が自分で考え、やりたいと自分で決めた大切な仕事なのです。
だから……だから私は貴女を連れていきます。私の為に、貴女の為にっ」
今私が言葉に出来る全てを言い放った。
本当に言いたい事は言えなかったけど、私にはこれが精一杯だけど。
もし、貴女の琥珀に届いたのであれば応えて欲しい。
私と聖殿が望む貴女はこんな事で傷付くほどヤワじゃない、確かな強い意思を持っているはず。
堅い硬度の、乱反射して光り輝く宝石を、貴女はその瞳に宿しているんだ。
また見せて欲しいんだ、あの折り重なる光を。
感じさせて欲しいんだ、私に魅せたあの心を。
「…………ナズーリンは、強くて綺麗な虹色の瞳をしているのですね」
時間が止まる、音がした。
「な、なにを馬鹿な事を……さあ行きましょう。日が暮れる前に」
上司殿を掴む腕に力を込め、引っ張り上げるように宙へと促す。
今度は細心の注意を払って、余計な力が掛からないように。
「ありがとう、ナズーリン。でも、違うのです。私は……行けません」
「え?」
先程とは違う明らかな拒否の声。
上司殿の瞳には、また種類の変わった薄ら明るい火花が散っていた。
私がこれまで見た事がない、上司殿には似つかわしくない輝きが。
そんな困惑の最中の時、表から大きな怒鳴り声が聞こえた。
「聖 白蓮を出せぇ!!」
「出て来いっ! 居るんだろう、俺達をだまくらかしやがってぇ!!」
「おい! 白蓮を差し出せ! この魔女めっ!」
悪意のある、侮蔑の言葉が寺中に響き渡る。
しかし私は上司殿の瞳から目を離せないでいた。
なんだ、この寺でなにが起こっている? 一体上司殿はなにを考えている?
疑問と疑問が摩擦を生じさせ、私を雑念の中へ押しやる。
混乱が頭を掻き回す中、確かな事が一つだけあった。
これから先、嫌な事が起こる。
私が逡巡している間も、冷めた表情をしている上司殿がその証である気がした。
「あっ」
突如として私の手を払い除け、上司殿は駆け出して行く。
人間たちが近くに居る故に私も地上に降り立ってその後を追う。
一瞬行動が遅れたせいか上司殿に追いつけず、私は必死になって駆けた。
しかし寺の表まで来て、私はその門前の様子に想わず足を止めた。
黒山の人だかりが、大勢の人間達が、口々に怒声を上げてひしめいていたのだ。
「白蓮はどこだ! どこに居る!」
「人間の味方のフリをして、妖怪を助けていたなんて、お前は魔女だっ!」
「このあいだの戦だって白蓮が裏で操っていたと聞いたぞ!」
「息子を返せ!」
「父を返せ!」
どういう事だ、先日まで慕っていた聖殿を、今度は掌を返して糾弾しているなんて。
今にも押し寄せてきそうな激しい憎しみに、寺の門は悲鳴を上げていた。
このままだとこの寺が荒らされてしまうと想い、私は考えも無しに駆け出した。
しかしどうにかしようにも私は妖怪だから、彼らの怒りを煽ってしまうかもしれない。
不安で足の回転が鈍る。良い策なんて浮かばない。
ところが、私が空回りしている間に怒号は静まりかえり、人の気配も薄れたようだった。
いや、代わりにざわざわとした声が私の腹を揺さぶる。
「毘沙門天様のお弟子様だ」
門が開け放たれ、直前にまで居た人間達が後ろに押されて寺の中に雪崩る。
それ以上入って来なかったのは、眼前に立っていた上司殿に気圧されたからだ。
いかり肩で腕を堅く結び、後ろ姿でも容易にその心情は理解出来た。
「一体なんの騒ぎですか、これは」
「お弟子様、大変なのです、あの尼僧め妖怪と繋がっていたのです」
「ほほう、それで?」
「とんと見てなかった妖怪共が現れて、飯をくれとねだるのです」
「ふんじばって吐かせると、聖 白蓮から飯を貰っていたのに最近は喰えなくなったとか」
「……ほう」
そんな馬鹿な。私は今でも定期的に食料を運んでいる。
現に昨晩だって定めておいた場所に設置したんだ。その時も誰にも見つかってないはず。
食料が勝手に動き出す訳はないし、誰がそんなもの隠すっていうんだ。
大体、この事自体を知っている者は限られている。
私と上司殿と聖殿に、それから。
「まさか」
理由は? どうして? なぜ?
またも疑問符だけが私の思考を占拠する。
「あたしらに良い顔見せといて、裏では妖怪を手駒にしていたんですよ」
「その妖怪共で領主様を脅し、戦まで始めて、あたしの娘は、それで死んだんだ」
「……それは酷い。さぞやお辛かったでしょう」
足元が揺らぎ、落っこちそうになる。意識が収縮して消え入りそうになる。
ふらつく身体を両手両足で踏ん張っても、この言いようの無い不安は抑えられまい。
絡みつかんばかりに蔦を伸ばし、形の無い世界から這い上がってくるこの不安を。
もし、もしあのお方の仕業だとするならば。
私は一体、なにをやっているんだ。
後悔、疑問、混乱。入り乱れる思考の隙間を縫って、上司殿の言葉が貫く。
「皆さんのお気持ちはよく分かりました。私が、聖 白蓮を封印しましょう」
崩れるような眩暈をも覚ます、至極冷淡な口振りだった。
乾いた口内の水分がさらに蒸発するのが分かる。
私の頭が、胸が、心臓が、心が、膨れ上がった鬼灯のように。
「すでに、私の仲間達が白蓮を捕らえているはずです」
「お弟子様っ」
「良かった、これで息子も浮かばれます」
「いえ、これが私の勤め、神格の弟子としての責務です。
誰に、なんと言われようが、例え憎まれ蔑まされようが、これが私の仕事。
大切な、大事な人との絆なのですから……」
紅く、裂ける。
「これにより、悪しき魔女は封じられ、皆に安寧がもたらされる事でしょう」
「ありがとうございます、お弟子様、毘沙門天様っ」
「白蓮を捕らえろ! 封印しろ!」
小刻みに揺れる両足を叩き、震える心臓に爪を立て、私は飛び出した。
「そんな馬鹿な事あるものかっ!!」
叫び声は上ずって、ちゃんと発音出来たかも怪しかった。
一斉にこちらに気づき人間達が罵声を、怒声を上げる。
情け容赦無い恨みの矛先は、私にも同等に向けられ、憎しみに焼かれそうになる。
それでも、構わず走り抜けた、あの琥珀色に狙いを定めて。
石を投げつけられても、拳や蹴りが飛んで来ようと、ひたすらに走った。
避けることも出来たがそれではあのお人まで遠くなってしまう。
直線距離で駆け抜け、腕を掻っ攫いそのまま地面から引き剥がす。
宙への道が遠く感じた。
「お弟子様が妖怪に攫われたぞ!」
上司殿は私にされるがまま、抵抗する事なく引き上げられた。
やはりその身体を軽く感じるのは気のせいではない。
「貴女が泣く事ないのですよ、ナズーリン……」
そんな事言われても、私は泣いてなどいないし、拭う事もしない。
ただ、この石ころの瞳に、乾いた風が染みただけなんだから。
何事か騒ぎ立てている人間を尻目に、飛び去る風にその身を預ける。
しとしと零れ落ちる想いで私の心は今更やっと焦げた。
引っ張る腕を乱暴に扱いながらも、私は、このお方の手首が細く白いのを感じていた。
「聖が私に与えてくれた初めての仕事は『聖について行く』ことでした」
寺がある山の頂上、ここには私と上司殿の二人しか居なかった。
妖怪が多く棲むこの山や山道に、好んでやって来る人間は少ない。
ここなら誰にも邪魔されず、上司殿と話しが出来ると想った。
「それはまるで私に魔法を掛けるようでした。不思議と抵抗感や不安が無くて。
ただ『ついて行く』という事なのに、とてもとても大変に想ったのを憶えています」
でも、私が問い掛ける前に上司殿が語り始め、私は、言葉を飲む事になった。
辺りは夕焼けにはまだ早い、この時間特有の雰囲気に満ちていた。
やけに鳥や獣たちが静かになるのも、この時分が特別だと、そう物語っているようだ。
「無理な事を簡単に考えていたそれまでの私にとっては、気が気じゃありません。
なんに対しても斜に構え、物事の本質を見ようとしていなかった私にはね。
自分の中での価値観が最優先で、それは本質さえ咀嚼の対象となる愚行でした。
誰かの想いを踏みにじる事も当時は当たり前で、気にもとめなくて。
そんな愚かな価値観は、ついに私自らをも飲み込んだのです」
からっ風に背を向けて、遠くに視線をやりながら話す上司殿。
昔を懐かしむような自嘲気味のその横顔は、寒気にあてられ少し赤い。
「間違った価値観の肥大化は自身を見失う事。眼を自ら潰すような事。
逆さまになってしまった世界に、私はなんの未練もありませんでした。
そんな世界じゃ真っ直ぐに歩く事も、なにかに触れる事だって出来やしませんから」
その姿を見つめる私と言えば、ただ居住まいを正して聞いているしか能がなく。
気の利いた表情を浮かべるのもままならない、聞き手に成り下がっていた。
今はそれが正しい事なんだと、何度も何度も自分に言い聞かせながら。
「だからといって死を選ぶとか、なにかをするとかの勇気はありませんでした。
なまじ価値観に縛られているから、新しい考えや先に進むという試みへも辿り着けず。
外見は正常そのものでしょう。価値観は自己の固定、安定に繋がります。
でもね、内面は非道いものでした。理想と現実の摩擦で心はすり減っていきました。
上手くいかない事を誰かのせいして、自分は理想という価値観に固執する。
堅くとも割れ易い、自分だけの宝石にすがりつくようなね」
さらに遠く視線を移したその先は、青い空の向こうだった。
ふと、上司殿が吐いた息が白く濁るのを見て、気温が下がっているのを知る。
以前、聖殿が仰っていた昔ばなし。上司殿はその続きを話されているのだろう。
一匹の虎の妖怪が、石ころを手に入れるお話の。
「聖とお逢い出来たのは偶然か必然か。
ある日、毘沙門天様に弟子入りさせる妖怪を選別に山を訪れたのです。
不思議でしょう? 神格への弟子なら妖怪など最も相応しくないはずなのに。
それでも一目見て私にと、決めたそうです。
訳も分からず、右往左往して逃げる私に厳しい口調で『ついて来い』と。
その言葉は正しく魔法でした。
私の宝石箱に掛けられた魔法……それは宝石を壊す魔法。
誰かに従うなんて、それまでの私には考えられない事で、何日も戸惑っていました。
でもね、ナズーリン」
吐き出す空気は柔らかく、振り向き囁くは私の名。
「今でも、聖と一緒に居ると想うのです。私はこの人に必要とされているんだ、と。
それだけで私の宝石を壊すには十分な事柄で、少しずつ心が解放されていきました。
自己発生、自己完結の螺旋に、石ころ一つを投げ入れて波紋を拡げた。
皮肉なもので、誰かに縛られる事で私はある種の自由を手に入れたんですね。
与えられた石ころを磨くという、自由を」
それは、私だって同じだった。
自分は優秀、秀でているなど実のところ妄想で、幻覚にも似た儚いものだった。
誰かの言う事に従い、その結果が功を奏した、ただそれだけなのである。
下らないプライドという宝石に依存して、自分の中の想いに嘘を吐いていたんだ。
だけどもし、私にも、自分の石ころを磨く自由があるならば。
「上司殿、私は……」
「ん?」
もしも私にも、石ころに眠る美しい原石があるのならば。
「私は」
貴女にこの想いを伝えられるのでしょうか。
「…………私は、聖殿が上司殿を選んだ理由がなんとなく分かります」
「ああ、どういう事でしょうか?」
「きっと、上司殿に石ころを磨く力が在ったから。
与えられた石ころを自分の手で、自分の形に磨ける力を見出したからだと想うのです」
伏せられた想いは原石のように。
「その石ころの中に原石を見つけ、取り出して磨くのは自分自身の仕事。
例え見つけられなくても、見つからなくても、やり通す想いが在ったからです。
いえ、もしかしたら原石は貴女の中に元々在ったのかもしれません。
それを、聖殿は貴女に見つけたから」
いつか、いつの日か貴女の琥珀に見合う宝石になるその時まで。
「貴女は原石を立派に磨き上げた。それが聖殿との絆で、これから更に輝くはずです」
「ナズーリン」
それまでそっと、胸に潜めておこう。だから……。
「だから、私も私の宝石を、大切な想いを磨き上げます。
私も貴女方から頂いたのです、今は石ころだけど、輝くかもしれない原石を。
見つけたのです、失くしたものの代わりに大切なものを。
今は言えないけど、大切な言葉を」
消えないように、色褪せないように、より輝くように、貴女の隣に居させてください。
「……ええ、その時を楽しみにしていますよ、ナズーリン」
はにかむ笑顔の貴女は、もう眉間に皺を寄せる事もなく。
ただ、私の瞳を覗いてくる。
「……やはり、聖殿を封印するのですか?」
「それが今私が出来る仕事です。
聖から手渡された最後の仕事。私がやらねばなりません」
「聖殿がそんな事を望んでいるというのですか? そんな事一言も」
首を横に振り、違うのですと、否定を表す。
苦しげに言葉を発するにはあまりにも健気過ぎる顔だった。
「あの聖が易々と捕まるとお想いですか?
恐らく毘沙門天様でさえ、容易に相手は務まらないでしょう。
きっと聖は理解しておられるのです。ご自分の使命を。
あの方が悪として封印されれば人間達の心の拠り所となり、傷を癒す事も出来る」
「それで封印しろと? 世の中の悲しみごと、ご自分を犠牲にしてまで……?」
「ナズーリン」
言霊は、貫くように私の瞳へ光を撃つ。
「私にもあるのですよ、自分で決めた自分の仕事が。
それは聖の理想を実現する事、あの人が心に望む全てを叶える事。
例えどんな辛苦を味わおうが、必ずやり遂げる覚悟があるのです。
あの人は何事も不器用ですから、誰かが手を貸さねばならぬのです。
あう、それは私が言えた道理ではありませんね。
自分の為に始めた仕事なのにいつの間にやら『誰かの為』になっていたんですから」
そう言う上司殿はまた少し、自虐的にはにかんだ。
不器用過ぎるほどのその想いは、果たして互いに出逢う事が出来たのだろうか。
なんの指針も無い、広い広い世界に放たれた二つの光の束。
それが交わるにはあまりにも難儀で、切ない想いを得るだけかもしれない。
いや、指針なら在るではないか。この両手に在るではないか。
私が指針になればいいんだ、道案内役なら私が引き受ければいいんだよ。
この生粋のダウザー、探し物を見つけるのには一日の長がある。
それならば。
「ならば私は、私の仕事をします。どうか上司殿もご自分のお仕事を成してください」
「当たり前です。私を誰だとお想いですか」
「そうでした、これは失敬です」
「……聖は都にあるあの古寺に居るはず、貴女が毘沙門天様に謁見した寺です。
この『宝塔』を頂いた時に聖封印の命を受けました。
急遽立てられた案件ならば場所も手近で済ますはずです。お行きなさい」
「はいっ」
宙に身体を浮かせれば、からっ風が一段と身に染みる。
上司殿の想いを全て理解した訳じゃない、いや、さらに難しくなったかもしれない。
でも、私がなにをするべきかは分かっている、心に刻んでいる。
私の仕事をすればいいんだ。自分で考え、経験から学び、先に繋がる仕事を。
その為に必要なものを私はもう持っているし、与えられてきたつもりだ。
例え、それが辛く悲しい結果であろうと、後悔しない仕事を。
上司殿と聖殿が見せたあの宝石の輝かしさを、私も見つけたいんだ。
「行って参ります」
「ナズーリンの仕事、しかとこの眼で見させて頂きますよ」
私の頷きに、上司殿は無言で手を差し伸べてくれた。
それが握手だと気づくのに少し時間が掛かってしまって、慌てて手を放り出す。
堅く握り返してくる掌は、とてもとても優しく感じた。
指先が離れると、私は一気に空高くまで上昇する。
小さくなっていく上司殿を目の端で確認して、そのまま山を離れた。
私の仕事はまだ、始まったばかりだ。
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
都への直線上、顔の左側から夕日が差し、眩しさを堪えながら風を斬る。
人間に見つからないように空高く飛んできたが代わりに身体が冷えきってしまった。
西日の温かさを感じていたいが、今は凍えるほどにまで速度を上げなければならない。
馬の背中に揺られて数刻の距離は、雲の路にとってもあまり変わらないようだった。
空に浮かぶ雲はどれも似たような形をして、私が感じる距離と時間を狂わせるのだ。
「もうそろそろのはずだ、もう少し……」
先程も呟いた言葉を取舵に、夕日の方向へと身体をひねり、高度を下げて雲に潜る。
厚い雲の中は日が当たる事もなく、さらに気温も低い。
暗い夜道のような感覚だが、頬に触れる水気が違和感を生じさせる。
「冷たさが残る。雪、かな?」
なけなしの肌のぬくもりも、凍った水気にほとんど奪われてしまった。
雨の割には冷た過ぎるし、触れた皮膚がひりひりする。
これは間違いなく氷。形を成した結晶が、きらりと輝いたかのように見えた。
雲の下部に近づくに連れて結晶は大きさを増していく。
やがて周囲が明るくなり始め、結晶もそれと呼べるものになった。
「雪だ」
暗闇を抜けた先は一面の雪景色だった。
雪は大きく覆い被さり、くっきりと稜線を形作る。
つい先日見たはずの都は、白と黒に塗り潰されてまるっきり様変わりしていた。
ここが本当に目的地なのかどうかさえ、一目では判断出来なかったくらいだ。
寒いとは想っていたが、もうすでに季節は冬に移っていたらしい。
「雪が降っていようがいまいが……あそこだっ」
先日の古寺、この位置からなら雪に紛れようがすぐに見当がついた。
都の中心からわざと離れ、人を遠ざけるように建てられていれば逆に目立つというもの。
目に入るのと同時に方向転換、真っ直ぐ古寺に向かって速度を上げる。
ゆらり落ちる雪を追い越し、私は鼻先で寺への指針を定めた。
あそこに、聖殿が捕らわれているんだ。
上司殿が教えてくれた古寺はやはり、白い雪のせいで余計に寂れて見えた。
自分の仕事をすると言いながら、私に聖殿の場所を話したのは何故だろうか。
やはり、本音では封印などしたくないのだろうか。
「そんな事、当たり前か……。一番大切な人なのだから」
大切な人との絆だから、その大切な人を失うのも厭わない。
矛盾だらけだ。
でもそんな矛盾さえ抱え込んで、あのお人はなにを得ようとしているのだろうか。
なにも、残らないのではないだろうか。
いや、だから私がやるんだ。あのお人の代わりに、矛盾する想いの片棒を担いで。
「このままにしてなるもんかっ」
寺の周囲を見回し、警戒の有無を確認する。朽ちた塀の隙間に侵入の糸口を見つけた。
そっと速度を落として近づくが、上から見た警備の手薄さが気になった。
妖怪も、人っ子一人すらも居ない様子に、なにかしらの意図を感じる。
脆い塀の口に手を掛ける、触れて疑心の根源を探す。なにもない。
「罠は無しか。でも」
素早く身を丸めて寺の敷地内へ翔ぶ。地には降りずに浮いた状態で目を凝らす。
そのまま裏庭を横切って、軒先へ。床の抜けた廊下、垂れ下がった蜘蛛の巣。
暗い建物の奥が気に掛かるが、やはりなにもなし。
本当にここに聖殿が居るのだろうかとも頭の隅で考えるが、それも杞憂に終わった。
倒れた雨戸から部屋の奥が覗け、そこに聖殿の姿が見えたのだ。
当たりだ。けれど逸る心を落ち着かせる、罠の有無の確認は怠れない。
しかし専門ではない私にはそれ以上の事は出来ず、ままよと半ば強引に突入した。
転がるように入った先は寺のお堂、聖殿を見やって無事を確認する、が。
「警備の手薄さの原因はこれか」
広いお堂に敷き詰められた呪印、四方八方に張られた幾重にもなる結界。
渦を巻くほどに部屋中を巡る異様さに、呻く言葉すら見当たらない。
その中心には聖殿が、修行僧のように座して捕らわれていた。
実際なにやら集中して唱えているようで、私が転がってきた事にも気づいていない。
「聖殿、助けに参りました。聖殿っ」
助けに来たとは言ったが一体どこまで出来るか、私の声は広いお堂に震えて響く。
体勢を立て直して聖殿を見据えれば、呪文を止めてゆっくりと瞼を開いた。
一呼吸の間を挟み、私を確認したのか息を吐いた。
「……なにをしに来たのです?」
「えっ」
「貴女はなにをしにここまで来たのですか?」
その声は低く、腹の奥に届く怒気を含んでいた。
矛先は明らかに私へと向けられており、ぴりりとした空気の震えをも生む。
身に憶えの無い真っ直ぐな感情に、私は尻尾の先まで緊張した。
「なにをしにって、貴女を助けに」
「私がそれを望みましたか? 頼みましたか? 貴女には別の仕事を頼んだはずです」
「し、しかしながら……」
「……私は星の力になって欲しいと頼みました。
貴女はそれを簡単に棒に振り、自分勝手にのこのことここまで来たのですか?
星は私を封印するのでしょう? なぜ貴女はそれを手伝わないのです」
「だって、私は……」
「おやめなさい!」
張り裂けんばかりの声が私を貫く。正直に言えば竦んでしまった。
普段おっとりとした聖殿が、こんなにも感情をあらわにするのを私は見た事が無かった。
だからこそ、その言葉は私を、私の心臓を震えさせる。
「自分の行いに『だって』や『しかし』など付けてはいけません。
貴女は貴女が考えて悩んで答えを出して、それでここへ来たのでしょう。
『だって』を付けたら誰かのせいになる、『しかし』を付ければ否定になる。
違うでしょう、貴女は貴女の、私には私の大切なものの為にここに居るのです。
決して誰のせいでもないし妥協でやっているのではない。
貴女がそれでは、今必死になっている星をも貶す事になってしまいます。
いいのですか、それで、貴女はっ」
「聖殿、私は……っ」
私は、覚悟が甘かったようだ。
上司殿も聖殿も、大切なものの為になにかを賭けているんだ。
上司殿は未来を、聖殿だってきっともっと大事なものを賭けているはずだ。
失ったものは二度と同じ形では戻って来ない。それを分かっているから。
それなのに私ときたら、まだなんとかなるなどと考えていたようだ。
不退転、どちらに転ぼうが失うものの大きいお二人に、私は遠く及ばない。
私にもっと力があれば、覚悟があれば。
「もう一度聞きます。貴女はなにをしに来たのですか?」
落ち着いた声が私を問う。同時に突き付けられる瞳は、強い輝きを持っていた。
目の前のこのお人にも、美しい宝石がある。
「……私は、聖殿、貴女に聞きたい事があって来たのです」
「ん、聞きたい事?」
予想外だったのか、聖殿は首を少し傾げて目を丸める。
私が聞きたかった事、それは。
「上司殿に、寅丸 星に逢いたいですか?」
丸めた目をさらに見開いて驚きをあらわにする。
予想外も予想外、私の口からそんな言葉が出たのが信じられないといった様子だ。
しかし、すぐに目を細めてその顔を微笑みに染めた。
柔らかな日差しのような、あのいつもの聖殿の笑顔だった。
「ああ、私の負けですね。ごめんなさい、大声出したりして」
「意地の悪いお方です。いや、私の方こそ申し訳ありませんでした」
「どっちもどっちという事にしておきましょう、おあいこです、ふふふっ」
「……それで、お応えは」
伏せる視線、絡み合う気持ちの糸を解くように聖殿は瞳を泳がせる。
正直、自分でも最低な質問だと想う。
一度捨てた葛藤を、簡単に拾い上げてまた苦しめと言っているようなものなのだ。
聖殿が悩み抜いた末に決めた意思を、脆く瓦解させる魔法の言葉。
さしずめ私は姫に魔法を掛ける悪い魔女といったところか。
こんな灰色鼠にはちょうどいい配役だ。
普通のおとぎ話と違うのは、王子様がお姫様にはもう逢えなくなる事。
それだけだ。
「……星は、どうしていましたか?」
「上司殿は貴女の想いを受け継いでおります。貴女を封印するのも厭わないほどに」
「……そうですか」
すうっと顔を上げる。こんな時にも関わらず、そのお顔は相変わらずの笑顔。
聖殿の中で、なにかが終わって、なにかが始まったのだろうか。
「聖殿、駄目ですよ……」
「分かってはいたのですが、意外と不安なのですよ。離れてしまうと」
「私は、そんな事を、聞きたいのではないのです……」
「そう言えば、まだあの続きをナズーちゃんにお話ししていませんでしたね」
最後の、希望だった。
「『めでたしめでたし』で終わった物語はどこへ行くのでしょう。
終りの向こう側、『有』の後ろには常に『無』が付き纏うと言いますが、
果たしてそうなのでしょうか? 私は、こう、想うのです」
私が聞きたかった言葉を、聖殿が口にする事はない。
その言葉が消えてしまった訳ではないのに、私は底無しに悲しくなった。
「終わってしまった物語は、ただ語られないだけでまだ続いているんじゃないか、と。
誰にも知られない、誰も気づかない。けれどお話は続いている。
登場人物達はその後も物語を彩り、まだまだ終わらないお話に生きているのです。
じゃあ、なぜ『めでたしめでたし』で終わらせてしまうのでしょう?」
ひとすじの水滴が、私の頬を伝ってお堂の床に落ちた。
いつの間にか頬の熱にあてられたように、私の心臓が脈打っていた。
私の石ころの瞳から、もう止まらないほどに溢れるのを、ただただ感じていた。
「……終わりがあるから始まるものがある、そう想うのです。
語るべき物語はその役目を終えて、誰かの心で眠りにつき、その人に息づく。
やがて始まるのは受け継がれるべき物語。それは真摯でなくてはいけません。
いつかまた、出逢うその時に、終わってしまっていては悲しいじゃないですか」
『いつまでも終わりはしない』と、上司殿も言っていた。
上司殿も分かっていたのだろう。
なにかを始めるには、なにかを終わらせなければならない事を。
「だから私は、星や、ナズーちゃんに物語の続きを描いて欲しいのです。
物語が終わってしまうのは続きを紡ぐ者が居るから、終わりの先に始まりがあるから。
貴女達の心で眠りについたのは石ころじゃない、輝く可能性のある原石です」
「私は、私に、そんな資格無いのです……」
「いいえ、きっと大丈夫です。だってほら、顔を上げて」
促され、声が上ずるのを我慢して聖殿を視界に入れる。
しかし涙で歪んだ景色では、そのお顔をはっきりと見る事は適わなかった。
赤く腫れた眼で、こんな顔はあまり見られたくない。
「ほら、やっぱりそうです」
「な、なにがですか?」
「ナズーちゃんの瞳には、『貝の火』が宿っていますから、大丈夫ですよ」
『貝の火』とは、なにかの暗喩だろうか。
聖殿の言葉は、こんな時にさえ冬の寒さを掻き消すほど優しくて暖かだった。
少しだけ、私の涙も止まりそうな気がする。
「私が悪いのです。いいように扱われているのも知らず言われるがままに仕事をして。
挙句の果てには聖殿を追い詰める機運を作るのにも加担してしまった。
雑な仕事をしたせいで、人間達に余計な不安を与え、毘沙門天様がつけいる隙をも。
私のせいなのです、上司殿はただご自分の仕事をなさっているだけなのです」
この件の首謀者はあの毘沙門天様だ。
あのお方が聖殿を封印せよと命じ、取って付けたような噂を人間達に含ませたのだ。
結果から言えば私は利用されていた。
私が間諜だ、などとは毘沙門天様ご自身が出張る事をご命令された時点で周知の事実。
それだけでも無言の圧力になるし、牽制になる。
ここまではいいのだ、私も自覚はしていたから。ただ。
「私が寺の為と想ってやった仕事が、上手く利用されていたのが悔しいのです。
そしてそれに気づかなかった自分自身にも、腹が、立ちます」
「その想いは嘘ではなかったのですから、そんな事は気にしなくて良いのです」
「しかし……」
「『しかし』は禁止です」
両手の人差し指を交差させてバツを作る聖殿。
それがまるでおまじないのようで、私は軽く口を噤む。
「星だって一所懸命、寺の為に働いただけです。
あの子は私の理想を叶える為に、人間と妖怪を別け隔てなく救える世界を、
つまりは、私の願いが叶う場所をあの寺に形作ろうとしたのでしょう。
きっと毘沙門天様は私自身に信仰が集まるのを恐れたのです」
「それで、このような事を」
「あの方もまた、己の使命を貫いているだけです。信仰無き神に未来はありませんから。
糧の為ならば手段は選びはしないし、神としての誇りもまた動機に通じるのでしょう。
誰にも責められる道理はありません。ただ少し……」
「はい?」
「手段が気に入りませんがね。ナズーちゃんや星の善行を利用するなんて」
そう言う聖殿はとびっきりの微笑みを浮かべる。
笑顔には変りないのだ、笑顔には。ただ恐いだけで。
「だ、だからと言って聖殿が犠牲になるのは見過ごせません」
「私も迂闊でした。もう少し上手く立ち回れば貴女達にも苦労は掛けなかったのに。
だけどいずれ誰かが方法は違えどやらねばならぬ事なのですよ。
世に蔓延るのが悲しき定めなら、露払いするのが私の使命。
これで妖怪達が無用な痛手を被る事態が少しでも減るのであれば、本望です」
「そ、その為に、私や上司殿が悲しんでもですかっ」
これも、ずるい言い方だ。
さっきからずっと私は泣いていて、まるでぐずる子供のようだった。
「だから安心しているのです。こんな私を好きで居てくれるナズーちゃんだから
星の事を任せられるし、終わってしまうお話の続きもきっと始められます。
私はそう、信じていますから」
「でもっ!」
もう、子供になってしまおうと想った。
泣きじゃくる幼子のように、しようのない泣き虫の子供のように。
素直な気持ちを言おうと、そう想った。
「でも私は、い、いやなのです。私は、聖殿も上司殿も、どちらも大好きで、
大切な人達なのに、せっかく出逢えたのに、わ、分かれるなんて、いやです。
だけど、お二人の想いも遂げさせたくて、その為に辛い想いまでしているのに、
わ、私なんかがそれの邪魔をして、いいのか、余計に辛くなるんじゃないかって、
それなのに、お二人とも辛そうな素振りも見せなくて、悲しくて、切なくて。
わたし、私はもう、どうしたらいいか……ううぅ」
石ころの瞳からぽろぽろ、ぽろぽろと際限なく溢れ出てしまう涙。
私にそれを止める力なんて無くて、泣き喚くしかなくて。
ただただ、私は無力で。
「……私も、ナズーちゃんに逢えて良かったです。それだけで、救われます。
どうか泣かないでくださいな。貴女だけですよ、涙を流しているのは」
「うう、ひぐっ ううぅ……」
「『貝の火』に涙は似合えど、濡れて輝くのは宝石であるがゆえの事。
それを持つ貴女には、もっと別の輝く方法がある。そうでしょう? ナズーちゃん」
なにも出来ないから、なにかをしようとして。
知らねばならぬ事を知り、欲しいと願う暇も無く、多くを与えられた。
心の奥底に眠る淡い光は、外へと手放すにはあまりにも儚くて。
ただいたずらに、こんな時がいつまでも手の中にあるものだと、そう想っていた。
そして、なにかをしたから、失うものがある。
「ほら、笑って」
私は、お二人のお力になれたでしょうか?
掌の上で溶けてしまう雪のように、なにも出来なかったのでは悲しいのです。
白く色付いた吐息のように、やがて消えてしまうのでは切ないのです。
触れもしない、姿かたちも持たないものばかりに囚われてしまって、ごめんなさい。
だけど、お二人が笑ってくれるなら、私もきっと。
雪の冷たさや白い息のように、巡る時をお二人と感じられるのなら。
そうすればきっと、私も。
「……うん、いいお顔です。よくできました」
私には、笑う事しか出来なくて。
「ありがとう…………」
だけど、霞んでいく聖殿を見送るには十分な笑顔だったと想うんだ。
「……さようなら」
「聖殿……ッ」
咄嗟に握った手も、もはや残り香ほどの感触さえ感じられず。
砂か綿毛のように掻き消える様を、私はずっと笑顔のままで見つめていた。
音も無く、空気に溶け込む聖殿の姿は、まるで天使のようだった。
「聖殿っ」
後に残ったのは『人』と書かれた寄る辺の祇が一枚だけ。
それもまた、お堂のすきま風に巻き上げられて、見上げる高さまで舞う。
聖殿の姿はもう、欠片も残ってはいなかった。
「哀れだな、妖怪めが」
柱の影、寂れて褪せた朱色の観音扉から低く篭った声がした。
私は泣き顔を腫らして瞬きをする。
聞き覚えのあるその声に、必死になって涙を堪え眼を擦った。
「よくもそのような事を、また私を騙そうとするのですか!」
「式に騙されたからと、我に八つ当たりするでない」
木像が、湿気にまみれた身体を揺らし、観音扉から出てくる。
湿った音がお堂に響き、また低く篭った声をその口から漏らした。
先日の木像、操っているのはあの毘沙門天様に違いなかった。
「本物の聖殿はどちらにお隠しなさったのか! 仰っていただきたい!」
「あれが尼僧の姿をした偽物で、その言葉さえ偽りだったと、そう申すか」
「なにをっ」
「お前の涙に値する言葉が、あの尼僧自身のそれ以外にあるはずがなかろう」
私が声を張り上げたにも拘わらず、木像の眼が静かに私を見据える。
「式をここに置き、お前を留めるよう言ったのはあの尼僧だ。
我を信じないのならば好きにするがいい。だが、あの尼僧は嘘は吐くまいて」
「……存じて居ります、そんな事」
「急げ、哀れで健やかな妖怪よ。日暮れ過ぎだというのに空が明るい。
すでに始まっている、いや、もう終わったのかもしれぬ」
声は私に外を見るように促す。
私が転げて入ってきた雨戸の隙間に目をやれば、積もった雪が微かに輝いていた。
夕日や松明などの光ではない。もっと上から、空から降るような。
「そ、そんな……聖殿、上司殿……ッ」
「あやつに伝えておいてくれぬか」
また、湿った身体を揺らし、木像がお堂の闇に紛れた声を出した。
だけど私は構わず、怯えた手足を奮い立たせ外に駆け出す。
朽ちた床で転げそうになる私の背中に、声が届いた。
「よくやった、と」
がむしゃらに外へ出ると、辺りは雪が反射して昼間のように明るかった。
いや、雪は七色を帯びているなにか別の光に照らされて輝いている。
きらきらと光を纏い、虹色に見える景色は幻想的だった。
一層明るい虹色は、つまり雪を輝かせている光源は、私の頭上にあった。
見上げる空には雲ひとつなく、代わりに見た事もない光の布に覆われていた。
「これは、極光?」
聞いた事がある。極北の地では時折夜空に光の布が舞い踊ると。
それは吉兆とも凶兆とも言われ、神の悪戯とも揶揄される。
ただ一つ確実なのは、極光が現れる時になにかしらが起こっているという事。
この極光が集中している地に、なにかが始まろうとしている。
私にはそれがなにか分かっていた。どこに集まろうとしているのか知っていた。
そうだ、あれは寺の方角。
私がお二人に出会ったあの寺の。
「わああっ!」
遠く遠く、光の布が揺れている。駆け出す視界も揺れて、炎のように揺らめいている。
空のずっと高いところで、風も無いのに輝きながら。
きっと、悲しいのだろう、辛いのだろう、切ないのだろう。
手が届くはずもない極光に、私は追いすがって宙へ跳ねる。
だけど、軸足が雪に取られて目に映る光の布が一回転する。
煌めきは視界の彼方へ飛んで行き、私は背中から雪の上に倒れ込んだ。
そんな私に構うこと無く、より一層の輝きが夜空一面に広がって世界を覆う。
いま、物語が終わりを告げようとしていた。
「うわああああっ!!」
揺らめく布が夜空を光で隠し、なお一瞬の光に飲み込まれる。
やがて夜空が暗闇を取り戻すと、涼やかな顔で月が浮かんでいた。
何事もなかったかのように、さようならと、流れ星が跳んだ。
◇◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
朝日が差し込む寺の敷地に、そのお人は、ぽつねんと座っていた。
山々から昇る朝日が逆光となって、暗い姿に影を伸ばす。
私が到着した頃にはまた雪雲が集まりだし、重い湿気を抱え込んでいた。
雪を降らせるのに全く飽きないらしく、太陽もどんよりと身をもたげるようだった。
座ったまま空を見上げるそのお人も、抱え込んだものを吐き出しているのかもしれない。
降り積もった雪は足音を鳴らしてくれて、私に歩き出す勇気をくれた。
「ナズーリン」
やっと表情が判別出来るくらいの距離、まだ話すとしたら遠いほどの距離だった。
その場で私の名前を呼び、それ以上近づくなと言わんばかりにかぶりを振った。
踏み締めた雪がさらに高音域で鳴って、私の口元と心の臓をきつく結ぶ。
一旦歩みを止めてしまえば、最初の一歩とは段違いに次が重くなるのは知っていた。
「私を恨みますか?」
雪に覆われた寺の敷地に、張り裂けそうな言葉が響く。
こんな広く空いた場所でも冷たい空気のようによく通る声だった。
私は、放り投げるようにして言葉を繋ぐ。
「いいえっ」
「私を哀れみますか?」
「いいえっ」
「私を、嫌いますか?」
「いいえっ」
こだまして重なり合う互いの声。それを追い駆けて、紡いだ視線が交差する。
私が見たのは、逆光の中でもさらに際立つ二つの琥珀。
逆行ゆえに、輝きは少し褪せていて、美しい光の乱反射も分からなかった。
「それでは私は、愚か者でしょうか?」
私が否定を発する前に、そのお人は感情を吐露する。
「お別れの挨拶さえしなかった。ただの一言、さようならが出てこなかった。
聖の顔を見て、なにも言葉が出て来なくなったのです。
いえ、目を合わす事すら躊躇った。向かい合う事さえ苦しくて。
それがどんなに聖を傷つける行為か知っているのに、私は」
たまらず、片手で両方の瞼を覆う。
そのお人に出来る最上級の自傷行為、僅かな時間だけ世界と自分を隔離する。
それは聖殿との約束を裏切る事。自分を貶し、誰かに望まれるのを拒む事。
聖殿から頂いた大切なものは、そのお人にとって自分自身に他ならなかったのだ。
自分が望まれる世界を遠ざけるのは、その大切なものを貶す事。
自傷行為とは名ばかりで、もしかしたらもっと罪深い事かもしれない。
私は、そんな事をして欲しくなかった。
「でも聖は最後まで笑っていた。魔界に落とされ、封印されると言うのに。
幾重にもなる結界封印がその身体を閉じ込めようと、その精神を虐げようと。
それでも、聖は私を、私の世界を望んで笑ってくれた。
なのに私は、自分に必死で自分が傷つかないようにするので精一杯だった。
自分勝手な私は愚か者以外の何者でもありません」
「それは、違いますっ」
「違わない訳無いでしょうッ!」
ついにはうずくまり、そのお人は大声で吐き捨てた。
降り積もった雪に向かって、ぶつけようのない感情を、自分への憤りを。
「私は、いま、後悔しています。あれほど悩んで決めた事なのに、後悔している。
『やらなければ良かった』その念で頭の中がいっぱいなのです。
聖の決意だって、使命だって無下にしてしまっている。
あの方の『この世の安寧と人妖別け隔てのない世界』を叶えるのが私の仕事なのに。
今更私は、聖に出逢わなければ良かったとさえ考えてしまっている。私は」
「それは違いますッ!!」
より遠く、世界の果てまで届くよう、力の限りに叫んだ。
例え人々が異を唱えようと、妖怪達が反発しようと、押し黙らすくらいの大きな声で。
「愚か者かどうかは他人が決める事じゃありません、貴女自身が決めればいい。
ご自分がどんなに醜く勝手な生き物か、聖殿の想いをどんなに踏み躙っているか。
それを知っているのは貴女だけだからです。
なんの臆面も無く、好きなだけ、飽きるまでご自分を貶したらいい」
私は一歩前に踏み出して、握った拳に力を込めた。
「だけど、貴女がご自分を愚か者と考えるように、私は貴女を誇らしく想う。
愚か者の決定権は貴女にあっても、立派かどうかは私が決めます。
貴女がどうやって、なにを成したかは側に居る私がこの眼で見ています。
こんな石ころの眼でも、貴女の事は分かる。
そしてそれはきっと、聖殿も同じであったはずです」
朝日が先程よりも仰角を増し、二人の影が少しだけ短くなっていた。
互いの間にあるのは朝の薄く綺麗な空気、それと幾許かの想いの残滓だけ。
「あのお方は一度は貴女には荷が勝ち過ぎると想い、寺から遠ざけようとした。
貴女の事を心配し、そして貴女の能力はこの寺には勿体無いと想っていらした。
聖殿はずっと以前からご自分の使命を受け入れていたのです。
貴女だってそれは気づいていたでしょう、だからご自分の手で封印しようとした。
断る事も出来たのに、それが聖殿の願いで、貴女は聖殿の願いを叶えたかったから。
たとえどんなに傷付こうが、どんなに辛く切なく悲しかろうが。
後悔する事を分かっていてもやり通した」
そのお人は顔を上げてくれた。
投げ出していた感情を拾い集めるように、ゆっくりと両手で身体を支えながら。
きっと、後悔が和らいだ訳じゃないのだろうが、ご自分の力で立ち上がろうとしている。
「……聖殿は、それがとても、とても嬉しかったはずです。
だから最後まで笑っていらした。貴女に想われて幸せだったから。
お二人が出逢い、ご一緒に過ごした日々は私には分かりません。
でも私がお二人に出逢い、ご一緒出来た日々は私の大切なものです。
忘れる事なんて出来やしない、これからもずっと私の宝物です。
ダウザーのくせに自分で見つけられなくて、それが与えられたものだとしても。
貴女だって、聖殿から頂いたのではないですか、大切なものを」
「…………ナズーリンからも頂きましたよ、私は」
そのお人は私の言葉に応えてくれた。
私の声は上ずっていた。
「だ、だったら、それを磨くのが私達の役目のはずです!
せっかく最後までやり通す力を頂いたのに、途中で投げ出したりなど出来やしない。
それを教えてくれたのは貴女です、まだここは物語の終わりにすぎないのですよ?
次を始められるのは大切なものを託された私達だけなんだ!
ならば私は貴女に付いていく、誰に言われた訳じゃない、自分で決めた事だから。
私の仕事はまだ終わっちゃいないんだから!」
私がその感情を吐き出し終わる頃には、そのお人はすでに立ち上がっていた。
いつものような、あの琥珀色した綺麗な瞳で私を見つめてくれていた。
ふと、初めてあの瞳に吸い込まれた時を想い出す。
恥ずかしいような浮かれるような気持ちだったと、歯痒い想いもあったかもしれない。
でも、今はそんな事は微塵も想わなかった。
あの時瞳の中に感じた琥珀色を、私は今、私の周りいっぱいに感じているから。
「やっぱり、ナズーリンの瞳は綺麗ですね。朝日に反射して輝いています」
「……貴女に頂いたものですから、輝かないはずないですよ」
「ありがとうナズーリン。また、私のお手伝いをしていただけますか?」
「もちろんです、雑用その他、探し物もお任せ下さいっ」
「ありがとう、ほんとうに」
そのお人は、すっと空を見上げた。
太陽はもう、ぶ厚い雪雲に隠れようとしていて、途端に風が勢いを増す。
私も一緒に見上げてみれば、また白い雪がちらほら落ちて来ていた。
冬はもうすぐ、本番を迎える。
「…………これが、最後ですから。ナズーリン、見ていて下さいね」
「はい……っ」
その身体に、いっぱいの冷たい空気を取り入れて、代わりに暖かな想いを叫ぶ。
最後のお別れの言葉だった。
「ひじりーっ! 私は、あなたに逢いたい!」
新しい物語が、始まろうとしていた。
私とこのお人とで紡いでいく次の物語だ。
「もう一度、逢って、お話ししたいのです! 私の想いを、私の言葉で!
ひと目だけでいい、その優しい顔を見れなくても、背中だけでもいいのです!
私の言葉が、想いが、伝えられれば! なんだって構わないっ!」
そう、私の仕事はまだ終わっていない。まだ、始まったばかりだ。
「たった一度だけ、私は人間になりたいと願った事がありました!
聖と同じ、人間に、同じ人間として出逢えていたら、どんなに幸せだったろうかと!
誰にも咎められず、後ろ指を指される事もない、貴女と同じ人間の身に!」
このお人と聖殿とを、いつかきっと、もう一度引き逢わせるという仕事だ。
「でも貴女は、人間の私でも、妖怪の私でもない、私自身を必要としてくれた!
……謝らなければならない事があるのです、私が聖を疑った事を。
人間でも妖怪でもない私なら、神格としての私が必要なのではないか、と。
ただの人間や妖怪なら、私は必要ないのではないかと!」
それは叶えられない事かもしれない。本当にもう二度と逢えないのかもしれない。
「だから確かめてみたかった、貴女と同じ人間でも必要なのかと聞きたかったのです。
でも、私は、私は」
でも、そんなの悲しいじゃないか。一縷の望みもない未来なんて誰も望んでないんだ。
そんなの切ないじゃないか。逢いたい人にも逢えない世界なんて。
自分の世界は自分で創る、それが私の頂いた大切なものなんだから。
「ひじりーっ! 私は、妖怪です! 妖怪なのです!
妖怪の寅丸 星です、人間でも神格でもない、それでも貴女が大好きな妖怪です!
貴女に与えられて、妖怪という私を、私は好きになれた!
生まれたままの自分自身を好きになれたのは、聖のお陰なのです!」
冬が終われば春が始まり、春が終われば夏が始まる。
だから、と言う訳じゃないけど、今は待とうと想うのだ。
すぐじゃなくても、やがて始まる新しい物語を。
「だから、逢いたい! やっぱり逢いたいです、聖っ!
逢いたい、聖、逢いたいよ……っ
さようなら……さようなら、聖。また、いつか逢える日まで。
私は、信じています……だから、ありがとう。
だから、さようなら。私は……」
そのお人は、大粒の涙で頬を濡らし、瞳を溢れんばかりに輝かせた。
舞い落ちる雪に負けない、この世界に届く美しさで。
何者にも負けない、強さで。
「ご主人っ」
私は、駆け出した。
――――『貝の火とみに』
大作お疲れさまです
次回作も期待しております。
最初は92KBという数字に尻込みしましたが、一度読み始めてみればサクサクと最後まで読めました。
どのキャラクターも自分好みで、私の中の星蓮船組のイメージと合致する部分が多く大変楽しめました。
次回作にも期待してます。
いやはや宮沢ワールドとこっちを行ったり来たりで随分と楽しませて貰いました。
このシーンを題材にあえてナズーリンを主役に置くのは中々に大胆な試みであるようにも思われるのですが、違和感が無さ過ぎて逆に一本とられた気分です。加えてオマージュとしても申し分ない出来栄えだと思います。二次創作って感じです。はい。
個人的には寅丸と白蓮の出会いについてもう一歩深く書かれていれば文句なしの満点といったところです。
で、せっかく作者様も言ってるので、以下突っ込みを↓
>「後悔なんて後でも出来るさ」
>「違わない訳無いでしょうッ!」
この二文が異様に哲学的なものなのか、はたまたここぞという場面で繰り出した渾身のナンセンスなのか判断に迷います。どっちにしろ面白いので好いんですが。
あと各段の前についてる記号列は何がしか単純明快な法則に基づいて決定されている気がするのですが、何だかんだで読者には伝わりにくいと思います。『貝の火』中の貝の火の挙動を倣っているとか石ころが宝石になってまた石ころになったとかの推論が関の山で正直お手上げです。気になるので宜しければご教授をば。
次回作に期待させて頂きます。
なんだよこれ、おい。白蓮も、星も、ナズーリンも、毘沙門天も……みんな自分のことで精一杯だったんだよなぁ。
そりゃあ、大変だよなぁ。悔しいよなぁ。……なぁ。