(だからといって、何だというのだろう)
答えを何時までも見つけられないことに対する腹立たしさか、
はたまた答えの存在を既に絶望した自分に対する賞賛、あるいは讒謗か。
ある意味では恵まれた条件だとも言えようが、しかしノーヒントを喜べるのは余裕ある者のみである。
その遅延にイライラしているのは他ならぬ対戦者なのかもしれない。そうでないのかもしれない。
長考の無限へ至らぬ、さりとて刹那の閃光のように切っ先も煌かざる様が、誰の目にも明らかに、暗く淀んで見える。
狂気の波長は速すぎる。暢気の波紋は遅すぎる。
シンクロナイズドジェミニは少しずつずれて、一個の性格にひずみを、それこそ際限なく量産して、
いつしかそうしてガタガタになった畦道を、自分の本当の姿だと勘違いしてしまうようで、それもまた少し物悲しく可笑しい。
(どちらにも行けないのが私か。それとも―――)
** 師走某日 水曜 昼
彼女なのか。
【水曜よ】
紡がれた言葉の波動が、私の喉を通して世界に打ち放たれる。
溶液が試験紙に染み渡るように、じっくりと界に満ちる色が、私の望む蒼海に変わっていく。
その色は、屋内に居る私に、私が触れたこともない海の、その只中にあって浮き沈みする流木の如き感覚を与えるのだ。
ぎちち、という耳障りな音も押し寄せる波と波のぶつかり合いに消され、騒音という名の静寂がこの広すぎる廊下に落ちる。
私の名はパチュリー、と己を他に伝えることができる事実に最大級の幸福を感じる。それは、世界にしがみつく為の握力を名無しの数倍保持しているという事実。握力という言葉が適切でなければ、世界に巻き付く蔓草の太さと、その強度と喩えるべきだろうか。
そこに囚われてはならない。名とは依存するものではなく、無二の道具として利用するべきものだ。差異は無いように見えるが、はじめから頼り切っているのと駒の一つとして考えるのでは大違いである。要するに、自意識で縄を掴んでいるか、雁字搦めに縛られているのかの差だ。
【三叉の天海 三洋の地海 一色の境海 象七つにして以って七海と成すは
白き水 黒き水の 味気無く透き通り交わる様の うつくし 美とて聞こし召す】
同様の理由で私は、私の形が『知識』であり、私の種が魔女であり、私の魔法が七曜であることに感謝する。現在の我が住まいに書物が溢れかえっていること、自分が親愛なる友人と安寧たる暮らしを過ごすことにささやかな慶びを覚える類の人物であること、その他言い尽くせないほどの様々なことに感謝する。
私がこれほど周囲に感謝の念を抱いているのだということを、およそ私の知人たちは知り得まいが、今の私は間違い無くそれら全てによって形成されている。たとえ百年近く変化が無かったとしても。
だが、だ。
この所続いている面倒ごと、これに関しては、一切全く感謝などできない、と強く思う。
今日の異常はとてもシンプルだ。しかしシンプルイズベスト、この語こそ字は体を表すである。
説明は一言で済むが、それが一言で済んでしまうしかないという事実をこそ怖れるべきなのだ。
だからその恐怖を少しでも打消す為に、一方ならぬ言葉で語らねばなるまい。
それは本日の朝だ。
私はある理由から、必要に応じ、早朝より館外に雨を降らせた――。
** 師走某日 水曜 午前
朝もはよから雨降らし。地べたに這いずっている点で、私もそのような生き物の一種であると実感できる。
湿った空気は喉には優しいが、この季節の悪天候は極悪なまでの冷え込みを呼ぶ。肌も喉も渇くような毎日であるから、時折の雨天は歓迎するべきことと判ってはいても、それ故に大手を振って喜べないものがある。
私は寒いのは苦手なのだ。無論暑さにも弱い。極度の湿気も重度の乾燥も、こぞって皆体調管理の難易度を否応なく高める。では春や秋は過ごしやすくて良いかというと、ここには日毎の急激な温度変化という恐るべき敵がいる。畢竟、この世全てが私に敵対しているのに違いあるまい、と思いを違えるのも無理のない事だろうと思う。
だから結局私は日陰なのだ。最善の生活環境を求めるならば引き篭もるべきである。一生インドアで構うものか。
(・・・と、そう、思っていたわけだけど。昨日までは)
どうにもこうにも無情にも、風邪というのはふとした気の緩みを衝くものなのだ。
恐るべきは万病の素だが、原因は私の夜更かしである。
迂闊だった。今やこの図書館は、私にとって文句の付けようの無い最高の環境ではなくなっているのだ。無論次善ではあるのだが、先に述べた気候と温度変化に関して些かの問題が発生している事も確かだった。
冬の寒気が、空きたてほやほやの壁の亀裂から、隙間風のようにびゅうびゅうと調子良く音を立ててやって来る、そんな場所で夜を明かし、あまつさえ敷布の一つも掛けなかったのだから、自業自得もいいところである。
寝入る時までその事に気付かなかったばかりか、起きてから盛大なくしゃみをしてようやく思い当たったなどと、最早笑えすらしない愚図ぶりだ。
ごほ、と咳を一つ吐いて、慣れた座り心地の椅子に深く腰掛け、気だるく額に手を当ててみた。湯は沸かないがしかし、と思う。
「七度ありますよ、パチュリー様。
御寝所で静養しましょ~」
「うー、面倒・・・」
快活に、それでいて若干頬を膨らませながら、傍らに立つ小悪魔が言う。
私はその言葉に目を奈辺へ向け、遺憾の意を最大限に主張するつもりで肩を落とした。
七度とはまた、よくよく私も数に魅入られているな、と思いつつ、横目で小悪魔に言う。
「ここで寝ててもよくない?」
「ダメー。
私、メイドさんたちにお薬貰ってきますけど、
お一人で平気ですか?」
「無理。一歩たりとも動けないわ」
どうせ何を言っても連行されるのだ、ごねておけば自分で歩かせてくれるだろう。答えが無いか、あっても曖昧な内容であれば、私の意図は必ずや伝わる。歩きながら、飛びながら思考することも私の嗜好。
それに、こういう時にこそ真に取り留めの無い思索ができるのだ。その過程と結論を記憶しておくのは私の精神であるから、例え九度の熱であっても変わりなく機能するわけである。
「了解です、じゃあ先にお部屋まで向って下さいね。
あとでお薬持っていきますよー。
もしいなかったらメイド長に報告の刑です」
「都合のいい解釈、痛み入るわ。
さすがに悪魔だけあって残酷ね・・・血も涙も無い」
皮肉の言い合いに聞こえるかもしれないが、事実その通り。これが私たちの文法であるから、どちらの言にも悪意は無く、また過度の善意もありはしない。
ともあれ意思は正しく達せられたようなので、若干火照った感覚のある顔を小悪魔の方へ向けてみると、薄く苦笑いする子供っぽい顔立ちが視界に映される。
「それ、これから看病してあげようっていう人に言う台詞なんですか?
っていうか、レミリア様の方が悪魔です。
さっきなんかパチュリー様、真っ青な顔でお食事してたのに、
あの方ったら『どうしたのパチェ』って心配するのかと思えば、
『顔が青いわ。読書が足りないんじゃない?』なんて。本読んでも風邪は治りません」
「ああ、レミィは解ってるわね、ほんと・・・、まぁ良い。
その条件、二十冊ばかり一緒に持ってきてくれるなら飲むわ」
「寝ててくださいってば」
気遣うように、言い含めるように。彼女はそう言った。だがそれに諾と首を振るのが、私にはどうも躊躇われるのである。
寝る。睡眠。その単語だけで憂鬱になれるのは、私が睡眠を無駄だと思っているからだ。
いや、睡眠そのものを無駄だと思っているのではない。
私の意図するところは、「睡眠には無駄が多い」と言うとニュアンスが近い。もっとこのプログラムを効率的にする手段がどこかに存在しているのではないか、という懐疑でもある。寝てる暇なんか無いのだ。
このシステムはキャパシティが有限であるモノには適合するが、そうでない者にとっては時間の無駄だ。毎日毎日、そう頻繁に精神を最適化する必要が、果たして私にはあるのだろうか?
私は夢に夢見る事が出来ない。矢鱈と精神ばかり強靭なせいで、夢を記憶の一部として据え置く事が容易に出来てしまう。
それは普通の夢とは違うのだ。
現と夢に、確たる境などあってはならない。だが私にはそれがある。夢が、自分の頭の中を見ているだけだという、確固たる自意識が存続したままに続行される。不確定性が失われた夢は、まるきりただの整理作業に成り下がる。
インプット・シャットアウト。時間などいくらでもあるのに、強制的に行われるデ・フラグ。
それはそれは、とてもとても退屈で、つまらないものなのだ。
だというのに。
なぜこうも、私の読書は邪魔されるのだ。
どうも奇妙だ、と思いながら、私を自室へと急かす小悪魔に応えるために立ち上がる。
と、少しふらついた。頬と、両手の指先が温かく、逆に足の爪先は冷え冷えとしているのを自覚すると、ああ私は風邪を引いているのだ、とぼんやりした頭で考える。
それもこれも、と責任を擦り付ける相手も思い当たらない。
補修の済んでいない図書館の壁から運ばれてくる寒気には悪意すら感じる。だが、だからといってあの門番の∞を無限以外まで一挙に狭める莫迦力を恨めば良いのかというと、仔細はともかく私の身の保全のためを思っての行為であることを知っている以上、極端に責める気も咎めるわけである。
では厄介ごとを私に任せて自分はひょいひょいと外出してしまうあの薄情な紅い友人を呪うべきか。彼女の奔放には慣れているが、友人であってもホームサービスを頼むのなら某かの報酬があって然るべきではないだろうか、と考えてみる。
思考は数秒で済んだ。結論は「無駄」だ。思考自体が無駄だったと言える。
あの紅にそんな事を言ってみろ、気紛れでまた何かやらかす。その尻拭いはおそらくあの二色達によって為され、言い出しっぺのとばっちりは必ずや私へ向かう。厄介事量産鬼に見返りを求めようという考えが既に過ち。
大体にしてあの無駄な寛容さだ、求めれば必ず応えてしまう。その程度の友達甲斐はある奴だ。だからこそ私に諦観が植え付けられるわけである。
彼女には自縄自縛の紅い鎖だけがあって、それが他の色の楔を引き千切る。彼女に近寄るものたちは、過去のしがらみや精神のどもりを全て解き解されて、やがて従順に、鎖に繋がれる事に甘んじる。それは一見、ただの奴隷のようだけれど、実際は彼女の鎖が長いから、しもべたちは自由に何処へでも行ける。主という支点を持つ事で、より幸せに羽ばたいていく事が出来る。そしていつでも、愛しの主、紅い吸血の姫の住まう館に、帰ってこれる。
それがしもべたちの幸せだ。喪失者と閉塞者にとっての楽園は、暖かい血の色で彩られている。
それはとても不気味だけれど、こんなに優しげな色は他に無い。だから彼女たちは何処からかやってくる。
優しいひとを目指して。
・・・思考がどんどんと横道に外れていく事を自覚していても、軌道修正のきっかけを掴むだけの気力も無い。自分では考えているつもりで、何も考える事が出来ていないのかもしれないな、と胡乱に思う。
ふと気付くと、小悪魔の姿が無かった。
どうにも、呆けすぎである。病状は芳しくないようだ。
が、いまだ私は手に書を持つことを忘れていない。つまり、自意識の存続はまだまだ正常に行われているということだ。であれば予定通り、意思が保たれている間に自室へと辿り着き、ベッドで安静にしているとしようか。本でも読みながら。
またぞろメイドに咎められるであろうが、知った事ではない、いや、言われずとも判っている、か。
軽く深呼吸をして、息を整えてから、ぼやけた頭で宙に浮く自分を思い浮かべる。すると、身体がふわり、と浮かび上がって、私はすぐ、眼下に迷路のように入り組む本棚が広がる景色を認められた。浮揚の魔法は正常に機能したようである。後は、魔法で風の流れを作り、のんびりとそれに押し流されていけば、労せずして図書館から出ることができる、という寸法だ。多少の不安材料として、外気によって流れに変化が生じる可能性が挙げられるが、その時はその時、自力で飛行すればよい。
視界はふわふわとした頭の中を如実に反映したマーブル模様で、ふとした勢いで世界の果てに辿り着いてしまえそうな気がした。それが錯覚であり、世界の誤認である事も自覚していながら、である。
そんな風に、私は、思考を纏めずだらだらと繋げ、己の精神のみにおいて、寄り道の楽しさを満喫していたのだった。根底では、早いところ部屋に着いて本を読みたいものだ、と思いつつも。
だがやはり、それがいけなかった、ということなのだろう。
体の調子が悪いのなら、大人しく運ばれていれば良かったのだ。
館のメイド長を呼べば、寝室まで自力で向う必要は無かった。
小悪魔に負ぶさるなりなんなりすれば、こんな日に紅魔館の歪んだ廊下を行く必要も無かった。
なのに私は優先した。体調を顧みずに欲望を重視した。そこが分かれ目という奴だ。
してみると、これは何らかのペナルティであるとした考え方も可能である。何に対してのどのようなものであるかは不明で、そも、そうであれば辻褄が合う程度の思考に過ぎない。妥当性は高いものの、不確定である。
矛盾が無く論理が整然たる様を呈すというだけの根拠で物事を断じるには、少々情報量が足りなすぎるきらいがある、と思った。この程度の問題できらいもミサイルも無いとも思うが。推理小説の探偵でもあるまいし。
兎に角、それは選択可能な行動のうち、最も危険性が高く、最も運動量が多くなる見込みの高いものだったのだ。
『禁じ手(ロストマージン)』に遭遇するという。
** 師走某日 水曜 昼
【駿足の水銀 縋れども背のみの逃げ水
蜃気楼に実る爛熟 竪琴を弾きて呼び寄せる】
成る程、これが日常だと思い込めれば、恐らくは厄日などという考え方自体が私の回路から消えてなくなるのだろう。
いくらこの館が異常の寄せ集めみたいな、造りがしっかりしているだけで内実はバラックと何も変わらないようなバラバラであるとしたところで、ここの所の事件の連続ぶりは異様だ。その異様さ自体に何かの意図、あるいは意味が含まれているのではないかと勘繰ってしまうほどに、兎に角おかしいとしか言えない。
そもそも事件が多いだけなら大した問題ではないのだ。大抵の事件は私以外の者によって知らぬ間に解決される。私は、メイドたちと親しい小悪魔がお茶の時間に持ち込む話の種としてそれらを伝え聞き、つくづく変な屋敷だと感心しているだけでいい。ここの住人は上から下まで只者ではない。
最近の異常の厄介な所は、ことの解決に私の力を要する場合が多い、という一点に尽きる。何故そう頻繁に私へとお鉢が回ってくるのかといえば、紅魔館館主並びにその忠実なる僕であるメイド長が不在の際に起こる場合が多いから、ということになる。
因みに、主従関係にある者同士を並び称すのは彼女らであれば構うまいという私の個人的判断からだ。何かとこだわりを見せる主と何事にもさっぱりとしている従者の二人は、見ていてとてもバランスが良い。それを例えて、貴女たちは出たての芸人みたいね、と言ってみた事がある。すると吸血少女は、芸人って何かしら、と涼しげに答えてから、瀟洒なメイドに、芸をする人ですわ、とにこやかに断定されて、ああ咲夜のことね、などと何故か納得していた。
実の所、漫才師と訂正するべきかどうか迷ったが、いずれも余談である。詳しく語る必要があるとも思わない。
連ねて考えるうちにも、私の生んだステンドグラスは世界を色分けしていく。
蒼く澄み渡る水の気配に晒されたガラスは、廊下に満ちる紅色を不透明の灰色で細切れにする。
紅色。天井、壁、床、余す所無く全てが紅い廊下は、一体何の血で染められているのだろうか?
広がりゆく紅いステンドグラス。
だがその一点、遠い遠い一箇所に、今日、本日の異常の主が、いる。
そこは、特例など認めず他と同様に七色のどれかへと区分される筈のそこは、
ゆらゆらと、不安定に色を変えていく。
この空間で、私の魔法の只中で、私以外に色を変える事のできる存在。
それも任意でなく不規則にバラバラに、七色のどれかからどれかへとフェードさせる変色のネオン。
そんなものは、幻想郷狭しといえど、たったの一人しかいない。
そいつへの速やかな対処の為に、私は喉を震わせて言葉を搾り出す。
【跳ね水 撥ね水 小石を弾きて彼岸へ連れ去るは
何処までも行け 何処へも往けない一里塚の湖面 幽玄の湛え】
一節を言い終え、乾いた喉に軽い痛みを感じて、けほ、と擦れた咳をする。あまり強い咳をしてはならない。喉を、引いては気管支を刺激するのは賢くない対応だ。平時であれば声など出さずに腹式呼吸の一つも始めるところだが、今は一刻も惜しい。
既に肺はパンパンに膨れて腫れ、私は酸素を吸うというそれだけの無意識行為が不能になっている自分を恨めしく思いながら、また別の部分で考え事をする。常に何か考えていないと不意に途絶してしまうかもしれないという喜ばしくない予感が脳裏をよぎったからだ。
彼女は・・・そう、私と彼女は似ている。
いや、似ているなどという言葉は、あらゆる場合に用いる事ができる為、ここで使うべきものであるかどうかと問われれば首を捻る事になろう。存在の大前提として『在る』ことが確定している時点で、私はあらゆる世界の存在と似ていることになるのだから。
だから言い直すなら、彼女は私と相似している、となるか。ベクトルや規模の差こそあれど。
相違点より見て、最も似通うと断じる事のできる部分は何か。
それは、徹底性だ。
私は知識を得る為の知識を得る為の知識を得る為に知識を得ようとしている。
何故なら私は『知識』の代名詞になるべき者だから。曖昧な風物詩とは訳が違う。
そして彼女もそうなのだ。
彼女がなるべき代名詞、それはズバリ、『破壊』である。
彼女は破壊する為の破壊に必要な破壊を破壊する事の破壊を破壊する破壊。
破壊の代名詞。
つまりは、破壊という言葉は須らく彼女の名と言い換えられる、という存在。
いや、彼女ほどの厚みを以ってすれば、その順番すら破壊できるのかもしれない。
破壊とはつまり『フランドール・スカーレット』のことであるという説明を万人が一重の違和感も無く受け付けられる、という。
【留まり 悠久に凝り腐れる 死海への無窮なる呼び水】
咳。胸と背が肺に圧迫されて痛むのを感じる。だが今止まるわけにはいかない。激痛は取り返しがつくが、破壊は否だ。
彼女の名はフランドール。形は『破壊』で、種は吸血、魔法はその法則をすら破壊する所以で利用できない。
彼女の破壊力は物理精神の具体的な破壊から、定理法則の抽象的な破壊までその大小を一切問わず全てに及ぶ。
今も、彼女はひたすらに破壊している。彼女という揺らぐ変色のライトが紅色のステンドグラスを裏側から照らすと、どれだけ強力な紅であっても彼女の速さよりは相対的に遅く、逆行してより遅い別の色へと変わっていく。紅がコナゴナにされて二つの橙へ。
“超加速世界の七色(スピードミキサー)”。
その真紅は、彼女の姉の深紅をすら凌ぐ。
だが彼女とて無敵ではない。何故なら彼女には破壊の後に来るべき再生・創造が欠如している。
速すぎるのだ。
破壊から破壊しか生めない。破壊による変化は彼女が意識して起こした現象ではなく、彼女の破壊が一次的なものであったことによる自動的な変質だ。彼女は色を別に変えようとしているのではなく、ただ紅を破壊しているだけ。
だから彼女は自分を壊さない。自分を取り巻くルールを部分的に残しておく。
自分を壊した後、そこに残っていたのが自分じゃなかった場合、彼女はそれを元通りにする事が出来ない。彼女の破壊は単純な解体とは違い、本当のバラバラにする事を言うのだから。その切断面はギザギザで、繋ぎ止めていた神経はズタズタになっている。
彼女の後ろには窒素一つ残らない。
あるのは混沌だけだ。
【染み渡れ 失楽】
故に、彼女は弱点を持つ。吸血種であるが故の弱点が、彼女を吸血鬼たらしめる為だけに存在している。
この魔法さえ発動させれば、彼女は私に勝つ事は出来ない。
私の魔法は終節を切った。水という水を我が掌中で司る為の魔法が。
七極世界、ステンドグラスワールド。
本日は水曜。
空さえ映す大海は、水平線の先まで続く―――。
「能書きが」
ずぅん、と。
耳に届いたのは彼女の声だった。聴こえる筈の無い声。でも彼女になら聞かせることのできる声。
だが彼女はまだ遠い。私のところにまでは程遠い。どれだけ上手く空間を破壊して距離を省略できる形にしたところで、初めから歪んでいるこの廊下を一足飛びに省くのは至難の業だ。
片や私の魔法はあと一言で済む。そのタイムラグは私に大きな勝算を弾き出させる。
間に―――
【 ― ベリーインレ 「なッがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいッ!!!!!!」
―――合わなかった。
爆音だ。
生き物の発する声とは思えないような。
あたかも、押し寄せる大波を全て弾き返し、更なる大海嘯を呼び起こすかのような怒号。
いいや、喩えなどではない。
それは幻想を吹き散らす破壊の祝詞だ。
出来の悪いメタファでこそあれ、それは紛れも無い『現実の幻想』。
音さえも色に変える筈の私の世界を、縦横無尽に駆け巡る轟音。
波長という波長を普く網羅した「全音」の波が、音の無い筈の世界を浸食する。
呼応してギリギリと喚き散らす世界。
それは床板の軋む音であり、
数少ない窓ガラスの粉砕する音であり、
何処かの部屋の天板がへし折れる音であり、
空気が痛みに嘆く音であり、
地盤が激しく揺れ動く音であり、
館の寿命が縮む音だ。
そしてその全てが織り成す、破壊と出会ってしまった事に対する最大限の恐怖、その発露たる断末魔。
私は世界全てが発する大絶叫に揺さぶられ、己の魔法を締めくくるどころではなくなった。
だが、自意識を持続することに努めていた私の視界に、更なる絶望を意味する映像が飛び込んでくる。
彼女のか細い腕の先、人形よりもきめ細かい肌に覆われた手の作る、小さくて儚げな拳骨が、
何も無い空間にそっと振り下ろされ、何かを小突くように、また何を叩くでもなくぴたりと止まる、
その動きがやけにゆっくりとしたものに感じられたのは、果たして私の感覚の異常か、それとも彼女の随意によるものか。
いずれにせよ、失神寸前の私にそれを止める術は無く。
一拍の間を置いて、彼女の周りが撓んだ。
先程の全音の波とは真逆、無音の内に、その波紋は私の生んだ七極世界へと伝播する。
確認できる視界の端から端、隅から隅まで重箱を突くが如く、それも一瞬で行き届いた歪みは、それぞれの極端まで到着すると形を潜め、一時、ステンドグラスワールドに沈黙が落ちた。
そして、更なる一拍の後。
途端、彼女を中心に、ステンドグラスが割れ始める。
依然、音も無く。
割れていく。割れていく。割れていく。
壊れていく。
私の魔法が、
私の七色が、
私の世界が、
どれ一つとして差別区分無く、片っ端から粉微塵にされていく。
無音のままに消えゆく。
隅っこから順番に、私の居場所を終着点にして、
秘密を一つ一つ詳らかにするように、
英雄の伝説が千里を駆けるように、
未開の土地が切拓かれるように、
階を段々と上り詰めるように。
連なるガラスを叩き割るように。
私が複数節の詠唱を経て紡いだ七色区別の世界は、
少女の何気ないノック一つで、呆気なく消え失せたのだ。
―――フランドール・スカーレットが怒号してから、数秒も経たぬ間に。
** 師走某日 水曜 昼
がしゃん、と軽い音を立てて――それだけが唯一つ音を立てて――ステンドグラスの最後の一枚、私を象徴する紫紺に彩られたそれが、床板に叩きつけられて、割れる。破片を、粒子一点足りと残す事無く。
同時に、作り出していた世界を全て破壊された私自身も、その凄絶なまでの破壊の圧力と、強大な衝撃を受けた精神が、それ以上浮揚の魔法を維持できなくなったが為に、割れ散った紫色の玻璃と同様の末路を辿る。
脱力した体は着地の衝撃を緩めることも許さなかったが、私はそこから物理的な痛みを露とも感じなかった。やはり彼女の破壊波紋に勝る爆動など無いのだ、という確信。
とは言え、この痛みは確実に体を走っているだろう、と横倒しになってうううと呻きながら思う。ぴりぴりと各部が痺れて動かない事から、無痛のままでもそれは判った。
あの『破壊力』の余韻が消えた頃、私はその痛みに悩まされるのだ。筋肉痛なんてレベルでは済まない。
いや無論、木端微塵に砕けたりはしないけれど。
世界を七色に彩るフィルタがすっかり剥げ落ちて、私の眼はいつも通りの歪んだ廊下を捉えている。床や壁面に不自然な穴がぽっかりと空いていたり、窓枠に何も嵌っていなかったり、そこから静かに真冬の冷気が吹き込んできたりしているが、概ねいつも通りの外見である。
一時に襲い掛かった数度の衝撃を乗り越え、私は辛うじて意識の淵に精神だけが引っ掛かっているような憔悴ぶりを呈して寝転がっている。廊下で眠る趣味など無いが、致し方あるまい。身動き一つ取れないのは、私の所為ではないのだ。
その窮状にあって、私は聴いてしまった。
コツコツと、軽やかに靴の響く音色を、床を走る微かな振動から感じ取ってしまった。
慄然とする私を余所に、靴音がぴたりと止まる。
「――」
最早見上げる必要も無かった。彼女がそこに居ることが、とてもとても自然な事に思えたからである。
どの道、頭を持ち上げる余力も無かったわけだが。
「あっちゃー・・・勝っちゃった」
甲高い、子供特有の声色が届く。
彼女――フランドールの声だ。その響きは楽しげで、それでいて少し意外そうな色を含んでいた。
その言葉を、逆に私は意外に思う。
勝っちゃった、だと?
「参ったなー、どーしょ。
うーん・・・まさか勝てるとは思わなかったんだけどなぁ。
雨降らすのだけで疲れちゃったのかな、げほげほ言ってたし」
フランドールの独り言を聞きながら、子供は元気ね、と他人事のように思った。
(というか、気付いてるなら止めてよ・・・)
懇願しようにも喉を動かす力が足りない。私はそのまま黙りこくって、誰か救助が来てくれる事を信じて待つ。
「勝ったあとどうするかなんて、考えてないよぉ。
半分冗談だったんだけど・・・むー。
咲夜もいないみたいだし、紅白んとこ行こっかなぁ。
なーんて、雨降ってるから行けないんで・・・って、うわ、雨止んでる!
てことは、え!?
ちょっとパチュリー、ホントにくたばったの?」
・・・どうやらこのお嬢さんは、私が死んだフリでもしているのだと思っていたようである。実際、間違いではないのだが、今は死んだフリぐらいしかできることが無いからだ、とは思ってくれていなかったわけだ。
再び近寄る足音がして、すぐ近くに暖かい気配を感じる。と、投げ出された私の左腕が、すっ、と持ち上げられ、手首にすべらかな感触を覚えた。
「・・・脈拍、よーし・・・間隔短いけど・・・。
えー、次に眼球運動・・・」
無駄に本格的なのね、と告げようにも以下略である。
私が一応生きている事は、瞼が時折開閉している所を見れば判ると思うのだが。というか脈をとった時点で判るだろう。
要するに、これはまだ彼女の遊びの範疇なのだ。知識を実践してみたい、という、それだけの。その外見、背に生やした禍々しい翼を除くそれに即した、正しく児戯と呼ぶべき行為。
微笑ましく、見守りたいという母性も沸かぬではないが、現状、私はそれどころではないので、ただ沈黙するばかりである。
それに母性も何も、彼女は私よりも年上であり、彼女にしてみれば、私は遊んでもらっている方なのだ。遊びというより、弄びに近いものがあるのは、彼女が基本的に手加減というものを理解していないから。
かつて、あの紅い友人は、世紀を軽く飛び越え生きてなお幼い友人は、同様に幼い彼女の妹を、その存在を長らく隠蔽してきた。その理由は未だ私の知るところにないが、一度、何かの折に触れて彼女が話してくれたことがある。
フランドール・スカーレットはずうっと昔、私がこの世界に顕在するよりも遥かに古い時代に、己を壊してしまった。
それはちょっとした好奇心によるものだったという。自身がそれと語ったわけではないけれど、我が友人が推察するに、一番手始めに壊せるものだったからだろう、と。
単一の生命にとって、最も卑近な存在は自分である。人間の赤ん坊が泣き喚くのは、自分の持つ機能が問題無く作用してるかどうかの確認作業に過ぎない。声を出してそれを聴く、という音波の入出力に関する検査。
悪魔の妹が顕在した瞬間、どれだけの規模を保有した存在として誕生したかはわからないが、単一の生命存在である限り、必ずそこには自分という存在の確認作業がある筈である。
その時に、彼女は自分を壊したのだろう。己の持つ資格、破壊の代名詞たるべき資質を確認せんが為、自分にとって最も近い存在を対象にし、力を発揮した。
結果、彼女の精神は、姉と同じく絶対者の傲慢を有す筈だったその王者のココロは、その構成を大幅に変えざるを得なかった。
傲然と全てを見下すこともなくただはしゃぎ回る。その力の異常性を理解しきれずに、上に立つことで己を律する事を知らず、全てと対等に暴れまわろうとする。書に触れて知識を得ようとする。
姉とは我儘のベクトルが違う。気紛れと、気の迷いの差だ。
だから彼女は、ちょっとおかしい。
何もしなくてもいいのに何かしようとする。実は全てを知っているのに、表向きは何も知らないかのように振舞うのが、紅い悪魔のあるべき姿。なのに彼女は、本当に何も知らない上に、それらをいちいち知ろうとする。王者には広大無辺な知恵など必要ないというのに。必要なのはカリスマだけだ。
だから彼女は隠される。閉じ込められる。何処に行く必要もないのに、何処へでも行けてしまうから。
だから彼女は、彼女の姉より、少しだけ優しい。
無駄なことを、無駄と知らずにやってみて、最後まで無駄だったとは思わないから。
その無駄だけは、絶対に壊す事は無い。それは彼女の原始が生んだ無駄だから。
暫くあれこれと人の身体で生存確認らしきお遊戯をしていた彼女だったが、私の顔色が刻々と青褪めていくのに(ようやく)気付いてか、私をその小さな背に負ぶってくれた。
「まずはこの廊下を抜けて、その後は・・・うーんと、取り敢えずメイドに引き渡そう」
瞬時、引き渡すという言葉のニュアンスに若干不安を覚える。しかし、そこはフランドール・スカーレットの言うことであるから、額面どおりに受け取っていては精神が幾億あっても不足になってしまう。
私は黙って、彼女にされるがままでいる。
「よっし。
それじゃあひとっ飛びに」
(ひとっ飛び・・・?)
またもや不安が浮かび上がる。
が、元よりそれに異議を申し立てる事の出来ない私は、背負われていつもより若干高い視点で空ろに見えていた世界が、更に一際高く、ほとんど俯瞰するような形になっても、ただ黙っているしかない。
今から自分の身に起こるであろう不幸を予見できていても、ただただ、沈黙してそれが訪れるのを待つしかない。
(待って、そんな、そのまま飛んだら――)
どれほど切実に心中で叫んでも、全ては無駄なのだ。
憾むなら、ひ弱な自分の身体を憾むより他無い。
そうして、フランドールの楽しげな子供っぽい掛け声が聞こえる。
「れっつら、ごーーーーーーーーっ!!!」
ところで、この世には慣性の法則というものがあるが、もう、皆まで言う必要もあるまい。
負ぶさった姿勢である為、耳元近くで響いたその可愛らしい声音が、私には死神の呼び声のように聞こえた。そう言えば、恐らくは大多数の人物が共感を得る事ができるだろう。次の一瞬に私を襲った、あまりといえばあまりの仕打ちについて。
具体的に、かつ簡潔にそれを記述するならば、加速を無視してトップスピードで飛び出した暴走少女は、その紅の速さについていけなかった哀れな紫色を最初の一瞬で振り落とし、紫つまり私は数メートルの上空から転げ落ちて、したたかに全身、特に頭部を、既に壊れ果てたぼこぼこの床板に打ち付けられた、ということだ。
ギリギリのラインで、意識のステージにしがみ付いていた私の精神は、振り落とされた私の身体に倣うかのように、いとも容易くころりと転げ落ちて。
遠のく意識の中で思う。
これが彼女の力だ。
「破壊」と書いて「フランドール」と読む、
或いは「フランドール」と書いて「破壊」と読む、
そんな圧倒的な絶対性。超々高速の紅色。
破壊と呼ぶより他無い、それ以外の名の可能性を完璧に破壊する能力。
甘かったのだ。そして間違いだったのだ。
今日、一人で館内を歩くなどということ、それ自体が。
ただでさえ病弱な百年程度の魔女が、あろう事か風邪を引いたまま、よりによって破壊の権化に克とうなどと。
それこそ、及びもつかない幻想というべきものだ。
そんな夢を見るから、こんな目に遭うのである。
夢は無駄だと自覚していたにも関わらず。
全くもって、無駄な努力をしてしまった。
その挙句に何だか色々なものを破壊したような気もする。
例えば、小悪魔との約束を破ったし、己の体調をこれ以上なく壊した。
悪魔の妹が脱走を試みた時は、何は無くともそれを阻止するという友人の依頼も十全には果たせなかったのである。
今日は本当に、彼女と一緒に、破壊の限りを尽くしてしまった。
なんとも困り果てる話だ。私は、破壊なんて無駄なことをやっている暇があれば、本を読んでいる筈なのに。
無駄な水曜だったが、この曜日を壊してしまうには、彼女の力を借りるしかない。彼女とてあの紅色の妹だ、狭量なわけもなく、当然のように手伝ってくれるだろう――その他の、様々なものをついでに破壊するだろうが。
意識はより一層薄らぐ。
願わくば、私の顔色が蒼を通り越して、衣服と同化する紫に染まる前に、助けが来ますように、と最後に祈って。
本日の、意識を閉じる。
ああいや。待て待て、もう一つ、思い残した事があった。
失神も、やはり、時間の無駄だ―――。
<ブギーマジックオーケストラ・中 了>
こうも思考を酷使するからこその魔女なのでしょうか。
それともどこぞの黒白なら私はそんな面倒なことはしないぜとでも言うのでしょうか。
ひそかに楽天的な口調の小悪魔に萌えつつ明日を気長にお待ちいたします。
それを辿って、口の中で声は出さずに朗読してみると、不思議なリズムを以ってすらすらと読み進められるのが楽しい。
そんな読み方をするのは私だけだろうと自嘲するのですが、パチュリーの深遠な知識が紡ぐ言葉遊びのように、私には思えてならないのです。
無駄?
いえ、何かにつけ理屈っぽいパチュリーは無駄と分析するのかもしれませんが、きっと心のどこかでは、有意義な日に思っているのではないのかな、と。
独善的解釈なのかもしれませんが。
そしてこの不思議な言葉の流れが、知を冠する少女を書き表わすのになんとしっくりくる事か。
九曜氏、c.n.v-Anthem氏、そして作者様の深遠はどこまでいっても見えそうにありません。
さて木曜日はどんなオーケストラを聴けるのでしょうか。
楽しみにお待ちしています。