「お嬢様」
「ん?」
夕食後、咲夜が私に話し掛けてきた。
「今日は、バレンタインデーですわね」
「え、ああ。そういや、そうだったわね」
言われて思い出した。
そうだ。
確かに今日はバレンタインデーだった。
「…………」
「…………」
暫しの沈黙。
……ん?
すると再び、咲夜が話し掛けてきた。
「……お嬢様」
「うん」
「……今日は……バレンタインデー……ですわね……」
「ああ、うん。そうね」
何故か、先ほどと同じ言葉を繰り返す咲夜。
「…………」
「…………」
そしてまた暫しの沈黙。
……んん?
すると三度、咲夜が話し掛けてきた。
「…………お嬢、様」
しかしなんだか、声のトーンがさっきまでと違う。
不審に思った私が、背後に立つ咲夜の方を振り返ると。
「ぎょ……ぎょうは、ば、ばれんだいん……」
「何で泣いてんの!?」
思わず脊髄反射でツッコんだ。
まあ無理もないだろう。
完璧で瀟洒なはずの我が従者が、溢れる涙を拭おうともせず、えうえうと泣いていたのだから。
「ず、ずいまぜん……」
「いや謝られても全然意味が分からないんだけど……私、何かした?」
突然の事態に狼狽する私。
すると咲夜は、嗚咽と共に言葉を漏らす。
「だ、だから、ぎょうは……」
「……え?」
「ばれんだいん……」
「い、いやだからそれは分かっ……」
言いかけて、ふと脳裏をよぎったひとつの可能性。
……ひょっとして、咲夜は。
いやいや、でもさ。
うん、違うよね?
そう思いつつも、とりあえず確認してみなければ始まらない。
私はおほんと咳払いをしつつ、咲夜に尋ねてみることにした。
「……ねぇ、咲夜」
「ばい」
「……ひょっとして、私から、チョコ……欲しかったの?」
すると咲夜は、コクコクと大きく首肯した。
えっ、マジでなの。
「ぢょうマジでず」
「なんだ、そうならそうと……ああもう、ほら、とりあえず鼻かみなさい。はい、ティッシュ」
「ずいまぜん……ちーん」
「ったく、もう……」
つまり咲夜は、私からチョコを貰えると思っていたのに、一向にその気配が無いため、ついつい泣いてしまった……ということらしい。
どんだけガラスハートなの……。
というか今日一日、妙にそわそわしていたのはそれが理由だったのか。
「でもさあ、咲夜」
「……はい」
鼻をぐすぐすとすすっている咲夜に、私は溜め息混じりに言う。
「バレンタインって、恋人同士、あるいはそれに近い男女間で、女が男にチョコをあげるっていうイベントでしょ? 私達は別にそういう関係じゃないし、そもそも女同士じゃないの」
「そんなことは、瑣末な問題に過ぎません」
ようやく、いつものような毅然とした口調になる咲夜。
もっとも、まだ鼻が赤いためになんとも可愛らしくなってしまってはいるが。
しかし咲夜は、いつになく真剣な表情で続ける。
「今やバレンタインは、恋人同士のイベントに留まりません。女友達同士の『友チョコ』、あるいは男性が女性に渡す『逆チョコ』なんてのもあるくらいです」
「へぇ、そうなんだ」
「はい。ですから、主人が従者にチョコを渡す『主従チョコ』なるものがあってもいいと思うのです。そしてこの場合はあくまで『主従』に眼目が置かれているわけですから、両者の性別は関係ありません。そういうわけで、咲夜はお嬢様のチョコが欲しいです」
折角途中まではそれっぽい話だったのに、最後に己の欲望をぶっちゃけてしまったからなんか色々と台無しだ。
「……だって欲しいんですもの。お嬢様の、ちょ、チョコ……」
言いながら、また泣きそうになる咲夜。
私は慌てて、咲夜の頭を撫でてやる。
「ああもう、泣くなよ咲夜。よしよし。チョコくらい、欲しけりゃいくらでもあげるからさ」
「ほ、ほんとうですか」
「ああ。だからもう、泣くのはやめなさい。ね?」
「はい……ありがどうございまず」
ぐすんと鼻をすする咲夜は、普段の瀟洒さなんて微塵も無かった。
……なんでこいつは、私と二人のときだけ、妙に子供っぽくなるんだろう。
他に誰かがいるときは、それこそ非の打ち所が無いくらいに完璧な従者として振舞えているのに。
そんなことを徒然と思いながら、私の中でひとつの疑問が浮かび上がった。
「……ところで、咲夜」
「はい」
「……咲夜は、私にくれないの? チョコ」
「…………」
私の言葉に、きょとんとした表情を浮かべる咲夜。
「いや、だってほら、お前の言う、『主従チョコ』なら、別に従者が主人にあげたって」
「……申し訳ありません。お嬢様」
「えっ」
「……この一週間ほど、『お嬢様は一体どんなチョコを私に下さるのだろう?』ということばかり考えて、ずっと上の空で過ごしておりましたから……自分がお嬢様にチョコを差し上げるということを、完全に失念しておりました」
「……ああ……そう……」
いや、まあ別にいいんだけどね。うん。
私はそもそも、バレンタインデー自体忘れていたわけだし。
……ていうかお前、ずっと上の空で仕事してたのか。
「え、いや、まあ、その……はい、申し訳ありません」
「ったく……」
道理で時々、紅茶に変なものが混ざっていたわけだ。
昆布だしとかフカヒレとか。
まあどうせ咲夜のいつもの奇癖だと思って、何も言わずに飲み干していた私も私だが。
……それにしても、自分が貰うことばかり考えていて、相手にあげることは完全に忘れていたとは……。
そうやって微妙に抜けているあたり、相変わらず咲夜らしいというかなんというか。
そんなことを考えつつ、ふと顔を上げると、咲夜がまた泣きそうな表情になっていた。
押し黙っている私を見て、その沈黙を非難とでも受け取ったのか。
……やれやれ。
本当に世話の焼ける従者だ。
「……咲夜」
「は、はい」
「チョコを用意していなかったのはお互い様……ならばもう、そのことについてとやかく言うのはやめにしないか」
「……はい」
私の言葉に、しゅんとうな垂れる咲夜。
どうやら今の私の言葉を、『私からのチョコはもう諦めろ』という意味にでも解釈したらしい。
しかし生憎、私はそこまで非情な主人ではないのだ。
それどころか、自分でも些か甘すぎると思うくらいだ。
だから私は、ついついこんな提案をしてしまうのだ。
「……だから、今から一緒に買いに行こう」
「えっ」
咲夜が驚いたように顔を上げる。
「本当ならちゃんと手作りするのがいいんだろうけど、この時間からじゃあ、日をまたいでしまうだろう。だから今年は出来合いのもので……だめかな?」
私がそう言うと、咲夜は大きく首を横に振った。
さっきから泣きべそばかりかいていた咲夜が、ようやく笑顔になった。
「よし、じゃあ早速行こう。今から急げば、閉店ぎりぎり間に合うだろう」
「はい!」
元気よく返事をする咲夜。
ほんとこいつ、私といるときだけは感情がすぐ表に出るよな。
まあそこが可愛いんだけどさ。
かくして私と咲夜は、日もほとんど沈みかけた黄昏時に、人里に向かって出発した。
日傘を差さなくて済むのは楽でいい。
―――そして舞い下りるは人間の里。
この時間帯は人間だけでなく、活動を始めた妖怪達もそれなりに闊歩しているので、私としてもなんとなく動きやすい。
しかしそうは言っても、あまり悠長に散策をしている余裕は無い。
私は咲夜を連れ、足早に目的地を探す。
「よかった。まだ開いてたわ」
そうして辿り着いたのは、比較的最近できた洋菓子店。
ドアを開くと、バレンタインフェアなる横断幕とともに、店内のかなりのスペースを色とりどりのチョコが占拠していた。
……らしかった。
流石に今はもう、閉店三十分ほど前の時間である。
チョコはほとんど売り切れており、店の陳列棚は閑散としていた。
しかしそれでもまだ、いくつかのチョコは残っている。
このチョコ達だって、明日以降、在庫処分的な扱いで格安で売られるよりは、今日のうちにイベントの主役として買われた方が嬉しいというものだろう。
「んじゃあ、この中から選ぶとしよう……って、あれ?」
ふと振り向くと、隣にいたはずの咲夜がなぜかいなかった。
時間でも止めて移動したのだろうか。
「お嬢様」
「わっ」
と思ったら、今度はいきなり眼前に出現した。
「……咲夜。不用意に能力を使うのはやめなさい。びっくりするじゃないの」
「すみませんお嬢様。チョコを品定めするのに、閉店までの時間じゃ足りないと思いましたので」
「…………」
一体どんだけ気合入れてんだ。
てか今どれだけ時間止めてたんだ?
「ほんの僅かな間ですわ」
「嘘つけ」
「えへ」
ちろりと舌を出す咲夜。
可愛いから許す。
「……じゃあ、お目当てのチョコは見つかったのかしら?」
「はい。咲夜はこれを所望します」
そう言って咲夜が差し出したのは、バカでかいハート型のチョコレートだった。
……って、これ優に四人分くらいはありそうなんすけど。
「……これが欲しいの? 咲夜……」
「はい」
にこにこと、満面の笑顔で頷く咲夜。
いやまあ、別にいいんだけどさあ……。
「……普通こういうとき、ちょっとは遠慮するもんじゃないの? ましてやあんた、従者でしょ……」
「すみません、お嬢様。咲夜は欲望に忠実なのです」
「ああ、そう……」
そうはっきり言われたらぐうの音だって出やしない。
ていうか一人で食う気か? これ……。
「はい。お嬢様から頂くチョコですもの。独り占めですわ」
「ああ、そう……」
謎の自信に満ち溢れている咲夜の笑顔を、半ば呆れつつ眺める私。
咲夜の欲望のベクトルがどの方向へ向かっていくのか、心配でならない。
私はやれやれと肩をすくめながら、自分の分のチョコを見繕うことにした。
「……じゃあ、私はこれをお願いしようかしら」
そして私が手に取ったのは、四種類のトリュフの詰め合わせ。
咲夜と違って食の細い私には、これくらいで十分だ。
「!」
するとその瞬間、何やら咲夜の目が光った。
今度はなんだ。
「……流石はお嬢様。お目が高いですわ。とても美味しそう」
「そう?」
そう言われると悪い気はしない。
しかし、咲夜の視線が妙にぎらついているのが気に掛かる。
「……ええ。本当、美味しそうですわ。特にこの、抹茶のトリュフとか。……抹茶のトリュフとか。」
「え? ああ……うん。そうね」
何で二回言ったのだろう。
「…………」
「…………ん?」
「…………」
じぃっと、何かを期待するような眼差しで、私を見つめている咲夜。
なんなの一体……。
「…………さく、や?」
「…………」
……。
……あー。
これは、つまり……そういうことか。
そういうことなのか。
ようやく、咲夜の視線の意味を理解した私は、またもや溜め息を零す羽目になった。
「……分かったよ。抹茶のは咲夜にやるよ」
「! ほんとですか」
「ああ」
「やった」
グッとガッツポーズをする咲夜。
頼むから、外でそういう行動は慎んでほしいな……。
ほら、店主のおじさんがなんか生暖かい目で見てるじゃないの。
でも当の咲夜は、そんなものは微塵も気に留めていない様子。
それはそれは幸せそうな表情で、「では、買ってきますね♪」と言って、私からトリュフの箱を奪っていった。
……やれやれ。
それにしてもこいつは、なんで私に対してだけ、こんなに遠慮が無いんだろう?
普段は、パチェとのお茶会なんかに誘っても、「いえ、私は遠慮させて頂きますわ」とか言って馬鹿丁寧に断るくせに。
もしかして、躾け方を間違えたのかしら……。
そんなことを漠然と思いながら、私も咲夜に続き、咲夜所望のハート型チョコレートを持って店台へと向かった。
そして一人ずつ会計を終えた私達は、洋菓子店を後にした。
辺りはもう真っ暗だ。
「では、お嬢様」
「ああ、うん」
店から少し歩いた路上で、私達は真正面に向かい合う。
なんか道行く人の視線が気になるが、気にしたら負けだ。
チョコを両手で持ち、私に向かって差し出しながら、咲夜は満面の笑顔で叫んだ。
「ハッピーバレンタイン!」
「は、はっぴー……」
うお、なんか面と向かってこれ言うの、めっちゃ恥ずかしい。
私は挨拶もそこそこに、羞恥心を押し殺しながら、買ったばかりのハート型チョコレートを咲夜に渡す。
そして代わりに、差し出されたトリュフの詰め合わせを咲夜から受け取る。
「ふふふ、ありがとうございます。お嬢様」
「ああ。こちらこそ、どうもありがとう。咲夜」
咲夜はサンタさんからプレゼントを貰った子供のように、ラッピングされたチョコを両手で掲げ上げた。
「ふふ、嬉しいなあ。お嬢様からのバレンタインチョコ。ふふ、ふふふっ」
そう言いながら、咲夜はくるくると弾むように回る。
周囲の人が何事かと遠巻きに見ているが、本人はそんなこと露知らずといった按配だ。
「……やれやれ」
こんな姿を天狗に見られて新聞のネタにされたらと思うと、頭が痛くなってくる。
でもそんなことを思いつつも、こうしてはしゃぐ従者を嗜めることができないあたり、私はやっぱり甘いんだろうな。
「……それにしても」
私は飛び回る咲夜を見て、改めて思う。
私と二人でいるときはともかく、他に誰かがいるような状況では、決して素の自分を見せないのが咲夜のはずだ。
なのに今のこいつときたら、人目も憚らず、子供みたいにはしゃぎ回っている。
私からチョコを貰えたことが、そんなにも嬉しかったのか。
普段の自分の振る舞いなど、何処かに置き忘れてしまうほどに。
そう思うと、なんだか笑いが込み上げてくる。
「……本当、まだまだ子供なんだから」
「? 何か言いました? お嬢様」
きょとんとした表情で、私を振り返る咲夜。
どんなにはしゃいでいても、私の声だけは聞き漏らさないのね、お前は。
「いーや、なんでもないよ」
「そうですか。ふふっ」
咲夜ははにかむように笑うと、チョコを掲げ上げながら、またくるくると回り始めた。
まったく、もう。
そんなにはしゃいで、転んでも知らないわよ。
「……あ」
そのときふと、私は頭上に降りかかった柔らかい感触に気づいた。
「雪……か」
空を見上げると、白の結晶がはらはらと舞っていた。
するとすぐに、咲夜の歓声が耳に響いた。
「お嬢様! 雪です! ホワイトバレンタインですわ!」
「ああ、分かってるよ」
「あははっ」
咲夜は楽しそうに嬉しそうに、舞い散る雪の欠片を追いかけている。
踊るように舞う咲夜とそれは、不思議なほどにマッチしていた。
私はそんな咲夜を見ながら、一人ひそかに呟いた。
「……ハッピーバレンタイン。……咲夜」
舞い散る雪の中、咲夜の笑い声だけが、いつまでもその場に響いていた。
了
「ん?」
夕食後、咲夜が私に話し掛けてきた。
「今日は、バレンタインデーですわね」
「え、ああ。そういや、そうだったわね」
言われて思い出した。
そうだ。
確かに今日はバレンタインデーだった。
「…………」
「…………」
暫しの沈黙。
……ん?
すると再び、咲夜が話し掛けてきた。
「……お嬢様」
「うん」
「……今日は……バレンタインデー……ですわね……」
「ああ、うん。そうね」
何故か、先ほどと同じ言葉を繰り返す咲夜。
「…………」
「…………」
そしてまた暫しの沈黙。
……んん?
すると三度、咲夜が話し掛けてきた。
「…………お嬢、様」
しかしなんだか、声のトーンがさっきまでと違う。
不審に思った私が、背後に立つ咲夜の方を振り返ると。
「ぎょ……ぎょうは、ば、ばれんだいん……」
「何で泣いてんの!?」
思わず脊髄反射でツッコんだ。
まあ無理もないだろう。
完璧で瀟洒なはずの我が従者が、溢れる涙を拭おうともせず、えうえうと泣いていたのだから。
「ず、ずいまぜん……」
「いや謝られても全然意味が分からないんだけど……私、何かした?」
突然の事態に狼狽する私。
すると咲夜は、嗚咽と共に言葉を漏らす。
「だ、だから、ぎょうは……」
「……え?」
「ばれんだいん……」
「い、いやだからそれは分かっ……」
言いかけて、ふと脳裏をよぎったひとつの可能性。
……ひょっとして、咲夜は。
いやいや、でもさ。
うん、違うよね?
そう思いつつも、とりあえず確認してみなければ始まらない。
私はおほんと咳払いをしつつ、咲夜に尋ねてみることにした。
「……ねぇ、咲夜」
「ばい」
「……ひょっとして、私から、チョコ……欲しかったの?」
すると咲夜は、コクコクと大きく首肯した。
えっ、マジでなの。
「ぢょうマジでず」
「なんだ、そうならそうと……ああもう、ほら、とりあえず鼻かみなさい。はい、ティッシュ」
「ずいまぜん……ちーん」
「ったく、もう……」
つまり咲夜は、私からチョコを貰えると思っていたのに、一向にその気配が無いため、ついつい泣いてしまった……ということらしい。
どんだけガラスハートなの……。
というか今日一日、妙にそわそわしていたのはそれが理由だったのか。
「でもさあ、咲夜」
「……はい」
鼻をぐすぐすとすすっている咲夜に、私は溜め息混じりに言う。
「バレンタインって、恋人同士、あるいはそれに近い男女間で、女が男にチョコをあげるっていうイベントでしょ? 私達は別にそういう関係じゃないし、そもそも女同士じゃないの」
「そんなことは、瑣末な問題に過ぎません」
ようやく、いつものような毅然とした口調になる咲夜。
もっとも、まだ鼻が赤いためになんとも可愛らしくなってしまってはいるが。
しかし咲夜は、いつになく真剣な表情で続ける。
「今やバレンタインは、恋人同士のイベントに留まりません。女友達同士の『友チョコ』、あるいは男性が女性に渡す『逆チョコ』なんてのもあるくらいです」
「へぇ、そうなんだ」
「はい。ですから、主人が従者にチョコを渡す『主従チョコ』なるものがあってもいいと思うのです。そしてこの場合はあくまで『主従』に眼目が置かれているわけですから、両者の性別は関係ありません。そういうわけで、咲夜はお嬢様のチョコが欲しいです」
折角途中まではそれっぽい話だったのに、最後に己の欲望をぶっちゃけてしまったからなんか色々と台無しだ。
「……だって欲しいんですもの。お嬢様の、ちょ、チョコ……」
言いながら、また泣きそうになる咲夜。
私は慌てて、咲夜の頭を撫でてやる。
「ああもう、泣くなよ咲夜。よしよし。チョコくらい、欲しけりゃいくらでもあげるからさ」
「ほ、ほんとうですか」
「ああ。だからもう、泣くのはやめなさい。ね?」
「はい……ありがどうございまず」
ぐすんと鼻をすする咲夜は、普段の瀟洒さなんて微塵も無かった。
……なんでこいつは、私と二人のときだけ、妙に子供っぽくなるんだろう。
他に誰かがいるときは、それこそ非の打ち所が無いくらいに完璧な従者として振舞えているのに。
そんなことを徒然と思いながら、私の中でひとつの疑問が浮かび上がった。
「……ところで、咲夜」
「はい」
「……咲夜は、私にくれないの? チョコ」
「…………」
私の言葉に、きょとんとした表情を浮かべる咲夜。
「いや、だってほら、お前の言う、『主従チョコ』なら、別に従者が主人にあげたって」
「……申し訳ありません。お嬢様」
「えっ」
「……この一週間ほど、『お嬢様は一体どんなチョコを私に下さるのだろう?』ということばかり考えて、ずっと上の空で過ごしておりましたから……自分がお嬢様にチョコを差し上げるということを、完全に失念しておりました」
「……ああ……そう……」
いや、まあ別にいいんだけどね。うん。
私はそもそも、バレンタインデー自体忘れていたわけだし。
……ていうかお前、ずっと上の空で仕事してたのか。
「え、いや、まあ、その……はい、申し訳ありません」
「ったく……」
道理で時々、紅茶に変なものが混ざっていたわけだ。
昆布だしとかフカヒレとか。
まあどうせ咲夜のいつもの奇癖だと思って、何も言わずに飲み干していた私も私だが。
……それにしても、自分が貰うことばかり考えていて、相手にあげることは完全に忘れていたとは……。
そうやって微妙に抜けているあたり、相変わらず咲夜らしいというかなんというか。
そんなことを考えつつ、ふと顔を上げると、咲夜がまた泣きそうな表情になっていた。
押し黙っている私を見て、その沈黙を非難とでも受け取ったのか。
……やれやれ。
本当に世話の焼ける従者だ。
「……咲夜」
「は、はい」
「チョコを用意していなかったのはお互い様……ならばもう、そのことについてとやかく言うのはやめにしないか」
「……はい」
私の言葉に、しゅんとうな垂れる咲夜。
どうやら今の私の言葉を、『私からのチョコはもう諦めろ』という意味にでも解釈したらしい。
しかし生憎、私はそこまで非情な主人ではないのだ。
それどころか、自分でも些か甘すぎると思うくらいだ。
だから私は、ついついこんな提案をしてしまうのだ。
「……だから、今から一緒に買いに行こう」
「えっ」
咲夜が驚いたように顔を上げる。
「本当ならちゃんと手作りするのがいいんだろうけど、この時間からじゃあ、日をまたいでしまうだろう。だから今年は出来合いのもので……だめかな?」
私がそう言うと、咲夜は大きく首を横に振った。
さっきから泣きべそばかりかいていた咲夜が、ようやく笑顔になった。
「よし、じゃあ早速行こう。今から急げば、閉店ぎりぎり間に合うだろう」
「はい!」
元気よく返事をする咲夜。
ほんとこいつ、私といるときだけは感情がすぐ表に出るよな。
まあそこが可愛いんだけどさ。
かくして私と咲夜は、日もほとんど沈みかけた黄昏時に、人里に向かって出発した。
日傘を差さなくて済むのは楽でいい。
―――そして舞い下りるは人間の里。
この時間帯は人間だけでなく、活動を始めた妖怪達もそれなりに闊歩しているので、私としてもなんとなく動きやすい。
しかしそうは言っても、あまり悠長に散策をしている余裕は無い。
私は咲夜を連れ、足早に目的地を探す。
「よかった。まだ開いてたわ」
そうして辿り着いたのは、比較的最近できた洋菓子店。
ドアを開くと、バレンタインフェアなる横断幕とともに、店内のかなりのスペースを色とりどりのチョコが占拠していた。
……らしかった。
流石に今はもう、閉店三十分ほど前の時間である。
チョコはほとんど売り切れており、店の陳列棚は閑散としていた。
しかしそれでもまだ、いくつかのチョコは残っている。
このチョコ達だって、明日以降、在庫処分的な扱いで格安で売られるよりは、今日のうちにイベントの主役として買われた方が嬉しいというものだろう。
「んじゃあ、この中から選ぶとしよう……って、あれ?」
ふと振り向くと、隣にいたはずの咲夜がなぜかいなかった。
時間でも止めて移動したのだろうか。
「お嬢様」
「わっ」
と思ったら、今度はいきなり眼前に出現した。
「……咲夜。不用意に能力を使うのはやめなさい。びっくりするじゃないの」
「すみませんお嬢様。チョコを品定めするのに、閉店までの時間じゃ足りないと思いましたので」
「…………」
一体どんだけ気合入れてんだ。
てか今どれだけ時間止めてたんだ?
「ほんの僅かな間ですわ」
「嘘つけ」
「えへ」
ちろりと舌を出す咲夜。
可愛いから許す。
「……じゃあ、お目当てのチョコは見つかったのかしら?」
「はい。咲夜はこれを所望します」
そう言って咲夜が差し出したのは、バカでかいハート型のチョコレートだった。
……って、これ優に四人分くらいはありそうなんすけど。
「……これが欲しいの? 咲夜……」
「はい」
にこにこと、満面の笑顔で頷く咲夜。
いやまあ、別にいいんだけどさあ……。
「……普通こういうとき、ちょっとは遠慮するもんじゃないの? ましてやあんた、従者でしょ……」
「すみません、お嬢様。咲夜は欲望に忠実なのです」
「ああ、そう……」
そうはっきり言われたらぐうの音だって出やしない。
ていうか一人で食う気か? これ……。
「はい。お嬢様から頂くチョコですもの。独り占めですわ」
「ああ、そう……」
謎の自信に満ち溢れている咲夜の笑顔を、半ば呆れつつ眺める私。
咲夜の欲望のベクトルがどの方向へ向かっていくのか、心配でならない。
私はやれやれと肩をすくめながら、自分の分のチョコを見繕うことにした。
「……じゃあ、私はこれをお願いしようかしら」
そして私が手に取ったのは、四種類のトリュフの詰め合わせ。
咲夜と違って食の細い私には、これくらいで十分だ。
「!」
するとその瞬間、何やら咲夜の目が光った。
今度はなんだ。
「……流石はお嬢様。お目が高いですわ。とても美味しそう」
「そう?」
そう言われると悪い気はしない。
しかし、咲夜の視線が妙にぎらついているのが気に掛かる。
「……ええ。本当、美味しそうですわ。特にこの、抹茶のトリュフとか。……抹茶のトリュフとか。」
「え? ああ……うん。そうね」
何で二回言ったのだろう。
「…………」
「…………ん?」
「…………」
じぃっと、何かを期待するような眼差しで、私を見つめている咲夜。
なんなの一体……。
「…………さく、や?」
「…………」
……。
……あー。
これは、つまり……そういうことか。
そういうことなのか。
ようやく、咲夜の視線の意味を理解した私は、またもや溜め息を零す羽目になった。
「……分かったよ。抹茶のは咲夜にやるよ」
「! ほんとですか」
「ああ」
「やった」
グッとガッツポーズをする咲夜。
頼むから、外でそういう行動は慎んでほしいな……。
ほら、店主のおじさんがなんか生暖かい目で見てるじゃないの。
でも当の咲夜は、そんなものは微塵も気に留めていない様子。
それはそれは幸せそうな表情で、「では、買ってきますね♪」と言って、私からトリュフの箱を奪っていった。
……やれやれ。
それにしてもこいつは、なんで私に対してだけ、こんなに遠慮が無いんだろう?
普段は、パチェとのお茶会なんかに誘っても、「いえ、私は遠慮させて頂きますわ」とか言って馬鹿丁寧に断るくせに。
もしかして、躾け方を間違えたのかしら……。
そんなことを漠然と思いながら、私も咲夜に続き、咲夜所望のハート型チョコレートを持って店台へと向かった。
そして一人ずつ会計を終えた私達は、洋菓子店を後にした。
辺りはもう真っ暗だ。
「では、お嬢様」
「ああ、うん」
店から少し歩いた路上で、私達は真正面に向かい合う。
なんか道行く人の視線が気になるが、気にしたら負けだ。
チョコを両手で持ち、私に向かって差し出しながら、咲夜は満面の笑顔で叫んだ。
「ハッピーバレンタイン!」
「は、はっぴー……」
うお、なんか面と向かってこれ言うの、めっちゃ恥ずかしい。
私は挨拶もそこそこに、羞恥心を押し殺しながら、買ったばかりのハート型チョコレートを咲夜に渡す。
そして代わりに、差し出されたトリュフの詰め合わせを咲夜から受け取る。
「ふふふ、ありがとうございます。お嬢様」
「ああ。こちらこそ、どうもありがとう。咲夜」
咲夜はサンタさんからプレゼントを貰った子供のように、ラッピングされたチョコを両手で掲げ上げた。
「ふふ、嬉しいなあ。お嬢様からのバレンタインチョコ。ふふ、ふふふっ」
そう言いながら、咲夜はくるくると弾むように回る。
周囲の人が何事かと遠巻きに見ているが、本人はそんなこと露知らずといった按配だ。
「……やれやれ」
こんな姿を天狗に見られて新聞のネタにされたらと思うと、頭が痛くなってくる。
でもそんなことを思いつつも、こうしてはしゃぐ従者を嗜めることができないあたり、私はやっぱり甘いんだろうな。
「……それにしても」
私は飛び回る咲夜を見て、改めて思う。
私と二人でいるときはともかく、他に誰かがいるような状況では、決して素の自分を見せないのが咲夜のはずだ。
なのに今のこいつときたら、人目も憚らず、子供みたいにはしゃぎ回っている。
私からチョコを貰えたことが、そんなにも嬉しかったのか。
普段の自分の振る舞いなど、何処かに置き忘れてしまうほどに。
そう思うと、なんだか笑いが込み上げてくる。
「……本当、まだまだ子供なんだから」
「? 何か言いました? お嬢様」
きょとんとした表情で、私を振り返る咲夜。
どんなにはしゃいでいても、私の声だけは聞き漏らさないのね、お前は。
「いーや、なんでもないよ」
「そうですか。ふふっ」
咲夜ははにかむように笑うと、チョコを掲げ上げながら、またくるくると回り始めた。
まったく、もう。
そんなにはしゃいで、転んでも知らないわよ。
「……あ」
そのときふと、私は頭上に降りかかった柔らかい感触に気づいた。
「雪……か」
空を見上げると、白の結晶がはらはらと舞っていた。
するとすぐに、咲夜の歓声が耳に響いた。
「お嬢様! 雪です! ホワイトバレンタインですわ!」
「ああ、分かってるよ」
「あははっ」
咲夜は楽しそうに嬉しそうに、舞い散る雪の欠片を追いかけている。
踊るように舞う咲夜とそれは、不思議なほどにマッチしていた。
私はそんな咲夜を見ながら、一人ひそかに呟いた。
「……ハッピーバレンタイン。……咲夜」
舞い散る雪の中、咲夜の笑い声だけが、いつまでもその場に響いていた。
了
会話や自然と頬が緩む雰囲気とか面白かったです。
貴方の書くレミ咲は最高です。
でも、チョコが店にひとつしかなくて
1個を2人で共有(もちろんマウストゥマウス)な展開を期待したのに!w
でもこれはこれで。
が、構いません、もっとやっちゃって下さい