Sky/Fly.
爽やかな風が、身体を通り抜けるように、吹く。
全身を、翼のように、広げる。
あれだけ暑かった夏も去り、空一面、海のような涼しさに包まれていた。
秋の気配。
紅と緑と、黄色と、淀んだ灰と。
油絵のような、天地が迫ってくる。
私は、空の中にいた。
ただ目的も無く、ふよふよと浮かんでいた。
肌に掛かる風は安らかで、静かで、しかしワンパターンだ。
私の知っている、大空の風は、こんなに退屈なものではなかったはずだ。
手持ち無沙汰な午後の時、少しぐらいは遊んでも悪くはないだろう。
そう思ったから、上昇した。
ぶん、と空を叩く音だけが、感じられる。
勢いをつけて、大きく上昇する。
灰色の雲を、突き抜けるように、昇る。
水滴が体中につくが、気にしない。
加速する過程では、どうしても体温は上がってしまうから、寧ろ冷えたほうがいいのだ。
暫し、裂くような、風の音だけを聞く。
──雲を超えて、見える景色は、広かった。
眼前の空、それは、地上から見えるものとは違う、水色の空だった。
空気が薄い。
身体を押しつける力が薄い。
そして、空の色が薄かった。
森の中から覗く、あのくっきりとした青はここにはなく、まるで絵具を水で薄めたような、水色が空を覆っていた。
足下、雲が山のように広がる。
ここからだと、雲と空の境界線がくっきりと見える。
雲の上は、雲の下とは別世界だ。
今更ながら、そんなことを理解する。
どれだけ多くの人妖が、この別世界の存在を知っているのか。
きっと、あの巫女だって、魔法使いだって、この場所は知らないに違いない。
そう考えると、何だか自分が特別になった気がして、嬉しかった。
……この雲が消えたなら、この足下、幻想郷はどれだけ美しいのだろう。
そんな、柄にもないことを思いながら。
舞う。
世界が一転して、回る。
空いっぱいの新鮮な空気を、胸一杯に吸い込んで、浸る。
すべてと、一体化する。
自分自身を、見失ってしまったかのように。
ただ、従うままに、泳ぐように、飛ぶ。
唸る風音を、聴く。
揺れる世界を、視る。
夕の、暮れ。
黒が白になる、間際の時期。
今は、心地良く感じられるこの風も、すぐに凶器のような寒さへと変わってしまうだろう。
だから。
ミスティア・ローレライは、この、蜃気楼のような場所を楽しむことにしたのだ。
追従する光を、感じる。
傍観する自然を、突き進む。
もはや何も見えない目下の世界を尻目に、痺れるような空間を、進む。
当初の目的すらも、忘れてしまえるような、水色と、灰色と、白。
季節と季節の狭間で、彼女は、一人、空を飛んでいた。
誰もいない、何もない、ただ、色だけが見える場所で、独りぼっちで美しく、舞っていた。
海の果てまで、続く光を睨む。
どこか遠い先に、私とは違う誰かが、私が来るのを待っているのを見る。
──だけど、私には、その場所に行く権利は無いのだ。
私は鳥だけど、高い空は飛べない。
今だって、何かを誤魔化して、この場所に飛んでいるだけ。
身体の重さを感じつつ、妙な浮遊感を得る。
重力からさえも脱したような、慣れない、自由。
ふと、不安になる。
……もし、このまま飛んで行って、どこか知らない場所で落ちることになったら、と。
そんなことを考えてしまったのだ。
雲の上、空の下、大きなものの間で立ち往生している私は、米粒のような存在でしかなかった。
この場所は、私には、広過ぎたのだ。
このまま、行方知れず、何処とも知れない場所に落ちてしまうことが、怖かった。
下。
雲の灰色の奥。
音も聞こえず、形さえも解らない、影でしかない地上は、果てしなく遠い。
遠い。
森からも、山からも、川からも、遠いところに、私は来てしまったみたいだ。
風の音が、停滞する。
周囲には、自分しかいない。
それは、酷く、冷たい。
──だから、ふっと、忘れていたものを思い出すことにしたのだ。
身体を大きく旋回させ、進路を大きく曲げる。
寧ろ、落下とも言える速度で、一気に急降下する。
漂っていただけの空気を風として。
刺すような涼しさが、身体を支配する。
力を極限まで抜いて、……ただのガラクタのように、落ちるだけの存在になる。
勢いは止まらない。
下に。
下に、下に、下に、下に。
強い力に押しつけられるように、引きつけられるように。
それでいて、私は、自由に落ちたかった。
仕方なく、何か大きなものから逃げるような、そんな諦めは嫌いだ。
私自身は、こんなにも弱いけど。
負けたくはない、そう、決めているから。
羽ばたく。
風を切る音が、強くなる。
それに抗うように、身体を回転させ、羽ばたく。
加速して、下に向かう。
逃げるように。追いかけるように。
いつもと違う、空の下、雲の中。
突き刺すような、一点の赤。
……そして、落ちた。
★
いつも通りの、涼しい秋だ。
竹林の近く、少し人目から離れた森の中、少し開けた、広場のような場所がある。
涼しい季節になると、この辺りで人知れず、暇を潰すのが、私の習慣になっていた。
夏は暑く、冬は寒い。
別に暑いのや寒いのが嫌いな訳ではないけれど、それでも居心地が悪くは思う。
だから、どちらかと言えば、こういう季節の合間は好きだ。
「……はぁ」
意味もなく、溜め息をつく。
優しい風が吹き、暖かな日差しも満ちる。
空気も澄みきっていて、正午過ぎの昼寝には丁度いいぐらいの気候だろう。
多分、そんな心地の良すぎる気候だったから、退屈で仕方がなかったのかもしれない。
……今年は、とても静かな一年だったと思う。
春、夏、秋と、季節は変わらずに過ぎて、幻想郷の時間も変わらずに流れた。
あれだけ騒がしかった妖怪達も、息を潜めたかのように暴れるのを止めた。
それに比して巫女や魔法使いの活動も少なく、至って平和で──退屈ではあった。
誰か、暴れてくれないかな、とか。
そんなことを思っても、口にして実行に移そうとするほど嫌でもなかったんだろう。
何もない時も、暇だけど、まっ、いいかな、とか。
何時も何時も賑やかでいるのだって、楽しいけれども、忙しい。
そう思うと、神社でひっきりなしに宴会をしているのを見ると、羨ましく思ったりする。
私も偶にお邪魔させて貰うけれど、お祭り騒ぎというものは、わいわいやって、ぐたぐたになるもので。
それを数十夜も続ける根気と体力は、私には妬ましいくらいだ。
……人間と妖怪とが近づいて、幾程経ったのだろう。
今の巫女になってから、随分長い時が過ぎたのは分かるけど、数えている訳でもなかったから、私にはわからない。
そして、時が進むほどに、私の気分は退屈でいることが多くなってきた。
「……」
首を振り、雑念を振り払う。
歌い出す、その切欠を見つけることは、実は難しいことだ。
私のような、歌を専門にする妖怪でさえも、何もなく唐突に啼き出すのには勇気がいる。
気持ちの問題に過ぎないけど、それは大きいものだ。
この辺りには、人間はおろか、妖怪でさえもなかなか近寄らない。
けれども、別にヒトに嫌われるようなスポット、というわけでもなく、わざわざ寄るような場所でもないというだけだ。
たまに妖精たちが暖かい日差しを求めてやってくることはあるけれども、気にすることでもない。
スポットライトのように光の差す、この小広場はお気に入りの場所だ。
まるで、舞台に立つ役者になっているように錯覚出来るから。
それは、自分だけの、悲しい独り芝居に過ぎないけれど、多分、私が満足出来るなら、それでいいんだ。
──それで、いいんだろうか?
本当のことを言えば、よく分からない。
「……よし」
一声、邪念を振り払う。
いつもはふらふらと寄るこの場所だけど、今日はただ暇潰しするためだけに来た訳でもない。
……そのハズなんだけど、実際何のために来たのかと言われたら、それは、私にも分からない。
分からないけど、きっと大事なことなんだろう。
本当に大切なことは、自分にだって分からないものだから。
だから、歌い出す。
心に浮かんだものを、そのまま声にして。
「……」
──透明な空。
空を歌う。青を歌う。……自由を、歌う。
美しく、響く、高音の歌声が、森を、そっと揺らす。
深く、遠く、低音の旋律が、風を、優しく包む。
青い空。
遠く遠く、果てしなく、手の届かない、青の世界。
森も、林も、川も、池も、山も、里も。
地上すべてを、広大な色が包み込む。
雲の上。
あの時は、空しか見えなかったけど。
きっと、綺麗な時。……それこそ、私の行くことが出来ない時には。
空の下には、空以上の全てが、広がっているはずだ。
だから、夢を見て、そっと、思い出す。
透明な空と、果てない境界線の先と──
見えていたはずの、地上の光を。
ぱち、ぱち。
唐突に聞こえる、手を叩く音で、私は現実に引き戻された。
残響感と、疲弊と、喪失感が身体の中を駆け巡り、一気に脱力する。
突然、地上に落とされた、落下感。
まるで今まで空を飛んでいて、銃で、撃ち落とされたかのような、感覚。
私は……広場に居て、歌を演じていて、それで──
広場の隅っこで、一人の少女が笑顔で立っているのに、気付く。
それで、私は漸く状況を理解する。
──私は、ちょっと、夢を見ていたみたいだ。
ぱち、ぱち。
私が気付いたことを察知したのか、光るような笑顔のまま、手を叩くのを止めた。
そして、その笑顔を、さらに明るくする。
まるでこちらが彼女のことに気付いたことが、嬉しかったみたいに。
「……」
彼女との距離は、数メートルしかない。
それは、一瞬で近づくことも、襲いかかることも出来る距離だ。
けれども、……私には、彼女が敵であるとは思えなかった。
紛れもなく、彼女は私の広場への侵入者であり、──私の歌に、拍手をしてくれた少女だった。
「……」
言葉の交わされない、でも重苦しくない沈黙が、降りる。
彼女は、満面の笑みを少しも崩さず、私の眼を見つめてくる。
大きくて、綺麗な目だ、と思った。
透明で、疑いを知らないような、真っ直ぐな瞳。
その眼で見つめられるだけで、少し、気後れしてしまう。
「とっても、きれい」
ぽつんと、置かれたような言葉。
少し高めの、どこまでも少女らしい、外見に相応しい声。
彼女の呟いた台詞に、ちょっと戸惑う。
でもそれが、私の歌の感想だと、すぐに合点が行く。
夜雀の妖怪でしかない私が、こんなに素直な褒め言葉を貰うなんて、とても珍しいことだ。
あまりにも珍しすぎて……
どう答えるべきなのか、どう答えていいのかは分からなかったけれど。
裏のない笑顔で、褒められて、悪い気はしなかったから。
「ありがとう」
私の知る、感謝の言葉で応える。
少し恥ずかしい感じはしたけれど、彼女がこれ以上ないほどに笑顔を咲かせたのを見ると、間違いではないのかな。
そうも思えた。
「……」
風が、そっと森を揺らす。
太陽の光の暖かさも、涼しさに奪い取られてしまいそうだけど、上気した頬には丁度いいかもしれない。
私と、彼女と。
私たち以外には誰もいない。
何となく、話しかける切欠を掴む事も出来ずに、沈黙が続く。
きっと、私が何か話しかけるべきなのだろう、と思ったのだけれども。
何を言えばいいのだろうか。
分からずに混乱している私は、ただ耳で、遠くの鳥の囀りを聞いているでしかなかった。
えっと、と彼女が前置きする。
「私のことは、気にしなくていいからね」
そう、彼女は言った。
歌を中断したことへの気遣い、なのか。
もっと私の歌を聴きたい、ということなのか。
何れにせよ、見つけられずにいた機会をくれたことに、感謝したほうがいいんだろう。
だから、そっと私は会釈する。
気持ちを整える。
……気にするなとは言われても、自分の歌を誰かに聞かれているということは、凄く緊張することだ。
でも、彼女が邪魔だとはちっとも思わなかったから、そっと、意識の集中に努める。
大きく息を吸って、吐いて。
心の高鳴りを鎮めて。
視界の隅にちらつく彼女の影を見ないようにして。
そして、私は、再び歌い始めたのだった。
★
日も傾き始めて、広場に届く光も細くなる。
私は、まだ温かみの残る場所の、大きな岩に座った。
彼女はそれに従うように、少し離れて、隣に並ぶように腰掛けた。
「ねぇ」
彼女は唐突に、そう問いかける。
だから、私も自然に答えられるように、上の空でいた意識を復活させる。
「お名前、なんて言うの?」
小声ではあるけど、耳に直に届くような感覚に、身を竦める。
まるで、森で囁く小鳥のようで、可愛らしい。
それでいて、透き通るような、不思議な声だった。
「私は、ミスティア。……ミスティア、ローレライって言うわ」
「みすてぃあ、だね。可愛い名前!」
ちょっと、噛みやすいけどね、なんて付け足す彼女の振る舞いは、外見通りの少女らしさそのままだった。
どこか暗みの混じった、水色の短髪に、黒の大きな帽子。
向日葵のように黄色い服と、葉っぱのような色の、フリルのついた短いスカート。
そして、そのあちこちから奇妙な形で伸びる──幾つもの、コード。
病的なまでに白い肌と、大きな瞳。
妖怪かな、と推測する。
コードを身体に絡ませた人間なんて、生涯で一度も見たことが無いから。
息をするたびに、震えるコードを見て、──ちょっと不安になる。
すぐにでもばらばらになってしまいそうで……でも、きっとそれは簡単には解けないだろう。
「噛みやすいなら……よく、あだ名でみすちー、って言われてるから」
「みすちー?」
このあだ名を考案したのは誰だったっけ。
脳裏に浮かぶ、虫の少女や氷の妖精や、宵の妖怪や冬の妖怪。
そして、すぐに、誰でも大差ないだろう、と結論づける。
別に過程が重要なわけではないのだし。
「私も、そう呼んでいいかな」
そう呟く彼女。
突然現れて、突然近づいて、あだ名で呼んでいいかなんて聞くのも変なことだけど。
悪い子じゃないようだったから。
……それに、私も、彼女には少し興味を抱き始めたところだし。
「うん」
頷くと、例の満面の笑顔で応えてくれる。
とっても、自然に笑う子だ。
私には出来ない笑顔だ。
だから、ちょっと羨ましい、なんて思ってしまった。
なんだか、集中できてない。
隣の彼女に、集中できない。
友人達とは違う、距離と焦れったさを感じる。
手を伸ばせば届くのに、とても遠くに居る気がする。
あの巫女や、魔法使いや、メイドや悪魔や幽霊たちとも違う。
新鮮さと、不思議な気持ちが芽生える。
本当に、知らない感情だったから。
彼女との間隔も、酷く、離れているように思えてしまう。
こんなに近くに居るはずの彼女は、一体、誰なんだろうか、なんて。
普段なら思うはずのないことを、思ったり。
「ごめんね、お邪魔しちゃったみたいで」
「……?」
さらっと、話題が変わる。
唐突に放たれる謝罪の言葉に、戸惑いながらも、そっと首を振る。
観客を、邪魔だなんて思う舞台役者には、なりたくないから。
「ちょっと変わっちゃったでしょう?」
歌のことなのかな、と推測する。
主語の飛んだ内容からは、親近感と距離感を同時に得る。
本当に宙ぶらりんで、現実に座っていて彼女と話をしているようには、思えない。
でも、妙に心地がよかった。
「やっぱり、一番最初の歌が好きかな。私」
拍手の音と、反響の音が、再び鳴り響く。
彼女の笑顔と存在が、リピートされる。
あの瞬間、高いところを飛んでいた私のことを、──彼女はどういう風に見ていたんだろう。
「多分、空の歌、だよね?」
空の、うた?
どくんっ、と鼓動が高鳴る。
丁度、私もあの空のことを思い出していたから。
図星を刺されたみたいに、少しだけ息が苦しくなる。
「どうして?」
なんて乱暴な返事をしてしまったのも、仕方がない。
やっちゃった、と今更後悔しても遅いけど。
彼女は、少しだけ戸惑ったようで、しかしすぐに気を取り直したのか、話し始めた。
「えっと、ほら、『青』とか『遠い』とか言ってたし、──『自由』とか、言ってたでしょ?
青くて遠くて自由な場所は、空か海ぐらいかな。
それで、……見たところ、みすちー、鳥っぽいから、空かなぁ、って」
青、遠い、自由、空。
当たってる? とこちらに顔を向ける彼女の顔からは、期待と不安が読み取れた。
分かりやすい女の子だなぁ、と思う。
だけど、私だって自分の顔は見えないから、もしかしたら、このどきどきも彼女には見えているのかもしれない。
そう思うと、ぽっと、顔が燃えるように赤くなる。
本当に、私だって人のことは言えないのだ。
心の動揺を気付かれないように、一呼吸置く。
「正解よ」
やった、と彼女が小声で喜ぶ。
それを見る私も、なんだかほっとした気持ちになる。
それにしても。
自分の歌った歌の、それも、自分の作った歌の歌詞を忘れていたなんて、私はどれだけ無我夢中になっていたんだろうか。
そして、彼女は、私の忘れていたものさえも、覚えていたんだ。
ふと、空を見上げる。
太陽の、白く煌々たる光が、陰りを帯び始めたようだ。
過去と重なる空の色は、変わらずに広がっていて。
どこまでも、遠かった。
「ちょっと、飛んでみたから」
彼女を真似するようだけど、無意識に主語を飛ばしてしまう。
それでも彼女は分かってくれたようで、空だよね、と呟く。
そう、空だ。
灰色で濁っていて、それでも広かった空は──
「綺麗だった?」
どくんっ。
綺麗、なんだろうか。
あの空の高く、一人しかいない場所。
自分すら見失ってしまうかのような究極の高み。
そんなところが、綺麗なだけで説明できるんだろうか。
あの場所の風景は、美しかったけど……
それ以上の何かが、私の中に確かに芽生えていた。
それは、綺麗なだけなんだろうか。
遠くて、怖くて、そんな場所じゃなかったんだろうか。
「それとも……淋しかった?」
心に思い浮かべた感情は、独りぼっちの淋しさ。
はっと、彼女の目を見ると、それに応えるように、微笑み返してくれる。
そっと包むような、呟くような囁きと共に。
「ほら、歌ってる時、淋しそうだったから。みすちー。
──地面に立ってたのに、そこに居なかったみたいで、遠くを見てて……」
感情が、震える。
この気持ちは、何なんだろう。
私には分からないけど、……きっと、大切なものだ。
「だから、綺麗だと思ったの」
本当に大切なことは、自分にだって分からないものだから。
涼しい風が、肌を撫でる。
啄む小鳥の囁きと、響く妖精の笑い声と、鳴る木の轟きとが、止まる。
時間が、待ってくれたみたいだ。
そして、彼女が……静かに歌い始める。
私の歌った、空のうたを。
同じ歌詞を。
同じリズムで。
同じメロディーで。
普段から歌い慣れてないことの分かる、か細く囁くような声。
大きく揺れて、今にも脱線してしまいそうな、不安定な声。
──だけど、彼女は、歌っていた。
卵から孵ったばかりの、小鳥の見る空。
鳥かごに閉じ込められた、鳥の望む、空。
私の飛んでいた、その空を、見ていたのだ。
空は、静かに時を動かす。
朝空に輝く、赤、朝日に輝く、空。
夕空に煌めく、黄、夕陽の沈む、夜の始まり。
夜空に、光る、星と星の間の、藍。
そこは──とても、自由だ。
そして、自由でありすぎるから──そこは、孤独だった。
不意に、心が揺れ動く。
自分自身を見ているのか、彼女自身を見ているのか。
そのことを、一瞬だけ、迷ってしまったからだ。
彼女の歌う声が、答えだった。
確かにあの場所はとても綺麗で、可能性が輝いて見えたけれど。
──独りでは、淋しかった。
空が、そっと、閉じる。
「本当に、素敵な歌だね」
私が返すことのできる言葉は、一つしかない。
「ありがとう」
彼女の笑顔は眩しすぎて……でも、それでも見つめていられた。
純粋さに目を瞑っている方が、失礼に思えたから。
気がつくと、時間が、元通りに動き出していた。
さっきのは、単なる気のせいだったのか。
それとも、誰かさんの、ちょっとばかしの心遣いだったのだろうか。
彼女は両手を広げて、くるりと回る。
短いスカートの飾りが、さらりと踊る。
笑顔で一回転して、再び見えた彼女の顔は変わらずに笑顔で。
……とても暖かくて、脆い。
「本当に、すっごく心に響くんだから! ちょっと、驚いちゃったくらい」
「まぁ、それは……」
私の歌う歌は、能力故、そういうものなのは当然なのだけど。
そんなことを言うのも水を刺す行為でしかない。
「こんなに驚いたのも、何時ぶり、かな……」
遅れる、語尾。
その不自然な切れ方に、気がつく。
──え?
彼女に、異変が起きる。
一筋の水滴が、彼女の頬を伝って、落ちたのだ。
──泣いてる?
目の前の少女は、泣いている。
笑顔ながら、瞳から、透明な悲しみを零す。
それでも、彼女は微笑みを崩さないでいて。
だから、この涙は本当なんだろうと、理解した。
「あ、うん、ごめん。……なんだか、勝手に、」
涙は、勝手に零れるものなんだろうか。
何かしら思い出すことがあって、何かしら、思うことがあって、零れるものなんじゃないか。
脳内を駆け巡る、思いと、焦りと。
突然の彼女の落涙に、しかし、私は何も出来ない。
どうして、泣いているのか。
私には、分からないから。
彼女が、とても遠くに居た気がしたから。
「ねぇ」
彼女が言った気がした。
「────」
確かに、彼女の言葉が、聞こえた。
その言葉の意味も、確かに理解出来た。
彼女が、手を伸ばして、私を捕まえようとする。
少し、怖くて、でも切実な、接近。
逃げずに、届く手を、──触れる手を、待つ。
……けれど、現実は、嘘だったみたいで。
手は、届かなかった。
聞こえたはずの、その言葉は、彼女の躊躇いの中に、消えてしまった。
「お邪魔しちゃって、ごめんね」
涙を拭おうともせず、泣いていないように振る舞う彼女は、微笑んだ。
その微笑みが、あまりにも痛々しすぎて、私には直視できない。
きっと、届かなかったんだ。
「……えっと、その、涙、大丈夫?」
取り繕うだけの言葉、そんなことしか言えない。
当然だけど、当然じゃない。
不思議だけど、確かに、彼女が言いたかった言葉は聞こえたのだから。
それに、答えればよかったのだ。
「うん、いつものことだから」
それが嘘だなんて、わかりきったことだった。
いつも涙を流しているような子が、あんな綺麗な笑顔を作ることなんて、出来ない。
彼女は、悲しかったんだ。
だけど、不意の涙を躊躇わなかったから、私は一歩遅れた。
だから、悔しいけど、今はどうすることも出来ない。
「じゃ、そろそろ、家に戻らないと」
彼女がそっと、舞台から降りようとする。
今までのことを無かったことにして、忘れようとする。
だけど、背を向ける瞬間、見えた彼女の顔は、──ごめんね、と謝っているようにも見えた。
……何で、謝るの。
ぐちゃぐちゃだった感情が、はっきりと、形を成す。
貴女は、──貴女はっ、何も悪くないのに!
「待って!」
強い声で、引きとめる。
声だけの強制。
咄嗟に出た、気休めに近い、叫び。
でも、彼女は足を止めてくれた。
「……」
彼女に、問わなければならない。
私の知りたい、彼女の大切なことを。
私が、知らなければならないこと。
彼女の、大切なこと。
機能しきらない脳を必死に働かせて、それを思い出す。
──私は、まだ彼女の、一番大切なことを知らないじゃないか。
「まだ名前、聞いてなかったよね。……教えてくれる?」
名前。
それは、彼女そのものの、存在の証。
今まで名前も知らずに、彼女と話をしていたのだ。
曖昧な、凍るような感情が身体の動きを止める。
それでも、彼女は振り向いてくれた。
嘘の、笑顔で。
ごめんごめん、と呟いて。
「こいし。古明地こいしって言うの。……じゃ、またね。みすちー」
そして、彼女は、姿を消した。
まるで初めから誰もいなかったかのように。
ふっと、隠れるように、気がつけばこいしは居なかった。
残るのは、残響と声。
世界が、何時も通りに動き出す。
それは、酷く私を傷つけた。
「……こいし」
繰り返す。
去ってしまった少女の名前。
それを忘れないように、繰り返す。
こいし。
古明地こいし。
ふと、引っかかりを得る。
古明地、という響きに、確かに聞きおぼえがあったから。
なんとかして、思い出そうとすると、一つの過去を想起することができた。
「……確か、……地底の……」
確かに、私は古明地という姓を、聞いたことがあった。
それはごく最近、巫女達が宴会の時に話題にした、地獄の妖怪の姓。
酔っぱらった人間共が、無責任に言い散らかしていた、それだ。
地下深く、旧地獄には地霊殿という場所があり、騒がしい地底を治めている。
──その主は、人の心を読む事が出来るという。
そして、彼女の妹は……
「……あー」
胸の中、渦巻く感情を、言葉として吐き出す。
日常の、些細な乱入者。
非日常の、瞬間。
歌。
空を落ちる感覚と、彼女の笑顔と──泣き顔がシンクロする。
「……」
どことなくやり切れない感情が、心の中を支配する。
ちょっとだけ、たまたま通りかかって、私の歌に拍手してくれた、女の子。
偶然ではあるけど、私の歌を──歌ってくれた、少女。
──届かなかった、彼女。
多分、私は、こいしのことを、嫌いじゃないと思っていたから。
きちんと、返事が出来なかったことが、ちょっとだけ、悔しいのかもしれない。
★
「……よし」
気がつけば、日が暮れていた。
どれだけ歌っていたのか、どれだけ彼女と話をしていたのか。
そして、どれだけ彼女を行かせてしまってから、ぽかんと立ち続けていたのか。
仕方ないな、と独りごちて、舞台から去る。
妖怪の時間は──私の時間は、これからだから。
引き摺ってはいけない、と気を引き締め直す。
その重みを、確かに心の中に刻みつけて。
星が、溶けるように世界を照らしていた。
宇宙の黒と蒼と、月の黄と。
夜の空、影が、森から飛び去る気配がした。
★
祝福された、言霊。
彼女は、それを忘れない。
All the time.
★
どくんっ。
心を閉ざした時、覚悟は決めていたはずだけど。
結局は、目の前から逃げるために、私は“私”を失った。
きっと、独りぼっちになって、悲しくなるんだろう。
そう決めつけて、諦めた気でいて、でも、実際は違っていた。
何も、聞こえなかった。
たとえ、私にとって嬉しいだろうことがあったとしても。
腹が立つだろうことが、あったとしても。
悲しいに違いないことが、あったとしても。
楽しいと、思える筈のことが、あったとしても。
私には、軋みしか伝わらない。
身体を這うように走るコードが、千切れそうになる痛みが、あるだけ。
私はずっと、変わらないままでいて。
でも、周りは変わっていくしかなかったから。
私は独りぼっちで、残された。
残されて──私は、暗い海の底に居た。
私が分かるのは、情報だけ。
気持ちは分からないから。
気持ちは伝わらないから。
気持ちは──伝えられないから。
とっても、寂しくて、でも、それが軋みだけになって。
自分で、自分を探していたんだ。
……殺すために。
私の意識は、届かない。
堅く閉じられた、瞼の奥。
深く鍵かけた、心の深層で。
意識を偽って、無意識に委ねて、私は、ずっと独りぼっちでいた。
紅白の巫女の面倒そうな声も。
黒白の魔法使いの愉快そうな声も。
緑白の巫女の爽快そうな声も。
お姉ちゃんの笑い声も。
お空のはしゃぐ声も。
お燐の唆す声も。
ペットたちの、いろんな声も。
呼ぶ声も。
尋ねる声も。
問う声も。
囁く声も。
訴える声も。
嘆く声も。
伝える声も。
誰の声も、音でしかなかった。
音でしか、なかったけど──
どくんっ。
今更、“心”を望むのは、独り善がりなんでしょうか……?
★
眼を、開く。
気がつけば、闇の中に、私は立っていた。
頬に冷気を浴び、身体は寒さで凍えているけれど、きちんと、立てている。
私には、深い夜がどこまでも広がっていることしか、分からなかった。
その中で、私が何処に居るかなんて、本当に些細なことでしかない。
ここは、何処?
それを問うのは無意味だと、分かり切っていた。
何処に居たって、何の価値もないのだと、分かっていた。
今は、何時?
それを問うのは馬鹿馬鹿しいと、信じ切っていた。
何時であろうと、それは起きているか寝ているかの違いでしかないから、どうでもよかった。
私は、誰?
当然のことを問う。
私は、古明地こいし。
だけど。
私を、この場所に導いたのは、誰なんだろう?
何故、ここに来たのか。
それは、きっと──
酷くコードが軋むから、考えるのを止める。
とても寒い。
手先の感覚も、か細い。
雪が、空を白くさせ、地面を染める。
冬の真っ只中に、もっとも相応しいに違いない、寒さと雪だった。
人の気配も、妖怪の気配も、妖精の気配もない。
草木でさえも、眠りに落ちたようで物音一つさせない。
耳に届くのは、雪のしんしんと積もる、幻聴だけだった。
どくんっ。
円に枠とられた、藍の夜空。
斑点のように舞い、生物のように散る、白の結晶。
まるで、上空に吸い込まれるような、嫌なイメージが襲ってくる。
冷たい。
独りでいるのは、悲しい。
コードの軋みと心の歪みが、不協和音を奏でる。
悲しいなら……悲しくなくすればいい。
けれど、そんなことは、私には出来ない。
自分で捨てたものだから。
自分で拾うことは出来ないから。
だから、……誰か、拾ってくれるのを、待っている。
冬と雪。
──こんなことを思ってしまうのは、我儘だろうか。
この綺麗で残酷で、遠い夜の下で。
──独りぼっちでいることは、嫌だと。
自分しかいない場所で、自分以外に誰もいない場所で。
──誰かと一緒に、立っていたいと。
どくんっ。
夜が、確かに動いた時。
私はこの場所に、まだ立ったままでいて。
頬を伝う暖かさを、微かに感じていて。
そして、聞く。
──彼女の、空を。
「お久しぶりね、こいし」
私を呼ぶ声が、私を、覚醒させた。
聴覚から、体中の全てがゆっくりと動き出す。
その声の主を、私は覚えていた。
少しだけ、役者を気取ったような声でいて。
凛として立つような、強気な声でいて。
それでいて、森さえも包み込むような、暖かい優しさに満ちた、声。
その声の主を、私は覚えていた。
「みす、ちー?」
はっ、と音がする。
白く暖かい吐息が、白く冷たい雪に交じって、消える。
私の吐いた息か、彼女の吐いた息か。
少なくとも、私はこんなに優しくないから、それは彼女の暖かさだろう。
「忘れられてないみたいで良かった。……ちょっと、隣、いい?」
問いかけるような、仰々しくて大げさな言葉。
三文芝居のような、ワザとらしい言葉。
でも、彼女は微笑んでいた。
私を、舞台へと誘う声。
心の中を巡る、いろいろな感情。
軋み。
私は、それを止める方法を、上手く知らないみたいだ。
何時も通り、抑え込もうとしても溢れ出てしまうようで。
随分と、自制が下手になったみたいだ、と。
そう言い訳して、問いかける。
「どう、して?」
その問いに、彼女は頬を掻いて苦笑いした。
「……いや、今日は、何でか知らないけど、馬鹿たちのバカ騒ぎに付き合わされててね。ちょっと疲れてたの。
こんなに綺麗な雪だって言うのに、うるさい中、頭の痛い中で過ごすのって、面白くないでしょう?
だから、ちょっと逃げてきて、どうしようかと思ってたら──こいしの姿が、見えた気がしたの」
追って来ちゃった、と彼女は微笑む。
濃い朱の羽毛で覆われた、華奢な身体と幼い手足。
瞳は、大きく暖かく、しっかりと私を見つめていてくれる。
私と同じくらいの、身長の、彼女。
ミスティア・ローレライ。
「もしかして、迷惑?」
首を振る。
わかっているくせに。
本当に自分の存在が邪魔だと思うなら、それを口に出して問いかける筈が無いのだ。
彼女だから、余計に有り得ない。
──もしかしたら、邪魔になりたくないのかな、と思っているのかもしれないけれど。
それは、杞憂だから、いいんだ。
嬉しそうに、よく笑う。
楽しい芝居を鑑賞しているような、愉快な表情と一緒に。
ミスティア・ローレライは、メロディーを口ずさむ。
軽快にアレンジされたそれは、私の知っているものとは違うけれど。
「空の、歌」
私の口から、零れた言葉。
それをミスティアは、柔らかい表情で受け止めた。
「……」
彼女は、えへっ、と照れを隠すように笑う。
「なんかね、この歌、気に入っちゃったみたいで。
普段、特定の歌を──よりにもよって、自分の歌を好きになるなんて、そう多いことじゃないから、不思議でね」
ただ独りで、何も考えず、何も考えられずに歩いていた、あの時。
耳に聞こえてきた、シンプルな、歌。
幾つかの単純なフレーズを重ねたもので。
歌詞も即席で仕立てたような、直接的で具体的なもので。
展開も調子も普通の一般的な遊び歌と変わらないような、そんな歌。
でも、彼女の歌った、そらのうたは。
──とても、私に似ていたから。
「何度も、何度も、歌ってみた。
でも、最初の『そらのうた』にはならなかったみたい。細かいことは分からないけどね、なにか、違うのよ。
歌詞も同じだし、音も同じだし、リズムも変わったわけじゃない。何も加えてないのだから、全く変わらない筈なのに」
だけど。
「その代わり──」
息を詰める。
気がつけば、彼女は私のすぐ傍に居た。
横にいていい、って聞いていたから、その距離は当然ではあるけど。
改めて、みすちーとの間隔に、気がつく。
彼女の、呼吸の音も。
彼女の、胸の鼓動も。
彼女の、身体を巡る熱も。
全て──感じられる気がした。
感じている、気がしたから。
「──やめた。なんだか、恥ずかしいや」
安心する、音。
開いていた眼を、自分で開ける。
手を伸ばせば届く位置、微笑んでいる彼女の顔は、とても赤かった。
彼女が、みすちーが顔を赤くしたのは、きっと寒さだけが原因じゃないだろう。
そう思うと、なんだか可愛らしく思えて、自然と顔が綻ぶのだ。
どくんっ。
「こいし」
手足の感覚も薄い、夜。
一瞬で過ぎ去る、雪との出会いと別れを繰り返して、時間は勝手に過ぎていく。
幾多も繰り返される一瞬の中、どの瞬間かは分からないけれど、ふと、ミスティアが、私を呼び掛けた。
「空、綺麗ね」
「……うん」
遠い遠い、空。
月がぽっかりと穴を開けたように、浮いている。
飲み込まれるような、黒の空の奥には、星が輝いていた。
億千の、光が見える。
限りの無い、闇が見える。
その先には、光さえも届かない、星達が無数にあるはずだ。
……その輝きを知るためには、こちらから、見に行かなくちゃいけない。
「でも、怖い」
本心が零れ出る。
それは、私が言いたかった言葉。
私が嫌っていた……自分の弱さだ。
「だったら、一緒に、飛ばない?」
「──」
だから。
彼女の言葉は、苦しいほどに、暖かった。
一緒に、空を飛ぶ。
どくんっ。
誤魔化すように、弁明するように、ミスティアは笑う。
彼女は、ちょっと恥ずかしいことだけど、と前置きして、喋り始める。
「今日の夜の空は、……私も怖かったの。
本来なら暗闇の空なんて、私のホームだっていうのに、ね。」
一息。
告げられる言葉は、力。
「白い雪と、白い星が光ってて、果てが無くて、……とっても綺麗だけど、ちょっと、不安でね。
──誰か、一緒になって、手を繋いでくれる人とか、いないかなぁ、って思ってたの」
ね、こいし。
「だから、一緒に、飛んでくれる?」
彼女は。
ミスティア・ローレライは、ワザとらしく、笑った。
頬の涙が止まらないけど、構わない。
拭う意味なんて、無かったから。
きっと、彼女は笑い続けてくれるだろうから、いいのだ。
彼女の手が、そっと、私の手に近づいてくる。
少し、震えながら、真っ直ぐに、曲がらずに。
私に──手を差し伸べて、くれる。
……あの時、私は、彼女にこう言いたかった。
『友達に、なってくれる?』
簡単なことだ。
人と人とが出会って、仲良くなりたいと思ったら、こう言えば、いいのだ。
でも、それだけを言うのにも、“私”は耐えられなかった。
自傷に負けて、自分自身の縛りに抗いきれずに、手を降ろしてしまったんだ。
でも、彼女は、こうして、私に手を差し伸べてくれる。
あの時。
もしかしたら──彼女には、分かっていたのかもしれない。
私の、伝えたかった、思いを。
初対面で、突拍子もなく現れた私のことを、なんて思うのは流石に傲慢なんだろうけど……。
ミスティア・ローレライの左手が、そっと、私に触れようとする。
私の手に、触れる瞬間。
それは、本当に一瞬だったけど。
私にはとてつもないほど、長い時間だった。
避けずに、手を、しっかり握る。
こちら側から。
私の知らなかった、他人の──いや、友達の手の暖かさ。
その暖かさを、もう逃がさないように。
こくり、と頷く。
涙が、止まらない。
言いたいこと、あれもこれも、いっぱいあるけれど。
ごめんとか、許してとか、謝りたいこともあったけれど……。
──彼女は笑ったから。
私も、笑い返すことが出来た。
空を見上げる。
月の、白く妖やかな光が、世界を静かに包み込む。
降り注ぐ雪の傍ら、底の無い蒼と星の光る夜は変わらずに在り。
どこまでも、透き通っていた。
──二人の歌声と、共に。
爽やかな風が、身体を通り抜けるように、吹く。
全身を、翼のように、広げる。
あれだけ暑かった夏も去り、空一面、海のような涼しさに包まれていた。
秋の気配。
紅と緑と、黄色と、淀んだ灰と。
油絵のような、天地が迫ってくる。
私は、空の中にいた。
ただ目的も無く、ふよふよと浮かんでいた。
肌に掛かる風は安らかで、静かで、しかしワンパターンだ。
私の知っている、大空の風は、こんなに退屈なものではなかったはずだ。
手持ち無沙汰な午後の時、少しぐらいは遊んでも悪くはないだろう。
そう思ったから、上昇した。
ぶん、と空を叩く音だけが、感じられる。
勢いをつけて、大きく上昇する。
灰色の雲を、突き抜けるように、昇る。
水滴が体中につくが、気にしない。
加速する過程では、どうしても体温は上がってしまうから、寧ろ冷えたほうがいいのだ。
暫し、裂くような、風の音だけを聞く。
──雲を超えて、見える景色は、広かった。
眼前の空、それは、地上から見えるものとは違う、水色の空だった。
空気が薄い。
身体を押しつける力が薄い。
そして、空の色が薄かった。
森の中から覗く、あのくっきりとした青はここにはなく、まるで絵具を水で薄めたような、水色が空を覆っていた。
足下、雲が山のように広がる。
ここからだと、雲と空の境界線がくっきりと見える。
雲の上は、雲の下とは別世界だ。
今更ながら、そんなことを理解する。
どれだけ多くの人妖が、この別世界の存在を知っているのか。
きっと、あの巫女だって、魔法使いだって、この場所は知らないに違いない。
そう考えると、何だか自分が特別になった気がして、嬉しかった。
……この雲が消えたなら、この足下、幻想郷はどれだけ美しいのだろう。
そんな、柄にもないことを思いながら。
舞う。
世界が一転して、回る。
空いっぱいの新鮮な空気を、胸一杯に吸い込んで、浸る。
すべてと、一体化する。
自分自身を、見失ってしまったかのように。
ただ、従うままに、泳ぐように、飛ぶ。
唸る風音を、聴く。
揺れる世界を、視る。
夕の、暮れ。
黒が白になる、間際の時期。
今は、心地良く感じられるこの風も、すぐに凶器のような寒さへと変わってしまうだろう。
だから。
ミスティア・ローレライは、この、蜃気楼のような場所を楽しむことにしたのだ。
追従する光を、感じる。
傍観する自然を、突き進む。
もはや何も見えない目下の世界を尻目に、痺れるような空間を、進む。
当初の目的すらも、忘れてしまえるような、水色と、灰色と、白。
季節と季節の狭間で、彼女は、一人、空を飛んでいた。
誰もいない、何もない、ただ、色だけが見える場所で、独りぼっちで美しく、舞っていた。
海の果てまで、続く光を睨む。
どこか遠い先に、私とは違う誰かが、私が来るのを待っているのを見る。
──だけど、私には、その場所に行く権利は無いのだ。
私は鳥だけど、高い空は飛べない。
今だって、何かを誤魔化して、この場所に飛んでいるだけ。
身体の重さを感じつつ、妙な浮遊感を得る。
重力からさえも脱したような、慣れない、自由。
ふと、不安になる。
……もし、このまま飛んで行って、どこか知らない場所で落ちることになったら、と。
そんなことを考えてしまったのだ。
雲の上、空の下、大きなものの間で立ち往生している私は、米粒のような存在でしかなかった。
この場所は、私には、広過ぎたのだ。
このまま、行方知れず、何処とも知れない場所に落ちてしまうことが、怖かった。
下。
雲の灰色の奥。
音も聞こえず、形さえも解らない、影でしかない地上は、果てしなく遠い。
遠い。
森からも、山からも、川からも、遠いところに、私は来てしまったみたいだ。
風の音が、停滞する。
周囲には、自分しかいない。
それは、酷く、冷たい。
──だから、ふっと、忘れていたものを思い出すことにしたのだ。
身体を大きく旋回させ、進路を大きく曲げる。
寧ろ、落下とも言える速度で、一気に急降下する。
漂っていただけの空気を風として。
刺すような涼しさが、身体を支配する。
力を極限まで抜いて、……ただのガラクタのように、落ちるだけの存在になる。
勢いは止まらない。
下に。
下に、下に、下に、下に。
強い力に押しつけられるように、引きつけられるように。
それでいて、私は、自由に落ちたかった。
仕方なく、何か大きなものから逃げるような、そんな諦めは嫌いだ。
私自身は、こんなにも弱いけど。
負けたくはない、そう、決めているから。
羽ばたく。
風を切る音が、強くなる。
それに抗うように、身体を回転させ、羽ばたく。
加速して、下に向かう。
逃げるように。追いかけるように。
いつもと違う、空の下、雲の中。
突き刺すような、一点の赤。
……そして、落ちた。
★
いつも通りの、涼しい秋だ。
竹林の近く、少し人目から離れた森の中、少し開けた、広場のような場所がある。
涼しい季節になると、この辺りで人知れず、暇を潰すのが、私の習慣になっていた。
夏は暑く、冬は寒い。
別に暑いのや寒いのが嫌いな訳ではないけれど、それでも居心地が悪くは思う。
だから、どちらかと言えば、こういう季節の合間は好きだ。
「……はぁ」
意味もなく、溜め息をつく。
優しい風が吹き、暖かな日差しも満ちる。
空気も澄みきっていて、正午過ぎの昼寝には丁度いいぐらいの気候だろう。
多分、そんな心地の良すぎる気候だったから、退屈で仕方がなかったのかもしれない。
……今年は、とても静かな一年だったと思う。
春、夏、秋と、季節は変わらずに過ぎて、幻想郷の時間も変わらずに流れた。
あれだけ騒がしかった妖怪達も、息を潜めたかのように暴れるのを止めた。
それに比して巫女や魔法使いの活動も少なく、至って平和で──退屈ではあった。
誰か、暴れてくれないかな、とか。
そんなことを思っても、口にして実行に移そうとするほど嫌でもなかったんだろう。
何もない時も、暇だけど、まっ、いいかな、とか。
何時も何時も賑やかでいるのだって、楽しいけれども、忙しい。
そう思うと、神社でひっきりなしに宴会をしているのを見ると、羨ましく思ったりする。
私も偶にお邪魔させて貰うけれど、お祭り騒ぎというものは、わいわいやって、ぐたぐたになるもので。
それを数十夜も続ける根気と体力は、私には妬ましいくらいだ。
……人間と妖怪とが近づいて、幾程経ったのだろう。
今の巫女になってから、随分長い時が過ぎたのは分かるけど、数えている訳でもなかったから、私にはわからない。
そして、時が進むほどに、私の気分は退屈でいることが多くなってきた。
「……」
首を振り、雑念を振り払う。
歌い出す、その切欠を見つけることは、実は難しいことだ。
私のような、歌を専門にする妖怪でさえも、何もなく唐突に啼き出すのには勇気がいる。
気持ちの問題に過ぎないけど、それは大きいものだ。
この辺りには、人間はおろか、妖怪でさえもなかなか近寄らない。
けれども、別にヒトに嫌われるようなスポット、というわけでもなく、わざわざ寄るような場所でもないというだけだ。
たまに妖精たちが暖かい日差しを求めてやってくることはあるけれども、気にすることでもない。
スポットライトのように光の差す、この小広場はお気に入りの場所だ。
まるで、舞台に立つ役者になっているように錯覚出来るから。
それは、自分だけの、悲しい独り芝居に過ぎないけれど、多分、私が満足出来るなら、それでいいんだ。
──それで、いいんだろうか?
本当のことを言えば、よく分からない。
「……よし」
一声、邪念を振り払う。
いつもはふらふらと寄るこの場所だけど、今日はただ暇潰しするためだけに来た訳でもない。
……そのハズなんだけど、実際何のために来たのかと言われたら、それは、私にも分からない。
分からないけど、きっと大事なことなんだろう。
本当に大切なことは、自分にだって分からないものだから。
だから、歌い出す。
心に浮かんだものを、そのまま声にして。
「……」
──透明な空。
空を歌う。青を歌う。……自由を、歌う。
美しく、響く、高音の歌声が、森を、そっと揺らす。
深く、遠く、低音の旋律が、風を、優しく包む。
青い空。
遠く遠く、果てしなく、手の届かない、青の世界。
森も、林も、川も、池も、山も、里も。
地上すべてを、広大な色が包み込む。
雲の上。
あの時は、空しか見えなかったけど。
きっと、綺麗な時。……それこそ、私の行くことが出来ない時には。
空の下には、空以上の全てが、広がっているはずだ。
だから、夢を見て、そっと、思い出す。
透明な空と、果てない境界線の先と──
見えていたはずの、地上の光を。
ぱち、ぱち。
唐突に聞こえる、手を叩く音で、私は現実に引き戻された。
残響感と、疲弊と、喪失感が身体の中を駆け巡り、一気に脱力する。
突然、地上に落とされた、落下感。
まるで今まで空を飛んでいて、銃で、撃ち落とされたかのような、感覚。
私は……広場に居て、歌を演じていて、それで──
広場の隅っこで、一人の少女が笑顔で立っているのに、気付く。
それで、私は漸く状況を理解する。
──私は、ちょっと、夢を見ていたみたいだ。
ぱち、ぱち。
私が気付いたことを察知したのか、光るような笑顔のまま、手を叩くのを止めた。
そして、その笑顔を、さらに明るくする。
まるでこちらが彼女のことに気付いたことが、嬉しかったみたいに。
「……」
彼女との距離は、数メートルしかない。
それは、一瞬で近づくことも、襲いかかることも出来る距離だ。
けれども、……私には、彼女が敵であるとは思えなかった。
紛れもなく、彼女は私の広場への侵入者であり、──私の歌に、拍手をしてくれた少女だった。
「……」
言葉の交わされない、でも重苦しくない沈黙が、降りる。
彼女は、満面の笑みを少しも崩さず、私の眼を見つめてくる。
大きくて、綺麗な目だ、と思った。
透明で、疑いを知らないような、真っ直ぐな瞳。
その眼で見つめられるだけで、少し、気後れしてしまう。
「とっても、きれい」
ぽつんと、置かれたような言葉。
少し高めの、どこまでも少女らしい、外見に相応しい声。
彼女の呟いた台詞に、ちょっと戸惑う。
でもそれが、私の歌の感想だと、すぐに合点が行く。
夜雀の妖怪でしかない私が、こんなに素直な褒め言葉を貰うなんて、とても珍しいことだ。
あまりにも珍しすぎて……
どう答えるべきなのか、どう答えていいのかは分からなかったけれど。
裏のない笑顔で、褒められて、悪い気はしなかったから。
「ありがとう」
私の知る、感謝の言葉で応える。
少し恥ずかしい感じはしたけれど、彼女がこれ以上ないほどに笑顔を咲かせたのを見ると、間違いではないのかな。
そうも思えた。
「……」
風が、そっと森を揺らす。
太陽の光の暖かさも、涼しさに奪い取られてしまいそうだけど、上気した頬には丁度いいかもしれない。
私と、彼女と。
私たち以外には誰もいない。
何となく、話しかける切欠を掴む事も出来ずに、沈黙が続く。
きっと、私が何か話しかけるべきなのだろう、と思ったのだけれども。
何を言えばいいのだろうか。
分からずに混乱している私は、ただ耳で、遠くの鳥の囀りを聞いているでしかなかった。
えっと、と彼女が前置きする。
「私のことは、気にしなくていいからね」
そう、彼女は言った。
歌を中断したことへの気遣い、なのか。
もっと私の歌を聴きたい、ということなのか。
何れにせよ、見つけられずにいた機会をくれたことに、感謝したほうがいいんだろう。
だから、そっと私は会釈する。
気持ちを整える。
……気にするなとは言われても、自分の歌を誰かに聞かれているということは、凄く緊張することだ。
でも、彼女が邪魔だとはちっとも思わなかったから、そっと、意識の集中に努める。
大きく息を吸って、吐いて。
心の高鳴りを鎮めて。
視界の隅にちらつく彼女の影を見ないようにして。
そして、私は、再び歌い始めたのだった。
★
日も傾き始めて、広場に届く光も細くなる。
私は、まだ温かみの残る場所の、大きな岩に座った。
彼女はそれに従うように、少し離れて、隣に並ぶように腰掛けた。
「ねぇ」
彼女は唐突に、そう問いかける。
だから、私も自然に答えられるように、上の空でいた意識を復活させる。
「お名前、なんて言うの?」
小声ではあるけど、耳に直に届くような感覚に、身を竦める。
まるで、森で囁く小鳥のようで、可愛らしい。
それでいて、透き通るような、不思議な声だった。
「私は、ミスティア。……ミスティア、ローレライって言うわ」
「みすてぃあ、だね。可愛い名前!」
ちょっと、噛みやすいけどね、なんて付け足す彼女の振る舞いは、外見通りの少女らしさそのままだった。
どこか暗みの混じった、水色の短髪に、黒の大きな帽子。
向日葵のように黄色い服と、葉っぱのような色の、フリルのついた短いスカート。
そして、そのあちこちから奇妙な形で伸びる──幾つもの、コード。
病的なまでに白い肌と、大きな瞳。
妖怪かな、と推測する。
コードを身体に絡ませた人間なんて、生涯で一度も見たことが無いから。
息をするたびに、震えるコードを見て、──ちょっと不安になる。
すぐにでもばらばらになってしまいそうで……でも、きっとそれは簡単には解けないだろう。
「噛みやすいなら……よく、あだ名でみすちー、って言われてるから」
「みすちー?」
このあだ名を考案したのは誰だったっけ。
脳裏に浮かぶ、虫の少女や氷の妖精や、宵の妖怪や冬の妖怪。
そして、すぐに、誰でも大差ないだろう、と結論づける。
別に過程が重要なわけではないのだし。
「私も、そう呼んでいいかな」
そう呟く彼女。
突然現れて、突然近づいて、あだ名で呼んでいいかなんて聞くのも変なことだけど。
悪い子じゃないようだったから。
……それに、私も、彼女には少し興味を抱き始めたところだし。
「うん」
頷くと、例の満面の笑顔で応えてくれる。
とっても、自然に笑う子だ。
私には出来ない笑顔だ。
だから、ちょっと羨ましい、なんて思ってしまった。
なんだか、集中できてない。
隣の彼女に、集中できない。
友人達とは違う、距離と焦れったさを感じる。
手を伸ばせば届くのに、とても遠くに居る気がする。
あの巫女や、魔法使いや、メイドや悪魔や幽霊たちとも違う。
新鮮さと、不思議な気持ちが芽生える。
本当に、知らない感情だったから。
彼女との間隔も、酷く、離れているように思えてしまう。
こんなに近くに居るはずの彼女は、一体、誰なんだろうか、なんて。
普段なら思うはずのないことを、思ったり。
「ごめんね、お邪魔しちゃったみたいで」
「……?」
さらっと、話題が変わる。
唐突に放たれる謝罪の言葉に、戸惑いながらも、そっと首を振る。
観客を、邪魔だなんて思う舞台役者には、なりたくないから。
「ちょっと変わっちゃったでしょう?」
歌のことなのかな、と推測する。
主語の飛んだ内容からは、親近感と距離感を同時に得る。
本当に宙ぶらりんで、現実に座っていて彼女と話をしているようには、思えない。
でも、妙に心地がよかった。
「やっぱり、一番最初の歌が好きかな。私」
拍手の音と、反響の音が、再び鳴り響く。
彼女の笑顔と存在が、リピートされる。
あの瞬間、高いところを飛んでいた私のことを、──彼女はどういう風に見ていたんだろう。
「多分、空の歌、だよね?」
空の、うた?
どくんっ、と鼓動が高鳴る。
丁度、私もあの空のことを思い出していたから。
図星を刺されたみたいに、少しだけ息が苦しくなる。
「どうして?」
なんて乱暴な返事をしてしまったのも、仕方がない。
やっちゃった、と今更後悔しても遅いけど。
彼女は、少しだけ戸惑ったようで、しかしすぐに気を取り直したのか、話し始めた。
「えっと、ほら、『青』とか『遠い』とか言ってたし、──『自由』とか、言ってたでしょ?
青くて遠くて自由な場所は、空か海ぐらいかな。
それで、……見たところ、みすちー、鳥っぽいから、空かなぁ、って」
青、遠い、自由、空。
当たってる? とこちらに顔を向ける彼女の顔からは、期待と不安が読み取れた。
分かりやすい女の子だなぁ、と思う。
だけど、私だって自分の顔は見えないから、もしかしたら、このどきどきも彼女には見えているのかもしれない。
そう思うと、ぽっと、顔が燃えるように赤くなる。
本当に、私だって人のことは言えないのだ。
心の動揺を気付かれないように、一呼吸置く。
「正解よ」
やった、と彼女が小声で喜ぶ。
それを見る私も、なんだかほっとした気持ちになる。
それにしても。
自分の歌った歌の、それも、自分の作った歌の歌詞を忘れていたなんて、私はどれだけ無我夢中になっていたんだろうか。
そして、彼女は、私の忘れていたものさえも、覚えていたんだ。
ふと、空を見上げる。
太陽の、白く煌々たる光が、陰りを帯び始めたようだ。
過去と重なる空の色は、変わらずに広がっていて。
どこまでも、遠かった。
「ちょっと、飛んでみたから」
彼女を真似するようだけど、無意識に主語を飛ばしてしまう。
それでも彼女は分かってくれたようで、空だよね、と呟く。
そう、空だ。
灰色で濁っていて、それでも広かった空は──
「綺麗だった?」
どくんっ。
綺麗、なんだろうか。
あの空の高く、一人しかいない場所。
自分すら見失ってしまうかのような究極の高み。
そんなところが、綺麗なだけで説明できるんだろうか。
あの場所の風景は、美しかったけど……
それ以上の何かが、私の中に確かに芽生えていた。
それは、綺麗なだけなんだろうか。
遠くて、怖くて、そんな場所じゃなかったんだろうか。
「それとも……淋しかった?」
心に思い浮かべた感情は、独りぼっちの淋しさ。
はっと、彼女の目を見ると、それに応えるように、微笑み返してくれる。
そっと包むような、呟くような囁きと共に。
「ほら、歌ってる時、淋しそうだったから。みすちー。
──地面に立ってたのに、そこに居なかったみたいで、遠くを見てて……」
感情が、震える。
この気持ちは、何なんだろう。
私には分からないけど、……きっと、大切なものだ。
「だから、綺麗だと思ったの」
本当に大切なことは、自分にだって分からないものだから。
涼しい風が、肌を撫でる。
啄む小鳥の囁きと、響く妖精の笑い声と、鳴る木の轟きとが、止まる。
時間が、待ってくれたみたいだ。
そして、彼女が……静かに歌い始める。
私の歌った、空のうたを。
同じ歌詞を。
同じリズムで。
同じメロディーで。
普段から歌い慣れてないことの分かる、か細く囁くような声。
大きく揺れて、今にも脱線してしまいそうな、不安定な声。
──だけど、彼女は、歌っていた。
卵から孵ったばかりの、小鳥の見る空。
鳥かごに閉じ込められた、鳥の望む、空。
私の飛んでいた、その空を、見ていたのだ。
空は、静かに時を動かす。
朝空に輝く、赤、朝日に輝く、空。
夕空に煌めく、黄、夕陽の沈む、夜の始まり。
夜空に、光る、星と星の間の、藍。
そこは──とても、自由だ。
そして、自由でありすぎるから──そこは、孤独だった。
不意に、心が揺れ動く。
自分自身を見ているのか、彼女自身を見ているのか。
そのことを、一瞬だけ、迷ってしまったからだ。
彼女の歌う声が、答えだった。
確かにあの場所はとても綺麗で、可能性が輝いて見えたけれど。
──独りでは、淋しかった。
空が、そっと、閉じる。
「本当に、素敵な歌だね」
私が返すことのできる言葉は、一つしかない。
「ありがとう」
彼女の笑顔は眩しすぎて……でも、それでも見つめていられた。
純粋さに目を瞑っている方が、失礼に思えたから。
気がつくと、時間が、元通りに動き出していた。
さっきのは、単なる気のせいだったのか。
それとも、誰かさんの、ちょっとばかしの心遣いだったのだろうか。
彼女は両手を広げて、くるりと回る。
短いスカートの飾りが、さらりと踊る。
笑顔で一回転して、再び見えた彼女の顔は変わらずに笑顔で。
……とても暖かくて、脆い。
「本当に、すっごく心に響くんだから! ちょっと、驚いちゃったくらい」
「まぁ、それは……」
私の歌う歌は、能力故、そういうものなのは当然なのだけど。
そんなことを言うのも水を刺す行為でしかない。
「こんなに驚いたのも、何時ぶり、かな……」
遅れる、語尾。
その不自然な切れ方に、気がつく。
──え?
彼女に、異変が起きる。
一筋の水滴が、彼女の頬を伝って、落ちたのだ。
──泣いてる?
目の前の少女は、泣いている。
笑顔ながら、瞳から、透明な悲しみを零す。
それでも、彼女は微笑みを崩さないでいて。
だから、この涙は本当なんだろうと、理解した。
「あ、うん、ごめん。……なんだか、勝手に、」
涙は、勝手に零れるものなんだろうか。
何かしら思い出すことがあって、何かしら、思うことがあって、零れるものなんじゃないか。
脳内を駆け巡る、思いと、焦りと。
突然の彼女の落涙に、しかし、私は何も出来ない。
どうして、泣いているのか。
私には、分からないから。
彼女が、とても遠くに居た気がしたから。
「ねぇ」
彼女が言った気がした。
「────」
確かに、彼女の言葉が、聞こえた。
その言葉の意味も、確かに理解出来た。
彼女が、手を伸ばして、私を捕まえようとする。
少し、怖くて、でも切実な、接近。
逃げずに、届く手を、──触れる手を、待つ。
……けれど、現実は、嘘だったみたいで。
手は、届かなかった。
聞こえたはずの、その言葉は、彼女の躊躇いの中に、消えてしまった。
「お邪魔しちゃって、ごめんね」
涙を拭おうともせず、泣いていないように振る舞う彼女は、微笑んだ。
その微笑みが、あまりにも痛々しすぎて、私には直視できない。
きっと、届かなかったんだ。
「……えっと、その、涙、大丈夫?」
取り繕うだけの言葉、そんなことしか言えない。
当然だけど、当然じゃない。
不思議だけど、確かに、彼女が言いたかった言葉は聞こえたのだから。
それに、答えればよかったのだ。
「うん、いつものことだから」
それが嘘だなんて、わかりきったことだった。
いつも涙を流しているような子が、あんな綺麗な笑顔を作ることなんて、出来ない。
彼女は、悲しかったんだ。
だけど、不意の涙を躊躇わなかったから、私は一歩遅れた。
だから、悔しいけど、今はどうすることも出来ない。
「じゃ、そろそろ、家に戻らないと」
彼女がそっと、舞台から降りようとする。
今までのことを無かったことにして、忘れようとする。
だけど、背を向ける瞬間、見えた彼女の顔は、──ごめんね、と謝っているようにも見えた。
……何で、謝るの。
ぐちゃぐちゃだった感情が、はっきりと、形を成す。
貴女は、──貴女はっ、何も悪くないのに!
「待って!」
強い声で、引きとめる。
声だけの強制。
咄嗟に出た、気休めに近い、叫び。
でも、彼女は足を止めてくれた。
「……」
彼女に、問わなければならない。
私の知りたい、彼女の大切なことを。
私が、知らなければならないこと。
彼女の、大切なこと。
機能しきらない脳を必死に働かせて、それを思い出す。
──私は、まだ彼女の、一番大切なことを知らないじゃないか。
「まだ名前、聞いてなかったよね。……教えてくれる?」
名前。
それは、彼女そのものの、存在の証。
今まで名前も知らずに、彼女と話をしていたのだ。
曖昧な、凍るような感情が身体の動きを止める。
それでも、彼女は振り向いてくれた。
嘘の、笑顔で。
ごめんごめん、と呟いて。
「こいし。古明地こいしって言うの。……じゃ、またね。みすちー」
そして、彼女は、姿を消した。
まるで初めから誰もいなかったかのように。
ふっと、隠れるように、気がつけばこいしは居なかった。
残るのは、残響と声。
世界が、何時も通りに動き出す。
それは、酷く私を傷つけた。
「……こいし」
繰り返す。
去ってしまった少女の名前。
それを忘れないように、繰り返す。
こいし。
古明地こいし。
ふと、引っかかりを得る。
古明地、という響きに、確かに聞きおぼえがあったから。
なんとかして、思い出そうとすると、一つの過去を想起することができた。
「……確か、……地底の……」
確かに、私は古明地という姓を、聞いたことがあった。
それはごく最近、巫女達が宴会の時に話題にした、地獄の妖怪の姓。
酔っぱらった人間共が、無責任に言い散らかしていた、それだ。
地下深く、旧地獄には地霊殿という場所があり、騒がしい地底を治めている。
──その主は、人の心を読む事が出来るという。
そして、彼女の妹は……
「……あー」
胸の中、渦巻く感情を、言葉として吐き出す。
日常の、些細な乱入者。
非日常の、瞬間。
歌。
空を落ちる感覚と、彼女の笑顔と──泣き顔がシンクロする。
「……」
どことなくやり切れない感情が、心の中を支配する。
ちょっとだけ、たまたま通りかかって、私の歌に拍手してくれた、女の子。
偶然ではあるけど、私の歌を──歌ってくれた、少女。
──届かなかった、彼女。
多分、私は、こいしのことを、嫌いじゃないと思っていたから。
きちんと、返事が出来なかったことが、ちょっとだけ、悔しいのかもしれない。
★
「……よし」
気がつけば、日が暮れていた。
どれだけ歌っていたのか、どれだけ彼女と話をしていたのか。
そして、どれだけ彼女を行かせてしまってから、ぽかんと立ち続けていたのか。
仕方ないな、と独りごちて、舞台から去る。
妖怪の時間は──私の時間は、これからだから。
引き摺ってはいけない、と気を引き締め直す。
その重みを、確かに心の中に刻みつけて。
星が、溶けるように世界を照らしていた。
宇宙の黒と蒼と、月の黄と。
夜の空、影が、森から飛び去る気配がした。
★
祝福された、言霊。
彼女は、それを忘れない。
All the time.
★
どくんっ。
心を閉ざした時、覚悟は決めていたはずだけど。
結局は、目の前から逃げるために、私は“私”を失った。
きっと、独りぼっちになって、悲しくなるんだろう。
そう決めつけて、諦めた気でいて、でも、実際は違っていた。
何も、聞こえなかった。
たとえ、私にとって嬉しいだろうことがあったとしても。
腹が立つだろうことが、あったとしても。
悲しいに違いないことが、あったとしても。
楽しいと、思える筈のことが、あったとしても。
私には、軋みしか伝わらない。
身体を這うように走るコードが、千切れそうになる痛みが、あるだけ。
私はずっと、変わらないままでいて。
でも、周りは変わっていくしかなかったから。
私は独りぼっちで、残された。
残されて──私は、暗い海の底に居た。
私が分かるのは、情報だけ。
気持ちは分からないから。
気持ちは伝わらないから。
気持ちは──伝えられないから。
とっても、寂しくて、でも、それが軋みだけになって。
自分で、自分を探していたんだ。
……殺すために。
私の意識は、届かない。
堅く閉じられた、瞼の奥。
深く鍵かけた、心の深層で。
意識を偽って、無意識に委ねて、私は、ずっと独りぼっちでいた。
紅白の巫女の面倒そうな声も。
黒白の魔法使いの愉快そうな声も。
緑白の巫女の爽快そうな声も。
お姉ちゃんの笑い声も。
お空のはしゃぐ声も。
お燐の唆す声も。
ペットたちの、いろんな声も。
呼ぶ声も。
尋ねる声も。
問う声も。
囁く声も。
訴える声も。
嘆く声も。
伝える声も。
誰の声も、音でしかなかった。
音でしか、なかったけど──
どくんっ。
今更、“心”を望むのは、独り善がりなんでしょうか……?
★
眼を、開く。
気がつけば、闇の中に、私は立っていた。
頬に冷気を浴び、身体は寒さで凍えているけれど、きちんと、立てている。
私には、深い夜がどこまでも広がっていることしか、分からなかった。
その中で、私が何処に居るかなんて、本当に些細なことでしかない。
ここは、何処?
それを問うのは無意味だと、分かり切っていた。
何処に居たって、何の価値もないのだと、分かっていた。
今は、何時?
それを問うのは馬鹿馬鹿しいと、信じ切っていた。
何時であろうと、それは起きているか寝ているかの違いでしかないから、どうでもよかった。
私は、誰?
当然のことを問う。
私は、古明地こいし。
だけど。
私を、この場所に導いたのは、誰なんだろう?
何故、ここに来たのか。
それは、きっと──
酷くコードが軋むから、考えるのを止める。
とても寒い。
手先の感覚も、か細い。
雪が、空を白くさせ、地面を染める。
冬の真っ只中に、もっとも相応しいに違いない、寒さと雪だった。
人の気配も、妖怪の気配も、妖精の気配もない。
草木でさえも、眠りに落ちたようで物音一つさせない。
耳に届くのは、雪のしんしんと積もる、幻聴だけだった。
どくんっ。
円に枠とられた、藍の夜空。
斑点のように舞い、生物のように散る、白の結晶。
まるで、上空に吸い込まれるような、嫌なイメージが襲ってくる。
冷たい。
独りでいるのは、悲しい。
コードの軋みと心の歪みが、不協和音を奏でる。
悲しいなら……悲しくなくすればいい。
けれど、そんなことは、私には出来ない。
自分で捨てたものだから。
自分で拾うことは出来ないから。
だから、……誰か、拾ってくれるのを、待っている。
冬と雪。
──こんなことを思ってしまうのは、我儘だろうか。
この綺麗で残酷で、遠い夜の下で。
──独りぼっちでいることは、嫌だと。
自分しかいない場所で、自分以外に誰もいない場所で。
──誰かと一緒に、立っていたいと。
どくんっ。
夜が、確かに動いた時。
私はこの場所に、まだ立ったままでいて。
頬を伝う暖かさを、微かに感じていて。
そして、聞く。
──彼女の、空を。
「お久しぶりね、こいし」
私を呼ぶ声が、私を、覚醒させた。
聴覚から、体中の全てがゆっくりと動き出す。
その声の主を、私は覚えていた。
少しだけ、役者を気取ったような声でいて。
凛として立つような、強気な声でいて。
それでいて、森さえも包み込むような、暖かい優しさに満ちた、声。
その声の主を、私は覚えていた。
「みす、ちー?」
はっ、と音がする。
白く暖かい吐息が、白く冷たい雪に交じって、消える。
私の吐いた息か、彼女の吐いた息か。
少なくとも、私はこんなに優しくないから、それは彼女の暖かさだろう。
「忘れられてないみたいで良かった。……ちょっと、隣、いい?」
問いかけるような、仰々しくて大げさな言葉。
三文芝居のような、ワザとらしい言葉。
でも、彼女は微笑んでいた。
私を、舞台へと誘う声。
心の中を巡る、いろいろな感情。
軋み。
私は、それを止める方法を、上手く知らないみたいだ。
何時も通り、抑え込もうとしても溢れ出てしまうようで。
随分と、自制が下手になったみたいだ、と。
そう言い訳して、問いかける。
「どう、して?」
その問いに、彼女は頬を掻いて苦笑いした。
「……いや、今日は、何でか知らないけど、馬鹿たちのバカ騒ぎに付き合わされててね。ちょっと疲れてたの。
こんなに綺麗な雪だって言うのに、うるさい中、頭の痛い中で過ごすのって、面白くないでしょう?
だから、ちょっと逃げてきて、どうしようかと思ってたら──こいしの姿が、見えた気がしたの」
追って来ちゃった、と彼女は微笑む。
濃い朱の羽毛で覆われた、華奢な身体と幼い手足。
瞳は、大きく暖かく、しっかりと私を見つめていてくれる。
私と同じくらいの、身長の、彼女。
ミスティア・ローレライ。
「もしかして、迷惑?」
首を振る。
わかっているくせに。
本当に自分の存在が邪魔だと思うなら、それを口に出して問いかける筈が無いのだ。
彼女だから、余計に有り得ない。
──もしかしたら、邪魔になりたくないのかな、と思っているのかもしれないけれど。
それは、杞憂だから、いいんだ。
嬉しそうに、よく笑う。
楽しい芝居を鑑賞しているような、愉快な表情と一緒に。
ミスティア・ローレライは、メロディーを口ずさむ。
軽快にアレンジされたそれは、私の知っているものとは違うけれど。
「空の、歌」
私の口から、零れた言葉。
それをミスティアは、柔らかい表情で受け止めた。
「……」
彼女は、えへっ、と照れを隠すように笑う。
「なんかね、この歌、気に入っちゃったみたいで。
普段、特定の歌を──よりにもよって、自分の歌を好きになるなんて、そう多いことじゃないから、不思議でね」
ただ独りで、何も考えず、何も考えられずに歩いていた、あの時。
耳に聞こえてきた、シンプルな、歌。
幾つかの単純なフレーズを重ねたもので。
歌詞も即席で仕立てたような、直接的で具体的なもので。
展開も調子も普通の一般的な遊び歌と変わらないような、そんな歌。
でも、彼女の歌った、そらのうたは。
──とても、私に似ていたから。
「何度も、何度も、歌ってみた。
でも、最初の『そらのうた』にはならなかったみたい。細かいことは分からないけどね、なにか、違うのよ。
歌詞も同じだし、音も同じだし、リズムも変わったわけじゃない。何も加えてないのだから、全く変わらない筈なのに」
だけど。
「その代わり──」
息を詰める。
気がつけば、彼女は私のすぐ傍に居た。
横にいていい、って聞いていたから、その距離は当然ではあるけど。
改めて、みすちーとの間隔に、気がつく。
彼女の、呼吸の音も。
彼女の、胸の鼓動も。
彼女の、身体を巡る熱も。
全て──感じられる気がした。
感じている、気がしたから。
「──やめた。なんだか、恥ずかしいや」
安心する、音。
開いていた眼を、自分で開ける。
手を伸ばせば届く位置、微笑んでいる彼女の顔は、とても赤かった。
彼女が、みすちーが顔を赤くしたのは、きっと寒さだけが原因じゃないだろう。
そう思うと、なんだか可愛らしく思えて、自然と顔が綻ぶのだ。
どくんっ。
「こいし」
手足の感覚も薄い、夜。
一瞬で過ぎ去る、雪との出会いと別れを繰り返して、時間は勝手に過ぎていく。
幾多も繰り返される一瞬の中、どの瞬間かは分からないけれど、ふと、ミスティアが、私を呼び掛けた。
「空、綺麗ね」
「……うん」
遠い遠い、空。
月がぽっかりと穴を開けたように、浮いている。
飲み込まれるような、黒の空の奥には、星が輝いていた。
億千の、光が見える。
限りの無い、闇が見える。
その先には、光さえも届かない、星達が無数にあるはずだ。
……その輝きを知るためには、こちらから、見に行かなくちゃいけない。
「でも、怖い」
本心が零れ出る。
それは、私が言いたかった言葉。
私が嫌っていた……自分の弱さだ。
「だったら、一緒に、飛ばない?」
「──」
だから。
彼女の言葉は、苦しいほどに、暖かった。
一緒に、空を飛ぶ。
どくんっ。
誤魔化すように、弁明するように、ミスティアは笑う。
彼女は、ちょっと恥ずかしいことだけど、と前置きして、喋り始める。
「今日の夜の空は、……私も怖かったの。
本来なら暗闇の空なんて、私のホームだっていうのに、ね。」
一息。
告げられる言葉は、力。
「白い雪と、白い星が光ってて、果てが無くて、……とっても綺麗だけど、ちょっと、不安でね。
──誰か、一緒になって、手を繋いでくれる人とか、いないかなぁ、って思ってたの」
ね、こいし。
「だから、一緒に、飛んでくれる?」
彼女は。
ミスティア・ローレライは、ワザとらしく、笑った。
頬の涙が止まらないけど、構わない。
拭う意味なんて、無かったから。
きっと、彼女は笑い続けてくれるだろうから、いいのだ。
彼女の手が、そっと、私の手に近づいてくる。
少し、震えながら、真っ直ぐに、曲がらずに。
私に──手を差し伸べて、くれる。
……あの時、私は、彼女にこう言いたかった。
『友達に、なってくれる?』
簡単なことだ。
人と人とが出会って、仲良くなりたいと思ったら、こう言えば、いいのだ。
でも、それだけを言うのにも、“私”は耐えられなかった。
自傷に負けて、自分自身の縛りに抗いきれずに、手を降ろしてしまったんだ。
でも、彼女は、こうして、私に手を差し伸べてくれる。
あの時。
もしかしたら──彼女には、分かっていたのかもしれない。
私の、伝えたかった、思いを。
初対面で、突拍子もなく現れた私のことを、なんて思うのは流石に傲慢なんだろうけど……。
ミスティア・ローレライの左手が、そっと、私に触れようとする。
私の手に、触れる瞬間。
それは、本当に一瞬だったけど。
私にはとてつもないほど、長い時間だった。
避けずに、手を、しっかり握る。
こちら側から。
私の知らなかった、他人の──いや、友達の手の暖かさ。
その暖かさを、もう逃がさないように。
こくり、と頷く。
涙が、止まらない。
言いたいこと、あれもこれも、いっぱいあるけれど。
ごめんとか、許してとか、謝りたいこともあったけれど……。
──彼女は笑ったから。
私も、笑い返すことが出来た。
空を見上げる。
月の、白く妖やかな光が、世界を静かに包み込む。
降り注ぐ雪の傍ら、底の無い蒼と星の光る夜は変わらずに在り。
どこまでも、透き通っていた。
──二人の歌声と、共に。
またあなたの作品を読んでみたい。
すごくいい。
本当は色々言いたい所もありますが、機会があればで失礼。
珍しい組み合わせだけど特に違和感は無いかな。このゆったりとした読後感が心地良いわ。
こんな綺麗な物語を見逃していたなんて!