時が流れる……
周りは老いて……、カタチを変えて……
走り去り……
消えて往く……
失われて逝く…………
なのに、私は変わらない……
変われない……
ずっと同じ場所(とき)に、置き去りにされて…………
ダレカ、ソバニイテ……
オイテイカナイデ………………
≪ Prologue ~ 憂いの魔女 ≫
人間より永きを生き、しかし幼き魔女『パチュリー・ノーリッジ』は想う。
この世に生を受けし時より患いを抱えた、白く脆弱な少女の身を白亜のベッドに深く預け。
『あの時』より『人』である事を放棄した私はここに至っても、未だ独りなのだろうか、と……。
親友と呼べる存在はいる。
従順な従者や女給もいる。
騒がしい者もいるが皆気が良く、持てなしてくれたり、己の身の回りのために尽くしてくれる。
それになにより、今自分が世話になっている館には、自分を退屈させないだけの幾多の本達が、
今か今かと紐解かれるのを心待ちにしているのだ。
病に悩まされているとはいえ、穏やかで有意義に移ろう流れを身に受ける事ができ、
彼女はおおむね幸福ではあった。
───だが。
自分の話に完全についてきてくれる者は、館の中にはほぼ皆無であった。
特に、魔法に関する事全般はその傾向が顕著であると言わざるを得ない。
最近まで、そのことが魔女である彼女には不満であり、不安であり、
そして幸せの中にあって孤独を感じる原因であった……。
そう、あの人間の魔法使いに出会うまでは…………。
「けほ! けほっけほん!!」
思い出したかのように、持病である気管支不全の発作が、激しく彼女の身を苛む。
「けふっ!! げほぉっげぼぉぉぉっ!!?……はぁ、はぁっはぁ……」
あまりの咳の激しさに、息が詰まる。
しかし、咳は堰き止められた彼女の中より外に出ようと、さらに激しく、
その堰を打ち破ろうと攻め立てる。
先程の不安が増長される。
何度も。
何度も。
ぶつかり、反動で身を退いて力を溜め、助走を付けて跳ねるようにぶつかっていく。
その度に喉は熱を帯び、痛みは蓄積されてゆく。
焼け付くような感覚は鋭さを増し、限界の悲鳴を上げる。
喉の力では咳を追い出す事も出来ず、身体全体で絞り出す事を余儀なくされる。
幾度となく、彼女の華奢な身体はベッドの上で爆ぜ、暴れ回り、よじらせ、
艶やかな紫の長髪を振り乱し、やがて……、
「ゴヴォッ!!?」
───鮮血が彼女の口から舞った。
喉の粘膜が限界を超え、刺激に負けた箇所から出血したのだ。
あわてて震える手を口に添えるが、隙間から血がしたたり落ち、白きベッドと、
身に纏っているネグリジェをまだらに、紅く染め上げる。
そこで、ようやっと発作が収まった。
「はぁっ……、はぁ、はぁ、はぁ……」
今回の発作は特にひどかった。ここまで酷いのはいつ振りだろうか……。
などと考えつつ、発作に抗うために体力と精神を使い果たした魔女は、血をふき取る事もぜす、
ベッドの柔らかさに身をゆだね、深く沈む。
ふと。
彼女は左を向いて、書物が山積みされた机を見やる。
塔の如く、堆く積まれた書物の集落、その中心。
広場のように開けた所に、可愛らしい装飾と色遣いのリボンで封をされた一巻の巻物が、
静かにその場に座している。
待ち望むべき存在(ひと)の手に握られるのを眠りながら待つ、聖宝のように。
「あの子、早く来ないかしら……」
誰に呟くのでもなく。
心に重くのしかかる不安をぬぐい去ってくれる、彼方から来る『希望』に向かって、
『もっと永く、もっと強く結ばれたい……』
───そう、囁いた。
≪ 壱章 ~ 少女訪館 ≫
今日も今日とて、黒魔法使いの少女は紅の館を訪れる。
毎日のようにとは行かないが、遠き住処の森から、野を、湖を越え、
赤髪の館の門番をいつもの通り、あしらうように成敗し。
陽光の下、気分の良い空の散策を終えた箒と金髪の少女は、雅な造りの観音開きの扉の前に、
音も無く降り立った。
その扉は、千年杉より切り出して設えられたモノを、幾重にも漆を塗る事により、
この館の外壁よりも、なおも重く、紅く彩られている。
扉に備えられている、自分の目線の高さにある蝙蝠を象った鉄のノッカーを手に取り、
一回、二回、三回とノックする。
一分経ち。
五分経ち……。
十分経ち…………。
一向に誰も訪問者を迎えてくれる者が現れることはなく。
「……いい加減遅すぎるぜ」
怠慢が過ぎるぜとばかりに半分苛立ち、半分はお約束で誰かが来て、止めてくれるだろうという願望に任せ、
おもむろに、衣服の中に忍ばせてあった、白銀に鈍く輝く金属製のスペルカードを取り出した。
自らがカードに与えた能力を解放し、扉の破壊を試みようとする。
若き女魔法使いは、意志をスペルカードに込め、開封の鍵とした。
持ち主の意志に呼応するように、カードは己を礎として、虚空に数多散りばめられた魔力を収束させてゆく。
程なく、激光を放つ粒子が不規則に渦を巻き、そのカードの正体が何者の存在をも許さぬ威力を持ちうることを
感じられるようになる。
かくて発動の準備は全て整った。この間、わずか数瞬。
少女は不敵な笑みをその貌に浮かべる。
己が為したい望みを一言によって具現させるべく、形の良い唇からリズムに乗った、楽しそうな口調で叫ぶ。
「いっくぜぇ☆ マァスタァースパァァーー……」
同時。
「こんの、うつけ者がぁぁぁ!!!!」
扉の奥、若い女の怒声と共に扉は弾け飛ぶが如く開かれ、無数の銀製のスローイングナイフが
魔法使いめがけて殺到する。
すんでの所で、見事な造りの扉は消失の危機を免れた。
乱暴に開け放たれた扉の奥、紅に染め上げられて敷き詰められた絹の絨毯を、
優雅な足の運びによって中から現れたのは、大層ご立腹な様子の銀髪の人間のメイドであった。
その両手指には、先ほど襲いかかってきたのと同じそれが添えられている。
「館の前で物騒な魔力を感じたから何事かと思ってきてみたら……。
あんたのおかげで、まぁた掃除が進まないじゃない!!」
「どうやら、思った通りにお約束な展開になったな。賭けに勝って嬉しいぜ♪」
「? 賭けって何よ? 私が来たから良かったものの、誰も来なかったら……」
「せっかくだから撃ってたぜ♪」
「……そう。私もせっかくだから、ここで白黒つけてみようかしら?」
両者、何かを帯びた笑顔で見つめ合う。
片や殺気を、片や陽気を。
相対する感情は、水と油のよう。混ざり合うことなく真っ向から衝突する。
───一方。
館の中からは、怯えと好奇の気配が入り交じって発せられる。自分達より力ある者が、
一触即発の勢いで対峙しているのだから。
緊張が、場を支配していた。
僅かな人間が、多くの人外の存在を惹きつけて。
互いに隙を見せることなく、静から動へと移るその瞬間を逃さぬよう感覚を空間に向けて
研ぎ澄ますという行為によって、周囲から見守る者達には大気が歪められたとすら錯覚させてしまう。
だがしかし、いくら見客がどこにでもいる妖といえども、一様に平坦な個性である事などあるはずもなく。
緊張感が漂う場の空気に支配されることなく、自分のペースで動く事が出来る者もいるのだ。
「は……、はぁ、はっ……」
観衆の一つに、青い服を着た妖精のメイドがいる。
彼女は、館の中でも比較的ほこりの多い部屋の掃除の最中だった事もあり、鼻がムズムズと刺激されて
今にもクシャミを暴発してしまいかねない。
しかもこのメイド、
『はぁっっっっっくしょぉぉぉぉい!!!』
───メイドの中でも、クシャミがとりわけ激しく大きい事で有名であり、
館に住まう、あるいは働く者の間で知らぬ者はいない。
クシャミによってもたらされる風は、颱風が巻き起こす烈風のような荒々しさを。
音はか弱き草木や動物など蹴散らしてしまうほどの衝撃波となる。
それらはせめぎ、折り重なり合い、『弾幕』となって辺りにいる同僚に襲いかかる。
付近で見物をしていたメイド達は、突然の出来事に避けきれず、殆どは木の葉のように舞い散らされた。
床に。
天井に。
壁に。
方々に叩きつけられ、身につけていた制服は『弾幕』の力によって引き裂かれてしまう。
そして、廊下に配されている、館の高貴さにあわせて意匠の凝らされた燭台、洋の東西を問わず
蒐集された陶磁器、紅の絨毯。
これらも駆け抜ける颶風により、長年腰を落ち着けていた場からさらわれ、哀れ、
その命を微塵に散らし、あるいは醜い姿をさらし、ひしげる。
『弾幕』と化した爆風は、発された点より勢いを衰えさせることなく、さらなる犠牲と
より広い空間を求め、駆け巡る。
やがて、荒れ狂うそれは、次に威を振るうべき場所と相手
───紅く彩られたエントランスホールと、正面玄関の大扉の前で仁王立ちする銀髪のメイド───
を見つけ、飢えた獣が獲物に喰らいつくかのように顎を開き……。
噛み砕いた…………。
金髪の魔法使いと銀髪の麗しきメイドの間に巡らされていた精神の均衡は、
不意をつく事象によって崩され、今ここに、彼女等にとって幾度目かの『弾幕遊戯(たしなみ)』が
催される事となった。
黒き魔法少女は、待ちわびた機を逃さず、右手に携えていた箒を運指一つで水平に構える。
同時に左手はエプロンのポケットに突っ込み、目的のモノを掴むと、無雑作に自分の前に放り投げる。
少女の握り拳大程度の水晶球が二つ、少女の歩幅の三つ分くらい前方の空間に固定される。
その行動を確認するかしないか否や、お尻から柄の真ん中に身体を横向きに腰掛けて、
左手で軽くポンポンと穂先の部分を叩く。
幼いが、主人によく懐いた愛玩動物よろしく意図を汲み、箒は主を乗せて急猛進を始めた。
目標は、玄関前にいるであろうメイド!
「爆風に呑まれたくらいで、くたばる命(タマ)じゃぁないだろう!? 十六夜咲夜ぁぁ!!」
そう言い放ちながら右腕を翻し、
「瞬く星々、緑の魔星! 出でて砕け!」
戦闘用にと、短く組まれた詠唱とわずかな結印動作によって、
少女から瞬時にして十数本の光の矢、水晶球から一対の緑炎の太矢が解き放たれる。
大小無数の魔法の矢は、己に与えられた短い命を全うすべく、白煙渦巻くその先にある標的を目指して
突き進む。
グァン!!
光の矢達が白煙に数々の穴を穿ち、そして一回りは大きい焔の矢が『何か』を破壊した手応え
───破裂音が木霊し、眼前を覆っていた煙のヴェールは取り払われた。
が……。
そこに広がるのは、砕け、穴がポッカリと空いた玄関の床のみ。
血の一滴はおろか、髪の毛一本すら落ちていない。
予想していたことではある。白と黒の魔法少女は、慌てず騒がず次の手を考えながら、相手の気配を探る。
「瀟洒な時間の始まりを───」
不意に、冷ややかで、しかし凛とした声が眼に視えぬ『どこか』から静かに降る。
それと同じくして、少女は躰と心が凍り付く感覚を覚える。
寒さで凍えて、何もかもが張り詰まってしまう”それ”とはまるで違う。
言うなれば、流れる『時』が止まってしまう、独特のすくみ上がるかのような恐怖感。
そう。
銀髪のメイドには『時』を止める能力が備わっているのだ。
気が付けば、凍れる呪縛から解放され、左頸には冷たい金属の感触。
「あたり前でしょう? あんなモノでは……」
いつの間にか、魔法使いの少女の斜め左上の空間に佇み、その首筋に鈍く輝く銀のダガーを突きつける
咲夜と呼ばれたメイド。
その貌には、嘲笑とも取れる余裕の微笑みが浮かんでいる。
「私には傷一つ付かなくてよ? 霧雨魔理沙」
「……へへっ。そうこなくっちゃな。そうでなくちゃぁ、張り合いが……」
こめかみから、冷汗が一筋。
一拍。
「ない!!」
魔理沙と呼ばれた魔法使いは、気合に近い叫び声を上げながら、箒を支点として躰を右に倒し、
箒自身も右に旋回させる。
「あら、逃げるの? でも、そっちは……」
逃げ道と思い、箒と共に駆けたその先に現れたのは、魔理沙の頭大の召喚陣が三つ。
それらが意味するのを、魔理沙は瞬時に見抜く。
だが、頭で判断は出来ても、それなりの速度が出ている箒では反応しきれるモノではない。
「ちぃぃ!? 味な真似をしてくれる!」
召喚陣に波紋が浮かぶ。
召喚者の命に従って、中より出ずる物は、東・西の洋を問わぬ、種々雑多な形の短剣。
そのどれもが良く研がれており、切れ味が鋭いことを伺わせる。
「離れし『手』よ、剛柔自在に……、散れ!」
咲夜と称された銀髪のメイドは、号令により召喚陣を律する。
異空より召された刃の群々は、主の見えざる『手』によって時間差を置き、或いは速度を変えて
魔理沙に迫った。
「そっちがそう来るなら、こっちだって考えがある」
「僕の衛星! 汝、愛する主の星巡れ!!」
「星の光、銀の旅路、今顕せ!」
「遠きを翔る流星、彼の嬢に、魔に恋せし乙女の想い届けよ!!」
矢継ぎ早に、三つの呪文を唱える。
一つ目で、前面に配置していた水晶球を自分の周りで回転させ、高速で飛来するナイフの群を自動的に防御させる。
二つ目で、回転している水晶球から高熱を帯びた眩い二条の光線を放たせ、後続の白刃の突撃を薙ぎ払う。
ついでに、館の紅い外壁やら、辺りやら庭園にある草木やらも薙ぎ払われ、焼き切られる。
「あぁぁぁ~~!! なんてことをぉぉ! 間違いなくお嬢様にしかられる~~」
正しく、悲鳴。
先程の余裕はどこへやら。
目の端に涙を浮かべ、咲夜は、魔理沙によってもたらされた被害に憤然とする。
動きを止め、激怒している様子の咲夜に、魔理沙は急転進し、あと少しの処まで迫る。
「おいおい、そんなコトしててもいいのか~?余所見をしていると……」
遅れて、三つ目の術が発動する。
咲夜の死角に魔法陣が現れ、流星の如く数多の銀の鏃が降りそそぐ。
「くぅっ!?」
今度は時を止める暇が無かったのか、身をひねり、やり過ごすだけで精一杯の様子だ。
「あっはっは~。だから言っただろう?」
魔理沙は、咲夜より少しだけ間合いを取った位置に止まる。
「……答えなさい、ちんちくりん。貴女は人の注意を惹くためになら平気で物を壊せるの?」
「あ~? 何のことかな~?」
「…………ストレートに言わないとダメなのかしら? あ・ん・た・は!
私がこういう反応をするのをわかって計算ずくで動いていたのかって聞いてるの!!」
「さぁ、な。私は自分の思うように動いて、感じたように撃っただけだぜ?
辺りの物やらが壊れたりしたのは偶然だ、偶然」
口ではそう言っているが、その顔には意地の悪い笑みが、あらわになっている。
それが。咲夜の逆鱗に触れた……。
「………………そう、そうなのね」
肩をわななかせ、俯かせた顔からは表情をうかがい知ることは出来ない。
「あんたは、あくまで私に心配事と仕事を増やして過労死させたいのね……」
「いやいや、仕事に困らなくなって良かったじゃないか。むしろ感謝されたいくらいだ」
「……誰が壊れた物を直すと思っているのかしら?」
「そりゃあ、あんた達メイドだろう? この館で働く奴らの義務ってもんだ。
メイド長ともあろうお方が、そんな当たり前のことを聞くなんて、どうかしてるぜ」
「まぁ、そんな答えが返ってくるだろうとは思っていたけれどね……」
咲夜は、ゆるりとした動作で右腰に着けた革製のポーチから何かを取り出した。
操り人形が、雑多なナイフを操っている繪が描かれたスペルカードである。
それを鋭い手さばきで眼前に持ち上げると共に、己の顔を上げる。
その瞳は、先程までの青玉(サファイア) のような澄んだ深い蒼ではなく、
仄暗い炎さえ見えてしまいそうな、深紅へと変わっていた。
「私と、私の部下の平穏のために、そしてなにより……、私とお嬢様との甘い一時を守るために…………」
淡々として抑揚のない声色と、張り付けたかのような微笑でそう告げ、
手に持ったスペルカードが妖しく光る。
と、魔理沙が気づいたその時には、咲夜の手には、両手合わせて計八本のスローイングナイフが。
そして咲夜の周囲には、おびただしい数のナイフが切っ先を魔理沙に向けて、虚空に漂っていた。
「古風な魔法少女とやらは、ここで『消える』のよ」
「ひどいぜ。大体、最後の動機が不純だ」
「問答……、無用!!!」
目を見開き、白銀の従者達に必殺の命を下すその瞬間、
「おやめなさい、咲夜」
幼いが、静かで良く響く、威厳のある声が天頂から聞こえる。
場にいた二人は、空を仰ぎ見る。
眩しい陽光が照りつけていた空は、いつの間にやら雲で翳っており、陽に換わってその場にいたのは
一人の少女だった。
日傘を差し、淡い桃地に紅の縁取りのドレスを身に纏い、頭にはヴィクトリアン・キャップを変形させた
ような帽子をかぶっている。
そして、ひときわ目を見張るのは、昼間であっても、紅くその存在を誇示する獣の眼と背中から生える蝙蝠の翼。
この少女こそ、魔理沙が訪れた紅の館『紅魔館』の主にして、夜の貴族の王女。
永遠の紅い月『レミリア・スカーレット』その人である。
咲夜は展開させていたナイフの集団を再び何処かへとしまい込み、その場に片膝を突き、ひざまずく。
レミリアは、魔理沙の方に眼を見やる。
「あら、白黒のネズミが来てるなんて不吉ね」
「存在そのものが不吉なあんたには、言われたくないセリフだな」
「その着てる服に、紅い色が混じれば少しは目出度くなるかしら?」
「さしずめ、差し引き零ってところだな」
「そうかもしれないわね。ところで……」
レミリアはクスリと笑うと、魔法使いに用件を切り出す。
「今日は妹に用かしら? それとも、パチェに会いに来たの?」
「今日『も』、だぜ? あのもやしっ子に頼まれていた物を届けにな」
そう言って、背負っていた革製のバックパックから、
あーでもない、こーでもないと散らかしながら取り出したのは、硝子で出来た小瓶であった。
その中身は、見ているだけで口の中が苦くなってしまいそうな、何とも形容のしがたい色の液体が詰まっている。
「ああ、パチェの薬ね。いつもご苦労なことね」
「なぁに、いつも貴重な本を借りているんだ。これくらいやっても安いモンさ」
「貴女にしては殊勝な発言ね。けど、借りた本はちゃんと返してあげなさいな。パチェがいつも嘆いているわ。
『あいつは、いつまで経っても返してくれないの』って」
「それについては善処するぜ☆」
「……まぁ、いいわ。それよりも、一つお願い事があるの」
咲夜、とメイドに一声かけて目配せする。
「畏まりました、お嬢様───」
身を起こし一礼をして、咲夜はその場からかなりの距離を置いて退いた。
それを確認して、レミリアは魔理沙の元へと優雅に舞い降り、そして唐突にこう言った。
「パチェの事、……頼めるかしら」
「? どうしたんだ、そんな藪から棒に。あんたらしくもない」
「貴女に言われると癪に障るけれど、貴女しか頼める存在がいないから、お願いしてるんじゃない」
レミリアは、ムッとした貌で魔理沙を見上げる。しかし、声は感情に反してやや弱々しい。
「なぁ……、ひょっとして危篤だなんていわないよな? 違うよな?」
「ひょっとしなくても違うわよ。あの子は病気では死なないわ。でも、ある意味、やっかいな病気よ……」
「?? さっぱり話が読めないぜ」
「今は判らなくても、貴女なら勘が良いでしょうから、そのうち判るわ。それに恋色魔法使いなんでしょう?」
「いや、まぁ……」
いつもの口八丁で勝ち気な性格はどこへ行ったのやら。
魔理沙はレミリアの会話の真意がいまいち掴めず、言葉を濁す。
「さぁ、早くお行きなさいな。パチェが待ちくたびれているはずよ?」
「あ、あぁ……、そうだったな。それじゃぁ、そこのメイドに宜しく言っておいてくれ。
今度また相手をしてやるってな」
「弾幕りあうのは結構だけれども、私の住処とメイド達に、傷を付ける真似だけは止めて欲しいわ。
色々と面倒だから」
「それも善処しておくぜ♪」
へらず口で応えるのも、彼女なりの好意的な接し方なのだろう。
そう思いながら、レミリアは箒に乗って館の奥へと入っていく金髪の黒魔法使いを見届けた───。
魔理沙の姿と気配が認められなくなった頃を見計らって、咲夜は幼い主の隣に参じた。
「咲夜、人間って面倒ね……」
レミリアは、溜息を吐くかのように、そう呟く。
「あら、私だって人間ですよ?」
「そうね。でも、貴女は別よ、咲夜」
そよ風が、二人の髪を撫で上げる。
今この場は、二人だけの穏やかな時間が流れている。
「……パチェも元は『外の人間』だったの。人外になって『こっち』に来ても、
人間としての感情はぬぐい去ることは出来なかった」
「だから、今苦しんでおられると?」
「そう、あの子が一度たりとも感じたことがなかったはずの感情、でね……」
「それは───」
咲夜はかがんで、幼き姿の自分の主を、背中から抱きしめる。柔らかく、愛おしげに。
「それは、私がお嬢様に想いを寄せるように、でしょうか?」
「そうかもしれない。でも、私は『人間』が宿すその感情を理解することは出来ないわ。
私は『人間』ではないもの。だから、友人であるパチェを助けることは出来ないの」
「だから、人間で、しかも趣向が近しい者を充てたのですね」
「ええ、あの子ならパチェを助けてあげられるかもしれない……」
「お嬢様……、同感ですわ。パチュリー様の幸せの為に、託しましょう……」
二人はそっと目を伏せ、そのまま互いの温もりを享受する。
ただ、魔理沙によって傷つけられ崩れた館の外壁と、
焼け焦げ、あるいは切り倒された庭園の草木達だけが、彼女等を見守っていた───。
To be coutinued..