散る散る実散る、青囲取(あおいと)り
○
ほら、そこにある老木、とてもくたびれてる。過ごした時はとても長く、
その身にすらその証を刻んでる。立っているのも辛そう。
明日、あれは朽ちるのかしら? それとも明後日?
明日もまた、あれは生きているのかしら? 明後日も?
誰にも分からないわよね。そう、分からないの。
だからこそ、それは尊い解(こたえ)。
…あなたは、それを知りたい?
私は―――――興味ないわ。
○
うららかな陽光。縁側。お茶。茶請け。そして、猫。
「残念ねえ…」
昼下がりの冥界、というどこか不思議な言葉で表された一場面。
平和な単語の連なる縁側で足を伸ばしていた西行寺幽々子は、
傍らのお盆に湯飲みを置き、そう呟いた。
猫は、黒かったのだ。
「こんにちは、黒猫さん。」
「不吉を届けに来たぜ。」
黒い猫は、右手を銃の形に似せて、その人差し指を幽々子に向けた。
「留守ですから、その辺に置いといてくださいな。」
対して彼女は、にこり、と微笑んで手の平を向けて地を指す。
「居留守以下の対応だな、それ。」
「既成の科白も、ある意味居留守じゃない?」
疑問符が何を要求してるのかは分かる。けれどそれに答えるほど、
猫という形容を充てられた存在は素直であるはずもない。
「じゃ、また日を改めてお届けに参ります。」
そう言って、前進。縁側に座る幽々子の元に歩み寄る。
「湯飲みから上がる湯気ってのは視覚効果があると思わないか?
こう、自分もその温かさに包まれたい欲求を刺激するとか。」
「植物の死体を煮出した熱湯、って言うと、どうかしら?」
「すいません、お茶を飲ませてください。」
白々しい言葉では存在自体が白々しい亡霊の姫君には勝てぬと思い、黒猫は対応を改めた。
幽々子はくすりと笑い、もう一つ余分に置いておいた空の湯飲みに急須を近づける。
「そうね、仕方ないわ。世界はこんなにも、お茶を飲ませる要因を溢れさせているもの。」
余分の用意は果たして余分と呼ぶに相応しいか。それもまた、幽々子を微笑ませた。
霧雨魔理沙が言う、明快な冥界訪問理由とは、
「興味がある、書庫を漁らせろ。」とのことだった。
「ちゃんと閲覧許可を求めるあたりが誠実だろ? それ相応の対応を願うぜ。」
「んー、まあ私は構わないんだけれど…そこの子が何か言いたそうよ?」
つい、と指を正面に向ける。そこには半目で魔理沙を睨む門番兼庭師がいた。
「始めからそう言えばいいのに…どうして私は張り倒されなければならなかったのかなあ。」
長刀を杖代わりにして弱々しく立ちながら、魂魄妖夢は声を暗くして言う。
その衣服は所々破れ、煤けている。さりげなく裂傷もある。
よく見なくても、張り倒された者の姿だった。
「邸宅に入るには門を開けなきゃ駄目だろ。言い換えれば、
門を開けるのは邸宅に入る儀式だぜ。」
「実に誠実ね。」
何の躊躇も見せず語る魔理沙。ころころと笑う幽々子。
蓄積された不満が妖夢の口から気化して溢れ出す。
「はあぁぁ……もういいですよ。」
大きく溜息を吐く。着替えと手当てをしてきます、と転進して妖夢は屋敷内に足を進めた。
「ありゃ、開けたつもりが閉じちまったぜ。」
横目でその姿を追いながら、魔理沙は頬を掻く。
「あら、開けた後には閉じるのが常識よ。それに、妖夢の容量はそんなに小さくないわ。」
幽々子はそう言って、自室に向かう妖夢についでにお茶菓子お願いね、と告げた。
疲れた返事が返ってくる。
そりゃな、と魔理沙は心で頷いた。
「それで、そうそう、書庫で文献を見たいのよね。私もご一緒させてもらうわ。」
「なんだよ、監視下に置かれなきゃいかんのか?」
臆面もなく表情に出し、魔理沙が渋る。ここにはどこぞの司書のようにうるさいのがいないと思っていた。
「私も暇だったのよー。」
が、どうやら杞憂だったようだ。
白玉楼の書庫は何気に大きかった。魔理沙は嬉々として立ち並ぶ書架を巡る。
幽々子はただ、何となくそれらを眺め、目的なく歩いていた。
いや、目的はあったのかもしれない。分からないことがあるなら、それは調べるものだ。
別に学者を気取るわけじゃない。一般論だろう。
分からないことは、不安になる。それを知れば、安心する。そういうもの。…なのだろうか?
分からないことであることは、知らなければならないのだろうか?
―――――曖昧模糊ね―――
いつか、誰だったか。笑いながらそう言った人がいた、気がする。
知りたいと思うことは決して悪いことではない。それがどのような因果をもたらすにしても、
その罪は知ることにはない、何を知るかによるのだ。
つつ、と書架に並ぶ文献を歩きながら指で何気なくなぞっていた。
そして、本当に何気なく伝っていたその行路は、急に行き止まりになる。
ぴたり、となぞっていた指がある場所から離れなくなる。不思議だった。
見たことのある背表紙。といってもそれはまったく地味で、書名も明記されてない。
あまりに手に取りづらいその書物は、きっと探しても出てこないような雰囲気。
知っている記録だった。西行妖にまつわる、あの記録。この間の、春を集めることになった発端。
あれも、単なる好奇心だった。それだけだった。
ぱら、とその記録をまた辿る。言いようのない感覚。
どうして、この誰の手にも取られないような書物に再度廻りあうのか。
幽々子は、知らずまたそのいつのものとも知れない文章に入り込んでいった。
○
―――あなた、死んでる?
―――そうよね。死は幽玄。難しい話。この私にだって難しいもの。
―――もちろん、放っておくわ。知ってもしょうがないし。
―――ふふ、人として怠慢? 残念だけど、私は人ではないから。
―――そういう性分だから、こんな能力なのかもね。
知ることは必ずしも力にはならない、って知ってるから。ただ、そう線を引くだけ。
―――あなたと私は似ている気がする。線を引くところが。
でも、あなたの引く線は短いわね。
―――ん? 怒った? それとも、悲しい?
―――難しい問題よね。ねえ、だったら―――――
○
何度読んでも、その記録から得られるものは既知のものばかりだった。
やはり、あの西行妖の下には何かが封じられていることしか。
ふう、と息を吐き、その書物を元ある書架に戻す。
顔を上げ、再びさ迷い歩こうと首を横にしたところに、
「こんにちは、幽々子。」
視界に映る影があった。
「あら、こんにちは。この時間に起きてるなんて珍しいわね。」
気配もさせず、その影、八雲紫は悠然とそこにいた。
いつからそこに、と聞こうとして、幽々子はそんなことは今において瑣末なことだと思い、話を変える。
「縁側でお茶でもいかがかしら。高級品しかないけれど。」
そう言って、書庫の出口へと振り返り、先導しようとする。
「ああ、ここで構わないわ。テーブルは持参したから。高級品で悪いけれど。」
彼女の方へ向くと、いつの間にやらそこには小さな木製テーブルと椅子二つが同じデザインで揃えられていた。
どこから引っ張ってきたのか、何とも便利な能力だった。
「あら、テーブルで緑茶はなかなか新鮮ねえ。」
「お茶なら持参した紅いのを茶坊主に頼んでおいたから大丈夫。
あなたの趣味には合わなかったかしら?」
紅茶も好きよ、と幽々子は椅子を引きテーブルに着いた。
紫も向かいの席に座ると、幽々子が可笑しそうに笑う。
「くす、怪しいわね。」
「そうねえ。」
日の光もあまり入らない薄暗い書庫の一角で、小さな白いテーブルを囲む二人とも呼べない二人。
胡散臭い西洋淑女の格好をした紫と、頭に幽霊の証とも呼べる三角布を巻いたやっぱり幽霊な幽々子が
座っているのだから、客観的にそれはそれはおかしな風景だ。
お茶が来るまで他愛無い談笑をしていた二人の下に、妖夢がやってきた。
手にはお盆を抱えている。
「すっかり茶坊主ね、妖夢。」
「…あまり酷いことを言わないでください、幽々子さま。私にも誇りというものが…」
そう言いながらも、ことりことり、と茶道具をテーブルに並べる妖夢。
「まあ、これは風情ねえ。」
感嘆する幽々子の前に置かれた物は、湯飲みだった。ティーカップではない。
そして妖夢は、急須を手にし甲斐甲斐しく二人の湯飲みに茶を注ぐ。
湯飲みに張られた紅い水面が、書庫に漏れ入る光に輝いていた。
緑茶の淹れ方をした紅茶は、もちろんあまり美味しいはずもなく。
率直に意見を言われ、更にお茶と関係ないところまで二人に批判されて、
妖夢はテーブルの横で沈みきっていた。
「茶坊主としても頼りないわね。」
仕舞いには、主に痛烈な一言を浴びせられる。
妖夢はうぅ、と一言呻きを漏らして書庫の出口へと駆けて行った。
「あーぁ、あんまり苛めちゃ可哀想よ、幽々子。あの子、涙ぐんでたわよ。」
紫が笑顔で窘める。どう見ても気持ちはこもってない。
「妖夢はね、ああした方が伸びるの。親心ってものよ。
きっと今頃台所か紅魔館のメイドのところに行って紅茶を猛勉強中ね。」
上手く淹れられるようになったらもちろん褒めるわよ、と幽々子は笑顔で返した。
「嘘ね、褒めないでしょ?」
「そういえば今まで褒めたことはあまりないわねえ。…ところで」
理不尽な会話を散々楽しんだ後、幽々子の笑顔がふ、と少しだけ変わった。
「今日の用事は、そんなに大事なことなの?」
表情は柔らかいまま、けれど、どこか不敵さを覗かせるそれだった。
紫の口元が歪む。
「別にそう大したことじゃなかったのだけれど…気を遣ってもらって悪いわね。」
幽々子は、あえて妖夢を室外に移動させたのだ。
もっとも、それは紫の意思を汲み取ったからなのだが。
最初から紫の様子はおかしかった。テーブルや紅茶、そして会話の場所が書庫なのも。
「ただね、話し相手になってもらいたかっただけなの。寝ているのにも飽きたからね。」
「そう。…ふふ、付き合うわよ。誰しもそういう時はあるもの。」
けれど、それは雑談にしかならない。二人の間に起こりうる問題なんて、そんなに大きなものはないのだから。
―――そう、幽々子にとっては。
「…ねえ、幽々子。今、幸せかしら?」
紫は、そう切り出した。
○
―――やくも、ゆかり。八雲紫。いい名前でしょ? 可愛らしさが名前からも漂うわ。
―――あら、失礼ね。胡散臭いなんて…まあよく言われるけど。
―――でもね、それは仕方のないこと。
―――私は線を引くから、「どっちか」になんていられない。
線を消すから、「どっちか」になんていられない。いつも真ん中。
―――それはあなたも似たようなものでしょ。だから分からないのよね、「自分がどっちにいるのか」。
―――でもね、それは仕方のないこと。
―――だったら、どうしようもないなら、別にいいじゃない? 今が楽しければ。
―――そうね。その言葉、好きよ。私の座右の銘だもの。
―――ふふ…やっと、笑ってくれたわね。良かった。
○
「幸せよー。白玉楼は毎日楽しいことだらけだし。」
幽々子は即答した。
今まで「自分が幸せか?」と自問したことはない。それは、問う必要がなかったからだ、と思う。
白玉楼は賑やかだ。亡霊たちは皆、生きていた頃の分を取り戻すかのように騒ぐ。
隙あらばいつもドンチャン騒ぎだ。まあ、もっぱら幽々子が扇動するのだが。
妖夢は、面白い子…ということにしておこう。胸の内にあるこの感情を自覚してしまったら、
まるで自分が母親の気持ちになってしまう。若い身空(死んでるが)で、それはイヤだ。
そして時間が経つに連れ、いろいろ楽しい子と出会っていく。
直情的な紅白、騒がしい黒、クールぶったメイド…他にもいろいろ。皆、楽しい、可愛らしい。
くすくす、と自然に笑みがこぼれた。
頭に浮かんだ子たちが、わいわいと騒いで、お約束とも言える展開で、てんやわんや。
「私の周りには、楽しい子が多いしね。とっても賑やか。」
「そう、そうね…良かったわ。」
紫は、幽々子を見て、微笑んでいた。真意は分からない、けれど、安堵した様な。
「どうしたの、突然そんなこと聞いて?」
「ただの雑談よ。」
笑顔、だった。安らかな、今まで見たことのない紫の表情だった。
―――でも、なんとなく。どこかで、見たような気がする。
どことなく、既視感はあった。暗い書庫、白いテーブル、紅茶…紫。どうしてか、懐かしい。
でも、はっきりと思い出せない。
自分が懐かしいと感じたのだから、その情景に入っている紫も同じ感覚を持っているのではないか。
幽々子はそう考え、紫に聞こうとした。
「ねえ、紫―――」
「幽々子。」
紫は、どうしてか幽々子の言葉を遮った。偶然発言がかち合った感じではなかったのだ。
紫は続ける。
「あなたの笑顔は好いわ。とても。…だから、忘れないでね。」
「笑顔は忘れようがないと思うわよ?」
それならいいの、と紫はどこか満足そうだった。初めて見る、充実したような笑顔。
どうしてそんな顔をするのか、分からない。
でも、紫が幸せそうなのだから、いいのかな、と幽々子は思った。
友人が笑顔なのだけれど…その理由が分からないと、なんか馬鹿にされた気分だ。
だから、つい、言葉に出た。
「相変わらず、胡散臭いわねえ…」
「あら、失礼ね。胡散臭いなんて…まあよく言われるけど。」
―――? 心がむず痒い。
「それはあなたも似たようなものでしょ。」
紫の言葉が、心をざわめかす。どうしてだろう?
幽々子は考えてもいないのに、自然に口から声が出ていた。
「そうねえ…持った能力故かしら? 難しい問題よねー。」
「仕方ないわよね。」
紫は…笑顔だった。声は、無表情だった。
どうしてか、幽々子は妙な高揚感に煽られていた。まるで名探偵が犯人のトリックを解いていくような
―――紫の笑顔という怪事件を解くため、何かを掴んだ気がしていた。
そしてその確証は、幽々子の意識にはない。謎を解いていくような言葉は、無意識に出てきたのだ。
だからこそ、恐れなく真相を突き詰められた。坂を荷車が加速しながら進んでいくように。
「まあ、今が楽しければいいわよねー。うん、私の座右の銘は満漢全席ね。」
「ふふ、それは座右の銘とは言わないわよ。」
紫が笑っている。
会話の流れは、不自然じゃない。胸が高鳴る、まるで将棋で王手に詰むみたい。
「…ねえ、紫は?」
「ん? 何?」
「座右の銘。紫の。」
どうしてこんなことを聞いて王手になるのか、分からない。けれど、幽々子は確かな感覚を得ていた。
胸の鼓動は、その言葉を口にした瞬間、一際強く飛び跳ねたのだから。
「…そうねえ……」
小首を傾げながら、紫は頬に人差し指を当てて考えている、フリをする。幽々子はそう感じた。
答えは出ていた。何もかも出来ていたような気がしていた。
今なら、「あの言葉」を誰が言ったか、無意識に理解していた。記憶は、ない。
それでも、それは確かに幽々子の言葉だった。
先に言って驚かせてやろう、幽々子はそう思って口を開いた。
「紫、私知って―――」
「私の座右の銘は、乱痴気騒ぎだぜ。」
(―――!?)
突然、幽々子の言葉は遮られ、近くの書架の影からそのまま抜き出る様に黒が現れた。
霧雨魔理沙だった。
「こんにちは、魔理沙。ふふ、あとそれ、座右の銘じゃないわよ。」
紫は笑っている。
「何か話し声がするから来てみれば、書庫でティータイムとは洒落てるな。」
幽々子は唖然としていた。魔理沙の存在を忘れていたのだ。気迫が削がれていく。
それにしても、どうしてあんなに興奮していたのか、分からない。
並べた言葉はどれもどうでもいいこと。なのに、まるでそこに真理があるように感じていた。
あの後、「紫の座右の銘」を言い当てた後、聞くことは決まっていた、ようだった。
―――「あなたは誰?」と。
「それにしても―――」
魔理沙はテーブルの横に立ち、紫に話しかけている。その様を、幽々子は呆けて見ていた。
「紫の言ったとおり、ここには面白いものが沢山あるぜ。ありがとな。」
「そう、新たな発見に貢献できて嬉しいわ。」
くすくす、と誰にともなく笑う紫。
―――――ああ…本当に紫は、胡散臭いわ…
元々分からないことだ。まあ、どうでもいいか。と、幽々子は考え直した。
分からないことを分かる必要はないのだから―――――
○
「あなたは誰? 名前は?」
「やくも、ゆかり。八雲紫。いい名前でしょ? 可愛らしさが名前からも漂うわ。」
目の前の子は、私に「訝しい」と言葉にしたような正直な視線を送る。
「胡散臭いわね。」
「あら、失礼ね。胡散臭いなんて…まあよく言われるけど。」
興味が尽きたのか、少女は私から視線をふいと逸らした。
「あなた、死んでる?」
唐突に聞く。初対面なのに、かなり失礼な一言だ。
「そうかもしれないわね。」
少女は、ぽつりとそう答えた。私の発言が妥当だと言えるほど、彼女の中には死が根付いているのだろう。
「断定はしないのね―――そうよね。死は幽玄。難しい話。この私にだって難しいもの。」
え、と少女はこちらを向く。どこか、期待を含めた視線で。
「あなたも…死を…?」
「誘えるわよ。私は事象の境界を弄れるの。だから、生と死も弄れる。」
少女は、ああ、と声を出した。自分の苦悩を理解してくれる存在を見つけ、
すがろうとしたのかもしれない。
けれど、少女の視線は急に厳しいものになった。
「あなたは…死を考えようとしてますか?」
語調は強かった。大方、悠然としている私の姿が気に入らなかったのだろう。
同じ死を誘う者として、どうしてお前は苦しんでいないのか、と。
「難しい、って言ってるじゃない。もちろん、放っておくわ。知ってもしょうがないし。」
「―――なっ!? っ…それでも…それでも、人ですか!?」
少女は激昂した。当然だろう。
「ふふ、人として怠慢? 残念だけど、私は人ではないから。」
だから、私は彼女との境界を作ることにした。せっかく見つけた面白そうな相手だ。
ここで突き放されてはどうしようもない。
「妖怪…?」
「そう。でも、そこらの奴らと一緒にしないでね。私は凄いわよ?」
少女のことだから、そうだと分かったとたん私を嫌悪するかと思ったが、そうでもなかった。
また、ふいと視線を外す。
「…帰ってください。」
それだけを告げる。
「妖怪だから? ふふ、あなたも似たようなものなのに。」
ばっと、音を立てて少女は私に視線で噛み付く。
「ん? 怒った? それとも、悲しい?」
あっちを向いたり、こっちを向いたり。やっぱりこの子は楽しい存在だった。
私の気まぐれは続いた。少女と会い続けたのだ。
初めて出会った場所、暗い書庫みたいなところ、が私たちの落ち合う場所だった。
私はテーブルと紅茶をいつも持参していった。少女が無意味に不思議と喜ぶから。
最初は嫌われていたが、ちょくちょく通って会話をしているうちに、
「嫌悪」から「疑心」に好感度は変わった。それもどうかと思うが。
「自分の力? 別にどうとも思ってないわ。それに、境界を持つ事象を逐一考えようともしないし。」
少女の問いに、私は簡潔に答えた。少女は明らかに不快そうな表情をする。
「ふふ、そういう性分だから、こんな能力なのかもね。
知ることは必ずしも力にはならない、って知ってるから。ただ、そう線を引くだけ。」
私は笑顔で返した。
「私は線を引くから、「どっちか」になんていられない。
線を消すから、「どっちか」になんていられない。いつも真ん中。」
少女の表情が変わった。そう、きっと今頃自分に当てはめてる。
だから、言ってやる。憎むのは自分自身じゃなくていい。
「あなたと私は似ている気がする。線を引くところが。でも、あなたの引く線は短いわね。」
私と比べてね、とちょっとおどけて見せる。少女は、下を向いて動かない。
「線を引くから―――だから分からないのよね、「自分がどっちにいるのか」。」
小さく、少女は息を呑んだ。纏う空気が悲壮を帯びる。
「難しい問題よね。―――でもね、それは仕方のないこと。」
え、と少女は顔を上げた。今にも、泣き出しそうな顔だった。
「だったら、どうしようもないなら、別にいいじゃない? 今が楽しければ。」
はあぁ、と少女の溜息が重く響く。結局のところ、
少女の救いというものは自分の思考転換しかないのだから。
「まったく…曖昧模糊ね。」
少女は、苦笑しながらそう言った。それは誰に対した言葉なのか。
「そうね。その言葉、好きよ。私の座右の銘だもの。」
そう私が言うと、少女はきょとん、としてそれからくすくすと笑い出した。
「ふふ…やっと、笑ってくれたわね。良かったわ。」
―――私は、自分で作ったゲームに勝利した。この少女を見つけたときに考えたのだ。
「この今にも死にそうな少女を笑わせる」というゲームを。
少女は何に対して笑ったのか。私の言葉か、それとも気遣いか。まあ、勝因はどうでもいい。
少女の笑顔は、何だかとても気持ちの良いものだったから―――――
○
「ただいまー。」
「あっ、紫さま! またどこかにふらふらと~。」
帰るなり、藍はうるさかった。
「まったく、珍しく布団が空だと思ってたら…で、どこに行ってたんですか?」
「思い出を楽しむゲームよ。」
はあ、と藍は気のない返事をする。また分からないことを、と顔に出まくっていた。
紫は構わず言葉を続ける。
「ふふ、ちょっとだけ危なかったけどね。スリルも懐古も楽しめたし、満足満足。」
はあ、と藍は気のない返事を繰り返した。
夕日が世界を赤く染めていた。相変わらず、冥界とは思えない情景である。
紫と魔理沙が白玉楼から帰ったころ、縁側で呆ける幽々子の横にお盆が差し出された。
差し出した手の主は妖夢で、上には紅茶が注がれたティーカップ。
くすり、と幽々子は微笑むとティーカップを手に取り、口元で傾ける。
こく、と喉を鳴らして、息をつく。一口飲み終えて横を見ると、妖夢が真剣な表情で幽々子を見ていた。
「美味しいわよ、妖夢。」
えっ、と妖夢の表情が驚きに変わった。
「え、あの…幽々子さま…?」
妖夢はどうせまた何か批判されると思っていた。それもまた、修行の一環だと覚悟していた矢先、
この優しい言葉。驚かずにはいられなかった。
「まだまだだけど、うん、上手になったわね。」
えらいえらい、と幽々子は妖夢の頭を優しく撫でた。
「え、ぁ……」
妖夢は顔を真っ赤にしてそれを受け入れる。身動きせずにいる辺り、まんざらでもないようだった。
「これからもお願いね。」
「はいっ!」
幽々子の言葉に力強く応える妖夢。その言葉が、自身を更に茶坊主に近づけさせることも知らずに……
―――いつか誰かが言っていた、思考転換。
境界における真理。
「あの老木が生きるか朽ちるか、その境目はどこか。それは、とても大切なこと。私はそれを弄れる。」
「でもね、本当はよく分からないの。その解(こたえ)は。」
「だってね、境界なんてあってないようなものだもの。」
「私の能力は、案外誰もが使えるものなのかもしれないわ。規模は小さいだろうけどね。」
「例えばほら、名前を取り替えちゃえばいいじゃない? 簡単なことよ。」
「そう、誰が決められるの? 白が黒だって。―――死に逝くものが不幸だ、って。」
「腐り落ちた実は新しい樹の始まり。草に取り囲まれた古井戸は新しい植物の家。」
「身近にあるのに、誰も気付かない幸福。青い鳥。」
「そう、気付けばこんなにも幸福が溢れているの。」
―――いつか誰かが教えてくれた、思考転換。
それはいつ教えられたのか、誰に教えられたのか分からないけど。
私は、それを知っていた。
私は今日も幸福に生きるだろう。
今日も幸福を見つけるのだから。
Everything is as it is taken.
次回作も期待しています。
唯一絶対である死すらも、ぼやかしてしまうほどに・・・。
その切り口、実にお見事、お見事です。