連れてこられたのは水族館だった。
「……なんでだ」
状況を整理しよう。
紫様がいつもの気紛れで結界の外に出かけることになった。
何故か私まで連れ出され、こうして人間に化ける羽目になったのだ。
……尻尾が無いとすーすーするというかなんとも治まりが悪い。私の場合それが九倍だ。
うーん。まっすぐ立てているのか不安になってきた。
服装も落ちつかない。
外の世界用の服はあまり持っていない上に着慣れていない。
どうもこの……パンツ? という両足を包まれるのは苦手だ。
紫様の言いつけとはいえ、着替える必要はなかった気がする。
なにせ――この水族館は無人だ。
「深夜とはいえ警備員くらいは居てもよさそうなのだがなあ……」
まあ、紫様のことだ。如才なく人払いの結界くらいは敷いてあるかもしれない。
などとあれこれ考えるのも無駄だろうか――
言ってしまえば、あの方に連れてこられた以上ここが現実の水族館である保証など無いのだし。
夢の中でも本の中でもなんでもござれなお方だ。
八雲紫に常識など通用しない。常識など期待する方が間違っていると言い切れる。
ならば素直に楽しんでおく方が賢明なのだろうな。
さて水槽の中身は、と。
「らーん。お財布忘れたわ。お金貸して」
「……無人の水族館で何を買う気ですか紫様」
「ジュース。自動販売機で」
エンジョイしてるなあこの主人。
「はいはい。百二十円ですね? じゃあ私はここでもう少し見てますから」
「あなた、くらげ好きだったの?」
「なんか癒されるんです」
どこのOLよ。と捨て台詞をいただいてしまった。そんな上等な役職じゃないのに。
それよりくらげを見よう。うん、いいなこのゆらゆら。
ん、そういえば何かでくらげの動きには催眠効果があると読んだ。妖怪にも効くのだろうか。
もうちょっと見ていようかな……
「別に眠くはならないけど」
どちらかと言えば鎮静作用のような……んー。まあ似たようなものだろうか。
ものすごく落ちつく。ゆらゆらと何も考えていなさそうに泳ぐ姿は平和そのものだ。
……くらげって寝ないのかな。もう深夜と言っても差し支えない時間なのに。
「本当に見入ってるわねえ……」
おっと、お戻りか。
「くらげねえ。確か漢字で書くと海月だったかしら? 差し詰め月見?」
「そこまで深くは。それに今日は満月ですから、大水槽の方で本物が見れるんじゃないですかね。
パンフレットには自然光を取り入れているとか書いてありましたから」
「構造を知らないから断言できないけれど、見えて光だけじゃないかしらね」
言い合っていても結論は出まい。推測で語っても現物には近づけないのだし。
ここはまだ入り口付近。大水槽は奥の奥だ。歩いていれば、そのうち辿り着いて確認も出来よう。
「それじゃ進みますか」
「そうね」
順路に従い歩き出す。
壁に埋め込まれた小さな水槽が続く。
水族館には初めて来たが、こういう細々とした展示もしているのだな。
巨大なガラス張りの水槽というイメージしかなかった。知識より経験だ。
こうなると奥にある大水槽が楽しみになる。今度橙も連れて来てやろうかな。
「――――」
そういえば……紫様とこうして出かけるのは何年振りだろう?
紫様が大人になって、主従の礼を弁えてからは私が連れ歩くことはなくなった。
彼女が子供の頃は芝居や見世物小屋などに連れて行ってやったものだったのに。
紫様は兎も角、私は一々化けて耳と尻尾を隠さねばならなかったから難儀した。
あの頃にはこんな立派な施設はなかったな――そう思うと――
ちら、と先を歩く紫様を見る。
薄ら笑い、否、微笑を浮かべながら水槽を眺めつつ歩を進めている。
何を考えているのやらさっぱりわからないが……存外、昔を懐かしんでおられるのだろうか?
昔のように、私と一緒に――
「遅いわよ、藍」
言われ、はっとする。
気付けば随分と距離が開いていた。
「待ってくださいよ」
「とろいわねえ。置いてくわよ?」
「このパンツっての穿き慣れてないんですよ」
「スカートにすればよかったのに」
「持ってないんです」
「買っときなさい」
正論、なのかもしれない。
今回は別としても何時どのような用事が出来るか知れたものではないしな。
「ま、変な歩き方しても構わないわよ。今日ここには人間はおろか妖怪さえも立ち入れないから」
それでも、今回は別、である。
……本当に着替える必要ないじゃないか。それどころか人間に化ける必要もない。
いつも通りの格好でも問題なかったのになんで態々こんなめんどくさい真似をさせるか。
「…………ん?」
面倒な真似――と言うのなら、紫様のやっておられることも、そうだ。
普通に昼、人間に混じって見に来ればよいものを……なんで魚が眠る夜に、人払いの結界を敷いてまで?
そりゃ、人払いの結界はこういう、人気のない時間、場所でこそ効果を発揮する術だが……
しかし主役たる魚が眠っていては訪れる意味がない。これでは折角の水族館も楽しみが半減ではないか。
腑に落ちないというか、いつも以上に、わけがわからない。
しかし裏を返せばそれは理解しやすい意図があるということ。
違和感が強ければ強い程その正体は察し易い。
「――――」
いつもの気紛れではない。
幻想郷管理の息抜き……にしては出先のチョイスがおかしい。
無計画に飛び出たかのようで、明確な目的意識が見え隠れする。
これではまるで――――……逃避だ。
普段の、ここ百年の主人からは想像も出来ない解であったが……ひどく納得が出来る。
それ以外の答えなぞ候補すら出てこない。計算とは別のところでこれが正解だと感じているのか。
いや――――やめよう。
さらに計算を重ねればより確度の高い解に至れるだろう。
だが無遠慮に主の思惑を量るなど従僕の分を越えた行いだ。
それは彼女の心に土足で踏み入るに等しい。
いつもと違うというのなら……知られたくない何かがあるのかもしれないのだから。
口を噤み彼女の後を追う。
途切れ途切れに壁を埋める水槽の間を歩く。
夜の水族館というのは――他には無い雰囲気がある。
音もなく泳ぎ続ける魚を照らす薄暗い青。
常なら大勢の人が行き交う通路は静寂に満ちて薄闇に溶けている。
あまりにも現実感が希薄で、ただ歩いているだけなのに夢の中のよう。
現実的ではなく――幻想的。
空を泳ぐ魚を見るような……どこか浮遊感を抱かせるモノクロームの世界。
照明の落とされた水槽の中で影絵の魚が泳いでいる。
魚は――夜眠る筈なのに。
無言で彼女は進んでいく。
壁に開いた水色の窓から影絵を眺め続けている。
その顔に浮かぶ微笑みが貼り付けられた作り物めいて見えるのは錯覚か――
もう着いたのね。
彼女の呟きに視線を追えばここは水族館の最奥、大水槽だった。
折り返し地点。ここから先は出口へ向けての一方通行。
先へ先へと進むのは、ここまで。
幻想は終わりを示し現実が顔を覗かせる。
「あら――本当に月が見えるわ」
ガラス張りの壁を覗き込みながら言う。
牛馬よりも大きな魚が泳ぐ水の中。
見上げた先の水面に揺れる黄金の月。
水で稀釈された月明かりがガラスを越えて届いていた。
「一風変わったお月見といきましょうか?」
大水槽を間近に見られるベンチに腰掛け彼女は問い掛ける。
「構いませんが……酒の用意は」
「それじゃあ、入口の方に自動販売機あったでしょう? あそこで買ってきて。
お酒はなかったけど種類が豊富だったわねぇ。私はなんでもいいわ」
用意された台詞だった。すらすらと何の淀みもなく告げられる。
予測していたというより、こういう流れになるように誘導していた。
私の居ない時間を作ろうとしている。
彼女は今……一人になりたいのだ。
理解せずとも従えばよいのに、理解してしまう。
「……わかりました。なんでもいいんですね?」
「任せる」
頷き背を向ける。
動く気配はない。身動ぎさえしていない。
ベンチに腰掛けたまま水槽に見入っている。
水面の月を見上げ――――彼女は何を想うのだろう。
入口を出て自動販売機の前に立つ。
さて、何を買っていこうか。変なものを買って機嫌を損ねてもつまらないし。
なんでもいいというのは時間稼ぎの方便だろうしな。
唸りながら並び立つ自動販売機の前を右往左往していると端に立つ毛色の違うものが目に付いた。
これは、煙草の自動販売機か。
「懐かしいな」
随分昔は吸っていたな。何時の間にやらやめていたが、時間潰しに使えることを思い出す。
一服して、それから戻るとしようか。ここは休憩所も兼ねているようで灰皿も置かれていた。
適当な煙草を買い安っぽい紙巻きを咥え狐火で火を点す。
一吸い。
「……っげほ! にが……っ」
口中に広がった苦みに咽返る。苦いし、臭い。よくこんなものを吸っていたな私は……
即座に灰皿に捻じ込もうとしたがもったいないのでやめる。
もう一度咥え今度は加減して吸い込んだ。
やれやれ、当分橙には会いに行けないな。出会い頭に臭いとか言われてはたまったものではない。
「ん――ああ、そうだっけな」
似たようなことを言われ煙草をやめたんだった。
ずっと昔、紫に――紫様に文句を言われやめたんだ。
今じゃあの方が吸っているというのにまぁ、子供の時分とはいえ勝手なことを言ってくれたものだ。
紫煙を吐く。
あの方も私も随分変わった。千年の年月は様々なことを想い出へと追いやった。
想い出――手出しの出来ぬ過去のことだ。
どれだけ感傷に浸ろうともあの頃には戻れない。
それでも戻りたいと願うのは……あんな顔をした紫様を見ていたくないから、か。
一人になりたいなどと願われては、悲しい。
私では手の届かぬ想いなど抱かれたくはないと、唇を噛んでしまう。
また、昔のように――……
「…………」
紫煙を吐きだし煙草を灰皿に捻じ込む。
そろそろ頃合いだろう。
適当なジュースを買い一飲み。これだけで煙草の臭いは消えはしないだろうけどしないよりましだ。
空き缶をごみ箱に捨て紫様の分を買う。甘そうなココア。ほんの僅かにでも疲れを癒せればよいのだが。
意識してゆっくりと歩く。彼女が一人でいられる時間を一秒でも長くする為に。
やがて見えてくるベンチに座った彼女の姿。
「戻りました」
声を掛け缶をベンチに置く。
ん、と応えるも彼女は水槽を眺めたまま。缶を手に取りもしない。
「……あら、煙草は止めたんじゃなかったかしら」
こちらを見ずに彼女は口を開いた。
「懐かしくなりまして。ただ、久しぶり過ぎましたね。吸えなくなってましたよ」
やはりまだ臭うか。帰ったら服を洗わねばな。
「ふふ、私が止めさせたの、根に持ってる?」
軽く、驚く。
「何故です?」
「語調がちょっと怖かったわ」
彼女の方から昔のことを口にするなど。
紫様は何も触れられたくないのだと思っていたのに。
「ねえ藍。座らないの?」
ぽんとベンチが叩かれる。大水槽を見上げるベンチ。
戸惑い立ち呆ける私の横を大きな魚の影が過っていった。
彼女は――何を考えているのだろう。
「……失礼します」
隣に座る。彼女の顔から視線が外れ、視界は青に埋め尽くされた。
青の中を影絵の魚が泳いでいく。薄闇からそれを眺める。
自然言葉は消え無音の世界に浸った。
缶はベンチに置かれたまま。あたたかかったココアは冷えていく。
時間だけが、過ぎていく。
話しかけてもよいのだろうか。この静寂を侵してもよいのだろうか。
招き入れられこそしたものの私の自由は何も語られていない。
紫様は、一人になりたかったのではなかったか……
「魚」
呟き。
「随分幸せそうに泳ぐわよね、この限られた水槽の中を」
それは呟きだったのか。私への問い掛けではないのか?
空を掴み続けていた手を向ける。僅かな取っ掛かりでも、触れたい。
「自然な海よりは危険も少ないでしょうし、彼らからすれば楽園なのではないでしょうか」
焦り出した答えは安直なものだった。到底彼女の期待には添えない言葉だ。
言い直した方がよいのかと首を振ると、歪む彼女の顔が目に映る。
端正な顔が苦笑に歪んでいた。
「箱庭の楽園……――まるで幻想郷ね」
細められる紫色の瞳。
「紫様……?」
浮かぶ表情は苦笑ではなくなっている。
笑みなどどこにもない。ただ苦しみに苦みに歪む悲痛な貌。
「私は楽園を作ったつもりだった。でも、間違いだったのかもしれない。
酷く、誤ったことをしてしまったのかもしれない」
「紫様」
ああ――誰も居ない場所を求めるのも頷ける。
「妖怪は弱ってしまった。力を失ってしまった。私は、楽園を作ったつもりで――
――……羽をもぐ、鳥籠を作り上げてしまったのかもしれない」
こんな姿……
「――……紫」
私以外に見せられない。
彼女の視線は床に落ちていた。
「――弱気になっておられるのですか?」
「そりゃあ、まあ」
くすりと虚勢染みた苦笑。
「甘やかされて育てられたもので」
装うのをやめる。
「…………その割には、素直に甘えてくれないな」
彼女は告げている。
昔のことを。昔のように過ごしたいと。
例えそれが逃避でも……私の元へ来てくれるのは喜ばしい。
「一々御託並べなくても、何時でも甘えに来て構わんのだぞ?」
「今は――もう難しいわ。あの頃とは何もかもが違うもの」
「小難しく考えるところは変わってないのにな」
横に座る紫の肩を抱き寄せる。
「……煙草臭いわ、藍」
「昔はこの胸の中で眠ったのに偉そうなことを言うな」
「なによ。結局煙草止めたじゃない」
「気紛れさ。たまにはおまえに合わせるのもいいかと思ったんだ」
「そういう気紛れはもっと起こして欲しかったわね。叱るときとか」
「甘やかし過ぎるのはよくないんだよ」
くしゃくしゃと紫の頭を撫でる。
「でも、今は甘えていいんだよ。紫」
疲れた子を突き放す親など居るものか。
おまえがどれだけ頑張ってきたか私が一番よく知っている。
幻想郷の為にどんなに心砕いてきたか私が一番理解している。
誰からも感謝されることはないだろう。
誰からも労われることもないだろう。
だけど私が褒めてやる。
私の娘は立派なことをしてきたんだと胸を張ってやる。
「ほら、見てご覧」
指差す。
水面に揺れる金の月を見上げさせる。
「水槽を通して見る月も綺麗なものだ」
「――私には苦い記憶の象徴だわ」
「それでも月の美しさは変わらないよ」
「私の式神のくせに。相変わらず主のことはないがしろね」
「おまえのトラウマなんぞに付き合ってられん。今を生きるおまえに付き合うので精一杯だ」
ぎゅっと、肩を抱く手に力を籠める。
「私は知らぬおまえの過去なんぞに縛られんよ、紫」
紫。おまえはなにも間違えてなんかいやしない。
おまえが成したことは他の何者にも成し得ない立派なことだ。
私はおまえを誇りに思う。
「箱庭から見る月も変わらず美しい」
おまえを育ててよかったと――誇れるんだよ。
「おまえの作った楽園から見る月も、美しかったよ」
「――――うん」
そっと、肩を抱く手に指が添えられた
「……なんでだ」
状況を整理しよう。
紫様がいつもの気紛れで結界の外に出かけることになった。
何故か私まで連れ出され、こうして人間に化ける羽目になったのだ。
……尻尾が無いとすーすーするというかなんとも治まりが悪い。私の場合それが九倍だ。
うーん。まっすぐ立てているのか不安になってきた。
服装も落ちつかない。
外の世界用の服はあまり持っていない上に着慣れていない。
どうもこの……パンツ? という両足を包まれるのは苦手だ。
紫様の言いつけとはいえ、着替える必要はなかった気がする。
なにせ――この水族館は無人だ。
「深夜とはいえ警備員くらいは居てもよさそうなのだがなあ……」
まあ、紫様のことだ。如才なく人払いの結界くらいは敷いてあるかもしれない。
などとあれこれ考えるのも無駄だろうか――
言ってしまえば、あの方に連れてこられた以上ここが現実の水族館である保証など無いのだし。
夢の中でも本の中でもなんでもござれなお方だ。
八雲紫に常識など通用しない。常識など期待する方が間違っていると言い切れる。
ならば素直に楽しんでおく方が賢明なのだろうな。
さて水槽の中身は、と。
「らーん。お財布忘れたわ。お金貸して」
「……無人の水族館で何を買う気ですか紫様」
「ジュース。自動販売機で」
エンジョイしてるなあこの主人。
「はいはい。百二十円ですね? じゃあ私はここでもう少し見てますから」
「あなた、くらげ好きだったの?」
「なんか癒されるんです」
どこのOLよ。と捨て台詞をいただいてしまった。そんな上等な役職じゃないのに。
それよりくらげを見よう。うん、いいなこのゆらゆら。
ん、そういえば何かでくらげの動きには催眠効果があると読んだ。妖怪にも効くのだろうか。
もうちょっと見ていようかな……
「別に眠くはならないけど」
どちらかと言えば鎮静作用のような……んー。まあ似たようなものだろうか。
ものすごく落ちつく。ゆらゆらと何も考えていなさそうに泳ぐ姿は平和そのものだ。
……くらげって寝ないのかな。もう深夜と言っても差し支えない時間なのに。
「本当に見入ってるわねえ……」
おっと、お戻りか。
「くらげねえ。確か漢字で書くと海月だったかしら? 差し詰め月見?」
「そこまで深くは。それに今日は満月ですから、大水槽の方で本物が見れるんじゃないですかね。
パンフレットには自然光を取り入れているとか書いてありましたから」
「構造を知らないから断言できないけれど、見えて光だけじゃないかしらね」
言い合っていても結論は出まい。推測で語っても現物には近づけないのだし。
ここはまだ入り口付近。大水槽は奥の奥だ。歩いていれば、そのうち辿り着いて確認も出来よう。
「それじゃ進みますか」
「そうね」
順路に従い歩き出す。
壁に埋め込まれた小さな水槽が続く。
水族館には初めて来たが、こういう細々とした展示もしているのだな。
巨大なガラス張りの水槽というイメージしかなかった。知識より経験だ。
こうなると奥にある大水槽が楽しみになる。今度橙も連れて来てやろうかな。
「――――」
そういえば……紫様とこうして出かけるのは何年振りだろう?
紫様が大人になって、主従の礼を弁えてからは私が連れ歩くことはなくなった。
彼女が子供の頃は芝居や見世物小屋などに連れて行ってやったものだったのに。
紫様は兎も角、私は一々化けて耳と尻尾を隠さねばならなかったから難儀した。
あの頃にはこんな立派な施設はなかったな――そう思うと――
ちら、と先を歩く紫様を見る。
薄ら笑い、否、微笑を浮かべながら水槽を眺めつつ歩を進めている。
何を考えているのやらさっぱりわからないが……存外、昔を懐かしんでおられるのだろうか?
昔のように、私と一緒に――
「遅いわよ、藍」
言われ、はっとする。
気付けば随分と距離が開いていた。
「待ってくださいよ」
「とろいわねえ。置いてくわよ?」
「このパンツっての穿き慣れてないんですよ」
「スカートにすればよかったのに」
「持ってないんです」
「買っときなさい」
正論、なのかもしれない。
今回は別としても何時どのような用事が出来るか知れたものではないしな。
「ま、変な歩き方しても構わないわよ。今日ここには人間はおろか妖怪さえも立ち入れないから」
それでも、今回は別、である。
……本当に着替える必要ないじゃないか。それどころか人間に化ける必要もない。
いつも通りの格好でも問題なかったのになんで態々こんなめんどくさい真似をさせるか。
「…………ん?」
面倒な真似――と言うのなら、紫様のやっておられることも、そうだ。
普通に昼、人間に混じって見に来ればよいものを……なんで魚が眠る夜に、人払いの結界を敷いてまで?
そりゃ、人払いの結界はこういう、人気のない時間、場所でこそ効果を発揮する術だが……
しかし主役たる魚が眠っていては訪れる意味がない。これでは折角の水族館も楽しみが半減ではないか。
腑に落ちないというか、いつも以上に、わけがわからない。
しかし裏を返せばそれは理解しやすい意図があるということ。
違和感が強ければ強い程その正体は察し易い。
「――――」
いつもの気紛れではない。
幻想郷管理の息抜き……にしては出先のチョイスがおかしい。
無計画に飛び出たかのようで、明確な目的意識が見え隠れする。
これではまるで――――……逃避だ。
普段の、ここ百年の主人からは想像も出来ない解であったが……ひどく納得が出来る。
それ以外の答えなぞ候補すら出てこない。計算とは別のところでこれが正解だと感じているのか。
いや――――やめよう。
さらに計算を重ねればより確度の高い解に至れるだろう。
だが無遠慮に主の思惑を量るなど従僕の分を越えた行いだ。
それは彼女の心に土足で踏み入るに等しい。
いつもと違うというのなら……知られたくない何かがあるのかもしれないのだから。
口を噤み彼女の後を追う。
途切れ途切れに壁を埋める水槽の間を歩く。
夜の水族館というのは――他には無い雰囲気がある。
音もなく泳ぎ続ける魚を照らす薄暗い青。
常なら大勢の人が行き交う通路は静寂に満ちて薄闇に溶けている。
あまりにも現実感が希薄で、ただ歩いているだけなのに夢の中のよう。
現実的ではなく――幻想的。
空を泳ぐ魚を見るような……どこか浮遊感を抱かせるモノクロームの世界。
照明の落とされた水槽の中で影絵の魚が泳いでいる。
魚は――夜眠る筈なのに。
無言で彼女は進んでいく。
壁に開いた水色の窓から影絵を眺め続けている。
その顔に浮かぶ微笑みが貼り付けられた作り物めいて見えるのは錯覚か――
もう着いたのね。
彼女の呟きに視線を追えばここは水族館の最奥、大水槽だった。
折り返し地点。ここから先は出口へ向けての一方通行。
先へ先へと進むのは、ここまで。
幻想は終わりを示し現実が顔を覗かせる。
「あら――本当に月が見えるわ」
ガラス張りの壁を覗き込みながら言う。
牛馬よりも大きな魚が泳ぐ水の中。
見上げた先の水面に揺れる黄金の月。
水で稀釈された月明かりがガラスを越えて届いていた。
「一風変わったお月見といきましょうか?」
大水槽を間近に見られるベンチに腰掛け彼女は問い掛ける。
「構いませんが……酒の用意は」
「それじゃあ、入口の方に自動販売機あったでしょう? あそこで買ってきて。
お酒はなかったけど種類が豊富だったわねぇ。私はなんでもいいわ」
用意された台詞だった。すらすらと何の淀みもなく告げられる。
予測していたというより、こういう流れになるように誘導していた。
私の居ない時間を作ろうとしている。
彼女は今……一人になりたいのだ。
理解せずとも従えばよいのに、理解してしまう。
「……わかりました。なんでもいいんですね?」
「任せる」
頷き背を向ける。
動く気配はない。身動ぎさえしていない。
ベンチに腰掛けたまま水槽に見入っている。
水面の月を見上げ――――彼女は何を想うのだろう。
入口を出て自動販売機の前に立つ。
さて、何を買っていこうか。変なものを買って機嫌を損ねてもつまらないし。
なんでもいいというのは時間稼ぎの方便だろうしな。
唸りながら並び立つ自動販売機の前を右往左往していると端に立つ毛色の違うものが目に付いた。
これは、煙草の自動販売機か。
「懐かしいな」
随分昔は吸っていたな。何時の間にやらやめていたが、時間潰しに使えることを思い出す。
一服して、それから戻るとしようか。ここは休憩所も兼ねているようで灰皿も置かれていた。
適当な煙草を買い安っぽい紙巻きを咥え狐火で火を点す。
一吸い。
「……っげほ! にが……っ」
口中に広がった苦みに咽返る。苦いし、臭い。よくこんなものを吸っていたな私は……
即座に灰皿に捻じ込もうとしたがもったいないのでやめる。
もう一度咥え今度は加減して吸い込んだ。
やれやれ、当分橙には会いに行けないな。出会い頭に臭いとか言われてはたまったものではない。
「ん――ああ、そうだっけな」
似たようなことを言われ煙草をやめたんだった。
ずっと昔、紫に――紫様に文句を言われやめたんだ。
今じゃあの方が吸っているというのにまぁ、子供の時分とはいえ勝手なことを言ってくれたものだ。
紫煙を吐く。
あの方も私も随分変わった。千年の年月は様々なことを想い出へと追いやった。
想い出――手出しの出来ぬ過去のことだ。
どれだけ感傷に浸ろうともあの頃には戻れない。
それでも戻りたいと願うのは……あんな顔をした紫様を見ていたくないから、か。
一人になりたいなどと願われては、悲しい。
私では手の届かぬ想いなど抱かれたくはないと、唇を噛んでしまう。
また、昔のように――……
「…………」
紫煙を吐きだし煙草を灰皿に捻じ込む。
そろそろ頃合いだろう。
適当なジュースを買い一飲み。これだけで煙草の臭いは消えはしないだろうけどしないよりましだ。
空き缶をごみ箱に捨て紫様の分を買う。甘そうなココア。ほんの僅かにでも疲れを癒せればよいのだが。
意識してゆっくりと歩く。彼女が一人でいられる時間を一秒でも長くする為に。
やがて見えてくるベンチに座った彼女の姿。
「戻りました」
声を掛け缶をベンチに置く。
ん、と応えるも彼女は水槽を眺めたまま。缶を手に取りもしない。
「……あら、煙草は止めたんじゃなかったかしら」
こちらを見ずに彼女は口を開いた。
「懐かしくなりまして。ただ、久しぶり過ぎましたね。吸えなくなってましたよ」
やはりまだ臭うか。帰ったら服を洗わねばな。
「ふふ、私が止めさせたの、根に持ってる?」
軽く、驚く。
「何故です?」
「語調がちょっと怖かったわ」
彼女の方から昔のことを口にするなど。
紫様は何も触れられたくないのだと思っていたのに。
「ねえ藍。座らないの?」
ぽんとベンチが叩かれる。大水槽を見上げるベンチ。
戸惑い立ち呆ける私の横を大きな魚の影が過っていった。
彼女は――何を考えているのだろう。
「……失礼します」
隣に座る。彼女の顔から視線が外れ、視界は青に埋め尽くされた。
青の中を影絵の魚が泳いでいく。薄闇からそれを眺める。
自然言葉は消え無音の世界に浸った。
缶はベンチに置かれたまま。あたたかかったココアは冷えていく。
時間だけが、過ぎていく。
話しかけてもよいのだろうか。この静寂を侵してもよいのだろうか。
招き入れられこそしたものの私の自由は何も語られていない。
紫様は、一人になりたかったのではなかったか……
「魚」
呟き。
「随分幸せそうに泳ぐわよね、この限られた水槽の中を」
それは呟きだったのか。私への問い掛けではないのか?
空を掴み続けていた手を向ける。僅かな取っ掛かりでも、触れたい。
「自然な海よりは危険も少ないでしょうし、彼らからすれば楽園なのではないでしょうか」
焦り出した答えは安直なものだった。到底彼女の期待には添えない言葉だ。
言い直した方がよいのかと首を振ると、歪む彼女の顔が目に映る。
端正な顔が苦笑に歪んでいた。
「箱庭の楽園……――まるで幻想郷ね」
細められる紫色の瞳。
「紫様……?」
浮かぶ表情は苦笑ではなくなっている。
笑みなどどこにもない。ただ苦しみに苦みに歪む悲痛な貌。
「私は楽園を作ったつもりだった。でも、間違いだったのかもしれない。
酷く、誤ったことをしてしまったのかもしれない」
「紫様」
ああ――誰も居ない場所を求めるのも頷ける。
「妖怪は弱ってしまった。力を失ってしまった。私は、楽園を作ったつもりで――
――……羽をもぐ、鳥籠を作り上げてしまったのかもしれない」
こんな姿……
「――……紫」
私以外に見せられない。
彼女の視線は床に落ちていた。
「――弱気になっておられるのですか?」
「そりゃあ、まあ」
くすりと虚勢染みた苦笑。
「甘やかされて育てられたもので」
装うのをやめる。
「…………その割には、素直に甘えてくれないな」
彼女は告げている。
昔のことを。昔のように過ごしたいと。
例えそれが逃避でも……私の元へ来てくれるのは喜ばしい。
「一々御託並べなくても、何時でも甘えに来て構わんのだぞ?」
「今は――もう難しいわ。あの頃とは何もかもが違うもの」
「小難しく考えるところは変わってないのにな」
横に座る紫の肩を抱き寄せる。
「……煙草臭いわ、藍」
「昔はこの胸の中で眠ったのに偉そうなことを言うな」
「なによ。結局煙草止めたじゃない」
「気紛れさ。たまにはおまえに合わせるのもいいかと思ったんだ」
「そういう気紛れはもっと起こして欲しかったわね。叱るときとか」
「甘やかし過ぎるのはよくないんだよ」
くしゃくしゃと紫の頭を撫でる。
「でも、今は甘えていいんだよ。紫」
疲れた子を突き放す親など居るものか。
おまえがどれだけ頑張ってきたか私が一番よく知っている。
幻想郷の為にどんなに心砕いてきたか私が一番理解している。
誰からも感謝されることはないだろう。
誰からも労われることもないだろう。
だけど私が褒めてやる。
私の娘は立派なことをしてきたんだと胸を張ってやる。
「ほら、見てご覧」
指差す。
水面に揺れる金の月を見上げさせる。
「水槽を通して見る月も綺麗なものだ」
「――私には苦い記憶の象徴だわ」
「それでも月の美しさは変わらないよ」
「私の式神のくせに。相変わらず主のことはないがしろね」
「おまえのトラウマなんぞに付き合ってられん。今を生きるおまえに付き合うので精一杯だ」
ぎゅっと、肩を抱く手に力を籠める。
「私は知らぬおまえの過去なんぞに縛られんよ、紫」
紫。おまえはなにも間違えてなんかいやしない。
おまえが成したことは他の何者にも成し得ない立派なことだ。
私はおまえを誇りに思う。
「箱庭から見る月も変わらず美しい」
おまえを育ててよかったと――誇れるんだよ。
「おまえの作った楽園から見る月も、美しかったよ」
「――――うん」
そっと、肩を抱く手に指が添えられた
ごちそうさまでした
イイハナシダナー
淡い月明かりのようなお話でした。
それにしても……ここ最近、藍が傾国モード全開だな。
にくいねー、このスケコマシがっ!
前に投稿された話の派生でしょうか。続きもっと期待してしまう
のサイドストーリー的なものとして解釈していいのかな?
しんみりしたお話でした。
こんなに切ない気持ちでかわいいなんて言葉を伝えたくなったのは初めてだぜ・・・
神綺様とアリスの親子百合も見てみたいかなっ(チラッ
コペルニクス的転換だな
GJ
俺はこの作品をゆからんとして読(ry
藍が「見てご覧」……あ、ごめんなさい、ホントごめんなさい。
それにしても、なんだかフワフワした雰囲気の作品でした。水の中を漂う魚やクラゲのように、二人の心もどこかユラユラしてたんですかね。
いいSSをありがとうございます。