―――それは、月の綺麗な夜のお話。
「……今夜は遅くなるかもしれないから、二人で留守番頼むわよ」
竹林の奥深く、ひっそりと建つ古風な家屋。
何故か、いつもは―――騒々しいぐらいに敷地内に溢れる妖兎たちも、今宵はひっそりと寝静まり、屋敷で活動している兎は私と鈴仙の……ふたりのみ。
輝夜様と永琳さま。
私と鈴仙。
四人で囲む、いつも通りの……でも、何かが違う食卓。輝夜様はこちらを見ようともせず、ただ黙々と箸をすすめる。いつもは鈴仙に嫌いな人参を押し付けて、恩着せがましく尊大な態度をとるわがままなお姫様。私や鈴仙、妖兎たちを『イナバ』とひとくくりに呼び、無理難題をふっかけ……意地悪な笑みを浮かべる普段とは、まるで別人のよう。
人参を頬張る鈴仙に向け、用件を言った永琳さま。答える鈴仙。
「ふぇ? モグモグ……ごくん。 どうしたんです? 師匠? お出かけですか、こんな時間に」
「…………ええ。 ちょっと姫と――――――久しぶりに、山の上でお月見でもしようかとおもってね」
にこり、と笑いながら言葉を続ける永琳さま。
輝夜様はちらりと言葉を交わす二人を見やり、すぐに目の前の食事を片付けることに取り掛かる。
「へぇー。 山の上でお月見ですか。風流ですねー。私たちもご一緒しましょうか? 宴の準備ぐらい出来ますよ?」
永琳さまと輝夜様。二人が互いに目配せをし、軽く頷くのが見えた。
一瞬のことだから、人参に夢中の鈴仙は気づかなかったけど……
あれは――――――
「……いえ、気を使わなくてもいいわ。 ―――今夜は二人きりで過ごしたいの。 それに……ちょっとした知り合いと待ち合わせしてるから、賑やかなのはまた今度……ね」
「? そうなんですか? でもみんなで騒ぐほうが楽しいですよ?」
「……彼女は、そういう馴れ合いが嫌いなひとだから。 すまないわね、――――――レイセン。……そういうことだから」
苦笑いしながら鈴仙に答える永琳さま。
……? いま、たしか…………
「ふぅん。 変わったひとですね、そのひと。
わかりました! 永遠亭の留守はお任せください!! 私が居る限り、黒いの一匹入り込ませません!!!」
「ふふ、頼もしいわね。
―――じゃあ、留守のことは貴方たちに頼んだわよ? ……てゐ。うどんげをよろしくね」
優しい目で鈴仙を見ながら、永琳さまは後事を私に託す。
……なにか、おかしい。
もともと考えてることのよくわからない方だが、いまのやりとりは―――
がちゃん。
椀を乱暴に置く音が響く。
見ればいつの間にか食事を終えた輝夜様が、じろりと永琳さまを睨んでる。
―――漆黒の昏い瞳。
永琳さまには悪いが、私はこの瞳を見るたびに―――――――――――――――本能的な、恐怖を禁じえない。
それは……ヒオウギの木に生る実の呼び名。あのひとの名前通り、輝くような夜の色。恐ろしいまでに昏い色―――
ぬばたま
と、永琳さまが以前教えてくれた。
普段は見せない、鈴仙などは気づきもしない。けど……時折放つ昏い、その禍々しい視線に射すくめられるたびに…………私は息が止まりそうな程の“狂気”を感じる。
月の兎たる鈴仙。その赤い瞳は狂気へと人を誘う。でも、輝夜様のソレは……そんなものとは、比較にならぬほどの――――――
……どうして、永琳さまのようなお優しい方が、あのような……『昏い姫』にお仕えしているのだろう。
問うたことは、無い。私にはいつも優しく接してくれるあの方のこと、何気なく聞いてみれば、案外簡単に教えてくれたかも知れない。 けれど……結局、私は一度もその話に触れることはなかった。
もちろん……聞きたい気持ちはあった。でも、それを聞いてしまうと―――
なにかが 終わってしまうような 気がして
―――永琳さま。たとえ貴方にどんな思惑があろうとも、私はあの時の誓いを、決して――――――
† † †
あの時も、寒い、寒い 月の綺麗な夜だった。
火照った体からは、まるで魂が抜けるように 白い靄が立ち昇り、
降り注ぐ月の白光は、容赦なく弱った私の目を貫く。
立ち並ぶ緑塔の群れが……墓地に刺さる卒塔婆のように、ちっぽけな自分を見下ろしている。
竹林の中、瀕死の兎が横たわる。
健康に気を使って長い時を生き、妖兎まであと一歩。という所で私を蝕んだ黒き病魔。
高熱を発し、徐々に死に行く体を……無念の思いで見続けることしか出来なかった私。
朦朧とした頭に響く、足音。
―――何かが、来る。
外敵の危険すらもう頭に無くなり……竹林に無防備な姿を晒す私。純白だった自慢の毛並みは黒く染まって鴉のよう。
そんな、死を待つばかりの、無様に喘ぐ兎の前に―――運命の白い女神は、突如として現われた。
「地上の兎、か。……妖怪化まで、あと一息…のようね。
本来、この地にゆかりの無い私が関知することでは無いけど……」
薄目を開けて、朦朧とする視界のなか…私は白い人影を見た。
「……放っとけば、朝日を待たずして死ぬ、か。
ふふっ、生きたいと願う幾多の命を奪ったこの私が……たかだか一匹の兎に情をかけるなんて、偽善もいいところね。
いくら、姫のためとは言え……あれは、私自身が望んで犯した罪。この程度で償われることなど―――あろう筈が無い。
―――でも……」
この頃の私は、今ほどの知性も無く、年を経たとはいえ……ただの兎に過ぎなかった。言ってることの…どれだけが理解できたのかも、怪しいものだ。
しかし、この後に続く言葉は……今、現在に生きる……私の存在の奥深くに……
未来永劫、決して消えぬ……尊き意志と共に刻まれた。それは――――――
「地上の兎よ。 貴方は――――――
―――その言葉に弱々しく、だが…確固たる意志を込めて頷く。
にこり、と微笑む白い女神。
「ええ。―――確かに聞き届けたわ。その願い。
ちょうどレイセンにも、共に生きる相方が必要だと思ってたところだし―――
ふふ……もしかして、貴方には……幸運を呼びこむ力があるのかもね」
「……よし、貴方の名前も浮かんできたわ。
――――――これから……レイセンをよろしくね?
“ てゐ ”
† † †
「…………いつまで、無駄話しているの、永琳。
イナバも……五月蝿いわよ? 少しは黙りなさい」
不機嫌に言い放つ輝夜様。
いつのまにやら、その手には小さな鍵が握られている。
古風な造りをした、真鍮の鍵。
白い月光を凝縮したようなそれは……とても綺麗で、でも―――どこか冷たく、不吉な輝きを放っていた。
これまで、あんなものを持っている所を見たことは無い。
……いったい、あれはなんだろう。持ち前の好奇心が首をもたげてきた。
私はこっそりソレを盗み見る。
じっとその鍵に向けられる視線にに気づき、輝夜様は……ぞっとするような、あの表情で私に告げる。
「………この鍵が、気になる? ……教えてあげようか、イナバ」
――――!!
身を震わす不吉な笑顔。いけない―――アレは よくないものだ―――今夜の輝夜様は、どこか
永琳さまが、すかさず私の前に割ってはいる。
「姫! そろそろ出立せねば、約束の刻限に。
うどんげ! てゐ! 後のことは、貴方たちに任せたわよ。一人では耐え切れなくても、二人なら……きっと……大丈夫だから。
―――さぁ、参りましょう姫。 私は……どこまでも、お供いたしますわ」
ふん、と詰まらなそうに鍵を仕舞い込む姫。一瞬、悲痛な面持ちで主を見つめる永琳さま。
―――よくわからないが、また私は……永琳さまに助けられたような気がする。
食事を済ませ、奥の部屋に篭る二人。
今まで感じていた重圧が解かれる。
手には、べっとりとした汗。自慢の耳は、まるでしなびた大根のように、力なく垂れ下がっていた。
先程のやり取りになにも感じなかった鈴仙は、のんきに鼻歌など歌いながら食器を片付けている。
…………ふぅ。
ため息と共に少し、心が楽になるのを感じた。―――そう、鈴仙は、あれでよい。
物事を深く、慎重に考えすぎてしまう自分。楽天的で、まわりに和らいだ空気を振りまく鈴仙。
合わなさそうでいて、この上なくお似合いの二人。
いまならば、出合った時の永琳さまの考えが分かるような……気がする。
† † †
暗い部屋の中、二人は明かりも付けずにただずむ。
障子のむこう、ぼんやりとした月明かり。永琳に背を向けながら、輝夜は投げやりに呟く。
「どうして邪魔をしたの、永琳。たかが兎の一匹や二匹。最期の宴の前に、血祭りに上げてもいいんじゃないの?」
「……姫。軽々しく、そのようなことを……仰らないで下さい。たかが兎といえど、いままで共に暮らしてきた家族ではありませんか」
「……家族? ふ、ふふ……くふふふふ………あはははははははははははははははははは…………
家族!! 永遠を生きる私たちと、容易く死んでしまう小さき命が? 同じ? 同じなの!?
―――ふふ、永琳。貴方……随分と、くだらないことを言うのね。
面白すぎて――――――――――――――――――――殺してやりたくなるわ」
「…………出過ぎたことを言いました。申し訳ありません…………姫」
俯きながら、謝罪する永琳。それを気にした風でもなく、背を向けたまま、輝夜は言葉を続ける。
静かな声色で。
「―――――――永琳。アレを出しなさい」
輝夜がソレを求めることを―――予見していた彼女は、諦めたようにその言葉に従う。
「……………………………仰せのままに」
常に持ち歩く、彼女の弓。
――――――星天弓の鏃をひねり、先端を取り外す。
外した鏃を右手に持ち、掌中に収める。
「――――――くっ!!」
思い切り握りこむ。
当然のように手の平を貫く鏃。
星をも堕とす、その鏃の力が永琳の全身を駆け巡る。
「…………」
苦鳴ひとつ上げずに耐える永琳。その手からは紅から変質した、どす黒い血が
ぽた…
ぽた……
と、零れゆく。
「早くなさい。永琳」
「…………は、い」
流れ伝い、畳に染み込んでいく黒。永琳はそのまま輝夜の元へ歩く。止め処なく溢れるソレを愛しげに撫で取り―――
ぺろり
と舐める。
艶かしい笑みを浮かべ、桜色の唇を黒く染める輝夜。
苦痛の中、恍惚とした目で主を見つめる永琳。
―――背徳の儀式は、輝夜の詠唱により完成を迎える。
「―--―‐―-―――---―-――-」
足元より湧き出る影。
黒よりなお昏く、漆黒の夜の帳が輝夜の全身を覆う。
周囲の夜闇を圧倒するソレは、逆巻く竜の姿をとり、主の中に吸収される。
―――――――――
――――――
―――
昏い
夜。
禍々しい色に染まった唐衣裳装束。
それは ぬばたま
黒一色のいでたち。夜空の具現。夜が深ければ、深いほど―――月は―――
唯一白い、その美しい面は――――――夜空に絶対の孤独をもって君臨する。
――――――輝く満月のように。
† † †
しゃあああ―――
襖が開く音に気づき、私は…………あ、ああ、うぁ…………
昏い、姫がいた。
そこに居るだけで、魂すら消し飛ばし、貪欲に啜る―――人では無いモノ。
―――駄目だ、見てはいけない――――――
必死で怯えを隠す私。なのに―――
「あれー? 輝夜様衣替えしたんですか? いいですね! 凄く似合ってますよ!!」
…………鈴仙。鈍いとは思ってたけど、まさか、ここまでとは―――
冷たい微笑みを浮かべ、その姫は闇を放つ。
「ふふふ、そう? 嬉しいこと言うわね、イナバ。私は今、とても気分がいいの。だから―――
” 殺さないであげるわ ”
…………声には出さなかったが、確かに私には、そう聞こえた。
† † †
永遠亭を後にする二人。
能天気に手をぶんぶん振って見送る鈴仙。
玄関の薄暗がりの中、私はぼうっと―――その様子を眺めていた。
玄関を出て、ふと 夜空を見上げてみる。
夜空には、おおきな おおきな
まあるい まあるい
完全なる、狂気の真月。
―――それを、覆い隠すかのように
二人が飛び去った山々の方角から、灰色の暗雲が流れてくる。
……寒い。
身を震わす私を、鈴仙が後ろからぎゅっと抱きしめる。
「どうしたの? てゐ。
こんな所でぼうっとしてると、風邪引くよ? さぁ、家に入ろ?」
抱擁をとき、ぐいっと手を引いて私を先導する鈴仙。
最後にちらり、と空を仰ぎ見る。
物凄い勢いで上空を吹く風に運ばれる雲に侵され、見る間に月はその姿を隠していく。
それは、なにかの凶事を暗喩しているようで――――――
『…………永琳さま…………』
ぴしゃり
玄関の戸が閉まる。
同時に、今宵繰り広げられる“ 狂気の宴 ”へと続く――――――――
黒き門は開かれた。
―――もう、後戻りは出来ない。今宵……
全てが始まり、全てが……終わる。
もう一つの門の開放とともに……
―――黒き姫は、白き姫を待ち焦がれる。