―――それは、寒くて暖かい夜のお話。
「……本当に、それでいいのか? 他にも道はあるだろうに……」
人里の外れ、人気の無い竹薮にひっそりと建つ山小屋。
質素な板張りの床で居住いをただし、向かい合う二人。
限られたものしか訪れることの無いその場所で、少女はこの家の主を諌めようとする。
歴史と人間の守護者、上白沢慧音。
死を知らぬ紅蓮の大鳳、藤原妹紅。
無言で黙想する妹紅を前に、慧音は言葉を続ける。不器用ながら、必死で想いを伝える真摯な瞳。
されど、その視線を拒絶するかのように彼女は目を閉じ、桜色の清楚な唇をぎゅっと閉ざしたまま正座を崩そうとはしない。
これまで……何度も、何度も、それこそ千年の昔から続いてきた宿業。
あのとき、あの場所から始まった―――蓬莱の連環。
絡み合う二色の鎖はもはや、余人の干渉を拒むほどに、堅く 固く、難く 硬く、結びつき合い離れない。
―――たとえ、その絆が 憎悪の漆喰で繋ぎとめられていたとしても。
「…………そろそろ、か」
消沈する慧音をよそに、静かに目を開き、妹紅はすっくと立ち上がる。
そのまま彼女の横を通り過ぎ、家屋の裏手にある井戸の所へ行く。
「あっ……妹紅」
慌てて後を追う慧音。
裏口から表に出て、眩しい光に気づき、空を仰ぎ見る。
夜空には、おおきな おおきな
まあるい まあるい
完全なる、狂気の真月。
井戸の前でただずんでいたのは、一糸纏わぬ姿となった―――白い高貴なる姫君。
惜しげもなくその裸身を月光に晒し、手桶を手繰り冷たい清水を満たす。
ざばあぁぁ―――
頭から御水を被り、禊を行う。
ぽたぽたと、白銀の髪から雫が伝う。
何度か繰り返し行われるその神聖な儀式を、呆……と慧音は見守る。
―――美しかった。
――――――満月に騒ぐ、己の血が……凍りつく程に。
……いか程の刻が過ぎただろう。気がつくと妹紅は濡れそぼる裸体に、白い衣装を羽織っていた。
―――あれは……
見覚えのある白絹だった。
それもその筈、その白い衣装は……慧音が彼女と出合ってから、百年目の記念に贈った『白拍子御装束』なのだから。
通常の白拍子と違い、全てが白一色に統一されたその衣は、あらゆる破損を―――敗れた歴史を―――無かったことにする、慧音渾身の作品。
それは、繰り返される満月の夜、ひそかに想いをこめて少しづつ織り上げた……妹紅のためだけに作られた特別な衣装。戦いの中、死を迎えるたびにボロボロになる彼女に、自分がしてやれることがないかと悩んだ末の贈り物。
しかし、嬉しそうに受け取った妹紅は―――
『……ありがとう、慧音。……とても嬉しいわ。
でも、これは最後の最後―――ここぞと言うときまで、大切に取って置くね。
あなたの想いのこもったこの衣装、決して軽々しく着ていいものじゃないわ』
『そんな……これはそれほど大したものでもないんだ。気にせず使って欲しい』
こちらの嘘を見透かしたように、彼女はくすりと笑い、
『ううん、いいの。
―――これは、私のわがままだから……
でも、きっと――――――これをくれたことを、あなたに感謝する時がくるわ。
その時は…………ありがたく、使わせてもらう、ね?』
微笑みながら礼を言う妹紅。
……あの時は、こんなことになるなんて…………
――――――私は、馬鹿だ。
彼女が、なにを求めて、ここ―――幻想郷に来たのか、知っていながら…………………くっ!
視界が霞む。
朧げな人影が、こちらへ歩み寄り、そ……と私の頬を撫でる。
「…………泣かないで、慧音。
大丈夫よ、すべてが終わったら……………その時は、ね?」
小柄な体の、ちっぽけな人の子。されど、その中身は私などよりも―――
す……と身を引く妹紅。
失われる頬の温もり。
名残惜しげに、数瞬見詰め合う。
けど、彼女は――――――どこまでも、気高く、潔い。
そう、未練がましく彼女を目で追う―――私よりも。
バサッ……
身を翻し、頭上の月を見上げる妹紅。
「……………」
その背より、噴き上がる焔の渦。
炎に包まれ、体に残る水滴が瞬時に蒸発する。
「…………」
音も無く、鳳凰は具現する。
高まる熱気、燃え滾る血潮。
もはや、彼女の目に…………私は映っていない。
――――――その目に宿すは、ぬばたまの姫。
彼女から、全てを奪い……永遠という名の呪いを与えた、黒の鏡像。
「……………………………輝夜。今宵は、貴様にとって――――――」
暗雲立ち込める山々の方角に弾け飛ぶ、一条のほのお。
はっと我に帰り、私は妹紅の隠れ家の門扉へと駆け出す。
「妹紅! 待て!! 私も……連れてってくれ。
手出しはしない。けれど―――――――見届けさせてくれ。
…………最期まで」
隠れ家を囲む、垣根の門扉を一歩外へ踏み出すと、そこは―――
しんと静まり返った清浄なる無人の結界。樹木のざわめき、夜鳥の羽音、虫どもの鳴き声―――
何時の間にやら降り出した白いため息は、全てを覆い隠し、無かったことにせんと欲す。
寒さに身を震わせながら、その身をかき抱く慧音。
振り返る事無く、潔く歩む彼女の後姿を幻視する。
その純白のいでたちは、まるで彼女が世界に飲まれ……消え逝くような幻想を慧音に抱かせる。
「……………………妹紅」
半獣の少女は想う。
――――――でもね、妹紅。たとえそれが、どんなに歪なものだったとしても……
語りつくせぬ想いは、無意識に慧音の唇から発せられる。
「―――――貴女は、いま、ここに…………生きているのよ」
妹紅と共に帰還する願いを込めて―――慧音は門扉をそっと閉め宙を舞い、凄まじい速度でその場を後にする。
ぴしゃり
日常の門扉が閉まる音。
同時に、今宵繰り広げられる“ 狂気の宴 ”へと続く――――――――
白き門は開かれた。
―――もう、後戻りは出来ない。今宵……
全てが始まり、全てが……終わる。
もう一つの門は既に開放されている……
白き姫は、黒き姫を追い焦がれる。
譲れぬ願い、見果てぬ夢を胸に