黒谷ヤマメは河原が嫌いだ。
それは、土蜘蛛と折り合いの悪い河童が居るからではない。
彼女が河原を嫌うには、もっと深い理由がある。
それは、とても深く、それこそ本人すら忘れてしまうほどに深い理由。あまりにヤマメの心に深く刻まれている所為で、本人すら思い出そうにも思い出せぬほど古くて深い心の傷。
もしそれが意識の表層に出てくれば、黒谷ヤマメという個を構成するもの全てが壊れかねない程に重い記憶だ。
そして、その記憶は思い出す事はないが、それでも黒谷ヤマメの深い部分を酷く傷つけている。
ある日、彼女は地上に出た。
ひょんなことから知り合ってしまった河童と、河川の汚染に関する話し合いをする事となったからだ。
それは、地上と地底が交流を再開した以上、決して避けて通れぬ事であり、数少ない土蜘蛛であるヤマメが、絶対に外せぬ話し合いだった。
だが、彼女は河童達の待つ河原に辿りつく事が出来なかった。
河原に近づいただけで、足がすくんで動けなくなってしまったのだ。
通りすがりの妖怪に河原に行けないという伝言を頼んだおかげで大事には至らなかったが、一つ間違えれば河童と土蜘蛛の間に大きな感情のしこりが残っただろう。
暗い洞窟の明るい網。
それは黒谷ヤマメの二つ名だ。
しかし、仮にヤマメが、古い記憶を意識の表層に蘇らせてしまえば、彼女がその二つ名で呼ばれる事はないだろう。
彼女の明るさは失われ、暗い洞窟に消えてしまうに違いない。
それほどに黒谷ヤマメに刻まれた記憶は、とても深く、とても古く、そして惨たらしい。
だが、ヤマメは不幸であるわけではなかった。
そもそも、人生において幸福となる為に最も重要な事は、どれほど富を積み上げる事ではなく、どれほど力を手に入れる事でもなく、どれほど極上の異性を手中に収める事でもない。
不幸を忘却する事が出来るか。
これこそが、様々な苦しみに塗れたこの世という地獄で、幸福になれる唯一の方法なのだ。
黒谷ヤマメは、幸福である。
なぜなら、自分の身の上に起きた事を忘却する事が出来たのだから。
たとえ、ヤマメが小石の散らばる河原を見ても、どこか得体のしれない恐怖を覚えてしまうだけで、本当に肝心な事を思い出す事はないのだ。
黒谷ヤマメは、幸福である。
なぜなら、土蜘蛛がどうしてこれほど数が少ないのかを疑問に思う事がないのだから。
たとえ、自分と同年代の土蜘蛛がおらず、他の土蜘蛛は年寄りばかりで、もはや黒谷ヤマメの死をもって、土蜘蛛という妖怪が絶滅するだろうという事も気にしていないからだ。
黒谷ヤマメは、幸福である。
なぜなら、地上と地底が交流するきっかけを作った博麗霊夢と霧雨魔理沙という人間が、心正しい人間だったから。
仮に、彼女らがスペルカードという正々堂々とした決闘ではなく、人間と妖怪の血みどろの戦いを望めば、ヤマメは封じられた過去を思い出してしまったに違いない。
しかし、そんな幸福なる黒谷ヤマメは、少々困っていた。
土蜘蛛の困り事の原因は、彼女の目の前で静かにお茶を啜っている一人の妖怪。
地底において最も嫌われた妖怪、怨霊も恐れる少女、地霊殿にて灼熱地獄の怨霊の管理をしている地底の重鎮、心を読むという妖怪である覚(さとり)の少女、古明地さとりである。
「そんなに緊張なさらず、お茶でもどうぞ」
「ひゃいっ」
いきなり話しかけられたので、思わず噛んで返事をしてしまった。
黒谷ヤマメは、偉い人が苦手だ。
旧都の星熊勇儀は旧知の間柄なので普通に対応できるのだが、馴染みのない偉い人を相手となると、緊張しすぎていけない。
古明地さとりは、そんなヤマメが面白いのかクスクスと笑っている。
「緊張しなくても良いのですよ」
「は、はい」
今度は冷静に答える事が出来たかもしれない。
少し落ち着いたので、ヤマメは淹れてもらったお茶を飲む。
「うぉ、美味しっ」
あまりの美味さに、つい口走ってしまう。
そして、口を付いて出た言葉があまりの下品だったので、思わずヤマメの顔は真っ赤になった。
「気にする事はありません。正直は美徳です」
しかし、さとりは気にするでもなくお茶を啜っている。
そこでヤマメは古明地さとりが、心を読む程度の能力を持つ妖怪である事を思い出す。
「そう。あなたが口に出さなくとも、あなたの率直な感想を私は読みとってしまう。だから、私を前にした場合、失言なんて言葉は意味がありません。むしろ、私はあなたのように正直に物いう方が好ましい」
古明地さとりの第三の目が妖しく光る。
鬼は地底においては、物理的脅威によって恐れられているが、このさとりは精神的脅威によってひどく恐れられていた
それは、そうだろう。自分の考えている事が丸裸など、どんな大妖怪でも、そうそう耐えられるものではあるまい。
どいつもこいつも、人間だろうと妖怪だろうと、大抵の連中が、腹に一物を抱えて生きている奴らばかりなのだから。
「へー」
しかし、黒谷ヤマメは少々反応が違った。
なぜか、妙に感心したような顔をしているのだ。
「……えーと」
なので、今度はさとりが困ってしまった。
大抵の妖怪は、さとりを恐れて近寄って来ない。
稀に自分は読まれて困るような心は無いと、大口を叩いて近寄ってくる妖怪が居たりするが、それらの妖怪も実際に心を読んでやると、怖がって二度と近づいてこない。
例外は、酒を飲む事しか頭にない鬼や、言葉を喋れないペット達ぐらいだ。
それなのに、黒谷ヤマメは異常なほど普通にしている。
心を読んでみても、そこに恐怖の感情は一欠けらも浮かんでいないし、考えている事も(そうなんだぁ)と、感心しているだけだ。
「えーと、ヤマメさん」
「なんですか」
「……その、そういえば今日はどのような用件で」
さとりは『怖くないのですか』と、聞こうと思ったのだが、なんとなく聞けなかった。
「あ、すみません。すっかり忘れてました」
ヤマメは、慌てて下においていたリュックサックから、化粧紙に包まれた箱を取り出すと、それをうやうやしくさとりに差し出した。
「えーと、その、コレはお近づきのしるしです……なにとぞ、よしなに」
「なるほど、ヤマメさんが編まれたタオルの詰め合わせですね。ありがたく頂戴します」
さとりは、いつものように心を読んで贈り物の中身を当てて見せる。
すると、ヤマメは心の中で驚いていたが、そこには恐怖は見えず、純粋な驚愕だけがあった。
そして、その後でヤマメは、自分が驚いてしまった事が、さとりに対して失礼になってはいないかと、心の中で慌てている。
「……あの、ヤマメさん、私に失礼とか考えなくて良いんですよ。どう考えても勝手に心を読む私の方が失礼なんですから」
黒谷ヤマメの発想があまりに平和すぎるので、古明地さとりは噴き出すのを堪えながら、必死にヤマメを擁護した。
「そ、そうなんですか、で、でも」
それでも、戸惑うヤマメを見て、ついにさとりは堪え切れずに笑いだしてしまう。
ヤマメは、そんなさとりに戸惑っているが、決して悪感情は抱いていないようだ。
それが少し嬉しくて、古明地さとりはまた笑う。
ひとしきりさとりが笑って、ようやく話は再開される。
「それでですね。地上との交流も盛んになったので、地上相手の商売をしようと思っているんです」
少し真面目にヤマメが話をする。
地下と地上の交流によって、様々な事が変わった。
例えば、さとりの飼っている地獄鴉がなかなか帰って来なくなったり、火車がなかなか帰って来なかったり、さとりの妹のこいしもなかなか帰って来なかったり、と色々と変わった事は多いが、その中でも一番変わったのは経済である。
それまで細々とした経済圏だった地底は、間欠泉の事件によって、地上という大きな経済圏と再び関わりを持ってしまったのだ。
地上の酒や食べ物が地底に流れ込み、地底の貨幣は地上へとどんどん流出してしまった。
その事から、地下の住人達は外貨獲得の為にささやかながら商売を始める者も、最近では少なくはない。
黒谷ヤマメもその口で、織物の腕を生かしてのビジネスを始めるつもりなのというのだ
そして、本日はそういった商売の挨拶に、地底の実力者にタオルセットを配って歩き、その最後にさとりの元を尋ねたという訳である。
「なるほど、私が最後なのですね」
「あ、えっと、ごめんなさい」
「ふむふむ。まだ会った事もないし、色々と噂もあるから後回しにしちゃったんです、と」
「は、はい」
古明地さとりは、黒谷ヤマメを観察する。
その心をじっくりと見てみた。
緊張が48%と約半分を占めている。次は意外な事に興味だ。それが22%と割と高い、こんな状況下で好奇心旺盛な事である。そして残りの30%は……空腹だった。
それを見て古明地さとりは、ヤマメの精神状態が、ペット達が初めて家に来た時とあまりに似ているので、噴き出しそうになる。
「時にヤマメさん」
「な、なんですか?」
「好きな食べ物はありますか?」
「す、好きな食べ物って……」
「……この間、地上で食べたカレーは美味しかった、と。なるほど、それでは、今夜はカレーにしましょう」
「え、ええ?」
「これは奇遇。どうやら、我が家の晩御飯はあなたの好物のようですね」
「は、はい?」
ヤマメの心で、戸惑いが強くなる。
しかし、それと同じくらい『カレー』という単語を聞いてから空腹の割合も強くなっていた。
そんな素直なヤマメが可愛いのか、さとりは土蜘蛛を楽しげな目で見つめている。
「食べていきますか?」
これで断れる者は、そうはいないだろう。
それに、黒谷ヤマメもカレーと聞いては捨てておけない程度にはカレー好きだ。
「ご、ご相伴にあずかってもよろしいですか?」
「はい。私も度重なる一人飯に飽きていたので」
ヤマメの答えに、さとりは満足げに頷いた。
さとりのカレーは、美味しかった。
流石は地底でも名の知れた地霊殿のカレー。各種香辛料をふんだんに使った本格的なカレーは、ヤマメの舌を貫いた。
それは、辛さ的な意味でも、美味さ的な意味でも涙を流す程で、「辛くて美味い。でも、美味くて辛い」と叫ぶヤマメの姿は、さとりを大いに喜ばせる。
そして、なぜか一緒にお風呂に入り、なぜか一緒にカードゲームをして、遊んでいる途中で「敬語は使わなくて良いですよ」などと言われ、随分とフランクに話をするようになった。
そして、気が付けば同じベッドで横になっている。
「ど、どうしてこうなったんだろう」
さとりの寝間着を借りて髪を下ろしたヤマメは、暗闇の中で呆然と呟く。
微かな記憶を辿ると、夜も遅いから泊っていけと言われた事を、なんとか思い出した。
「……まあ、良いか」
とても楽しかったのは間違いないのだから。
最も、どうして古明地さとりと同じベッドで寝ているのかまでは分からないが、横でぐっすり寝ているさとりを起こして聞くわけにもいかない。
仕方ないので、ヤマメは溜息を一つ吐くと、やたらツルツルするシーツに包まり、目を閉じた。
そして、黒谷ヤマメは夢を見る。
それは、いつもの河原の夢だった。
※
赤に染まっていた。
それが血によるものなのか、それとも怒りによるものなのか、単純に赤いだけなのかは分からない。
一つだけ分かっている事は、世界の全てが赤に染まっている事だけだ。
その赤い世界を一つの人影が彷徨う。
「……どこですか、ここは」
それは、地霊殿を統括する妖怪、古明地さとりだった。
古明地さとりは、空も赤く、足元は赤い液体が膝まで満たされている奇妙な場所に、一人で佇んでいる。
赤い水平線は何処までも続き、陸地があるのかさえ分からない。
どうにも奇妙な場所だ。
「……確か、私は自室のベッドで寝たハズです。それが、こんな場所にいるとは、つまりは夢。と、いうところですか」
さとりは心を読む能力を持っている。
つまりは、心の専門家だ。
自分に何かおかしなことが起きているのであれば、すぐに察知する事が出来る。
「……ふむ。夢と決めつけて目が覚めないとは、これは夢ではない?」
夢の中で、夢を見ていると自覚すると人は目を覚ます。
しかし、さとりが「これは夢である」と確信を持っても、周囲に変化は見られない。
夢とさとりが確信する前と、何ら変わりはなかった。
「さてはて、これは夢ではないのか。それとも頑固な夢なのか、あるいは誰かが起こした異変にでも巻き込まれましたか?」
頬っぺたをつねってみるが痛くもない上に変化はなし。
この痛覚が極度に鈍感となっている様は、夢そのものだった。
「どの道、ここにいても仕方ないですか」
愚痴ってみても、始まらない。
さとりは移動する事にした。
血の様な赤い液体に足を取られながら、さとりは進む。
空を飛ぼうとしたが、なぜか飛べないので素直に足で移動するしかないのだ。
「しかし、これが夢だとすると悪夢など久しぶりですね。このところ夢見は良かったのに」
空は赤く、足元を浸す水も赤いままだ。
夢の中であるからなのか感覚や疲労がないのが救いだ、これが現実であればもう歩けなくなっているに違いない。
覚とは頭脳労働の妖怪。身体を使うのは好きではないのだ。
「おや」
あてもなく赤い水をかき分けて進んでいると、どこかで見かけた影を見つける。
金色の髪、茶と黒の服、その人影を構成する色は真っ赤なこの世界で明らかに浮いていた。
「あなたは……」
その後ろ姿は、土蜘蛛の黒谷ヤマメに良く似ている……否、そのものだ。
その姿を見止めて、さとりはいそいそと近づくのだが、そこで気が付く。
ヤマメと思しき人影からは、心の声が聞こえてこないのだ。
つまり、それはヤマメと思しき人影が夢の住人だからだろうか。
流石のさとりも、夢の住人に能力を使う事はできない。
「ヤマメさん」
肩に触れた。
反応はない。
どうしたものだろうと、さとりは考え込む。
前に回り込んで顔を覗いてみようか、それとも彼女から離れようか。
そもそも、なぜこんな悪夢にヤマメが出てきたのだろう。
さとりは初対面でヤマメを気に入っていた。その性格の明るさはペット達を思い出し、素直な性格は、見ていて気持ちが良かった。
そんなヤマメが、これほど強い悪夢に出てくるのは腑に落ちない。
腑に落ちない以上は、確かめずにはいられないだろう。
さとりは正面から、ヤマメと思しきモノの顔を拝んでやろうと決心する。
「失礼しますね」
正面に回る。
顔を覗き込む。
「………………っ」
古明地さとりは、それの顔を見て言葉を失った。
それは姿形こそ黒谷ヤマメであったのかもしれない。
だが、古明地さとりが見たそれは、黒谷ヤマメとは、かけ離れている。
ほんの少しの差異。
その差によって、さとりはそれがヤマメには見えない。
黒谷ヤマメの目は、絶望によって塗りつぶされていた。
さとりの会った黒谷ヤマメは、幸福であった。
とても気さくで明るく楽しげで、最近一人が寂しいからとはいえ、思わずさとりが家に泊めてしまう程だ。
だが、目の前にいる黒谷ヤマメは、悲しいという言葉すら虚しくなる、そんな虚無的な目をしている。
生きる意志が見られず、生の喜びもなく、何の感情の痕跡すら見いだせない、生きる屍のような目だ。
古明地さとりも、様々な目を見てきた。
飢餓に苦しむ人間の目、罠に囚われ死を待つだけの動物の目、怒りに狂った鬼の目、もがき苦しむ罪人の目、しかし、黒谷ヤマメの姿形をしている者は、それらと比べても、感情というモノがまるで見えない。
絶望と虚無、ヤマメの目に浮かんでいるのはそれだけなのだ。
「……ああ、そうか」
さとりは、思い出した。
自分が、こんな目した人間に出会った事があった事を。
彼女が地上にいた頃に、さとりはある村に立ち寄った折りに、罪人の処刑を見た。
その罪人が、どれほどの罪を犯したのかは、通りすがりに過ぎないさとりには分からなかったが、恐らくは相当な大罪を犯したのであろう。
罪人を取り囲む村人の思考は、殺意と憎悪に染まっていた。
その罪人の処刑方法は凌遅刑。
生きながらその肉を削ぎ落して殺すという、罪人をできるだけ苦しめて殺す残酷な処刑方法である。
しかし、その村の凌遅刑は、少々毛色が違った。
本来、処刑は正式な死刑執行人の手によって行われる。
しかし、この村では、それを執行するのは一人の子供だった。
その子の顔は、罪人に良く似ていた。
恐らく、我が子に父を処刑させるという趣向だったのだろう。
この世の全てに絶望し、自分の運命に絶望し、何よりも自分に絶望をする。
その子の心はもう何も考えていなかったのだけど、その絶望の深さだけは伝わって来た。
この黒谷ヤマメの目は、その時の子供の目に良く似ているのだ。
「どうして……」
古明地さとりは戸惑う。
今日、出会ったばかりのヤマメに対し、なぜ自分はこんな夢を見ているのだろうか、と。
あるいは、逆夢なのだろうか。
ヤマメとの出会いが楽しかったから、このような夢を見ているのだろうか。
「それなら、分かりましたから早く目覚めて下さい!」
声を上げても、古明地さとりは目覚めない。
空の赤も、足元の赤い水も何も変化はない。
しかし、黒谷ヤマメには変化が見られた。
「あ、あああ……」
「ヤ、ヤマメさん?」
突然、ヤマメが声をあげて歩きだした。
さとりは、慌てて彼女に着いてく。
何処に向かっているのだろうと、さとりが視線を巡らせると、赤い水平線の果てに何かが見える。
それは、河原だった。
「うう……」
それを見て、黒谷ヤマメは苦しげに呻く。
少しでも早く進もうと、赤い水をかき分けるが、先に見える河原は一向に近づかない。
決して近づけぬ蜃気楼のように、土蜘蛛は河原に辿りつけないのだ。
ヤマメが苦しんでいると、河原から喧騒が聞こえてくる。
「な、なんです」
その河原に何処からともなく、鎧兜に身を包んだ武士達が現れた。
彼らは、一様に殺気立ち、気勢の声を上げながら、一人の妖怪を紐で犬のように繋いで河原に連行しているらしい。
「かかさま!」
それを見て、黒谷ヤマメは悲痛な声をあげる。
その妖怪は、金色の髪をしていた。
手足は長く、肌も白い。
それはきっと洞窟に棲んでいるからだ。それゆえに、色素が薄くなり肌は白くなり、髪の毛も薄い色となる。
つまるところ、彼女は黒谷ヤマメと同じ妖怪。
武士が紐で、犬のように扱っているそれは、土蜘蛛の女だった。
葛城に限らず、日本の様々な山地に勢力を築いた山の妖怪、山の民だ。
武士に連れられた土蜘蛛を、黒谷ヤマメは〝かかさま〟と、つまりは母と呼んでいた。
「待っていて、かかさま。私が助けてあげるから!」
弾かれるようにヤマメは動く。
母と呼ぶ土蜘蛛を助けようと彼女は赤い水の中を進むが、ヤマメは河原に近づく事は出来ない。
まるで、間に合わない事が最初から決まっているように、土蜘蛛は母に近づけない。
赤い水は粘度を増し、ヤマメを絡め取って動けなくした。
「瘧(おこり)によって、我を殺そうとした薄汚い土蜘蛛め。お前は大君の威光を軽んじ、畜生の分際で国に災いを起こし、我々を謀った。その罪、許しがたい」
武士の中でも特に位の高そうな男が、配下に指示を送る。
すると、配下の武士たちは鉄串を取り出して、ヤマメの母に突き付けた。
「よって、この畜生は生きながら串刺しにし、ここに晒しものとする!」
配下の武士達は、土蜘蛛を串刺しにする。
鉄の串は、出血を強い筋肉を突き破る程度には太く鋭いが、内臓に致命的な損傷を与えるほど太くはない。
その鉄串を、武士達は何本も、何本もヤマメの母に突き刺す。
血が流れた。
それを見て、武士達は蔑みの声をあげる。
生きながら串刺しにされたヤマメの母は、傷から血を噴きださせている。
その血は、空に溶け、水に溶け、この悪夢をより深く赤に染めた。
「ああああ、かかさま! 嫌だ、しんじゃいやだああああ!」
黒谷ヤマメは、狂ったように叫びながら母の元に駆け寄ろうと赤い水の中を進もうとする。
しかし、ヤマメが河原に、母の元に辿りつく事はできない。
「そういう、事ですか」
そんなヤマメをさとりは沈痛な表情で見る。
さとりは、ずっと勘違いをしていた。
自分が、悪夢を見ているのだと思っていた。
だが、違う、これは、ヤマメの夢なのだ。
同じ寝床で寝た所為か、さとりはヤマメの見る夢を見ている。
寝ている内に無意識に能力を発動させてしまい、眠りながら黒谷ヤマメの夢を読み取り、その夢を見てしまっているのだ。
だから、さとりが夢であると気が付いても、頬をつねっても目覚める事が出来なかった。
当たり前だ、この夢はさとりの夢ではなく、ヤマメの夢。
黒谷ヤマメの悪夢なのだ。
生きながら串刺しにされもがき苦しむ母を、助ける事が出来ずにいるという地獄のような悪夢、武士達が次々に新たな鉄串で母を苦しめているのに、何もできずに見ているしかない悪夢。
そんなヤマメの夢を、さとりはただ見ているだけなのだ。
「お願いです、やめてください、かかさまをこれ以上苛めないでくださいぃ!」
ヤマメがどれほど懇願しても、どれほど足を動かしても、悪夢に何一つ変化はない。
ただ、無力である事に絶望するだけだ。
「あああ、やめてよ! お願いだからかかさまを助けて! なんで、なんで、いやだ! こんなのいやだあああ!」
そして、それはヤマメの夢を見ることしかできないさとりも同じだった。
目を瞑り、耳を手で覆う。
微かに漏れる音からも、さとりは必死で意識をそらす。
肉の潰れる鈍い音と土蜘蛛の絶叫を聞かないように叫ぶ。
古明地さとりは、黒谷ヤマメの悪夢から逃げ出した。
※
「おはよう、元気? ああ、寝癖が凄いから直した方が良いと思うよ。あ、朝御飯は私が作るね。昨日は御馳走になったし、それぐらいはさせて欲しいな。そんなわけで台所貸してね?」
起きたさとりが寝ぼけまなこで台所に行くと、ヤマメが凄い勢いで話しかけてきた。
「なにか昨日と様子が違いますが……」
「いやね。私は考えたんだけど、頭で考えると同時に喋れば、考えが読まれても問題はないんじゃないかなって、ほら、こうすれば、ああー、私の考えが読まれてるーって、困んなくてもいいじゃない。そういう生活の知恵」
「いえ、喋っても喋らなくても、私からすれば大差はないのですから、普通にしていていいですよ」
「あ、そうなの」
「はい」
茸ともやしの炒め物に地獄ペンギンのタマゴを使ったスクランブルエッグ、茸の味噌汁に、地底産コシヒカリのごはん。地底における朝食のお手本のようなメニューがテーブルに並んでいく。
ヤマメの料理の手際はなかなか良かった。
「いただきます」
「はい、いただきます」
寝癖頭のさとりに対し、ヤマメは身支度をしっかりと整えている。
自分の周囲にいるのは、ペットか能天気な妹である所為で、さとりはあまり見た目に頓着はしていなかった。その所為か、キリッと身支度を整えたヤマメの姿を見ていると、少し気恥ずかしい。
手櫛で申し訳程度に髪を整えるが、頑固な寝癖は治りそうにない。
そうして手櫛で髪を整えている内に、頭がようやく冴えてくる。
そして、さとりは夢の事を思い出した。
生々しい悪夢、そして悪夢の途中で自分が逃げ出した事を。
恐る恐るさとりはヤマメを盗み見る。
ヤマメは、楽しそうにご飯のおかわりをよそっていた。
「あ、目……」
さとりは、思わず口走ってしまう。
ヤマメの目が、赤い。
「あ、私の目? なんかね、寝ている最中に泣いちゃう癖があるみたいなんだ。だから、起きたらいつも真っ赤なの」
そう言うと、ヤマメは「目薬代も馬鹿にならないよねぇ」とおどけて見せた。
「そう、ですか」
「うん。なんか子供っぽいね」
ヤマメは恥ずかしそうに笑う。
その笑顔に曇りはなく、そしてヤマメは、夢の事は一切覚えていないようだ。
どうして良いのか、古明地さとりには分からない。
「そんな事、ないです」
だから、楽しそうなヤマメに調子を合せて微笑むしかない。
その笑顔は、少しぎこちなかった。
さとりとヤマメは朝食を食べて、雑談をしながら一緒に片づけをした。
そして、黒谷ヤマメはさとりに手を振って見せて、元気良く帰って行く。
その姿は、とても幸せそうなのに、とても儚げだった。
※
星熊勇儀は鬼の中でも古株だ。
特にヤマメとの付き合いは古く、真実かどうかはさておき「あいつのオシメをかえてやった事もある」と吹聴しているほど勇儀とヤマメの付き合いは古いらしい。
「で、なんで私が呼ばれたのかね」
そんな勇儀は、さとりに呼ばれて地霊殿の客間にいる。
「少し昔話が聞きたくなりまして」
「昔話って、ここに来た当時の事とかかい?」
「いえ、もっと古い話です」
鬼を迎えるのは骨が折れるが、難しい事はない。
極上の酒を用意すれば、簡単に鬼はやってくる。その極上の酒を用意する事が問題なのだが、それでも興味を引く酒さえ揃えてやればやってくるのだから、鬼は単純なモノだ。
「古いっていうと、山の四天王時代か。あの頃はやんちゃしてたから、話すのが気恥ずかしいな」
「もっと前の話です」
「もっと前の話って言うと?」
「大江山時代の話が聞きたいのです」
空気が張り付いた。
それまで、上機嫌だった星熊勇儀が、今は笑みすら浮かべていない。
「源頼光一党との戦争について。当事者からお話が聞きたい」
「私に恥を語れと言うのか」
「恥ずべきは騙し打ちをした頼光ではありませんか。正道を貫こうとした貴方達に恥ずべき事などありはしない。それに、口に出す事が恥というなら語る必要すらありません、その話を思い浮かべれば、自動的に読みとってしまうのが私の力ですから」
「なるほど、正道か。確かにうちの御大将は首切られる時に『鬼神に横道なきものを』って言ってたな。だから、お前さんはこう言いたい訳だ。負けても恥ではない、と」
「…………」
さとりは、勇儀の問いに答えなかった。
なぜならば、勇儀はさとりの言葉に微塵も納得していないからだ。
どんな手段を尽くされようが、人間を相手に完全敗北した事を、恥に思っている。いや、卑怯な手段によって敗れたからこそ、星熊勇儀は頼光に敗北した事を恥と思っているのだろう。
「ま、他の連中なら別の考えもあるだろうけどね。少なくとも、私は正道で横道に勝てなかったという事はとんでもない恥だと思っている」
「……つまり、話す気はない、と」
僅かに落胆したようにさとりは呟く。
鬼は、特に勇儀ほどの強くて古い鬼ともなれば精神防御の訓練ぐらいはしているだろう。そう易々と、さとりが知りたい事を思い浮かべてくれるわけがない。
さりとても、詳しく調べるような無作法をするわけにはいかない。
他の鬼に当たるしかないだろうか。
さとりは、深いため息を漏らす。
「いや、条件次第では話してもいい」
「本当ですか!?」
さとりは声を上げた。
「そもそも、お前さんは忘れているみたいだが、古来より鬼に我が儘を通したい時にする事は一つだぞ?」
「……!」
星熊勇儀は、剣呑に物を言う。
空気が張り詰めたものに変わった。
「まあ、なんでお前さんが昔の事を知りたいか覚ならぬ私には分からないけど、詳しい話が聞きたいならコイツで聞いてみるんだな」
そう言って、星熊勇儀は大きな握り拳を一つ、さとりに差し出した。
黒谷ヤマメの夢を見て、さとりは何をすればいいのか分からなかった。
ヤマメは、起きている時は夢を忘れている。
深く寝ている時だけ、心の奥底にしまい込んだ過去が溢れてしまい、それを夢に見るのだ。
「さて、ガンガンいくぞ!」
星熊勇儀の猛攻を受けながら、さとりは考えている。
あの時に何ができたのか、自分には何ができるのか。
「四天王奥義ッ」
さとりは、夢の中では何もできなかった。
できる事は、目を瞑り、耳を塞いだ事だけ。ヤマメの苦しみから目を背けただけだ。
「三歩――」
起きてからもそうだ。
腫れ物に触るような態度で、よそよそしく振舞うだけで、何もしなかった。
慰める事も、何も。
「必殺!」
閃光が勇儀とさとりの周りを包む。
高密度の弾幕によって、さとりの逃げ場は一切なくなった。
「分かりあう為には、足を止めて殴り合うのが一番だよな」
勇儀は楽しそうに笑っている。
「分かりました。全力でぶん殴って差し上げます」
いつもなら、こんな事に突き合う義理はない。
しかし、古明地さとりは勇儀の誘いを受けた。
理屈で考えたくなかった。
黒谷ヤマメの事を、頭ではなく心で考えたかった。
馬鹿になりたかったのだ。
「良い返事だ!」
星熊勇儀の拳がさとりの顔面を捉える。
拳撃。
衝撃。
脳震盪。
鬼の拳を受けて、膝が笑う。
吹き飛ばされれば、周囲に展開している弾幕の餌食。なんともハイリスクな決闘だ。
しかし、さとりは踏みとどまった。
単純に根性で立っているのだ。
「今度はこちらから」
古明地さとりは非力だ。
それは、覚という妖怪が非力であるという事でもある。
鬼を殴っても逆に拳が壊れるだけ、それほどさとりと勇儀の身体能力には差がある。
だからこそ、さとりは全力で勇儀の顔をぶん殴る。
拳が砕ける音がする。
どうしようもなく、殴った右手に痛みを感じる。
だから、折れた右手で更に勇儀をぶん殴る。
「ははは、知らなかったな。お前がこんなに馬鹿だったなんて!」
嬉しそうに勇儀が拳を繰り出す、さとりも右手をそれに合わせる。
骨が砕ける音がして右手が完全に粉砕された。
しかし、さとりは完全に粉砕された右腕をさらに突き出し、勇儀の拳を押し返す。
「やるな!」
腹に一発返される。
その一撃で、さとりは血反吐を吐く。
眩暈。
損傷。
重傷。
破壊。
勇儀はほとんど無傷であり、それとは対照的にさとりはボロボロだ。
本来であれば、能力を生かした読みを使い、顎、膝、水月などの相手の弱点を狙えば、格闘であっても覚はそれなりに優位に戦えるのだろう。
しかし、今のさとりはそれが嫌だった。
自分の中の小賢しいもの全てが嫌なのだ。
夢だから何もできないと、ヤマメの夢から逃げた自分が。
知り合ったばかりだから、そこまで踏み込む義理はないと、現実のヤマメから逃げた自分が。
小賢しい自分が嫌なのだ。
だから、鬼を相手に意地を張った。
左手で殴る。
壊れる。
右足で蹴る。
破壊される。
左足で蹴っ飛ばす。
粉砕される。
頭突きを喰らわす。
額が割れる。
全ての部位は重傷で、立っているだけでもやっとなのに、さとりは身体の痛みなど、もう感じていない。
なぜなら、心が痛いから。
夢の中でヤマメを見捨てた事が、現実で何もできなかった事が、痛くて痛くてたまらない。
最初は小さな痛みだったのに、後悔という痛みは時間が経つにつれ大きくなっていく。
所詮は夢の中だと耳を塞いだ自分が、知り合ったばかりだから立ち入らない方が良いと大人ぶった自分が、さとりの心を苦しめて苛む。
その心の痛みに比べれば、身体の痛みなど無いも同然だ。
「お前は大した奴だ。だが、それでは辛いだろうし、そろそろ終わらせてやる」
星熊勇儀が拳を開き、掌底をさとりに向ける。
拳打ではなく、浸透打によってさとりを昏倒させようという心積りなのだろう。
「だいぶ、馬鹿になってきました……でも、あと一歩が足りない」
さとりは壊れ切ってない左手を静かに引く。
答えを見つめる為に、そしてヤマメの過去に何があったのかを知る為に。
土蜘蛛という種族の歴史は、少しばかりは知っている。
しかし、黒谷ヤマメという個人に何があったのか、それを知り、自分に何ができるのかを見出さなくては、古明地さとりは納得できない。
最初に踏み込んだのは勇儀だった。
さとりの頭部に掌底が命中し、彼女の脳を激しく揺らす。
だが、それでさとりの意識が失われる事は無かった。
理屈ではない、純粋な執念の成果である。
さとりは、全力で意識にしがみ付いたのだ。
さとりは左腕で殴った。
左腕が半壊する。
まだ力を込めた。
左腕は完全に壊れ、骨が突き出て肉は爆ぜ、血が飛び散り無残な姿を晒す。
もう、力など込めようがない。筋組織は引き千切られ、骨は折れているのだ、腕の動かしようなど無い。
しかし、古明地さとりは左腕を突き出す。
左腕は潰れ、勇儀は吹き飛ばされる。
潰れた左腕という武器にすらならぬ人体の一部位によって、鬼は殴り飛ばされた。
「参った!」
星熊勇儀の嬉しそうな敗北宣言と共に、古明地さとりは意識を失った。
※
「土蜘蛛とはなんだと思う?」
地霊殿のさとりの部屋で、星熊勇儀は静かに語る。
「……ヤマメの一族でしょう」
さとりはベッドで横になっていた。
左腕粉砕、右腕全壊、両足は破壊され歩くのもままならず、内臓にも損傷あり、額は割れ、頭蓋骨にもひびは入っているだろうし、顎も喋るたびにバキバキいう。
地上から仕入れた良く効くという傷薬を使っているが、おそらく全快するのに三日はかかるだろう。
「うむ。その土蜘蛛の盛衰については、どれくらい知っている?」
「それは……」
正直、あまり知らない。
鬼と同時期に源頼光と頼光四天王によって退治されていた程度の知識だ。
「まあ、仕方は無いな。知らないから私に話を聞きに来たんだろうし。しかし、なんだって、さとりはヤマメの事が知りたいんだ?」
「夢を、見たんです」
そこで、さとりは勇儀にヤマメの夢を盗み見てしまった事を、それに対して何もできなかった事を伝える。
「河原の夢、か」
「ヤマメさんは、夢の事を覚えていないようですけど……きっと、辛いのではないかと思うのです」
ベッドの中で、さとりは目を閉じる。
赤い目をして、自分に笑いかけたヤマメは見ていて痛々しかった。
それは、自分が苦しんでいる事にすら気が付いていないからだ。
「んー、夢を覚えていないってだけじゃないんだよな。アイツの場合は」
「それはどういう事です?」
「ヤマメは、何も覚えていないんだよ。だから、笑っていられる」
できるだけ、なんという事もないように勇儀は言う。
それが、とても重要で、苦い事実を含んでいるから、あえて平然と言うのだ。
「覚えていない、とは?」
「昔の事をまるで覚えていないのさ。どれほど土蜘蛛が苦難の歴史を歩んできたのか。そういった辛い事は忘れちまうんだ」
「辛い事を、忘れる……」
なんとなく、さとりは勇儀の言う事が分かって来た。
「鬼は強い。天狗は素早い。河童は賢い。狐狸の類は変身できる。他の妖怪達は種としての数が少なく身も軽い。だが、土蜘蛛は鬼ほど強くもなく、天狗の様な素早さもないし、河童の知恵も持ち合わせていないし、変身術も狐狸のように人間を騙しとおせるほどじゃない。妖怪の中でも数が多く、何よりも自分の棲みかに愛着を持ち、人間が棲みかに近づいても、そこを離れようとしなかった。そして、使える力は病気に関する能力だ。それは都市を築いた人間達にとっては、鬼である私達よりもよほど致命的となる。だから、土蜘蛛は人間によって狩り尽くされた」
それでも、土蜘蛛は生き残り、人間に復讐をしようとした。
復讐の相手は、人類最強の妖怪狩人である源頼光。
そんな源頼光に立ち向かった土蜘蛛は、あえなく返り討ちにあい、残酷な方法で処刑をされてしまう。
「……その土蜘蛛の娘が、ヤマメなのですね」
さとりが夢の光景を思い出し、苦しげに呻く。
まだ幼かった彼女は、運良く平安最強の妖怪狩人の手から逃れる事はできたものの、母の残酷な処刑を見てしまったのである。
「私らも、仲間が悉く殺されているけど、死んだ連中には悪いが、その辺は割り切っている。けど、ヤマメは物心ついたばかりだった。そんな時期に生き地獄を味わいながら死んでいく母の姿を目に焼き付けちまったのさ。腕を取り返しに行ったうちの副大将が拾って来なけりゃ、人間に見つかって殺されていただろう」
そして、ヤマメの運命は更に急転する事となる。
大江山にある鬼の岩屋に身を寄せたヤマメは、源頼光と鬼達の争いに巻き込まれてしまったのだ。
幸いにして、頼光襲撃は逃れる事はできたが、この時に多くの鬼が人間の手にかかって死んだ。
「貴方は無事だったんですね」
「運良くな。うちの御大将なんかは首をばっさり、他の鬼達も大体死んだ」
その後、しばらくの間、ヤマメは生き残りの鬼達と行動を共にしていたが、土蜘蛛は土蜘蛛のところで暮らすのが良いだろうと、できる限り人里から離れた土地に住んでいた土蜘蛛達に預けられた。
それから、しばらくして人と妖怪のバランスは崩れ、幻想郷が成立する事になる。
勇儀は生き残りの土蜘蛛を全て、幻想郷に移住させる為に日本を駆け回り、ヤマメと再会した。
そして、ヤマメが驚くほど陽気になっている事に驚く。
「別れた時は、口数が少なくて塞ぎがちだったからな。てっきりトラウマを克服したと思ってたんだが……」
「心の奥底に封印していただけだったんですね」
勇儀は頷く。
「だから、ヤマメは昔の事を覚えていない。辛い事はみんな忘れているんだ。母親の事も分からない。鬼の仲間達の事も忘れている。ヤマメを助けた副大将も、あいつの面倒を良く見てた鬼の事も、何もかもな。そう言えば、私と出会った時の事も覚えていない……まったく、こういうのを覚えているのが私ぐらいなのは、少し悲しいな」
ずっと仕舞い込んでいた事を吐きだし、勇儀はすっきりしたような、寂しいような、そんな顔をしている。
さとりは、何かを考え込むように目を閉じていた。
考えを、まとめようとしているのだろう。
ふと、勇儀がさとりに語りかける。
「そういや、ヤマメは川に、河原には近寄れないんだよ」
「それは……」
「きっと、思い出しそうになるんだろうな。母親の事を…………なあ、さとり」
「なんですか」
「ヤマメは、幸せなのかな」
古明地さとりは、答えなかった。
※
誤解を恐れずに書くと古明地こいしは、風来坊であった。
帽子のつばを指でピンと弾き、人の無意識に紛れ込み、当たり前のように他人の家に侵入し、まるで昔からの住人のように振舞う。
そして、十分に楽しんで飽きたら他の家に行って、別の生活を楽しむのである。
なんとも自分勝手な根なし草だ。
「ただいまー」
そんなこいしが家に帰る。
久方ぶりにこいしが我が家を訪れた理由は、彼女の姉である古明地さとりが鬼と喧嘩をして大怪我を負ったという噂を聞いたのと、冷蔵庫に入れていたレアチーズケーキの賞味期限が過ぎている事を思い出したからである。
帰って一直線に台所へ。
冷蔵庫を開けると調味料やスパイスばかりが充実した冷蔵庫の奥に、大きなレアチーズケーキが鎮座していた。
「ああー、私のいとしい人」
姉の見舞いなど完全に忘れて、こいしはレアチーズケーキをパクリと行く事にする。
紅茶を淹れ、ナイフとフォークを用意して、自分だけのお茶会をテーブルに演出すると、こいしは嬉しそうにそれを片づけにかかった。
口内にチーズ酸味と甘みが広がる。
良く見てみれば、賞味期限を二週間オーバーしているが、大したことではない。
「消費期限じゃないからね。あくまで味を保障できる期間なんだから、私が問題ないという以上は問題ないもん」
部分的に正しいが、割と間違っている事を自分に言い聞かせながら、こいしはレアチーズケーキを平らげていく。少なくとも、二週間も賞味期限過ぎているのならば、少し考えた方が良い。
レアチーズケーキは、カットケーキではなく、丸々一個なので食べきるのには時間がかかるだろう。
「ああ、美味しい……」
そうして、古明地こいしがレアチーズケーキを食べていると、その背後で気配がした。
――殺気。
こいしが身を沈めると同時に、彼女の頭の上を何かが通り過ぎる。
食べかけのチーズケーキが空を舞い、突然の攻撃を受けたこいしは、慌ててテーブルの下に転がり込んだ。
追撃を警戒するが、来ない。
恐る恐るテーブルから顔を出すと、そこには包帯だらけとなった姉が松葉杖をついて立っている。
「あ、お姉ちゃん」
姉の姿に安心したのか、こいしはテーブルから出て来た。
「もー、お姉ちゃんたら、いきなり襲いかかってくるなんて酷いよ」
「すみません。こいしがケーキに夢中になっているのを見て、つい〝打ち込めそうだ〟と、思ってしまったので、襲いかかってしまいました」
さとりは素直に頭を下げる。
心を読めるさとりにとって、他人の隙や弱点は常に晒されている様なものだ。心理戦など、無意味であり牽制、フェイント、猫だましも無価値となる。
そんな中で、無意識を操り、心が読めないこいしだけは、さとりの持つ天性を無意味な事にし、技巧工夫の大切さを思い起こさせてくれるのだ。
そのような理由で、さとりはこいしが隙を見せると、つい「隙あり!」とばかりに襲いかかってしまうのである。
「まー、それは良いけど、お姉ちゃん大丈夫? なにかミイラ女みたいだよ」
「問題ありません。私、意外と丈夫なんですよ?」
こいしは、文句を言いつつも心配をして見せるが、さとりは妹の心配を一蹴してみせる。そんな姉の様子に、こいしは安心をしたのか、「そっか」と頷いた。
「あーあ、ぐちゃぐちゃだ」
松葉杖の一撃によって、テーブルの上に崩れ落ちたレアチーズケーキを、こいしはしみじみと見た。
「三秒ルールは……」
「とっくに三秒は経っていますね」
「でも、上の方なら問題ないよね」
そう言うと、こいしはテーブルの上でひしゃげたチーズケーキの上の方をちまちまと手で食べ始めた。
それを見て、さとりは〝行儀が悪い〟と注意したいところだが、自分が招いた事であるので、躊躇っている。
「お気に入りのティーカップが割れなかったのは、不幸中の幸いだったよ。って、ぉぉおおお!」
――再び、殺気。
激しい虫の知らせによって、こいしはお気に入りのティーカップを持ったまま、崩れたレアチーズケーキから離脱する。
すると、レアチーズケーキがひしゃげていたテーブルは瞬時に破壊され、その衝撃でこいしは吹き飛ばされた。
「なんとぉー!」
くるくると、こいしは回転しながら天井付近まで逃げて、テーブルを破壊した主を見ると、
「まったく、落ちた物をそのまま食べるのは行儀が悪いぞ。食べるなら、皿に戻して食べるんだ」
胸を張って間違ったテーブルマナーを披露するのは一本角の鬼、星熊勇儀だった。
「勇儀さん。私にかわって注意してくれるのは嬉しいのですけれど、家具を壊すのはやめてくださいね」
「いや、済まないね。つい、力が入ってしまったよ」
そんな、鬼と仲が良さそうにしているさとりを見て、こいしは目を白黒させている。
そもそも、こいしは姉が鬼と喧嘩をして大怪我をしたというから、心配になって様子を見に来たのだ。
それなのに、なぜ姉が鬼と共にいるのかがこいしには理解できない。
「拳と拳で語り合ったんだ」
勇儀が端的に説明する。
分かりやす過ぎて、こいしは納得するしかない。
そして、また分からなくなる。
どうして、さとりは鬼と殴り合いをしなければならなかったのか。
鬼に喧嘩を売られたのか、それとも鬼が売ったのか、そもそも地底に住んでいる程度しか、さとりと勇儀に接点は無いはずだ。
それが、どうして喧嘩をすることになったのか、こいしには分からない。
「しかし、ちょうど良かったな。どうやって、さとりの妹を探そうかと話をしていた所だったし」
「こいしは優しい子ですからね。きっと、私が怪我をしたと聞いて飛んできてくれたんですよ」
「そういや、お前のとこのペットは?」
「うーん、あの子たちだと、噂話をキチンと聞けるのかが微妙な線ですね。特におくうは、最大で単語を三つまでしか、関連付けできないと思います」
「単語三つ?」
「今回だと〝私が〟〝勇儀さんと〟〝喧嘩して〟〝大怪我をした〟と、単語四つになります。コレを認識させようとするとおくうに深刻なエラーが発生しかねません」
「……それは深刻だな」
「そこが可愛いんですけどね」
嬉しそうに地獄鴉について語るさとり、そのままお宅のペットトークに移行しそうになったのを見て、勇儀はさとりを制した。
「まあ、それは良いとして、これで準備が整ったようなもんだし、決行はいつだ?」
「そうですね……こいしは何時が良いですか?」
「な、なんの?」
突然、話を振られて、古明地こいしは戸惑いの声をあげた。
※
地霊殿にて、ささやかな宴会が催されている。
荘厳壮麗なステンドグラスで飾られた地霊殿のロビーに、こじんまりとしたちゃぶ台が置かれ、そこに出席者が集っていた。
この宴会の表向きの理由は〝黒谷ヤマメの会社設立を祝う〟というモノであり、その出席者は、
「えー、この度は、お集まりいただき誠に恐悦至極でございます」
宴会の主役である黒谷ヤマメ、
「おいおい、身内ばっかなのに緊張するなよ」
表向きの発案者である星熊勇儀、
「あー、お酒美味しいな―」
状況について行けていない古明地こいし、
「たくさんお酒は用意しましたので、たくさん飲んで酔っ払ってくださいね」
そして、宴会場所の提供をした本当の発案者、古明地さとりの四人である。
「けど、勇儀さんとさとりさんって、仲が良かったんですね」
地上からの輸入食品であるスモーク沢庵を肴にワインをやりながら、ヤマメは、さとりと勇儀を見ながら呟く。
「なんで、そう思うんだ?」
「だって、勇儀さんはさとりさんと大喧嘩したんでしょう? 勇儀さんはよほど気に入った相手としか喧嘩をしませんから」
「へぇー、お姉ちゃん。鬼さんに気入られたんだー。あ、私もスモ沢食べるー」
身体を伸ばして、ヤマメの前に置かれたスモーク沢庵と取ろうとするが、少し手が届かない。
それを見て、ヤマメは沢庵の入った皿を取って、こいしに取らせてやる。
「お気に入り、ですか」
さとりは、少し顔が赤い。
お酒がまわったのか、それとも照れているのかは判別がつかなかった。
「でも、羨ましいな。私も勇儀さんと殴り合いの大喧嘩したいです」
「もうちょっと、大きくなったらな」
「むう。また、子ども扱いして」
そんな、ヤマメの頭を乱暴に撫で回す勇儀と、それに抵抗をするヤマメ。そんな二人を見て、さとりは思わず吹き出してしまった。
「な、なんだい。いきなり」
「あ、もしかして勇儀さん。すっごい失礼な事を思い浮かべてるんじゃないでしょうね!」
「いや、意外とお前の方じゃないのか?」
わいわいと賑やかで楽しげな宴の中で、さとりは二人の問いには答えず、ただ笑っていた。
それは、本当に楽しそうな笑みであった。
「で、結局はあの二人は何を考えていたの?」
そんなさとりにこっそりとこいしが尋ねる。
「そのままですよ」
さとりは、チビチビと日本酒をやりながら、妹に答えた。
「そのまま?」
「口に出す言葉と、まったく同じ事を考えていた、という事です」
「ふうん。それって何が面白いの?」
「隠し事のない間柄とは良く言いますが、実際に口に出す言葉と心の声が重なる事など、そう多くはありません。独り言ならともかく、人との対話というのは、少なからず本音と建前で構成されているものですよ」
「そういうものなの?」
「そういうものです。でも、あの時の二人は、見事に心の声と実際の声が重なっていました。そうして、互いに心のままに話しているのが、あまりに面白かった……いえ、嬉しかったんでしょうね」
勇儀とヤマメは、まだじゃれ合っている。それをさとりは、どこか遠い目で眺めている。
「嬉しいって、なにが?」
心の目を閉ざした妹の問いかけに、さとりは何とも言えない表情を浮かべると、
「妖怪も捨てたもんじゃない、って事ですよ」
と、言ってこいしの頭をグリグリ撫でた。
※
口当たりは良いが強めの、女殺しとあだ名されるカクテルを飲まされて、黒谷ヤマメは轟沈した。
真っ赤な顔をして大の字で寝ている土蜘蛛を、鬼と覚二人が静かに見おろしている。
「これで準備は整いましたね」
「ああ、後はヤマメが夢を見始めれば問題ない。そうなればさとりが悪夢を読みとって、こいしの力で夢の中に入る」
「そして、夢の中で過去の記憶に苦しんでいるヤマメさんを助けます」
「しかし、できれば私も行きたいんだけどなぁ。だって、聞いた話だと頼光が居るんだろ? 他の四天王も。あの時は一服盛られててまともに戦えなかったから、真面目に戦ってみたかったんだよ」
「すみません。夢に潜る場合は、できるだけノイズが少ない方が良いので」
「ええと、シリアスに話しているところ悪いんだけど、ちょっと、良いかな。お二人さん」
さとりと勇儀が打ち合わせをしているところに、こいしが口を挟んだ。
「なんだ?」
「何か分からない事がありましたか?」
「いや、そもそも私は何の説明も受けていないんだけど」
困り顔でぼやくこいしに、勇儀とさとりは手を叩き、詳しい話を始めた。
黒谷ヤマメは、幼少期に心に深い傷を負った。
その傷は、年を経ても癒される事はなかったが、ヤマメは傷の存在を忘れることによって、生来の明るさを取り戻す。
しかし、心の傷は無くなったわけではない。
無意識に押し込めたトラウマは、悪夢という形となり、黒谷ヤマメに黒い影を落としている。
心の傷は、容易に癒す事はできない。
特に、本人がそれを認識しない限り、乗り越える事は難しい。
星熊勇儀は、ゆっくりとした精神的成熟を待って、心の傷が癒される事を待っていた。
しかし、小さな蛇に付けた小さな傷が、大きくなるにつれて巨大になるように、黒谷ヤマメの心の傷は、深い形で固定されようとしている。
現在のところ、表に出ている症状は、河原に近づく事が出来ない程度だ。
だが、将来はヤマメの心の傷が、より惨い形で表に出ないとも限らない。
「河原で母親を殺された過去を変える事はできない。しかし、私とこいしの力を使えば、彼女の悪夢に干渉する事によって、彼女の心を救う事は出来るかもしれません」
「夢見を良くするって事?」
「端的に言えば、そう言う事です」
「それだったらさ、確か地上に胡蝶丸って、夢見を良くする薬があるんだよ。それで良いんじゃないの?」
「それでは駄目です」
「なんで?」
「薬で良い夢を見れる。しかし、それは根本的な解決にはならないでしょう。重要な事は悪夢を見ない事以上に、ヤマメさんが悪夢を乗り越える事が重要なのです。仮に薬に逃げれば、ヤマメさんはずっと薬に頼らなければなりません。それは、あまり良い事ではない」
さとりの言葉にこいしは溜息をついた。
「無意識って、怖いよ?」
「なんとなく、分かります」
「イドの怪物やスーパーエゴに追いかけまわされる準備はできてる?」
「バッチこいです」
「正直な事を言わせてもらえるなら、たかが他人の夢見を良くしたいからって、人の夢の入るのはお勧めできない。お姉ちゃんって、このヤマメって子と知り合ったばっかでしょ? なのにそこまでする必要あるの?」
「私が、彼女を見捨ててしまったからです。二度も助けなければならないところで、私は何もしなかった。それが悔しく、そして申し訳ない。自分が情けないからです」
「罪悪感だけなの?」
全てを見透かしているかのようなこいしの言葉に、さとりは思わず黙ってしまう。
「悪い事をしたってだけで、そんなに必死にはならないよな?」
勇儀がさっぱりした笑顔で、さとりに笑いかける。
まったくもって、それはこいしと勇儀の言うとおりだった。
そもそも、古明地さとりは初めて会った時から、黒谷ヤマメが気に入っていたのだ。
初対面なのに、自分と素直に話してくれた土蜘蛛を好ましく思ったのである。
なんと言う事はない。
古明地さとりは、黒谷ヤマメを好きになったのだ。
「なんでニヤニヤしているんですか!」
さとりが声を上げる。
「いや、何でもないさ」
「うん、ナンデモナイヨ。しかし、なんか暑いねー。あー、暑い暑い」
「とにかく、そろそろ準備をしますよ。こいし、用意を!」
「はーい」
わざとらしく煽る二人に、さとりが声をあげた。
姉に言われては仕方がないと、こいしはさとりを夢という無意識の領域に潜らせる準備をする。
「まさか、サイコダイバーの真似事をすることになるとはねー」
準備をしながら、こいしは聞えよがしに文句を言う。
「潜るのは私ですよ」
「それは駄目だよ。心を読むお姉ちゃんがいないと何処に行けばいいかが分からないけど、夢という領域に潜るには私がいないと駄目。二人揃わなければ、サイコダイブは無理」
「二人で、ですか」
さとりは心配そうにこいしを見た。
こいしは、大丈夫だとばかりに胸を叩く。
「大丈夫。夢は無意識に関わる領域で、私は夢の専門家だよ!」
胸を張るこいしを心配そうに見つめるが、選択の余地はない。
「おい、そろそろヤマメが夢を見始めた見たいだぞ」
勇儀が声を上げた。
さとりとこいしが駆け付けると、ヤマメが眉間にしわを寄せてうなされている。
「行くよ、お姉ちゃん」
「……わかりました、行きましょう!」
さとりとこいしは手を繋ぎ、黒谷ヤマメの夢の世界へとダイブした。
※
黒谷ヤマメは夢を見る。
嫌な夢、忘れようと心の奥に押し込めても染み出てしまう昔の夢だ。
土蜘蛛達は、洞窟に住み暮らしていた。
決して平平凡凡とした暮らしではないが、それでも安定した暮らしを営んでいた。
しかし、土蜘蛛という妖怪の一族は、人間と出会ってしまった。土蜘蛛の所有する土地は奪われ、抵抗した土蜘蛛は人によって根絶やしとされ、山の洞窟で暮らしていた土蜘蛛達は、姿を消した。
そうした中で生き残ったヤマメの母は、まだ子供であったヤマメを置いて、復讐に身を投じ、日本史上三本の指に入る妖怪狩人、源頼光殺害を企んだのである。
病気を操る能力を持って、頼光を瘧(おこり)にかけて苦しめたが、名刀膝丸(後の蜘蛛切)によって傷つけられ、逃げ帰った上に棲みかを暴かれて、ヤマメの母は生け捕りにされてしまった。
すんでのところでヤマメは、母によって逃がされたが、その後も姿を隠して生け捕りにされた母の後を追い、処刑される様を目に焼き付けてしまう。
この日の夢を、ヤマメはずっと見続けてきたのだ。
何度も、何度も繰り返していたのである。
ヤマメは川の中、膝が付く程度の浅瀬の場所に立っていた。
ずっと繰り返していた事だ。
何百年の間、ずっと。
母が処刑された日を、ヤマメは幾度もなく夢の中で繰り返している。
母を追い、河原に運ばれると聞きつけ回り込み、川の中から様子をうかがう。
すると、岸が現れて、そこに母を引きつれた人間達が現れる。
ヤマメは泣き叫び、母にすがろうとした。
しかし、その声が届く事もなく、彼女が母に辿り着く事はない。
なぜなら、黒谷ヤマメは母の処刑を阻止できなかったからだ。
黒谷ヤマメは、母が殺された日に何もできなかった。
ただ震えて、死にゆく母を目に焼き付ける事しかできなかった。
母が殺される絶望と、見つかれば自分が死ぬのかもしれないという恐怖によって、縮こまって震えている事しかできなかったのだ。
だから、黒谷ヤマメは、夢の中でさえ母を救えない。
自分自身に深く絶望をしているから、彼女が救われる事はない。
黒谷ヤマメの夢は絶望によって構成されていた。
源頼光がいつも通りの口上を述べる。
その顔は、暗い愉悦が浮かんでいた。
そこには人間達の切り札にして、ありとあらゆる手段を持って人外に立ち向かった勇者の面影は微塵もない。
その姿は邪悪そのもの。
黒谷ヤマメが抱く人間に対する恐怖の具現化したものが、悪夢の中の源頼光なのである。
悪夢はいつの模様に進行していた。
頼光が鉄串を振りあげて、ヤマメの母を突き刺そうとする。
ヤマメが絶望の悲鳴を上げようとした瞬間、唐突に彼女の首根っこは掴まれて、持ち上げられた。
「え、ええ?」
「失礼」
戸惑いの声をヤマメは上げる。
しかし、彼女を釣り上げた何者かは、一言謝罪すると処刑の場に向かってヤマメをぶん投げた。
「えええええええぇぇ!」
信じられない力で、黒谷ヤマメは投げ飛ばされる。途中で、川面に接触するが、あまりに速度が出ているので、水切りの石のように水上を跳ねていた。
その飛んでいく先は、母を殺そうとする源頼光のもと。
「その娘は、そんな事はしなかった」
異変に気が付いた頼光が呟く。
その一言は言霊となり、言霊は圧力に変わった。
圧力は、飛んでくるヤマメに作用し、母の元に投げ飛ばされた土蜘蛛は、その圧力を受けて弾き飛ばされそうになる。
その様を見て、頼光は満足げに頷き、鉄串での処刑を行おうとして、そこで動きを止めた。
「力の二号参上!」
突然現れた何者かが、圧力と拮抗していたヤマメのお尻を蹴って、ヤマメの母の方に蹴り飛ばしたのだ。
「んなああああ!」
ヤマメの勢いは圧力に勝り、そのまま母の元に飛ばされていく。
「させぬ」
しかし、源頼光は無慈悲に刀を振りあげる。
多田満仲が国の守りにと打たせた二振りの刀の一つ、渡辺綱が佩きし茨木童子の腕を切った〝鬼切〟の片割れ、罪人を試し切りした際に膝まで切った事から、名付けられた名は、膝丸。
そして、今ではヤマメの母を切った事により、かの刀は〝蜘蛛切〟と呼ばれている。
黒谷ヤマメの天敵たる蜘蛛殺しの刀だ。
「ひっ」
飛ばされながら、ヤマメの身がすくむ。
源頼光の持つ刀は、今では蜘蛛切という名となった。それは、膝丸と呼ばれていた頃の〝ただ異様な切れ味を持つ名刀〟ではないという事だ。
名は、物事の本質を表す。
名付けは、モノの本質を決定づける。
すなわち、蜘蛛切と呼ばれるようになった膝丸は〝全ての蜘蛛に対し、恐るべき威力を発揮する霊刀〟へと変わったのだ。
それを向けられたのだから、ヤマメはたちまち骨が蝕まれるような恐怖を味わう。
だが、
「そのまま、蹴り飛ばしなさい!」
「いっけぇ! 力と技の三番目!」
声に押された。
その声に勇気づけられ、ヤマメは足を伸ばす。
それは、ほんのささやかなものであったけど。
動いたかどうかわからない程度のものだけども。
紙一重、蜘蛛切が届く前に黒谷ヤマメの足は、源頼光の顔面にめり込んでいた。
千年近い悪夢。
千年近い後悔。
押し殺してきた絶望。
深すぎて、決して表に出なかった罪悪感。
過去を変えたいという渇望と、そんな事はできはしないという諦観。
世界は、果てしなく残酷である確信。
それら全てに、黒谷ヤマメは混乱しながら蹴りを入れている。
頼光は鉄串を持ったまま無残に吹き飛び、蹴り飛ばしたヤマメはゴロゴロと河原に転がっていた。
「それでは、これより悪しき夢の掃討を行います」
突然、現れた古明地さとりと、
「了解であります、お姉ちゃん!」
その妹であるこいしによって、ヤマメは無理やり母を助けさせられている。
未だにヤマメの理解は付いてきていない。
どうして、突然、覚という妖怪が二人も現れて、頼光の配下である四天王や武士達と、大立ち回りをしているのか。
何処から現れたのか、なぜ助けてくれるのか、そもそも何者なのか。
夢の中の黒谷ヤマメは、幼い頃のヤマメであり、現実の黒谷ヤマメとしての知識がないから、余計に理解のしようはない。
「さあ、ヤマメさん。お母様を連れて私達の後ろに」
「わ、分かったよ。か、かかさま。こっちに!」
けれども、母を慕い、その母を守ろうという想いに変化はなかった。
なぜなら、ヤマメはずっと助けたかったのだ。
千年近い時間も、悔み続けるほどに。
「かかさま、身体は大丈夫!?」
さとりとこいしの背後で、ヤマメと母は抱擁をしていた。
そんな二人を見て、さとりは微かに頬を緩める。
これは、ヤマメの夢だ。
過去が変わったわけでもなく、夢の中で助けたからと言って、ヤマメの母が助かった事になるわけではない。
それでも、さとりは嬉しかった。
例え夢でも、目が覚めれば泡のように消えてしまう事でも、今はヤマメの願いが叶っている。
それが、純粋に嬉しいのだ。
黒谷ヤマメを助けられた事が、彼女の願いが叶えられたのが、純粋に嬉しい。
「お姉ちゃん、にやけていないでちゃんとやってよ!」
こいしの声で、さとりは現実に……否、夢の戦いに戻る。
四天王は手ごわいが、さとりとこいしの敵ではない。
土蜘蛛母子を捕らえようと群がる武士達は、次々に吹き飛ばされていく。
このまま悪夢を駆逐し、終わりかと思われた瞬間。
「このような事は予定にない」
その声によって、甘い期待は裏切られた。
それまで倒れていた源頼光は、能面のような表情で立ち上がる。
「来たね、ラスボス」
古明地こいしが威嚇する。
しかし、頼光はこいしを無視すると、果てしなく暗い目でさとりを見た。
「……なぜ、土蜘蛛の処刑を邪魔する」
「友達を助けたいからです」
頼光は、蜘蛛切りをさとりに向ける。
「……なぜ、土蜘蛛を助ける」
「ヤマメさんが好きだからです」
頼光は、じりじりと間合いを詰めた。
「土蜘蛛は、嫌われ者なのにかァ?」
「覚の嫌われっぷり程じゃありませんね」
それは、もう頼光ではない。
千年近く前に黒谷ヤマメが人間から受けた悪意、トラウマ、それが形を持った〝何か〟だ。
「土蜘蛛は殺さねばならない、死なねばならない、生かしてはおけない、絶滅しろ、生きているだけでも穢らわしい、存在が許せない賤しい浅ましい薄汚い畜生は這いつくばって穴ぐらで死ね」
人間は、土蜘蛛を殺し尽くした。
悉く殺した。
だから、人は土蜘蛛を強く憎んだ。
恐ろしいから、復讐されるのが怖いから、その弱さゆえ、恐怖を誤魔化すために人は土蜘蛛を憎んだのだ。
そして、実際に土蜘蛛は復讐をし、その復讐を受けて人間は更に土蜘蛛を憎む。
連鎖し、雪だるま式に膨れ上がった悪意の顕現が、悪夢の中の頼光なのだ。
「この悪意が、ヤマメさんの心の傷。その最たるものですか」
しかし、さとりは、その悪意をあっさりと受け流す。
「みたいだね。お母さんを守れなかった事も相当なトラウマだけど、それと同じように〝死んで当然の土蜘蛛なのに生き残ってしまった事〟も強いトラウマになっているみたい。で、この頼光さんは、そんなヤマメちゃんが人間から受けた恐怖の象徴なんだろう」
こいしが、後ろのヤマメに聞こえないよう姉に囁いた。
「つまり、この頼光さんを倒せば、トラウマも解消されるという事ですか?」
「……そんなに簡単じゃない、って言いたいところだけど。確かにトラウマの元である頼光さんをぶっ潰せば、ヤマメちゃんの気は楽になるかもね」
「なりますか」
「たぶん。あれがトラウマの具現化だろうから」
「分かりました。こいしはヤマメさんをお願いします」
古明地さとりは進み出て、頼光と相対する。
比類なき霊刀である〝蜘蛛切〟を振るう平安最高の妖怪退治人に立ち向かう。
ここは、ヤマメの夢の中であり、目の前の頼光はヤマメの持つトラウマの具現化だ。
つまり、さとりの持つ〝心を読む程度の能力〟はまったくの無意味。
しかし、さとりは頼光相手に一歩も引かない。
「あ、ああ……」
ヤマメは息苦しそうに息を吐き、頼光に向かうさとりを見て、恐怖に身を震わせた。
――あの、覚はなんと恐ろしい事をしているのだろうか。
黒谷ヤマメにとって、源頼光は恐怖そのものだ。
それも当然だろう。
頼光は自分の母を殺しただけではなく、ヤマメが身を寄せた鬼ヶ城の鬼達を、悉く殺した。
日本三大妖怪に数えられる大江山の鬼神を、人の身でありながら殺した兵(つわもの)なのだ。
鬼よりも恐ろしく強い人間、それがヤマメの持つ源頼光の認識である。そんな恐ろしい存在に、さとりは立ち向かっている。
それは、ヤマメの理解を超えている。
ヤマメが恐怖に震えていると、突然、その肩を抱かれた。
こいしが、ヤマメの傍に来ていたのだ。
「信じて。お姉ちゃんを」
こいしは、ヤマメにそう囁く。
――信じる、何を信じればいいのだろうか。
ヤマメが混乱している中、さとりと頼光はぶつかり合う。
それは優しい幻想の中では繰り広げられない、悪しき夢の中でのみ行われる凄惨な命の削り合いだった。
※
古明地さとりは素手であり、源頼光は武器を持つ。
普通に考えれば勝ち目はない。
しかし、さとりには弾幕がある。
他人の心にある弾幕の再現は心の無い頼光相手には使えないが、普通の弾幕であれば撃つ事が出来た。
だが、通常弾幕のみで頼光を仕留められるはずはなく、さとりの持つ唯一のオリジナルスペルカードも、催眠術からトラウマを抉りだすものだ。
つまり、さとりの取れる行動は一つ。
刀の間合いの更に奥に突き進み、全力でぶん殴るだけだ。
「愚かな」
頼光が刀を振り下ろす。
その刀をさとりは後ろに飛んで避ける。
更に頼光は追撃し、さとりは後ろに避けなければならない。
斬撃。
刺突。
切り上げ。
薙ぎ払い。
これらの鋭い攻撃を、さとりは避ける事しかできない。
牽制に弾幕を放つ。
しかし、頼光はすり抜けるように弾幕を縫い、さとりを追い、斬撃を浴びせようとする。
その剣先は鋭く、殺意に満ちていた。
悪夢の刀、それに切られればどうなるのだろうか。
恐らく、心に大きな傷を負わされるのだろう。
そして、夢の中で致命傷を負えば、その心はきっと死んでしまうに違いない。
「太刀筋に隙がないですね、幻影とはいえ、腐っても頼光という事ですか」
しかし、さとりは冷静に頼光の刀をかわし、隙を窺っている。そこには、焦りの色も、恐怖の色もない。
「お姉ちゃん、頑張って……って、なんだお前らは!」
声援を送ろうとしたこいしの前に、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武と頼光四天王が立ちふさがった。
無意識を操るこいしは、夢の中でもその力を有効に使う事が出来る。それでも、四天王を同時に相手するのは苦しいだろう。
「ああもう。お姉ちゃん、ネバーギブアップだからね!」
渡辺綱の顔面に弾幕を炸裂させ、四天王相手に大立ち回りを演じながら、こいしは叫ぶ。
その声を聞き、さとりは苦笑いを浮かべた。諦める気など、毛頭ない。
こいしの一言を受け、さとりは覚悟を決めて、迫る蜘蛛切の前に立った。対する頼光の斬撃は極めて鋭く、さとりの身体を切り刻もうとする。
「貰った」
無感情に頼光が呟く。
赤が広がった。
「お、お姉ちゃん?」
こいしは、呆然と声を上げた。
「…………そんな」
ヤマメも、同様だ。
かつて膝丸と呼ばれ、今では蜘蛛切という名の刀の一撃は、古明地さとりの身体を袈裟切りにし、無残に切り裂いている。
「助けに来なければ、こいつは死ななかった」
頼光が能面な顔で言う。
その言葉を聞き、黒谷ヤマメは崩れ落ちた。
自分を助けようとして、人が死んだという事実をゆっくりと認識してしまう。
ヤマメは目を瞑り、耳を塞ごうとする。
自分を助けに来たモノが、自分の為に死んだ事が受け入れられないからだ。
しかし、ここはヤマメの世界。
どんなにきつく目を閉じても、耳を塞いでも、ここで起こった事を理解してしまう。
「お前のせいで、古明地さとりは死んだぞ」
頼光の言葉が、ヤマメを苦しめる。
「私の所為で……」
誰かが死んだ。
それは、黒谷ヤマメにとって耐えきれる事実ではない。
罪悪感に潰されそうになる。
胸の奥で絶望が心を食う音がする。
だが、さとりが死んだという事実が何よりも悲しい。
「ああ、そうだ……」
黒谷ヤマメは、思い出した。
さとりが何者であるのか、どうして自分を助けてくれたのかを。
彼女が、古明地さとりという新しい友人の事を。
少し強引で困った所がある事を。
彼女の作るカレーが美味しかった事を。
そして、古明地さとりが好きになっていた事を。
地霊殿の怨霊も恐れる少女は、少し変わっているけど楽しい女の子で、そんな彼女と居ると、ヤマメはとても楽しかったのだ。
「私が……」
自分の所為で、さとりが殺された。
心の死を迎えた。
黒谷ヤマメが生きていたから、さとりはこんな最期を迎えてしまったのだ。
死んでいれば良かったのだ。
あの河原で母と共にもがき苦しんで死ねば良かった。
「私の、所為だ……」
絞り出すようにヤマメが呻く。
果てしなく深い後悔と共に。
「いえ、別にヤマメさんの所為じゃないですよ」
それにさとりは、切られたままの体勢で平然と答えた。
――なんだそりゃ。
その場にいる妖怪、悪夢の全てが呆気にとられた顔をする。
「生きてるなら生きてるって言ってよ!」
碓井貞光を投げ飛ばしながら、こいしは大声で突っ込む。
「あ、あは、あははははは……」
ヤマメは崩れ落ちたまま、思わず笑ってしまう。
「勝手に人を殺さないでください」
そんな中で、さとりは切られたままで憮然とした顔で文句を言った。血も酷いし、身体の半分は真っ赤だが、なぜかさとりは元気そうなのだ。
「ぬう」
頼光は蜘蛛切に力を入れようとした。しかし、さとりの筋肉に阻まれて動かす事すらできない。
「どうにも、皆様は勘違いしていらっしゃるようです」
さとりは、周囲を睥睨して不敵に笑う。
その様子は果てしなくふてぶてしく、怨霊も避けて通るほどだ。
「一つ目は、この世界の構成物は、全て夢であるという事。つまりは、人の身体もそこらの石も蜘蛛切だって、強度的に変わりはありません。ただ、ヤマメさんの認識による修正で、少々柔らかくなったり、硬くなっている程度で、実はそんなに痛くない。この恐ろしい蜘蛛切で斬られたとしても、せいぜい普通に刀で斬られた程度の衝撃しかありません」
「いや、それって普通に痛いと思うんだけど」
「皆様も覚えがあるでしょう? 夢の中で転んだり、何かにぶつかっても『アレ? 意外と痛くない』と思った事は。あれは、そう言う事なのですよ」
こいしが突っ込みを入れたが、見事に無視される。
不貞腐れたこいしは、坂田金時の全身に弾幕を浴びせた。
「二つ目は、この世界では私は強いという事。夢の世界は意志の強さが力となります。そうなれば、他人の見たくない本音を見てしまう上に、他人から嫌われまくっても、一切気にしないという、歴史的に見ても類をみないほど鉄面皮の私は、夢の中では無類の強さを持つ訳です」
古明地さとりは、拳を打ち鳴らす。
なぜか、ハンマーで金床を打ったような音が、辺りに響き渡った。
他人の心を見てしまうという、普通の神経を持つモノなら気が狂いそうな生き方をしてきた。
常に心の痛みを受け、それに耐えてきた。
故に、その精神は鋼。
夢の一撃で死ぬほど弱い心など、古明地さとりは持っていない。
「それでも、皮膚で刀を弾くような無茶な事はできないので、こうして切られてしまいました。出来れば、もっとスマートに決着を付けたいと思っていたのですが」
そう言うと、さとりは刀で斬られたまま肩をすくめた。
どう考えても、刀で斬られた上で平然としてる事も十分無茶苦茶なのだが、こいしが不貞腐れているので誰も突っ込まない。
「そして三つめ……ヤマメさんを苛めてた人をぶん殴らないまま、私が死ぬわけはないでしょうがッ!」
頼光は殺気を感じ、刀を抜いて逃げようとする。
しかし、夢の中では無敵の強さを誇るさとりの筋肉は、刀を捕らえたままピクリとも動かない。
古明地さとりの鋼の拳が、源頼光の顔面にめり込む。
鈍い音がした。
さとりの一撃によって、源頼光は遥か彼方に吹き飛ばされそうになる。
だが、古明地さとりはそれを許すつもりはない。
飛ばされそうになった頼光の足を踏みつけ、平安最強の妖怪狩人をその場に留まらせる。
「なぜ、ここまで……」
「友達、だからです」
地面をグレイズするほど深いアッパーカットによって、頼光の顎が跳ね上がる。
抉るようなフックによって、頼光の頭が大きく揺られる。
全てを貫くようなストレートによって、頼光の顔面は完膚なきまで粉砕される。
繰り返されるコンビネーション、その攻撃の全ては顔面に集中し、源頼光の形をした悪夢は、完膚なきまで破壊されていた。
「これで、終わりです」
頼光の足を離し、古明地さとりは地を蹴る。
それまでの上半身で打つ拳打ではなく、全身全霊によって放つ、打ち下ろすような拳骨
――まるで、大きな岩が落下したような音が響く。
頼光の全身はひしゃげ、ぐしゃぐしゃとなって叩きのめされた。
「す、すごい」
呆然と見ていたヤマメが声を上げる。
心は、これほど強くすることができるのか。
心の傷すら、叩き伏せる事が出来るほど、力強くなる事が出来るのか。
その、心の在り方に黒谷ヤマメは見惚れていた。
「こっちも、終わったよー」
こいしが声を上げる。
無意識を操る彼女は、頼光四天王を危なげなく打倒していた。
それを見て、さとりもようやく緊張を解く。
倒れている頼光と四天王、全ての悪夢は砕かれた。
ヤマメの傍らには、夢の中とはいえ母も居る。
何も、問題はない。
「すみません、刀を抜いてくれませんか」
「ちょ、大丈夫なの? お姉ちゃん」
「そうですね。クワガタに挟まれた程度の痛みですか」
古明地姉妹は、激戦の後始末をしていた。
そんな中で、ヤマメだけが悪い予感を覚えている。
――何か、居た筈なのだ。
この場には居なくとも、頼光達と行動を共にしていた存在が。
「隙あり!」
突如、水中より一人の武者がさとりとこいしに躍りかかった。
紫の鎧具足に身を包み、岩切という二尺ある小長刀を構えたそれは、大江山鬼退治において、源頼光と、頼光四天王と行動を共にした武士、藤原保昌であった。
さとりとこいしは動けない。
こいしはさとりから刀を抜く為に、柄に手をかけていたし、さとりは身体の力を抜いていた。
ヤマメの母も動けない。
そもそも、夢の中のヤマメの母は悔やんでも悔やみきれない過去の具現化であり、能動的に行動できる存在ではない。
黒谷ヤマメは、
「や、やらせるかああ!」
恐怖を振り払って動いた。
涙目になりながら、震えながら、それでも自分を助けてくれた友達を助ける為に、地を蹴った。
「邪魔をするなら、お前から切って捨てる!」
藤原保昌が凄む。
そもそも保昌は「奇異ましく、むくつけく、恐ろしかりし人の有様かな」と言われる様な、恐ろしげな風貌をしている兵(つわもの)である。
身も凍る恐怖が背筋を走り、ヤマメは逃げ出したい衝動に駆られた。
だが、思いとどまる。
「お、お前なんか全然怖くないんだからね」
強がれたのは、さとりの見せた心の在り方のおかげであり、友を思う心のおかげだ。
そして、一度強がってしまえば勇気などあとから湧いてくる。
「くらえっ。石窟の蜘蛛の巣!」
土蜘蛛特有の強靭な糸が、保昌に放たれる。
それは、保昌の得物である岩切に命中し、動きを止めた。
「く、くそ!」
――あれ、何か。
予想以上に呆気なく、ヤマメは保昌の動きを封じたので、拍子抜けしてしまう。
頼光一行は、もっとどうしようもなく強いものだと、ヤマメは認識していたからだ。
だから、頼光達は夢の中で絶対的な存在として君臨していたが、さとりとこいしが圧倒的な力で頼光と四天王をのしたおかげで、ヤマメの意識は、頼光達はそれほど強くないのではないか、と思い始めているのだ。
そうなれば、夢の中の主人であるヤマメに、夢の中の住人が勝てる道理はない。
所詮、悪夢など、夢の中で怖がらせる以上の事などできはしないのだ。
「よし、やっちゃえヤマメちゃん!」
こいしがヤマメを無責任に煽る。
「拳を固めて、思いっきり殴るんです」
さとりも、同様にヤマメに助言を送った。
それに従い、ヤマメは糸に引っ張られて飛んでくる保昌に標準を合わせ、
「せいやああ!」
――藤原保昌を全力でぶん殴った。
拳は保昌の兜を破壊し、彼の身体を激しく吹き飛ばされ、土蜘蛛の渾身の一撃を喰らった保昌は黒い塵となって崩れ落ちる。
それが合図となり、頼光や四天王たちも黒い塵となって消えた。
それは黒谷ヤマメが、悪夢に打ち勝ったという事であり、過去の惨劇を乗り越えたという事だろう。
「気分はどうですか、ヤマメさん?」
さとりが、殴ったままの姿勢で固まっているヤマメに尋ねる。
肩で息を吐いていたヤマメは振り返り、
「なんか、晴々とした気分だよ」
と、答えた。
それは、とても清々しい笑顔であり、その笑顔にさとりは頬を緩める。
ヤマメは後悔をしていた。
生き残った事を、母を助けられなかった事を。
ヤマメは恐怖していた。
人間に、源頼光という化け物を殺す男に。
この悪夢を覆したとしても、何もかもが解決をした訳ではないのだろう。
後悔が無くなったわけではないだろうし、恐怖が消えたわけではないだろう。
しかし、後悔は教訓に変える事が出来るし、恐怖は乗り越える事が出来る。
それを成すのは、心の在り方と強さ。
「いいパンチでした」
「うん!」
ヤマメは、きっとそれを手に入れた。
さとりは手を高く上げる。
最初、ヤマメはそれを見て戸惑っていたが、じきに理解し、さとりの手をパァンと叩く。
ハイタッチの良い音が土蜘蛛の夢の中で大きく響いた。
※
夢から覚めても、表向きには黒谷ヤマメに変わりはなかった。
いつも通りに楽しげで、地底のアイドルという事に変わりはなく、今日も地底に笑顔を振りまいている。
そんな土蜘蛛が、地上へのトンネルを鼻歌交じりで下っていた。
地上の行商に出て、その帰り道なのである。
「手拭いとか全部はけたよ! ついでに追加注文も貰った!」
黒谷ヤマメが嬉しそうに叫ぶ。
予想以上にヤマメの織物が好評だったので、上機嫌になっているのだ。
それもそうだろう。
スパイダーシルクを含む手拭いなど、外の世界を探したとしても手に入るものではない。
「よかったねぇ」
地下へのトンネルにぶら下がっていたキスメが、桶の中から声をかける。
「うんっ」
ヤマメは全力で首肯すると、そのまま地下へと飛んでいく。
自分の縄張りを通り過ぎ、下へ下へと降りて行く。
「随分楽しそうにしているわね」
「あ、パルスィさん」
橋姫が、不機嫌な顔で声をかける。
楽しそうなモノを見ると機嫌が悪くなる橋姫は、楽しげな土蜘蛛が気に入らないのかもしれない。
「……どうやら、今日は本当に心の底から楽しいのね。なにか、良い事があったの?」
「はいっ」
「だったら、さっさと行きなさい。ここには嫉妬に狂った怖いお姉さんがいるんだからね」
「あはは、分かりました」
いつも不機嫌そうな橋姫に見送られ、ヤマメはどんどん下に降りて行く。
すると旧都が見えてきた。
「おお、帰ってきたか」
「ただいまですっ」
星熊勇儀が声をかけると、ヤマメは元気良く挨拶を返す。
「どうだった、地上は?」
「みんな良い人ばかりでした! ただ、河童の方とはどうしても折り合いが悪かったですけど、でも、手拭いとか一番買ってくれたのも河童の方でした」
「河童ねぇ。まあ、川の民と山の民じゃ、相性は悪いか」
「は、はい」
「しかし、河童と商談をしたって事は、河原には行けたのか」
勇儀が尋ねると、ヤマメは親指を立てるジェスチャをして返す。
その様を見て、勇儀は笑う。
「それじゃあ、今度地上に行く機会には、美味い酒でも買ってきてくれ」
「はい、分かりました!」
そして黒谷ヤマメは旧都を飛ぶ。
目指す場所は地霊殿。
「お、ヤマメちゃんじゃない」
「あ、こいしちゃん」
その途中で古明地こいしに出会う。
「ヤマメちゃんはうちに?」
「こいしちゃんは地上?」
「そーだよー。なんか地上に出たペット達が帰って来ないから探しに行くの」
「それは大変だねぇ。私はちょっと、おうちにお邪魔しようと思ってたんだけど、そっか、こいしちゃんは出かけるのか」
「うん。これで邪魔ものはいないからごゆっくり」
「じゃ、邪魔って……」
「あはは、じゃあね!」
気が付けばこいしの姿は見えなくなっている。
恐らく無意識を操る能力を使ったのだろう。
溜息を一つ、ヤマメは吐いた。
そうして空を飛んでいると地霊殿に辿り着いた。
空から地霊殿を見おろしていると玄関の前に、人影が見える。
その姿を見止めて、思わずヤマメは頬を緩めた。
「ただいま!」
その一言と共に、黒谷ヤマメは人影に向かって降りる。
黒谷ヤマメは、幸福である。
その理由を語るのは、野暮だろう。
了
さとりがヤマメのために奮闘するってのもいいですねー。
あとこれは誤字かな?
>お宅のペットトークに『以降』
「移行」ではないかと。多分。
源氏の皆さんはこういった話では卑怯な悪役になりがちですが、
正面から力で競っては勝てない相手に知恵で勝つのは常套手段
ですし、力ない庶民にとっては悪い妖怪を退治してくれた英雄
でもあるので、あまり悪し様に言う人が増えないといいな、と
どうでもいい心配もしてしまいますw
登場人物たちに共感を感じました。
トラウマというからには、もっと手こずるかと思ってたので。
さとりが天真爛漫なヤマメに惹かれるのはよくわかる!好きだから何とかしてあげたいって当然よね!
でもそのために勇儀と殴り合うなんて、結構タフなのねww
このヤマメは可愛い、あと熱血さとりは新鮮でした
とても面白かったです。
そも心のすれ違いで得た能力の差異を利用し、古明地姉妹が協力して同じ事件に取り組むと言う発想が面白く、燃えます
頼光や鬼の話も、相当調べてあるなと言うのがよくわかり、話に説得力を与えていますな