「な、何のつもりよ……」
博麗霊夢は窮地に立たされていた。
否、窮地へと押さえつけられていた、とでも言っておこうか。
立っているのならば窮地から去る事も出来るかもしれないが、押さえつけられていたらそうはいかないのだから。
畳の上へと寝かされ、両腕を押さえ込まれた霊夢の姿。
それはまさにまな板の上の鯉、その物であった。
「紫様が冬眠してしまって寂しいんだ。慰めて欲しい」
「知らないわよ。自分で慰めてなさい」
「つれないなぁ。君と私の仲じゃないか」
「何時そんな仲になったのよ!」
馬乗りになって、霊夢の動きを封じているのは八雲藍。
境界を操る妖怪八雲紫の式神にして、霊夢としても馴染み深い相手の一人である。
だからこそ、油断した。
炬燵に入ってぬくぬく気分を味わっていた霊夢は、突如牙を剥いて襲いかかってきた獣に為す術無く抑え込まれてしまったのだ。
しまった、と後悔するがもう遅い。
この体勢になった時点で、霊夢の勝ちは万に一つもあり得ないのだ。
妖獣と人間の力では比べる事すら愚かしい。
霊夢の運命はもはや藍の思うがままであった。
「紫様の手前遠慮してきたが、実は君に興味津々でね。一度こうしたいと思っていたんだ」
そう口にする九尾の表情は実に妖艶。
数々の人妖を魅了してきたであろう傾国の美女の笑みを間近で見せられ、霊夢は同性にも関わらず、どきりとささられてしまう。
「私の意思は……?」
「なぁに、嫌がるのは最初だけさ。すぐに自分から求めるようになる」
逃れられない。
耳元で囁く藍の艶めかしい声に霊夢は自分の力が抜けて行くのを感じていた。
外は凍える寒さだというのに、身体がどんどん熱くなっていくのがわかる。
このまま私は食べられてしまうのだろうか。
伝聞でしか知らない数々のイメージが、霊夢の頭に浮かんでは消え、彼女の理性の城を崩していく。
目尻には涙が溜まり、歯はカチカチと鳴り、弱々しく未知の恐怖を訴えていた。
そんな彼女の反応が予想通りだったのか、それとも予想以上だったのか。
九尾の狐はくすくすと本当に楽しそうに嗤う。
「ふふっ、私無しではいられない身体にしてあげるよ」
指で優しく顎の下をさすってやると、霊夢はビクりとその身を跳ねさせる。
傾国の美女による長い長い一日が始まろうとしていた。
―――――――――霊夢が藍様無しじゃいられない身体にされちゃう話―――――――――
もふもふもふもふ。
「むあー……」
霊夢の身体は藍の大きな九本の尻尾に包まれていた。
顔だけが外に出ているその姿は端から見れば本当に食べられてしまったかのようで。
けれども霊夢の実に幸せそうな表情が、この環境の快適さを物語っている。
「随分と気持ちよさそうじゃないか、霊夢」
「むー……」
「くくっ、すぐに自分から求めるようになるだろう?」
「別にー。アンタに付き合ってあげてるだけー」
「素直じゃない子は出しちゃおうかな」
「あぅ、ごめんなさいごめんなさいー」
先程までの拒絶とはうってかわって、霊夢は藍を求めていた。
まさに嫌がるのは最初だけ、と藍の言った通りである。
もふもふにしてぽかぽか。
しかもサイズまで自分の意思で調整できる優れモノ。
寒がり巫女霊夢にとって、九尾ベッドは余りに魅力的だったのだ。
だらしなく弛緩しきった霊夢の顔を見ながら、藍もまた幸せそうに笑う。
「この季節、紫様がもふもふしてくれないと尻尾が寂しくてね」
「んー」
「橙も今日は友人宅で泊まってくるらしいし」
「あー」
最早霊夢の耳には藍の言葉など届いていないのか、あーうーと生返事を繰り返す。
ひょっとしたら余りの快適さに、早くも睡魔に襲われているのかもしれない。
藍としては自分の尻尾を喜んでくれるのは嬉しいが、すぐに眠られてはつまらない。
少し相手の意識を覚醒させてやる意味も込めて、霊夢の名前を呼んでやった。
「軽いな、霊夢は」
「そう?」
ちゃんと聞こえているじゃないか。
首を傾げる霊夢の姿に、藍は苦笑しながらその場へと立ち上がる。
必然的に尻尾にくるまれている霊夢はひょいと持ち上げられる形となった。
「わ、急に立ちあがるな」
突如体勢が不安定になった事に、霊夢は不平を言おうと藍の表情を覗き込む。
……が。
「うん、やっぱり軽い」
先程見せた妖艶な笑みとは違う、明るくも優しげな笑顔に言葉を失ってしまう。
嗚呼、どうしてこの狐は。
およそ妖怪とは思えないほどに包容力に溢れていて。
暖かいのだけど、何処か気恥ずかしくて。
ずっと昔に忘れてしまった何かが―――――
そこまでぼうっとした頭で考えたところで、霊夢はハッとする。
いかんいかん、何を妖怪相手に考えているのだ。
ほのかに紅くなった頬を隠すように、ぷいと顔を背ける。
そんな愛らしい霊夢の姿に、藍は『これは主が夢中になるのもわかる』と静かにその双眸を閉じるのだった。
静寂が室内を包む。
外の冷たい風など文字通りどこ吹く風。
二人は身体も心もぬくぬく気分でゆったりとした時を刻んでいた。
こんな時間がずっと続けばいい。
口には出さないが、霊夢は心の何処かでそんな事を思ってしまっていた。
しかしこの九尾、少々難儀な点がある。
可愛い者を見つけると、少しだけ意地悪をしたくなってしまうのだ。
先程の霊夢を押さえつけたのもそう。
狼狽した霊夢の反応が見たくて、思わずやってしまった事なのである。
そして今彼女の前にいるのは実に幸せそうに欠伸をする愛らしい少女。
藍のインスピレーションを刺激するには十分すぎるほどの逸材で在った。
「さて、と」
「んぅ……?」
「そろそろお暇させてもらおうかな」
……もう?
そう言わんばかりに弱々しい表情で尻尾を握る霊夢に、思わず藍は頬が緩みそうになってしまう。
しかし、ここでそんなニヤニヤした表情を浮かべるのは明らかに不自然。
コホンと咳払いをして崩れそうになる理性を引き締め直す。
「せっかく紫様が居ないのだから、色々な方をくるんでみようと思ってね」
「何それ、私は遊びだったって言うの」
「いや、真剣だったよ。相手が誰でも私は真剣さ」
「尻軽」
「尻軽だから丁度いい重石を探しているんだ」
「むぅ」
舌戦で目の前の九尾に勝てる筈がない。
それを自覚している霊夢は、涼しい顔―――――内心ニヤニヤだが――――――をしている藍にうーっ、と拗ねたような視線を送る。
自分に向けられる熱視線に、藍は思わずくすりと笑みを浮かべてしまう。
「行って欲しくない?」
「……別にそうは言ってない」
「さぁて、どうしようかな?」
別にって言ってるでしょうが。
そう言葉にはしなかったのは、少なからず行って欲しくないと思っているからである。
何処か楽しそうに考え込んでいる藍の次の言葉に、霊夢は黙って耳を傾けていた。
「そうだなぁ」
そして霊夢の期待と不安が渦巻く中、藍が発した言葉は―――――
「『らんしゃまー』って呼んでくれたら行かないであげるよ」
実にネジがぶっ飛んでいた。
「はぁ!? 何言ってんの、アンタ!?」
「延長料だよ、延長料」
そこまで口にすると藍は尻尾の寝袋から客人を追いだした。
これ以上を望むならば延長料が必要と言う事だ。
対してころんと畳の上へと放りだされた霊夢は、即座に炬燵へと緊急退避を敢行。
ひとまずは危機を脱したかのように思えた。
しかしこの時になって霊夢は、ようやく先程の藍の言葉の真意を理解することとなる。
―――――私無しではいられない身体にしてあげるよ。
物足りないのだ。
文明の利器『KOTATSU』を持ってしても温もりが足りないのだ。
まるで心にぽっかりと穴があいてしまったような寒さに霊夢は身震いする。
無理もない。
藍の尻尾にくるまれた時の快適さと言ったら、天にも昇る心地と言っても過言ではない。
いかに『KOTATSU』が人間の英知だとしても、越えられない壁と言う物が存在する。
それをわかっていて、藍は霊夢に延長料を要求しているのだ。
「アンタ、紫にもこんな事やってんの?」
「まぁね。紫様は『私はらんしゃまの僕です』まで言ってくれたよ」
「うわぁ」
何て酷い式神だと霊夢は思う。
こんな奴の言いなりに成るのは癪もいい所だ。
しかし炬燵では最早霊夢の心の中を吹きすさぶすきま風を止められないのは事実な訳で。
「うー……」
「さぁ、どうする?」
「ランサマー」
「藍様ーじゃなくて、『らんしゃまー』ね」
「乱射魔ー」
「変なニュアンスが含まれてるから駄目」
ニヤニヤと何処までも意地悪く笑う藍。
このままではこの式神の思う壺だと痛いほどに理解しながら。
それでも霊夢は顔を真っ赤にしながら言葉を紡ぐ。
「ら、らんしゃまー……」
「よしよし、霊夢は可愛いなぁ」
「触るな、ばか」
人の尻尾に潜っておいて触るなは無いだろう。
紅くなった顔を隠すようにそそくさと尻尾に潜っていく霊夢を見ながら、「ごゆっくり」と藍は小さく手をふるのだった。
「おいーっす、霊夢。炬燵入れてくれ、炬燵」
どれくらいの時間が経っただろうか。
霊夢がまどろみの中の住民となりかけていたその時、障子を開く音が室内に響き渡った。
外の冷たい風と共に室内に侵入してきたのは霊夢の友人、霧雨魔理沙。
りんごのように赤くなった顔で、いつものようにニッと笑う。
「やぁ、魔理沙。この寒さだというのに元気だね」
「こりゃまた珍しい。霊夢いるか?」
出迎えた九尾の狐に軽く手を振って挨拶をしながら、魔理沙は神社の主の居場所を尋ねた。
「霊夢なら君の目の前に居るよ」
「んー? 何処にもいないぜ?」
言うまでも無く、霊夢の身体は藍の尻尾の中。
それを知る由も無くキョロキョロと辺りを探す魔理沙に、藍はくっくと笑いを堪える事に必死である。
そんな藍の様子を見て、魔理沙はさらに首を捻る。
目の前と言われても、あるのは藍の身体だけ。
霊夢の姿など、影も形も見えないではないか。
適当な事言いやがって、と魔理沙が別の場所を探そうとしたその時だった。
「ういー」
ぽん、と。
尻尾のドームから霊夢が顔を出した。
「うお、霊夢が生えた!?」
「はっはっは、驚いたか―」
ほんの少し前までウトウトしていた為か、何とも奇妙なテンションになっている霊夢。
魔理沙はと言えば、いきなりの展開に目をぱちくりさせながら状況の理解に努めている。
「おいおい、これはどう言う事だ」
「実はここに住みつかれてしまってね。私も困っていた所なんだ」
「いい加減な事を言うなー」
「痛い痛い、引っ張るともういれてあげないよ?」
ぴたり。
ぐいぐいと尻尾を引っ張っていた霊夢の手が止まる。
そしてそのまま抱き枕のようにぎゅうと尻尾を抱きしめた。
そんな霊夢の様子を見ていた魔理沙が、興味津々と言った様子で目を輝かせる。
「何か気持ちよさそうだな、霊夢」
「別にそれ程でもないわよ」
……良く言うよ。
そう口にする代わりに呆れたように溜息を吐く藍だが、霊夢は無視して目を瞑る。
あと一分もすれば、再びまどろみの世界へと旅立つ事だろう。
しかしそうは問屋が卸しても、魔法使いが卸さない。
霊夢のぬくぬく気分に比例して、魔理沙のうずうず気分は高まっていたのだ。
居ても立ってもいられず、尻尾から出ている霊夢の頭をぺちぺちと叩く。
「なぁなぁ、私も入れてくれよ」
「んーっ」
「いいだろ、藍?」
「そうだなぁ、霊夢と相談して……」
「駄目」
「そう言われると、ますます入りたくなるな」
「でも駄目」
ふんと鼻を鳴らしながら。
取りつく島も無いと言った様子で霊夢はぷいとそっぽを向く。
少女の縄張り争いは激しいのだ。
「ここは私の特等席なんだから」
「いいじゃないか、少しだけだからさ」
「アンタには炬燵があるでしょ」
「やだ。尻尾がいい」
「私だって尻尾がいい」
流石は傾国の美女と言うべきか、この九尾モテモテである。
子供か……ああ、子供だったな。
低レベルな争いを続ける二人に苦笑する藍だが、両側から尻尾を引っ張られてはたまらない。
何とか平和的に解決する方法は無いかと、頭を悩ませる。
「よし、じゃあこうしよう」
そうだ、いい事を思いついた。
自分自身の会心のアイデアに藍はぽん、と自らの掌を打つ。
二人は気付いていないが、その瞳は何処か邪悪な色が灯っていた。
この状況を打破する為に、式神の演算能力が叩きだした答え。
それは次のような物だった。
「先に『らんしゃま入れて』と言った方が―――――」
「らんしゃま入れて!」
「早っ!?」
霊夢の判断には速さが足りないッ!
魔理沙の圧倒的なスピードに、ぽけぽけ状態であった霊夢の頭が一瞬で覚醒する。
返答はスピードである。
兎にも角にも、魔理沙は条件を満たした事になる。
勝負あり、と宣言をする代わりに。
魔理沙の答えを聞いた藍はふっとと唇の端を歪めると、尻尾から霊夢を引きはがす。
何とか抵抗しようとしがみつく霊夢だが、九尾の狐の腕力の前では無力に等しかった。
「悪いね、霊夢。君は炬燵でぬくぬくしていてくれ」
そう口にするや否や、藍は尻尾の住民をぺいっと炬燵に投げ入れる。
勝負とは非情な物である。
入れ替わりに尻尾へと侵入した魔理沙は、目の前に広がる金色の野に弾けるような笑顔を見せた。
「うおお、もふもふだぜー」
「あう」
「もふもふー」
「あぅ……」
「もふもふー」
「あぅあぅあー……」
対する霊夢はまるでどこぞの蛙のように。
口をパクパク開けながら、すがるような視線を藍へと送る。
光の加減のせいか、その瞳はかすかに潤んでいるように見えた。
これには子供に弱い藍が、うぐ、と言葉を詰まらせる。
確かに先程の勝負はまごうこと無き魔理沙の勝利であった。
だから霊夢を尻尾から追い出すのは何も間違っていない。
何も間違っていないのだが―――――
「……ほら、霊夢も来なさい」
「!」
霊夢の潤んだ瞳に射抜かれ、平然としていられる者がいるだろうか、否、いない。
観念したかのような藍のその言葉で、霊夢の顔がぱぁっと輝きを放つ。
「えーずるいぜ。私が恥を忍んで言ったのに」
「そうは言うが、あれを見るとなぁ……」
さしもの傾国の美女も子供には敵わないのである。
勝者である魔理沙に向けて、すまなさそうに頬を掻く藍。
対して魔理沙は納得いかない様子を隠そうともせず、唇を尖らせながら霊夢の方を振り返り――――――
そして絶句した。
彼女の視線の先。
魔理沙を見つめ返すように存在していたのは、夕日を浴びてキラキラと輝いている霊夢の訴えるような瞳。
何処か子犬を思い起こさせる表情に、在りもしない尻尾がピコピコと揺れているように見える。
その素敵過ぎる巫女の頼みは、魔理沙と言えどないがしろに出来る代物ではない。
ましてや、その願いを壊すような行為など。
くっ、と悔しそうに拳を握りしめながら、魔理沙は両手を上げて敗北宣言を行う。
「あー、わかったよ。私の負けだ」
「やったっ!」
ぱん、と両の手をあわせて、霊夢は喜びを噛み締める。
幸せそうな彼女の表情に、魔理沙は顔を引きつらせながら負け惜しみのように口を開いた。
「お前せめてアレ言えよ。私だけ言わされて恥ずかしかったんだから」
「ま、それは道理だね」
「わ、私だってさっき延長料払ったじゃない」
「それは今までの料金。これ以上はまた延長料が必要だよ」
ぐぅ。
意地悪い瞳を向ける二人に、霊夢は言葉を詰まらせる。
彼女はあくまで二人に無理を言って尻尾に入れて貰おうとしている身。
立場的には一番弱い状態に在るのだ。
先程と似たような台詞とは言え、今度は魔理沙の目の前でだ。
よりにもよって、一番恥ずかしい姿を見せたくない相手の前で、である。
客観的に見て、シャイガール霊夢がそう簡単に踏み出せる一歩では無い。
―――――しかして、そんなへたれいむをも、動かすのが藍の尻尾の魅力な訳で。
紅白巫女は下を俯き、耳まで真っ赤にしながらもついにその言葉を紡ぐのだった。
「……らんしゃま入れて―」
冬の昼間は短い。
世界に彩りを与えていた太陽が傾き、全てが赤で満たされていく、丁度その頃である。
子供たちを寝かしつけ、自身もすやすやと舟を漕いでいた藍は、小さな物音でその目を覚ました。
……眠ってしまっていたか。
寝ぼけ眼を擦りながら、音の正体を確かめるべく視界を巡らせると、障子の前には先程まで自分の尻尾に入っていた筈の黒白魔女の姿。
片手に荷物、片手に箒のその姿は、今まさに外に出ようとしているようであった。
「お帰りかい?」
藍の声に、魔理沙はビクッと小さく跳ねると、ばつが悪そうに頬を掻く。
どうやら起こさないように出て行くつもりだったらしい。
「まぁな。飯の支度もあるし」
「てっきりここに食べに来たと思ってたんだが」
「あー、いや。ほらあれだ」
魔理沙の視線の先には、尻尾からはみ出ている霊夢の無邪気な寝顔。
「これ以上、邪魔するのも悪いしな」
「そうかい」
くすり。
二人は顔を見合わせて、小さく笑みを浮かべた。
そしてそのまま、魔理沙は障子に手を掛けて。
……少しだけトーンを落として式神の名を呼んだ。
「なぁ、藍」
「うん?」
「もうしばらく、そうしてやっていてくれよ」
「ま、そのつもりだよ。延長料ももらったしね」
「や、そう意味じゃなくて。霊夢は……さ」
そこまでを口にして、魔女は何かを言い淀む。
はて、どうした事か。
何時に無くはっきりしない態度の魔理沙に藍は首を捻る。
そんな九尾の反応に、魔女は何を思ったのだろうか。
一瞬の静寂の後、大きくかぶりを振ると、いつも通りの笑みを浮かべて自宅へと続く障子を開けた。
「やっぱり何でも無いぜ」
「おいおい、気になるじゃないか」
「悪いな、忘れてくれ」
「……努力させてもらうよ」
そんな藍の声が届くよりも早く。
魔理沙は部屋の障子を締めると、そのまま空高くへと舞い上がっていった。
相変わらず突風のような少女だ、と藍は思わず苦笑する。
はてさて、これにて残されたのは霊夢と藍の二人きり。
静寂の中、聞こえるのは霊夢の静かな寝息のみである。
橙も今日は帰って来ないし、これからどうしようか。
そんな事を考えながら、藍は背中ですやすやと寝息を立てる霊夢へと目を向ける。
「……すぅ」
―――――無防備な物だ、と藍は霊夢の頭を撫でる。
今、この手にほんの少し力をこめるだけで、目の前の少女は容易く命を落とすだろう。
世界の中心に位置するとされる彼女が、である。
何者にも縛られる事の無い存在とされる博麗霊夢。
そんな彼女がこうも簡単に自分を信頼し、依存する事が藍は何処までもおかしくて。
そしてほんの少しだけ、つまらなくも感じていた。
藍は博麗の巫女と言う存在に、以前から興味を持っていた。
何せ、自分の主を惹きつけてやまない程の存在だ。
理論では説明出来ない何かを持っているのではないか。
そう思いながらも、主の手前、表に出す事を控えて来た。
だが事実はどうだ。
遠目からは不思議な引力を放つ彼女も、近付いてみればまるで普通の少女ではないか。
「んぅ」
無意識に手に力がこもっていたのか。
藍の尻尾の中で霊夢が、煩わしげにうめき声を漏らす。
慌てて手を離す藍だが、霊夢はそのままゆっくりとその双眸を開いた。
「んー、藍……?」
「ああ、すまない。起こしてしまったかな?」
「魔理沙は……?」
「腹の虫が鳴ったようで、今しがた帰ったよ」
寝ぼけ眼を擦る霊夢に、藍は何事も無かった様に笑みを返す。
藍にしてみれば状況をごまかすための笑みでもあった訳だが、巫女にはどう映ったのか。
その手で頭をぐしゃぐしゃと掻くと、気恥ずかしそうに視線を逸らす。
「アンタは……どうするの?」
「もうしばらくしたら戻る。夕食の準備もしないといけないからね」
「そっか……」
浮かない顔で返事をしたかと思うと、霊夢は下を俯いてしまう。
ぎゅう、と尻尾の中で拳を握るのが伝わってくる。
ああ、行って欲しくないんだな。
それだけで藍には十分伝わったが、家をいつまでも留守にしておくのは望ましくない。
どれだけ彼女が望もうとも、あと半刻ほどで帰らせてもらうとしよう。
そう判断して、その旨を尻尾に潜る少女へと伝えようとした、丁度その時であった。
「……今度の延長料は何?」
そうきたか。
霊夢の質問に藍は思わず苦笑する。
延長料など、霊夢をからかう為の口実だった訳だが。
あれだけ恥ずかしい思いをさせられても、尚も自分から延長料を払おうと言うのか、この巫女は。
確かに尻尾の中はこれ以上ない程に快適だろう。
自分無しではいられない身体にするとも言った。
だが、それにしても今日の彼女は『らしくなさ過ぎる』のではないだろうか。
これではまるで母親の乳をねだる――――――
そこまで考えて、藍ははたと思い至る。
そう言えば自分は、霊夢が母親と一緒に居る姿を見た事が無い。
博麗の巫女は世襲制と言う訳ではない。
だとしたら先代博麗の他に霊夢の母親は居て然るべきなのだ。
だが、彼女がほんの子供の頃、この神社に来た時にも彼女の母親なんて――――――
ああ……そうか。
藍は何かに気付いてしまったように、すぅと目を細くする。
……ひょっとしたら、この子は。
いつも気丈に振舞っているだけで本当は。
母の愛とかそう言った物にずっと餓えていたのかもしれない。
そう、らしくなくなんてなかった。
本当に、普通の少女だったのだ、博麗霊夢は。
周囲が特別と持て囃すだけの、普通の人間だったのだ。
私達が勝手に、博麗の巫女に仕立て上げただけなのだ。
空を飛べるはずの彼女を、『博麗』と言う名で締めつけて。
目の前で震えていた少女……『霊夢』から目を逸らして。
そのせいで、彼女は。
『博麗の巫女は何者も縛られない』という事に、縛られて、これまでずっと誰にも甘える事が出来なかったのだ。
橙という存在を持ちながら、こんな簡単な事に今まで気付けないとは。
自分自身の浅はかさに、藍は眉をひそめて猛省する。
「藍……?」
突然表情を険しくした藍を不審に思ってか。
霊夢は不安そうな声で、彼女の名前を呼んだ。
しまった、怖がらせてしまったか。
相手を安心させる意も込めて、藍は尻尾から飛び出た霊夢の頭をぐしぐしと撫でてやった。
「そうだなぁ」
鬱陶しい、と霊夢に払いのけられた手を自身の顎において、藍はうーんと唸る。
思いを巡らすのは、勿論延長料の件についてだ。
霊夢が自分から言い出したんだ、じっくりと考えて条件を出さなければいけない。
否、本当は既に条件は頭に浮かんでいるのだが、これを言ってしまっていい物かと悩んでいるのだ。
これは目の前の彼女にとって衝撃なのは勿論、自分の主を裏切っている事になるのではないか。
しかし、こんな機会は滅多にあるまい。
あの素直じゃない少女が、ここまでわかりやすく自分を求めている。
ここで自重する方が間違っているという物だ。
そう自分を納得させた藍は意地悪く唇の端を歪めると、延長料を霊夢に向かって宣言した。
「じゃあ『お母さん』って呼んでくれ」
「なぁっ!?」
何とも間抜けな声を上げて。
尻尾にうずまる紅白少女は、その身を固まらせた。
「な、ななな……!?」
「この冬があけるまで、君が『お母さん』って呼んでくれる間はずっと、尻尾に入れてあげるよ」
破格の条件だろう、と藍は笑う。
本当に破格の条件だ。
何せ、その一言で手に入るのは尻尾に入る権利だけでは無い。
延長料などで母の愛を買える筈などないが。
それでも、それに似た何かを与えてやれるのではないか、と藍は思う。
それは結局は一時の夢。
この長い冬が終われば、霧散してしまうであろう幻想に過ぎない。
霊夢は博麗の巫女、藍は紫の式神として各々の役割があるのだから。
けれども、今は。
せめて紫様が起きてくるその時までは。
この巫女を少しばかり縛ってやっても――――――
母親の代役くらいは務めても罰は当たらないだろう。
そんな事を考えながら、九尾は何処までも優しく笑う。
延長料などと言うのは、結局はただの口実なのである。
対して、博麗の巫女は。
否、『博麗霊夢』は先程までと同様に―――――いや、それ以上に顔を真っ赤にさせながら。
それでも、やはり答えは決まっているのだ。
「……おかーさん」
小さな、とても小さな、絞り出すような声。
俯いている事もあって、藍の耳をもってしてようやく聞き取れる程の音量であった。
それでも藍はとても満足そうに笑身を浮かべる。
冬の間限定の娘が出来た事を、歓迎するように。
――――――さて、橙には新しい娘をどう紹介してやろうか。
「なぁ、霊夢。もう春なんだが」
桜舞い散る、などと言う表現がぴたりと当てはまるであろう、春真っ盛り。
藍は未だ自分の尻尾の中を根城にする霊夢に対して、心底呆れたように溜息を吐いた。
条件は確か冬の間だった筈なのだが……。
「まだ冬よ」
「直に紫様も目覚める時期なんだけど」
「まだ起きないわよ」
「……そろそろ離れてくれない?」
「駄目」
ぎゅうと。
霊夢は九尾の尻尾を握りしめて離さない。
もうそこまで寒い訳でもないであろうに、何が彼女をこうも貪欲にさせると言うのか。
藍はほとほと困り果てた様子で空を仰ぐ。
「はぁ、紫様に見つかったらどうなる事やら」
「大丈夫よ。私が無理言ったって伝えてあげるから」
「そう言うのを火に油って言うんだ」
「?」
ひょっとしたら縛られたのは自分の方ではないのか。
背中で自分の巣を形成している彼女を見ていると、そう思えてきてならない。
けれども幸せそうな彼女を見ていると、それでもいいかなどと考えてしまうのもまた事実で。
嗚呼、やはり自分も博麗の巫女には敵わないのか、と藍は諦めに近い笑みを浮かべるのだった。
とは言えこの九尾、縛られてもただでは縛られない。
彼女ほどの存在を自分の物とするには、やはりそれ相応の対価が必要なのだ。
そして彼女達の間で交わされている契約と言えば勿論――――――
「よし、『お母さん、大好き!』にしよう」
「何が」
「延長料」
その言葉を聞いた瞬間、ぼっと霊夢の顔が紅潮する。
霊夢からすればまだ冬だと抗議したい所だが、藍の表情を見るにそれは通じそうもない。
せめて以前のように雪が降っていればまだ言い張れる物を。
くそう、気にいらない、と巫女は心の中でごちる。
この何処までも優しげな、自分に向けられる笑顔が気にいらない。
「……期間は何時まで?」
「君が親離れするまで、かな」
誰が親よ。
霊夢は下を俯きながら誰にも聞こえない声で、苦言を呈す。
くそう、気にいらない。
この穏やかな笑顔が気にいらない。
それに安らぎを覚えてしまっている自分が気にいらない。
否、それ以上に気にいらないのは――――――
最早、自分が藍を母と呼ぶのに抵抗が無くなってしまっている事である。
そんな恐ろしい事実に目をそむけるように。
霊夢は顔を真っ赤にしながら嫌そうに、自分に出来る限りの嫌そうな声でその言葉を紡いだ。
「……おかーさん、大好き」
それはらんしゃまの尻尾の中だ!
あとがき以外w
俺の幻想郷はここにあったぁぁぁ!!
あぁ、幸せ空間ここに極まれり…
とても心地良いのでしょうねぇ……。 霊夢が「おかーさん」って呼ぶ姿とか話の雰囲気など面白いお話でした。
ああもふもふしたい
寒風の吹きすさぶ北の地で、私はこのSSを読んで暖かくなれました。
モモッモフッモオモモhジュモフーーーーもふもいふもふもいふもふもふーーーーッ!!!!
もふもふもふももふもふもふも!!
おかーさん大好き!
霊夢の境遇に着目して藍様と組ませるとは流石ですね!
悲壮感に溢れており、グッときました
でも…ぱるぱるぱるぱる! うわーん、霊夢そこ変わって
霊夢の「うぃー」
とかもうね、もうね…たまらんよ、ホント降参だよ。
霊夢かわいいよ霊夢
藍しゃまの尻尾もふもふしたい
やばい、これマジやばい。こんな時間に読むんじゃなかった。今夜は朝まで眠れそうにないわ。
どう責任とってくれるんだ。
良いお話をありがとうッ!!
こんな話が書ける作者にぱるぱる…
もふもふしたいです!
藍様の包容力は異常
こんな理想の母親像はいない!
あ、俺?
大丈夫大丈夫、藍しゃまの豊満な胸で抱き締めてもらうから。
前は独占させてもらうわ(^Д^)
らんれいむ最高!
おかーさーん!
さすが手負いさん。最高だ!!!
もふりてぇ…
たまらんね。
らんだけに。
ああ・・・もふもふ尻尾・・・
これで勝つるっ!
色々な意味で勝つるっ!
でも、ちぇんがグレかねないぞこれwww
橙はどう反応するかなとwktkしてたら
あとがきでやられた
らんれいむ……、何か新しい扉を開いてしまった気がする。
もふもふしたい。
霊夢はどこにでも居る普通の女の子。けど役割のせいで、普通では居れない…。そらシンドイわなぁ
このSSのおかげでうなぎのぼりですwwww
藍しゃま大好きィ!!
おかーさん大好きィ!!
それはともかく、ほのぼのしていて、とても和みました。
評価など無粋ですがあえて付けます100点を
でももふもふされちゃう!!
これほど何度も読みたくなる作品が他にあっただろうか。
何度読んでも飽きない面白さ。このSSに出会えてよかったです…
あぁ俺は一体どうすれば……! ポティットな。
いいもふもふ感でした。それと霊夢の「おかーさん」にときめいた。
流石最強の妖獣やで