初めて見たのはドラマの中だった。
ジュエリー・シルフォンが主演を勤める『フィレンツェの紅茶』。1950年頃のイタリアを舞台にしたドラマは古めかしく、どうしてそれを見ていたのか今となっては覚えていない。ただ咲夜の脳裏には、その映画が今も色濃く残っているのだ。
思えば、紅茶やお菓子作りに興味を持ち始めたのもこの映画の影響なのかもしれない。フェレンツェの街を一望しながらジュエリーが紅茶を飲むシーンは、咲夜のお気に入りでもあった。
だが一番の憧れを答えろと言われたら、躊躇うことなく最後のシーンだと答える。
名前も覚えていない役柄の男性俳優が、ジュエリーの額にキスをするシーン。当時の咲夜はテレビにかぶりつきで、そのシーンを何度も何度も繰り返し見ていた。幼かった彼女はキスというものに憧れ、いつか自分もあんなキスをしてみたいものだと憧れの気持ちを強くした。
不思議と彼女が自己投影していたのは、ジュエリーではなく男性役の方だ。当時からどこか凛々しく、女性に人気があった事が原因にあげられる。それでついつい、自分もその気になっていたのだろう。
だからこそ、レミリアとの出会いは鮮烈的だった。
咲夜をメイドとして迎え入れることを決めた彼女は、巫山戯たように額へキスをしてきたのだ。大人ぶっていても中身は子供。蛸のように赤くなりながら、わたわたと動揺していたことを覚えている。
だがそれが逆に、咲夜の中で新しい炎を燃やすことになろうとは。人生というのは分からないものである。
キスはされた。それはいい。
だとしたら、後はキスがしたい。
それも出来れば、なるべく好きな相手に。
レミリアは駄目だ。尊敬する主であるし、大体彼女はどう考えてもされる側の立場ではない。する側だ。
フランドールやパチュリー、小悪魔とはさほど親しいわけでもない。
答えは決まっていた。
「あの、どうしたんですか?」
門柱の影から様子を窺う。さすがは門番。気配を消していても、簡単に察知してしまうようだ。最近では諦めて、堂々と影から覗いている。声をかけられたって無視だ。
仕事を見張られているようでやりづらいのか、美鈴は頬をかきながら仁王立ちの姿勢だ。そうしていると背中がとても格好いいのだが、しばらくすると壁の方へもたれかかってシエスタを始めるので油断ならない。
だがまぁ、この際それはどうでもいい。
影ながら咲夜が狙っているもの。それは美鈴の額。
背中からなら額が見えないだろうと言う自分の声もあるが、さすがに真正面で仁王立ちするつもりはなかった。かといって、背中ばかり見ていても仕方ない。
如何にして、あの額へキスをするか。
それが咲夜の悩みだった。
最大の問題は身長差だ。
正確な数字は省くが、美鈴と比べたら咲夜の背は明らかに低い。アリスや魔理沙のような平均女子を相手にすれば見下ろすこともできようが、武人であることが影響しているのか美鈴の背は男性と比較しても高い方だ。
そんな事は絶対に起こりえないと思うけれど、普通のキスをしようとしても背伸びしなければ口まで届くことができないくらいに。ましてや狙っているのは額。ジャンプでもしなければ目標には達せず、かといって小刻みに跳ねながらのキスなんてノミみたいで御免だ。
咲夜がしたいのは、あの映画やレミリアのようにさり気なく、それでいて雰囲気のあるもの。大盛り定食にがっつく男子高校生じゃあるまいし、強引にいって強引に奪っても仕方ない。
「お仕事ご苦労様ね、美鈴」
「咲夜さんも、見張りをご苦労様です」
どことなく嫌味っぽく聞こえるのは、妙な緊張をさせてしまったからだろうか。それでも寝るぐらい神経が図太いのだから、これぐらいは大目に見て欲しい。
しかし改めて目の前に立つと、美鈴は背が高い。これでただ座高が高いだけなら女としての矜持は守られるのだけど、足の美しさたるや直視すれば目が潰れそうだ。スレンダーな体型も相まって、自分よりも遙かに凛々しい。
「咲夜さん?」
「ん、気にしないで」
やはり目標は高く険しい。せめて美鈴がしゃがんでくれないと、とてもキスなんてできそうにもなかった。
だからといって、ちょっと屈みなさいと言うわけにもいかない。なんだ、それは。肩車をして貰うわけではないのだ。もっと自然に彼女を屈ませ、そこへさり気なくキスをしたいのだ。
「何食べたら、そんなに大きくなるのかしら」
「さあ? 食べて寝てたら、いつのまにかこんな感じになっていたので」
「寝る子は育つというわけね。門番なのに」
「適度な睡眠は健康の秘訣ですよ」
実は咲夜も美鈴に習って、こっそりと仕事中に寝てみたことがある。もっともそれは時間を止めてのことだったが、結果としては夜眠れなくなるだけだった。身長は伸びず、むしろちょっとだけ体重が増えた。
腹いせに美鈴へナイフを投げたのは言うまでもない。
「あの、咲夜さん、顔近いんですけど……」
吐息も当たるほどの距離。背を仰け反らせる美鈴の気持ちも分かるが、そういう反応は咲夜の嗜虐心を煽るだけだ。猫のような微笑みは、意地悪開始の合図でもある。
「いいじゃないの、別にキスするわけでもあるまいし。それとも、美鈴は私とキスしたいのかしら?」
「い、いや、したいかと言われれば、その……」
しどろもどろに弁明する彼女は、凛々しさと相反するようだけど可愛らしくて好きだ。赤いお下げと銀色のお下げが交差し、胸と胸が触れあうまで近づくと、さすがにこちら側も気恥ずかしくなってくる。
ここら辺が止め時だろう。背後の館からも、主らしき視線を感じる。もっとも、レミリアは面白がって焚きつける側なのだが。
「まぁ、今日の所は止めにしておきましょう。そろそろ雨も降りそうだし。はい」
「はい?」
手渡したのは折りたたみの傘。妖怪だから風邪はひかないと思うのだが、何もささずに立たせておくのは気分も悪い。
「しっかりと仕事に励む事ね。頑張ってるようだったら、後で温かいスープを持ってきてあげるから」
「おお、咲夜さんのスープですか。いいですね、やる気が湧いてきましたよ!」
「現金な門番ね。まぁ、いいけど」
早速、スープ作りを始めるとしよう。雨が降るまで時間もない。
煮込むのに時間が掛かるけれど、その間はじっくりと考えればいいだけの話だ。
そう、どうやって額にキスをするのかを。
映画の場合は相手の男性と身長が同じだった。
レミリアの場合は、咲夜を地面に這い蹲らせてからのキスだった。どちらにせよ、まったくと言っていいほど参考にならない。確かにレミリアが使った手段を用いれば、咲夜でも美鈴の額にキスをすることが出来るだろう。
だがあれは、元々敵対する二人だからこその結末だ。敵対どころか友好関係にある美鈴へいきなり襲いかかれば、謀反の疑いがあるとレミリアにお仕置きされてもおかしくない。
だからといって強引に喧嘩するのも変だし、やっぱり何か他の方法を探るべきだ。
「悩み事かな、咲夜」
「あら、お嬢様。スープ飲みますか?」
「頂くわ」
コンソメのような色をしたスープが、小さな吸血鬼の口の中へと運ばれていく。しばらく味を愉しんだところで、レミリアは一息に飲み干した。
「悪くはないわね。寒い身体もこれで温まるでしょう」
「なるほど、全てご存じで」
「見ていたの、気付いてたんだろ。隠しもしてなかったからねえ」
意地悪く笑う。どういうわけか、今日は随分と嗜虐的だ。
月の満ち欠けが関係していると思うのだが、レミリアは日によって性格がコロコロ変わるのだ。もっともここまで顕著に変わるのは稀で、今日はとても珍しい部類に入ると言える。
「さて、瀟洒な従者の狙いは何かな。この吸血鬼に教えてごらんよ。ほら、ひょっとしたら解決するかもしれんぞ」
「遠慮させて貰いますわ。古今東西、悪魔との取引は命に関わりますから」
「うんうん、さすがは咲夜だ。この程度で騙されるとは思ってもいなかったさ」
なかなかに扱いづらい主となられたようだ。迂闊な発言は後々まで尾を引きそうな気がする。
「ところで咲夜。私は運命を見てみたんだ」
「珍しいことですね。普段は先が知れてつまらないから、見ないようにしているとおっしゃっていたのに」
「気まぐれというやつよ。従者がどんな未来を辿るのか、主としては気にもなるしね」
ククク、と芝居じみた笑いを零す。
鍋の中でスープは良い感じに煮立ち、そろそろ美鈴の所へ持っていっても問題はないように思えた。
「信じるも信じないも咲夜の勝手だが、アドバイスだけはしておこうかな。気に入らないなら、そのまま聞き流して貰っても構わないよ」
「いえ、主のおっしゃることですから」
「忠義だねえ。まぁ、いいさ。言うことだけ言って助言役は撤退しようか」
信じるべきか、聞き流すべきか。
判断し終わらぬうちに、レミリアの口が開く。
「今日はもう傘をさすな」
厚く張った雲は、案の定雨を降らせることにしたらしい。小雨とも呼べぬほどの大雨は、折りたたみ傘如きなら簡単に壊してしまうだろう。だから魔法瓶を握る逆の手には、二本の傘が握りしめられていた。
だが、レミリアは言っていた。傘をさすなと。
吸血鬼や悪魔の忠告など、本来なら信じられるはずもない。だが相手はレミリアだ。従者を騙して馬鹿にするよりは、事態を展開させてそれを喜ぶような吸血鬼。ここは素直に従っておく方が得策なのかもしれない。
それに、あの助言にどんな意味があるのか。密かに気になっていたし。
だからずぶ濡れの美鈴の所へやってきた咲夜も、同じようにずぶ濡れだった。
「……あの、何で咲夜さんは傘さしてないんですか?」
「あなただって、さしてないじゃない」
「私のは壊れたんです」
「じゃあ、私のも壊れたのよ」
「ええ……」
訝しげな顔をするのも分かる。同じ立場なら咲夜もした。
紅魔館自体が壊れない限り、傘が全部折れるはずもない。さしものフランドールだって、そんな細かい嫌がらせのような真似はしないだろうし。
「とにかく、これ。持ってきたわよ」
「あの、とりあえず雨の当たらない所へ行きませんか?」
魔法瓶を差し出す手はすっかり冷え切っている。美鈴の申し出は有り難かったものの、レミリアの忠告もあった。傘をさすなということは、つまり濡れていろという事ではないのか。だとしたら、このままでいるのが良いのかもしれない。
美鈴の忠言は無視して、そのままコップにスープを入れる。白く立ちこめた湯気が食欲をそそるものの、早く飲まないと雨水が浸入したい放題だった。
スープを作ったものとしては、やはり雨の当たらない所で飲んで貰いたかったというもの。選択を間違ったか。
「ほら、美鈴」
「あっ、はい」
慌てて突きだしたせいか、それとも雨で手が濡れていたせいか。コップは美鈴の手に渡ることなく、そのまま地面へと落下していった。急いで拾おうとした咲夜に対し、美鈴も同じことを考えていたのだろう。
しゃがんだところで、後頭部へ鈍い痛みが走る。痛む箇所を押さえながら顔をあげれば、美鈴が額を押さえて唸っていった。
どうやら、咲夜の後頭部に頭突きをしてしまったらしい。せっかくの綺麗な額が赤くなっている。
「うごぉぉぉ!」
「馬鹿ね」
彼女の手を掴み、紅魔館の中へと戻ってきた。この雨だ、どうせ黒い魔法使いだって侵入はしてこないだろう。
そのまま咲夜の部屋まで連れ込み、机の下から医療箱を取り出した。そこまで大事にはなっていないものの、湿布ぐらいは貼っておいた方がいい。
「ううう、痛い……」
「注意力が散漫な証拠よ」
「でも最初に落としたのは咲夜さ……」
「静かに」
「はい」
黙りこくると、雨が窓を打つ音しか聞こえなくなる。ただの静寂よりも、咲夜はこちらの方がずっと好きだった。
美鈴はベッドに腰を降ろしている。流れで座らせてしまったけれど、あれは今日咲夜が寝る為のベッドなのだ。ずぶ濡れの門番が座ったならば、どうなるかは子供でも分かることだ。
紅葉のように赤い髪の毛も手伝って、被害は拡散している。後でベッドメイキングをする必要があるだろう。まったく、これでいらぬ仕事が増えてしまった。
迂闊に主の言うことを信用するべきではないな。
「じっとしてなさいよ。手元が狂う」
「貼るときは貼るって言ってくださいね。心の準備がありますから」
「注射じゃないんだから、湿布ぐらい好きに貼らせなさいよ」
「うう……」
子供のように目を瞑り、子犬のように震える美鈴。
ふと気が付けば、ちょっと屈んだところに彼女の額があった。
「あ」
「え?」
絶好の好機を逃すほど、咲夜は間抜けな従者ではない。
美鈴が目を開けた頃には、念願のキスは終わっていた。
「あ、あの、咲夜さん……いま何を?」
赤くなった額を押さえ、それ以上に顔を真っ赤にした美鈴。なるほど、これなら紅美鈴という名前も相応しいなどと冗談を言えるわけもなかった。
「落としたスープの代わりよ」
彼女の額は雨の味がした。
ジュルリ
スープのことですよ
綺麗な作品、綺麗な咲夜と美鈴。
なのに……このニヤニヤを誰かとめてくれww
そしてお嬢様自重wwww
俺にできるのは、それだけだ…
お嬢様がかっこいいです。あとがき除けば。
いつも私を楽しませる
後、諦めて、堂々と影から覗いているに吹いた
ちなみに俺は全部見ていて、かなり興奮していました。
頭蓋骨の中で後頭部は比較的に強度が低い。一方、額は強度が高く、頭突きに適している
しかも、相手は妖怪の額なのだ。人間のソレとは比べ物にならない
これほどの条件差があるにも関わらず、咲夜さんの後頭部は負けなかった。いや、一方的な勝利を収めている
この事実に、私は人間の後頭部が保有する無限の可能性に気づかされました
咲夜さんの後頭部がんばれ。超がんばれ
咲夜さんの頭の固さは確かにすごいかもw
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あなたは天才かw