*これを読む前に前作「大切なもの」を読んだほうがいいかもしれません。
夜の森は暗く、冷たい。
屋敷を出て最初に思った感想がそれだった。
鬱蒼と生い茂る木々に雪を積もらせ、そこに生き物の気配は存在しない。
もともと魔法の森には生き物なんてほとんどいないのだから、それが当然なのだが…。
最近少し感傷気味になってきたかな、と苦笑する。
苦笑して吐く息は相変わらず白くて、マフラーをもう一巻きして首元への風の侵入を防ぐ。
本当は飛ぶと速いのだけど、飛ぶと風はさらに冷たく突き刺さるし、それに歩くのは嫌いじゃない。
数十分歩いて魔法の森の抜け、さらに十数分かけて目的地へと到着する。
「…うん。しっかりと浸かってるかな」
湖のほとりに浸けておいた糸と空を眺めながら、アリスは満足げに微笑む。
今日の夜空は一点の曇りもない星空。
しかしそうだというのに、星達は少し元気がなさそうに見える。
それもそのはずだ。だって今日は満月なのだから。
月人達によって隠されていた本物の月の光。星達の光が翳ってしまうのも無理はないだろう。
月の光をなみなみと受ける湖の水に浸けた銀の糸。加えてこの湖には夜雀をはじめ、多くの妖怪達がこの湖を利用する。
今だって、ほら…耳を澄ませば夜雀の楽しそうな歌声が聞こえてくる。
小さな、まだ子供の妖怪達が彼女の周りに集まり、その歌声に聞き入る。
強すぎる月の光の魔力を、彼女はそうやって子供達に振り分け成長させていくのだ。
しばしその歌声を堪能してから、アリスは先ほどきた道を戻り始める。
さくっ、さくっ、とまだ踏まれていない新しい雪の部分を歩きながら、アリスは口元を手で隠し小さくあくびする。
今日は少し夜更かししすぎたかもしれない。
実験や研究をして徹夜になるのはよくあることだが、こうやって普通の時を過ごしながらこの時間まで起きたのは久々かもしれない。
「これだけ手間をかけてるんだから…きっといいものができるわよね」
風は相変わらず冷たかったが、それすらも気にならなくなるくらい、あたたかな気持ちでアリスが微笑む。
さぁ、急いで家に帰ってしまおう。
明日からはまた忙しくなる。だから…
今日は、ゆっくりと休むとしよう。
「…おやすみなさい、霊夢」
★☆★☆
アリスの朝は早い。
魔法の森は冬になってなお太陽の光がほとんど侵入してこないため、日の出とともに洗濯物を干さないと乾かないためである。
お手製の人形時計に起こされてアリスの朝は始まる。
冬の日の出は遅いため、起床してからしばらくはまだ余裕がある。
その間に自身の身だしなみを整えて人形たちに挨拶をして周る。
それからしばらくの時間を本等を読んで、人形が日の出を教えに来てくれるまでの時間を潰す。
人形たちは言葉を発することはできないが、動作を使っての表現力はとても豊かだ。
くいっと袖を引っ張られ、両手を上げて飛び跳ねる人形を見て今日の日が上がってきたことを知る。
さて、と。それじゃあ急いで干しちゃうとしますか。
アリスはぱたんと本を閉じて立ちあがる。
屋敷の二階にある、この家で一番日の当たる部屋のベランダに移動して洗濯物干しを開始する。
冷たい風の中で朝日が気持ちいい。
雲の様子や風の乾燥具合から今日も快晴だろうと予想し、つい嬉しくなる。
インドア派と称されるアリスだが、たまには外に出たくなる日だってあるのだ。
特に最近は、新しく人形を作るのは決まってこういう日だった。
こういうよく晴れた日に、新しく作りたい人形の雰囲気に合った場所で人形を製作するのだ。
依頼があれば呪術的な人形も作りはするが、その子が人を殺すために使われると思うとあまりいい気はしない。
そう思うようになってからは自然と呪術関係の依頼は少なくなって、今ではほとんどやってくることはなくなった。
いいことだ、とアリスは思っていた。
そういえば少し前、呪術関係ではないが事態が事態だったため、霊夢の髪の毛を霊夢人形を作ったことがあった。
どうやら白玉楼付近で悪霊が大発生したらしい。
本当ならそれは霊夢自身に頼めばいい気もするが、彼女は幻想郷の秩序を守るためにいるのであって、冥界は彼女の守るべき領域じゃない。
なのでその依頼を受けることにしたのだが…あの霊夢人形たちはうまくやっているだろうか。
壊されればそのことを知らせるよう術を施してはいるが、それだけでは活躍しているかを知ることはできない。
一応あの子たちは霊夢の髪の毛の入った人形だ。役に立っているとは思うが…
「今度、報酬の件も話さなきゃだし…様子を見に行ってみようかしら」
本音を言ってしまえば報酬の事なんかどうでもよかったのだが、白玉楼に行くには建前が必要だ。
知らない仲でもないし、そんなものどうでもいいと思う人もいるだろうが、それはアリスにとって大切なものだった。
それはアリスがアリスであるための矜恃だ。なくなることなどありはしないだろう。
「報酬…か。なにがいいかしら。あそこには冥界にしかない貴重な材料とかもあるし…悩むわね」
白玉楼の庭師は自分が幽々子にお願いできる範囲ならなんでもいいと言ってくれたが、あまり大きく望むのは可哀想だろう。
そんなことを考えながら洗濯物を干していたら、あっというまに干し終わってしまった。
そのことはまた今度考えることにして、今は朝食を作って食べてしまおう。
一階に設置されたキッチンへ移動し、簡単な朝食を作ってしまう。
ここは火を使うため、人形たちの立ち入りは禁止されている。
主の言いつけを破るわけにはいかない人形たちは、隅のドアからじっとアリスのことを見つめる。
その可愛らしさに苦笑しながら朝食を終えて人形たちのもとへと歩いていく。
寂しそうだった人形たちがぱっと明るくなったのはアリスの気のせいか。
いつもと同じ光景に、いつも感じる少しの罪悪感。
そろそろ魔力コーティングをかけて人形たちもキッチンへ入れるようにしたほうがいいだろうか。
毎度の事ながらそんな誘惑に駆られて、ぐっと堪える。
人間、何事も節度を持って接しなければならないのだ。甘やかしすぎはよくない。
人形といっても、魔力を通わせ操り続けていると自我が芽生えることがある。
今ドアの前にいた人形たち等がその一例だ。
だがここにいる人形たちはまだ自我が芽生えたばかりの人形たちばかりで、上海人形や蓬莱人形などはいない。
要は甘えたい盛りの子供たちばかりなのだ。
この状態である程度抑制心を育てさせないとと自我が暴走して、とんでもない事態を引き起こしてしまうことがあるのだ。
だけど鞭ばかりでは擦れた性格の人形になってしまうため、その後でしっかりと遊んであげる。
飴と鞭を上手に使いこなすことが、人形遣いの人形遣いたる所以なのである。
そうやって一時間ほど人形たちと戯れてから、アリスは出かける準備を始める。
けれど今はまだ朝と呼ばれる時間帯。
少し早すぎるかなと思いつつも準備する手は止まらない。
準備を終わらせ、上海人形と蓬莱人形に留守を任せアリス宅を飛び立つ。
準備したものを詰め込んだバスケットから荷物が落ちないように気をつけながら魔法の森を抜け、目指す場所はプリズムリバーの住む屋敷。
人里離れた場所に位置する、人に忘れられた場所に住む人騒がせな騒霊たち。
一時はなにかの悪い冗談かとも思っていたが、落ち着いて考えてみれば納得のいく場所にあるものだ。
彼女たちのいる場所は常に騒がしいのだ。人里の真っ只中にいられると迷惑極まりない。
人は娯楽を求めるものだけど、節度を持つべきなのだ。
ここら辺は人形たちに対する接し方と同じね、と苦笑してしまう。
やがてプリズムリバーの住む屋敷に到着する。
ドアをノックすると、エプロンを着けておたまを持ったルナサが現れた。
「…アリス。何を笑っているの?」
「いや…ごめんなさい。なんか、想像以上に想像してた通りだったから」
くつくつと口元を隠しながら笑ってしまう。
「…アリスの裸エプロンには負けると思う」
「な…っ!?そ、そそそそんなこと、やったことありませんっ!そんな見たことがあるような口調で言わないでよっ!」
ルナサのいきなりの発言に、顔を赤くしながら否定する。
そんなアリスを疑うようにじっと見つめながら、ルナサは呟く。
「その動揺が怪しい…」
「る、ルナサっ!お、怒るわよ?」
「冗談。…からかったことは、これでおあいこってことにしてあげる」
ルナサがその口元をかるく持ち上げて、笑う。
それでようやくからかわれたのだと理解し、顔を真っ赤にしたまま固まってしまうアリス。
数秒後、やっと硬直が解けて、アリスにも自然と笑みがこぼれる。
しばらく笑いあったあと、ルナサが思い出したようにたずねる。
「それで、何か用?…あ、いつもの夜行演奏会の予約なら、今週は大丈夫だけど…」
夜行演奏会とは、アリスがたまにプリズムリバー姉妹を呼んで行う、四人だけのささやかなパーティのことだ。
夜、アリスの屋敷の一室をローソクだけで灯し、各々が気が向いたときに何かを弾き、踊り、語り、食すのだ。
アリスが食事を用意し、プリズムリバーが曲を弾き、人形たちが踊る。アリスとプリズムリバー姉妹は語り、人形はジェスチャーで会話に参加する。
ここ最近の、アリスのお気に入りの時間でもあった。
「ん~。それも予約しときたいけど、今日のメインはそっちじゃないの」
だけどアリスは首を振り、手に持っていたバスケットをかるく持ち上げる。
「今日は外で人形作りをしようかなって思ってね…それで、この人形は少し特別だから、あなた達の誰かに協力してもらおうと思って…」
「協力?でも私たちは…」
「あ、それはいいの。ようは、好きな楽器で好きな曲を弾いててくれればね。あとはそれを私が縫いこんでいくから」
そういう器用さには自信があるの、と少しだけ誇らしげに笑う。
幻想郷には珍しい、恥じらいを持った少女の笑みに、ルナサは心が癒されるのを感じた。
メルランやリリカ、あげく白玉楼の令嬢などからもからかわれているルナサにとってアリスは一種の清涼剤なのだ。
「それなら私が行こう。メルランは一つのことを長く続けると暴走する恐れがあるし、リリカだとアリスが襲われかねない」
「……襲われる。あぁ、襲われるね。たしかに襲われたことはあったかも。…でもあれは襲われるというか、遊ばれるというか、からかわれてるというか…」
「客観的に見れば、あれは襲われてるよ」
そう言って苦笑するルナサは、リリカに事の次第を伝えてくると言って屋敷の中に戻っていく。
…そういえば、メルランは朝が弱いんだということを以前聞いたことがある気がする。
プリズムリバー姉妹が泊っていった日。朝食を作ってみんなを起こそうとした時の、ルナサの「無理矢理起こすと暴走する危険があるから」という台詞となかば諦めた眼差しがやけに印象的だった。
『うぇ~!?姉さん、ご飯は作ってあるからよしとして、せめてあとメルラン姉さんを起こしてから行ってよっ!』
『…外でもうアリスが待ってる。待たせるのは忍びないから』
『そんなっ!?私一人にメルラン姉さんを押し付けようっての!?姉さん、あんまりだ~!』
『普段は私の方が被害を受けてるんだ。今日くらいいいだろう?…っと、そろそろ行かないと』
『姉さんっ!あんまりひどいこと言うと姉さんが帰ってきたときにいろいろと目が当てられない状態に家がなってるよ!?』
『……リリカ。後は、任せたぞ』
『待って、姉さん!今の嘘、嘘だから!……姉さーーん!!』
屋敷の中から響いてくる声。
最後のほうは二人とも結構演技が入ってるようにも見えたが…ルナサも真面目に見えて、案外冗談に付き合っていることがあるよな、とあらためて感じる。
そこらへんは流石にプリズムリバーの長女、ということか。
ばん、と勢いよくドアが開き、ヴァイオリンケースを片手に持ったルナサがアリスの手を握ってさっと飛び上がる。
「きゃっ!?ちょ、ちょっとルナサ?いきなりすぎるわ」
急に地面の感触がなくなり、バランスを崩すアリス。
ルナサに引っ張られるように体制を整え、少し拗ねたように言う。
「いいから。今リリカに捕まったら私はともかく、アリスまで被害を受ける。…まったく。全楽器全方位攻撃なんて朝から無茶苦茶なことを…!」
そんなアリスに悪い、という表情でルナサは呟き、速度を落とさないまま屋敷から遠ざかる。
今の台詞から察するに、どうやら先ほどの会話はリリカが全楽器でもってルナサを脅しながら道連れにしようとしていたらしい。
そこまで嫌がられるメルランの寝起きに、アリスはかるく同情する。
「でもルナサ?そんなこと言ってる割には、結構嬉しそうな顔してるわよ?」
「……まぁ、あれでも妹だしな。大体のことはわかってるつもりさ。あれはあの弾幕でメルランの件のことはちゃらにしてやるっていう、リリカなりの意思表示だろう。……多分」
最後に付け加えられた多分というあたりで、ルナサの表情が若干曇る。
もしそうじゃなかったら…と想像したのだろう。
「ふふ、大丈夫よ。リリカは、そこまで悪い子じゃないわ。ルナサだってそれはわかってるでしょう?」
「…そうであることを祈るよ。ところで、どこに向かうの?アリスの家でいい?」
プリズムリバーの屋敷からだいぶ離れたところでようやく手を離し、アリスのほうを向いてルナサがたずねる。
「いいえ、今日は博麗神社の裏側にある小さな泉に行きましょう」
アリスがそう言うと、ルナサは一瞬目を見開き、驚いたような表情でアリスを見る。
「えっ、な、何?私、なにか変なこと言ったかしら?」
そんなルナサを見てアリスが動揺する。
人付き合いが少ないためこういうときの対応の仕方がわからなく、おろおろとしながら泣きそうになっているアリスを見て、慌ててルナサが弁解する。
「いや、まさかアリスがあの場所を知ってるとは思わなかったから…まいったな。あそこは私だけのお気に入りの場所だと思ってたのに。やっぱり博麗神社の裏側だから、気付いたのか?」
「なっ!?そそそそんなことあるわけないじゃないっ!何よ?違うからね?別に霊夢に相手にされなくって落ち込んでたときに見つけたとかそういんじゃなくて、あそこはたまたま見つけただけなんだからっ!」
「わかった。わかったから落ち着いて。ねっ?」
混乱して暴れかけるアリスを、抱きしめてそっと背中を叩いてやる。
しばらく暴れていたアリスだが、ようやく冷静さを取り戻してきたらしく、真っ赤にした顔をルナサの胸にうずくめる。
ルナサの背中に手を回して、声を殺すように呟く。
「うぅ…なんか、子供扱いされてる気分……」
「…あっ。なんかリリカが取り乱すときと状況的に似てたから、つい同じやり方を…ごめん」
「いや、いいわ。……はぁ。こんなことくらいで取り乱すなんてまだまだだなぁ、私」
もう大丈夫だから、とルナサから離れて小さくため息をつく。
感情のコントロールなんて、昔は必要なかった。
あの頃はただ、人形のように感情を殺していればそれで事は足りたから。
ただ強さだけを見せ付け、毒を撒き散らして自分の周囲に人を寄せ付けなければ済んだ。
だから当然人付き合いなんてものをやったこともなかったし、会話だって数えるほどしかしなかった。
それが今の自分の性格を大きく形成していることを、アリスはかなり気にしていた。
いつも強気な態度で、棘のある言葉しか吐けない、可愛げのない自分。
霊夢に相手にされないのも、当然のことなのかもしれない。
「そんなに落ち込まないで、アリス。アリスは十分可愛いよ。それは、私が保証する」
「ありがと、ルナサ。でも…ね」
霊夢の前での私は、可愛くないから。
そう言いかけて、ぐっと堪える。
愚痴は嫌いだし、弱音は人に向かって言うものじゃない。
霊夢にたいして素直になれないのは自分のせいなのだ。それで他人に当たっちゃ、いけない。
「……本当に好きなんだね、霊夢のこと」
ルナサの呟きに、アリスはただ曖昧に笑うだけ。
「さ、行きましょう。せっかくはやく出られたんだから、さくっと行って今日中で仕上がるようにしなきゃねっ!今回の人形は、出来上がれば自信作になるはずなの。霊夢だってあっと驚くくらいとびきりの、ね」
霊夢の驚く表情を想像して、アリスの顔がぱっと明るくなる。
自分がやったことに対して霊夢が何か反応をしてくれるかもしれない。そう考えるだけで、アリスにとってはこの上もなく幸せで、嬉しいことだった。
そんなアリスの表情を見て、ルナサも頷く。
自分たちが騒霊になった訳。それを、思い出しながら。
「それじゃあ行こうか。アリスも言ったけど、時間は待ってくれない」
「えぇ」
そう言って二人は博麗神社のある方角へと飛んでいく。
やがて見えてきた博麗神社。
霊夢に見られないように、とぐるりと大回りをして裏側へ回り、さらにほんの少し先へ進む。
神社の裏は小さな丘のようになっており、その頂上に目指す泉はある。
ここは、幻想郷の辺境にある博麗神社よりもさらに辺境の場所。
博麗大結界のすれすれにあるこの丘に訪れる者はいなく、丘にはそこに住む樹や花、そよ風や泉の精霊しか存在しない。
すっと音もなく着地して、博麗神社のある方角を見る。
だけど博麗神社からここまでには森が存在しており、その影を見ることは出来ない。
これなら楽器を奏でてもらっても霊夢に気付かれることはないな、とほっと安心する。
…まぁ、もしそうでなかったとしても普段は鈍い霊夢のことだ。きっと気付きはしないだろうけど。
「……アリスって、案外きついこと言うよね」
「えっ?やだ、もしかして口にしてた?」
「ばっちり」
かぁっと顔を赤くしてしまう。
なんだか、霊夢のことになると失敗ばかりだな、と苦笑する。
「そういえば、ここはルナサのお気に入りの場所って言ってたわよね。ということは、ここで演奏したりとかしたことがあるってこと?」
泉を照らす太陽の日が気持ちいいな、と思いながらルナサの方を向く。
ルナサも同じようなことを考えていたのか、ぐっと背伸びをしながら答える。
「そう。…ここの精霊たちはあまり他に干渉されることがないから、すごく美しいんだ。私が泉の上で演奏すれば、泉に住む精霊たちが私の周りで踊って、森で演奏すれば樹や花の精霊たちが私の周りで戯れる。弾いていて、とても気持ちがいいの。それこそ、時間を忘れてしまうくらい」
今もわずかだけだけど姿を現している精霊たちは、ルナサとアリスのことを興味深げに見ている。
また音楽を弾いてくれるのかな、とかまたなにかお話をしてくれるのかな、と囁きあっている。
「…アリスは、ここでなにかやったことがあるの?」
「そうね…ここでひなたぼっこをしながら、陽気な精霊たちに誘われて人形劇をやったことはあるかな」
どうやら精霊たちはそれが気に入ったようで、それ以来ちょくちょくと劇を見せにやってくるのだ。
「というわけで私のことは気にしないで、あなたは騒霊らしく気ままに演奏してくれればいいわ。…あ、でも私はここで作業をするから、ここに音楽が聞こえるように。そこだけ気をつけてね」
アリスはそう言うと近くにあった樹の側に座り、もたれかかる。
泉がきれいに見えて、なによりも太陽の日がいい感じに当たっている場所。
我ながらいい場所を選んだわ、と少し嬉しくなる。
そんなアリスの側にヴァイオリンケースを置き、ルナサもヴァイオリンを取り出す。
ふわっと浮き、泉の上まで移動する。
アリスに向かって一礼してから、ルナサはヴァイオリンを構えて演奏を始めた。
たおやかな出だしで始まったヴァイオリンは、この泉の雰囲気によく合っていた。
家を出る前からここで人形を作ろうと決めていたアリスは、実は頼めるのならルナサがいいなと考えていた。
彼女なら、この泉に合った曲を弾いてくれると思ったから。
…いや、泉の雰囲気がルナサのそれと非常によく似ているなと感じたから。
自分の直感は間違ってなかったんだと思いながら、アリスも作業を開始する。
まずは先日の満月の光をたくさん浴びた糸を取り出す。
針の穴にそれを通しながら、さらに自分の魔力を注ぎ込んでいく。
そうすることによって、糸は様々な干渉を受けやすくなるのだ。
たとえばこの、あたたかな太陽の光。
たとえばこの、そよぐ穏やかな風の音。
たとえばこの、木々の囁く声。
たとえばこの、精霊たちの楽しそうな歌声。
そしてルナサの弾く、ヴァイオリンの音色。
その一つ一つが、この人形を完成させる大切なファクターなのだ。
アリスがこの人形に核に織り込んだ術式は、『歌う』力。
だけどそれだけでは不十分だ。それだけでは、感情を表現することは出来ない。
だからこそ、この人形の製作にこの場を選んだのだ。
ここには、たくさんの、そしてきれいな感情がいっぱい詰まっているから。
ルナサの曲により、さらに活気を得た楽しい音たち。
あとは…いかにこの子の完成イメージを思い描きながら自分が縫えるか、それにかかっている。
でも、きっと大丈夫。
そんな確信にも似た思いを、アリスは抱いていた。
あたたかな日差しに包まれて、豊かな音に囲まれて、穏やかな気持ちで縫い続ける。
縫い続けていくうちに…時間を忘れて、自分という存在すら忘れて、アリスは人形になりきっていた。
少しずつ出来上がっていく自分――様々な部位が作られ縫い付けられていく過程。少しずつ色付いていく世界。そのなんと歓喜に満ちたことか!
生に満ち溢れたこの空間。その中の一員として認められること。それらは黙々と、ただただ生の喜びだけを与える。
ふっと我に返れば、既に人形は仕上げの段階にまで来ていた。
太陽はもう真上を過ぎており、昼過ぎなのだと気付かされる。
それと同時に空腹感を覚え、苦笑する。
ここまで人形とシンクロしてしまったのはいつくらい振りだろう。
いまだ泉の上で目を閉じて演奏するルナサとその周りではしゃぐ泉の精霊たち。
「ルナサ、そろそろお昼にしない?…とは言っても、もう昼食と呼ぶにはだいぶ時間は過ぎちゃったけど」
そんなルナサに声をかけ、持ってきたバスケットの中身を取り出す。
人形作りの道具とは分けられて入れられていた、半透明の箱。
開くとそこには、色とりどりのサンドイッチがあった。
「意外と用意周到…」
「わっ。ルナサ、いきなり顔を出さないでよ。びっくりするじゃない」
「ただ、飲み物を忘れてる」
「あっ……」
ルナサに指摘されて、水筒の存在を思い出す。
そういえばテーブルの上に置きっぱなしだったような…。
「アリスは肝心なところが抜けてる。人形は完成に近いみたいだけど、気をつけるべきだと忠告しておくわ」
そう言われると言葉がない。
う~、と言葉を詰まらせていると、ルナサがサンドイッチを一つつまみ、口に放る。
「…うん。さすがはアリス。というわけで私はちょっと飲み物を取ってくる。すぐに戻るから先に食べてて」
そう言ってルナサはもごもごと口を動かしながら、飛び立ってしまう。
その表情は相変わらず何を考えているかわからないけど、実際何を考えているのかわからないんだからしょうがない。
苦笑しながら、くっと腕を前に伸ばす。
長時間同じ体勢を続けていたため、ぽきぽきと体の関節が鳴る。
そういえばルナサはずっと弾いてた割に、全然疲れてなさそうだったな。
さすがは騒霊。周囲が楽しい雰囲気に包まれていればいつまでも弾き続けることができると豪語するだけのことはある。
「それでも、食事はしっかりと取るのよねぇ。基本の体力が私たちとは違うのかしら…」
ぼぅっと空を見上げながら、自分の作ってきたサンドイッチを一つ取り出す。
本当に今日はいい天気だ…これで冬だというんだから驚きだ。今日という日を人形制作の日に当てて、本当によかった。
「サンドイッチにお茶…まぁ、博麗の巫女のところからもらってきたからしょうがないんだけど」
一つ目のサンドイッチを食べ終わったとき、上空から声が降ってきて、次に黒い影が降りてきた。
「はい、アリス。博麗の巫女がはやく返してって言ってたから、そんなにはゆっくりとは出来ないけど」
差し出されたのは、湯呑み茶碗。
まだあったかいらしく、ほんのりと湯気が出ている。
…これを外に貸し出す霊夢も、ルナサも、やっぱりどこかずれている気がする。
「あなたと霊夢って、やっぱりどこか似てるわね」
主に何を考えているかわからないところとか、あとはつかみ所がないところも似ている。
そんなちょっとした共通点を見つけてしまい、くすりと笑う。
「…アリス。それ、褒め言葉になってない」
ちょっとだけルナサの機嫌を損ねてしまったか。
ごめんなさいねと謝って、湯飲みを受け取る。
少しだけ口に含んで、これは霊夢の淹れたお茶だと気付く。
そんなアリスの隣にルナサも座り、どのサンドイッチを食べようかと悩んでいる。
そういえば彼女と霊夢は一つだけ決定的に違ったことがあるんだっけ。
ルナサのそんな姿を見て、アリスは思い出す。
ルナサは少しだけ優柔不断なところがあるのだ。
そんなところがルナサの魅力なんだろうなと思いながら、アリスは助け舟を出すことにする。
「そんなに悩まなくてもいいわよ。誰が来てもいいように、三人の好きなものを少しずつ作ってきてるの。ほら、こっちのサンドイッチ。多分ルナサの口に合うとは思うんだけど…」
アリスが指差すと、ルナサの表情が少しだけ明るくなったように見えた。
早速そちらの方に手を伸ばし、食べ始めるルナサ。
普段は無表情のルナサだが、食べるときだけその表情をわずかに変える。
本人は気付いていないみたいだが、おいしさを口で表現するのではなく、表情で表すのだ。
ルナサの表情を見て、まずまずの出来だったことがわかってほっと一安心する。
やはり人に食べてもらうのは、少し緊張する。
「……そういえば、人形。一区切り着いたから昼食になったんだろうけど…実は私、まだ見てない」
ふと思い出したように言われ、アリスもそういえばと思い出す。
手を拭いて、ルナサの反対側にハンカチを置いてその上に乗せてあった人形を持ち上げ、ルナサに向けてはいっと差し出す。
「――っ!?」
その人形を見た瞬間、ルナサが息を飲む。
だがその異変に、アリスは気付かない。
「今回は、歌う人形を作ってみたの。海の魔女、清廉なる歌姫セイレーンをモチーフに――」
「――レイラっ!」
アリスの言葉を遮り、ルナサはそう叫んでいた。
「あっ……」
その声に誰よりも驚いていたのは、アリスではなくルナサ自身。
自分でも何故そんな大声を出してしまったのか、信じられない。そういった様子で口を塞ぐ。
そんなルナサをしばらく呆然と見ていたアリスは、やがてにっこりと微笑んだ。
「…セイラ」
「えっ……?」
「この子の名前。さっきルナサが推測した通り、もうこの子は完成に近いわ。あとは、名前という呪を吹き込んでやれば、それで完成する。…清廉なる歌姫、セイラ。今からそれがこの子の名前よ」
ルナサに向かってそう言ってから、アリスは人形に向かって三度、その名前を呟いた。
すると今までただの動かない人形だったはずセイラが、ぎこちなく動き始めた。
アリスの手から離れて、まだうまく二足歩行が出来ないのか、よちよち歩きで二人の前に移動する。
そして――
セイラは立つでも座るでもなく、歌いだした。
それは人間に喩えるならば、産声のようなものだろうか。
セイラの歌に歌詞はなく、ただ口ずさむだけの歌だったが、セイラは生まれてきた喜びを表現しようと、一生懸命に歌っていた。
アリスの声にどことなく似た、だけど、限りなくレイラの声に近しい声。
そう気付いたとき、ルナサの瞳からはぼろぼろと大粒の涙が溢れていた。
アリスはそれに気付かない振りをして、ただ穏やかにセイラを見つめる。
セイラの周りには、たくさんの精霊たちが集まっていた。
新しい生命の誕生を、心から祝うように…。
☆★☆★
セイラが誕生してから、約二週間が過ぎた。
始めの一週間でセイラは空を飛行できるようになり、次の一週間はアリスとともにプリズムリバーの屋敷に通いつめた。
アリス自身、音楽を嗜んだことがないではないが…いかんせん、その……音痴だったのだ。
そう知ったときの三姉妹の表情を思い出して、赤面してしまう。
なにもあんなに笑わなくったっていいじゃない。
そもそも音痴じゃなかったら、最初から歌う人形なんて必要ないじゃないか。
ぶつぶつと文句を言ってやりたかったが、三姉妹も満更じゃなかったようで、人形に丁寧にリズムなどを教えてくれた。
あの日のルナサの様子から、少し迷惑かなとも思ったがそれは杞憂だったみたいだ。
ただ、メルランもリリカもセイラを見たときは少し驚いたみたいだけど。
何時間も何時間も練習したおかげで、セイラの歌は格段に上昇した。
さらに驚いたことに、アリスの魔力を経由して歌を歌うためか、アリス自身の音痴も少しずつ改善されていったのだ。
さすがに一週間で全てがよくなったわけではないが、それでも術者の音感が高まるにつれてセイラの歌はさらに磨きがかかっていった。
わずか一週間で、感情というものを表現しきれるようになれるほどに。
この成長の早さにはさすがに三姉妹も驚いていた。
幾度か「レイラ」という単語が飛び交ったが、アリスは聞こえない振りをしてやりすごしていた。それは自分が関わっちゃいけないことのような気がしたからだ。
そして現在。
アリスはいつもよりもさらに早く起きて、外に出かけていた。
目的地は博麗神社。
セイラを連れて、まだ朝日が昇る前の空を飛ぶ。
そろそろ日が昇ろうかというとき、ようやく博麗神社に辿り着く。
アリスはゆっくりと深呼吸をして、境内を音もなく歩き、霊夢の住む母屋へと向かう。
するりするりと襖を開け、家の中へと侵入する。
「えぇっと、たしかここの奥だったわよね」
そこに霊夢の寝室があるはずだ、とアリスは自分の記憶を確認する。
どきどきとうるさい心臓を何度かの深呼吸で黙らせて、ゆっくりと襖を開けていく。
わずかに開いた隙間から霊夢が寝ているかを確認する。
案の定、霊夢は眠っていた。
――冬の朝は起きるのが辛くて、つい寝過ごしちゃうのよね。あ~あ、心優しい誰かさんが起こしに来てくれないかしら。
――馬鹿言ってないで自分で起きる努力をしなさいよ、まったくもう。
以前霊夢と交わした会話を思い出す。
あのときはなんでもない日常会話のように流したけど、本当はあの日からずっと準備をしてきたのだ。
寒いなんてことを吹き飛ばすくらいにきれいな歌声で、霊夢のことを起こしてあげたい、と。
そのために準備してきたんだ。なにを今更怖気付く必要があるのだ。この子だってそのために頑張ってきたのに…!
日はそろそろ昇ってきてしまう。そして霊夢は基本的に早起きだ。
ぐっ、と勇気を奮い立たせ、霊夢の寝室へと侵入する。
薄暗い部屋の中、普段では絶対に見られない、霊夢の無邪気な寝顔がある。
まだあどけなさが残る霊夢の寝顔に、それだけでどうにかなってしまいそうなほど緊張する。
落ち着け。落ち着け。
何度も何度も心に言い聞かせ、セイラをスタンバイさせる。
何百回何千回と頭の中でシミュレートしてきた通りに行えばいいんだ。
そして、びっくりしながら起きるだろう霊夢の前で、悪戯が成功したときのような笑みを向ければいいんだ。いつものように、強気に笑いながらこう言うんだ。
――おはよう、霊夢。お加減はいかが? と。
いつものようにまず強気に棘を吐いて、そしてそれからいつものような何気ない口調で……
…よし、と強くアリスは息を吐く。
覚悟は決めた。あとは、セイラに霊夢を起こしてもらうだけだ。
「セイラ、霊夢を起こすのよ…!」
強く強く、セイラに向かって念じる。
セイラが頷き、流れてくるアリスの魔力を利用して、そして――
「―――!!」
信じられないほどの大音量でセイラが歌う。…いや、これは既に歌として成立していない。
あえてこの音を言葉で表現するなら、ハーピィの耳障りな声にバンシーのおぞましさを加えてさらに金属を引っかくような不快な音を混ぜたような、そんな音。
「セイラっ!やめてお願いストップストップ!耳が壊れる~!」
今までこんな失敗をしたことなかったのに!そんなことを心の中で叫びながら必死にセイラに歌わせるのを止めさせる。
「だぁっ!誰よこんな朝早くから変な声出して!」
「あひゃぁっ!?」
ようやく止めたと思ったら、その次の瞬間には霊夢が跳ね起きてしまった。
無意識のうちにそちらのほうを向いてしまい、霊夢と目が合ってしまう。
「…………」
「…………」
互いに言葉をなくし、硬直する。
待つこと五秒ほど。
互いに見つめあっていた二人。先にはっと我に返ったのはアリスだった。
やばいやばいやばい。これではまるで夜這いをかけように見られてしまうじゃないかどうするどうしよう何かいい手はないだろうかこの場を誤魔化す最良の手段はなんだ!?
必死に考え、そしてアリスの辿り着いた答え。
それは――
「が、がおー」
もう何がなんだか滅茶苦茶だった。
アリスの顔はみるみる赤くなっていく。
霊夢はただただ呆然とアリスを見つめる。
再びの沈黙。
「――っ!」
先に耐えられなくなったのはやはりアリスだった。
セイラを抱えてばっと立ち上がる。
「う…うわぁん!」
そして泣きながら駆け出してしまった。
「なっ…ちょっと、アリス!?」
やっと我に返った霊夢がアリスを追おうとするが、既に後の祭りだった。
そこにはただただ、アリスによって開けたままにされた玄関に通じるまでの道があった。
「な…なんなのよ、一体……」
霊夢の呟きだけが、虚しく響いていた。
★☆★☆
「「「あはははははっ!」」」
大爆笑するプリズムリバー三姉妹。
それぞれが腹を抱え、床を叩いたりしていた。
笑わないで聞いてくれるだろうと信じていたルナサにまで笑われて、アリスは泣きそうな表情になる。
「う…わ、笑わないって言ったじゃない……」
人形を抱きしめるアリスに、説明された光景が眼に浮かんでくるようでさらに爆笑してしまう。
「アリス、最高っ!」
リリカは親指をぐっと立ててアリスを茶化す。
「ねぇ、アリス。やっぱり私たちの仲間になりましょうよ。あなたとなら楽しい四姉妹になりそうだわ」
メルランは涙の零れそうな瞳を指ですくいながら、さらりとすごいことを言ってのける。
「アリス。それはきっと起こせっていう念が強すぎて、それに繋がるリズムがセイラの中で見つからなかったから、適当に起こせるような音を出したんじゃないかな」
ただルナサだけがアリスの質問に丁寧に答えてくれた。
…質問に答えてくれたのはありがたいのだが、どうしても感謝の気持ちが湧かないのは何故だろう。
「次にやるときはもっと別のイメージを持たないとね」
いまだに笑い続けながら、ルナサは立ち上がる。
楽器を操って自分の手元に手繰り寄せ、部屋のドアのほうへと向かう。
「私は、とりあえず博麗の巫女のところに行ってくるよ。それとなく、事情を伝えておく」
アリスも来る?とルナサは冗談交じりにたずねる。
「いいいい行くわけないでしょ!あぁ~、もう、これから三日は顔を合わせられない~!」
顔を赤くしてどもるアリス。
予想通りの答えだったのだろう。ルナサは頷いて部屋を出て行く。
それを見てから、アリスは頭を抱え込んでうぅっと唸る。
本当、穴があったら入りたい気分だ。
…今そんなことをすれば、リリカに埋められてしまいそうな気もするが。
そんなアリスの様子を見るに見かねてか、セイラがアリスの肩をぽんぽん、とやさしく叩く。
「うぅ…生まれてからまだ二週間のセイラにまで同情された……」
だがそれが逆効果だったらしく、アリスはさらに落ち込む。
アリスとセイラのやりとりに苦笑し、ようやくメルランが動き出す。
「それじゃあアリス。あと三日は会わないんだったら、その期間中にもうちょっと練習しておきましょう。原因はわかってるんだし、次こそは失敗しないために…ね?」
「まずはその羞恥心を克服するために大声で発声練習~!」
メルランに続く形で、リリカも続く。
二人に励まされる形で、ようやく顔を上げるアリス。
そうだ。こんなところで挫けている場合じゃない。霊夢に爽やかな冬の朝を味わってもらうために頑張ってきたんだ。こんなところでいじけてる暇はないのだ。
瞳に強い意志を宿して、アリスは立ち上がる。
まずは発声練習。
そしてそれから、メルランとリリカに合わせてある一定のリズムを口ずさみ、その後に歌い始める。
…その気になってからの三日間は、やけに短く感じられた。
この二週間もそうだったが、やはり目的があると時が経つのがはやく感じるというのは本当なのだろう。
おかげでその勢いに乗ったまま、再びこうして霊夢の寝顔の前に座ることが出来ている。
また失敗するんじゃないかという不安はあったが、だけど前回ほどの緊張はなかった。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、三日間ずっと叩き込んでいたリズムを繰り返し頭の中で思い描く。
大丈夫。今回こそうまくいく。
自分の中にしっかりと思い描けていることを確認し、セイラの魅せる歌声をうまく出し切れることを信じて、ゆっくりと魔力を送り込んでいく。
「――――♪」
声なき声。空気を振動させないセイラの歌声。
だけど、たしかに響く汚れなき旋律。
セイラの歌を表現するのに歌詞なんて必要ない。旋律だけで十分だ。
プリズムリバー三姉妹にそう言われ、ひたすらに練習してきた一つの旋律。
海の歌姫、セイレーンをモチーフにした人形。その名に恥じない、立派な歌声だった。
「ん…っ」
霊夢の口から空気が漏れ、寝返りを打つ。
アリスはやさしく霊夢を揺すぶる。
「霊夢、朝よ。起きなさい」
耳元でそっと囁き、さらに覚醒を促す。
セイラの歌う曲が中ごろまできた頃だろうか。
仰向けに眠っていた霊夢の瞳が、ゆっくりと開けられる。
寝起きはそんなによくないのだろうか。目を擦りながら、ぼぅっと天上を見つめる霊夢。
「ほら、霊夢。濡れタオル。寝ぼけてないではやく目を覚ましなさい」
アリスに差し出されたタオルをほぼ無意識のうちに受け取り、顔を拭き始める霊夢。
冬の水で濡れたタオル。案の定顔にタオルが触れた瞬間、霊夢の瞳が大きく開かれる。
そしてようやくこの状況の異常さに気づいたのか、がばっと上半身を起こしてアリスのほうを見る。
「……アリス?こんなところで何してんの?」
「見ての通り、新しい人形のお披露目よ」
まだ歌い続けているセイラの方を見ながら、アリスが答える。
「お披露目って…三日前に見たじゃない」
「あ、あれは予行なのっ!巫女なんだからそんな細かいこと気にしないの!」
まぁ、いいけどね。と大きくあくびを一つして、タオルをアリスのほうに返す。
そのタオルを受け取りながら、アリスはじぃっと霊夢のほうを見つめる。
始めは無視してセイラの歌だけに集中していた霊夢だったが、体に穴が開くんじゃないかってほど見つめられるので、しかたなくアリスの方を見る。
「…んで、あんたはそんなに私を見つめて、何がしたいわけ?」
いきなりそんなこと聞かれるとは心外だったのだろう。
驚いたアリスは、そこでやっと自分がずっと霊夢を見ていたことに気がついたらしく、少しだけ視線をずらす。
「別に、なんでもないわよ。ただ、巫女のくせに礼儀がなってないなと思っただけだし…」
そわそわと視線を泳がせながらも、何かを期待するようなアリスの視線に、ようやく何を求められているのかに気がつく。
礼儀…つまり、朝の挨拶をしたいわけだ。
普段は強気なくせに、こういうときだけは変に遠慮してしまうアリスに、苦笑してしまう。
「おはよう、アリス。今日もいい天気ね」
「えっ?え、えぇ。おはよう、霊夢。お加減はいかが?」
「相変わらず寒くはあるけど…まぁ、悪くはないわね。久しぶりにいい朝を迎えられたし」
霊夢がそう言うと、アリスの顔がわずかに明るくなる。
同時にいつもの強気な表情も少しずつ現れ始める。
「ふ、ふん。いい朝になるように、こうしてこの子を連れてきたんですもの。そうなって当然でしょ?」
強がってはいるが、いつものごとく顔を赤くしているためあまり効果はない。
そんなアリスだからこそ、いつものようにいじめたくなってしまう。
霊夢は意地の悪い笑みを浮かべながら、口を開く。
「でも、それだけのためにそんな人形まで作って、朝早くやってきて…あんた、もしかして――」
私のこと、好きだったりする?
いつものように軽い冗談を口にするはずだった霊夢。
だけど、その唇はアリスによって塞がれる。
耳まで真っ赤にしたアリスの、小さな唇によって。
「えぇ、そうよ。私は霊夢のことが好き。霊夢…覚えてる?前に、誰か朝起こしに来てくれないかしらって言ったわよね?だからこそ、私はここにいる。好きな人にそんなこと言われちゃ、やるしかないでしょ?」
唇を離し、だけど顔を近づけたまま、アリスは続ける。
「霊夢…好きよ。きっとあなたのことを思っている他の誰よりも。だからこそ、私は気がついている。あなたの心の中に、まだ私なんていないってこと。まだあなたの心は、誰にも奪われてないってこと。ただ集めるだけの魔理沙になんか絶対に奪わせはしない。…今度は私が、あなたを守ってみせる」
がんじがらめだった魔界。
ただ強さだけを求められたあの世界で、何にも縛られることのなかった霊夢の姿に、どれだけ救われたことか。
霊夢が外の人間だと知ったから、ここまで追いかけてこれた。
霊夢は知らないかもしれないけど、自分は、確かに霊夢に守られたのだ。
結果として、魔界の住人から狙われることから…。
「…ねぇ、霊夢。知ってる?誰かに好きになってもらう方法って、実は意外と簡単なのよ?」
アリスの真っ赤な顔。
いつも見てるはずのその表情に、何故か魅了される。
吐息を感じさせるほど近くにあるアリスの顔。
どうしようもなく、愛しく感じられる。
しばらく沈黙が訪れる。
どうやら歌はもう終わっていたらしい。
そんなことさえも気付かないほどアリスに魅せられていたのか、とどこか客観的に眺める自分がいる。
「――誰かに好きになってもらう秘訣は、好きでい続けてあげること」
それは簡単に思えて実は非常に難しいこと。
だけどアリスは、にっこりと微笑んでその言葉を口にした。
強気な態度で、だけど内心ではいつも自分に自信が持てないアリスが、はっきりとそう言ったのだ。
「…覚悟してなさい、霊夢。いつかきっと、自然に私のことを好きって言っちゃうくらい、私にめろめろにさせてあげるんだから」
言いたいことだけ言って、アリスは顔を真っ赤にしたまま駆け去っていく。
慌ててアリスの後を追いかける人形が最後にぺこりと霊夢にお辞儀をして、そこでようやく、霊夢ははっと我に返る。
三日前と同様、そのときには既にアリスの姿は見当たらなくって…
先ほどまでの光景は、寝ぼけているときに見たただの錯覚なんじゃないかとさえ思えてしまう。
だけどそう思うには、唇に触れたアリスの感触を、脳があまりにも鮮明に覚えすぎてしまっている。
指でそっと触れる。
三日前と、今日。その一連のアリスの行動を思い出して、ぼっと火がついたように赤面する霊夢。
アリスは気がついていない。
霊夢の素っ気ない態度は、照れ隠しの表れなのだということに。
アリスは気がついていない。
実は魔理沙も、アリスのことを狙っているということに。
アリスは気がついていない。
自分の持つ、魅力について。
――なんだ。三週間も顔を見せないと思ったら、こんなことを企てていたのか。
魔理沙も珍しく三週間顔を出さなかったので、てっきり二人で一緒に実験でもやっているのかと思っていたのに。
安心して、笑みが零れる。
…今日は本当に、いい朝だ。
だって今日は――
三週間振りに、好きな人の顔を見れた日なのだから。
素直で照れ屋で、どこか自分に自信が持てないアリスが頑張ってる姿は萌えるなぁ
プリバとの交流もほのぼのしてて良かったです。
GJ。
ごちそうさまです 次もがんばってくださいっ!
文章で美しいと感じさせるほどキャラを洗練させるのは凄い事です。
感服します。 その技量、あやかりたい~。
人形も可愛いし。