満月が照らす広い竹林を、一人の少女が歩いていた。
背に主を負いながらも、その怜悧な瞳は先を見据え足取りには危なげがない。地面の緩い竹林においては思わぬ所で足を取られもするが、この少女が無様に転ぶ様など誰も想像だにしないだろう。
少女はふと足を止め背の眠り続ける主を見やると、さらさらとした長い黒髪が首元をくすぐっていた。
邪魔になる髪を編んで背に垂らしている自分とは異なり、主の髪は癖一つ無く烏の濡れ羽の如き艶を放っていた。その美しさは求婚する男たちへの断りに、策を弄さねばならなかった程である。
もっとも当の主は自分如きの髪をいたく気に入っており、事あるごとに気恥ずかしくなるほど賞賛しては切ってくれるなと懇願するほどだった。長い銀髪を切らずにまとめているのは、主と己の意見の妥協点と言ったところだ。
主はそれでも不満らしく、虎視眈々と自分の髪に手を入れる機会を狙っているようだったが。
『あなたの髪はとても綺麗なんだから手入れしてあげなくちゃダメ!』大きな身振りと共に力説する主の姿が浮かぶ。高貴な身分の方がそんなはしたない態度を取ってはならない、そう言っても聞いてくれた試しもなかった。
くすり、と少女は微笑を漏らすとほつれた髪を直してやり再び歩き始める。
歩き続けること暫し、少女は再び歩みを止めるといぶかしげに辺りを見回す。
「…おかしいわね」
先ほどから足が感じている距離と、視覚が見せる距離がずれているように感じる。どうにも主観が当てにならないようだ。
少女が意を決し何事か念じ始めると、周りに異質な空気が満ちる。-この世の理が及ばぬ力-術の発動である。魑魅魍魎が都にすら大手を振って跋扈する昨今、術を使う者は少なくなかったが少女の身でこれを為す者は希有であろう。
発動した術は智に携わる神の名を冠したもの。少女は周りの景色、己の感覚を術の補助を受けて解析する。
しばらくの解析の結果、驚くべき事にこの竹林は結界であった。竹林に結界が張られているのではない。この竹林自身が結界なのである。
確かに純粋な術としての結界も張られていたが、外からの妖魅による察知を防ぐ、あるいは妖気が漏れ出ることを防ぐ程度。その真価はこの竹林自身にある。
気付かぬほど僅かな傾斜が距離感を乱し、列を成す変化のない竹の迷路が位置を特定させない。この竹林は整然とした狂気で満ち、侵入者を狂わせるのである。
直と曲の境界は乱され、しかしそれに気付きすらしない。この竹林は術に頼らないが、いや、だからこその恐るべき結界であったのだ。
「追っ手を撒くのに良いと思ったのだけれど… これでは余計な危険を招くわね」
これだけの結界であればそうは簡単に追って来られないはずだが、こんな結界の中心に何が潜んで居るか知れたものではない。ここを出て、別の潜伏場所を探すのが賢明だろう。
少女が主を背負い直し術の感覚を頼りに外に向かおうとすると、術式が複数の気配が近寄ってくるのを感知した。まるでこちらが結界を見破るのを見ていたようであったが実際の所は判らない。
少女は歩みを止めて相手の出方を待つことにした。術式の感覚に頼れば疾くこの竹林を抜けることは可能であったが、ここは相手の胎内に等しい場である。迂闊に動けばどんな罠にかかるか知れたものではない。少女はこれほどの結界を形成する者を与しやすしと見るほど楽観主義者ではなかった。
複数の気配は少女の周りを広く囲むように止まると、そのうちの一つが真っ直ぐとこちらに近づいてきた。
近づいてきたのは少女、いや童女であった。肩に掛かる程度の少し癖のある髪の童女は裸足のまま、歩くことすら楽しむかのような足取りで少女に近寄ってくると夜の挨拶を述べた。
「こんばんは人間の方」
「今晩は妖怪の方」
少女もそう挨拶を返す。
妖怪であると少女は言った。
その童女は少女の胸程の位置に頭があったが、背丈というならば少女とほぼ等しい丈があった。なぜならその頭頂からは兎のものに似た耳が立っていたからである。
いや、似たなどは迂遠だろう。その赤い瞳は長い耳と合わせて、兎の変化に相違有るまい。
万が一を述べるなら狐狸の類が更に化けている可能性もないではないが、普通妖怪が人そのものに化けるのは正体を隠すためであり妖怪であることを晒しては意味がない。妖怪が正体を晒すのは、脅かしに来たか殺しに来たか喰らいに来た時くらいのものだ。
「それであなたは縄張りを荒らした愚か者を脅しつけに来たのかしら? それとも夕餉の調達?」
ことさら表情を変えることもなく少女は尋ねる。先ほどの結界を見破った手際を鑑みれば小妖の類など遅るるに足りないのは確かだろう。
「っにに人間なんて食べたりしません! 滅相もないです!」
風でも吹いてきそうな勢いで首を横に振りつつ、あわてて否定する妖怪兎。しかし何らかの手段で少女の先ほどの手際を見ていたのなら、害意の有無にかかわらずこのような反応を示すだろう。
「あら、あなた達は人間を食べないのかしら?」
さりげなく相手が一人ではないことを知っていると伝えて出方をうかがう。
「はい! 兎ですから。そもそも肉を食しません」
妖怪兎は自説の論拠を確信しているようだが、実際の所は妖変して人を喰うようになるもの、人を喰ったから妖変したものなどいくらでもいるのである。だが、達と言ったことに気付いた様子もなく、見事な説明に『どうだ』と言わんばかりにニッコリとしている兎を責め立てるのも気が引けたのも確かだった。
「では人を食べない兎さんは何をしに来たのかしら? 道案内なら助かるのだけれど」
そう言ってやると兎は『我得たり!』とばかりに表情を輝かせて言った。
「そうその通り! 実はまさに、道案内のために来たんです」
どうやら兎の言うことには、この竹林にはしばしば人が迷い込んでくるらしい。大概はいつの間にか外に出てしまうのだが、延々と彷徨う者もいるのだという。放っておけばそれこそ死ぬまで迷い続けるので、外に案内してやったりするそうだ。たまにちょっと吃驚させてやることもあるが、決して害意はないと力説していた。
「ではその道案内をお願いするわ」
と少女は言った。先ほどの術で既にこの結界は見破っていたため、自力で出ることは可能であったがあれほどの結界である。他にどんな罠が仕掛けられているか知れたものではない。素直に兎に案内して貰う方が賢いと言えるだろう。
「あの、それなんですけど…」
兎はこちらを伺うように、上目遣いに見上げて言う。
「何かしら?」
「今日はもう遅いですし、わたしたちの家に泊まっていきませんか?」
意外な申し出に少女は少し驚いた。態度を見るに人間自体か自分の力を見抜いてか恐れている様子だったので、さっさと追い出しに来るかと思っていたのだ。申し出の是非を思案していると更に兎は続けた。
「お連れの方も疲れているみたいですし、あなたも怪我をされているでしょう?」
それも事実だった。応急処置をし血の臭いも消せるだけ消しているが、追っ手との戦闘で浅くない傷を負っている。主に至っては自分を守るために力を使いすぎて、まだ目を覚まさない。普段ならばこの程度の傷は無に等しいのだが。
「そこまで気付いたのなら予想が付くでしょうけど、私たちは追われている身なの。匿えば迷惑がかかるわ」
兎の厚意は有りがたかったが、自分たちを追う者は常人ではないのだ。
それに、この兎の言が正しいと確信出来たわけでもないのだ。やはり罠である可能性もある。
「この竹林ならすぐには入って来れませんよ。それに普通はここら辺に入ってくることもないんですよ」
ここ一帯に入ってこないとはどういう事だろうか。少女はそれを尋ねようとしたが、その前に兎はきらきらとした目で少女を見つめながら言ってきた。
「それにわたしたち、ここからあまり出ないから外の話も聞きたいんです!」
これまでで一番力の入った言い様だった。おそらくはたまに来る迷い人を引き込んでは、似たようなことをしているのだろう。少女は軽く息を吐いて表情を弛めて言った。
「そうね、せっかくのご厚意にあやかろうかしら」
「本当ですか! 良かったー!」
表情を太陽のように輝かせて跳びはねる兎。妖怪兎もやはり跳びはねるものなのだろうか。
兎は後ろを振り返ると口に手を当てて大声を上げる。
「みんなー! 晩ご飯の用意をお願い。もちろんお客様の分もね!」
その声に反応して竹林の隙間からいくつもの兎の耳がひょこっと姿を現し、続いてまるで伝染したかのように喜び跳びはねる兎たちが現れた。兎たちは歓声を上げながら興味深げにこちらをちらちらと振り返りつつ、竹林の奥に飛び跳ねていった。
「それでは案内しますね。…えと」
「そう言えば名乗っても居なかったわね。私は永琳、八意永琳。そしてこちらは蓬莱山輝夜、我が主よ」
「お姫様と従者さんなんですね。わたしはてゐ、因幡てゐです。永淋さん」
「私のことは永琳で良いわてゐさん」
永琳が言うと、てゐは輝くように笑みを浮かべて言った。
「わたしもただのてゐで十分ですよ、永琳」
とりとめもない話をしながら兎たちの家へと向かう。
追っ手から逃れての隠遁生活である。さしててゐの興味を惹く話も出来まいと思っていたが、永琳の得意とする薬に興味を持っているとは意外であった。なんでもてゐは健康に気を遣うことを生き甲斐としており、それが高じて遂に妖怪となるまで長生きしたのだという。最初は冗談かと思っていたが、自分の健康法に対する意見を言った時の一喜一憂を見るとあながち嘘でもないようだった。
四半刻ばかりてゐについて行くと、ようやく竹林の切れ目に家が見えてきた。結界による欺瞞を除いても、この竹林はかなり広大であるようだ。途中てゐは輝夜を代わりに運ぼうかと言ってきたが、永琳は従者の意地として丁重に断った。…そもそもてゐに負われても引きずりそうであったし。
「因幡の永遠亭へようこそ!」
そう言って改めててゐは永淋達の来訪を歓迎した。しかし永琳は複雑な表情を浮かべる。
「わたし何か良くないことでも言いました、永琳?」
表情の優れない永琳に対し、心配そうにてゐは言った。
「永遠、ね。なんでもないわ。ただの戯れ言の類よ。そんな事より随分と大きな屋敷ね」
確かにかなり大きい屋敷であった。小柄な兎たちには不似合いな大きさとさえ言えた。 人にとってすら大きく、まるで神の類が棲みそうな館ですらあった。
「えへへ。ずっと昔の妖怪兎が、おめでたい言霊を発したご褒美とかで戴いたんだそうです」
まるで我が事を褒められたように頬を赤くするてゐ。
「それではどうぞこちらへ。みんな首を長くして待ってますよ。野菜や穀物ばかりだけど、健康に良いことと味ならきっと竜宮城にだって負けませんから!」
「それは楽しみだけれど、まずは姫を部屋に案内してくれないかしら。いくら従者といえども、姫を背負ったまま宴に加わるほどの忠臣ではなくてよ?」
悪戯っぽく笑って見せながら、永琳は言う。
「ああ! ごめんなさい、忘れてました!」
どうやら宴を待って首を一番長くしていたのはてゐであったようだ。忘れていたことをわびながら、てゐは今度こそ永琳を部屋へ案内した。
宴も終わり永琳は未だ眠る輝夜の様子を見つつ、今日のことを思い出していた。
宴はなかなかに楽しいものだった。てゐの言っていたとおり彼女たちの料理は肉類こそ無かったが、調和の取れた美味であった。別に宗教的な理由でないためか、健康に良いとかで山羊の乳を使った珍しい食べ物まであった。
また随分と姦しくもあった。ここ永遠亭は女の妖怪兎が集まった集落であり、別に男の妖怪兎が集まった集落もあるそうだ。最初は初めて見る永琳に遠慮していた兎達だったが、次第にうち解け外の話をねだったりするようになった。どうやらここの長らしいてゐにも全く気を遣わないらしく、誰がてゐを呼ぶ時もただのてゐであった。
喧しく姦しいこの永遠亭であったが、永琳は奇妙な懐かしさを感じていた。奇妙と言うのは永琳がこんな喧しい、けれど暖かい雰囲気を味わったことなど無かったからだ。敢えて言うならば輝夜と過ごした時が近いのだろうが。
輝夜が故郷を捨てこの地に住まうことを選んだのは、この暖かさを求めてのことだろうか。
「ふう」
永琳はとりとめもない思索を止めて、現実の己の傷を診る事にした。致命的なものはないが、あばらの何本かにひびが入っているようだ。普段ならばこの程度怪我にも入らないのだが、追っ手にかけられた呪が回復を妨げまた薬の力を浪費するだけの余力もなかった。
「とはいえ余力で火の粉は振り払わないとね、効率よく」
そう言って永琳はどこからか愛用の弓を取り出す。弦も張られておらず矢さえ持ち歩いていないが、永い間故郷からの追っ手を退けてきた宝具である。
「無形の力でもって弦を張り、意をもって矢と為す」
永琳はまるで弦が張られ矢を持っているかのように弓を引くと、襖に目掛けて放つ。
一閃。
現世の視界からは見えることのない何かが、襖に向かって殺到する。その何かは襖を破ることすらなく襖を抜けていった。ただ廊下を叩く音を残したのみ。
永琳は襖に近づきゆっくりと開ける。廊下には誰も立っていなかったが、永琳は気にすることもなく天井を見上げた。
「こんばんは人間の方」
「今晩は妖怪の方」
天井の梁を指でつかみぶら下がっている妖怪一匹。いや一羽か。
暫し前にかわしたやりとりの相手は、やはりてゐであった。ただし輝くような笑顔は鳴りを潜め、不敵にふてぶてしい笑いを浮かべていた。
「そちらが本性のようね兎さん。でもその顔の方が似合っているわね」
「お褒めに預かり光栄だけどね、あんまり驚いてないのがとっても残念。いつからバレてたの?」
本当に驚く顔を楽しみにしてきたのか心底残念そうであったが、この変貌振りを見ればどれが本音か判ったものではない。
「別にあなたを疑っていたわけではないわ。ただあの性悪な結界を張った性格の悪い奴を警戒しておいただけよ」
「あちゃー。そーかそーか、今度警戒心強い奴を騙す時は用意周到に行こう、悪役捏造とかが良いかな」
「なかなか良い考えね、次があるなら。でも狙いは何かしら。追い剥ぎに剥がれる大層なものは持っていないわ」
「あなたからはとても良いにおいがするの」
「やっぱり食べるの、人?」
「食べないわよっ、そんな体に悪いもの。草を食べる生き物が肉を食べたりすると狂って死んだりするのよ。あなたからする香りは、健康に良い薬の香り」
そう言っててゐは紅い目を細めると、音もなく廊下に降り立つ。
「私の生き肝でも欲しいのかしら? けれど蓬莱の薬は禁忌の薬。あなた如き妖怪には過ぎたモノよ」
「蓬莱の薬とは随分と大げさな名前ね。ますます欲しくなったわ」
「永遠を求めて今さえ失うが良いわ、地上の兎!」
「あんたの薬は全ていただいてやるわ、銀色の薬師!」
宣言と同時に永淋は形無き矢を、てゐは妖気の塊を放つ。ともに素早く身をかわすと目まぐるしく次弾を、さらなる次弾を放ち続ける。
しかし双方とも素早く動いているため、効果的な一撃が加えられなかった。短い膠着状態に先に業を煮やしたのはてゐであった。
「時間がないからね! とっとと片を付けてやるわ!」
そう叫ぶと同時にてゐの赤眼が煌々と輝きを増す。突如なんの妖気も感じられなかった空間が妖弾で満たされ永琳に向かって殺到する。
「なに!」
視界を埋め尽くす弾幕に、永琳は回避に専念せざるを得なくなる。空間を満たす妖弾の群れを必死に回避していると、更にてゐは正確に狙いをつけた妖気の結束弾を放ってきた。このままではいずれ避けきれなくなる。
「早く嘘を見つけなくてはね!」
永淋は追いつめられてはいたが、この弾幕の根幹に大きな嘘があることに気付いていた。これほどの弾幕を構成する妖気を、こんな簡単に生み出せるはずはない。何らかのごまかしがあるはずなのだ。
「赤… 赤い瞳… 兎、狂気の目!」
永琳は弾かれたようにバラ撒かれた妖弾の結界に突貫する。
「ちょ、ちょっと自殺でもする気!?」
むしろ突っ込んでこられたてゐの方があわてる始末だった。しかし永琳を穿つはずの妖弾は、永琳をかすりもしなかった。永琳はてゐが放つ青い結束弾のみに反応して避けている。
「解析は終了したわ。あなたが直接放つ妖弾以外は正に、真っ赤な偽物ね!」
言いながら永琳は形無き矢を多量に弓につがえると、てゐに向かって放つ。逃げ回るてゐに追い撃つ永琳。攻守は完全に逆転していた。更に永琳は己の式とも言える思考補助の術式を放ち、てゐを攻撃させた。すばしっこく逃げ回るてゐであったが、二方向から挟まれしだいに追いつめられる。
「まさか私を狂気に落とすとは。月の兎は地上の兎の数倍狂気を秘めると言うけど、あなたの数倍を求めるのは酷と言うものね」
「それはどーもお褒めに預かり恐悦至極ぅ」
天井に四つ足で掴まったなかなかみっともない格好でいながら、てゐのふてぶてしさに変化はなかった。
「でも月の兎とやらの本分が狂気なら、地上の兎の本分は… 跳ねる事よ!」
突如てゐが視界から消える。次の瞬間術式より伝わった警告に従い永琳が飛びすさると、その頬からは熱い液体が滴っていた。
床を、壁を、天井を、さらには襖を足場にして目にもとまらぬ速度で飛び回る影。
しかし永琳が浮かべたのは不敵な笑みだった。
「跳ねるだけではなくて、首も刎ねるのね?」
「ご名答♪ でも鎌鼬からいただいておいた切り傷に万能の膏薬もあるし、安心して首を飛ばされてちょうだい」
「妖怪の薬とはなかなか興味深いわね。あなたを矢襖にしたあと、私が貰っておいてあげるわ!」
永琳は術式とともに追いつめようと怒濤の矢を放つ。凄まじい速度で跳ね回るてゐの動く先を読んだかのように、しだいに矢はその身をかすめ始める。
しかしまた殺到するてゐの猛攻もまた、永淋を追いつめ始めていた。
矢が身を穿つのが先か。首が飛ぶのが先か。が。
「あ」
緊張の糸はてゐの間の抜けた声によって引きちぎられた。おそらく永遠に。
「なんなのよいきなり」
あまりにも唐突に緊張がとぎれ、永琳も毒気を抜かれてしまっていた。
「時間切れよ時間切れー。これ以上激しい運動をすると健康に悪いー」
てゐはぐったりと肩を落としたまま戻っていく。更に後ろも見ずに薬入れを投げてくる。
「わたしの負けだから鎌鼬の膏薬は進呈。副賞は後ほど。じゃねー」
やる気なさげにぱたぱたと手を振ると、本当にてゐは去っていってしまった。
「はあ。なんだったのかしらあの兎は」
永琳がぼやくのも当然だろう。いきなり襲いかかってきて、いきなり負けを認めて賞品を渡して去っていく妖怪。意味不明である。確かに鎌鼬の塗り薬とやらは永琳が驚くほどの効き目ではあったが。
「はい。副賞を持ってきましたよーっと」
そう言って入ってきたのは当の変な妖怪兎である。しかも足で襖を開けて行儀の悪いことこの上なかった。なぜ足かと言うならば、小さい鍋が載ったお盆を持っていたからである。どちらにしろ行儀は悪かったが。
「おかゆ?」
「おかゆ。お姫様もうすぐ起きるでしょ?」
「健康狂いもここまで来ると医者形無しねえ」
「健康で医者にかからないのが一番良いでしょ。ただの兎やってた頃は医者の知り合い居なかったし」
「まあ医者が暇なのは良い事ね」
二人がそうこうしていると、輝夜は微かに身じろぎをしゆっくりと目を開けた。
「気付かれましたか、姫」
「永琳。…ここは?」
「この兎の屋敷です。一晩の宿を借りることになりました」
そう言われて初めててゐの方に目をやると、輝夜は興味深げにてゐを見つめた。
「兎。でもこの兎は月の兎みたいだわ、永琳」
「長く生きれば地上の兎は妖怪となって、月のもののように人型を取ります」
「それでは地上の妖怪兎さんね。ちょっと長いかしら、永琳」
少し困ったように考え込む。
「イナバで良いわよ、お姫様。他の兎はここの兎を大抵そう言うわ」
てゐは妙なことに悩んでいるふうの輝夜にあきれながら、粥の載った盆を近くの机に置いた。お姫様だけあってどこかずれているように見える。
「大したものじゃないけどどうぞ。冷めない方が多分美味しいよ」
言われて輝夜は永琳の方を見た。
「消化に良いので食べても問題有りません。姫の体調を気遣ってくれたようですね」
「まあ、ありがとうイナバ。味わっていただくわ」
輝夜が邪気のない笑顔で礼を述べると、てゐは顔を赤くして横を向いた。
「永琳に負けたお代よ。別にありがたがるほどのものじゃない」
「その割には持ってくるのが早かったわね。初めから用意していたみたいに」
「あー、うー、それは…その…」
二人の様子に輝夜はくすくすと笑いを漏らすと、てゐの耳に手を伸ばした。てゐは一瞬身を固くしたが、輝夜の手の感触が気に入ったのか黙って撫でられるに任せていた。
「イナバの耳は柔らかいのね…」
逃げないところを見ると嫌がってはいない様子なのに、なぜかてゐは神妙な顔つきをしていた。まるで手の感触を逃すまいとでもしているように。
粥を食べ終えた輝夜はまだ疲れが取れない様子で横になっていた。
「ごちそうさまイナバ、とても美味しかったわ。あとで作り方を教えて欲しいくらいね」
「それは私も興味がありますね。あとで教えてくれないかしら、てゐ?」
「それは良いけど、お姫様も?」
てゐとしては身分の高い人間は料理をさせる側であっても、する側ではないと思っていため随分と意外な申し出に聞こえた。
「ふふ。こう見えても私、家事はなんでもこなすのよ? 竹細工だって得意なの」
悪戯っぽく笑い輝夜は外の竹林に目をやると遠くを、ここではないところを見つめるような目をした。
「おじいさまも輝夜は上手だと褒めてくれたものよ。 …永琳、もう少し眠るわ」
「はい。お休みなさいませ、姫」
よほど消耗しているのだろう、輝夜は返事を聞くやいなや眠りについた。輝夜の力は大きい分扱いに困る節がある。いずれ護身となる宝具でも作っておくべきだと永琳は思った。いつも自分が守っていられるとは限らないのだから。
「あまりお姫様っぽくないねえ」
「地上での影響が大きいんでしょうね。ごく普通の家にいたとお聞きしているわ」
てゐはなるほどともっともな話にうなずく。
「今更聞くんだけど、あんた達って月の人?」
月から人が来るなどとは戯れ言か昔話の類であるが、二人の言はまるで月を故郷とするもののようであった。とは言え昨今は外ですら魑魅魍魎の類も珍しくなく、まして常人の方が珍しいこの地においては月の殿上人くらい居て当然とも言えよう。もっともこの地での常人たるてゐにとっては、ただの常人こそ珍しいものであったが。
訝しげに尋ねはしたが、二人の雰囲気がここの常人とも外の常人とも異なっていることはてゐも感じていたのだ。
「そうよ。別に隠していたのではないのだけれどね。わざわざ月から来ました、と言うのもおかしいでしょう?」
「それは確かに神懸かりが来た、と騒がれるのが落ちかもねえ」
わざわざ波風を立てそうな事実を喧伝する必要はない。聞かれても適当にごまかせば済む話だろう。
「「!」」
他愛もない話の中、突然てゐは耳をピンと立て毛を逆立てる。永琳もまたゆるんでいた表情を引き締めていた。てゐにとっては未知の、永琳にとっては既知の気配だ。
「ここは良くないわね、撃って出てくるわ。私が戻るまで姫をお願い出来るかしら」
「…ちゃんと引き取りに来るんでしょうね」
「少しかかるかも知れないけれど、必ず。宴、にぎやかで楽しかったわ。姫にも楽しませてあげたかったわね」
「戻ってきたら宴くらいならいくらでも呼んであげるから、ちゃんと引き取りに来なさいよ」
「ふふ。ありがとう。…では行ってくるわ」
永琳は弓を掴むと気配の方へ足早に去っていった。
てゐは落ち着かない様子で輝夜の寝顔をのぞき込む。眉間にしわを寄せて部屋をぐるぐると歩き回り、そして戸を開ける。
「あんた達いつまで起きてるのさ。寝不足は健康に悪いって、何年言い続けてると思ってるの?」
戸を開けると数羽の兎が集まっていた。
「てゐこそ遅くまで起きてるじゃない。肌が曲がり角で牛車に轢き殺される、って脅しつけてるくせに」
「なんか言い方が母親の類みたいだよ? 年寄り扱いするなって、昔よく暴れてたのにねー」
「がーーー! うるさい! わたしの肌はつるつるだし母親でも年寄りでもない!」
てゐに言われた分を数倍にして返しているのは、永遠亭でも一番古株の兎たちであった。普段兎にしては思慮深く皆をまとめる側に回っている者達が、てゐの前では小娘のような口の利き方をしていると知れば若い兎たちは驚くことだろう。
「んで、なんなのよ。わざわざ起きてきて」
兎たちは顔を見合わせると表情を正した。
「永琳のこと放って置いて良いの?」
「…私が負けるの見てたでしょ。実際はもっと強そうだったしさ。負けないわよ …多分」
それを聞いて兎たちは、一様にあきれた顔をした。
「健康に良くないとかって勝負を下りた話をされてもね…」
「短い攻防で相手の実力を読んだって言ってちょうだい。実際半端じゃないわよ、あいつ」
実際あの短い戦闘で見せたのは、永琳にとって片鱗と言うにもおこがましい程度の力だろうとてゐは思っていた。それでもその片鱗がかいま見せたものはいにしえの、今はもう見ることのない力を思い起こさせた。だが…
「その凄い永琳が怪我させられてたんでしょ?」
「相手も凄いんだったらどうなるかわからないよー」
気になっていたのはそこだった。
永琳が逃げているのは相手も同じくらい強いか、弱点を突いているから。永琳が片鱗程度しか力を見せなかったのは、それしか余力がなかったから。
だとすれば兎たちが気にするように永琳は危ない。
兎たちに言われるまでもなく判ってはいたが、いにしえよりの詐欺師を自認するてゐにとって掛け値なしの善意などむずがゆくてどうにも受け付けない。と言うよりは恥ずかしい。
「永琳もわたし達みたいに故郷を無くしたんでしょ?」
「わたしはてゐに拾われなかったら、きっと悪さして退治されてたよ」
「お願い、永琳のことも助けてあげて」
一番古株の兎たちは、昔てゐが各地で拾って回ったはぐれ兎たちであった。
はぐれた兎は世を恨んで妖化し、また妖化した兎は追われ世を恨んで悪鬼となる。多くは妖怪に成り切る前に死に、残りのほとんども相手を構わず襲うようになり退治される。
生まれた時既に孤独であったてゐは、才能があったのか意地でも生き延びてやろうと健康に気を遣ってるうちに妖怪となったのである。その後は定まった道に嵌るが如く、世を乱し故郷を追われるに至った。
てゐの道を修正する者に出逢ったのはその辺りであった。故郷を離れるために騙した者達の報復を受けて苦しんでいるところ、てゐを救ってくれた者が居たのだ。その時礼代わりに舌を滑らかにして『あなたは今は従者だが必ず偉くなる』などといい加減なことを言って褒め称えてやったら、なんとその者は本当にとんでもなく偉くなったのである。その上わざわざてゐを探し出し、自分が幸運を呼んのだと丁寧に礼を言ってきたのである。永遠亭もその時に礼として建てられたものであった。
その真摯な態度に流石にてゐは自分の行いが恥ずかしくなり一念発起、この国を東西問わずかけずり回って自分のようなはぐれ兎を拾って回ったのだった。ついでに人妖種族問わず不幸そうな奴の世話をして回っていたら、いつの間にやら神様などと拝まれるようになり恥ずかしくなって永遠亭に引っ込んだのだ。古い話である。
今は自分が動かなくても昔拾った兎が更に拾ってその兎がまた…と言った具合にはぐれ兎集めは万全となっているため、ほどほどの詐欺と健康に満ちた楽隠居生活だ。たとえばここにはいない男の兎も、拾った時は小僧であったが今は立派な兎が長となって集めている。この間会いに行ったら母さまとかぬかしてきたので、てゐと呼ぶようにしこたま拳で教育してやったが。
何となく輝夜が耳を撫でた感触を思い出す。もしかすると撫でられたのは初めてなのかも知れない。その類の行為も含めて。
「あーその。今日はもうこれ以上運動すると体に悪いかなー。あと寝不足とか?」
てゐとしても既にもう答えは決まっていたが、一応抵抗してみる。
「…今日は満月なんだし、もうちょっと頑張ってよ」
「永琳のこと気にして落ち着けて無いじゃない」
「心労を溜めると体に悪いって、この間力説してたでしょ」
てゐは突如顔を上げて『我得たり!』とばかりに表情を輝かせる。
「それだ! 満月で力が溢れてるし、心労を溜めると良くないものね。よし行こう、さくさく行こう! ついでに恩を売って、うちの薬師にしてやろうかしら」
言い訳が立ったためいきなりやる気を表に出したてゐに突っ込みを入れたい所であったが、兎たちは何も言わないことにした。せっかく見せたやる気に水を差すこともない。
「さてと、あんた達は使えるのを集めてきてちょうだい。子兎たちを起こさないようにね。遅れて来てわたしが全部片付けたらご飯抜き」
悲鳴を上げる兎たちを尻目にようやくやり返したと溜飲を下げたてゐは、身軽に跳び上がると竹林を足場に飛ぶよりも速く跳ねていった。
永琳の放った怒濤の矢が、青い衣を着た少女を射抜き打ち落とす。撃ち落とされた少女の頭頂からは、しなびたような兎の耳が生えていた。おそらくはこれが月の兎なのであろう。
「ようやくね…」
永琳の周りにはその月の兎たちが、地面空中を問わず十重二十重に取り囲んでいた。
一つはその数の差が永琳を苦しめていた。数人の兎を既に戦闘不能にしていたが、それでも未だこの包囲である。
二つは兎たちとそれを指揮する月人が身につけた武具だ。先ほど撃ち落とした兎も身につけていた地上では見ない型の青い衣は、外見に反して属性問わずの強固な防護を誇る。
他にも振りかざせば稲妻を呼ぶ剣など枚挙暇がないが、それら地上にあれば宝具とも祭られる物は全て月ではありふれた物なのである。
そして三つは月人が使ってきた永遠を蝕む停滞の呪。永遠は終わることのない停止でもある。もはや永琳の存在そのものを構成している蓬莱の薬の永遠は、停滞という劣化概念によりにより阻害され永淋自身の力をも削いでいた。
月は地上を穢き場所と見下し、またその傲慢にふさわしい力を持つ。八意永琳はその月においてすら掛け値なしの天才であったが、その才を遺憾なく発揮させるほどの力もまた月は有しているのだ。
「永淋様、どうぞお戻り下さい。お戻り頂ければ咎はないと上は申しております」
「…私は姫を連れ戻しに地上に降りた使者を、皆殺しにしているのよ。それでも咎はないと言うつもりなの、上は?」
「地上に送った使者など、いくら集めたところで姫と永淋様の価値に及びませぬ。あの程度の損害はお二方の価値を減ずるものではない、と言うのが月の総意にございます」
目の前で口を利いているものは人形かと、永琳は一瞬疑った。だが目の前の月人は己の言の正しさを疑っていない。己にとって当然の発言をしているだけなのだ。
かつて月にいた頃、こんなものは当たり前であったはずだ。そして何度も訪れた使者もまた口々に似たような言葉を吐き、永琳も輝夜もそれを飽きるほど聞いているのだが…。
今はその言葉に怖気が走る。
「私も姫も月に戻る気はないわ」
「残念です。停滞の呪が通用するうちに、首だけにしてでもお連れせよとのことですので。ご無礼をどうか」
これもまたそれが当然と思っての言葉だ。仲間を殺されて恨みに思って言っているのでも、罪人を前に義憤に駆られ言っているのでもなく、ただ当然のこととして述べているのだ。
月兎たちが射撃の構えを取り、永琳も矢を放つ用意をする。
次の瞬間上から降ってきた物体が、月兎のうちの一人を巻き込んで落下していった。
「てゐ?!」
完全に目を回している月兎を踏みつぶしているのは紛れもなくてゐであった。
「恩を売りにはるばるやってきたわよ」
「恩を売りにって… あなたねえ」
緊張感の無いてゐに永琳はあきれる。これだけの数を前にこの態度は大物だ。
「話は後にしてとっとと片付けましょ、夜も遅いしね」
「後に回すと何を要求されるか怖いのだけど。まあとっとと片付けるのは賛成ね」
「じゃあとっとと!」
言うと同時にてゐは竹と言わず地面と言わずを足場にして、猛烈な勢いで月兎に襲いかかる。次々に吹き飛ばされる月兎達。反撃をしようにも、立て直そうとしたところに更に永琳の矢が降り注ぎ隙を見せない。
が。
「ちょっと! 堅いわよ!」
「堅いのよ」
先ほどからてゐに突き飛ばされ永琳の矢に晒されている月兎達であったが、数を減らした様子はない。流石に多少動きが鈍っているようではあったが、先ほどから叩き付けている威力にはとうてい見合わない。その上悲鳴一つ、呻き声一つあげず不気味であった。
月人はなかなか決定打が与えられない月兎を盾に、遠くから攻撃を仕掛けてくる。月人が持った剣が振りかざされると、まるで昼間のような光がてゐと永淋に襲いかかる。
二人を捉え切れてはいなかったが、通り過ぎていった光は竹林の一角を大きくなぎ払っていく。その光は地面に突き刺さると、音も立てることなく大穴を穿っていた。
「…ちょっと。当たると痛そうなんだけど」
「痛いで済めば幸運ね。逃げるなら今のうちよ?」
「冗談! それはあくまで最終奥義。もっと不利になってからよ」
どうやら連発できる物ではないらしく攻撃の間隔は空いているが、あの威力はそれだけで脅威だろう。月兎達に足止めを喰らわないようにしながらあの光を避け続けるのはなかなか骨が折れたが、てゐは余裕の表情を崩さない。
「もう少し… 来た!」
上空からいくつかの影が降り注ぎ、それらは月兎達を巻き込んで地面に降り立つ。先ほどのてゐと同じように現れたのは、永遠亭の古株達だった。
「ご飯抜き回避!」
「お呼びとあらば即参上!」
緊張感がないところまでてゐにそっくりである。
更に月兎達に向かって大量の妖弾が飛来する。竹林の間にいくつもの赤い瞳が浮かび上がっている。かなりの数の兎たちが潜んでいるようだ。
「この子達、戦闘は大丈夫なの?」
「妖怪兎は元々気性が荒いもんなのよ」
しばしば語られる話の通り妖怪兎は攻撃的である。邪悪とさえ言って良いような者も少なくなく、主に退治される側に回るほどだ。
「とは言え月人は危ないしね。みんな親玉は避けてへにょり耳をなんとかしなっ! 因幡の兎らしくね!」
「私は使者の牽制に回るわ。悪いけどなんとか数を減らしてちょうだい」
「あいよ。この竹林の真の恐怖を披露してやってくるわ」
てゐはにやりと笑うと、竹を足場に飛び跳ね兎たちの元へ向かった。
端から見ると兎たちは押されているようだった。遠くから降り注ぐ妖弾は牽制程度にしかならず、矢面に立っている古株の兎たちの攻撃もなかなか通じない。
だがその時、突然月兎の一人が消えた。突然視界から仲間が消えたことに僅かに反応する月兎達であったが、見回しても上空にも周りにも消えた月兎の姿はない。
月兎が消えたのは地中、平たく言えば落とし穴に落ちたのだった。穴はなぜかとりもちで満たされており、粘り着いて脱出を阻む。月兎が抜け出そうとじたばた藻掻いて上を見ると、竹の上に数匹の兎が鎮座していた。兎たちはにんまりと笑うと、穴に向けて大量の妖弾を放り込んだ。
それを皮切りに月兎達は次々とたちの悪い罠にはまっていった。
妖弾を避けて一歩下がった月兎は、突然足に巻き付いた縄に引っ張られて天高く放り上げられていた。よほどの速度であったのか、気を失ったまま竹の先からぶらぶらと逆さに吊り下がっていた。
必死に逃げ回る兎を仕留めようとした月兎は、横にして留めてあった竹に顔面を強打してそのまま地面に落下した。必死に逃げている振りをしていた兎は、それを見て人の悪い笑みを漏らした。
身も蓋もない罠によって、月兎達は次々と無力化されていく。月兎達は色々と当てられない様子にされていく仲間をみても特に反応を見せなかったが、月人は怒りにふるえていた。
「地上の穢れた兎共が!」
月人は永琳から無理矢理距離を取ると、怒りにまかせて剣を振りかざし兎たちの居る辺りに光を叩き付けた。兎たちは光を見てあわてて、正に脱兎となって逃げ去る。
永琳はその隙をついて、またひとり月人の直衛をする月兎を撃ち落としていた。
「だいぶ静かになったねえ」
てゐは兎たちを下がらせて永琳のそばに寄った。もはや残った月兎は十を切っている。
「ええ、助かったわ。随分えげつない手だったけどね」
「知恵の勝利って奴よ。どんなに凄いものでも、間抜けには宝の持ち腐れって事」
てゐが馬鹿にするような視線を送ると、月人は憤懣やるかたない様子であった。
「愚弄するか土兎。貴様から始末して欲しいらしいな! 兎共、下郎の足を止めろ」
月人が指示すると、月兎達はてゐに集中的に飛びかかる。てゐの動きは制限されたが、永琳の方はほとんどがら空きとなりむしろ矢の的も良いところだった。その上あまりにもてゐに近寄っているため、月兎達が遮って月人からはてゐを狙うこともできない。
月人が月兎を避けるつもりがあるならばだが。
「てゐ、避けなさい!」
「え!?」
てゐもまさか仲間を巻き込んで攻撃を仕掛けるとは思っていなかったのか、あわてて避ける。てゐがなんとか避けた光に巻き込まれ、何人かの月兎が木の葉のように吹き飛ばされた。
仲間が巻き込まれているというのに、月兎達は相変わらず動揺一つ見せずてゐに迫る。あまりにも捨て身な月兎達にてゐは上手く避けきれず、遂にそのうちの一人にしがみつかれる。そして動きの取れないてゐに向かって、月人の剣が閃光を放った。
目もくらむ閃光が収まると、てゐは自分が無事であることに気付いた。あの軌跡では威力を減じようもなかったはずである。
「…永琳?」
閃光からてゐをかばった永琳は支えを失ったかのように、そのままてゐの方へ倒れ込む。あわてて支えようとするてゐだったが、掴もうとした左肩がなかった。
影も見あたらない左腕を中心に、永琳の体は大きく損なわれていた。
「思わぬ幸運だったな。永淋様を倒す手間が省けるとは」
てゐは口から言葉を垂れ流す月人に目をやる。その場に立っているのは、最早てゐと月人のみであった。
「地上の兎の代わりに攻撃を受けることに、なんの意味があったのだ? そう言えば輝夜様をかばって、動きを鈍くされていたな。後で修復して差し上げればよいと言うのに」
その言葉に嘲る様子はなかった。ただ、心底理解できないことだと言っているのだった。
「そんな事も解らないの、あんた」
「貴様が疑問を感じないと言うなら、どうやら永淋様は地上の穢れに侵されているようだな。このような理に外れた行いをするなど」
「その理とやらで仲間を巻き込んだの、あんた」
「この任において、兎の消耗に上限は儲けられていない。お二方の価値を考えれば当然のことだ。兎などいくらでも換えが効く。意志を奪ってあるから逆らうこともない」
-そろそろ聞くに堪えない。こいつの口を永遠に塞いでやりたい-
「一つだけ聞きたいんだけど。二人を連れ帰るためなら、あんたの命も安いのかしら?」
てゐは最後に聞いてやるべき事を付け足してやった。聞かなくても分かることだが、言わせてやるのが妖怪と言うものだ。
「無論同様に価値がない。月の民といえども、いくら積み重ねたところでお二方の価値に並ばない」
予想通りの答えが返ってくる。納得が行った。あまりにも納得が行って笑いがこみ上げてくるほどに。堪えきれなくててゐは狂ったように、げらげらと笑った。
「月にはきっと妖怪が居ないのね。あなたの言葉には畏れがない。だからそんな巫山戯た言葉が出てくる」
月人の目の前にある兎には、最初の小馬鹿にしたような態度も傷ついた永琳を呆然と見ていた名残もなかった。赤い瞳は狂気を撒き散らしながら、月人を覗き込んでいた。
「こんなに月も丸いことだしね。妖怪というモノを教育してあげるわ、月人」
妖怪は狂気以外空っぽの笑みを浮かべて、そう宣言した。
月人はその変容に驚愕しながらも、剣を振りかざして妖怪をなぎ払う。光に包まれ、妖怪は月人の視界から姿を消した。当たったかどうかは判らないが、濃密な妖気は場を包みこんだままだ。
「ぐっ!」
気配を探っていると、突然何かに足をえぐられる。包み込む妖気が濃すぎて、本体がどこに居るか見当も付かない。
「そっちじゃないわ。こちらへおいで」
闇雲に剣を振り回すがかすりもしない。その上声は周り中から聞こえる。
妖怪はどこからか現れ、じわじわと嬲るように月人の体をえぐり取っていく。月人の背には既に嫌な汗が、流れ落ちるほどに吹き出している。
「見つけてくれないなんて、寂しいな…」
声は突然間近から聞こえた。振り向くと顔の高さにあった赤い瞳と、目が合う。いつの間にか妖怪は童女から女に変わり、狂った視線を月人に向けていた。
「そろそろあんたと遊ぶのも飽きてきたし… ご飯にしましょうか?」
妖怪はその視線を初めて狂気以外のモノに染めると、ゆっくりと手を伸ばす。それはエサを見る目だった。妖怪が何を喰うかなど問うまでもないことだ。
「うあああああああああああああああああああ!」
月人は恐怖に駆られて剣を振り回す。
肉を裂く音が響く。
剣はあっさりと妖怪の腕を切りとばし、切っ先がその胸へと突き立つ。腕が落下する音とともに、軽い音を立てて妖怪は倒れ伏した。
「あ?」
月人はあれほど自分を恐怖に陥れた妖怪が、あっさりと死んだことに拍子抜けしていた。それでもあの化け物が居たこの場にいることはぞっとしない。
妖怪に突き立った剣を抜くことも忘れて、背を向けて歩き出すと何かが足に引っかかった。いや引っかかったのではなく掴まれていた。掴んでいたのは殺したはずの妖怪の、切り飛ばした腕だった。
腕だけのくせにまるで抵抗を許さずに月人を引きずり倒すと、そのままずるずると引きずっていく。その方向はあの化け物の死体があるはずの向きだ。地面に指を突き立てるが、まるで速度が落ちない。
「とても痛くて苦しいわ… 胸の穴を塞ぐのに、あなたの栄養を貰おうかしら?」
殺したはずの化け物の声が聞こえる。もはや悲鳴すら上げられない月人の頭に重い衝撃が走り、その意識は闇の底へと消えた。
「あーやれやれ」
危うく本気で殺すところだったが、これも月が丸いのと腹立たしい月人のせいだとてゐは思っていた。これだから満月は嫌いなのだ。確かに妖気が満ちあふれ最高に調子は良くなるが、無茶をやらかしたりでろくな事がない。
今もわざわざ腕を切断させたり剣を突き立てられたりで、全くもって健康に良くない。きっと寿命が三年くらい縮んだに違いない。ぶつくさ言いながら剣を引き抜いて放り投げ、腕を拾ってくっつけておく。だが縮んだであろう寿命よりもまずは永琳だ。
てゐの見立てでは、永琳は酷い傷を負ってはいるものの死んではいない様子だった。それがあの月人を殺さなかった理由だ。永琳が死んでいないならば殺す必要はない。殺してしまったら、永琳も死んでしまう気がしたからだ。全力で殴りつけたから、しばらく意識を取り戻さないだろうが。
近寄って永琳の傷を見ると酷い傷だが、確かにまだ死んでいない。息が止まり拍もなく頭も動いていないとなれば普通は死体だが、妖怪的に見れば抜け殻になっていないのなら死体ではない。とは言えこの傷では、いつ舎利になるか知れたものではなかったが。
何か手はないかと考えたが、永遠亭にある薬で体に空いた大穴を塞ぎ腕を生え替わらせるような薬はない。妖怪ならば自力でやりそうな奴も少なくないが、永琳は月から来たとは言え人間である。
なんとかできそうな妖怪に心当たりはあったが、迷わないと行き着けない場所にあるため時間がかかる。その上そいつは気まぐれすぎて、真っ当な対応が期待できなかった。
人間のことは人間に任せるのが一番良いのだろうが、なんとかできそうな博麗の住処はやはり遠かった。
悩んでいるとふと永琳の香りが鼻にはいる。薬の良い香りもしたが、永琳自身もとても魅力的な香りだった。怪我をしている身にはこの香りはたまらない。なんでこいつは無防備にこんな良い匂いを、などと死にかけの体に理不尽なことを考えてみる。
「ちょっと。人を物騒な目で見ないでちょうだい」
「へ?」
少しまた狂気に傾きかけていた目を向けると、いつの間にか永琳が目を覚ましていた。傷一つどころか服までが元通りになっている。
「蓬莱の薬のおかげで私は不死身なの。さっきまでは使者の呪いに邪魔されていたのだけれど、あなたが倒してくれたみたいね」
「へぇー。不死身ねえ」
てゐはしげしげと永琳を見回す。見た感じは普通である。
「それにしてもあなたそんな姿にもなれるのねえ」
永琳は自分と変わらないくらいの背になったてゐの高さを確かめるように手を伸ばすと、てゐは一歩下がってそれを遮る。
「今はわたしに近寄らない方がいいよ。多分だいぶ物騒な目で永琳を見てる」
普段は人はおろか肉も食わないてゐだったが、深手と満月のせいか近寄られると襲いかかってしまいそうだった。
そこに遠くから声が聞こえた。数人の兎たちが、手を振りながら駆け寄ってくる。
「てゐー!」
「お疲れ様ー!」
「でっかくなってるー!」
駆けてきた勢いを殺すことなく、そのままてゐに飛びつく兎たち。
「痛たたたたた! 飛びつくな抱きつくな! こら、手が取れる!」
兎たちに引きずり倒され、じたばたともがくてゐ。
「物騒な目ねえ」
「ちょっと! あんた医者でしょ! この悪魔共をなんとか… 痛い! 派手に痛いー!」
永琳はなにやら派手に騒ぐ兎たちを見て、くすくすと微笑む。
山の稜線から太陽がその姿を覗かせ始める。どうやら竹林は早くも戦の狂気をぬぐい去り、日常を取り戻したようだった。
「んで、さっき売った恩のことなんだけど」
ようやく兎たちがおとなしくなったので、てゐは話を切り出す。
「蓬莱の薬ならあげられないわよ。在庫もないし二度と作る気もないわ」
「要らないわよ。不死身になったら、健康に気を遣う楽しみがなくなるじゃない」
本末転倒のような気がしないでもないが、どうやら当人は本気で言っているようだ。
「うちで薬師やってくれない?」
「あのね…。さっき巻き込まれたのをもう忘れたのかしら?」
「あれは事故みたいなもんだってば。もうあいつ等みたいなのは来ないはずよ」
「随分自信ありげね」
この地には招かれざるものは決して来ない。稀に訪れるのは、戯れに結界をいじくる馬鹿のせいである。
「どうせ行く当てもないんだしさ。まず次の満月まで居てみてよ。それでも来なかったら次の満月までって事で」
永琳によると、月からの使者は満月にのみ訪れるらしい。満月は地上と真実の月を繋ぐ唯一の鍵であるからだ、と言っていたがあまりよく解らない。まあ満月の日にだけ来ると解れば問題無いだろう。
「お姫様も宴会に呼んであげたいしさ。そうそう! うちお姫様も居なかったから、一石二鳥になるし」
「お姫様は雇い入れる類のものじゃないと思うのだけれど…」
おかしな事を名案のように伝えてくるてゐに、永琳は苦笑いを漏らした。とは言え輝夜を楽しませてあげたいとは常々思っていたことだ。もう逃亡生活も永く、一所に居つけずに疲れを感じているのも確かだった。
「迷惑をかけるかも知れないけど、おいて貰えるかしら?」
「そっちが恩返しのために雇われるんだから、勘違いしないようにね」
そうは言うもののてゐの顔は喜びに満ちていた。
「それじゃ、用事を済ませてきますか!」
そう言っててゐは兎に取ってこさせた酒樽を背負い、未だにのびている月人の首根っこを引掴む。だが切断された腕の方で掴んだため、腕を押さえて悶絶していた。
「うぎぎ…。じ、地味に痛い」
「じゃあ、これが永遠亭のかかりつけとしての仕事第一号ね」
そう言って永琳は胸の穴と腕のつなぎ目に薬を塗ってやる。
「貰った鎌鼬の膏薬を改良してみたのだけど、後で使った感じを教えてくれるかしら」
「後でも何も… もう治ってるじゃない…」
ふさがった穴と切れ目の失せた腕を見て、てゐは呆然とつぶやく。妖怪の回復力を差し引いても、異様なまでに治りが早かった。どうやら予想よりも遙かに永琳は優秀なようだ。月人が血道を上げて追い回すのも納得が行く。
「それじゃあこいつを神社から捨ててくるついでに、もう追っ手が来ないように手を打ってくるわ」
「そのお酒を使うのかしら?」
「これで多分何とかなると思うわ。何とかならなかったら、博麗でも道ずれにして力ずくでも」
「神に捧げる供物のようなものかしら?」
「まあそんなものね。…祟りが主だけど」
嫌そうに、これから説得すべき相手を思い浮かべる。
「それじゃあお昼宜しくね。具体的に言うと三年くらい寿命が延びそうな」
「そんな都合の良いお昼ご飯はないけど、まあそれなりに用意しておくわ」
「随分と増えたから量間違えないでね。足りなかったら泣くよ?」
ついでに月兎達も永遠亭で引き取ることにしたので、食い扶持が随分と増える。永琳や当人達によると、行き場がもう無いそうである。さすがに月産の兎は初めてだったが、行き場がないなら普通のはぐれ兎と一緒だ。月兎たちは月人と違い随分と感激屋で、ありがたがってそのうち拝み出しそうになったのであわてて止めたほどだった。
「それじゃあ行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
てゐは今度こそ月人を掴むと、永琳の見送りを背に飛び跳ねていった。
ここから先はたいしたことは起きなかった。
最初の満月の日は大丈夫だと言っていたはずのてゐも緊張し、万が一に備えていたが月からの使者は現れなかった。
その次の満月も同じように備えたが、使者は訪れず皆で安堵の息を漏らした。その次の月もそのまた次にも現れず、結局一年が過ぎた。
使者が現れなくなって十年も過ぎると流石に誰も緊張しなくなり、申し訳程度に満月に集まって結局宴会に突入したりする始末であった。その間にあったことはせいぜい永遠亭の銘酒『妖命酒』が永琳の協力の下、遂にてゐの求める水準に達したが誰も健康のために飲んでくれず、酒としか見ていないことを知ったてゐがやさぐれた事ぐらいである。
百年も経つと兎たちはおろか、月の民達まで滅多に思い出さなくなった。
その辺りにあったことは体の良い遊び相手を見つけた輝夜が、物騒な術や宝具の扱いに取り組み始めたくらいのものだ。永遠亭で暴れるでも無し、誰も気にしなかった。
ようやく何かが起こったのは、月の使者が来なくなって千年も経ったかどうかの頃だ。竹林で見つけた月兎にとうとう使者が現れたのかと永遠亭は上を下への大騒ぎになったが、結局その月兎もハズレでいつの間にか永遠亭になじんでしまった。
本当に永遠亭の平穏が破られたのはつい先頃。数十年前永遠亭に住み着いた月兎、鈴仙を連れに今度こそ月の使者が訪れるというのだ。しかし月を隠してまでの大騒ぎに現れたのは月の使者ですらない人妖二人組で、月を返せと大暴れされたあげく何もしなくとも月の使者など来るはずもないことを知らされたのだった。
「師匠~~~~~~~!!」
永琳が書き物をしているところどたどたと騒がしく部屋に入ってきたのは、半泣きになった鈴仙であった。なぜか小脇にてゐを抱えている。
「どうしたの、ウドンゲ」
永琳は興味なさそうに、お情けとばかりに鈴仙に向かって尋ねてやる。このシチュエーションは鈴仙がここに住み着いて以来星の数ほど繰り返されてきたので、次に来る台詞もいくつかのパターンに完全に分離済みである。
「聞いてくださいよ! 朝ニンジンジュースを飲みながら歩いていたら、てゐの掘った落とし穴に嵌ったんです!」
「いつもの事じゃない」
本当にいつものことなので、書き物を続けながら軽く受け流した。因みに落とし穴に嵌ったことを訴えに来たパターンは、これまでで894回ほどである。
「それはいいんです」
いいのかと関係外者なら突っ込みを入れたいところだったろうが、永遠亭の面々にとって落とし穴に嵌っている鈴仙は路傍の石の如くありふれたものなのであった。当人も諦めかけているようであったし。
「それで穴をよじ登って一息ついていたら、珍しくてゐが謝ってきたんです」
「良かったじゃない」
そう適当に相づちを返す永琳に、小脇に抱えられたてゐもこくこくとうなずいている。
「そこまでは良かったんですけどね… お詫びの印にってニンジンを渡してきたので、喜んでかじりついたんです。…そしたらですね!!」
ずずいと乗り出してくる鈴仙。ここからが本題らしい。
「それはニンジンじゃなくて、巧妙に偽装した唐辛子だったんです! しかも質感から比重まで完璧で、食べるまで気付かないほどの!」
言われて初めて鈴仙の方を見ると、確かに唇が腫れている。涙は悔しさではなく辛さに依るものかも知れない。
「随分手間かけたのねえ、てゐ」
「えへへー」
永琳が感心したように言うと、てゐは照れ笑いを浮かべた。
「『えへへー』じゃな~~~~~~~~~~~い!」
鈴仙は耳どころか、髪の毛まで逆立てて怒号をあげる。
「なんか言うことはないの! 今回は流石に悪かったとか! もうしないとか!」
「ごめんね、鈴仙。でも… わたし… 鈴仙のこと…」
言われるとてゐは潤んだ瞳で見上げる。純真な瞳に鈴仙は一瞬息をのんだ。
「弄ると楽しくて仕方がないの!」
純真な天使はどこかに消えて、地獄から来た悪魔が満面の笑みを浮かべていた。
「きゃははははははははははは」
てゐはあっさり鈴仙の手から抜け出すと、けらけら笑いながらドップラー効果を残して去っていった。
「待てこの性悪兎~~~~~~~~~~~~~~~!」
鈴仙はフジヤマがヴォルケイノしそうな勢いで、てゐを追いかけて去っていった。
静かになった部屋で黙々と書き物を続けながら、永琳は独り言のように声を上げた。
「てゐ。ほどほどにしてあげなさいよ」
「いやー。あの娘からかいがいありすぎてさあ、ついついやっちゃうのよねえ」
先ほど部屋から走り去っていったはずのてゐが、板を外して天井から顔を出していた。
「まあ解らないでもないけどねえ」
永琳も苦笑いしつつ、鈴仙をからかうと楽しいことを認めた。
てゐは天井板を戻すと同時に器用に降りて来た。
外からはばたばたと走り回っている音が聞こえる。現在進行形で鈴仙は誰かを追いかけているらしい。
「ところで、今ウドンゲが追いかけてるのはなに?」
「わたしの変装した連中。最近運動不足だから、なんか良い案無いかって言ってきてさ。鈴仙とリレー式鬼ごっこ! をセットアップしてあげたのよ」
因みに鈴仙がわざわざ師である永琳に愚痴を言いに来たのは、ここの兎がてゐよりはマシ程度の連中ばかりだからである。若く真面目な兎もいるにはいるが、ほぼ鈴仙と同じような境遇であるため鏡に向かって愚痴を言ってる気がしてきて嫌なのだそうだ。
「それでどうだったの? 地上の密室失敗残念会」
「そのネーミングはちょっと… まあでも、なかなか退屈し無さそうな人たちだったわね」
てゐが言ったのは偽月を巡る騒動の、打ち上げのようなものの事であった。仮にも敵味方に分かれて争った者達が打ち上げをするのも変であったが、幻想郷の住人は前にあったことをあまり気にしないものである。
集まったのは永琳の偽月の術を破った人妖達、及びその友人知人仇敵など。永遠亭からは永淋と輝夜、鈴仙が参加していた。
「まあ恥は掻かされたけど、結果オーライと言ったところかしら。結局私たちも大手を振って出歩けることが分かったのだしね」
幻想郷を覆う結界は強固であり、ほとんど不可侵である。幻想郷に向いているモノに対して門戸を開くことはあるが、それも稀であるらしい。その上百年以上前にもう外界とは断絶しているそうだ。
「まあ、悪巧み結構楽しんでたでしょ? 久々に大騒ぎできて良かったじゃない」
「まあ影でもっと酷い悪巧みをしていた人は… さらに楽しめたでしょうねえ?」
意味ありげにてゐの方を見て口もとに笑みを作る。
「な… なんのこと?」
「八雲紫がてゐに宜しくと言っていたわ。ついでにてゐに結界のことは聞いてないのか、ともねえ?」
口もとは笑みを作っていたが、目が全く笑っていなかった。てゐの背中からは嫌な汗が流れていた。そろりと扉の方に向かう。
「あら、どこへ行くのかしら?」
「ちょ、ちょっと花摘みに… って開かない!」
てゐはガタガタと戸を揺らすが、一向に開かない。
「その扉はもう封印したわ。是非とも聞きたいわね、百年以上も前に幻想郷と外が断絶したことを教えてくれなかった理由」
前門の封印、後門の永琳。
「あは… あははははは…」
鈴仙は突然の爆音に耳を尖らせた。取りあえず、なぜかたくさんまとわりついているてゐの偽物を引きはがして危険に備える。
爆発と言えばろくでもない、というのは当然の帰結である。特にこの間の偽月の騒ぎで、偉い目に遭わされたことは記憶に新しい。爆発が何事もなく遠くのままならばよいのだが、と鈴仙は祈る。
爆音は近づいてくる。願いは聞き入れられなかったようだ。そもそも何に祈るべきかも不明であったが。
だが次の光景に鈴仙は目を疑った。鏡にでも映った自分の目を見て狂気に落ちたのではないか、と次に疑った。ついでに全て幻聴であることを期待し、耳も疑ってみた。
無理。現実は非情である。
爆音に追いかけられているのはてゐ、これは良くある。鬼のような形相でてゐを追いかけているのは己の師匠、あり得ない。何度目を疑っても、災害を撒き散らしながら爆走しているのはてゐと永琳であった。
「えーりんえーりん助けてえーりん! ちょっとしたお茶目じゃない!」
「黙りなさい、この性悪兎! ええ、助けてあげるわ! その腹黒さからね! 取りあえず解剖してから方法を探してあげるわ!」
「いやーーーーーー輝夜ー! 姫ー! 助けてー!」
「姫ならちょっと妹紅で遊んでくる、って言って出かけたわ。観念して標本になりなさい!」
本気で逃げ回るてゐなどというレアなモノを見ることはできたが、鈴仙も尊敬する師のこんな姿を見るとは夢にも思っていなかった。て言うか夢なら醒めて欲しい…。
一人の少女に深刻なトラウマを残しそうではあったが、千年経っても永遠亭はおおむね平和であった。
背に主を負いながらも、その怜悧な瞳は先を見据え足取りには危なげがない。地面の緩い竹林においては思わぬ所で足を取られもするが、この少女が無様に転ぶ様など誰も想像だにしないだろう。
少女はふと足を止め背の眠り続ける主を見やると、さらさらとした長い黒髪が首元をくすぐっていた。
邪魔になる髪を編んで背に垂らしている自分とは異なり、主の髪は癖一つ無く烏の濡れ羽の如き艶を放っていた。その美しさは求婚する男たちへの断りに、策を弄さねばならなかった程である。
もっとも当の主は自分如きの髪をいたく気に入っており、事あるごとに気恥ずかしくなるほど賞賛しては切ってくれるなと懇願するほどだった。長い銀髪を切らずにまとめているのは、主と己の意見の妥協点と言ったところだ。
主はそれでも不満らしく、虎視眈々と自分の髪に手を入れる機会を狙っているようだったが。
『あなたの髪はとても綺麗なんだから手入れしてあげなくちゃダメ!』大きな身振りと共に力説する主の姿が浮かぶ。高貴な身分の方がそんなはしたない態度を取ってはならない、そう言っても聞いてくれた試しもなかった。
くすり、と少女は微笑を漏らすとほつれた髪を直してやり再び歩き始める。
歩き続けること暫し、少女は再び歩みを止めるといぶかしげに辺りを見回す。
「…おかしいわね」
先ほどから足が感じている距離と、視覚が見せる距離がずれているように感じる。どうにも主観が当てにならないようだ。
少女が意を決し何事か念じ始めると、周りに異質な空気が満ちる。-この世の理が及ばぬ力-術の発動である。魑魅魍魎が都にすら大手を振って跋扈する昨今、術を使う者は少なくなかったが少女の身でこれを為す者は希有であろう。
発動した術は智に携わる神の名を冠したもの。少女は周りの景色、己の感覚を術の補助を受けて解析する。
しばらくの解析の結果、驚くべき事にこの竹林は結界であった。竹林に結界が張られているのではない。この竹林自身が結界なのである。
確かに純粋な術としての結界も張られていたが、外からの妖魅による察知を防ぐ、あるいは妖気が漏れ出ることを防ぐ程度。その真価はこの竹林自身にある。
気付かぬほど僅かな傾斜が距離感を乱し、列を成す変化のない竹の迷路が位置を特定させない。この竹林は整然とした狂気で満ち、侵入者を狂わせるのである。
直と曲の境界は乱され、しかしそれに気付きすらしない。この竹林は術に頼らないが、いや、だからこその恐るべき結界であったのだ。
「追っ手を撒くのに良いと思ったのだけれど… これでは余計な危険を招くわね」
これだけの結界であればそうは簡単に追って来られないはずだが、こんな結界の中心に何が潜んで居るか知れたものではない。ここを出て、別の潜伏場所を探すのが賢明だろう。
少女が主を背負い直し術の感覚を頼りに外に向かおうとすると、術式が複数の気配が近寄ってくるのを感知した。まるでこちらが結界を見破るのを見ていたようであったが実際の所は判らない。
少女は歩みを止めて相手の出方を待つことにした。術式の感覚に頼れば疾くこの竹林を抜けることは可能であったが、ここは相手の胎内に等しい場である。迂闊に動けばどんな罠にかかるか知れたものではない。少女はこれほどの結界を形成する者を与しやすしと見るほど楽観主義者ではなかった。
複数の気配は少女の周りを広く囲むように止まると、そのうちの一つが真っ直ぐとこちらに近づいてきた。
近づいてきたのは少女、いや童女であった。肩に掛かる程度の少し癖のある髪の童女は裸足のまま、歩くことすら楽しむかのような足取りで少女に近寄ってくると夜の挨拶を述べた。
「こんばんは人間の方」
「今晩は妖怪の方」
少女もそう挨拶を返す。
妖怪であると少女は言った。
その童女は少女の胸程の位置に頭があったが、背丈というならば少女とほぼ等しい丈があった。なぜならその頭頂からは兎のものに似た耳が立っていたからである。
いや、似たなどは迂遠だろう。その赤い瞳は長い耳と合わせて、兎の変化に相違有るまい。
万が一を述べるなら狐狸の類が更に化けている可能性もないではないが、普通妖怪が人そのものに化けるのは正体を隠すためであり妖怪であることを晒しては意味がない。妖怪が正体を晒すのは、脅かしに来たか殺しに来たか喰らいに来た時くらいのものだ。
「それであなたは縄張りを荒らした愚か者を脅しつけに来たのかしら? それとも夕餉の調達?」
ことさら表情を変えることもなく少女は尋ねる。先ほどの結界を見破った手際を鑑みれば小妖の類など遅るるに足りないのは確かだろう。
「っにに人間なんて食べたりしません! 滅相もないです!」
風でも吹いてきそうな勢いで首を横に振りつつ、あわてて否定する妖怪兎。しかし何らかの手段で少女の先ほどの手際を見ていたのなら、害意の有無にかかわらずこのような反応を示すだろう。
「あら、あなた達は人間を食べないのかしら?」
さりげなく相手が一人ではないことを知っていると伝えて出方をうかがう。
「はい! 兎ですから。そもそも肉を食しません」
妖怪兎は自説の論拠を確信しているようだが、実際の所は妖変して人を喰うようになるもの、人を喰ったから妖変したものなどいくらでもいるのである。だが、達と言ったことに気付いた様子もなく、見事な説明に『どうだ』と言わんばかりにニッコリとしている兎を責め立てるのも気が引けたのも確かだった。
「では人を食べない兎さんは何をしに来たのかしら? 道案内なら助かるのだけれど」
そう言ってやると兎は『我得たり!』とばかりに表情を輝かせて言った。
「そうその通り! 実はまさに、道案内のために来たんです」
どうやら兎の言うことには、この竹林にはしばしば人が迷い込んでくるらしい。大概はいつの間にか外に出てしまうのだが、延々と彷徨う者もいるのだという。放っておけばそれこそ死ぬまで迷い続けるので、外に案内してやったりするそうだ。たまにちょっと吃驚させてやることもあるが、決して害意はないと力説していた。
「ではその道案内をお願いするわ」
と少女は言った。先ほどの術で既にこの結界は見破っていたため、自力で出ることは可能であったがあれほどの結界である。他にどんな罠が仕掛けられているか知れたものではない。素直に兎に案内して貰う方が賢いと言えるだろう。
「あの、それなんですけど…」
兎はこちらを伺うように、上目遣いに見上げて言う。
「何かしら?」
「今日はもう遅いですし、わたしたちの家に泊まっていきませんか?」
意外な申し出に少女は少し驚いた。態度を見るに人間自体か自分の力を見抜いてか恐れている様子だったので、さっさと追い出しに来るかと思っていたのだ。申し出の是非を思案していると更に兎は続けた。
「お連れの方も疲れているみたいですし、あなたも怪我をされているでしょう?」
それも事実だった。応急処置をし血の臭いも消せるだけ消しているが、追っ手との戦闘で浅くない傷を負っている。主に至っては自分を守るために力を使いすぎて、まだ目を覚まさない。普段ならばこの程度の傷は無に等しいのだが。
「そこまで気付いたのなら予想が付くでしょうけど、私たちは追われている身なの。匿えば迷惑がかかるわ」
兎の厚意は有りがたかったが、自分たちを追う者は常人ではないのだ。
それに、この兎の言が正しいと確信出来たわけでもないのだ。やはり罠である可能性もある。
「この竹林ならすぐには入って来れませんよ。それに普通はここら辺に入ってくることもないんですよ」
ここ一帯に入ってこないとはどういう事だろうか。少女はそれを尋ねようとしたが、その前に兎はきらきらとした目で少女を見つめながら言ってきた。
「それにわたしたち、ここからあまり出ないから外の話も聞きたいんです!」
これまでで一番力の入った言い様だった。おそらくはたまに来る迷い人を引き込んでは、似たようなことをしているのだろう。少女は軽く息を吐いて表情を弛めて言った。
「そうね、せっかくのご厚意にあやかろうかしら」
「本当ですか! 良かったー!」
表情を太陽のように輝かせて跳びはねる兎。妖怪兎もやはり跳びはねるものなのだろうか。
兎は後ろを振り返ると口に手を当てて大声を上げる。
「みんなー! 晩ご飯の用意をお願い。もちろんお客様の分もね!」
その声に反応して竹林の隙間からいくつもの兎の耳がひょこっと姿を現し、続いてまるで伝染したかのように喜び跳びはねる兎たちが現れた。兎たちは歓声を上げながら興味深げにこちらをちらちらと振り返りつつ、竹林の奥に飛び跳ねていった。
「それでは案内しますね。…えと」
「そう言えば名乗っても居なかったわね。私は永琳、八意永琳。そしてこちらは蓬莱山輝夜、我が主よ」
「お姫様と従者さんなんですね。わたしはてゐ、因幡てゐです。永淋さん」
「私のことは永琳で良いわてゐさん」
永琳が言うと、てゐは輝くように笑みを浮かべて言った。
「わたしもただのてゐで十分ですよ、永琳」
とりとめもない話をしながら兎たちの家へと向かう。
追っ手から逃れての隠遁生活である。さしててゐの興味を惹く話も出来まいと思っていたが、永琳の得意とする薬に興味を持っているとは意外であった。なんでもてゐは健康に気を遣うことを生き甲斐としており、それが高じて遂に妖怪となるまで長生きしたのだという。最初は冗談かと思っていたが、自分の健康法に対する意見を言った時の一喜一憂を見るとあながち嘘でもないようだった。
四半刻ばかりてゐについて行くと、ようやく竹林の切れ目に家が見えてきた。結界による欺瞞を除いても、この竹林はかなり広大であるようだ。途中てゐは輝夜を代わりに運ぼうかと言ってきたが、永琳は従者の意地として丁重に断った。…そもそもてゐに負われても引きずりそうであったし。
「因幡の永遠亭へようこそ!」
そう言って改めててゐは永淋達の来訪を歓迎した。しかし永琳は複雑な表情を浮かべる。
「わたし何か良くないことでも言いました、永琳?」
表情の優れない永琳に対し、心配そうにてゐは言った。
「永遠、ね。なんでもないわ。ただの戯れ言の類よ。そんな事より随分と大きな屋敷ね」
確かにかなり大きい屋敷であった。小柄な兎たちには不似合いな大きさとさえ言えた。 人にとってすら大きく、まるで神の類が棲みそうな館ですらあった。
「えへへ。ずっと昔の妖怪兎が、おめでたい言霊を発したご褒美とかで戴いたんだそうです」
まるで我が事を褒められたように頬を赤くするてゐ。
「それではどうぞこちらへ。みんな首を長くして待ってますよ。野菜や穀物ばかりだけど、健康に良いことと味ならきっと竜宮城にだって負けませんから!」
「それは楽しみだけれど、まずは姫を部屋に案内してくれないかしら。いくら従者といえども、姫を背負ったまま宴に加わるほどの忠臣ではなくてよ?」
悪戯っぽく笑って見せながら、永琳は言う。
「ああ! ごめんなさい、忘れてました!」
どうやら宴を待って首を一番長くしていたのはてゐであったようだ。忘れていたことをわびながら、てゐは今度こそ永琳を部屋へ案内した。
宴も終わり永琳は未だ眠る輝夜の様子を見つつ、今日のことを思い出していた。
宴はなかなかに楽しいものだった。てゐの言っていたとおり彼女たちの料理は肉類こそ無かったが、調和の取れた美味であった。別に宗教的な理由でないためか、健康に良いとかで山羊の乳を使った珍しい食べ物まであった。
また随分と姦しくもあった。ここ永遠亭は女の妖怪兎が集まった集落であり、別に男の妖怪兎が集まった集落もあるそうだ。最初は初めて見る永琳に遠慮していた兎達だったが、次第にうち解け外の話をねだったりするようになった。どうやらここの長らしいてゐにも全く気を遣わないらしく、誰がてゐを呼ぶ時もただのてゐであった。
喧しく姦しいこの永遠亭であったが、永琳は奇妙な懐かしさを感じていた。奇妙と言うのは永琳がこんな喧しい、けれど暖かい雰囲気を味わったことなど無かったからだ。敢えて言うならば輝夜と過ごした時が近いのだろうが。
輝夜が故郷を捨てこの地に住まうことを選んだのは、この暖かさを求めてのことだろうか。
「ふう」
永琳はとりとめもない思索を止めて、現実の己の傷を診る事にした。致命的なものはないが、あばらの何本かにひびが入っているようだ。普段ならばこの程度怪我にも入らないのだが、追っ手にかけられた呪が回復を妨げまた薬の力を浪費するだけの余力もなかった。
「とはいえ余力で火の粉は振り払わないとね、効率よく」
そう言って永琳はどこからか愛用の弓を取り出す。弦も張られておらず矢さえ持ち歩いていないが、永い間故郷からの追っ手を退けてきた宝具である。
「無形の力でもって弦を張り、意をもって矢と為す」
永琳はまるで弦が張られ矢を持っているかのように弓を引くと、襖に目掛けて放つ。
一閃。
現世の視界からは見えることのない何かが、襖に向かって殺到する。その何かは襖を破ることすらなく襖を抜けていった。ただ廊下を叩く音を残したのみ。
永琳は襖に近づきゆっくりと開ける。廊下には誰も立っていなかったが、永琳は気にすることもなく天井を見上げた。
「こんばんは人間の方」
「今晩は妖怪の方」
天井の梁を指でつかみぶら下がっている妖怪一匹。いや一羽か。
暫し前にかわしたやりとりの相手は、やはりてゐであった。ただし輝くような笑顔は鳴りを潜め、不敵にふてぶてしい笑いを浮かべていた。
「そちらが本性のようね兎さん。でもその顔の方が似合っているわね」
「お褒めに預かり光栄だけどね、あんまり驚いてないのがとっても残念。いつからバレてたの?」
本当に驚く顔を楽しみにしてきたのか心底残念そうであったが、この変貌振りを見ればどれが本音か判ったものではない。
「別にあなたを疑っていたわけではないわ。ただあの性悪な結界を張った性格の悪い奴を警戒しておいただけよ」
「あちゃー。そーかそーか、今度警戒心強い奴を騙す時は用意周到に行こう、悪役捏造とかが良いかな」
「なかなか良い考えね、次があるなら。でも狙いは何かしら。追い剥ぎに剥がれる大層なものは持っていないわ」
「あなたからはとても良いにおいがするの」
「やっぱり食べるの、人?」
「食べないわよっ、そんな体に悪いもの。草を食べる生き物が肉を食べたりすると狂って死んだりするのよ。あなたからする香りは、健康に良い薬の香り」
そう言っててゐは紅い目を細めると、音もなく廊下に降り立つ。
「私の生き肝でも欲しいのかしら? けれど蓬莱の薬は禁忌の薬。あなた如き妖怪には過ぎたモノよ」
「蓬莱の薬とは随分と大げさな名前ね。ますます欲しくなったわ」
「永遠を求めて今さえ失うが良いわ、地上の兎!」
「あんたの薬は全ていただいてやるわ、銀色の薬師!」
宣言と同時に永淋は形無き矢を、てゐは妖気の塊を放つ。ともに素早く身をかわすと目まぐるしく次弾を、さらなる次弾を放ち続ける。
しかし双方とも素早く動いているため、効果的な一撃が加えられなかった。短い膠着状態に先に業を煮やしたのはてゐであった。
「時間がないからね! とっとと片を付けてやるわ!」
そう叫ぶと同時にてゐの赤眼が煌々と輝きを増す。突如なんの妖気も感じられなかった空間が妖弾で満たされ永琳に向かって殺到する。
「なに!」
視界を埋め尽くす弾幕に、永琳は回避に専念せざるを得なくなる。空間を満たす妖弾の群れを必死に回避していると、更にてゐは正確に狙いをつけた妖気の結束弾を放ってきた。このままではいずれ避けきれなくなる。
「早く嘘を見つけなくてはね!」
永淋は追いつめられてはいたが、この弾幕の根幹に大きな嘘があることに気付いていた。これほどの弾幕を構成する妖気を、こんな簡単に生み出せるはずはない。何らかのごまかしがあるはずなのだ。
「赤… 赤い瞳… 兎、狂気の目!」
永琳は弾かれたようにバラ撒かれた妖弾の結界に突貫する。
「ちょ、ちょっと自殺でもする気!?」
むしろ突っ込んでこられたてゐの方があわてる始末だった。しかし永琳を穿つはずの妖弾は、永琳をかすりもしなかった。永琳はてゐが放つ青い結束弾のみに反応して避けている。
「解析は終了したわ。あなたが直接放つ妖弾以外は正に、真っ赤な偽物ね!」
言いながら永琳は形無き矢を多量に弓につがえると、てゐに向かって放つ。逃げ回るてゐに追い撃つ永琳。攻守は完全に逆転していた。更に永琳は己の式とも言える思考補助の術式を放ち、てゐを攻撃させた。すばしっこく逃げ回るてゐであったが、二方向から挟まれしだいに追いつめられる。
「まさか私を狂気に落とすとは。月の兎は地上の兎の数倍狂気を秘めると言うけど、あなたの数倍を求めるのは酷と言うものね」
「それはどーもお褒めに預かり恐悦至極ぅ」
天井に四つ足で掴まったなかなかみっともない格好でいながら、てゐのふてぶてしさに変化はなかった。
「でも月の兎とやらの本分が狂気なら、地上の兎の本分は… 跳ねる事よ!」
突如てゐが視界から消える。次の瞬間術式より伝わった警告に従い永琳が飛びすさると、その頬からは熱い液体が滴っていた。
床を、壁を、天井を、さらには襖を足場にして目にもとまらぬ速度で飛び回る影。
しかし永琳が浮かべたのは不敵な笑みだった。
「跳ねるだけではなくて、首も刎ねるのね?」
「ご名答♪ でも鎌鼬からいただいておいた切り傷に万能の膏薬もあるし、安心して首を飛ばされてちょうだい」
「妖怪の薬とはなかなか興味深いわね。あなたを矢襖にしたあと、私が貰っておいてあげるわ!」
永琳は術式とともに追いつめようと怒濤の矢を放つ。凄まじい速度で跳ね回るてゐの動く先を読んだかのように、しだいに矢はその身をかすめ始める。
しかしまた殺到するてゐの猛攻もまた、永淋を追いつめ始めていた。
矢が身を穿つのが先か。首が飛ぶのが先か。が。
「あ」
緊張の糸はてゐの間の抜けた声によって引きちぎられた。おそらく永遠に。
「なんなのよいきなり」
あまりにも唐突に緊張がとぎれ、永琳も毒気を抜かれてしまっていた。
「時間切れよ時間切れー。これ以上激しい運動をすると健康に悪いー」
てゐはぐったりと肩を落としたまま戻っていく。更に後ろも見ずに薬入れを投げてくる。
「わたしの負けだから鎌鼬の膏薬は進呈。副賞は後ほど。じゃねー」
やる気なさげにぱたぱたと手を振ると、本当にてゐは去っていってしまった。
「はあ。なんだったのかしらあの兎は」
永琳がぼやくのも当然だろう。いきなり襲いかかってきて、いきなり負けを認めて賞品を渡して去っていく妖怪。意味不明である。確かに鎌鼬の塗り薬とやらは永琳が驚くほどの効き目ではあったが。
「はい。副賞を持ってきましたよーっと」
そう言って入ってきたのは当の変な妖怪兎である。しかも足で襖を開けて行儀の悪いことこの上なかった。なぜ足かと言うならば、小さい鍋が載ったお盆を持っていたからである。どちらにしろ行儀は悪かったが。
「おかゆ?」
「おかゆ。お姫様もうすぐ起きるでしょ?」
「健康狂いもここまで来ると医者形無しねえ」
「健康で医者にかからないのが一番良いでしょ。ただの兎やってた頃は医者の知り合い居なかったし」
「まあ医者が暇なのは良い事ね」
二人がそうこうしていると、輝夜は微かに身じろぎをしゆっくりと目を開けた。
「気付かれましたか、姫」
「永琳。…ここは?」
「この兎の屋敷です。一晩の宿を借りることになりました」
そう言われて初めててゐの方に目をやると、輝夜は興味深げにてゐを見つめた。
「兎。でもこの兎は月の兎みたいだわ、永琳」
「長く生きれば地上の兎は妖怪となって、月のもののように人型を取ります」
「それでは地上の妖怪兎さんね。ちょっと長いかしら、永琳」
少し困ったように考え込む。
「イナバで良いわよ、お姫様。他の兎はここの兎を大抵そう言うわ」
てゐは妙なことに悩んでいるふうの輝夜にあきれながら、粥の載った盆を近くの机に置いた。お姫様だけあってどこかずれているように見える。
「大したものじゃないけどどうぞ。冷めない方が多分美味しいよ」
言われて輝夜は永琳の方を見た。
「消化に良いので食べても問題有りません。姫の体調を気遣ってくれたようですね」
「まあ、ありがとうイナバ。味わっていただくわ」
輝夜が邪気のない笑顔で礼を述べると、てゐは顔を赤くして横を向いた。
「永琳に負けたお代よ。別にありがたがるほどのものじゃない」
「その割には持ってくるのが早かったわね。初めから用意していたみたいに」
「あー、うー、それは…その…」
二人の様子に輝夜はくすくすと笑いを漏らすと、てゐの耳に手を伸ばした。てゐは一瞬身を固くしたが、輝夜の手の感触が気に入ったのか黙って撫でられるに任せていた。
「イナバの耳は柔らかいのね…」
逃げないところを見ると嫌がってはいない様子なのに、なぜかてゐは神妙な顔つきをしていた。まるで手の感触を逃すまいとでもしているように。
粥を食べ終えた輝夜はまだ疲れが取れない様子で横になっていた。
「ごちそうさまイナバ、とても美味しかったわ。あとで作り方を教えて欲しいくらいね」
「それは私も興味がありますね。あとで教えてくれないかしら、てゐ?」
「それは良いけど、お姫様も?」
てゐとしては身分の高い人間は料理をさせる側であっても、する側ではないと思っていため随分と意外な申し出に聞こえた。
「ふふ。こう見えても私、家事はなんでもこなすのよ? 竹細工だって得意なの」
悪戯っぽく笑い輝夜は外の竹林に目をやると遠くを、ここではないところを見つめるような目をした。
「おじいさまも輝夜は上手だと褒めてくれたものよ。 …永琳、もう少し眠るわ」
「はい。お休みなさいませ、姫」
よほど消耗しているのだろう、輝夜は返事を聞くやいなや眠りについた。輝夜の力は大きい分扱いに困る節がある。いずれ護身となる宝具でも作っておくべきだと永琳は思った。いつも自分が守っていられるとは限らないのだから。
「あまりお姫様っぽくないねえ」
「地上での影響が大きいんでしょうね。ごく普通の家にいたとお聞きしているわ」
てゐはなるほどともっともな話にうなずく。
「今更聞くんだけど、あんた達って月の人?」
月から人が来るなどとは戯れ言か昔話の類であるが、二人の言はまるで月を故郷とするもののようであった。とは言え昨今は外ですら魑魅魍魎の類も珍しくなく、まして常人の方が珍しいこの地においては月の殿上人くらい居て当然とも言えよう。もっともこの地での常人たるてゐにとっては、ただの常人こそ珍しいものであったが。
訝しげに尋ねはしたが、二人の雰囲気がここの常人とも外の常人とも異なっていることはてゐも感じていたのだ。
「そうよ。別に隠していたのではないのだけれどね。わざわざ月から来ました、と言うのもおかしいでしょう?」
「それは確かに神懸かりが来た、と騒がれるのが落ちかもねえ」
わざわざ波風を立てそうな事実を喧伝する必要はない。聞かれても適当にごまかせば済む話だろう。
「「!」」
他愛もない話の中、突然てゐは耳をピンと立て毛を逆立てる。永琳もまたゆるんでいた表情を引き締めていた。てゐにとっては未知の、永琳にとっては既知の気配だ。
「ここは良くないわね、撃って出てくるわ。私が戻るまで姫をお願い出来るかしら」
「…ちゃんと引き取りに来るんでしょうね」
「少しかかるかも知れないけれど、必ず。宴、にぎやかで楽しかったわ。姫にも楽しませてあげたかったわね」
「戻ってきたら宴くらいならいくらでも呼んであげるから、ちゃんと引き取りに来なさいよ」
「ふふ。ありがとう。…では行ってくるわ」
永琳は弓を掴むと気配の方へ足早に去っていった。
てゐは落ち着かない様子で輝夜の寝顔をのぞき込む。眉間にしわを寄せて部屋をぐるぐると歩き回り、そして戸を開ける。
「あんた達いつまで起きてるのさ。寝不足は健康に悪いって、何年言い続けてると思ってるの?」
戸を開けると数羽の兎が集まっていた。
「てゐこそ遅くまで起きてるじゃない。肌が曲がり角で牛車に轢き殺される、って脅しつけてるくせに」
「なんか言い方が母親の類みたいだよ? 年寄り扱いするなって、昔よく暴れてたのにねー」
「がーーー! うるさい! わたしの肌はつるつるだし母親でも年寄りでもない!」
てゐに言われた分を数倍にして返しているのは、永遠亭でも一番古株の兎たちであった。普段兎にしては思慮深く皆をまとめる側に回っている者達が、てゐの前では小娘のような口の利き方をしていると知れば若い兎たちは驚くことだろう。
「んで、なんなのよ。わざわざ起きてきて」
兎たちは顔を見合わせると表情を正した。
「永琳のこと放って置いて良いの?」
「…私が負けるの見てたでしょ。実際はもっと強そうだったしさ。負けないわよ …多分」
それを聞いて兎たちは、一様にあきれた顔をした。
「健康に良くないとかって勝負を下りた話をされてもね…」
「短い攻防で相手の実力を読んだって言ってちょうだい。実際半端じゃないわよ、あいつ」
実際あの短い戦闘で見せたのは、永琳にとって片鱗と言うにもおこがましい程度の力だろうとてゐは思っていた。それでもその片鱗がかいま見せたものはいにしえの、今はもう見ることのない力を思い起こさせた。だが…
「その凄い永琳が怪我させられてたんでしょ?」
「相手も凄いんだったらどうなるかわからないよー」
気になっていたのはそこだった。
永琳が逃げているのは相手も同じくらい強いか、弱点を突いているから。永琳が片鱗程度しか力を見せなかったのは、それしか余力がなかったから。
だとすれば兎たちが気にするように永琳は危ない。
兎たちに言われるまでもなく判ってはいたが、いにしえよりの詐欺師を自認するてゐにとって掛け値なしの善意などむずがゆくてどうにも受け付けない。と言うよりは恥ずかしい。
「永琳もわたし達みたいに故郷を無くしたんでしょ?」
「わたしはてゐに拾われなかったら、きっと悪さして退治されてたよ」
「お願い、永琳のことも助けてあげて」
一番古株の兎たちは、昔てゐが各地で拾って回ったはぐれ兎たちであった。
はぐれた兎は世を恨んで妖化し、また妖化した兎は追われ世を恨んで悪鬼となる。多くは妖怪に成り切る前に死に、残りのほとんども相手を構わず襲うようになり退治される。
生まれた時既に孤独であったてゐは、才能があったのか意地でも生き延びてやろうと健康に気を遣ってるうちに妖怪となったのである。その後は定まった道に嵌るが如く、世を乱し故郷を追われるに至った。
てゐの道を修正する者に出逢ったのはその辺りであった。故郷を離れるために騙した者達の報復を受けて苦しんでいるところ、てゐを救ってくれた者が居たのだ。その時礼代わりに舌を滑らかにして『あなたは今は従者だが必ず偉くなる』などといい加減なことを言って褒め称えてやったら、なんとその者は本当にとんでもなく偉くなったのである。その上わざわざてゐを探し出し、自分が幸運を呼んのだと丁寧に礼を言ってきたのである。永遠亭もその時に礼として建てられたものであった。
その真摯な態度に流石にてゐは自分の行いが恥ずかしくなり一念発起、この国を東西問わずかけずり回って自分のようなはぐれ兎を拾って回ったのだった。ついでに人妖種族問わず不幸そうな奴の世話をして回っていたら、いつの間にやら神様などと拝まれるようになり恥ずかしくなって永遠亭に引っ込んだのだ。古い話である。
今は自分が動かなくても昔拾った兎が更に拾ってその兎がまた…と言った具合にはぐれ兎集めは万全となっているため、ほどほどの詐欺と健康に満ちた楽隠居生活だ。たとえばここにはいない男の兎も、拾った時は小僧であったが今は立派な兎が長となって集めている。この間会いに行ったら母さまとかぬかしてきたので、てゐと呼ぶようにしこたま拳で教育してやったが。
何となく輝夜が耳を撫でた感触を思い出す。もしかすると撫でられたのは初めてなのかも知れない。その類の行為も含めて。
「あーその。今日はもうこれ以上運動すると体に悪いかなー。あと寝不足とか?」
てゐとしても既にもう答えは決まっていたが、一応抵抗してみる。
「…今日は満月なんだし、もうちょっと頑張ってよ」
「永琳のこと気にして落ち着けて無いじゃない」
「心労を溜めると体に悪いって、この間力説してたでしょ」
てゐは突如顔を上げて『我得たり!』とばかりに表情を輝かせる。
「それだ! 満月で力が溢れてるし、心労を溜めると良くないものね。よし行こう、さくさく行こう! ついでに恩を売って、うちの薬師にしてやろうかしら」
言い訳が立ったためいきなりやる気を表に出したてゐに突っ込みを入れたい所であったが、兎たちは何も言わないことにした。せっかく見せたやる気に水を差すこともない。
「さてと、あんた達は使えるのを集めてきてちょうだい。子兎たちを起こさないようにね。遅れて来てわたしが全部片付けたらご飯抜き」
悲鳴を上げる兎たちを尻目にようやくやり返したと溜飲を下げたてゐは、身軽に跳び上がると竹林を足場に飛ぶよりも速く跳ねていった。
永琳の放った怒濤の矢が、青い衣を着た少女を射抜き打ち落とす。撃ち落とされた少女の頭頂からは、しなびたような兎の耳が生えていた。おそらくはこれが月の兎なのであろう。
「ようやくね…」
永琳の周りにはその月の兎たちが、地面空中を問わず十重二十重に取り囲んでいた。
一つはその数の差が永琳を苦しめていた。数人の兎を既に戦闘不能にしていたが、それでも未だこの包囲である。
二つは兎たちとそれを指揮する月人が身につけた武具だ。先ほど撃ち落とした兎も身につけていた地上では見ない型の青い衣は、外見に反して属性問わずの強固な防護を誇る。
他にも振りかざせば稲妻を呼ぶ剣など枚挙暇がないが、それら地上にあれば宝具とも祭られる物は全て月ではありふれた物なのである。
そして三つは月人が使ってきた永遠を蝕む停滞の呪。永遠は終わることのない停止でもある。もはや永琳の存在そのものを構成している蓬莱の薬の永遠は、停滞という劣化概念によりにより阻害され永淋自身の力をも削いでいた。
月は地上を穢き場所と見下し、またその傲慢にふさわしい力を持つ。八意永琳はその月においてすら掛け値なしの天才であったが、その才を遺憾なく発揮させるほどの力もまた月は有しているのだ。
「永淋様、どうぞお戻り下さい。お戻り頂ければ咎はないと上は申しております」
「…私は姫を連れ戻しに地上に降りた使者を、皆殺しにしているのよ。それでも咎はないと言うつもりなの、上は?」
「地上に送った使者など、いくら集めたところで姫と永淋様の価値に及びませぬ。あの程度の損害はお二方の価値を減ずるものではない、と言うのが月の総意にございます」
目の前で口を利いているものは人形かと、永琳は一瞬疑った。だが目の前の月人は己の言の正しさを疑っていない。己にとって当然の発言をしているだけなのだ。
かつて月にいた頃、こんなものは当たり前であったはずだ。そして何度も訪れた使者もまた口々に似たような言葉を吐き、永琳も輝夜もそれを飽きるほど聞いているのだが…。
今はその言葉に怖気が走る。
「私も姫も月に戻る気はないわ」
「残念です。停滞の呪が通用するうちに、首だけにしてでもお連れせよとのことですので。ご無礼をどうか」
これもまたそれが当然と思っての言葉だ。仲間を殺されて恨みに思って言っているのでも、罪人を前に義憤に駆られ言っているのでもなく、ただ当然のこととして述べているのだ。
月兎たちが射撃の構えを取り、永琳も矢を放つ用意をする。
次の瞬間上から降ってきた物体が、月兎のうちの一人を巻き込んで落下していった。
「てゐ?!」
完全に目を回している月兎を踏みつぶしているのは紛れもなくてゐであった。
「恩を売りにはるばるやってきたわよ」
「恩を売りにって… あなたねえ」
緊張感の無いてゐに永琳はあきれる。これだけの数を前にこの態度は大物だ。
「話は後にしてとっとと片付けましょ、夜も遅いしね」
「後に回すと何を要求されるか怖いのだけど。まあとっとと片付けるのは賛成ね」
「じゃあとっとと!」
言うと同時にてゐは竹と言わず地面と言わずを足場にして、猛烈な勢いで月兎に襲いかかる。次々に吹き飛ばされる月兎達。反撃をしようにも、立て直そうとしたところに更に永琳の矢が降り注ぎ隙を見せない。
が。
「ちょっと! 堅いわよ!」
「堅いのよ」
先ほどからてゐに突き飛ばされ永琳の矢に晒されている月兎達であったが、数を減らした様子はない。流石に多少動きが鈍っているようではあったが、先ほどから叩き付けている威力にはとうてい見合わない。その上悲鳴一つ、呻き声一つあげず不気味であった。
月人はなかなか決定打が与えられない月兎を盾に、遠くから攻撃を仕掛けてくる。月人が持った剣が振りかざされると、まるで昼間のような光がてゐと永淋に襲いかかる。
二人を捉え切れてはいなかったが、通り過ぎていった光は竹林の一角を大きくなぎ払っていく。その光は地面に突き刺さると、音も立てることなく大穴を穿っていた。
「…ちょっと。当たると痛そうなんだけど」
「痛いで済めば幸運ね。逃げるなら今のうちよ?」
「冗談! それはあくまで最終奥義。もっと不利になってからよ」
どうやら連発できる物ではないらしく攻撃の間隔は空いているが、あの威力はそれだけで脅威だろう。月兎達に足止めを喰らわないようにしながらあの光を避け続けるのはなかなか骨が折れたが、てゐは余裕の表情を崩さない。
「もう少し… 来た!」
上空からいくつかの影が降り注ぎ、それらは月兎達を巻き込んで地面に降り立つ。先ほどのてゐと同じように現れたのは、永遠亭の古株達だった。
「ご飯抜き回避!」
「お呼びとあらば即参上!」
緊張感がないところまでてゐにそっくりである。
更に月兎達に向かって大量の妖弾が飛来する。竹林の間にいくつもの赤い瞳が浮かび上がっている。かなりの数の兎たちが潜んでいるようだ。
「この子達、戦闘は大丈夫なの?」
「妖怪兎は元々気性が荒いもんなのよ」
しばしば語られる話の通り妖怪兎は攻撃的である。邪悪とさえ言って良いような者も少なくなく、主に退治される側に回るほどだ。
「とは言え月人は危ないしね。みんな親玉は避けてへにょり耳をなんとかしなっ! 因幡の兎らしくね!」
「私は使者の牽制に回るわ。悪いけどなんとか数を減らしてちょうだい」
「あいよ。この竹林の真の恐怖を披露してやってくるわ」
てゐはにやりと笑うと、竹を足場に飛び跳ね兎たちの元へ向かった。
端から見ると兎たちは押されているようだった。遠くから降り注ぐ妖弾は牽制程度にしかならず、矢面に立っている古株の兎たちの攻撃もなかなか通じない。
だがその時、突然月兎の一人が消えた。突然視界から仲間が消えたことに僅かに反応する月兎達であったが、見回しても上空にも周りにも消えた月兎の姿はない。
月兎が消えたのは地中、平たく言えば落とし穴に落ちたのだった。穴はなぜかとりもちで満たされており、粘り着いて脱出を阻む。月兎が抜け出そうとじたばた藻掻いて上を見ると、竹の上に数匹の兎が鎮座していた。兎たちはにんまりと笑うと、穴に向けて大量の妖弾を放り込んだ。
それを皮切りに月兎達は次々とたちの悪い罠にはまっていった。
妖弾を避けて一歩下がった月兎は、突然足に巻き付いた縄に引っ張られて天高く放り上げられていた。よほどの速度であったのか、気を失ったまま竹の先からぶらぶらと逆さに吊り下がっていた。
必死に逃げ回る兎を仕留めようとした月兎は、横にして留めてあった竹に顔面を強打してそのまま地面に落下した。必死に逃げている振りをしていた兎は、それを見て人の悪い笑みを漏らした。
身も蓋もない罠によって、月兎達は次々と無力化されていく。月兎達は色々と当てられない様子にされていく仲間をみても特に反応を見せなかったが、月人は怒りにふるえていた。
「地上の穢れた兎共が!」
月人は永琳から無理矢理距離を取ると、怒りにまかせて剣を振りかざし兎たちの居る辺りに光を叩き付けた。兎たちは光を見てあわてて、正に脱兎となって逃げ去る。
永琳はその隙をついて、またひとり月人の直衛をする月兎を撃ち落としていた。
「だいぶ静かになったねえ」
てゐは兎たちを下がらせて永琳のそばに寄った。もはや残った月兎は十を切っている。
「ええ、助かったわ。随分えげつない手だったけどね」
「知恵の勝利って奴よ。どんなに凄いものでも、間抜けには宝の持ち腐れって事」
てゐが馬鹿にするような視線を送ると、月人は憤懣やるかたない様子であった。
「愚弄するか土兎。貴様から始末して欲しいらしいな! 兎共、下郎の足を止めろ」
月人が指示すると、月兎達はてゐに集中的に飛びかかる。てゐの動きは制限されたが、永琳の方はほとんどがら空きとなりむしろ矢の的も良いところだった。その上あまりにもてゐに近寄っているため、月兎達が遮って月人からはてゐを狙うこともできない。
月人が月兎を避けるつもりがあるならばだが。
「てゐ、避けなさい!」
「え!?」
てゐもまさか仲間を巻き込んで攻撃を仕掛けるとは思っていなかったのか、あわてて避ける。てゐがなんとか避けた光に巻き込まれ、何人かの月兎が木の葉のように吹き飛ばされた。
仲間が巻き込まれているというのに、月兎達は相変わらず動揺一つ見せずてゐに迫る。あまりにも捨て身な月兎達にてゐは上手く避けきれず、遂にそのうちの一人にしがみつかれる。そして動きの取れないてゐに向かって、月人の剣が閃光を放った。
目もくらむ閃光が収まると、てゐは自分が無事であることに気付いた。あの軌跡では威力を減じようもなかったはずである。
「…永琳?」
閃光からてゐをかばった永琳は支えを失ったかのように、そのままてゐの方へ倒れ込む。あわてて支えようとするてゐだったが、掴もうとした左肩がなかった。
影も見あたらない左腕を中心に、永琳の体は大きく損なわれていた。
「思わぬ幸運だったな。永淋様を倒す手間が省けるとは」
てゐは口から言葉を垂れ流す月人に目をやる。その場に立っているのは、最早てゐと月人のみであった。
「地上の兎の代わりに攻撃を受けることに、なんの意味があったのだ? そう言えば輝夜様をかばって、動きを鈍くされていたな。後で修復して差し上げればよいと言うのに」
その言葉に嘲る様子はなかった。ただ、心底理解できないことだと言っているのだった。
「そんな事も解らないの、あんた」
「貴様が疑問を感じないと言うなら、どうやら永淋様は地上の穢れに侵されているようだな。このような理に外れた行いをするなど」
「その理とやらで仲間を巻き込んだの、あんた」
「この任において、兎の消耗に上限は儲けられていない。お二方の価値を考えれば当然のことだ。兎などいくらでも換えが効く。意志を奪ってあるから逆らうこともない」
-そろそろ聞くに堪えない。こいつの口を永遠に塞いでやりたい-
「一つだけ聞きたいんだけど。二人を連れ帰るためなら、あんたの命も安いのかしら?」
てゐは最後に聞いてやるべき事を付け足してやった。聞かなくても分かることだが、言わせてやるのが妖怪と言うものだ。
「無論同様に価値がない。月の民といえども、いくら積み重ねたところでお二方の価値に並ばない」
予想通りの答えが返ってくる。納得が行った。あまりにも納得が行って笑いがこみ上げてくるほどに。堪えきれなくててゐは狂ったように、げらげらと笑った。
「月にはきっと妖怪が居ないのね。あなたの言葉には畏れがない。だからそんな巫山戯た言葉が出てくる」
月人の目の前にある兎には、最初の小馬鹿にしたような態度も傷ついた永琳を呆然と見ていた名残もなかった。赤い瞳は狂気を撒き散らしながら、月人を覗き込んでいた。
「こんなに月も丸いことだしね。妖怪というモノを教育してあげるわ、月人」
妖怪は狂気以外空っぽの笑みを浮かべて、そう宣言した。
月人はその変容に驚愕しながらも、剣を振りかざして妖怪をなぎ払う。光に包まれ、妖怪は月人の視界から姿を消した。当たったかどうかは判らないが、濃密な妖気は場を包みこんだままだ。
「ぐっ!」
気配を探っていると、突然何かに足をえぐられる。包み込む妖気が濃すぎて、本体がどこに居るか見当も付かない。
「そっちじゃないわ。こちらへおいで」
闇雲に剣を振り回すがかすりもしない。その上声は周り中から聞こえる。
妖怪はどこからか現れ、じわじわと嬲るように月人の体をえぐり取っていく。月人の背には既に嫌な汗が、流れ落ちるほどに吹き出している。
「見つけてくれないなんて、寂しいな…」
声は突然間近から聞こえた。振り向くと顔の高さにあった赤い瞳と、目が合う。いつの間にか妖怪は童女から女に変わり、狂った視線を月人に向けていた。
「そろそろあんたと遊ぶのも飽きてきたし… ご飯にしましょうか?」
妖怪はその視線を初めて狂気以外のモノに染めると、ゆっくりと手を伸ばす。それはエサを見る目だった。妖怪が何を喰うかなど問うまでもないことだ。
「うあああああああああああああああああああ!」
月人は恐怖に駆られて剣を振り回す。
肉を裂く音が響く。
剣はあっさりと妖怪の腕を切りとばし、切っ先がその胸へと突き立つ。腕が落下する音とともに、軽い音を立てて妖怪は倒れ伏した。
「あ?」
月人はあれほど自分を恐怖に陥れた妖怪が、あっさりと死んだことに拍子抜けしていた。それでもあの化け物が居たこの場にいることはぞっとしない。
妖怪に突き立った剣を抜くことも忘れて、背を向けて歩き出すと何かが足に引っかかった。いや引っかかったのではなく掴まれていた。掴んでいたのは殺したはずの妖怪の、切り飛ばした腕だった。
腕だけのくせにまるで抵抗を許さずに月人を引きずり倒すと、そのままずるずると引きずっていく。その方向はあの化け物の死体があるはずの向きだ。地面に指を突き立てるが、まるで速度が落ちない。
「とても痛くて苦しいわ… 胸の穴を塞ぐのに、あなたの栄養を貰おうかしら?」
殺したはずの化け物の声が聞こえる。もはや悲鳴すら上げられない月人の頭に重い衝撃が走り、その意識は闇の底へと消えた。
「あーやれやれ」
危うく本気で殺すところだったが、これも月が丸いのと腹立たしい月人のせいだとてゐは思っていた。これだから満月は嫌いなのだ。確かに妖気が満ちあふれ最高に調子は良くなるが、無茶をやらかしたりでろくな事がない。
今もわざわざ腕を切断させたり剣を突き立てられたりで、全くもって健康に良くない。きっと寿命が三年くらい縮んだに違いない。ぶつくさ言いながら剣を引き抜いて放り投げ、腕を拾ってくっつけておく。だが縮んだであろう寿命よりもまずは永琳だ。
てゐの見立てでは、永琳は酷い傷を負ってはいるものの死んではいない様子だった。それがあの月人を殺さなかった理由だ。永琳が死んでいないならば殺す必要はない。殺してしまったら、永琳も死んでしまう気がしたからだ。全力で殴りつけたから、しばらく意識を取り戻さないだろうが。
近寄って永琳の傷を見ると酷い傷だが、確かにまだ死んでいない。息が止まり拍もなく頭も動いていないとなれば普通は死体だが、妖怪的に見れば抜け殻になっていないのなら死体ではない。とは言えこの傷では、いつ舎利になるか知れたものではなかったが。
何か手はないかと考えたが、永遠亭にある薬で体に空いた大穴を塞ぎ腕を生え替わらせるような薬はない。妖怪ならば自力でやりそうな奴も少なくないが、永琳は月から来たとは言え人間である。
なんとかできそうな妖怪に心当たりはあったが、迷わないと行き着けない場所にあるため時間がかかる。その上そいつは気まぐれすぎて、真っ当な対応が期待できなかった。
人間のことは人間に任せるのが一番良いのだろうが、なんとかできそうな博麗の住処はやはり遠かった。
悩んでいるとふと永琳の香りが鼻にはいる。薬の良い香りもしたが、永琳自身もとても魅力的な香りだった。怪我をしている身にはこの香りはたまらない。なんでこいつは無防備にこんな良い匂いを、などと死にかけの体に理不尽なことを考えてみる。
「ちょっと。人を物騒な目で見ないでちょうだい」
「へ?」
少しまた狂気に傾きかけていた目を向けると、いつの間にか永琳が目を覚ましていた。傷一つどころか服までが元通りになっている。
「蓬莱の薬のおかげで私は不死身なの。さっきまでは使者の呪いに邪魔されていたのだけれど、あなたが倒してくれたみたいね」
「へぇー。不死身ねえ」
てゐはしげしげと永琳を見回す。見た感じは普通である。
「それにしてもあなたそんな姿にもなれるのねえ」
永琳は自分と変わらないくらいの背になったてゐの高さを確かめるように手を伸ばすと、てゐは一歩下がってそれを遮る。
「今はわたしに近寄らない方がいいよ。多分だいぶ物騒な目で永琳を見てる」
普段は人はおろか肉も食わないてゐだったが、深手と満月のせいか近寄られると襲いかかってしまいそうだった。
そこに遠くから声が聞こえた。数人の兎たちが、手を振りながら駆け寄ってくる。
「てゐー!」
「お疲れ様ー!」
「でっかくなってるー!」
駆けてきた勢いを殺すことなく、そのままてゐに飛びつく兎たち。
「痛たたたたた! 飛びつくな抱きつくな! こら、手が取れる!」
兎たちに引きずり倒され、じたばたともがくてゐ。
「物騒な目ねえ」
「ちょっと! あんた医者でしょ! この悪魔共をなんとか… 痛い! 派手に痛いー!」
永琳はなにやら派手に騒ぐ兎たちを見て、くすくすと微笑む。
山の稜線から太陽がその姿を覗かせ始める。どうやら竹林は早くも戦の狂気をぬぐい去り、日常を取り戻したようだった。
「んで、さっき売った恩のことなんだけど」
ようやく兎たちがおとなしくなったので、てゐは話を切り出す。
「蓬莱の薬ならあげられないわよ。在庫もないし二度と作る気もないわ」
「要らないわよ。不死身になったら、健康に気を遣う楽しみがなくなるじゃない」
本末転倒のような気がしないでもないが、どうやら当人は本気で言っているようだ。
「うちで薬師やってくれない?」
「あのね…。さっき巻き込まれたのをもう忘れたのかしら?」
「あれは事故みたいなもんだってば。もうあいつ等みたいなのは来ないはずよ」
「随分自信ありげね」
この地には招かれざるものは決して来ない。稀に訪れるのは、戯れに結界をいじくる馬鹿のせいである。
「どうせ行く当てもないんだしさ。まず次の満月まで居てみてよ。それでも来なかったら次の満月までって事で」
永琳によると、月からの使者は満月にのみ訪れるらしい。満月は地上と真実の月を繋ぐ唯一の鍵であるからだ、と言っていたがあまりよく解らない。まあ満月の日にだけ来ると解れば問題無いだろう。
「お姫様も宴会に呼んであげたいしさ。そうそう! うちお姫様も居なかったから、一石二鳥になるし」
「お姫様は雇い入れる類のものじゃないと思うのだけれど…」
おかしな事を名案のように伝えてくるてゐに、永琳は苦笑いを漏らした。とは言え輝夜を楽しませてあげたいとは常々思っていたことだ。もう逃亡生活も永く、一所に居つけずに疲れを感じているのも確かだった。
「迷惑をかけるかも知れないけど、おいて貰えるかしら?」
「そっちが恩返しのために雇われるんだから、勘違いしないようにね」
そうは言うもののてゐの顔は喜びに満ちていた。
「それじゃ、用事を済ませてきますか!」
そう言っててゐは兎に取ってこさせた酒樽を背負い、未だにのびている月人の首根っこを引掴む。だが切断された腕の方で掴んだため、腕を押さえて悶絶していた。
「うぎぎ…。じ、地味に痛い」
「じゃあ、これが永遠亭のかかりつけとしての仕事第一号ね」
そう言って永琳は胸の穴と腕のつなぎ目に薬を塗ってやる。
「貰った鎌鼬の膏薬を改良してみたのだけど、後で使った感じを教えてくれるかしら」
「後でも何も… もう治ってるじゃない…」
ふさがった穴と切れ目の失せた腕を見て、てゐは呆然とつぶやく。妖怪の回復力を差し引いても、異様なまでに治りが早かった。どうやら予想よりも遙かに永琳は優秀なようだ。月人が血道を上げて追い回すのも納得が行く。
「それじゃあこいつを神社から捨ててくるついでに、もう追っ手が来ないように手を打ってくるわ」
「そのお酒を使うのかしら?」
「これで多分何とかなると思うわ。何とかならなかったら、博麗でも道ずれにして力ずくでも」
「神に捧げる供物のようなものかしら?」
「まあそんなものね。…祟りが主だけど」
嫌そうに、これから説得すべき相手を思い浮かべる。
「それじゃあお昼宜しくね。具体的に言うと三年くらい寿命が延びそうな」
「そんな都合の良いお昼ご飯はないけど、まあそれなりに用意しておくわ」
「随分と増えたから量間違えないでね。足りなかったら泣くよ?」
ついでに月兎達も永遠亭で引き取ることにしたので、食い扶持が随分と増える。永琳や当人達によると、行き場がもう無いそうである。さすがに月産の兎は初めてだったが、行き場がないなら普通のはぐれ兎と一緒だ。月兎たちは月人と違い随分と感激屋で、ありがたがってそのうち拝み出しそうになったのであわてて止めたほどだった。
「それじゃあ行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
てゐは今度こそ月人を掴むと、永琳の見送りを背に飛び跳ねていった。
ここから先はたいしたことは起きなかった。
最初の満月の日は大丈夫だと言っていたはずのてゐも緊張し、万が一に備えていたが月からの使者は現れなかった。
その次の満月も同じように備えたが、使者は訪れず皆で安堵の息を漏らした。その次の月もそのまた次にも現れず、結局一年が過ぎた。
使者が現れなくなって十年も過ぎると流石に誰も緊張しなくなり、申し訳程度に満月に集まって結局宴会に突入したりする始末であった。その間にあったことはせいぜい永遠亭の銘酒『妖命酒』が永琳の協力の下、遂にてゐの求める水準に達したが誰も健康のために飲んでくれず、酒としか見ていないことを知ったてゐがやさぐれた事ぐらいである。
百年も経つと兎たちはおろか、月の民達まで滅多に思い出さなくなった。
その辺りにあったことは体の良い遊び相手を見つけた輝夜が、物騒な術や宝具の扱いに取り組み始めたくらいのものだ。永遠亭で暴れるでも無し、誰も気にしなかった。
ようやく何かが起こったのは、月の使者が来なくなって千年も経ったかどうかの頃だ。竹林で見つけた月兎にとうとう使者が現れたのかと永遠亭は上を下への大騒ぎになったが、結局その月兎もハズレでいつの間にか永遠亭になじんでしまった。
本当に永遠亭の平穏が破られたのはつい先頃。数十年前永遠亭に住み着いた月兎、鈴仙を連れに今度こそ月の使者が訪れるというのだ。しかし月を隠してまでの大騒ぎに現れたのは月の使者ですらない人妖二人組で、月を返せと大暴れされたあげく何もしなくとも月の使者など来るはずもないことを知らされたのだった。
「師匠~~~~~~~!!」
永琳が書き物をしているところどたどたと騒がしく部屋に入ってきたのは、半泣きになった鈴仙であった。なぜか小脇にてゐを抱えている。
「どうしたの、ウドンゲ」
永琳は興味なさそうに、お情けとばかりに鈴仙に向かって尋ねてやる。このシチュエーションは鈴仙がここに住み着いて以来星の数ほど繰り返されてきたので、次に来る台詞もいくつかのパターンに完全に分離済みである。
「聞いてくださいよ! 朝ニンジンジュースを飲みながら歩いていたら、てゐの掘った落とし穴に嵌ったんです!」
「いつもの事じゃない」
本当にいつものことなので、書き物を続けながら軽く受け流した。因みに落とし穴に嵌ったことを訴えに来たパターンは、これまでで894回ほどである。
「それはいいんです」
いいのかと関係外者なら突っ込みを入れたいところだったろうが、永遠亭の面々にとって落とし穴に嵌っている鈴仙は路傍の石の如くありふれたものなのであった。当人も諦めかけているようであったし。
「それで穴をよじ登って一息ついていたら、珍しくてゐが謝ってきたんです」
「良かったじゃない」
そう適当に相づちを返す永琳に、小脇に抱えられたてゐもこくこくとうなずいている。
「そこまでは良かったんですけどね… お詫びの印にってニンジンを渡してきたので、喜んでかじりついたんです。…そしたらですね!!」
ずずいと乗り出してくる鈴仙。ここからが本題らしい。
「それはニンジンじゃなくて、巧妙に偽装した唐辛子だったんです! しかも質感から比重まで完璧で、食べるまで気付かないほどの!」
言われて初めて鈴仙の方を見ると、確かに唇が腫れている。涙は悔しさではなく辛さに依るものかも知れない。
「随分手間かけたのねえ、てゐ」
「えへへー」
永琳が感心したように言うと、てゐは照れ笑いを浮かべた。
「『えへへー』じゃな~~~~~~~~~~~い!」
鈴仙は耳どころか、髪の毛まで逆立てて怒号をあげる。
「なんか言うことはないの! 今回は流石に悪かったとか! もうしないとか!」
「ごめんね、鈴仙。でも… わたし… 鈴仙のこと…」
言われるとてゐは潤んだ瞳で見上げる。純真な瞳に鈴仙は一瞬息をのんだ。
「弄ると楽しくて仕方がないの!」
純真な天使はどこかに消えて、地獄から来た悪魔が満面の笑みを浮かべていた。
「きゃははははははははははは」
てゐはあっさり鈴仙の手から抜け出すと、けらけら笑いながらドップラー効果を残して去っていった。
「待てこの性悪兎~~~~~~~~~~~~~~~!」
鈴仙はフジヤマがヴォルケイノしそうな勢いで、てゐを追いかけて去っていった。
静かになった部屋で黙々と書き物を続けながら、永琳は独り言のように声を上げた。
「てゐ。ほどほどにしてあげなさいよ」
「いやー。あの娘からかいがいありすぎてさあ、ついついやっちゃうのよねえ」
先ほど部屋から走り去っていったはずのてゐが、板を外して天井から顔を出していた。
「まあ解らないでもないけどねえ」
永琳も苦笑いしつつ、鈴仙をからかうと楽しいことを認めた。
てゐは天井板を戻すと同時に器用に降りて来た。
外からはばたばたと走り回っている音が聞こえる。現在進行形で鈴仙は誰かを追いかけているらしい。
「ところで、今ウドンゲが追いかけてるのはなに?」
「わたしの変装した連中。最近運動不足だから、なんか良い案無いかって言ってきてさ。鈴仙とリレー式鬼ごっこ! をセットアップしてあげたのよ」
因みに鈴仙がわざわざ師である永琳に愚痴を言いに来たのは、ここの兎がてゐよりはマシ程度の連中ばかりだからである。若く真面目な兎もいるにはいるが、ほぼ鈴仙と同じような境遇であるため鏡に向かって愚痴を言ってる気がしてきて嫌なのだそうだ。
「それでどうだったの? 地上の密室失敗残念会」
「そのネーミングはちょっと… まあでも、なかなか退屈し無さそうな人たちだったわね」
てゐが言ったのは偽月を巡る騒動の、打ち上げのようなものの事であった。仮にも敵味方に分かれて争った者達が打ち上げをするのも変であったが、幻想郷の住人は前にあったことをあまり気にしないものである。
集まったのは永琳の偽月の術を破った人妖達、及びその友人知人仇敵など。永遠亭からは永淋と輝夜、鈴仙が参加していた。
「まあ恥は掻かされたけど、結果オーライと言ったところかしら。結局私たちも大手を振って出歩けることが分かったのだしね」
幻想郷を覆う結界は強固であり、ほとんど不可侵である。幻想郷に向いているモノに対して門戸を開くことはあるが、それも稀であるらしい。その上百年以上前にもう外界とは断絶しているそうだ。
「まあ、悪巧み結構楽しんでたでしょ? 久々に大騒ぎできて良かったじゃない」
「まあ影でもっと酷い悪巧みをしていた人は… さらに楽しめたでしょうねえ?」
意味ありげにてゐの方を見て口もとに笑みを作る。
「な… なんのこと?」
「八雲紫がてゐに宜しくと言っていたわ。ついでにてゐに結界のことは聞いてないのか、ともねえ?」
口もとは笑みを作っていたが、目が全く笑っていなかった。てゐの背中からは嫌な汗が流れていた。そろりと扉の方に向かう。
「あら、どこへ行くのかしら?」
「ちょ、ちょっと花摘みに… って開かない!」
てゐはガタガタと戸を揺らすが、一向に開かない。
「その扉はもう封印したわ。是非とも聞きたいわね、百年以上も前に幻想郷と外が断絶したことを教えてくれなかった理由」
前門の封印、後門の永琳。
「あは… あははははは…」
鈴仙は突然の爆音に耳を尖らせた。取りあえず、なぜかたくさんまとわりついているてゐの偽物を引きはがして危険に備える。
爆発と言えばろくでもない、というのは当然の帰結である。特にこの間の偽月の騒ぎで、偉い目に遭わされたことは記憶に新しい。爆発が何事もなく遠くのままならばよいのだが、と鈴仙は祈る。
爆音は近づいてくる。願いは聞き入れられなかったようだ。そもそも何に祈るべきかも不明であったが。
だが次の光景に鈴仙は目を疑った。鏡にでも映った自分の目を見て狂気に落ちたのではないか、と次に疑った。ついでに全て幻聴であることを期待し、耳も疑ってみた。
無理。現実は非情である。
爆音に追いかけられているのはてゐ、これは良くある。鬼のような形相でてゐを追いかけているのは己の師匠、あり得ない。何度目を疑っても、災害を撒き散らしながら爆走しているのはてゐと永琳であった。
「えーりんえーりん助けてえーりん! ちょっとしたお茶目じゃない!」
「黙りなさい、この性悪兎! ええ、助けてあげるわ! その腹黒さからね! 取りあえず解剖してから方法を探してあげるわ!」
「いやーーーーーー輝夜ー! 姫ー! 助けてー!」
「姫ならちょっと妹紅で遊んでくる、って言って出かけたわ。観念して標本になりなさい!」
本気で逃げ回るてゐなどというレアなモノを見ることはできたが、鈴仙も尊敬する師のこんな姿を見るとは夢にも思っていなかった。て言うか夢なら醒めて欲しい…。
一人の少女に深刻なトラウマを残しそうではあったが、千年経っても永遠亭はおおむね平和であった。
冗長なんてとんでもない。全く気になりませんでした。
そして、何にもましててゐ大活躍っっっ。てか実は重鎮!?
永遠亭への思い入れが深まる作品でした。
良てゐ発見。
ふてぶてしさがとても詐欺師らしく、仁義ある小悪党、味がありますね。
適度に読み応えもあって、充足感もひしひしと。
楽しゅうございましたよぅ。
カッコよかったり可愛かったり小憎らしかったり。
こちらの作品? 全部入っていました。デラックス豪華パック。
重さを感じさせない軽やかな調子は兎達の狂宴にぴったりでした。
面白かったです。
永琳と同じ背丈のあだるてぃなてゐが見たい!ものごっつ見たい!
そう思ったのは拙だけでは無いはず。
さあ同志達よ白状なさいませ。
ええ白状しますとも、しますとも、是非ともアダルティてゐ様ぞっこん同盟に志願入隊させて下さいませサーゐエッサー!!
月の兎VS地上の兎の幻闘が、コミカルかつストイックな殺陣設定にされてて実にGOODJOBGODJOB!! ピンチのヒロインを救うのは、悪役をはるかに越える性悪小悪党軍団! その三枚目臭あふるる格好良さに痺れる憧れるぅ!!
師匠とタメで喋るてゐに最初は違和感を覚えたものの、最後まで読んですっかりひっくり返されました。 今ではもうてゐ=師匠の永遠の悪友でイメージを固まってしまいました。 お見事、もう完敗です!
それにしても、てゐがこんだけ格好良いと、ますます宇宙鳥の立場が・・・(ノД`)
てゐは未知数な要素が多いかも知れないですね
健康のためなら,善いことも悪いこともお構い無しなてゐが素敵でした
今までてゐと言えば狡猾なキャラクターと言うイメージが強かったんですが、
これを読んでかなり変わりましたね~。
因幡達が凄い素敵、てゐはもっと素敵。
とりあえず、最後の逃げ回るてゐを妄想具現化。
うおぉ、萌える。
こんな、こんなにかっこいいとは・・・。
むしろこういうてゐが良い
はーどぼいるどうさぎ!
大人版てゐの艶めかしさに妄想が止まりません。
すげえ