お姉ちゃんは、無関心なようで過保護だ。私が放浪外泊から帰ってくると、五回に二回くらいは淡々と叱りつける。どこに行っていたの。ペットの世話を忘れないで。出かけるときは言いなさい。言ってくれないとわからないのだから。
今日もそうだった。昼帰りをしたら、お姉ちゃんが雪の玄関先で待っていた。呟くように諌められた。四日振りね。遅くなるなら連絡を寄越しなさい。これでも心配してるのよ。私はお姉ちゃんより遥かに強いんだから、不安がらなくていいのに。
お小言を切り上げるために、私は笑って言ってやった。
「少しくらいいいじゃん。お姉ちゃんに心配されなくても平気だよ。あ、もしかして寂しかった? お燐やおくうを呼んだら? 話し相手はいくらでもいるでしょ」
乾いた音がした。右のほっぺを引っ叩かれた。目の覚めるような痛みが走った。帽子に積もった雪山が落っこちた。
お姉ちゃんはアメジスト色の瞳を見開いて、左手を注視していた。自分の行為に吃驚しているみたいだった。私も驚きだ。言葉よりも先に手を出すなんて、珍しい。何かまずいことを口走ったかな。覚りの瞳を閉ざした私に、お姉ちゃんの気持ちはわからない。
「痛いよ、お姉ちゃん」
「ごめんなさい、いきなり」
「どうして叩いたの」
返事がなかった。腕を組んで、唇を尖らせている。だんまりのお姉ちゃんからは、何も読み取れない。肩を揺すった。
「ねえ、お姉ちゃんってば。言ってくれないとわかんないよ」
「そ、その位自分で考えなさい」
ずるい。私がもう心を読めないと知っているのに、お姉ちゃんは意地悪を言う。自分だけ何でも視えるからって、偉そうに。
私の『目』が暗くなってから、ずっとこうだ。どこか噛み合わない。すれ違っている。
そばにいない方が、いいのかもしれない。
「いいよ。じゃあ上で考えてくる。またね」
スカートの裾を摘んで、急回転。旧都、洞穴、博麗神社。私は来た道を引き返した。綿雪が紅い頬にへばりついて、冷たかった。
「ふうん、それでここまで来たんだ」
地霊殿での話を一通り聞いて、黒髪に黒いワンピース姿の女の子が頷いた。背中で赤と青、二色の異形の羽が揺れている。赤は鉤爪、青は波打つ矢印のような形。彼女は封獣ぬえ。元地底の住人、昔からの友人だ。よく脅かし合って遊んでいた。お燐の怨霊騒動の頃に地上に飛び出し、今は人里近くのお寺で暮らしている。
「お姉ちゃんの考えてること、わかんなくて」
「馬鹿の考え何とやら。一旦悩むのやめちゃえば。忘れちゃえ」
「馬鹿じゃないもん。それよりぬえはどうしてここにいるの」
頬杖をつき、ぬえは枝毛を吹いた。ニーソックスの脚をぶらつかせる。
「家出中。仏像に正体不明の種を仕込もうとしたら、お仕置きって皆に叩かれた。腹立ったから出てきた」
「自業自得じゃない」
「あの寺は娯楽が足りないのよ」
「だからって、此処に居座られても困ります」
長い緑髪の巫女・東風谷早苗が、私達に苦言を呈した。ぬえは気にせずホットココアのお代わりをねだる。私も続いた。
現在地は、妖怪の山の守矢神社。以前、私のペットにおくう並みの力をつけてもらうために訪れた神域だ。早苗とはそのときに知り合った。私は彼女を友達だと思っている。相手がどう感じているかは知らないけれど。
早苗は面倒臭そうに、細長いポットを傾けた。薄茶色の液体がマグカップに注がれる。甘い湯気が立った。寒い中を飛んできた身にはありがたい。手指も身体もぬくもる。
「参拝ならともかく、厨房に上がり込んで」
「神社にはお気軽にどうぞって、神様が言ってたもん」
「美味しそうな匂いもしたしね」
「全くもう」
地霊殿ほどではないけれど、守矢神社の台所も広い。立ったまま使えるキッチン一式(河童製らしい)、私達が占領中の円形のダイニングテーブル、二つの食器棚を入れてもまだ余裕がある。人妖の七、八体は楽に動き回れる。そんな中で、早苗は十人分くらいの働きを見せていた。調理台でチョコレートを粗微塵にし、コンロで湯煎をして、小麦粉生地入りのボウルに注ぎ込む。焦げ茶色になるまで掻き混ぜる。長方形の紙型に流し入れる。作業の合間にオーブン内の焼き具合を確かめ、使用済みの器具を水に浸す。食器を拭く。また包丁を手に取る。オーブンの鐘が鳴ると、蓋を開けて中身を取り出す。茶漉しを使って粉砂糖を散らす。巫女装束の上に着けた刺し子のエプロンは、所々チョコレートや粉で汚れていた。
「忙しいんですよ、今日は」
調理台に載せ切れなくなった完成品が、ダイニングテーブルに運ばれた。ベイクドチョコレートケーキだ。積み重ねられている。煉瓦に模して家でも造れそうなほど、大量にある。私とぬえはすかさず手を伸ばし、甲を木べらで小突かれた。海ではなく骨が割れそうだ。お姉ちゃんより酷い。私は悶絶するぬえの背中をさすり、
「早苗のけち。こんなに作って全部食べる気? チョコのお化けになるよ」
「配って歩くんです。明日はバレンタインデーですから。明日になったら、食べさせてあげますよ」
柱の日めくりを示された。天狗の刷ったものだ。『如月十日あまり三日』という筆文字印刷の下に、赤で『神奈子と諏訪子:営業(宴会、留守番よろしく)』『早苗:バレンタイン準備』とある。早苗は紙を一枚めくった。『如月十日あまり四日』、赤文字で『バレンタインデー』。ぬえが正体不明の呻き声混じりに、
「ばれんたいん、何それ。寺では平日よ」
「私も知らない」
「ああ、幻想郷では知名度が低いんですよね。外の世界では割とポピュラーな行事です。女の子が好きな人やお世話になっている人、友達にチョコレート菓子を渡す日なんですよ。好意を込めて」
「横文字ね。異教の行事なんじゃないの。神社の巫女の癖に。不信心で祟られるがいいわ」
「神奈子様も諏訪子様も乗り気です。信者の皆さんにチョコレートを配れば、信仰が集められると」
私は早苗の説明を聞いて、結構面白そうだと思った。何もしないのに好かれて、甘いものを貰えるのだもの。嬉しい。普及したら、明日は両手がお菓子と恋で一杯になりそうだ。地底にも広めたい。
「いい日だね」
「もっと流行ってくれるといいんですけどね。まだ皆さんちゃんと知らないから、いちいち説明しないといけなくて。原料のカカオやチョコレートも、幻想郷では簡単に手に入りませんし」
「そっかあ」
「美味しいのにね、ああん」
ぬえはケーキにかじりついて、早苗にお札をぶつけられていた。悪い子だ。私は己を無意識に溶け込ませて、こっそり一口頂いた。表面の粉糖が、舌の上で淡雪のように広がった。歯を立てれば、カカオの濃厚な風味が喉まで満ちる。バターや生クリームの脂肪分と絡み合って、適当な重厚感を出している。砂糖は控えめ、私の好きな大人の味だ。舌触りは軽やかで柔らか。不愉快な小麦粉の塊なんか、出来ていない。お姉ちゃんほどではないけれど、早苗も料理上手だ。これなら信仰を得られるはず。
「あ」
無意識の力でチョコケーキを味わって、早苗に追いかけられるぬえを見て。私はひとつ、閃いた。
まだ皆ちゃんと知らない。原料も簡単に手に入らない。早苗はそう悩んでいた。普及の遅れと、原材料の不足。それさえ解決すれば、明日は素敵なバレンタインデーだ。山も人里も賑わう。
問題を何とかする方法を、私は思いついた。霖之助さんや、冬眠中の紫の力は借りない。私とぬえと、人妖の想像力さえあればいい。
「早苗、ぬえ、ストップ」
厨房上空を飛び回るぬえの、青い翼を引っ張った。床に立たせ、へらを構える早苗を制止する。早苗は妖怪退治の目をしていた。愉しそうで怖かった。
「摘み食い、許してあげて。私とぬえが、早苗にバレンタインデーをプレゼントするから」
「え、なんで私まで手伝うことになってるの。こいつのために」
「いいから聞いてよ。ぬえにとっても愉快なことだよ、娯楽が欲しいんでしょ」
「悪戯するの?」
厨房の隅っこで、妖怪二体のひそひそ話。早苗が後ろで、訝しげに耳を傾けている。両手に魔除けの札を用意していた。危険なことをするつもりはないのに。
「先に私が繋がって、ばーってして。ぬえは別行動、とにかく広範囲に」
「うげ、疲れそう。でも連中が馬鹿やるのはいいかな」
「やる?」
「やってあげるわ」
作戦会議終了、グーの手同士をぶつけ合った。ぬえは獣の歯を見せて、妖しく笑った。事典にない翼がはためいた。地底で遊び回っていた頃を思い出す。私達の悪だくみを聞いていた早苗は、「まあそのくらいなら」と札を収めた。意外と話のわかる巫女さんだ。霊夢なら問答無用で大幣百叩きだろう。
「じゃあ、ちょっくら出かけてくるわ。夜更けには戻るから、泊めてよね」
「そうだ、私達もチョコの用意しなきゃ。早苗、後で作り方教えて」
「嫌って言ってもそうするんでしょう」
靴を履いて、勝手口から外に出た。見送る早苗の背後で、オーブンの鐘がやかましく鳴った。
細雪の舞い踊る中、準備作業を終えて帰ってきた。早苗は起きていてくれた。温度調節して小さなハートの型に入れるだけの、初心者チョコの製法を指導してくれた。私もぬえも不器用で、ひび割れハートを作っては食べた。チョコレートに埋め込む胡桃やピスタチオも摘んだ。まともに出来上がったのは、小袋ひとつ分程度だった。ぬえは成功作も胃袋に納めていた。
「私には渡す相手がいないもの。悪戯の成果を見る方がメイン」
順番にお風呂に入って、日の出過ぎまで眠ることにした。
風祝の館の一室に、客人用の布団を並べて敷いた。お休みなさいと欠伸をして、早苗は自室に戻っていった。敷布団は河童の電気で温められていた。天井照明を消して、私とぬえは布団に潜り込んだ。
「うまくいくといいね」
「失敗するとしたら貴方でしょ。私は完璧にやってやった」
「私もちゃんとやりました」
「あーここの布団ふかふか。寺より贅沢」
「聞いてよもう」
地霊殿ではベッドで寝ているからかな、布団には慣れない。床が硬くて身体がむずついた。自分の部屋の、ささやかなベッドを想像した。枕元には、お姉ちゃんの縫ってくれた三毛猫の縫いぐるみ。眠れない朝方、瞳のボタンを弾いた。
(お姉ちゃん、元気にしてるかな)
どうして叩かれたんだろう。準備の間忘れていたことが、頭に浮かんだ。もう痛くも何ともない、ほっぺたを押さえた。
(心配なら、地上に捜しに来ればいいのに)
「おん・べいしら・まんだや……」
ぬえは私の方を向いて横になって、奇妙な呪文を唱えていた。胸の前で、両手を合わせて印を作っている。
「ぬえがおかしくなった」
「元からおかしいわよ。これは真言だったかな。朝晩唱えなさいって聖に言われた」
「家出中なんだから、サボっちゃえばいいのに」
「何だろ。ずっとやってる所為? やらないと調子出ない」
地底から解放されて、ぬえは変わった。流浪の身だったのが、お寺に居着くようになった。他の妖怪と生活することを覚え始めた。正体不明が売りの怪物が、そんなことでいいのだろうか。
「ぬえ。お寺、楽しい?」
「楽しいわけないわ。だから家出してるのよ」
「でも、そのうち帰るんでしょ。正体不明なのに」
血の色に塗った爪を、ぬえは噛んだ。寝返りを打った。訳のわからない翼が、背中の下敷きになる。印を解いて、手を虚空に伸ばす。空飛ぶ船を掴んでいるかのようだった。
「楽しいとか嬉しいとか、そういうんじゃなくて。何、もやもやする」
「もやもや?」
「あそこで聖やムラサに『ぬえ』って呼ばれてる。それが今の私なの。普通とか、自然とか言うのかな」
巣を自慢する、鳥を幻視した。誇らしげに、幸せそうに。なんだ、やっぱり好きなんだ。家出はちょっと癇癪を起こしただけで。私は笑みを零していた。
空を飛ぶ者は、いずれ在るべき場所へ。
瞼を下ろして、雪風の歌を聴いた。
(私の、家)
地獄のように燃え盛る、ステンドグラスの薔薇屋敷。動物好きの嫌われ者が、密やかに生きている。たまに帰れば、叱られて。それでも扉は閉じない。迎え入れてくれる。いつだって温かい。
(お姉ちゃん)
畳の匂いの和室で、薔薇の香りの夢を見た。
薄い陽光の射し込む頃には、雪は止んでいた。
布団を畳むのもそこそこに、私は窓を開けた。
「起きてぬえ、来てるよ」
守矢神社の本殿周辺には、天狗や河童や神様が集まっていた。皆手に、色とりどりのラッピングを施した箱や袋を抱えている。
チョコレートケーキを満載したバスケットを持って、早苗が本殿から姿を現した。幻想郷最速を誇る天狗の新聞記者が、そのすぐ前に降り立つ。
「どうも早苗さん、友チョコ一番乗りです。文々。新聞、バレンタイン特集号もどうぞ」
「あら、ありがとうございます。渡しに行く手間が省けました」
和やかに包みを交換すると、早苗は早速小花柄の包装紙を剥がした。これも取材の一環とばかり、文はカメラで山巫女を撮影した。
「来るよ、ぬえ」
「こいしよく見えない、そっち詰めて」
「どれが早苗さん達向きか迷ったんですけど、チョコレート味のクッキーにしましたよ。ミルクに浸してもいけます」
早苗が紙箱の蓋を取った。
長方形の箱に、小判型の塩煎餅が詰まっていた。チョコレートなど、ひとかけらも使っていない。
「やったぁ」
「思い込んでるわね」
私とぬえは手を打ち鳴らした。
真実を知る早苗は、蓋を下ろして営業用の笑顔になった。
「大事にいただきますね。神奈子様も諏訪子様も喜びます。ハッピーバレンタイン」
「こちらこそ、美味しいものを有難うございます。ハッピーバレンタイン」
文の後ろには行列が出来ていた。皆早苗に手持ちの「チョコレート菓子」を渡し、丁寧な礼を受けた。早苗はしばしば包装の内容を確かめた。
とある鴉天狗の「一粒チョコレート」は、甘納豆だった。
厄神様が手渡した「ペーストチョコ」は、割り箸付きの水飴。
にとりの「痺れる爆弾チョコ」は、炭酸ガス入りのキャンディーだった。
誰もが自分の持参した品を、チョコレート菓子と信じて疑わなかった。彼らの感覚は、そう捉えていたのだ。
私とぬえの起こした、幼い異変とも気付かずに。
「私もわざわざチョコレートにしなくても、良かったかもしれませんね」
最後の一人にチョコレートケーキを渡した後、早苗は私達のところにやってきて言った。
「ううん、チョコレートじゃなくちゃ。ぬえがばら撒き忘れてるかもしれないし」
「私は失敗しないわ」
バレンタインデー成立のために足りなかったのは、行事の普及と材料のカカオ。課題の双方を、私とぬえは解決出来た。
私は能力を使って、幻想郷の住民達の無意識に語りかけた。明日はバレンタインデー、恋人友人知人にチョコレートを渡す日。好きを伝える日。チョコは茶色や白で、甘くてとろけるお菓子。貴方の近くには必ずチョコか、その材料がある。さあ、届けに行かなくちゃ。
意識下に暗示を受けた人妖は、今日をバレンタインデーだと認識した。昔からそうだったかのように。けれども本物のお菓子の形や味を見れば、違いで夢だと悟ってしまう。和のひしめく幻想郷にチョコレートは少ないのだ。そこで、ぬえの出番となる。
ぬえは幻想郷のお菓子や製菓材料に、正体不明の種をばら撒いた。種を植え付けられたものは、見る者の想像・理解可能な形に脳内変換される。ぬえが本気を出せば、視覚以外も騙し通せる。
私の暗示で今日をバレンタインデーと認めた皆は、周囲のお菓子を眺め遣り、そうだ、チョコレートだと理解した。一口食べれば、想像上のカカオの香りが漂う。塩味だって、種の力で甘味に化ける。現実を幻想で歪められたとは知らず、人も妖も「チョコレート菓子」を渡すために旅立った。あるいは、せっせと作り始めた。
一日限りの、甘い悪戯だ。本当のことは、私とぬえと早苗しか知らない。真相を明かしたとしても、暗示にかかった人々は認めないだろう。
「山を下りましょう。人里の皆さんにも、ケーキを渡さないと」
「そうね。里がどうなってるのか見てみたいわ」
「出発進行だね」
籠を再び山盛りにした早苗と共に、私とぬえは人里を目指した。
雪白に染まった真昼の里は、平時より混雑していた。お祭りの雰囲気に近い。随所で「チョコレート」の受け渡しが行われている。
「急ぐな、全員分ある。はしゃいで転ぶなよ」
寺子屋では、獣人の女教師がお饅頭入りの小箱を配っていた。子供達は貰った先からリボンを解いて、口に運んでいる。唇の周りをチョコレートソースではなく餡子で汚して、けーね先生ありがとうの大合唱。
「全然気付いてないね」
「最初は馬鹿げた企みかもと思ったけど、これはこれで面白いわ。そこの少年、それはカカオじゃなくて小豆よ」
酒蔵の通りで赤ら顔の萃香と会った。両手を広げて駆け寄ってきて、
「ウイスキーボンボンだよ。あんたらお子様にはまだ早いかな」
和紙でくるんだ、日本酒のゼリーをくれた。口に含むと角から融けて、林檎の果汁のような濃密な香りが花開いた。チョコレートよりも美味しいかもしれない。早苗はお返しにと、ケーキを渡した。私も倣って、一口チョコを一粒贈った。ぬえはもう一つねだっていた。ハッピーバレンタインと言い交わして別れた。
「霊夢と魔理沙発見」
私の指差す喫茶店の店先で、紅白と黒白が珈琲を啜っていた。霊夢はカップの飲み物を呷ると円卓に打ちつけ、
「賽銭箱にチョコが投げ込まれてたのよ。お金の入る隙間もないくらいに」
「金が入ることなんてあったのか? 覚えがないぜ」
怒りを吐いていた。お賽銭箱が埋まるほど愛されているんだ、喜べばいいのに。魔理沙は水色のケープから硝子瓶を取り出して、テーブルに置いた。小粒の飴玉のようなものが天辺近くまで入っている。色は茶色。シナモンかな。無意識の存在感で近付いて、確かめてみる。ぬえが私に密着してついてきた。
「チョコレートの金平糖だ、一応手製だぜ」
「茸とか混ぜてないでしょうね」
金属の蓋を霊夢が開けた。途端、カカオの深い匂いが溢れ出した。ぬえの舌打ちが聴こえた。
「ちぇ、こいつらバレンタイン知ってるの」
「けど認識改造は成功してるよ。霊夢チョコって言ってたでしょ」
「さっきからうるさいのはあんたらね」
霊夢に睨まれた。いけない、見つかった。早苗が駆け寄ってきて、チョコレートケーキでなだめた。
「悪戯はほどほどにしときなさいよ。また退治するわよ」
霊夢や魔理沙は、香霖堂の霖之助さんと親交がある。あのお店には外の品物も並んでいる。霖之助さんから、外の世界のバレンタインデーについて話を聞いていたのかもしれない。
二人と別れるや、ぬえはつまらなそうに足元の雪を蹴り上げた。蛇のように吠える。
「大笑いしてやる予定が台無し、悔しいわ」
「正しいバレンタインデーを知っている方は、他にもいるようですね。こいしさんの暗示と、ぬえさんの種の効力は生きているようですが」
桜の木の広場で、アリスが人形芝居を繰り広げていた。頭を花で飾った少女人形が、苦難を乗り越えてチョコレートを届ける物語だった。見えない糸が踊る。クライマックス、恥じらうような仕草を見せて、少女人形は紳士人形に箱を差し出した。シュガーピンクの箱からは、転んで潰れたガトーショコラが出てきた。
紫の式神の妖怪狐が、式神の黒猫娘と手を繋いで歩いてきた。二本の尻尾の黒猫は、顔面サイズのハート型チョコレートを食んでいた。スキップしながら。チョコレートの面には、『橙へ。藍より』と色砂糖で描かれていた。
「これじゃ笑えない、普通のバレンタインじゃない」
「お菓子屋さんに行ってみようよ。早苗、行くよ」
「少し待ってください。皆さんに配ってから」
ぬえは不機嫌そうに雪を踏み鳴らしていた。私はそこまで落ち込まなかった。早苗が通る人々に、籠のケーキを贈っていた。誰かが誰かを思いやっている光景を見るのは、いい気分だった。ここには、嫌いの感情は落ちていない。
(お姉ちゃんも来ないかな。今日なら、外は怖くないよ)
今来てお菓子をくれたら、叩かれたことも忘れる。
「これこれ。これが見たかったのよ」
里でも一、二を争う規模の和菓子店は、「チョコレート」を買いに来る客で繁盛していた。塩豆大福が「生クリーム入りチョコ大福」として、落雁が繊細な「彫刻チョコレート」として買われていった。すっかり感覚を狂わされた店主と客を、ぬえが嘲った。
軒先には台と色紙、筆が設置されていた。買い物を済ませた客が寄って、筆を走らせる。「チョコレート」に添えるメッセージカードだ。店内を物色するぬえを置いて、私はカードを書く人や妖怪を観察した。気配を消して、文面を盗み見た。
『ほんの気持ちです。恥ずかしいので深くは詮索しないで下さい』
『ずっと前から大事に思ってた。離したくない』
『あたいよりあいをこめて』
『仕事をサボって書いてます。今日は許してほしいです』
墨筆を持ったまま、書き出せない人もいた。きっと、書きたい心が多すぎるから。どこから文字に変えればいいのか、わからずにいる。貰う相手は幸せ者だなと思った。台から離れて、毛氈を敷いた長椅子に腰掛けた。
しばらく経って、
「空になっちゃいました」
バスケットを掲げ苦笑する早苗と、
「何にしましょうかね」
「大きい方がいい。私の子鼠達が腹を空かせているんだ」
「聖のは特別豪華にするの、船長命令」
「ムラサに一票。凄いの用意して驚かせましょ」
お寺の一行がやってきた。店の正面で出会って、
「おや、いつぞやの暴走巫女じゃないか」
「常識に囚われてないんです」
「貴方もチョコを買いに?」
お互いに深々とお辞儀をし、談笑を始めた。私は和菓子店の中に駆け込み、最中を試食するぬえの腕を引いた。
「んぐ、なあに」
「お寺の皆が来た。ここで買い物するつもりだよ」
「げっ。今は会いたくない、こいし匿って」
首を縦に振って、視えない世界に身を溶け込ませた。路傍の小石と等しくなる。無意識の海の出来事は、誰にも感じ取れない。ぬえの手を握って店を出、隣の金物屋との間に隠れた。冷え湿った壁に耳を当て、中の様子を窺う。
寺の四人衆(雲山も入れて五人衆?)と早苗の、賑々しい会話が聞こえてきた。
「全部手作りにしたかったんですけどね。買い足すしかありませんか」
「まめねえ貴方。私の雲山といい勝負よ」
「嬉しくありません」
「ナズーリン、このお餅チョコレートに私は心惹かれるのですが」
「此方の唐辛子チョコを私は激しく薦めるよ。挑戦的な色遣いをしている」
「聖は実は辛いの苦手なのよ。なるべく甘そうなの選んで」
店内会議の末に、聖用合同出資の「特大ハートチョコキャンディ」(飴細工)と、各々の選んだものを買うことに決めたようだ。購入後、早苗も加わってお菓子の交換会が始まった。
「楽しそうだね。いいなぁ」
「ふん。正体不明に踊らされて。いい気味だわ」
悪戯を咎められた記憶が蘇って、ぬえを苛立たせているらしい。彼らが偽物の「チョコ」にはしゃぐほどに、ぬえは上機嫌になった。頬に残酷な影が差している。
「ところで、ぬえの分はどうしましょうか」
「え、ぬえさん?」
「うちの我儘な末っ子よ。昨日から家出中。少し折檻しただけなのに」
一輪の声に、ぬえは耳をぴくつかせた。壁に一層髪をくっつけて、話を聞き逃すまいとしている。
「姐さんの弟君の彫った仏像に、正体不明の種を仕込もうとしたの。怒られて当然よ」
「いささかやり過ぎたかもしれないがね」
「まあ、ね。かっとなっちゃって。修行不足ね」
「ぬえにも買っていかない? あれでも寂しがりやなのよ、あの子。それと甘党」
「私もムラサに賛成です。同じ聖を慕う者、仲間外れは正義に反します」
ナズーリンと一輪が、そうね、そうしようか、と応じた。あれがいいこれがいいと、楽しい言い争いを始める。聖の「チョコレート」を決めるときと同じように。
「よかったね、ぬえ。ぬえ?」
見れば、ぬえは放心したような、曖昧な表情をしていた。腕に巻きつけた蛇を突いていた。なんで、私悪いことしたんでしょ? 複雑な呟きが漏れる。
「仲がいいんですね、皆さん」
「なんだかんだでね。悪戯っ子だけど、あいつもいないとしっくり来ないのよ」
ぬえを一番怒鳴っただろう一輪が、早苗に自慢した。お寺の絆は固い。聞いていて、ぬえが羨ましくなった。
「チョコ」の詰め合わせを選んで、一行は引き上げていった。何なのかは謎だけれど、多分いいものだと思う。
皆の足音が遠ざかるまで、ぬえは冬の青空を仰いでいた。唇を噛んで。悔しそうに、
「チョコレート、全部食べるんじゃなかった。私、あいつらに何も返せない。頭にくる」
貰ってばっかりじゃ、バレンタインデーにならない。ぬえの後悔は、閉じた『目』を使わなくても伝わってきた。
私は自分のハートチョコの袋を出して、蝶結びの紐を抜き取った。迷わなかった。中身を摘み出して、ぬえの目の前にかざす。
「いくつ要るの? 五つ? 六つ?」
「それはこいしのでしょ。いいよ」
「いいの。私、あんまりあげたい人いないもの」
貸し借りで考えなくていいよ。友達だもん。要らないなら食べちゃうよ。
ぬえの両手で受け皿を作って、勝手にチョコレートを載せた。無意識の干渉を消して、滅茶苦茶な形の翼を押す。ぬえが一歩、表通りに進み出た。振り返って、僅かにほっぺを赤くして、俯きがちに述べた。
「あ、ありがとうね」
「どういたしまして。融ける前に帰るんだよ」
私はちんまりと、異変の相棒に手を振った。いいことをした後は、魂が晴れやかになる。肌を刺す冷気も気にならない。
ぬえは翼を震わせ、空に発とうとして、
「今日の、寝る前の話だけど」
「うん?」
「寺で皆に『ぬえ』って呼ばれて、正体不明の姿を曝して」
抜群の笑顔を輝かせ、
「変なのに、いいなって思ってる。私は、あいつらにとっては『ぬえ』なんだなって。他の誰にもならない」
「他の、誰にも?」
「悪戯楽しかったわ。また悪ふざけしましょう」
ひとひらの羽根も落とさずに、巣に戻っていった。かけがえのない人達の場所へと。一握りのハートを、大切そうに抱いて。
他の、誰にもならずに。
胸が高鳴った。
ぬえの言葉は、私の恋の瞳に降った。乾いていた水脈に、一筋の雫が通った。意識下に閉じ込められた私の心を、いっとき押し広げる。
「話し相手はいくらでも、か」
苦々しく、自分を笑う。
私はわかっていなかった。お姉ちゃんが、どうして傷ついたのか。
帰って謝ったら、許してくれるかな。
「こいしさん。捜しましたよ。ぬえさんは?」
「お寺に戻ったよ。私もチョコ持って帰らなきゃ」
チョコレートを渡したい相手が、地底の奥深くにいるから。早苗はお菓子の籠をぶら下げて、博麗神社まで送りますと言ってくれた。地下世界への入口は、神社の傍にある。
「お二方のおかげで、昨年よりも活気づいたバレンタインデーになりました。私も楽しめました。感謝しています」
幻想郷の日が傾いていく。雪化粧した枯れぶなの道を、低く飛んだ。靴の爪先が雪原と擦れた。
緩く北風を切りながら、傍らの早苗に訊ねた。彼女にも、家族がいる。山の上の神々、神奈子と諏訪子。大事な二柱を傷つけたり、失望させたりしてしまったら、どうすればいいか。
そんなことありえませんと前置きした上で、早苗は答えを紡いだ。
「心の風に身を委ねます。正しい振舞いは、気持ちがつくってくれます」
「こころが壊れていたら?」
私のように。意識し考える毎に、黒雲がかかってぼやけたら。
早苗は目を丸くして、細めた。ありとあらゆるものを導く現人神の顔で、
「貴方が思う以上に、貴方の心は生きていますよ。明るく、優しく」
お告げのように囁いてくれた。力強く、支えられている気がした。
奇跡を起こす手が、博麗神社の鳥居を指し示す。
「見えてきましたよ」
「うん。ここまででいいよ、ありがとう。神様によろしくね」
ハートのチョコレートと抹茶羊羹を交換して、早苗と別れた。これで、袋に残ったチョコはひとつきり。贈る相手は決まっている。
飛行速度を速めたら、風に帽子が煽られた。季節はずれの蝶々のように、洞穴の方角へ飛んでいく。手を限界まで伸ばして追いかけた。なくしたら困る。貴方はすぐいなくなるから、これを目印にするわ。そう言って、お姉ちゃんが黄色いリボンをかけてくれた帽子。
待って。私はいなくならないから、ここにいるから。
洞窟の入口の雪道に、黒い帽子は着地した。よかった、下が雪なら汚れない。暴れる髪を押さえて微笑み、
「え、あれ? なんで?」
疑問で固まった。
見知った影が、帽子を拾い上げていた。つばの雪粒が、慈しむように払われる。出歩くのは嫌いなはずなのに、何故外にいるのだろう。驚く私の姿を捉え、
「やっと会えたわね。帰ってくるまで此処で待つつもりだったわ。下手に捜しても、貴方は見つからないもの」
お姉ちゃんが、たっぷり白い息を吐いた。病弱そうな真っ白い手で、帽子とハート型の大き目の箱を持っていた。私が近寄ると、黒い帽子を被せてくれた。ひよこ色の箱が突き出された。
「ハッピーバレンタイン、こいし」
「う、うん。私もお姉ちゃんに、はいこれ」
袋をまさぐって、最後の一粒を手渡した。お姉ちゃんは口に放って、甘いわと感想を述べた。
私の無意識操作とぬえの正体不明の種は、地底にも届いている。お姉ちゃんも暗示にかかって、幻の「チョコレート」を作ったのだろう。
「箱、開けていい?」
「どうぞ。メッセージカードは、後で読んで」
お姉ちゃんは、何をチョコと勘違いしたのか。ピンで留められていたカードを上着のポケットに収めて、布張りの上蓋を取った。
「あれ?」
箱にはクッキーもマフィンも、チーズケーキも入っていなかった。精巧なチョコレート細工の薔薇が、整然と座っていた。セピアと白と、二色。初めは、マジパンか飴かと疑った。一花丸ごと頬張ったら、きちんとチョコの味がした。
地底暮らしの長いお姉ちゃんは、バレンタインデーを知らないはずなのに。
「どうして、タルトやサブレじゃないの」
「何を言っているの。バレンタインデーは、チョコレートを渡す日でしょう」
たまたま、地霊殿に本物のチョコレートがあって。私の意識下催眠に弄られたお姉ちゃんが、それを「チョコレート」と思って使ったということ? 凄まじい偶然だ。そんなこともあるのか。
笑いがこみ上げてきた。
「もしかしたら、早苗のちっちゃい奇跡かも」
「何のこと」
「なんでもないよ、とっても美味しい」
今まで味わった沢山の「チョコ」よりも、ずっと。
叩かれてからの気まずさや閉塞感も、チョコレートの花びらと一緒にとろけていった。心の中に、清い風が吹く。胸が躍る。気持ちが生きているって、こういうことかな。
今なら言える。心のままに、言葉を声にする。お姉ちゃんの三つの眼を、二つの瞳で見て。
「ごめんね、お姉ちゃん。話し相手はいくらでもいるって、酷いこと言っちゃった。私はお姉ちゃんの妹なのに。たったひとりの」
何があっても裏切らないでいてくれる。どんなに寒くても、帰りを待っていてくれる。私のたったひとりの、お姉ちゃん。私より弱くても、皮肉っぽくても構わない。
始まりはふたりきりだった。守られていた。
「えいっ」
「きゃ」
抱きついて、ぎゅってした。低い背丈が、指を通る菫髪が恋しかった。第三の瞳を擦り合った。
これからも、すれ違うかもしれないけれど。やり直せばいい。私の家は、ここにある。
「くすぐったいわ。わかってくれれば、もういいの」
身体を離すと、お姉ちゃんは醒めた口調で言った。上目遣いにこちらを睨んでくる。顔全体が、ほんのり紅に染まっていた。
「お姉ちゃん、結構照れ屋さん?」
「……ばか。何年一緒にいると思っているの」
痩せた背を向けて、地の下に歩き出す。私は三歩後ろを追った。
ポケットに突っ込んだ右手に、小鳩型のメッセージカードが触れた。音を立てずに文面を読んだ。
私のお姉ちゃんは、無関心なようで過保護で甘い。さながら、チョコレートの如く。
世界でたった一人の姉妹の絆、ほんわかできました。
やはり姉妹愛は素晴らしいですね、うん。
こいしとさとりの話も、ぬえのエピソードも、大変良かったです。
だが私は謝らない。
信頼と実績の深山咲クオリティ。何気ない文からも独特の雰囲気を味わえます。
バレンタイン爆発しろとか思ってた自分が情けない。
素敵なお話感謝。
最後のメッセージカードで涙腺が崩壊した。
作者さんありがとう。本当にありがとう。
メッセージカードで目が熱くなった。
あぁ、バレンタインか…と思ったら増量した
ご感想、とても嬉しいです。読んでいるとぽかぽかしてきます。
こいしとぬえ、無意識と正体不明。力を合わせたらどんなことになるのかなぁと、考えて書きました。
何かしら感じていただければ、幸いです。
こんなゴミの代わりなど、世に必要ないと思った事さえ……
私が勝手に感動しただけですが、そして少々出遅れてしまいましたが、
あえて言わせてください。
ありがとう。
貴方のファンなので、次回作も楽しみにしています
姉妹の距離感がたまらないです。
温かく終わるってのはいいなあ
冗談はさておき、早苗さんが非常に良いお姉さんでしたねぇ。
ぬえはお寺の皆の気持ちを知り、こいしも姉との絆を深められて。
こんな異変なら許されますよね。
このバレンタインも素晴らしいです.
メッセージカードの威力が凄まじかった。
離れて暮らしてる姉にチョコレートあげたくなりました。