「……霊夢?」
幽々子は、突然倒れた紅白の巫女に呼びかけた。返事はない。
「霊夢?」
もう一度呼びかけながら、幽々子は彼女を抱き起こそうとする。
抵抗のない体。力無くのびる腕。血の気のない青白い顔。そこにあったのは、幽々子にとっては見慣れた人間の末路。
その日、博麗霊夢は死んだ。
* * *
時間はほんの少しさかのぼる。
「で、あんたいつまでうちにいる気なのよ」
「そうね。お盆の頃になったらいったん戻ろうかしら」
「普通と逆じゃない、それ」
「里帰りの前には幽霊もいろいろと準備があるのよ」
他愛もない話をしているのは、この神社の主である霊夢と、帰る気配のまったくない客である幽々子。
桜が散り、夏が巡り、結界が直っても、亡霊の姫は自分の家に戻らなかった。彼女のお付きでもある妖夢は、庭掃除やらなんやら様々な雑務を請け負って、あの世とこの世を行ったり来たりしているというのに。
……ぷ~~~ん……
「まったく、客も客なら蚊もうるさいわね」
蚊が出てくるとは、いよいよ夏本番といったところだろうか。
霊夢はお払い棒を振り回して雑音の大本を追い払おうとするが、それで事が済めば誰も苦労はしない。
いつの間にか太股に新たなかゆみができているのに気づいて、霊夢のストレスは着実に溜まっていく。
蚊取り線香も風通しの良すぎる博麗神社ではたいして効果がないようであった。
「さっさと殺してしまえばいいのに」
幽々子は正座の姿勢を崩さずに、そっと茶をすすった。
「できたらとっくの昔に叩きつぶしているわよ。それともあんたならできるの?」
突然振られたあまりの愚問に、幽々子は思わず吹き出してしまった。
「当たり前でしょう、私を誰だと思ってるの?」
「居候の穀潰し幽霊」
「私は、人間の食事はあまり取らないわよ。お供えくらいしか」
茶は飲んでるくせに、という霊夢の突っ込みを軽く受け流すと、幽々子はおもむろにうるさい羽音の主に向けて念を飛ばした。
「はい、これでおしま――」
……ぷ~~~ん……
一寸前と変わらぬ、耳障りな羽の音。
「……外したみたいね」
「……こほん。今のはただの前座よ。今度は――えいっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
「……こほん。えいやっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
「とおっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
「そりゃっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
幽々子の攻撃は、ことごとく外れた。そんな彼女をあざ笑うかのように、蚊は自由奔放に部屋の中を飛び回る。
「あーはいはい、もう十分わかったから。とりあえず役立たずは自分の家に帰ってくれない?」
だがしかし、霊夢の言葉は、もはや完全にムキになった幽々子には聞こえていなかった。
そのとき、蚊がちょうど霊夢の首筋に止まった。チャンスとばかりに幽々子は目を閉じて一点に精神を集中させる。
「――ええいっ!」
渾身の念を込めた一撃が、何かに直撃した。
「よし、手応えあり」
……ぷ~~~ん……
そう呟く幽々子の脇を、血をたっぷり吸って満腹になった蚊が何事もなく通り過ぎていった。
「……え?」
* * *
「――それで、思わず逃げ帰ってきたというわけですか」
妖夢は、主人から事の次第を聞かされると、深いため息をついた。
「こっちにとっては、迷惑千万極まりない話だわ」
その隣にいるのは、すっかり幽霊と化してしまった博麗霊夢。死んで冥界に降り立つというか昇るや否や、一つ文句を言ってやらねば気が済まないとそのまま白玉楼に直行してきたのであった。
「……ごめんなさい、霊夢」
張本人である幽々子は、思いの外あっさり霊夢に対し謝罪する。顔色も微妙に青かったが、これはもとが亡霊のため大して変わらないようにも見えた。
「謝罪の言葉はいいわ、別に。それよりこの落とし前、いったいどうやってつけてくれるの?」
「どうって……?」
「蘇りの法とかないの? ここに」
「ないわ。……私は、生き物を死なせることしかできないから」
「私は、霊体を斬るくらいしかできないです」
霊夢はがっくりとうなだれた。巫女にとっても反魂の術は専門外である。次に魔理沙の顔が思い浮かぶが、彼女もまたそういった系統の術には手を出さないタイプだろう。
とりあえずどうしようもないことを悟ると、霊夢は大の字になって寝転がった。眼前ではみずみずしい緑をまとった葉桜が、死の気配とともに白玉楼の夏を彩っていた。
こうして生きているときと同じように四季を感じると、生と死の境がよくわからなくなる。
暖かい日差しと緑の香りに誘われ――ここのものがそう感じられるのは既に死者の仲間入りを果たした証なのだろうか――霊夢は気持ちよくなってくると、そのまま眠りについた。
霊夢が寝ている間、幽々子たちは西行寺家に伝わる蔵書の数々が収められた蔵をひっくり返しにかかっていた。
「妖夢、見つかった?」
「……幽々子様、そんなにすぐには見つかりませんって。ところで、なんでですか?」
妖夢の言葉に、幽々子は虫食いの巻物をめくる手をぴたりと止めた。
「私が生き返りの法を探すことが、そんなに意外?」
「……はい、正直にいえば。だって今までなら、うっかり殺めてしまった者でもここ白玉楼に友人なりなんなりとして迎え入れては、楽しくやってきたじゃないですか」
「そうよね、そのはずなんだけれど」
幽々子がふうとため息をついた。巻物に積もっていたホコリが舞い上がり、蔵の中の空気をさらに汚す。
「なにかね、心の中で引っかかっているというか……こう……思いだし……そう……な……こ……」
あれれと疑問に思う間もなく、幽々子は自分の気が遠くなっていくことに気がついた。どうすることもできずに倒れ、本の山が崩れる派手な音がした。
「……幽々子様? 幽々子様!!」
庭師の呼びかけに、目を見開いたままの亡霊の姫は一言も答えを返さなかった。
* * *
それは、長命な妖たちしか覚えていない、遠い遠い昔の話。
*
物心ついたとき、私には目に見えないお友だちがいっぱいいることに気がついた。
春の日に目を開けば、足下を透明な子犬が走り回るのが見えた。
夏の日に手を差し出せば、私よりも小さな男の子が冷たい手でそっと握り返してくれた。
秋の日に庭を走れば、二年前にいなくなってしまった大猫がひなたぼっこしているのを見つけられた。
冬の日に耳をそばだてれば、秋の虫たちが壮大な合葬を奏でるのが聞こえた。
それはとても楽しかった季節の日々。
やがて、お友だちはだんだんといなくなっていった。
理由はわかっていた。みんな申し訳なさそうに、私といると誰かに操られているようだといっていた。誰もはっきりとはいわなかったが、つまり私の望みどおりに動く人形でいるのはいやだということだった。
それはもっともな話だと思ったので、私はわがままをいわなかった。
この頃、お友だちのような目に見えない人や動物を『幽霊』というのだと、庭師のおばさんから教わった。おばさんは自分のことを半分幽霊だといっていたが、普通に目に見えると私がいったら、何がおかしかったのか笑ってくれた。
次に私は、目に見える幽霊でないお友だちを作ろうと思った。
けれど困ったことに、うちには私と同い年ぐらいの子供はいなかった。今までいたのは幽霊の子供たちだった。
悩んだ末に、私はおうちを抜け出すことに決めた。
桜の木を足場にして塀を乗り越えると、とりあえずお日様の見える方向へと走った。
やがて道に迷ったことに気づいた。何もわからなくなってきて、泣いた。
そんなときに、あの子と出会った。
「このへんでは見かけない顔ね。どこか、遠くから来たの?」
私が家のこととここにたどり着いた理由を話すと、その子は腹を抱えて大笑いした。
何がおかしいのかと私が怒ると、その子は笑ったことを笑いながら謝ってくれた。さすがにこれには私も反応にこまった。
「ごめんごめん。じゃあ、おわびの印もかねて、私が人間の友だち第一号になってあげる」
ほんとう? ほんとうに?
「ええ。あなたといると退屈しそうにないしね」
それからは、二人でめいっぱい遊んだ。
春の日は、桜吹雪の中で木登りをした。
夏の日は、小川で水のかけあいっこをした。
秋の日は、その子がどこかから調達してきたおいもをいっしょに焼いて食べた。
冬の日は、真っ白なじゅうたんの上で雪合戦をした。
そして、また春の日が来て。
すべてが、終わった。
きっかけはほんのささいなことだった。
いつもどおりに桜の木に登って遊んでいたとき、枝をあやまって折ってしまったのだ。
運の悪いことに、庭師のおばさんではなくたまたま通りかかったお母様に見つかり、私たちは叱られた。
それで終わればよかったのに、お母様は私の友だちのことを侮辱した。
ついかっとなって――
気がついたとき、お母様は地面に横たわって、動かなくなっていた。
*
桜がざわめく。
庭一番の、いや幻想郷一かもしれない大桜から、花びらが一枚散った。そして新しく一輪の花が咲く。
*
何が何だかわからなかった。
悲鳴をあげたことは覚えている。走ったことも覚えている。誰か助けを呼んだことも覚えている。
なのに。
記憶に残る光景は、動かなくなった人間ばかり。
人が私と出会うたびに、その人は死んでいく。
私が殺していく。
*
妖怪桜から花びらが次々と散っていく。
花びらが一枚散るたびに、桜は一人の魂を飲み込み、新たな花を一輪つける。
西行妖と呼ばれた大桜は、死を誘う幽々子が走るたびに刻一刻と満開へ近づいていく。
*
気がついたとき、私は最初の場所に戻っていた。
足下に横たわっているのは、お母様と――お友だちであった、あの子。
二人とも安らかな顔つきで、これがうららかな春の日の昼寝であったならばどんなによかったことか――しかし二人はもう、息をしていない。
私は乾いた笑いをあげると、ゆっくりと庭を歩き始める。
人がいっぱい死んでいるのに、桜はそれを悲しむどころか、より盛大に咲き誇っている。
桜の道を私は歩いて、やがてたどり着いたのは、庭で一番大きな桜。
ああ、ここで――私も死のう。
私は大きな根っこに横たわると、いつの間にか握りしめていたナイフを持ち直した。無意識のうちに食堂かどこかでつかんだのだろうか、けれどもうそんなことはどうでもよかった。
力を込めて、自分の手首を切り裂く。鋭い痛みは、罪悪感しか残ってない心にはむしろ心地よかった。
赤い鮮血が、桜色に覆われた地面をさらに染め上げていく。
私は、あの世で両親や友だちにどうやって謝るかを考えながら、闇の中へと落ちていった。
*
満開まであと一押しの妖怪桜がそこにはあった。
甘美な死という栄養分を取り込むだけ取り込んだその桜は、最後のご馳走を食らおうと、うろを口のように大きく開けて、幽々子の亡骸を飲み込む。
死の姫を完全に取り込んだとき、その妖怪は自ら進んで『死』を食らうことができるようになる。
はずだった。たった一つだけ、食べ逃した魂があったことに気づいてさえいれば。
「この、化け物! 私の友だちに何すんのよっ!!」
それは、生前よりも元気がよいと思えるくらいに大きな、幽々子の友だちの一声。
その声に、今にも取り込まれようとしていた幽々子の意識が目を覚ます。そして、とっさに霊体の手をさしのべた。
友だちは、親友の手を全力でつかむと、西行妖の魂を思いっきりけっ飛ばした。
妖怪桜がひるんだ隙に、蹴りの反動で幽々子の霊魂を肉体から引きはがすと、幽霊になったばかりとは思えないくらいの機動力で一気に離脱する。
この日、いや生涯最高かもしれないご馳走を食べ損ねた妖怪桜は、大いに怒った。枝を触手のように伸ばし、二人を捕まえようとする。
枝と親友の間に、幽々子の霊魂は立ちふさがった。これ以上私の友だちを傷つけさせてたまるか、という一心で。
瞬間、取り込まれかけていた幽々子の亡骸から、桜色の霊気が立ち上った。それはあっという間に妖怪桜を包み込む。
絶叫。それは人間のものではなく、桜のもの。妖怪桜と庭中の桜が、一時に悪魔の断末魔のような悲鳴をあげる。
そして、残っていたつぼみが一斉に開花したかと思うと――満開となった西行妖は沈黙した。
「……終わった?」
「……たぶん」
もうしばらくして何事も起きないことを確かめると、二人の幽霊は緊張が緩み、その場にへたり込んだ。
そして再度の沈黙。お互いに、何から話していいものやら悩んでいた。
「……あのさ」
静寂を破ったのは、幽々子の友だちの方であった。
「あんまり、気にしなくていいから。これでも天涯孤独の身だし、友だちもそこそこはいたけど、私がいなくなったくらいでどうにかなる連中じゃないから」
彼女は笑って話すが、とはいえ幽々子はそう簡単に自分を許せるはずがなかった。
「……ごめんなさい、ほんとうに、ほんとうにごめんなさい」
ぼろぼろと泣きながら、幽々子はただひたすらに謝り続ける。
「あーもう、だから泣くのも謝罪文の読み上げも、やめ、やめ! 私は自分が殺されるより、友だちが泣く方がよっぽどいやなたちなんだから」
それでも幽々子は泣きやまなかったので、彼女はそっと自分の友人を抱き締めた。
――どれほどの時間が経った頃だろうか。
「おっと。そろそろ、お迎えが来たみたいね」
彼女は自分があの世かどこかに向けて引っ張られているのを感じ取り、幽々子の方を振り向く。
幽々子は、そんな友だちに向けて頭を振った。
「ごめんなさい。私は、いけないの」
「いけないじゃないでしょ、成仏も転生もしなくてどーするのよ。ここで一生地縛霊でもするつもり?」
「あはは……そうなるのかな」
力無く笑うと、幽々子は自分の霊魂の先端部をつまみ上げてみせた。そこから生える細く長い糸が、西行妖の今はもう閉じたうろへと続いている。
「それって……」
「肉体との縁が、切れなかったみたい。西行妖を封印したせいかな?」
幽々子は、なおも満開のままの西行妖を見上げた。今年花が散れば、この桜は二度とつぼみをつけないだろう。幽々子の能力と同調したとき、この桜が咲くということは、死を振りまくことと同義になっていた。
「はーこりゃ参ったわね。下手にもう一度封印を解くわけにもいかないし」
彼女はやれやれと困った顔で考えたのち、やはり笑った。
「ま、なるようになるわね。幽々子、あなた一人でも平気よね?」
「……うん」
寂しそうに幽々子は言った。
「はい、別れ際にそんな辛気くさい顔はしない! 笑顔でいきましょ、笑顔で」
満面の笑みを浮かべる友だちを前にして、幽々子もほんの少しだけ笑った。
「それでよし。縁があったらまた会いましょ。私はしばらく転生でも続けることにするから」
「……来世になったらたぶん記憶は残っていないわよ。私だって、生前の記憶がどこまで残るか」
「だから、なるようにはなるし、縁があったらまた会えるのよ」
幽々子の友だちはそう言い切った。
「そういうわけで、お約束として別れのあいさつはしないわよ。じゃあ、またね、幽々子」
「うん。……またね、――」
二人の記憶はここで途切れる。
* * *
「――様、幽々子様!」
「……ふあ?」
庭師の再三の呼びかけに、ようやく幽々子は目を覚ました。
「あら妖夢、おはよう」
「……おはようじゃないですよ。いきなり気を失われて、びっくりしたんですから。おまけに目は見開いたままで」
幽々子がふと見渡すと、そこは自分の寝室であった。
「それは珍しいことね、我ながら」
久しぶりに夢を見ていた気がするが、よく思い出せなかった。幽々子は、起き抜けにくせのついた髪を軽く直す。
「……それで、何をしていたんだっけ?」
「だーかーらー」
「わかってるわよ、生き返りの法の手がかりは何か見つかった?」
「あいにく、まだです。……その前に、お客人が来ていますが」
「よう、お邪魔してるぜ」
寝室の窓から顔を覗かせたのは、もはや見慣れた顔の魔理沙であった。だが、口調とは異なり、今日の表情はどことなく険しい。
「いらっしゃい、黒いの。用件は訊くまでもないと思うけど」
「そのとおり、こいつの魂を返してもらいに来たぜ」
魔理沙は、窓枠の外に隠れていた霊夢の魂を引っ張って見せた。
「もう、霊体だって痛いんだからあんまりひっぱらないでよ」
「悪い悪い。けれど、一刻も早く連れ帰りたくてな」
「その様子だと、そちらで生き返りの法か何かは見つかったようね」
「……んー、まあそういうことになるというか、とりあえず試す価値のある方策は一つ見つかったぜ」
「ねえ魔理沙、それはひょっとして実験台というような気がするんだけど」
「霊夢、おまえもさっさと生き返りたいだろ? こんな死臭のするところじゃなくて」
「うーん……それがねえ。お昼寝とかしてたら、なんだかんだいってここも居心地は悪くないのよね」
煮え切らない霊夢の返答に、魔理沙は少しだけいらだつ。
「まさか死者の食物は食べてないよな? 食べると、お約束からして反魂が失敗する可能性がぐっと高くなりそうな気がするぜ」
「それなら大丈夫よ、生前からここの食べ物はたくさんいただいてるし、魔理沙だってそうでしょう?」
痛いところを突かれて、魔理沙は言葉に困る。
これからのことを決定づけたのは、他ならぬ幽々子の一言であった。
「いったい何を迷っているんだか。さっさとお帰りなさいな、紅白の蝶。あなたを迎えにいく日はまだ早いわよ」
「幽々子……?」
「だから、死者になるには、あなたはまだ早いといってるのよ。私は……その……今はまだ、生きているあなたの方が好きだから」
悲しみと恥じらいの混ざった複雑な表情で、ゆっくりと話す幽々子。その声の色からも、様々な感情が入り交じっているのがありありとわかる。
「ごめんなさいね、全部私の責任なのに、こんなことになってしまって。……ほんとうに、ほんとうにごめんなさい」
ぽつり、ぽつり。
不意に流れ出た幽々子の涙に、一斉に虚を衝かれた一同。
「わ、わ、幽々子様、あの、あの! ……ええい、おまえのせいだぞ黒いの!」
「なんで私のせいになるんだよ!?」
「二人とも静かにして」
霊夢の一声に、静まる二人。
「もういいわよ、幽々子。別に謝らなくても。私にとっては、むやみに泣かれたりする方がよっぽど腹が立つわ。……さあ、もういきましょ、魔理沙」
霊夢はきびすを返すと、白玉楼を立ち去ろうとする。
その背中に、一寸ためらいながらも、思い切って声をかける幽々子。
「あの、霊夢! ……また、遊びに来てくれないかしら」
紅白の幽霊は振り返り、屈託のない笑みを浮かべながら答える。
「そうね、おいしいごはんとお酒を用意してくれるなら、考えてあげてもいいわ」
* * *
「――思ったよりも、早かったわね」
魔理沙に連れられて霊夢の魂がやってきたのは、紅魔館の一室、パチュリーの書斎だった。
「反魂の心当たりって、パチュリーのことだったのね」
「霊夢、あなたは運がいいわよ。今日発掘した書物にたまたま今の状態にぴったりな反魂の法が載っていたんだから」
途端に不安になる霊夢。
「……魔理沙。ほんとうに大丈夫なの?」
「まあ、当たって砕けろだぜ」
実験用の寝台の上には、冷凍保存された霊夢の遺体があった。
「たまたまおまえが死んですぐに私が見つけたから、新鮮なうちに保存できたぜ」
「紅白の場合はそれに加えて、霊的な潜在能力の高さも救いになったわね。まるで生きているような新鮮さの死体だわ」
「ふうん、そんなものなの。ところでレミリアは?」
「今日はまだ寝ているわ。お日様も高いし」
「まったく、人が死んでいるときにのんきなものね」
「むしろ起きていなかったことを喜ぶべきね。霊夢が死んだなんて聞きつけたら、一個師団を率いて冥界へ喧嘩を売りに行きかねないわ」
「……それもそうか」
普段はポーカーフェイスのレミリアがいざ怒った場面を想像し、霊夢は納得した。
「さあ、解凍も終わって準備はできたわ。霊夢、自分の死体と重なるように寝てくれる?」
パチュリーの指示通り、霊夢は自分の体に重なる。そうしているとまるで幽体離脱をしているように感じられ、本当に自分は死んでいるのかとまたもや疑わしくなってきた。
「できたわよ。これからどうするの?」
「こうするのよ」
パチュリーは両手に一本ずつ特製の魔法棒を構えると、高々と天に掲げた。二つの先端に多大な魔力が結集し、それは雷となって現世に姿を現わす。
「ちょっと――」
「さあ、蘇るのよこの電撃でー!」
止める間もなく、強烈な電気ショックが霊夢の体と魂を痺れさせた。
* * *
「で、無事に蘇ったと」
「二度と死にたくないと思ったわよ」
霊夢は、反魂の体験談をおもしろおかしく幽々子に語って聞かせていた。あの不快感を一人でも多く世に知らしめないと気が済まないのだ。
「なあ庭師、なんであいつら仲良くしてるんだ? 殺した殺されたの間柄だってのに」
「そうね……私を殺した責任を取ってもらっているとか」
「そいつは違うお話だぜ」
そういうと、魔理沙は冥界特性の地酒を一口あおった。
四人は、葉桜を肴に宴会としゃれ込んでいた。
実は功労者の一人としてパチュリーも招かれていたのだが、彼女にとっては葉桜よりも西行寺家の蔵書の方がよほど興味があるらしく、到着するなり蔵に籠もってしまっていた。
「あら、あのデカ桜も葉っぱはちゃんとつけるのね」
霊夢が西行妖を指さす。
見るも大きな妖怪桜は、全身に花ならぬ葉っぱをまとって、夏の日差しを一杯に浴びていた。
「そうよ。例年も花はつけないけど葉はつけるの。……でも、やっぱり私は、葉桜も嫌いじゃないけれど、花の方が――」
そこまでいって、幽々子の言葉が止まる。
「幽々子?」
「……あら、ごめんなさいね。ちょっとぼうっとしていたみたい」
「ううん、私は別にいいんだけど。……満開にしようとするのはもう止めないけど、幻想郷の春を盗るのはやめてよね」
「わかっているわ。それに、もう西行妖を咲かせることはないと思うから」
不思議だった。霊夢と語り合っていると、この妖怪桜の咲き誇る姿を見ることがなぜかためらわれた。
何か嫌な思い出が魂の奥底に埋もれているような気がしたが、幽々子はそれをかき消した。嫌な思い出ならば、無理して思い出すこともあるまい。今はこの、友人と語り合う一時が何にも増していとおしく感じられた。
「……また、会えたわね」
ぽつりと、何気ない一言がこぼれ落ちる。
「なに、なんかいった?」
「……いいえ、別に何も」
自分でも言った言葉の意味がよくわからず、幽々子はごまかすように、霊夢の持参してきた煮物を一つ口に運ぶ。
「ん、この南瓜、ほくほくしてておいしいわね」
「でしょ? 実は調理法を少し工夫してみたんだけど――」
*
満開の葉桜のもと、凍りついた時間と流転する時間は再び巡り会った。
死がすべてを支配する冥界の一角で、少女たちは生き生きとした一時を過ごす。
願わくは、今という瞬間が永遠とならんことを。
幽々子は、突然倒れた紅白の巫女に呼びかけた。返事はない。
「霊夢?」
もう一度呼びかけながら、幽々子は彼女を抱き起こそうとする。
抵抗のない体。力無くのびる腕。血の気のない青白い顔。そこにあったのは、幽々子にとっては見慣れた人間の末路。
その日、博麗霊夢は死んだ。
* * *
時間はほんの少しさかのぼる。
「で、あんたいつまでうちにいる気なのよ」
「そうね。お盆の頃になったらいったん戻ろうかしら」
「普通と逆じゃない、それ」
「里帰りの前には幽霊もいろいろと準備があるのよ」
他愛もない話をしているのは、この神社の主である霊夢と、帰る気配のまったくない客である幽々子。
桜が散り、夏が巡り、結界が直っても、亡霊の姫は自分の家に戻らなかった。彼女のお付きでもある妖夢は、庭掃除やらなんやら様々な雑務を請け負って、あの世とこの世を行ったり来たりしているというのに。
……ぷ~~~ん……
「まったく、客も客なら蚊もうるさいわね」
蚊が出てくるとは、いよいよ夏本番といったところだろうか。
霊夢はお払い棒を振り回して雑音の大本を追い払おうとするが、それで事が済めば誰も苦労はしない。
いつの間にか太股に新たなかゆみができているのに気づいて、霊夢のストレスは着実に溜まっていく。
蚊取り線香も風通しの良すぎる博麗神社ではたいして効果がないようであった。
「さっさと殺してしまえばいいのに」
幽々子は正座の姿勢を崩さずに、そっと茶をすすった。
「できたらとっくの昔に叩きつぶしているわよ。それともあんたならできるの?」
突然振られたあまりの愚問に、幽々子は思わず吹き出してしまった。
「当たり前でしょう、私を誰だと思ってるの?」
「居候の穀潰し幽霊」
「私は、人間の食事はあまり取らないわよ。お供えくらいしか」
茶は飲んでるくせに、という霊夢の突っ込みを軽く受け流すと、幽々子はおもむろにうるさい羽音の主に向けて念を飛ばした。
「はい、これでおしま――」
……ぷ~~~ん……
一寸前と変わらぬ、耳障りな羽の音。
「……外したみたいね」
「……こほん。今のはただの前座よ。今度は――えいっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
「……こほん。えいやっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
「とおっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
「そりゃっ!」
すかっ
……ぷ~~~ん……
幽々子の攻撃は、ことごとく外れた。そんな彼女をあざ笑うかのように、蚊は自由奔放に部屋の中を飛び回る。
「あーはいはい、もう十分わかったから。とりあえず役立たずは自分の家に帰ってくれない?」
だがしかし、霊夢の言葉は、もはや完全にムキになった幽々子には聞こえていなかった。
そのとき、蚊がちょうど霊夢の首筋に止まった。チャンスとばかりに幽々子は目を閉じて一点に精神を集中させる。
「――ええいっ!」
渾身の念を込めた一撃が、何かに直撃した。
「よし、手応えあり」
……ぷ~~~ん……
そう呟く幽々子の脇を、血をたっぷり吸って満腹になった蚊が何事もなく通り過ぎていった。
「……え?」
* * *
「――それで、思わず逃げ帰ってきたというわけですか」
妖夢は、主人から事の次第を聞かされると、深いため息をついた。
「こっちにとっては、迷惑千万極まりない話だわ」
その隣にいるのは、すっかり幽霊と化してしまった博麗霊夢。死んで冥界に降り立つというか昇るや否や、一つ文句を言ってやらねば気が済まないとそのまま白玉楼に直行してきたのであった。
「……ごめんなさい、霊夢」
張本人である幽々子は、思いの外あっさり霊夢に対し謝罪する。顔色も微妙に青かったが、これはもとが亡霊のため大して変わらないようにも見えた。
「謝罪の言葉はいいわ、別に。それよりこの落とし前、いったいどうやってつけてくれるの?」
「どうって……?」
「蘇りの法とかないの? ここに」
「ないわ。……私は、生き物を死なせることしかできないから」
「私は、霊体を斬るくらいしかできないです」
霊夢はがっくりとうなだれた。巫女にとっても反魂の術は専門外である。次に魔理沙の顔が思い浮かぶが、彼女もまたそういった系統の術には手を出さないタイプだろう。
とりあえずどうしようもないことを悟ると、霊夢は大の字になって寝転がった。眼前ではみずみずしい緑をまとった葉桜が、死の気配とともに白玉楼の夏を彩っていた。
こうして生きているときと同じように四季を感じると、生と死の境がよくわからなくなる。
暖かい日差しと緑の香りに誘われ――ここのものがそう感じられるのは既に死者の仲間入りを果たした証なのだろうか――霊夢は気持ちよくなってくると、そのまま眠りについた。
霊夢が寝ている間、幽々子たちは西行寺家に伝わる蔵書の数々が収められた蔵をひっくり返しにかかっていた。
「妖夢、見つかった?」
「……幽々子様、そんなにすぐには見つかりませんって。ところで、なんでですか?」
妖夢の言葉に、幽々子は虫食いの巻物をめくる手をぴたりと止めた。
「私が生き返りの法を探すことが、そんなに意外?」
「……はい、正直にいえば。だって今までなら、うっかり殺めてしまった者でもここ白玉楼に友人なりなんなりとして迎え入れては、楽しくやってきたじゃないですか」
「そうよね、そのはずなんだけれど」
幽々子がふうとため息をついた。巻物に積もっていたホコリが舞い上がり、蔵の中の空気をさらに汚す。
「なにかね、心の中で引っかかっているというか……こう……思いだし……そう……な……こ……」
あれれと疑問に思う間もなく、幽々子は自分の気が遠くなっていくことに気がついた。どうすることもできずに倒れ、本の山が崩れる派手な音がした。
「……幽々子様? 幽々子様!!」
庭師の呼びかけに、目を見開いたままの亡霊の姫は一言も答えを返さなかった。
* * *
それは、長命な妖たちしか覚えていない、遠い遠い昔の話。
*
物心ついたとき、私には目に見えないお友だちがいっぱいいることに気がついた。
春の日に目を開けば、足下を透明な子犬が走り回るのが見えた。
夏の日に手を差し出せば、私よりも小さな男の子が冷たい手でそっと握り返してくれた。
秋の日に庭を走れば、二年前にいなくなってしまった大猫がひなたぼっこしているのを見つけられた。
冬の日に耳をそばだてれば、秋の虫たちが壮大な合葬を奏でるのが聞こえた。
それはとても楽しかった季節の日々。
やがて、お友だちはだんだんといなくなっていった。
理由はわかっていた。みんな申し訳なさそうに、私といると誰かに操られているようだといっていた。誰もはっきりとはいわなかったが、つまり私の望みどおりに動く人形でいるのはいやだということだった。
それはもっともな話だと思ったので、私はわがままをいわなかった。
この頃、お友だちのような目に見えない人や動物を『幽霊』というのだと、庭師のおばさんから教わった。おばさんは自分のことを半分幽霊だといっていたが、普通に目に見えると私がいったら、何がおかしかったのか笑ってくれた。
次に私は、目に見える幽霊でないお友だちを作ろうと思った。
けれど困ったことに、うちには私と同い年ぐらいの子供はいなかった。今までいたのは幽霊の子供たちだった。
悩んだ末に、私はおうちを抜け出すことに決めた。
桜の木を足場にして塀を乗り越えると、とりあえずお日様の見える方向へと走った。
やがて道に迷ったことに気づいた。何もわからなくなってきて、泣いた。
そんなときに、あの子と出会った。
「このへんでは見かけない顔ね。どこか、遠くから来たの?」
私が家のこととここにたどり着いた理由を話すと、その子は腹を抱えて大笑いした。
何がおかしいのかと私が怒ると、その子は笑ったことを笑いながら謝ってくれた。さすがにこれには私も反応にこまった。
「ごめんごめん。じゃあ、おわびの印もかねて、私が人間の友だち第一号になってあげる」
ほんとう? ほんとうに?
「ええ。あなたといると退屈しそうにないしね」
それからは、二人でめいっぱい遊んだ。
春の日は、桜吹雪の中で木登りをした。
夏の日は、小川で水のかけあいっこをした。
秋の日は、その子がどこかから調達してきたおいもをいっしょに焼いて食べた。
冬の日は、真っ白なじゅうたんの上で雪合戦をした。
そして、また春の日が来て。
すべてが、終わった。
きっかけはほんのささいなことだった。
いつもどおりに桜の木に登って遊んでいたとき、枝をあやまって折ってしまったのだ。
運の悪いことに、庭師のおばさんではなくたまたま通りかかったお母様に見つかり、私たちは叱られた。
それで終わればよかったのに、お母様は私の友だちのことを侮辱した。
ついかっとなって――
気がついたとき、お母様は地面に横たわって、動かなくなっていた。
*
桜がざわめく。
庭一番の、いや幻想郷一かもしれない大桜から、花びらが一枚散った。そして新しく一輪の花が咲く。
*
何が何だかわからなかった。
悲鳴をあげたことは覚えている。走ったことも覚えている。誰か助けを呼んだことも覚えている。
なのに。
記憶に残る光景は、動かなくなった人間ばかり。
人が私と出会うたびに、その人は死んでいく。
私が殺していく。
*
妖怪桜から花びらが次々と散っていく。
花びらが一枚散るたびに、桜は一人の魂を飲み込み、新たな花を一輪つける。
西行妖と呼ばれた大桜は、死を誘う幽々子が走るたびに刻一刻と満開へ近づいていく。
*
気がついたとき、私は最初の場所に戻っていた。
足下に横たわっているのは、お母様と――お友だちであった、あの子。
二人とも安らかな顔つきで、これがうららかな春の日の昼寝であったならばどんなによかったことか――しかし二人はもう、息をしていない。
私は乾いた笑いをあげると、ゆっくりと庭を歩き始める。
人がいっぱい死んでいるのに、桜はそれを悲しむどころか、より盛大に咲き誇っている。
桜の道を私は歩いて、やがてたどり着いたのは、庭で一番大きな桜。
ああ、ここで――私も死のう。
私は大きな根っこに横たわると、いつの間にか握りしめていたナイフを持ち直した。無意識のうちに食堂かどこかでつかんだのだろうか、けれどもうそんなことはどうでもよかった。
力を込めて、自分の手首を切り裂く。鋭い痛みは、罪悪感しか残ってない心にはむしろ心地よかった。
赤い鮮血が、桜色に覆われた地面をさらに染め上げていく。
私は、あの世で両親や友だちにどうやって謝るかを考えながら、闇の中へと落ちていった。
*
満開まであと一押しの妖怪桜がそこにはあった。
甘美な死という栄養分を取り込むだけ取り込んだその桜は、最後のご馳走を食らおうと、うろを口のように大きく開けて、幽々子の亡骸を飲み込む。
死の姫を完全に取り込んだとき、その妖怪は自ら進んで『死』を食らうことができるようになる。
はずだった。たった一つだけ、食べ逃した魂があったことに気づいてさえいれば。
「この、化け物! 私の友だちに何すんのよっ!!」
それは、生前よりも元気がよいと思えるくらいに大きな、幽々子の友だちの一声。
その声に、今にも取り込まれようとしていた幽々子の意識が目を覚ます。そして、とっさに霊体の手をさしのべた。
友だちは、親友の手を全力でつかむと、西行妖の魂を思いっきりけっ飛ばした。
妖怪桜がひるんだ隙に、蹴りの反動で幽々子の霊魂を肉体から引きはがすと、幽霊になったばかりとは思えないくらいの機動力で一気に離脱する。
この日、いや生涯最高かもしれないご馳走を食べ損ねた妖怪桜は、大いに怒った。枝を触手のように伸ばし、二人を捕まえようとする。
枝と親友の間に、幽々子の霊魂は立ちふさがった。これ以上私の友だちを傷つけさせてたまるか、という一心で。
瞬間、取り込まれかけていた幽々子の亡骸から、桜色の霊気が立ち上った。それはあっという間に妖怪桜を包み込む。
絶叫。それは人間のものではなく、桜のもの。妖怪桜と庭中の桜が、一時に悪魔の断末魔のような悲鳴をあげる。
そして、残っていたつぼみが一斉に開花したかと思うと――満開となった西行妖は沈黙した。
「……終わった?」
「……たぶん」
もうしばらくして何事も起きないことを確かめると、二人の幽霊は緊張が緩み、その場にへたり込んだ。
そして再度の沈黙。お互いに、何から話していいものやら悩んでいた。
「……あのさ」
静寂を破ったのは、幽々子の友だちの方であった。
「あんまり、気にしなくていいから。これでも天涯孤独の身だし、友だちもそこそこはいたけど、私がいなくなったくらいでどうにかなる連中じゃないから」
彼女は笑って話すが、とはいえ幽々子はそう簡単に自分を許せるはずがなかった。
「……ごめんなさい、ほんとうに、ほんとうにごめんなさい」
ぼろぼろと泣きながら、幽々子はただひたすらに謝り続ける。
「あーもう、だから泣くのも謝罪文の読み上げも、やめ、やめ! 私は自分が殺されるより、友だちが泣く方がよっぽどいやなたちなんだから」
それでも幽々子は泣きやまなかったので、彼女はそっと自分の友人を抱き締めた。
――どれほどの時間が経った頃だろうか。
「おっと。そろそろ、お迎えが来たみたいね」
彼女は自分があの世かどこかに向けて引っ張られているのを感じ取り、幽々子の方を振り向く。
幽々子は、そんな友だちに向けて頭を振った。
「ごめんなさい。私は、いけないの」
「いけないじゃないでしょ、成仏も転生もしなくてどーするのよ。ここで一生地縛霊でもするつもり?」
「あはは……そうなるのかな」
力無く笑うと、幽々子は自分の霊魂の先端部をつまみ上げてみせた。そこから生える細く長い糸が、西行妖の今はもう閉じたうろへと続いている。
「それって……」
「肉体との縁が、切れなかったみたい。西行妖を封印したせいかな?」
幽々子は、なおも満開のままの西行妖を見上げた。今年花が散れば、この桜は二度とつぼみをつけないだろう。幽々子の能力と同調したとき、この桜が咲くということは、死を振りまくことと同義になっていた。
「はーこりゃ参ったわね。下手にもう一度封印を解くわけにもいかないし」
彼女はやれやれと困った顔で考えたのち、やはり笑った。
「ま、なるようになるわね。幽々子、あなた一人でも平気よね?」
「……うん」
寂しそうに幽々子は言った。
「はい、別れ際にそんな辛気くさい顔はしない! 笑顔でいきましょ、笑顔で」
満面の笑みを浮かべる友だちを前にして、幽々子もほんの少しだけ笑った。
「それでよし。縁があったらまた会いましょ。私はしばらく転生でも続けることにするから」
「……来世になったらたぶん記憶は残っていないわよ。私だって、生前の記憶がどこまで残るか」
「だから、なるようにはなるし、縁があったらまた会えるのよ」
幽々子の友だちはそう言い切った。
「そういうわけで、お約束として別れのあいさつはしないわよ。じゃあ、またね、幽々子」
「うん。……またね、――」
二人の記憶はここで途切れる。
* * *
「――様、幽々子様!」
「……ふあ?」
庭師の再三の呼びかけに、ようやく幽々子は目を覚ました。
「あら妖夢、おはよう」
「……おはようじゃないですよ。いきなり気を失われて、びっくりしたんですから。おまけに目は見開いたままで」
幽々子がふと見渡すと、そこは自分の寝室であった。
「それは珍しいことね、我ながら」
久しぶりに夢を見ていた気がするが、よく思い出せなかった。幽々子は、起き抜けにくせのついた髪を軽く直す。
「……それで、何をしていたんだっけ?」
「だーかーらー」
「わかってるわよ、生き返りの法の手がかりは何か見つかった?」
「あいにく、まだです。……その前に、お客人が来ていますが」
「よう、お邪魔してるぜ」
寝室の窓から顔を覗かせたのは、もはや見慣れた顔の魔理沙であった。だが、口調とは異なり、今日の表情はどことなく険しい。
「いらっしゃい、黒いの。用件は訊くまでもないと思うけど」
「そのとおり、こいつの魂を返してもらいに来たぜ」
魔理沙は、窓枠の外に隠れていた霊夢の魂を引っ張って見せた。
「もう、霊体だって痛いんだからあんまりひっぱらないでよ」
「悪い悪い。けれど、一刻も早く連れ帰りたくてな」
「その様子だと、そちらで生き返りの法か何かは見つかったようね」
「……んー、まあそういうことになるというか、とりあえず試す価値のある方策は一つ見つかったぜ」
「ねえ魔理沙、それはひょっとして実験台というような気がするんだけど」
「霊夢、おまえもさっさと生き返りたいだろ? こんな死臭のするところじゃなくて」
「うーん……それがねえ。お昼寝とかしてたら、なんだかんだいってここも居心地は悪くないのよね」
煮え切らない霊夢の返答に、魔理沙は少しだけいらだつ。
「まさか死者の食物は食べてないよな? 食べると、お約束からして反魂が失敗する可能性がぐっと高くなりそうな気がするぜ」
「それなら大丈夫よ、生前からここの食べ物はたくさんいただいてるし、魔理沙だってそうでしょう?」
痛いところを突かれて、魔理沙は言葉に困る。
これからのことを決定づけたのは、他ならぬ幽々子の一言であった。
「いったい何を迷っているんだか。さっさとお帰りなさいな、紅白の蝶。あなたを迎えにいく日はまだ早いわよ」
「幽々子……?」
「だから、死者になるには、あなたはまだ早いといってるのよ。私は……その……今はまだ、生きているあなたの方が好きだから」
悲しみと恥じらいの混ざった複雑な表情で、ゆっくりと話す幽々子。その声の色からも、様々な感情が入り交じっているのがありありとわかる。
「ごめんなさいね、全部私の責任なのに、こんなことになってしまって。……ほんとうに、ほんとうにごめんなさい」
ぽつり、ぽつり。
不意に流れ出た幽々子の涙に、一斉に虚を衝かれた一同。
「わ、わ、幽々子様、あの、あの! ……ええい、おまえのせいだぞ黒いの!」
「なんで私のせいになるんだよ!?」
「二人とも静かにして」
霊夢の一声に、静まる二人。
「もういいわよ、幽々子。別に謝らなくても。私にとっては、むやみに泣かれたりする方がよっぽど腹が立つわ。……さあ、もういきましょ、魔理沙」
霊夢はきびすを返すと、白玉楼を立ち去ろうとする。
その背中に、一寸ためらいながらも、思い切って声をかける幽々子。
「あの、霊夢! ……また、遊びに来てくれないかしら」
紅白の幽霊は振り返り、屈託のない笑みを浮かべながら答える。
「そうね、おいしいごはんとお酒を用意してくれるなら、考えてあげてもいいわ」
* * *
「――思ったよりも、早かったわね」
魔理沙に連れられて霊夢の魂がやってきたのは、紅魔館の一室、パチュリーの書斎だった。
「反魂の心当たりって、パチュリーのことだったのね」
「霊夢、あなたは運がいいわよ。今日発掘した書物にたまたま今の状態にぴったりな反魂の法が載っていたんだから」
途端に不安になる霊夢。
「……魔理沙。ほんとうに大丈夫なの?」
「まあ、当たって砕けろだぜ」
実験用の寝台の上には、冷凍保存された霊夢の遺体があった。
「たまたまおまえが死んですぐに私が見つけたから、新鮮なうちに保存できたぜ」
「紅白の場合はそれに加えて、霊的な潜在能力の高さも救いになったわね。まるで生きているような新鮮さの死体だわ」
「ふうん、そんなものなの。ところでレミリアは?」
「今日はまだ寝ているわ。お日様も高いし」
「まったく、人が死んでいるときにのんきなものね」
「むしろ起きていなかったことを喜ぶべきね。霊夢が死んだなんて聞きつけたら、一個師団を率いて冥界へ喧嘩を売りに行きかねないわ」
「……それもそうか」
普段はポーカーフェイスのレミリアがいざ怒った場面を想像し、霊夢は納得した。
「さあ、解凍も終わって準備はできたわ。霊夢、自分の死体と重なるように寝てくれる?」
パチュリーの指示通り、霊夢は自分の体に重なる。そうしているとまるで幽体離脱をしているように感じられ、本当に自分は死んでいるのかとまたもや疑わしくなってきた。
「できたわよ。これからどうするの?」
「こうするのよ」
パチュリーは両手に一本ずつ特製の魔法棒を構えると、高々と天に掲げた。二つの先端に多大な魔力が結集し、それは雷となって現世に姿を現わす。
「ちょっと――」
「さあ、蘇るのよこの電撃でー!」
止める間もなく、強烈な電気ショックが霊夢の体と魂を痺れさせた。
* * *
「で、無事に蘇ったと」
「二度と死にたくないと思ったわよ」
霊夢は、反魂の体験談をおもしろおかしく幽々子に語って聞かせていた。あの不快感を一人でも多く世に知らしめないと気が済まないのだ。
「なあ庭師、なんであいつら仲良くしてるんだ? 殺した殺されたの間柄だってのに」
「そうね……私を殺した責任を取ってもらっているとか」
「そいつは違うお話だぜ」
そういうと、魔理沙は冥界特性の地酒を一口あおった。
四人は、葉桜を肴に宴会としゃれ込んでいた。
実は功労者の一人としてパチュリーも招かれていたのだが、彼女にとっては葉桜よりも西行寺家の蔵書の方がよほど興味があるらしく、到着するなり蔵に籠もってしまっていた。
「あら、あのデカ桜も葉っぱはちゃんとつけるのね」
霊夢が西行妖を指さす。
見るも大きな妖怪桜は、全身に花ならぬ葉っぱをまとって、夏の日差しを一杯に浴びていた。
「そうよ。例年も花はつけないけど葉はつけるの。……でも、やっぱり私は、葉桜も嫌いじゃないけれど、花の方が――」
そこまでいって、幽々子の言葉が止まる。
「幽々子?」
「……あら、ごめんなさいね。ちょっとぼうっとしていたみたい」
「ううん、私は別にいいんだけど。……満開にしようとするのはもう止めないけど、幻想郷の春を盗るのはやめてよね」
「わかっているわ。それに、もう西行妖を咲かせることはないと思うから」
不思議だった。霊夢と語り合っていると、この妖怪桜の咲き誇る姿を見ることがなぜかためらわれた。
何か嫌な思い出が魂の奥底に埋もれているような気がしたが、幽々子はそれをかき消した。嫌な思い出ならば、無理して思い出すこともあるまい。今はこの、友人と語り合う一時が何にも増していとおしく感じられた。
「……また、会えたわね」
ぽつりと、何気ない一言がこぼれ落ちる。
「なに、なんかいった?」
「……いいえ、別に何も」
自分でも言った言葉の意味がよくわからず、幽々子はごまかすように、霊夢の持参してきた煮物を一つ口に運ぶ。
「ん、この南瓜、ほくほくしてておいしいわね」
「でしょ? 実は調理法を少し工夫してみたんだけど――」
*
満開の葉桜のもと、凍りついた時間と流転する時間は再び巡り会った。
死がすべてを支配する冥界の一角で、少女たちは生き生きとした一時を過ごす。
願わくは、今という瞬間が永遠とならんことを。
葉桜もいいものですよね。