よく晴れた日の午後。
鬱蒼と生い茂る木々の隙間を抜けて強い日差しがテラスへと射す。
アリスはそんなテラスの一角に置いてあるテーブルで優雅にカップを傾けながら占いを行っていた。
今日の運勢。今週の恋愛運。今月いっぱいの天気予報に今年の霊夢との相性などなど、乙女として気になる色々な物事を一気に占ってしまう。
いつものように、まず物事の大局を見据えなければならないものから占っていき、少しずつ小さなものを占っていく。
「……ふぅ。毎年の恒例とはいえ、少し怖いわね」
霊夢との相性を占いながら呟く。
これは毎年占っていることだが…去年のことを思い出して泣きたい気分になった。
長すぎる冬の終わりには霊夢に弾幕でぼこぼこにされ、多すぎる宴の終わりには霊夢にお払い棒でぼこぼこにされ、明けない夜の終わりには霊夢にぼこぼこにされた魔理沙が「看病してくれ」とやってきた。
最悪だ。最悪すぎる。あのあと看病してやったというのに、懲りもせず本を無断で持ち出して今もまだ返しにこない疫病神を思い出してむかむかとしてくる。
そもそも魔理沙はどうしてこう、もっと粘らなかったのだろうか。
もし魔理沙が勝っていたなら霊夢がもしかしたらうちにやってきて「看病してくれ」と言ってきたかもしれないのに…!
「そしたらそしたら…きゃっ、霊夢そんなだめ…!」
怒ったかと思えばにやつき、あげく妄想に耽るアリスを、人形達は苦笑しているかのように見つめる。
魔界にいたときのアリスでは到底考えられないその姿。
人形達も最初は戸惑いもしたが、今ではそんなアリスのほうがいいと思っていた。
だってアリスがようやく、他人に関心を持ち始めてくれたのだから。
……ただ、たまに度が過ぎることもあるけど。
と、体をくねらせるアリスを見つめながらも落ち着き払っている人形達の中で、先日作られたばかりの新しい人形だけが慌てていた。
アリスの目の前で手を振ってみたりアリスの体を揺すってみたりと健気に主人を正気に戻そうとする。
だけどそれはもちろん無駄な試みで…
正気に戻らないアリスに、新しい人形はどうやらやっと諦めたらしく、肩を落としてとぼとぼとアリスから離れる。
そんな新しい人形の背中をぽんと叩いて他の人形が慰める光景は、なんというかシュールだった。
「――――っ」
妄想を始めてから数分経ち、そろそろそれも終わろうかというとき、アリスの表情がふと無表情になる。
待機させていた人形数体を空へ放ち結界を敷かせる。
そのまま警戒態勢をしばらく続けさせていると――
どぉん、と低く響く重低音とともに光の波が押し寄せてくる。
結界を敷く人形の様子を見て、相手のコンディションをはかる。
今日の敵はどうやら絶好調らしく、やや押され気味の人形達。この数の人形では少し辛いかもしれない。
仕方がない。少し前に返ってきた人形を加勢させるか。
あくまでも表情を変えずにさらに一体の人形を放ち、少し冷めてしまった紅茶を口にする。
そのまま数秒待ち、そろそろこの光の波も止むころだろうと判断して、蓬莱人形をスタンバイさせておく。
しばらくして光が止む。
「動かなくても撃つわ」
その瞬間を見計らい、光が放たれた方角に向かって蓬莱人形がレーザーを放つ。
狙った場所のほぼピンポイントに見える黒い人影。
それは光速でレーザーをすり抜け、アリスの家のテラスに降り立つ。
「不意打ちとは卑怯だな」
「…どっちがよ。悪いけど今日はあなたに構ってる暇はないわ。さっさと家に帰るか霊夢の家にでも行ってなさい」
帽子をかぶりなおしながらにやりと笑う黒い人影――魔理沙に、アリスは冷たい視線だけを向ける。
「なんだなんだ。今日はやけにつれないじゃないか」
「よくもぬけぬけと。私が毎年この日は忙しいってわかっててきてるでしょ?そんなに私の邪魔をして楽しいかしら?」
「おいおい、今日はこの前の本のお礼にいいことを教えに来たんだぜ?このまま帰しちゃっていいのか?」
「そもそもあの本はあげてない。さっさと返しなさい」
アリスは相変わらず冷たく言い放つが、それもいつものことと魔理沙はたいして取り合わない。
わずかに首をひねり、少し思案気に周囲をぐるりと見渡す。
「…お。あそこに見えるは霊夢人形。人形フェチここに極まるだな」
結界を張っていた人形たちの中に、目立つ巫女服を着た人形を見つけた魔理沙がからかうように言う。
「……相変わらず音速が遅いわね。それは仕事用に作った人形よ」
言ってアリスは指をくいっと動かす。
すると先ほどまでたくさんの人形達の中に紛れていた霊夢人形がさらに四体ほど現れる。
「この前に白玉楼…というか冥界ね。そこで悪霊が一斉に溢れ出ちゃったらしくて、魂魄妖夢が私のところに依頼しに来たのよ。それで霊夢人形を作って貸し出してたの。まだ作ったばかりだけど…経験を多く積んだから、五体揃えばあなたも倒せるかもね」
試してみる?とアリスは挑戦的な笑みを向ける。
「冗談。こいつらの合わせ技のことは風の噂で聞いてるぜ」
「さっきまでその存在自体知らなかったくせに」
「実物を見るまで信じなかっただけさ。さすがに信じられるものじゃなかったからな」
「存在の多重否定、ね。まだ人間に試したことはないけど、幽霊にはもってこいの技よ。何せ体の全ての部分が自らの存在を否定するんだもの。自分がもう死んでるんだってわからせるのにはちょうどいいわ」
自己を否定されること。それは何にも変えがたい苦痛。
人間に試したことはない、と言ったが実際にはアリスは生きている者にこそ効果的なのではないかと踏んでいた。
霊は肉体が死んでいるため、全身の魂が自己を否定するだけで済むが、生きている者は細胞の一つ一つまでもが自分を否定するのだから、並大抵の精神の持ち主では運良くて発狂だろう。
「それでわかった瞬間には消滅、と。よく人形だけでそれだけのことができるものだ」
「活躍した分にあわせて報酬を上乗せするって言われたからね。霊夢の髪の毛が入ってるの…てこら!今すぐ霊夢人形から離れなさいっ!…まったく、油断もすきもないんだから」
本当、こいつで試してみようかしらという衝動をぐっと堪えながら霊夢人形以外の人形で魔理沙を羽交い絞めにする。
頭痛がしてきそうな頭をおさえながら、すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干して、魔理沙にたずねる。
「それで、いいことってなによ」
「おう、すっかり忘れてたぜ。えぇっと…あぁ、そうそう。お前さんが少し前に欲しがってた人形に関する本を紅魔館で見つけてな。確かなんとか人形を完成させるのに大切なものなんだろ?だからこれから案内してやるつもりだぜ」
少し前に欲しがっていた本…となるとこの子に関する本か。
アリスがちらりと視線を向けると、さっきアリスを一生懸命正気に戻そうとしていた人形がぴくりと反応する。
「……そうね。せっかくだし案内してもらおうかしら」
テーブルの上に広げていた占い道具…タロットカードを一つにまとめ、懐にしまいながら立ち上がる。
「なんだ。カードは置いてかないのか?」
「ここにおいて置いておくとあなたに持っていかれるでしょ。だんだんあんたとの付き合い方は理解してきたわ」
「それは残念」
人形を一体だけ連れてふわりと舞うアリス。
それに続くように魔理沙が飛び立ち、アリス宅は静寂に包まれる。
残された人形達はなにも語ることなく、出かけているアリスのために家事をしようと家の中に戻っていった。
楽しそうな雰囲気を纏いながら、アリスの喜ぶ姿を思い浮かべて…。
☆★☆★
「…ふぅ。魔理沙に言われてここまでやって来たはいいけど…」
アリスは呟いて、紅魔館の図書館の中を見渡す。
「私を置いてどこに行ったのよ、あいつはっ!」
憤慨するアリスに同意するように、連れられてやってきた新しい人形は頷く。
アリスが作った人形の中でも一際大人びた印象を与える人形からは、アリスの人形作りの腕の確かさが窺える。
「まったく。この子のために必要な本があるって言うからわざわざ出向いてやったというのに、いきなり消えるなんてどういう神経してるのかしら」
ぶつぶつと文句を言うアリス。
しかしまぁ、魔理沙がいきなり消えるなんて今に始まったことじゃないし、まだ許せる。
アリスが今怒っているのは、この館ないし図書館に無断で侵入していることだ。
これではまるで自分までもが不法侵入者みたいじゃないか。そもそもあいつは――
「あ、お客様ですか?」
アリスの思考を邪魔して、ひょっこりと小柄な少女が現れる。
笑顔でぱたぱたと黒い羽を揺らすその姿はどことなく愛らしさを感じさせる。
「えぇ、そうなの。でも相方が迷子になっちゃってね。目下捜索中よ」
本当は不法侵入者なのだが、こう広い館ならバレはしないだろうと高をくくって客人を装う。
少女は人がよさそうだし、騙されてくれるだろうという楽観的な考えもあった。
アリスの隣にやってきた少女が苦笑気味に笑う。
「あぁ、そうなんですか。…それはご愁傷様です」
「まったくよ」
ほら、案の定騙されてくれた。
内心そうほくそえんでいたアリスは、少女の言った言葉の本当の意味を理解していなかった。
「捜索中の方は現在パチュリー様がお相手しています。…もう、会うこともないでしょう」
「え――っ?」
少女はその笑顔に多少の翳りを見せて、そして…
「もし会うとしたら、それはきっと冥界です」
護身用と思われる小型のナイフを、アリスの横腹に突き刺した。
少女とは思えない強靭な力でナイフをぐりぐりとねじ回し、その上でさらに魔力を通わせる。
「さようなら」
注入された魔力は、その一言である方向性を定められる。
すなわち、爆発。
「ご愁傷様」
なんの躊躇も見せず、少女は最後の言葉を放つ。
瞬間に、アリスの体は内側から爆発した。
破裂するアリスの体。ぶちまけられる内臓。漂う血の匂い。あとに残るは血塗られたナイフだけ。
いつ見ても忌まわしいナイフの色に、小悪魔は少しだけ顔をしかめる。
「――人のよさそうな顔で侵入者に近づいて不意をついて殺す。…小悪魔風情にしてはいい趣味してるわね」
どこからともなく聞こえてきた声に、少女――小悪魔はびくっと体を震わせる。
そんな。ありえない。だってこの声の持ち主は今さっき――
「でも残念。狡賢くても応用が利かないわ。少し目を凝らせばすぐに惑わされていることに気付けたでしょうに」
声のするほうを向く小悪魔。
そこには、一枚のカードを持ったアリスの姿があった。
「月の幻視能力も衰えてないわね」
それはタロットカードだった。
<月>のカードが象徴する意味…それは曖昧性。欺瞞に満ちた夜。
「タロットっていうのは占いだけじゃなく、こういう魔法をかける媒体にもなるのよ。知らなかった?」
くすくすとおかしそうに笑うアリス。
嘲るように。謳うように言葉を紡ぐ。
「ふふ…そんななんでって顔をしないでよ。少し考えればすぐわかることでしょ?見ず知らずの人をいきなり客として扱うようなら、あなたは既にこの世界にいないわ」
人を疑う能力が欠如した者には滅びの道しかない。
こと主人を護るために存在する者は、例外なくその能力に長けている。
「さすがは魔理沙さんの連れてきた人ですね。けっこうこれに引っ掛かる人って多いんですよ?失敗のほうが少ないくらいですし」
「ふん、みんな馬鹿なのね。…それで、奇襲は失敗したみたいだけど、まだ続けるの?」
「当然です。侵入者は例外なく排除します。たとえ見知った顔であろうと、そうでなくてもです」
ナイフを捨て、背負っていた長い棒を前に向かって振りかざす。
空気の裂ける音がして、棒の先端に鎌の刃のようなものが現れる。
魔力を高密度で固めた、近接用の武器。
「そんなもの持って死神にでもなったつもり?その程度なら、人形達の手を煩わせることなく一捻りできるわよ」
「そんな安い挑発には乗りませんよ。魔理沙さんと比べないでください」
小悪魔の言葉に、少しだけ感心する。
これだけ殺気立っていて、まだまともな会話を成立させられるのか。
「戦い慣れている…いや、むしろこっちが本分といったところかな」
非弾幕による戦闘。
なるほど、魔力に乏しい者が館を護るためにとる手段としては、それが最良だろう。
これは彼女達にとっては遊びではなく、果たさねばならない使命なのだから。
「行きますっ!」
短く息を吐き、駆ける小悪魔。
手に持つ鎌が狙うはアリスの首、ただ一つ。
振り下ろされる鎌は、アリスの予想を遥かに越える速度で向かってくる。
他の武器とは違い特殊な射程、動きを見せる鎌に、回避がワンテンポ遅れる。
これでは初撃を避けられたとしても続く連撃を防ぎきれない。
初撃が服をかする音を聞きながら、アリスは冷静に分析をする。
「無き咎に吊るされし男。其は全てを耐えし無我の境地を得て不滅の魂を得る」
早口で紡がれる呪文。取り出すカードは吊るされた男。
鎌の二撃目が振り下ろされる数瞬前に発動した魔法は、振り下ろされた鎌を弾き返す。
「――っ!?」
体制を崩した小悪魔が拍子抜けなくらいあっさりと身を引いたことに、アリスは少しだけ感心する。
「…やはりあなたは賢いわね。勇気と無謀の違いをきちんと理解している。そしてなによりも自分の命をきちんと大事にしているわ」
「私は図書館の秘書です。カードの持つ意味くらい理解してるつもりですよ」
「あら、もしかして見えてたかしら?」
くすくすとからかうように笑いながら、吊るされた男のカードの下に隠れていたカードをちらりと見せる。
「隠者…隠れし者にして隠す者。発動直後に触れた者を私の空間に隠す魔法。効果は抜群だけど、難点は発動直後にしか効かないことと、触れてないといけないことかしら」
制限の多いカードは、それゆえに当たれば絶大な効果を見せる。
「私を試してたくせに、よくそんなこと言えますね」
小悪魔はじりじりと距離を詰めながらアリスを睨む。
「私としてはどっちでもよかったのよ。あなたが私の空間に落ちてそのまま死のうと、一旦距離をとってもらおうとね」
結果は変わらないし、と肩をすくめるアリスは一歩の動かないで小悪魔と向き合う。
片手に持った吊るされた男のカードと隠者のカードを小悪魔からもよく見えるように胸の前でかざす。
「今から手品を見せてあげる。種も仕掛けも無い、本物の魔法使いが使う手品よ」
もう片方の手でポケットからハンカチを取り出して、二枚のカードに被せる。
「もっとも…すごいと感心する前に、もう死んでるかもしれないけどね」
アリスがハンカチを捨てたとき、既にそこに先ほどの二枚のカードは無かった。
そこにあったのは、もっと破壊的で、破滅的なカード。
「驕りし塔は神の雷に裁かれん!」
そのうちの一枚をかざし、呪文を詠唱する。
詠唱とともに現れた雷。
発動と同時にアリスはカードを小悪魔に投げつけ、後退する。
カードからアトランダムに放たれる雷はまさに神の怒り。全方位性の無差別攻撃。
小悪魔は一瞬目を見開く。
放たれる雷は数十本。予測できないその動きは回避を不能にする。
「回避は不能…なら、受けて立つまで!」
後退しながら数本の雷を自らの魔力で相殺させつつ、叫ぶ。
鎌の刃を成していた魔力を開放し、ただの棒に戻す。
一回転、二回転、三回転。くるくると棒を回し、小悪魔は棒の先端を地面に突き刺した。
瞬間、小悪魔を中心として描かれた魔法陣が現れる。
「展開。リフレクション!」
瞬間、陣から放たれた眩い光にアリスは嘲笑する。
「反射。反射ですって?守りでも攻めでもない、なんて中途半端な魔法。そんなんじゃあなたの程度が知れちゃうわよ?」
光によって反射された雷がアリスの周囲の床を焦がす。
その反射された雷の威力を見て、さらに声高に笑う。
くだらない。なんてくだらない威力。溜めた魔力を跳ね返すのではなく、鏡のように、純粋にその魔力をそのまま返すだけ。
どうやら本当に人形達を呼び起こす必要はなさそうだ。
秘術の力もいらない。
こんな小手先だけの術だけで十分だ。
「死神の鎌に刈られし魂は、その死に一筋の希望を見出さん」
手に持っていたもう一枚のカード。それを詠唱する。
ぱりん、と。乾いた何かが割れる音。
それと同時に、雷を放っていた塔のカードも切り刻まれてその効力を失う。
「鎌を持つのなら、せめてこれくらいのことはやってのけなさい」
そういうアリスの周囲に、無数の鎌の刃のようなものが現れる。
「死神に魅入られし鎌の前では、どんなものも無意味。そこに待ち受けるは、終わりだけよ」
鎌の刃のようなものは回転しながら小悪魔に迫る。
防護の結界が破られた。自分では手におえなかった符が容易に破壊された。その刃が今、自分に向かって迫ってきている。
――勝てない。
今のままでは勝てない。
「でも…負けるもんかっ!」
再び棒に魔力を通して刃を作り、迫りくる刃を打ち砕く。
一つ二つと打ち砕いていくうちに理解していく。
これは刃ではなく、風だ。
圧縮して放たれた切り裂きの術が施された風。
打ち砕いてなお相殺しきれない風が服を切り裂いていく。
「くっ…!」
焦る。ここまで圧縮された風をどうにかする術を、小悪魔は持っていなかった。
どうする?どうするだって?どうもしない。
今のままでは勝てないことくらい、十分承知している。
今はただ、時間を稼げばいいのだ。
「光、集まりて我を照らさん!」
唱える呪文は、周囲を一瞬だけ光らせるだけの低級のもの。
その利点は自分の見えている範囲内ならどこにでも設置できること。
光は小悪魔の意思通り、アリスの眼前で発動する。
「――っ!」
その光量に、さすがのアリスも目を閉じる。
瞬間、風の狙いが甘くなる。
――今だ!
強く前に踏み込む。
風に服が切り裂かれるがかまわない。
「はぁっ!」
「しまっ――!?」
目を眩ませていたアリスは、突然の襲撃に一瞬の判断が遅れる。
振り下ろされた鎌。奪われる一房の髪。全てが一瞬の出来事。
「小悪魔風情が…!」
自らの髪を切られたと悟ったアリスは、最初の勢いのまま通り抜ける小悪魔に呪詛を吐くように低く唸る。
「ふふ…ふふふ。待ちなさい。生まれてきたことを後悔するような絶望を与えてあげるわ」
笑うアリス。そこに先ほどまでの嘲りの表情はなかった。
ゆらりゆらりと小悪魔の後を追うアリス。
その表情は、同性からみてもはっとする美しさを持っていた。
どこまでもやさしく、どこまでも冷たい笑顔。
魔女としての鋭利な心。氷のような心が、その表情に見え隠れする。
ゆっくりと。されど迅速に。アリスは小悪魔の後を追う。
「逃がさないわ…逃がすものか。ふふ…ふふふ、あはは!」
笑う。美しい旋律を奏でるように、笑う。
笑いながら、アリスの体は小悪魔の身体能力を凌駕するスピードで地を滑り出す。
ちらりと後ろを覗いていた小悪魔は、そのスピードに目を疑う。
ありえない。魔法使いは本来遠距離を得意とする種族。それが自分よりも高い身体能力を持つことなど、ありえるはずがない。
身体能力の向上…それはすなわち、力のカード能力か。
媒体として完璧に使いこなされているタロットカード。
小悪魔は舌打ちをしながら詠唱を急ぐ。
「テトラグラム・ヴァイケオン・スティミュラマシオン・エズファレス……」
手には逃げる途中で本棚から抜き取っていた一冊の本。
この本に記された内容…それは、パチュリーに禁止されていた、自分の身に余る呪文の詠唱だ。
馬鹿なことをやっていると、自分でも思う。
でも、もし勝てるとしたらこれしか方法がないと判断しての行動。
「イリオン・エサイオン・エグジスシオン・エライオナ・オネラ……」
敵はすでにそこまで迫ってきている。
アリスの笑い声とともに風刃が自分を切り裂きにやってくる。
耐えろ。足を動かせ。今捕まってはいけない。
「エマュエル・スバオト・アドナイ……!」
呪文が完成に近づく。
それと同時に、ぐんと跳躍したアリスが小悪魔の進路を塞ぐように前に飛び出す。
「ふふ…鬼ごっこはもうお終い。そろそろ終わりにしましょう?」
あくまでも歌を謳うように囁くアリス。
「テ・アドロ・エ・テ・インヴォコ…!」
だがそれと同時に小悪魔の詠唱が終わる。
あとは本に全魔力を注ぎ込み、門を召喚するだけ。
「えぇ、そろそろ逃げるもの飽きてきました。今度はこちらが追わせてもらう番ですよ…!」
小悪魔は叫び、最後の詠唱の最後の言葉を叫ぶ。
「アドナイ・メレク・ナーメン!」
瞬間、本に溜められた魔力は弾けるようにして霧散し、小悪魔の目の前で門を形成する。
―― ォ オ ・・・・・・ ォン!
形になり始めている門から低くあがる雄叫び。
人のものでも獣のものでもないその声は、この召喚されるものが数多いる妖怪の中でもさらに特異なものであることを物語っていた。
「…くっ!?」
だがそれは、同時に妖怪の中でも高位に属する存在であることも意味する。
自らの制御から離れようとする門。想像以上に吸い込まれていく魔力に体がふらつく。
だけどここでやめるわけにはいかない。失敗も許されない。悪魔召喚の儀におけるそれらは、自らの死を意味するからだ。
本から迸る電撃に、体が焼き尽くされそうになる。
後もう少しだ。もう少しで、門が開ききる!
「現れよ!デーモン召喚!」
小悪魔の宣言とともに門は開ききり、そこから一匹のデーモンが現れる。
デーモンは金の髪をなびかせて契約者である小悪魔のほうを振り向く。
「我が契約者。不相応な力を求めし我が主。汝の願いは敵を討つ力か?それとも敵の首か?」
静かに、だけど響く声でデーモンは小悪魔に向かってたずねる。
「敵の首です」
小悪魔はデーモンの放つ威圧感に怯むことなく、きっとデーモンを見据える。
「…ふん。不相応な力を求める愚者らしからぬ台詞だな。本当にそれでいいのか?」
「力を望めばあなたに喰われるのはわかってますから。不相応な力は我が身を滅ぼす…でしょう?」
小悪魔のその言葉に、デーモンは心底愉快そうに笑う。
「どうやらあなたは賢者のようだ。ならば我が力を貸そう!」
デーモンは再び体を反転させ、アリスのほうを向く。
「それに――」
アリスの目を見つめながら、デーモンは懐かしげに目を細め、口元を歪める。
旧友を見つめるように。仇敵を見つめるように、アリスを見続ける。
「あなたともそろそろ決着を着けたかったしね、アリス?」
「…久しぶり。まさかこんなところで会うとは思ってなかったわ、ルイズ。でも演出好きなところは相変わらず変わってないわね」
ルイズと呼ばれたデーモンは、くすりと笑う。
その容姿はアリスと同じか、それよりも幼い。
「本当よ。だってアリスったら何も言わずに人間界に行っちゃうんだもん。…そのせいで定員オーバーだってゲートキーパーさんに止められて私が来れなかったんだからねっ!」
腰に手を当てて怒るルイズ。
その姿はとても小悪魔よりも巨大な力を持ったデーモンには見えない。
「そう、それはご愁傷様。早速で悪いんだけど、さっさと魔界へ帰ってちょうだい」
「い・や☆せっかく人間界に来たんだもの。手土産にあなたの心臓くらい持って帰るわっ♪」
笑顔で答えるルイズから、得体の知れない空気が流れ始める。
図書館からあまり出ない小悪魔でさえ、これがなんなのか直感で理解できた。
これは魔界の空気だ。
「本当は実力行使はしたくないんだけどね…あなたがその気なら、こっちもそれ相応の手段を取らせてもらうわよ」
そう言って先ほどまで自分の傍らで待機させていた人形を操り始める。
「まだ試作品ではあるけど…それでもあなたを黙らせられるくらいには優秀な子よ。――歌いなさい、セイラ」
アリスに操られるセイラと呼ばれた人形は、マスターの命令を受けて声なき声で歌い始める。
声帯を使わない、アリスの魔力を声に変換して歌う人形、セイラ。
海の魔女たるセイレーンをモチーフに作られた美しい容姿に、どことなくアリスを彷彿とさせる声がよく似合う。
「あ、アリスの声によく似てる☆…じゃなくて、これはまさかっ!?」
「ふっふっふ。そのまさかよ。今この子が歌っているのは強制送還の呪歌。さぁ、あなたが以前望んでいた、タイム制限付きのデスマッチと洒落込みましょうか!」
言うがいなや、アリスは人形を後退させ、人形を庇うようにして風刃を放つ。
「冗談っ!そんなあっけなくやられてたまるもんですかっ!」
手をかざし、いくつもの魔法陣を描くルイズ。
ある魔方陣は風刃を反射させ、ある魔方陣は風刃を破壊し、ある魔方陣は風刃を束縛する。
「死者よ、眠りから覚めて私の前に現れよ!地獄の悪魔よ、地上に破壊をもたらすものよ、己が住処を捨て生と死す者を隔てる川を渡らせよ!永遠の眠りに赴きし者、黄泉の国より目を覚まし、陣の中より現れよ!我は汝らを求める!現れよ、魔界の死者よ!」
詠唱するルイズ。
それは死者を呼び出す呪文。先ほどからいくつも現れていた魔方陣の中から数え切れないほどのゾンビやワイト、見るもおぞましい異形の者達が出現する。
「我が盾となり剣となる者、我が前に立ち塞がりし風刃を薙ぎ払え!」
ルイズの命令とともに、異形の者達は我が身を省みず風刃に当たっていく。
振り上げられる腕。飛び交う死肉。舞い上がるは異形の者達の咆哮。
あたりはまさに阿鼻叫喚の様子を呈していた。
ルイズはほくそえみ、異形の者達の影を利用してアリスに接近する。
「…ルイズ。これだからあなたは馬鹿だって言ってるのよ。そんなもの、盾にすらならないわ」
言いながら、アリスはルイズが盾にしているゾンビを切り刻む。
「とか言ってる割には、何発も当ててやっと破壊してるじゃん?」
ルイズは楽しそうに笑いながら駆け、次の盾へと移動する。
「…あなたに合わせてるだけよ。なんだったらこいつらを一掃しましょうか?」
「できるものなら、やってみなさい!」
アリスの隙を見てルイズが突進する。
風刃をかいくぐりやってくるルイズにアリスは腕に風を巻き付けて応戦する。
爪を長くしアリスの心臓を狙うルイズ。
巻き付けた風を蛇のようにうねらせ、ルイズの首を刎ねようとするアリス。
両者の速さは互角。皮膚を裂く音が聞こえ、両者は地面をすべるようにして距離を取る。
アリスは服、ルイズは首の皮一枚やられ、痛み分け。
苦々しい顔をしながらもアリスはカードを取り出し、詠唱する。
「正しき審判により、死者を正しき死へと導きたまえ…」
復活を意味する審判のカード。アリスはその力を逆転させて発動させる。
本来死を与えるだけならば死神のカードの方が効率的なのだが、これらはもとより死人。ならばもとの場所へと還してやるほうがよほど手っ取り早い。
「あるべき世界において、今はただ眠りにつくがいい!」
アリスの宣言とともに、審判のカードから眩い光が現れ、異形の者達を包み込む。
「……だから言ったでしょ?あなたに合わせてあげただけって」
薄く笑うアリス。異形の者達は光とともにどこへともなく消えていく。
「――カルネアデスの板。それは究極の二者択一。さぁ、選びなさい。素直に送還されるか、それとも私の手に掛かって死ぬかを」
「うぎぎ…な、なんで勝てないの~」
「…なんでって、そもそも勝ったことも勝ちそうになったことも無いじゃない。もしそこに理由があるとするのなら、たんに実力の差でしょ?」
悔しがるルイズに呆れるアリス。
もうルイズに戦う気はないみたいだし、強制送還の呪歌も終わりに近づいている。
「まぁ、私の新しい人形のテストにもなったし、そこだけは感謝してあげてもいいわ」
「むぎ…もっと感謝してくれてもいいと思うなぁ。私は大好きなあなたにこんなにも尽くしてるじゃない」
「…………もう呪歌の完成の時間ね。おとなしく魔界へ帰りなさい」
「む、無視っ!?アリス、ひどい~」
ルイズは泣きながら、セイラの作り出した門の中へと引き摺られていく。
その最後を見届けることもなく、アリスは周囲を見渡す。
ルイズが門の奥で「本当にひどいっ!?」などとほざいているが気にしない。今はそれよりも気になることがあるのだから。
少し遠くで呆然とこちらを見ている小悪魔。そのさらに奥に――
「魔理沙。私を騙したわね」
魔理沙と、パチュリーがいた。
「騙したとは心外な。ほれ、ここにしっかりと例の本はあるぜ。私はただ本を渡すまでの過程の話を飛ばしただけだ。あまり人聞きの悪いことを言わないでくれ」
魔理沙が持っていた本は、たしかに自分が欲しがっていた本だった。
「…まぁ、結果として騙してるわけだけど、この本はあげるからそれで許してもらえないかしら」
パチュリーの声に、はっと小悪魔が振り返る。
「パチュリー、様……?」
「ごめんなさいね、小悪魔。実は少しあなたを試してみたの」
泣きそうな声で小悪魔に声をかけられ、少しだけ困った表情でパチュリーが苦笑する。
「えっ…?」
意味が理解できない。そんな表情の小悪魔。
パチュリーはそんな小悪魔に、諭すようにゆっくりと説明する。
「未知の敵に対して、あなたがどこまで自分の能力を引き出すことができるか…あなたが生まれてからもう大分経つし、どれくらい成長したかを見極めようと思ってね」
でも少し意地が悪すぎたかしら、と小悪魔の頭をやさしくなでる。
「少しじゃなくでめちゃくちゃ、だぜ。相手がこの性悪アリスだからな」
「あら、魔理沙よりも出来た子じゃない。最後の強制送還以外は人形も、レーザーも使ってなかったのよ?途中から気付いてたんでしょう?これが小悪魔に対する抜き打ちテストのようなものだって」
不意に話を向けられて、アリスは誤魔化すように肩をすくませる。
「割と最初からね。途中から魔理沙と、もう一つ大きな魔力を感じたからもしかして…と思った程度だけど。ただルイズを召喚しちゃうとは、思わなかったけどね」
「それは私も計算外だったわ。この子にはまだ、異界を開く力はないと思ってたから…」
愛しげにぎゅっと小悪魔を抱くパチュリー。
いざというときには駆け出してサポートしようとは思っていたが…もし失敗していたら。もしサポートが間に合わなかったら…と想像してしまい、かすかに体が震える。
「パチュリー様…」
そんなパチュリーの変化に気がついて、パチュリーの胸の中で泣き始めてしまう小悪魔。
「…さて、と。私達はそろそろお邪魔みたいだし、退散するわよ、魔理沙」
二人の邪魔にならないようにこそこそと魔理沙に近づいて、肘で魔理沙を突っつく。
「おぅ?アリスにしては気が利いてるな」
「あなた以外に対しては、これが普通よ」
「私も普通に接して欲しいぜ」
「そりゃ無理よ。…あ、この前勝手に持っていた本を返してくれたらほんの少しだけ考えてやってもいいわよ」
「……考えておくぜ」
そんなやり取りをしながら、二人と一体はこそこそと図書館を抜け出す。
紅魔館を抜け出す途中、メイド長や吸血鬼の妹、門番と弾幕ごっこをしたのは言うまでもない。
「……もう、絶対に魔理沙なんかとはここに来ないんだから~!」
「まぁまぁ、たまにはいいだろ?流石にこれを毎日一人で相手にするのは骨なんだ」
アリスの絶叫と魔理沙の楽しそうな笑い声が紅魔館に響き渡る。
…なんだかんだいって、二人は仲がいいのかもしれない。
そんなことを、セイラはアリスの腕の中で苦笑しながら考えていた。
―― その頃、魔界では・・・
「……うぅ、ぐすん。私、アリスに嫌われてるのかなぁ…」
「まぁまぁ。私なんて名前すら出てこなかったんだし…相手にされただけ良かったじゃない」
魔界ではデーモンとゲートキーパーがそんな会話をしていたらしいが、それはまた別のお話。
とても面白い戦闘ものでした!
人形ではなくカードを用いて戦うアリスもかっこいいですね。こう、人差し指と中指でカードを挟みつつ、クールな表情をしている彼女を想像すると。
>そんな新しい人形の背中をぽんと叩いて他の人形が慰める光景は、なんというかシュールだった。
私的にこの一文がヒットでした(笑)。あ、でも話の本筋と関係がない……。
嬉しかった。
小悪魔を見守るパチェ萌え。